マルア市内定期市視察


▽ホテルから定期市へ ー市民の足としての自転車の利用ー

起床して朝食をいただく。空は快晴で雲一つなく、気持ちの良い朝である。朝食は、細長い白パンとジャム、コーヒーであった。

これから私たちは、マルア市内の定期市の視察に行く。これまで路上で開かれているマーケットはたくさん見てきたが、このように村落の中心地で開かれる定期市を観察するのは巡検中で初めてであるので、心が躍る。

ホテルの前の道は幅が広く、一段せり上がった所には歩道が整備されていて、その奥には家や商店が並ぶ。街路樹も植わっていて、朝日の木漏れ日に心癒される。町の造りは、どことなくヨーロッパ的である。歩道には通行人が何人かいて、その横の道にはこれまであまり見かけなかった自転車で往来する人が見受けられる。荷台には麻袋の荷物がくくりつけてあるので、市場までの足として自転車が利用されているのだろう。これまで同様の規模の都市では、バイクの利用が多かったが、ここマルアでは自転車の存在が目立った。


川幅がそこそこある川にかかる橋を通る。一見、鉄道が走るような橋に見える。車道にはバイクと自転車が行き交うが、私たちが乗るような車はあまり見かけない。鉄橋部分には、歩行者専用の細い道が設けてあった。






▽マルアの定期市 ―市場の規模と構造―

橋を通り過ぎると、そこには定期市が広がっていた。この定期市は週に一回月曜日に開かれている。私たちは幸運にも、その月曜日にマルアを巡検することができたのである。

市場の全体の大きさは、ガイド氏の話によれば、このマーケットは1km四方である。中心部は固定商店が建っており、月曜日以外にも営業を行っている。中心からはずれに行くにしたがって、店舗が市のたつ日しか営業しない、固定ではない店舗になっていく。扱っている商品は、需要の高い生鮮食品などは中心地に集まっている。電化製品などの高価なものは固定商店に置かれていることが多い。マルアの市場は、場所ごとに特化した商品をそれぞれ扱っているのである。

定期市の中には、円筒状の帽子をかぶっているムスリムと思われる人がたくさんいた。マルアは20万人の人口を有していて、その中の70%はムスリムである。ナイジェリアと同様にカメルーンにおいても、北部は人口に占めるムスリムの割合が大きい。


▽日本に比べて破格に安い現地のマラリア予防薬

私たちは、実際に店を回ってみることにした。

はじめに訪れた所は、三段くらい積まれた石造りのレンガで道と隔てられてあり、ちょっとした林の中に店が密集し、店で扱うものも周りに集まっていた。中の方で扱っている主な商品は、バイクと自転車である。道路脇には、伝統的な薬を取り扱う店もあり、それらには医療機能もあるという。サービス機能としては、散髪屋も見受けられた。

私たちははじめに、道路脇の伝統的な薬などを扱う店をのぞいた。中年のひげを生やしたおじさんがあぐらをかいて店番をしている。店といっても、木の下の2m四方のスペースに石が積んであり、その上にブルーシートがかけられているだけのものだ。そのブルーシートの上には、商品が隙間無く並べられている。木の皮、植物の根っこ、ペットボトルに入った茶色の液体、瓶に入った粉などが主な商品である。ペットボトルに入った液体は石油であると判明した。この漢方のような乾物の中には魔術に使用されるものもあるという。

一角にあった黄色っぽい根について、店の人に説明していただいた。この商品は、プランテーンの根を乾燥させたものだという。現地で“Bepa”と呼ばれるもので、定価は500CFAである。用途はマラリアの予防で、これを水に5時間浸して、その液体を1週間に2回飲む。

ちなみに、日本でマラリア予防の薬を購入すると、一錠1000円ほどかかる。しかもこれは保険適用外となっており、副作用の比較的少ないもので一日一回(マラロンなど)、あるいは悪夢などの副作用がありうるものだと、週に一回(メファキンなど)服用しなければならない。例えば、私たちのように三週間マラリア発生地に滞在するとなると、出発前の一週間前から服用しなければならないため、合計で4千〜2万5千円ほどかかることになる。これは薬の入手に必要な診察代などは除いた金額である。

どれだけの効力があるかは未知数だが、これがたったの500CFAで事足りるのならば、やはり現地の風土病には現地の薬が一番良いということになるだろう。

この薬屋のそばにも、同じ様な店が何軒か並んでいた。おそらく、それらは競合関係にあるのだろう。



▽中国製「クインキー」が溢れるバイク売り場

途中で、木の台に大きめのペットボトルが何本も置いてある店を見かけた。中の茶色の液体は、バイクの燃料か潤滑油のようだ。この商品しか扱っていない。若い男が暇そうに店番をしていた。



少し歩くと、大量の自転車とバイクが目につくようになった。先ほどの一角よりは、人の数も商品の数も多い。木の支柱を四方に立て、その上に麻布かブルーシートをかけたものが店舗になっている。ただし、商品となる自転車やバイクが必ずしもその下にあるわけではなく、商人の一種のなわばりを示すようなものであるのかもしれない。つまり、ここの辺りの店舗は固定商店ではなく、インフォーマルな形で営業を行っているということがわかる。

扱っているバイクの多くには、QINGQIと書かれていて、中国製であった。「QINGQI」とは、中国の?南??摩托?のブランドである。同社は国営企業依頼、40年ほどの歴史があり、日本のSUZUKIの技術を導入し、1985年には初めての中国産のバイク生産に成功している。最近は、ピンインのブランド名を英語読みした「クインキー」という名で日本にも輸入され、日本のバイクマニアの中にも愛好家がいるようである。HONDAやYAMAHAなどの日本製のバイクは見たところあまり並んでいなかった。これらのバイクは、ナイジェリアの隣国であるベナンのコトヌー港からやってくるという。

自転車の方は、かごもギアもついていないシンプルな形のものを取り扱っていた。これらは、ナイジェリアから輸入されるという。値段は中古のもので2万CFA、新品のもので10万CFAである。中古・新品共に値段は日本と比べて変わらない。給料水準の違いを考慮に入れると、カメルーンでは手が届きにくい品であることがわかる。

近くには、バイクや自転車のタイヤのみを扱っている店があった。また、パーツごとの取り扱いや、修理なども請け負っている店もある。要するに、バイクや自転車について何か必要なこと、困ったことがあれば、月曜日にここに来ると、何でも用が足りるというわけだ。


▽中国製品が出回る定期市

そのそばには、靴店が集積していた。たくさんの靴が、店頭にぶら下げられている。靴の値段は2千CFAである。これは新品の中国製の値段で、同じ靴でもヨーロッパからのものだと、中古でも4千CFAと倍の値段になる。

CDなどを専門に扱う店も並んでいた。そこにあるCDは1千CFA、DVDは1500CFAであった。CDプレーヤーは4万CFAで売っている。

次に目に入ってきたのは、大量の衣料品を扱う店々だ。服をハンガーにかけて整然とつるしてある店が多いが、地面に無造作に積まれている所もある。品物はTシャツが多い。スウェットなども見られる。しかしながら、市場に訪れる人たちが着ているような伝統的な衣装を扱っている店はここではあまり見かけなかった。新品の中国製子供用ドレスが 1千CFAであり、価格は割安である。同じような商品で、カメルーン国内産のものは2千〜3千CFAする。
ヨーロッパ製のものは1万CFAである。中国製のものはカメルーン国産のものに比べてもその価格は半分であり、また、見たところ品質やデザインにもあまり差がない。それゆえ、中国産の方が好まれるのは必至だろう。ガイド氏は、安い中国製品が出回るのは、買いに来る人にとっては良いことだが、問題でもあると言っていた。つまり、生産性が低く価格の上で比較優位のないカメルーン国産品が中国産に駆逐され、カメルーン国内の製造業が圧迫されているということである。

軽食を売る屋台が並ぶ区画もあった。

15歳くらいの少年たちがドラム缶で火をおこし、その上に網を置いて串に刺さった肉を焼いていた。他の食料品を扱う所とは離れた場所にあったので、市場に訪れる人たちに軽食を販売しているのだろう。その後に会った10歳前後の少年たちは小枝をたくさん抱えていたので、それはこの燃料に使われるのかもしれない。子供も立派に家計に貢献している様子がうかがえた。他にも、揚げパンのようなものを扱っている店があった。


▽通りに沿って並ぶ店々 ―買い回り品から最寄り品まで―

林の中を通りぬけて道に出ると、そこにも店が道に沿って並んでいた。露天が隙間無く続く様子は、まるで縁日のようである。店といってもこれもまた木枠にブルーシートをかけたものだが、先ほどの林の中の店々に比べるとスペースが小さい。だいたい二畳ほどである。扱っている商品は、衣類、布、靴、かばん、鍋など多様である。

道幅が広いところでは、道の真ん中に木の机といすが置かれ、その上に皿がたくさんあって、鮮やかなオレンジ色や茶色の香辛料が盛ってある。道の両脇には、トタン屋根の固定の店舗も見られた。

道を進むと、扱っている商品の部類が少しずつ変わる。

食品や石けん、歯磨き粉などの日用品がある。石けんを買ったところ、これはナイジェリア製だった。袋に入った穀類も目につく。魚の干物を扱う店が何軒かあり、オクラやトマト、サツマイモ、トウモロコシなどの生鮮食品も売っている。また、生肉を売っている店もあった。ここの辺りに一番、人がたくさんいる。つまり、食品売り場に一番、需用があることがわかる。売り手も買い手も男性の方が多いように見えたが、女性もそこそこの数がいた。


店と店の間にある細い路地を通る。ここには、固定店舗が集まっていた。そこで扱っている商品は、電気製品が多い。サムスンのテレビが15万CFA、SAYONAというブランドのスピーカーが5万5千CFAである。SONYのものが30万CFA(実売20万CFA)であることを考えると、このブランドは日本製と見せかけた偽物ブランドであろう。電気製品は日本製のものもあったが概して値段が高く、韓国製・中国製は値段の安いものが多いので、現地の人にはそちらが好まれているのではないかと思う。他にも、電池やキーホルダーなど、雑多なものを取り扱っていた。懐中電灯の値段は800CFAである。これらも多くは中国製であった。




▽カメルーンの地方都市市場にまで集まる中国産品
―衰退するカメルーンの産業―


この市場にある製品の多くはナイジェリアのバンキを経由してやってくる。ただし、その製品はナイジェリア産に限らず、中国産が多い。中国製品ほどではないがそこそこあるヨーロッパ製のものは、ドゥアラ港から入ってくるという。

労働集約的な工業製品は中国製が多い。実際、衣料品やボールペンなどは中国製であった。また石けん、ボディーミルクなどの日用品はナイジェリア産や国内産のものが多い。他にも整髪料などはイタリア製、イラン製、UAE(アラブ首長国連邦)製といった多様な場所からの輸入品であった。米は地元産のものと、タイ、インド、ベトナム産などがある。輸入品の方が価格は安いという。ソルガム(モロコシ)は地元産のものだが、袋にはマイドゥグリ(Maiduguri)とナイジェリアの地名が書かれていた。

こうしたグローバルな商品が集まっていることは、一方で、カメルーン国産品の成長が削がれることを意味している。中国製品の攻勢を前に、生産性や品質の低いカメルーン製品は、駆逐される傾向にある。現時点では、仮に経済発展をして消費需要ができても、その購買力はグローバルな商品に逃げてしまう。このようにして、労働集約的な産業が自国で発達せず、産業に雇用機会が生まれないことは、アフリカ各国において深刻な問題になっている。

▽中国とアフリカの貿易関係 ―中国の貿易戦略―

そのなかでも存在感が飛びぬけて大きいのは、やはり中国製品である。中国製品がアフリカの市場で出回る背景には、中国の貿易戦略が読み取れる。中国は、これまで製品の輸出先として、北米・欧州など先進国市場に依存してきた。日本でもご存じの通り中国製品はあふれている。しかし、先進国市場は飽和状態になりつつある。また、少数の国にばかり市場を求めることは、安全保障の観点から言っても好ましくない。

こうした事態を解決するために、中国は市場としてアフリカを開拓するという戦略に出始めた。つまり、リスクヘッジとして貿易相手の多角化を行っているのである。こうした戦略は、アフリカの国々から見れば、中国製品への依存という状況を生み出す。安くてそれなりに品質がある中国製品のおかげで、アフリカの市民は、従来買えなかったものを入手できるようになったので、これまでより実質的な生活水準は向上した。それゆえ、今更、中国製品の禁輸や高関税はあり得ない。こうして中国との経済関係が断ち切れなくなれば、外交面でのアフリカにおける中国のプレゼンスも増すであろう。

しかしながら、こうして中国製品のあふれる状況にあっても、マルアの定期市に中国人の姿は見えない。それは、大都市より下のレベルの都市には来なくても、これだけの中国製品をさばける流通ネットワークが既に出来上がっているからである。マルアの市場で売られている中国製品は、ナイジェリアの国境の街バンキを経由してやってきている。ラゴスにある中国卸売り商業の商圏が、このカメルーンの地方都市にも及んでいるのである。

一方、日本は、アフリカは“危険である”とか“遠すぎる”というような理由で、こうした市場開拓を積極的には行っていない。しかしながら、「クインキー」に見てとれるように、日本の会社の技術が中国の会社に導入され、中国の会社が生産した商品がアフリカという市場で売られるという技術の循環が存在することがわかる。このようにして日本の技術がアフリカにおいて間接的に導入されているという現実がある。そういったことからも、日本とアフリカが無縁であることはない。それでも、その間にあるのはあくまで中国企業である。アフリカにおける日本の存在感というのはその陰に隠れてしまっている。

マンダラ山地へ向けて出発


▽道中のサバンナと村の様子

定期市の視察を終えた私たちは、カメルーン北部の観光スポットとして有名なマンダラ山地視察へ向けて出発した。私たちは、マンダラ山地の中にあるルムシキ村という岩がそびえ立つ景観の美しい村を訪れる予定である。ルムシキはマルアの南方約120kmの所にある。

市場から離れると、辺りはすぐにサバンナが一面に広がる景色に変わる。背の高いソルガムがたくさん植わっている畑が車窓から見える。樹木の背丈は低く、ぽつんぽつんと草原の中に現れる程度である。現在は9月で、雨期の終わりにあたる。この時期にソルガムを植え、1月に収穫するという。


ときどき、道の横には大量の牛と、それを追う牛飼いが見られる。家畜にはヤギやロバもいて、道の近くで草をはんでいる。

ここに住んでいる人たちの経済基盤は、牧畜や農業である。彼らの住んでいる家は、何軒か集積して建っていて、その周りは土壁で囲ってある。家は円柱状の土壁と円錐状の藁葺きの屋根でできている。

電線が通っていて、パラボラアンテナがあるところから見ると、電気製品の使用もあることがわかる。

道はコンクリートで舗装されているが、幹線道路ではないので、あまり車の往来は多くない。そのため、ナイジェリアにいたときに体験したような無謀な追い抜きなどはなかったのでほっとした。道の横に小規模の市場が立っており、たくさんの人びとが集まっている。店のたたずまいは定期市のものと似ていて、ちょうどその規模を小さくしたような感じである。

車を進めていくと、周辺には小高い山が見えるようになってきた。山肌にはごつごつとした岩がころがり、その隙間から低木が生えている。

モコロ(Mokoro)という町から、車は側道にはいった。舗装はなくなり、茶色の土がむき出しの道に変わってきた。路面の状態は良くなく、でこぼこした所を通るたびに車が揺れてお尻がしだいに痛くなってくる。沿道では、ジャガイモやピーナッツ、米などの栽培が行われている。山岳地帯ではソルガムよりもミレットの方が栽培に適している。


町の中心性が高い場所であると、集落ごとに小規模の市場が開かれる。実際、私たちがこれまで通ってきた舗装道路の横には市場が観察できたが、でこぼこ道になってからは見かけなくなった。側道沿いは、中心性をもつ集落がないということであろう。この地帯では農家が自給自足、あるいは周辺の村々や集落との間で物々交換が行われているのかもしれない。


ルムズ村視察


▽カトリックが建てた村の私立小学校 ―ルムズ村(Rhumzu)―

私たちは、沿道のルムズ村にある小学校に、視察のため立ち寄った。ガイド氏の話によれば、カメルーンの子供の約70%は小学校に通っているという。初等教育の普及率はさほど低いわけではないようだ。また、カメルーン各地には日本のODA建設による小学校があるが、今回、訪れた小学校は、日本の援助が入っていないカトリック系のミッションスクールで“Ecole Privee Catholique de Rhumzu”という名である。私たちは、先生方のご厚意によって校長室に案内され、校長先生からお話を伺うことができた。

この学校は、イタリア人、ザイール人(現コンゴ民主共和国)の宣教師によって1961年に建設された。児童数は現在400人ほどである。授業料は年間7050CFAで、公立の学校が年間2千〜3千CFAであることを考えると、かなり割高である。通っている子供達は、途中の農村で穴の開いたTシャツを着ていた子供に比べると、皆こぎれいな格好をしているように思える。こうした農村にも階層が存在し、ここの学校に入れる子供はおそらく相対的に裕福な層の子供なのであろう。

それぞれの学年は1クラスずつであるが、6年生はAとBの男女別の二つに分かれている。教えている科目は12科目ある。主要教科はフランス語、英語、数学、理科、社会の5教科であり、その他は、美術、体育、音楽、技術・家庭、宗教、書き取り(2コマ)となっている。公立の学校のカリキュラムにはなく、日本のODAによる援助でしか行われていない、美術・音楽のような「情操教育」に分類されるような教科も、私立の学校では取り入れられていることがわかり、興味深かった。授業は、小学校1年生からすべてフランス語を使って行われている。


▽クラス見学 ―ノートのない2年生、教科書のない5年生―

2年生と5年生の教室を見学させていただくことにした。

2年生のクラスにお邪魔した。先生に促されて児童たちが英語であいさつをする。突然の来訪者に驚いたのか、皆おとなしくしている。ちょうど地理の授業中のようであった。子供達は紙のノートを持っていない。代わりに、小さな黒板をそれぞれ持っていて、チョークでそれに筆記する。ざっと見渡したところ20人ほどいるように見える。教室の大きさは日本の学校と同じくらいで、長机と長椅子のセットが5列×2つある。教室の前後には黒板があって、正面の黒板の上には“1 un 2 deux 3 trois ”とフランス語が書かれた紙が貼ってある。その横には道具入れが設置してあり、教材と思われる本やプリント類がきれいに置かれていた。

5年生のクラスでは、児童は皆それぞれノートと筆箱を持っていて、授業に必要なものはすべてちゃんと持参しているようだった。中には、肩掛けの洒落たかばんを持っている子供もいた。しかし、教科書は先生が一冊持っているだけで、児童のところにはない。児童は、先生がその教科書と黒板を使って説明するのを、ノートに書き写すのである。



▽併設の教会 ―地元に根ざすカトリック教会―

次に、小学校に併設してあるカトリック教会を見た。

校舎が面した広場の奥にある教会は、現代的な造りで、1990年に建てられたそうだ。一見すると野外劇場のような造りである。野外にある教会の敷地の入り口から建物内の祭壇まで一本の通路が貫いていて、途中から通路が建物に入る構造になっている。野外の通路の脇には、椅子として置いてある石が並んでいた。建物自体には壁がなく、半野外になっていて、教会全体としては開放的できれいな印象をつくりだしている。屋根は木でできており、床と壁は白っぽい色である。長椅子は、建物内部にも、綺麗な木と鉄でできた立派なものが並んでいる。柱には、スピーカーもついている。

入り口付近の半円に囲まれたスペースには、聖書の内容が、登場人物を黒人にして描かれていた。このような描かれ方から、ヤウンデの教会同様、キリスト教の土着化が図られている様子がわかる。

教会の入り口の所まで、子供たちが珍しがって私たちを取り巻いてついてきた。しかし、入り口から中には、誰も入ってこなかった。カトリックの学校は、一般に校則が厳しい。どこまで入っていいか、あるいはいけないかということに関して、子供たちは学校で厳しくしつけられているのだろう。

北部は本来ムスリムの影響が強い所である。それにも関わらず、カトリックの学校が根付いているのは興味深い。こうしたミッションスクールと、フランスによる植民地支配構造とは深く関わっていた。カメルーンのいろいろな所にキリスト教のミッションスクールは建てられていて、その学校は現地に深く根ざして、フランスに親和的なエリートの養成機構として機能している。村落の中でも富裕層の家庭にとって、その子女をカトリックのミッションスクールで学ばせる社会的意味が存在するのであろう。


▽典型的な農家への訪問

学校の視察を終えた後、学校の敷地のすぐ隣に住むコダ・ジャノエル(Koda Jiannoel)さんの家を訪問させていただいた。

家は、ここまでの沿道で観察できた家々と同じ造りの典型的な農家である。部屋は一つ一つがバンガローのような造りの建物として独立しており、そのような建物が6、7棟ほどある。世帯は6人家族で、一人一人にそれぞれの部屋が割り当てられている。入り口から一番近いものは居間、その左手にはジャノエルさんのお父さんの部屋がある。居間の後ろ側にはジャノエルさんの部屋がある。

ジャノエルさんの部屋の中を見せていただいた。室内には小さな机があって、その上にはラジオやCDプレーヤーなどが置いてある。農村の電化とともに、これらの品々が、大衆消費財として一般の農家にも普及してきていることが分かる。床には布団が敷いてあった。ドアはトタン製である。一応、鍵もついている。ドアの近くにはカメが置いてあってその中に水がたまっている。飲料用かと思って質問したところ、雨水をためて生活用水にしているという。

部屋の左手前には倉庫があった。敷地の中央部分にはヤギが飼われていた。かなり小さい隙間から顔を出している。敷地の一番右奥には、キッチンがあった。キッチンといっても、かまどと調理用具が少しだけある質素なものであった。

ジャノエルさんは25歳で中等学校に在学中だという。だが、今年度はお金がなくて通学できないそうだ。彼自身に農業ではない仕事があるわけでも、他に収入があるわけでもない。ジャノエルさんの家の畑ではミレットやソルガム、ヤムイモを育てている。その中には自給用のものも含まれている。同じ作物を2、3年続けて植えると土壌が弱るので、その場合は、他の人から土地を借りて耕作するという。1ヘクタールの畑から年間で19万CFAの現金収入がある。それでも自給でそれなりの生計がたてられているようだ。要するに、自給農業が基本なので、現金収入の必要はあくまで補完的だと言える。

しかしながら、このような自給農業は、天候などの条件に左右されやすく、不安定な収入源でもある。アフリカの飢餓といったイメージは、必ずしも現状を捉えたものではないが、洪水や干ばつで容易にこうした暮らしが破壊されてしまうことも、アフリカの農民の実像であるだろう。



ルムシキ視察


▽ルムシキの景勝 ―カメルーン北部の観光資源―

モコロから奇観の岩があるルムシキまで55kmの間、道は悪路が続く。車は激しく揺れ、1時間のドライブが倍以上に感じる。沿道にはところどころ集落があり、人びとが農作業をしている。畑で働いているのは、女性や子供が多い。段々畑にミレットやソルガムが植わっており、家の周りはサボテンの塀で囲まれている。これまでの南部の農村とはかなり異なる様相だ。




サバンナの広がりの中に、垂直に突き出した岩が目立つようになってきた。これが仏文学者、アンドレ・ジードが絶賛したという有名なルムシキの景勝だ。拓けた眼前に突如として岩がそびえている様は、奇怪であると同時に神秘的である。先端が尖ったものや頂上部分が平らになったものもある。そのそれぞれが独立していているため、存在感が際だつ。マンダラ山地はもともと火山帯で、溶岩が残ってこのような神秘的な景勝を生み出したという。この中でもっとも高い山は標高1150mで、現地の言葉で“Zivi”と呼ぶそうだ。ナイジェリアとの国境はすぐそばで、途中の高い地点から岩の切れ目の遙か下の方に、ナイジェリアの平原が広がるのを臨むことができた。


▽観光客用宿泊施設 ―Campement de Rhumsiki―

ようやくルムシキに着いた。ここは、カメルーンでも有数の観光地である。しかし、カメルーン北部に来る人は必ず訪れるような所にも関わらず、観光インフラの整備がほとんど整っていないことに、まず驚いた。



私たちが車を止めたところで目についたのは、円錐状に屋根を葺いてある円柱状の建物が立ち並ぶホテルであった。私たちのマルアのホテルと同じで、これまで観察してきた農村の建物を模した、バンガローのような部屋である。しかしながら、壁は土で作ったレンガではなく遙かにしっかりした造りで、白と茶色にきれいに塗り分けられている。建物群の周りは白い塀と緑の柵に囲まれている。入り口には“Campement de Rhumsiki”とかかれ、その下におじいさんが木の棒を持って座っている。一応、門番であるようだ。


▽レストランにて昼食

白い建物のレストランで、遅めの昼食を取った。この時点で既に午後2時すぎである。着席してオーダーをするが、食べ物が出てくるまでに時間がかかる。これはいつものことであるが、観光地だからといって例外ではないらしい。また、北部に来てからハエを多く見かけるようになった。農村の子供たちの周りにも常にハエがたかっている。食事を終え、レストランの近くのトイレを借りることにした。一角に穴が掘ってあるだけの簡素なものであった。俗に言う「ぼっとん便所」である。だが、乾燥している北部ではこの様式でもそんなに問題はないのだろう。


▽熱心な物売りの子供たち ールムシキのインフォーマルな観光業ー

レストランから出ると、多くの子供たちが寄ってきた。しかし、子供たちは、今まで農村で見てきたような珍しい東洋人に興味津々の子供たちとは違い、私たちを「観光客」、つまりビジネスの相手として見る目線をしていた。そもそも、私たちに話しかけてきた英語は、あまり使う機会がないはずなのにこなれていた。数多くの観光客を相手にしている中で自然と習得したのだろう。子供たちは手作りのアクセサリーや楽器、色のついた種を持って、しきりに「とてもきれいだから買わないか。」「良い品だから買ってくれないか。」などと話しかけてくる。邪険にすることもできないが、一人の人に寄ってくる数が2、3人でなかなか引き下がらないこともあって相手をするのは大変である。値切りにも、なかなか応じない。他にも大人がポストカードを売っていたが、こちらも値切りに全く応じなかった。

ゼミ生の中には、彼らの売っている物を購入した者もあった。ハープのような伝統的な楽器が小さいものが3500CFA、大きいものが4千CFA、マンドリンが3千CFAであった。また、帽子とネックレスはそれぞれ1千CFAとなっていた。もし例えば、2日に1回1千CFAの物を売った場合、それは年間で1ヘクタールの畑から得られる現金収入と同じ額になる計算である。したがって、彼らが熱心に売り込みをしていたのも当然である。

これらの商品は、どこからやってきたのであろうか。地元産品でなく外部から持ち込まれたものの場合、地元にお金が落ちる部分は少なくなる。どこかに、子供に物売りをさせてピンハネをする元締めがいるのかもしれない。それでも、この子供たちは、家族にとっては現金収入をもたらす貴重な存在である。こうしたことが、子供をたくさん産むインセンティブとなり、多産の傾向が加速するのである。

こうした現金収入をもたらす点で、観光業が現地の人に与える経済的効果は大きいと言える。また、草の根レベルの人々に貢献するという点でも望ましい産業である。しかしながら、地元の人々が観光業から所得を得るためには、観光資源が近くになければならず、そうした資源の有無が、局地的な経済効果や地域間格差を生むことにつながりかねない。国レベルでの観光政策でテコ入れしない限り、その恩恵を受ける人の範囲が少ない、マクロ経済全体としての賃金・購買力の上昇にさほど寄与しないといった問題が残る。


▽占い業と陶器の販売

客引きに熱心な子供たちを従えたまま、私たちは道を進んでいった。道の途中に、黒い陶器が並べられていた。地元で作った食器用のもので、実際に手に取ってみたら軽くてかなり堅い。品質は良いものであることがわかる。これも販売用であるが、必ずしも観光客向けのものではないようだ。同じ所に土で作った人形が売られていたが、それは1300CFAであった。一般の農家を通り過ぎたが、そこには黒魔術ができる占い師のおじいさんがいるという。ここでは誰も試さなかったが、このおじいさんは外国から来た観光客を相手にすることもあるのだろう。


▽ルムシキの観光業の方向性 ―体系的なエコツーリズム―

ルムシキの町は、マンダラ山地観光の拠点であるにも関わらず、観光客向けの部分と現地の人の生の生活が未分化であるような印象を抱いた。その理由は、マス・ツーリズムを支えるほど多くの観光客が来ず、マス・ツーリズムが成り立つ観光地としてのインフラ整備は、経済的に引き合わないことを示しているのだろう。一方で、本当の“現地の生活”を観光客が垣間見るには、ちょうど良いのかもしれない。地元の人々も、観光業に関わっている。これは、一種の自然発生的なエコツーリズムである。このような形の観光を追求することは、一つのモデルとして考えられることである。だが、そのためには、現時点での計画性が見えない自然発生的なビジネスのあり方を、政策で体系的な方向に誘導する必要性がある。

これまで、この地域に来るのは欧米からの観光客が主だと聞いていたが、現地の人によれば、日本や韓国、中国からも観光客が来るという。これらの人びとは、チャドの首都であるンジャメナからルムシキに入ることが多い。どこから入るにしても、舗装されていない、車ですこぶる悪い道路を通らなければ、ここまで来られない。また、主要都市からも離れた所にある。加えて、この村は景色以外に特に観光資源があるわけではなく、観光インフラも、ホテルやレストランが所々にある以外は何もない。景色だけを目的にした観光であると、リピーター客が生まれないことが懸念される。

私たちが、ルムシキを去らねばならない時がきた。子供たちは、私たちの車の所までついてきたが、車の中までは入ってこなかった。その一人が、私たちの持っていたペンを必死に欲しがって、出発しようとする車の窓にしがみついた。筆箱の中にあったボールペンを一本、この子供に渡してあげると、子供はとても喜んでいた。それは、土産物を観光客に売ったときの表情とは違う、本当の嬉しさであるように感じた。ルムズのミッションスクールで見た、無邪気に一生懸命勉強していた子供たちの姿がふと頭をよぎった。


マルアへの帰り道

▽今は使われなくなった農村の伝統的な鍛冶場

私たちはルムシキを後にして、マルアから来たのと同じ道を通って帰路についた。



16時45分頃、車はようやく舗装道路に戻ってきた。その沿道に、今では使われていない伝統的な鍛冶屋の作業場があった。鍛冶屋のかまどは、石が無造作に積まれたもので隙間が目立つ。中に入ってみたが、体をかがめないといけないくらい入り口はせまい。以前は農機具の作成を行っていたが、今では使うのが難しいため、使用されずに放置されているという。ふいごなどの作成に使用する器具は中に置かれたままになっていて、クモの巣がはっている。こうした伝統的な農村手工業の技術が、ここカメルーンでも衰退してきている実態を見ることができた。その背景として、地元以外で作った、より安くより品質が良いものが手に入りやすくなり、地元製品が競争力を失ったことが指摘できる。


▽アザーン ームスリムの夕方のお祈りー

辺りがすっかり暗くなった午後6時半頃、アザーンがどこからともなく響いてくると、ガイド氏とドライバーが車から出て行ってしまった。ブッシュが近くにある集会所のような所でお祈りをしているようだ。町の灯り以外は真っ暗闇の中、車に取り残された私たちはかなり不安な気持ちに襲われた。ムスリムでない私たちのような人がムスリム地域に行く際は、こうした文化的背景に関しても知識をもち、かつ理解することが重要である。

こうして、私たちは今朝出発したマルアのホテルに無事たどり着いた。現地の定期市場、小学校、農村などを視察できた上、観光地として有名なルムシキの景勝とそこでの人びとの生活に触れることができた貴重な一日であった。特にルムシキの壮大かつ神秘的な風景は、私たちが出発前に想像していたアフリカの大地というイメージと合致するところが多く、それをおがめたことは感慨深かった。


(木下 詠津子)

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