ウジラへ向けて出発



▽出発 −カメルーンでの最後の朝−

今日はカメルーン最終日である。午前6時の出発に向けて、早めに起床した。まだ外は薄暗いが、天気もなかなか良い。 今日の予定は、まず午前中に、ウジラという一夫多妻の首長が治めている村を訪れ、その後バンキで国境を通過する。 そこで7日前カラバルで別れたナイジェリアのガイド氏や警官たちと再び落ち合う。その後、マイドゥグリへ向かう。 当初の予定では、昨日ウジラを訪問する予定だったが、雨季で道が通れないため、今日に予定がずれ込んだことや、 国境通過に予想以上に時間が取られる可能性があるため、朝食を取らずに午前6時といつもより早めにホテルを出発した。 これでおいしかったフランス料理ともお別れかと思うと少し寂しい。

車窓からみる早朝のマルアの街はまだ人が少なく、のんびりとした印象である。昨日訪れたマーケットのある場所は、今朝は静まり返っており、 井戸で水を汲んでいる人や、朝食の準備に外に椅子を並べている人がいるのみであった。 市内を10分ほど走ると、貨物の小さい集積所があった。ここはナイジェリアとカメルーンの国境が近いため、 この地で貨物の積み分けが行なわれているのだろう。何台もトラックが止まっていた。

マルアの街を離れても、センターラインが引かれた片側一車線の道は整備されていた。渋滞もなく、気持ちよく走れた。 午後6時20分、山から太陽が昇ってきて辺りが明るくなる。沿道には、山肌にごつごつとした丸い岩がいくつも転がっている、 奇妙な小高い丘が点在する。耕作面積の小さいソルガムの農地がぽつぽつと道の左右に広がってきた。



対向車線から、石油が入ったタンクを荷台にこれでもかと括り付けたバイクや自転車がナイジェリア方面から何台もやってくる。 また、荷物を積んだトラックも多くすれ違った。ナイジェリアとカメルーン国境で、貨物が通れる道路が続いている箇所は、北部のバンキだけである。 ボヤー大学の地理学科長アソンゴ氏が、カメルーンとナイジェリアの国境は南部より北部の方が貿易が盛んであると言っていたことを思い出す。 私たちが今走っているこの道路は、カメルーンとナイジェリアの間の貿易をになう、もっとも重要な幹線交通路なのである。

道沿いには電線が張り巡らされ、電化が進んでいる。時折現れる藁葺き屋根の家々は、どれも何軒かかたまって建っていて、その周りを土の塀で囲っている。また途中検問所で500フランを払わせられた。

▽モラ(MORA) −静かな街での朝食はやっぱりフランスパンで−

午前7時30分、マルアから北に60km離れたモラ(MORA)という街に着いた。土っぽい感じの街であった。 街には多くの人がいて、あわただしく平日の朝を迎えていた。こぎれいな制服を着た女子高生が、何人かグループになって登校している。 ヤギはそこら中にいて、ふらふらと歩き回っている。一番の大通り沿いにはホテルや商店街のようなものが存在していて、活気付いていた。 建物はどれも低く、屋根がトタン板といった具合であった。

固定された商店が何軒か続く。水やスナック菓子を売っている店が多い。 また道端に布を敷き、物を売っている人が何人もいた。この大通りの商店の裏に、住宅が広がっているようであった。国境が近いこともあり、 物が沢山揃っている印象であった。

私たちは朝食を取っていなかったため、中心街から少し離れたところにあるパン屋で食料を調達した。 パン4つとパンに塗るためのチョコレートディップと水を購入した。店は狭いが、小奇麗なショーケースや冷蔵庫があった。 ショーケースには、フランスパンしか残っていなかった。もしかしたら、このパン屋はフランスパンしか作っていないのかもしれない。 その他にも、バターや缶詰、飲み物、洗剤等の日用品などが売られていた。

外国人を客の対象にしているはずのないこんな田舎の町の店にもフランスパンが並んでいる。 このことはフランスの植民地時代の文化が、いまでも経済・社会のの下の方の層まで影響を与えていることを良く示している。 店の前には子どもが3人いて、物乞いをしていた。





▽一夫多妻の主張の村――ウジラへのトレッキング 

モラから私たちは、再びマンダラ山地に入り、一夫多妻制の首長がいるウジラに向かった。 車で少し行くと、これまで整備された道が途切れ、がたがたの道を進むことになった。午前8時に車が停まり、到着したかと思ったが、 ここまでが一般車の行ける限界であった。





ここから私たちは、ウジラまで徒歩でトレッキングをしなくてはならない。 ここでの標高が593メートル。山肌には九十九折に林道が付いているから、山岳用の四輪駆動車なら、登っていけるのであろう。 そのような車でない私たちは、車から下り、ショートカットの山道を歩かなければならない。傾斜は結構急で、私たちはは息を切らしながら登った。



高度を上げるにつれ、眼下の展望は徐々によくなっていく。山肌には、段々畑状にミレット畑が広がっていた。 どの農地でも、女性と子供が働いていた。ショートカットの山道を進むと、ふたたび林道に出た。たまに上から人が降りてきて、何人かの人とすれ違った。 中には上手に自転車をこぎながら山道を下っていく者や、ロバに荷物をくくり、山道を下っていく者もいた。明らかによそ者の私たちにも、皆挨拶をしていってくれた。 途中見かける家は土でできていて、石でできた塀に囲まれていた。こんな山奥だが、電線が延びていた。カメルーンは電化が進んでいる。

しばらく林道を歩くと、再び山道になった。急傾斜を登っていくと、平らな高原状のところに出た。ここは、集落になっている。 そこでは子供と女がオクラを皿や布の上で天日干しにする作業を行っていた。平になった林道をさらに進むと、教会と小学校があった。 小学校には子どもたちが30人ほど集まっていた。小学校は周りの家とは異なり、しっかりとした柱が何本も有り、頑丈に作られていた。 登り始めて50分ほどして、ようやく山の上にある首長の家にたどり着いた。標高は765mであった。標高差200m近い山道の登りは、結構汗だくになる。

▽ウジラ(Oudjilla) −首長にはオーラが漂う−

首長の家の前は、少し開けた場所になっていた。その中心部に人口が円形の平らな岩が置かれていて、その上で子供たちがご飯の準備か何かの手伝いをしていた。 広場のすぐそばには、ゲストハウスもあった。コンクリート作りの家が5軒ほど並んでいるだけの簡易なものであり、もちろん自炊である。 それでも、この付近をトレッキングする外国人バックパッカーが週に2,3回やってきて、泊まってゆくと説明された。 マンダラ山地は、トレッキングコースとして、欧米人に親しまれているようである。

首長の家は、その平らな岩に向かって右側にあった。外から見ると、土でできた円柱形の家がいくつも繋がっている様子である。 家の前には高級外車RANGE ROVERとバイクが堂々と置かれていた。






私たちは、モゾゴMozogo首長に接見する栄を得られた。首長は、家の外の絨毯の上に置いた椅子に座っていた。 真っ青の服を着て、頭に黒い帽子をかぶっており、年齢もかなりいっているように見えた。すぐにこの人が首長であると分かる雰囲気をたたえた方だった。 私たちは一緒に写真をとり、いくつか質問をした。質問には直接首長が答えるのではなく、彼の息子やガイド氏が通訳してくれた。


村の広さは全部で15km×15kmであり、25,000人が住んでいる。およそ400年前から納めているという。植民地時代も首長の地位は失われることなく、 植民地権力と共存していたことを意味する。フランスの植民地にも、英国のような間接統治がとりいれられる必然性があったのである。 彼がこの村の村長のような存在であり、65年間この職についている。現在は88歳であり、50人の妻と113人の子供がいると聞いた時にはゼミ生一同驚きを隠せなかった。 一番若い妻は28歳である。第一妻の次男が、首長を継ぐことに決まっている。首長はポール・ビアー党のこの村の代表でもあり、 月に一回山を降りて政党の本部に行く。また選挙の時も同様に山を下り選挙活動を行うという。 独立後も、大統領の政権党であるCPDM(:Cameroon Peoples Development Movement)の下部組織のようになっているらしい。 経済の中心は農業であり、ミレットやピーナッツを育てている。奥さんや子どもが畑仕事をし、男は働かない。 確かに来る途中、男が働いていたのを一度も見なかったのも納得である。一般の人は土地の利用の代わりに納税として生産物の10%を収めることとなっている。 村の中には裁判所まである。結婚と土地利用がこの村の二つの問題であるとおっしゃられた。

▽首長の邸宅の作り −多くの部屋がある−

この後、首長の息子が家の中を案内してくれた。家は、土や石でできた円柱形の小部屋が横に広がっていくようなつくりをしていた。 中に入るととても涼しく、暗い。記録をとるのが困難だったが、一人の青年が懐中電灯で私の手元を照らしてくれていたので大変助かった。 最初の部屋は外から見るより広く、10人程度なら窮屈さを感じない。床は砂であり、真ん中に屋根を支えるための木の柱があった。 岩でできた椅子や食事の準備に使う道具などもその周りに置かれていた。 壁にはポール・ビアー党の関係者らしき人とチーフとの写真が何枚か張られていた。 その写真に挟まれるように「CPDM(:Cameroon Peoples Development Movement)」と書かれた木でできた丸い飾りも置かれていた。 最初の部屋には女の人が三人ほどいて、オクラを細かくちぎっていた。どの人もかなり貧乏なのではと思わせる服装や顔つきをしていた。 またこの部屋には外からの入り口を含め全部で三つの出入り口があった。


私たちは、その部屋から奥の部屋へと進んだ。中はとても暗く、最初何のための部屋なのか分らなかったが、何か生き物がいることは感じる。 その部屋の奥には黒い牛が石で囲まれた部屋の中にいて、その入り口を木でふさがれていた。牛はとても大きく、一同身構えてしまった。 牛がいる部屋の床はえさの為か、草が敷かれていた。この牛は生贄にしてみんなで食べるという。


また最初部屋を横切って違う入り口から次の部屋へ移動した。この部屋も、岩でできた薄暗い部屋であった。 中には、少し岩で高くした場所に、丸い岩が4つほど置かれていた。この部屋は、首長の父や祖父のお墓がある場所であった。 タイコもあり、このタイコを叩き村人を集める。10月には首長のアシスタントが一同に集まり、この部屋で村のために祈る。 またここにも政党関係であろう写真が飾られていた。ここまでは円柱形の壁に円錐形の藁葺屋根の部屋が繋がっている状態であった。

ここから、屋敷の庭に出た。周りは、岩を積んでできた塀で囲まれている。庭には、屋根は藁、壁は土でできた家が窮屈そうに点在していた。 これらは、チーフの妻たちの倉庫や寝室、キッチンである。それぞれの妻は、二つの倉庫と寝室、キッチンの合計4つの部屋を与えられる。 私たちが見たのは、第一妻の倉庫と寝室、キッチンである。昼間は農地で働いているため、私たちが訪れた時、女の人は一人もここにいなかった。

キッチンには鍋やバケツ・皿といった調理器具がかなり揃っていた。鍋の中には何か食べものが入っていた。倉庫にはミレットなど収穫物を保存しているという。 また寝室は女の人らしく、部屋の入り口には綺麗な色の布がかぶせられていた。 土でできた家の中には、高級ブランドのバックが目立つように掛けてあったが、ロゴの感じが微妙に違う。おそらく偽物であろう。 ここでお母さんと娘は、一緒に寝る。息子は8歳になると別の建物で寝るようになり、20歳になると結婚するのが決まりらしい。 結納にはヤギ、羊、牛などが使われると言う。

そのまま石でできた階段を通り、首長の家の裏に出た。そこにはミレットの農地が山の斜面に広がっていた。その辺りにも何軒か家があった。 これらの家は首長の兄弟や大きくなった息子たちが住んでいる。周りには子どもが多くいた。鶏や子ヤギも何匹かいた。





最初の部屋を横切り、私たちは家の前に戻ってきた。最初の部屋にいた女の人が、見世物料代わりか我々にお金を要求してきた。 首長は最初とまったく変わらず、椅子の上に座り、団扇のようなものを仰いでいた。私たちは1人ずつ、首長と握手をし、礼を言って家を後にした。

帰りも行きと同じ道を通り、下山した。帰りは下りであるため、楽であった。遠くの景色などを見ながら、下って行った。 途中から子供たちが10人ほどついてきて、私たちのグループは長い行列のようになりながら下山した。 ウジラから車まで、40分程度で到着した。子供たちは車の周りにまで群がってついてきたので、 私たちは、朝買ったパン の残りとチョコレートディップをあげることにした。すると、その場ですぐに食べ始めた。 大変お腹がすいているようであった。また、ペットボトルの水を売ってくる気の利いた者もいた。山道を歩いて喉が渇いていたので、買って一気に飲み干した。



懐かしのナイジェリアへ



▽バンキへの道 −カメルーンは国境の道を整備する気はないのか−

私たちはすぐに、国境に向けて走り出した。国境バンキまでの道はいくつかあるのだが、一本目は雨季で現在通れないらしく、二本目のルートを通った。 道路自体は真っ直ぐなのだが、マルアからモラまでと同様の国際貿易に重要な幹線道路であるはずなのに、モラから先の道路は急に悪くなった。 ほとんど舗装されておらず、進むのに大変時間がかかる。たまに雨が降った後に大型トラックが通ったのか、タイヤの跡と共に大きく道がへこんでいる場所もあった。 道が荒れていてハンドルを取られたのか、大型タンクローリーが横転していた。もうどうすることもできないらしく、ほったらかしの状態であった。 途中渡った橋には欄干がないうえ、川が溢れて橋の上にまで流れが覆いかぶさって路面が見えず、大変危険であった。 一歩ハンドルを誤ると川のなかにつっこんでしまうところが、車はそんなことに関心がないかのように突き進んだ。 川には子供たちがたくさん泳いでいた。 モラを出てからも、何台ものバンキからやってくる大型のトラックとすれ違った。 トラックの何台かは、ナイジェリアのナンバーをつけていた。また、マルアからの道で見た荷台に石油タンクをくくりつけて走っている自転車も多く見かけた。 また頭に木々を乗せどこかへ運んでいる女性や子供ともすれ違った。

▽不思議な水溜りで車が頓挫 −現地人の仕業か?−

もう少し行くと、車は、道全体に大きな水が溜まり周囲がぬかるみになった窪地にぶつかった。 運転手は車から降り、この水溜りをどのように通るべきかチェックをはじめた。 少しして戻ってきた運転手は、少し不安な様子を顔に浮かべながら、窪地の左側のぬかるみの中へ突っ込んでいった。 すると車はタイヤをとられ、斜めになって動けなくなってしまった。



ゼミ生は一同車を降り、どうなるのかと不安な気持ちで様子を見守っていると、先ほどまで誰もいなかった周りの農地の奥辺りから一人の男性が現れて、 運転手に話し始めた。 その後、どこからともなく続々と人々が現れ、総勢10人以上になった。その人たちが車を前に押したり、後ろに押したりして、 15分くらいで車はようやく穴の手前にいったん戻ることが出来た。そして今度は、窪地の右側のぬかるみに突っ込んで、ようやく通り抜けることが出来た。 車が水溜りを越えると、彼らはすぐにチップを求めてきた。私たちは2000CFAフランを最初の男に払い、車は遅れを取り戻すためスピードを上げた。

そのときは援助を素直にありがたいと思ったが、落ち着いて考えてみると、これは少しおかしい。ここ以外の道路上に水溜りなどはなく、 周囲はサバンナで乾燥しており、今日はとても天気がいい。しかも溝の横には掘り返した土を盛っているような小山も見受けられた。 近くに集落もないのに、なぜ、10人以上もの人が突然現れたのだろうか? もしかすると、この穴はあの人々が、自分たちで掘った、 自作自演の「援助」劇だったのか? だとすれば、なかなか上手い「商売」ではある。 私たちはありがたいような少し腹立たしいような変な気分になりながら、バンキへと急いだ。

バンキに近づくと、道路の周辺では珍しく稲が栽培されていた。そしてまた20分ほど行くと、徐々に日干し煉瓦でできた家が並び始めた。 そこを車で抜けると遮断機があった。いよいよ国境の街バンキは目前である。遮断機のところにいる係官に、国境の出国審査とは別に簡単なチェックを受けた。 そこでは私たちのパスポートと共にガイド氏も何か国境に行くための許可証のようなものをチェックされた。 ここでガイド氏が見せるべき資料がなかなか見つからず、少しひやりとしたが、なんとか見つかり車で通ることが出来き、バンキの街に到着した。

▽国境の街、バンキ −物の行きかう活気ある街−

バンキは活気ある街であった。多くの人が行き来していて、私たちが乗っているような大きめのバンも何台も見られた。 そのバンの多くは、その上に荷物を乗せていた。マルアなど、カメルーンの町に旅客を乗せて向かうのかもしれない。





通りには、黄色いパラソルを広げた屋台がいくつも並び、小さいマーケットのようになっていた。ナイジェリアから運んできたであろう商品を、 荷台に大量に乗せたまま卸売りをしている人たちもいた。ここバンキは、ナイジェリアから商品が運ばれてきて、 カメルーンに向けて売りさばく卸売りの機能ももっているようである。なかでも、日用品や食べ物が多く売られていた。 ここに来るまでにしばしば見かけた、自転車やバイクで石油を運んでゆくためのタンクを売る姿も見られた。

大型のトラックが何台も停まっていた。 バンキを経由して、ナイジェリアから大量の商品がカメルーンに入ってきていることがわかる。

この様子を見ると、カメルーン政府がバンキまでの道を整備したがらないのも、 また私たちがカラバルから高速艇を使わなければカメルーンに入国できなかったのも理解できる。 カメルーン政府は、道路インフラの不整備という「非関税障壁」を設けて、この豪雨のような、 西アフリカの経済大国・ナイジェリアからの物資流入をすこしでも阻止しようとしているのだろう。

私たちはこの時点で、ナイジェリア側のガイド氏と打ち合わせておいた待ち合わせ時間に2時間程度遅れていたので、急いで出国手続きに取り掛かった。

▽カメルーン出国 〜手続きは簡単、しかし事務所を見つけるのが困難〜

出入国管理所は、ただの役場のようだった。壁に囲まれて、一階建てのコンクリート造りで、クリーム色の壁に緑の扉、 その上に赤の看板がついているという、カメルーンの国旗を連想させる色で塗られていた。建物の横には、カメルーンの国旗がはためいている。 とはいえ、建物の前の道路に遮断機のようなものは設けられておらず、ここを素通りしてナイジェリアに入ってしまうことも物理的には可能なのだが、 もしそうすれば、ナイジェリアで大きなトラブルに巻き込まれてしまったであろう。

壁の内側には、国境エージェントらしき人が数人うろうろしていた。車を降りると、国境エージェントが近寄ってきて、何やら声をかけてきた。 エージェントは、旅行者の出入国管理や税関通過を援助して、手数料を受け取る商売である。もしガイドなしで私たちがここに到着したら、 こういった人に案内してもらうのも悪くない。しかし、ガイドと一緒の私たちは彼らを無視し、ガイド氏とともに、出入国管理の建物の中に入った。

中は広々していて、窓も開いている。風通しが良く気持ちいい。入って目の前に順番を待つための長いすが一つあり、すぐ右に机と椅子が置かれていた。 係員がその机の椅子に一人で座っていた。そのときは、私たち以外に、国境を越えようとしている人はいなかった。 ガイド氏がすぐにその係員に何か話をしにいった。その後すぐに一人ずつ順番に呼ばれパスポートやビザのチェックを受けた。 職業や名前を聞かれ、係官がそれを帳簿に書いている。ゼミ生の最初の一人だけが職業を聞かれたが、私たちが皆、学生であると察したのであろう、 後の学生はほとんど何も質問を受けなった。ナイジェリア出国の際は二度パスポートやビザのチェックを受けたが、ここでは一回であった。 手続きは至ってストレートで、管理官への賄賂もいらず、全体として20分くらいで出国の手続きを終えることが出来た。

さらに、出国審査所の奥の部屋で、ナイラに両替をしてもらえた。机と椅子があるだけの小さい部屋であり、両替商が二人いた。 一人がレート換算のため電卓を叩き数字を見せ、もう片方が実際にお金を手にしていた。レートは260ナイラ=1000CFAフランであった。 両替していると、外からまた先ほどの国境エージェントが二人やってきた。出入りは自由なのだろう。また外にいた両替人と交換する者もいた。 外に出たゼミ生の一人が別の財布に入れていたCFAフランがまだ大量にあることを思い出し、両替しようか迷っていると、 先ほどの国境エージェントが先ほど両替した場所に連れて行ってくれた。

ちょうどその時、ナイジェリア側のガイド氏が国境を越えてカメルーン側にやって来て、私たちを出迎えてくれた。 驚きの再会だった。どうやら、このバンキの市街地内に限っては、どちらの国の人も自由に歩き回れるようになっているのであろう。

二度目のナイジェリア入国



▽ナイジェリア入国 〜鋭い眼光の公安警察官〜

そのままカメルーンで乗っていた車でナイジェリアの入国審査所へ向かった。国境への200メートルの間、左右には卸売りの商店が並び、 その前に荷物を積んだバイクが何台も置かれていた。車は国境に到着した。






本当の国境は木やロープで道が遮られていて、手前にはフランス語で「REPUBLIQUE DU CAMEROUN」と書かれた看板があり、 国境の向こう側には英語で「FEDERAL REPUBLIC OF NIGERIA」と書かれた看板があった。私たちはここを車で通過し、ナイジェリアの出入国審査所に向かった。




カメルーン側の審査所が国境から200m程度手前にあったのとは異なり、ナイジェリアの入国審査所は国境を越えて、すぐ右手にあった。 屋根は緑で壁は白の、一階建てのコンクリート造りの頑丈そうな建物である。庇があり、その下に長いすがいくつか置かれ、 イスラム教の衣装を着た人が5,6人座っていた。中にはお祈りをしている人もいた。

ナイジェリア側のガイド氏と共に中に入ると、そこはカメルーンの出国審査所より大きく、中にいる人の数も多かった。 入ると左右に机が置かれ、左の机には一人、右の机に二人の制服を着た係官がいた。一般の人も数人いた。

私たちはすぐ、手続きに取り掛かった。まず、最初入ってすぐ左の机で入国の申請書を書かされた。 係官に申請書を渡されるが、枚数もペンも足りない。少し待っていると、コピーの申請書を用意してくれた。 書き方の例を示した書類を見せてくれるが、コピー機の性能が悪いようで、文字が薄く、何を書けばいいのか分らない箇所が多い。 必死で解読し、申請書を書き上げた。それを係官に渡し、係官は情報を手でのんびりと帳簿に書きいれていく。この予備段階だけで、とても時間がかかった。

次に奥の部屋に通され、入国審査が始まった。この時は、ガイド氏が外にいたため、私たちだけであり緊張した。 中には机と椅子が5個ほどおいてある。机の上は、小さな棚やスタンプなどで散らばっている。机の奥に体の大きな係官が2名いた。 私たちは、手前の椅子に座った。パスポートを渡し、何度も名前など同じ事を聞かれる。

私たちは、ビザに関し、係官に説明を要することがあった。私たちは、8月26日にラゴスから一度ナイジェリアに入国し、 9月2日にナイジェリアをいったん出国し、カメルーンに入国。そして今日9月9日にバンキから再度ナイジェリアに入国する。 このため、私たちは、東京のナイジェリア大使館で「ダブルビザ」(2回有効)をとっていた。その有効期間は、計14日間である。 すなわち、8月26日から9月2日の8日間と、9月9日から9月14日のラゴスからのナイジェリア出国までの6日間、合計で14日間分としてある。 この「ダブルビザ」は、余り一般的でないので、係官に分ってもらえるか、また難癖をつけられて賄賂を要求されないかなど、心配であった。 例えば、私たちがナイジェリアに入国したのは8月26日だから、14日分の9月8日までしか滞在を許可できない、と言って、 それ以上に滞在日数が欲しければ賄賂を払え、などとアプローチしてくることが危惧されたのである。 しかし、それは杞憂だった。ここの係官は難癖を付けるどころか、二週間のダブルビザなのに「ナイジェリアでいっぱいお金を使ってくれ」と言いながら。 スタンプを押し、見るとそこになんと一ヶ月間有効である「08-10-08」と書き込んでくれたのである。 ラゴス国際空港で入国した際に比べると、かなり係官は自由に仕事をしているようである。つまり仕事は係官の機嫌しだいということだ。

これでホッとして部屋の外に出て、次は税関だなと思っていると、一人のおじいさんが近寄ってきて、何か話しかけてくる。 そしてその人がいなくなるとすぐに、屈強な体つきで、射すような鋭い眼光の男がかなり高圧的な態度で私たちに近寄ってきて、 全員パスポートを渡せと言った。この人は私服で、係官なのか否かも分らない。だが、先ほどの出入国係官は、この男に全く頭が上がらない様子であり、 私たちはこの男の要求を拒否できなかった。その男は、私たちのパスポートを見ながら、携帯電話でどこかに電話をはじめた。 私が彼に何をしているのかと近づいていくと、離れろと怒られた。15分くらい待ち、ようやく解放された。これが一番緊張した瞬間であった。 おそらく、公安警察の人間なのであろう。アブジャの本部に連絡し、私たちが「テロリスト」のリストに載っていないか、などと検索していたのかもしれない。

その後、入口から入ってすぐ右側のテーブルで行われている税関でチェックを受けた。ここには女性の係官がいて、少し気持ちが和んだ。 特に荷物を開けられることはなく、何人かが、金をいくら持っているのか聞かれた。ラゴスでナイジェリアに入国した際も、カメルーンに入国した際も、 持ち金に関して聞かれることはなかった。ゼミ生の一人はナイラ分の所持金だけを言い、ドル分の所持金は言わなかった。 それでも、特に財布の中身などを実際にチェックされることはなく、すぐに税関を通り抜けることが出来た。このバンキの国境が、 今回の巡検の中で一番審査が厳しい国境であった。

私たちが出国審査をされているあいだ、何人かの地元の人々がこの建物の中に入ってきて、出国や入国を手続きを済ませ、すぐに出て行った。 これら地元の人々は、一様に、パスポートではなく、「レッセパッセ」と言われる簡易なプリントを持っていて、それを係員に見せて、 簡単に国境を通過していた。地元の人たちは、外国人と違って簡単に国境を通過できる方便が用意されている様子であった。

▽地元食堂での昼食――これが「うまみ」か!

入国審査を終え、車から荷物を取り出し、ここまで来ていたカメルーンの車から、横付けされたナイジェリアの車に荷物を積み替えた。 カメルーン側のガイド氏とお別れを告げ、ナイジェリア側の車に乗り込んだ。ガイド氏も、私たちをカノまで護衛してくれる2名の武装警察官とも、 カラバル以来のなつかしい再会をはたした。

ナイジェリア側の国境事務所を出てすぐ、遮断機のようなものがあり、トラックなどの行き来を制限していた。 その向こう側に、何台ものトラックが国境通過のために待機していた。おそらく、税関検査を待っているのであろう。 カメルーン側の国境にはトラックが待機している様子がなかったことを見ても、貿易物資の流れが、ナイジェリアからカメルーンへの一方的なものであることが分かる。

ナイジェリア側は、国境を少し離れても小さな街が続き、トタン板でできた平屋建ての建物やレンガで出来た塀の家が並んでいた。 また街の中にもトラックが何台も見られた。しかし、カメルーン側にあったようなマーケットは存在していおらず、街はのんびりした印象を私たちに与えた。 ここから、カメルーンからナイジェリアへの貿易物資の流入はほとんどないことが推察できる。 なんといってもナイジェリアは、西アフリカの経済大国なのである。

私たちは空腹になっていたので、この街で昼食を取ることになった。だが、バンキには、観光客・外国人向けのレストランはない。 おそらく、外国人のバンキ国境の通過はとてもまれで、通過しているのはほとんどが地元の人や物資なのだからであろう。 ほどなくして、地元の食堂が見つかり、そこで食べることになった。店はトタン板で出来た屋根、木の壁であり、質素な建物であった。 店長は40歳くらいの女性であり、二人の娘さんが食事を運んできてくれた。 カレーのような食べ物とコーラ、キャッサバで作ったスープにヤムイモをつけて食べる地元料理のダリを食べる学生もいた。 ナイジェリアの南部の料理は味付けが辛いという印象であったが、ここの料理は辛くなく、おいしかった。 これが、味の素の林さんが言っていた「北部はうまみ重視」なのだろうと実感した。私たちが飲み残したコーラを。店の横の家から出てきた子供たちが貰っていた。

▽いざマイドゥグリへ

昼食を食べ終え、マイドゥグリへ向けて車に乗り込んだ。道路は片側二車線ほどの広さがあり、かなり広い。 一応舗装されていたが、あまり整備はされておらず、ところどころに大きな穴が開いていた。センターラインはなく、スピードを出すと危険な道である。 それでもカメルーン側のバンキに向かう道路と比べると、かなりましである。この道の状況からカメルーン側と異なり、 ナイジェリア側はカメルーンと貿易をしたい気持ちが伝わってくる。

街からまだ余り離れないうちは、ガソリンスタンドや小さな工場のようなもの、民家がいくつか見られた。 しかし少し離れると、道の左右はほとんどが広大な農地になっていて、ジャガイモやミレットの畑が広がっていた。 山羊や牛の放牧も行われている。時折、荷台からはみ出るほどの木材や自転車などを積んだ大型トラックが通っていった。 道は全く混んでいなかったとはいえ、整備をしなければすぐに道はダメになってしまうであろう。道に沿って、電線が続き、 ところどころにバオバブの木が生えていた。人はほとんど見られず、のんびりとした風景であった。

少し行くと、小さな町が現れた。町には多くの人がいて、道路に沿って食べ物や車の石油の詰まったタンクなどを売っていた。 この近くの農家の人たちが、こういった小さな市場町に物を売りに来ているようだ。街を過ぎるあたりに、新築で建売の家が4軒ほど建設されていた。 屋根はピンクやブルーで、この周辺には似つかわしくないけばけばしい建物である。誰も入居はしていない。 バブル経済のさなか、不動産投機の対象として建てられているのであろう。ちなみに、ナイジェリアでは、このような投機目当ての建売住宅が、郊外の各地にみられた。

カイガマリ村



マイドゥグリへ行く途中、私たちは道路沿いのカイガマリ(Kaigamari)という名の村の集落に立ち寄った。 集落は幹線道路に面し、道路の左側に奥へと広がっていた。村の裏は川になっているようだったが、奥が林になっていて見えない。 入るとすぐ左に、レンガや土で作った倉庫がいくつか点在していた。その前には大量のレンガが地面の上に整列されて置かれていた。 また、向かって右側には井戸があり、多くの女性や子供がバケツを手に水を汲んでいた。井戸の後方には、ミレットやその他植物が植えられていた。 もう少し奥に進むと、青い壁の集会所が建っていて、その前は広場のようになっていた。 その広場の周りに藁でできた小屋や木陰に派手な柄の布を敷き、その上で男たちが何人か集まって話をしていた。 木の枝を並べて結んだだけの簡単なつくりの小屋の下で、女の人たちは食事の準備をしていた。集会場の裏は、農地や家が広がっていた。

▽自給と商品作物をとりあわせ複合的な作付けをする農民の智慧

私たちは、先ほど布の上に座って話していた男たちのところへ行って、話を伺った。 カイガマリ村は3000人が住み、500軒の家がある。農業で生活を営んでいる人がほとんどである。 主な作物は、米、ピーナッツ、メイズ、キャッサバ、スイカ、トマト、キャベツ、玉葱、人参である。 スイカやトマトなどの商品作物は近くの村の市場やマイドゥグリの市場で売り、現金を手にいれている。 どちらの市場に売りに行くかは、その時のそれぞれの市場の値段によって決めているという。

この村では、全生産物のおよそ40%を市場で売っている。特にこの村はマイドゥグリへ向かう道路に面しているため、比較的簡単に作物を売りに行くことができる。 このため、商品化の比率も高くなっているようだ。街へ行くには、公共交通機関を使う、ここではバスの利用が中心である。 片道50ナイラであると教えてくれた。また自らのバイクで行く人もいる。

このように、商品作物と自給作物をたくみに組み合わせて、リスクをヘッジし、一定の現金収入と生活の安定を同時に得ようとするアフリカの合理的な農業経営を、 私たちはカメルーンでもみた。多様な作物を栽培するのも、生産性は下がるかもしれないが、万一の病虫害や異常気象へのリスクヘッジを考えた、 長年のアフリカ農民の智慧だと考えられる。このような農村に、ネリカ米一辺倒の単作農業を「援助」の名のもとに押し付けることはできないし、 無理にそれを強制すれば、かえって自然の変動に脆弱でリスクが高い農業となってしまうであろう。ここの農民たちは、独自の智慧で生産力の向上につとめている。

農地は、やる気と現実性を加味し、可能であると判断されれば、地元の人ならただで借りることが出来るという。 また、村の奥にある川から水を引いてくる灌漑システムを7〜80年前に村人たちが自らの手で作り、使っている。トラクターは無いが、牛を使って農地を耕している。 この村の電化は10年前から進んでいて、村人たちはラジオ、ビデオなどいくつもの電気製品を持っている。 村長は、選挙で2,3人の候補者の中から選ぶ。

▽人口流出に悩む村に、大規模農家も

インタビューを進めるうち、徐々に私たちの回りに男たちが集まってきた。女性は一人もいなかった。 その中で私たちの質問に親切に答えてくれた富農の男性がいた。耕地がかなり広く、100ヘクタール以上はあるという。 一般の村人は40〜50ヘクタールの土地を持っているというから、2倍以上だ。彼のこの広大な土地は、遺産として、親から継いだため若くして広大な土地を手に入れたという。 彼は25歳で。村の近くから10人の労働者を雇い、農地大規模な農業をを耕している。すでに二人の妻と、三人の子供がいるという。 農業労働者は、一日500ナイラで雇っている。農作業に従事するのは、男のみである。 政府伝いに投資がくれば、より良い生活が送れると言っていた。

  村には、問題点も多い。まず、人口流出である。現在、この村からも都市に出て行ってしまう人が多い。そういう人は都市で結婚相手を見つけてしまい、 村の人口がなかなか増えない。村の100人以上が都市に出て行ってしまい、200人以上がマイドゥグリの地方政府に勤めるなどしているという。 また都市に出て行った人からの現金の送金はなかなか来ない。都市の非農業的雇用機会の存在が、貧困を一層拡大させている。 村では、かなり階層分解が進んでいるのかもしれない、と思った。

また、医療に関しても問題がある。病院はマイドゥグリに行かなくてはならず、かなり不便である。診療は無料であるが、処方箋には金がかかるらしい。

その後、村の中を少し案内してもらった。村の奥には農地が広がり、ここでもミレットや野菜などが栽培されていた。 民家はしっかり建設されており、カメルーンの北部で訪れた村に比べ、それなりに裕福のようである。 その横にはレンガで造られた倉庫があり、女の人と女児が何人かいた。




ここで急に大粒のスコールが降ってきて、私たちは急いで集会所の中に入った。中には布が敷いてあり、クラシックなミシンが一台とメジャーが置いてあった。 なぜここに一台だけミシンがあったのかは分からなかったが、おそらく村の共有の財産なのかもしれない。

少し経つとスコールはやんだ。外に出ると、味の素の使われた後の袋が落ちていた。実際初めて味の素が使われている様子に接し、 日本人として少し興奮した。企業が努力さえすれば、日本企業の製品も、このように村の隅々まで市場を開拓できるはずである。

インタビューを終え、帰り際にトイレを借りた。トイレは、集会所のすぐ隣にあった。そのトイレの鍵は、村長しか持っていなかった。 トイレの様式はぼっとん便所であり、用を足した後に、粉をふりかける。おそらく肥やしに使われるのであろう。 ここで記念撮影をし、突然の訪問にも快く迎えてくれたことに感謝しながら5時45分マイドゥグリを目指して、車に乗り込んだ。



マイドゥグリ到着



▽マイドゥグリ〜再びナイジェリアの活気へ

最初は先ほどまでの道と変わらない光景であったが、徐々にマイドゥグリへ近づくにつれて、変わってきた。 今までトラックが中心だったのが、普通車が増えてきて、街が近いことを感じさせた。



マイドゥグリはもともと。イギリスが、保護領時代の1907年に、フランスの南下に対抗する目的で、人工的に建設された軍事都市であり、 現在は、ナイジェリア北東部のもっとも重要な都市となっている。そのためマイドゥグリの町は直線的な造りをしている。 その道路を走っていると、真新しい立派な邸宅や新築の銀行を目にする。あらためて、ナイジェリアのバブル経済の状況が都市建造物に現われている。

マイドゥグリの町は行き交う人もバイクも車も多く、非常に活気に溢れた町である。カメルーンと比べて違いは明らかで、 ナイジェリアに帰ってきたのだと実感した。市内には、政党の広告が多く掲示されていた。

マイドゥグリはイスラム都市だ。人口の大部分がムスリムである。2005年にはデンマークのムハンマド風刺画事件で暴動が起き、 キリスト教会が破壊され、死者も出るなどの事態に発展した。

今夜の泊まる予定のインペリアルホテルに着いた。ホテルは郊外にあり、まだ建設途中である。 ところどころで、工事現場のような場所が残っていた。ぱっと見は綺麗であるが、部屋に入ると、部屋も薄暗く、あまり心地よくない。 ゼミ生の2部屋のトイレは壊れていた。 レストランというより厨房の裏のような食堂で夕飯を食べた。カメルーンでいったんフランス料理を味わってしまうと、いかにも物足りない。 ここでも、ナイジェリアに戻ってきたことを実感した。やはりイスラム教地域だけあって、食堂のメニューにはお酒がなかった。 町全体でも一般に購入できないということだった。2001年までは、一部のホテル等ではお酒類の販売がなされていたようだが、 イスラムの厳格化により中止になった。何事もなく国境を通過でき、無事ナイジェリアに戻ってこられたことに皆で祝杯を上げようとしたが、かなわなかった。 今日の疲れと明日の移動に備えて、各自早めに部屋へと戻った。


(吉村 崇)


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