寝台列車で迎えた朝

▽サバンナ地域を駆け抜ける列車

朝6時、駅に到着した揺れで目が覚める。

カメルーンは、「アフリカの縮図」と呼ばれることがある。一つの国の中に、さまざまの気候区があることがその一つの理由だ。一夜明けると、車窓から広がる光景は、クリビなどの周辺で見られた熱帯雨林からサバンナに変わっていた。中学・高校の地理でお馴染みのケッペンの気候区分で言えば、両者は熱帯雨林気候(A)に属し、熱帯雨林気候はAf、サバンナ気候はAwと区分される。熱帯雨林気候とサバンナ気候の違いははっきりとした乾季の有無である。樹木や植物の高さは熱帯雨林気候に比べて低くなる。たしかに、列車が北上するにつれて、高い木はまばらになっていき、次第に高さ3〜4m位の低木、1〜2m位の植物の割合が増えている。9月は雨季にあたっているため、ところどころに小川が流れ、線路の下に作られたパイプの下を通っていた。サバンナと言えばテレビで放送されるようなライオンやキリンのような野生動物を想像する人もいるかもしれないが、そういう動物はまったく目に付かず、時たま家畜の牛の群れがいるのみであった。

民家は、沿線に時折、2、3軒から成る集落がみられる。列車が停止する駅の周辺には、30軒ほどの集落も存在した。民家の造りは、大部分が、カメルーン北部一帯の農村で見られるように日干し煉瓦の壁に木々を重ねて作った屋根を付したものである。ただし、集落によっては、壁は煉瓦で屋根は板の家屋、三角錐の形に木々が重ねられた家屋も存在した。電信柱が見られたので、電化している集落もある。畑の大きさは、商業的というよりは自給自足用の畑と思われる規模であった。至る所にヒマワリが植えられているのは、油を採取しているからであろう。ヒマワリの黄色は、木々の緑色と土や建物の茶色に彩りを与え、美しい農村景観をかたちづくっていた。

▽幾度と同じような駅に停車

鉄道がヤウンデからンガウンデレまで延びたのは、カメルーンの独立後である。列車は、朝になっても、6時半以降、約30分から45分に一度のペースで駅に停まっている。駅のまわりに都市のようなものは無く、どの駅も景色は非常によく似ている。停車時間は約10分程、そのあいだに老若男女の地域の農民が、そこで取れたと思われるマンダリンオレンジやバナナ、プランテーン、そして飲料水などを乗客に向けて売っている。売り子が多い駅では100人以上の人がいたようだ。今日の朝は、昨夜に比べて、水を売っている売り子が多くなっていて、実際に買っている客も多かった。

8時20分に停車した駅には反対のヤウンデ方面に向かう貨物列車が止まっていた。だが、扉が開いていた貨物車両の中は空っぽで、何を輸送しているかは確認できなかった。いずれの駅の周りにも必ず大き目の倉庫が1つあり、単線の線路は駅の近くになると4本ほどの引込み線に別れていく。倉庫の存在から、各駅がその地域の物資の集散地としての機能を果たしていることがわかる。

駅名は、だいたい建物に表示されている。9時半に停まったのは、マルコー(Markor)駅と確認できた。車内には当然車内アナウンスはなく、列車は時間どおりに走っているわけでもないので、途中駅で降りる人は注意深く外を見ていなければならない。

駅で列車が停止する時間を利用して、係員の人が朝食を持ってきてくれた。夕飯同様、フランスパンやおかずなどのプレート・セットである。領収書を頼むと、頼んだものと値段を白い紙に書き、合計領収金額を書いただけの、簡単な領収書を発行してくれた。

線路の枕木は鉄製である。鉄製だと木製に比べて揺れが激しくなるがメンテナンスが楽になるというメリットがある。私たちは、列車の揺れにも大分慣れてきて、線路のメンテナンスはそれなりに行き届いているようにも感じてきた。とはいえ、私たちは、途中で車輌が脱線して、倒れたまま線路端に放置されている光景を目撃した。メンテナンスがしてあるとは言え、危険な事故が発生することもあるようだ。

内陸の一大結節点のンガウンデレ


▽まもなく終点

11時ごろから、次第に車窓から見える家屋が増えてきた。終点のンガウンデレ駅は、もうすぐである。線路に平行して引込み線がいくつも現れてくる。そして倉庫や貨車が脇に見え始めた。

列車は、午前11時すぎ、終点のンガウンデレ駅のホームに無事滑り込んだ。所定到着時刻は午前8時半であるから、3時間弱の遅れである。ホームの付近には、荷物運びでチップを稼ごうとする青年たちが群がっており、減速する列車の中にいる私たちに名札を投げ込んできた。そうしたサービスは利用しなかったので、投げ込んできた名札を投げ返した。

ンガウンデレはカメルーンの鉄道の北の終点である。これより北へ行くには、自動車を利用しなくてはならない。新しいガイドがホームに待っていた。

ガイド氏によると、昨日の列車は、やはり午前8時半に到着の予定であったが、実際の到着は夕方の4時だったらしい。

▽混みあうンガウンデレ駅

ンガウンデレ駅のホームに隣接する駅舎は、空に突き出したような塔がある特徴的な建築になっている。駅のなかは、到着客や出迎えの者でごった返していた。この鉄道にこんなにも人が乗っていたのかと思わんばかりの人の量である。私たちは、互いにはぐれないように注意を要した。駅舎を出ると大きな駐車場があり、私たちが乗るトヨタのバンが待っていた。

駐車場は舗装されている訳ではなく、土がむき出しである。駐車場に面して、駅と反対側には飲食店が並んでおり、その奥には、一般市民が使うバス会社の社名"World Voyage"の下に「ガルアまで2500フラン、マルアまで4500フラン」と書いてある看板があった。

私たちと同じ車輌に乗っていた白人の修道女は、やはり白人の修道女2人組が迎えに来ていて、修道女が自分で車を運転して、駐車場に停めてあった車で去っていった。長期的にこの地域で布教活動をしている人達なのであろう。それだけキリスト教がこの地域に根付いていることも推察できる。

▽大量の海運コンテナが野積みされた内陸の流通中心

ンガウンデレ駅は、カメルーン北部の結節点としての役割を担い、貨物はカメルーンのみならず中央アフリカ共和国やチャドからの荷物の経由地にもなっている。そうした物流拠点となっていることは、駅周辺の倉庫群、コンテナ群を見てもよくわかる。海運コンテナが広大な敷地に大量に積み重ねられている光景は圧巻であった。私たちは、その広大な敷地の隣にある倉庫群を見に行くこととした。

倉庫群は各運輸会社の所有する倉庫から成り、各倉庫まで引込み線が引っ張って来てあって、積み替えが便利になっている。海運コンテナが鉄道貨車に直積みして運ばれ、海岸線から直線距離800mも離れた内陸に運ばれているのだ。ドゥアラ港で見たコンテナ船から鉄道、そしてこのンガウンデレでの鉄道からトラックという、インターモーダルな物流システムがきちんと整備されていることがわかる。日本では海運コンテナの鉄道輸送は行われているが、多くは港で海運コンテナの中身をバラし、鉄道専用サイズのコンテナに積み替えるケースが多い。海運コンテナの会社は、スイスのMSC、デンマークのメルスク(MAERSK)、フランスのサガ(SAGA)、イギリスのP&Oといったヨーロッパ系の海運会社が存在感を示していた。日本の商船三井のコンテナもあったが、大量なコンテナの山にわずか3つほど見つけられただけだった。

運ばれている品目として確認できたのは、石油・セメント・木材・鉄の棒・セメントである。鉄の棒やセメントは、鉄筋コンクリートを用いた建設需要の存在を示している。鉄の棒はドゥアラから来たものだとガイドが言っていた。

倉庫群の前は舗装はされておらず、倉庫間の距離は離れていた。セメント用と思われる石のかけらが山積みにされていたり、ヤギが歩いていたり、のどかな雰囲気で、倉庫の一部で荷積み作業をしている人たちがいるという状況であった。貨物列車が到着しない時間帯は、暇なのだろう。海運コンテナ以外にも手作業による積み替えも行なわれていた。

自動車に乗換、北上開始


▽交通量の多い国道1号線

私たちは、これから国道1号線に沿って、508km北のマルアまで私たちは車で北上する。 車は、ンガウンデレの郊外に向かって走りはじめた、ンガウンデレ大学が左手に見える。広場では、牛の市場を広場でやっていた。短い棒を持っている牛使いのそばに、牛が10頭くらい群れをなしている。客は気に入った牛があれば、その牛使いから直接買うようである。ガイド氏によれば、牛1頭あたり30万フランらしい。ンガウンデレが、物資取引の場にもなっていることを示す市場である。

少し走ると、隣国チャドへと通じる道があり、大型トラックが停まっていた。このように、チャドからも物資がンガウンデレに集まってくる。 国道を行き交うトラックは、海運コンテナをそのまま運んでいる車が大部分であったが、コンテナは使わずに石油と木材の組合せ、はしごとバナナの組合せといった面白い工夫をしているトラックもあった。

旅客輸送の面では、国道World Voyageのロゴが入ったミニバスを頻度が多いときには30分の間に5便もすれ違ったので、このミニバスが、鉄道が無い地域で一般の人たちの交通手段として広く使われているようだ。

この日、私たちは7回の検問を通った。最初の検問では、パスポートを見せるように要求された。警察官はパスポートのカメルーンビザを確認するのかと思いきや、今回の巡検とは関係のないオーストラリアの入国スタンプをしげしげと睨みつけて返却してくれた。実際に取り締まろうとする気はなく、外国人の物珍しさで検問を行ったようだ。次の検問ではパスポートを要求されることはなかったが、2分程車を停められた。ナイジェリアでは警察官が同乗していたため、検問で停められてもすぐに解放されたが、カメルーンでは、警察官の同乗を依頼していなかったので、よく停められる。

停められている間をねらって、地元の人たちが物売りに来る。ゼミ生の一人が、1本100CFAフランの肉の串焼き(brochet)を10本購入した。よく火が通っており、味付けもなかなかであった。また、所々で近くの農村で採れた大小のヤムイモが、4つほど詰め合わせとしてまとめ売りされていた。

道路は、しっかりと舗装されていた。直線の道もあれば、山の斜面に沿って曲線が多い道もあった。標高は1400m位とかなり高い。山の斜面を通る時は、片側には列車から見えたときと似た、サバンナの光景が遠くどこまでも続いていた。

マルアに至るまで、10〜20kmに一回ほど、道路沿いに村落があった。通過したときに生活用品の市場が開かれているところもあった。マルアやガルアよりも低次の都市機能を有した街が等間隔に分布している。コンテナを運ぶ大型トラックが停車している村落もあった。そうした村落には必ずしも露店などの商店を見受けることはできなかったが、トラック運転手の休憩地点になっていた。

時間によっては、5分に一度、一般人が乗り込んでいるミニバスにすれ違ったり、ミニバスが各村落に停車したりしていた。各村落の間は、ミニバスを利用できるので、人々の移動も多いのだろう。目撃した殆どのミニバスに、ンガウンデレの駅前に広告のあった"World Voyage"のロゴが入っていた。

長距離送電のための高圧電線がたえず国道に沿って走っていた。各村落には空に高く伸びる携帯アンテナも設置されていた。このように、幹線道路から観察できる限りは、村落は電化され、情報交流手段も整備され、交通手段も安定的に供給されている。だが、私たちが観察しているのは国道1号線という幹線道路の沿道の範囲であり、少しでも幹線道路から離れるとどのような状況で生活が営まれているのかは推測できない。ただし、電線も時たま国道1号線から分かれて、沿線以外にも電力を供給していることも確認できた。高圧電線も引かれていたことから、長距離送電もされている。基礎的なインフラがかなり整備されていることは、理解できた。

ンガウンデレとマルアの中間地点ガルア


▽北部州の州都ガルア

午後3時45分、私たちはンガウンデレから北方296kmのガルアの街に到着した。

ガルアは、ナイジェリアに流れこんでロコジャでニジェール川と合流するベヌエ川流域の街である。Bradtのガイドブックによると、ベヌエ川はかつて水運が盛んで、カメルーン第三の港として使われていたという。だがいまは、水運の活況もなく、ベヌエ川を経由したナイジェリアとの交易は殆どないようである。ベヌエ川と反対側には山頂が突起状の形をした山々が続く、珍しい光景であった。

市街地に入るとコーラのボトリング工場があり、Castel Beerなどの他の飲料も扱っていた。中部アフリカ5カ国で使われるCFAフランの中央銀行(中部アフリカ諸国銀行、BEAC)の支店もある。なぜBEACの支店がガルアに存在するかまではわからなかったが、今まで通過した街に比べると明らかに高次の都市機能を有していることが分かる。道路の一部には電灯付きの中央分離帯も存在し、都市計画がなされている。街は、かなり広域に広がっているようである。 私たちは、午後4時からの遅い昼食を、如何にもフランス植民地の雰囲気が残るLe Munyengue Bar Restaurantで取った。昼食がこんなに遅くなったのは、旅行会社が外国人もいくと想定するレベルのレストランが、ンガウンデレとガルアの約300kmの間に無かったからである。

レストランに入ると、そこには日曜の午後のアンニュイな雰囲気が流れていた。ゆったりとした空気の中に、テレビの音が聞こえてくる。しばらくすると魚の串揚げとフライドポテトのセットが運ばれてきて、机の中央には、お好みでかけるマギー製のソースが置かれた。串揚げはおいしかった。

▽中所得者の住む公営住宅

食べ終わった私たちは、レストラン近くの公共住宅を、地元の人の案内で視察した。建物は、日本の団地のような作りになっていて、そのまわりでは様々な年齢の子供たちがサッカーに興じでいた。牛使いに連れられた牛の一群が、近くを通っていた。案内してくれた方いわく、公営住宅の家賃は毎月3万―5万フランと結構高い。ガルアは、さまざまの行政・サービス・生産機能がある中心地なので、そのようなところに働く、それなりに高い階層の人々を対象としているのであろう。最貧層の住宅問題救済を目的とした住宅ではない。これらの住宅は、カメルーン政府で公営住宅を担当するカメルーン不動産協会(La Soci?t? Immobili?re du Cameroun)によって管理されている。

公営住宅の外を一周した後、ガイドと合流した。車に乗ってガルア市街を走っていると、サッカースタジアムがあり、その隣の広場で若者のチームがサッカーの練習をしていた。

マルアまで209km


▽EUからの援助

午後4時45分、ガルアを出発して、本日の最終目的地マルアへ向かう。ガルアを出るあたりに「マルアまで209km」という標識があった。

ガルア以北も、長距離トラックなどの交通量はかなり多い。マルアに至るまでの道は、ンガウンデレとガルアの間の道と景色に大きな違いはなく、マルアやガルアよりも低次の都市機能を有した街が等間隔に発生している。

道路は、ンガウンデレからガルアまでと同様に、かなり整備されていた。北部は整備中の道もあった。ガルア周辺の道路は、 EUからの資金援助を受けて整備されたもので、ガルアから90km北のフィギューユ (Figuil)まで道路の補強が行われている。道の脇には、援助を示す、EUの旗とカメルーンの国旗が描いてある看板が建っていた。

このあたりから、チャドとの国境が東に迫ってくる。フィギューユにはチャドへと別れる道があり、東に10km行けば国境である。

▽複合的栽培をする農村

道路の両側に集落が見えると、その一帯には畑が広がっている。畑一つ一つの面積は北に行くほど大きくなっているように見受けられ、畑の数自体も増えているようである。私たちは、途中で車を降りて、道路沿いから、夕暮れの集落と畑を観察した。

観察していると、男の村民たちが出てきたので、作物の種類について訊ねてみた。畑には混合栽培がなされており、同じ畑にソルガム(モロコシ)、綿、トウモロコシ(maize)と3種類の作物が植えられている。これでは、綿は現金収入を目的とした商業作物、トウモロコシとソグハムは、自給用かもしれない。限られた面積の中で、家計が需要する作物のバスケットを充たすよう、複合的な栽培が集約的になされているのである。これはこれで合理的な判断ではある。生産性を上げるのは困難だろうが、ここにネリカ米のようなものを導入しようとすれば、こうした伝統的な農業様式を解体しなければならないことになる。それが、農民の伸の生活向上につながるかどうかは、わからない。カメルーンで、ネリカ米がほとんど普及しない原因の一端がわかった思いがした。

集落は、1つの仕切りの中に三角型の屋根をしている小屋が5つ程円状に配置してある。ガイド氏いわく、ひとつの仕切りの中には夫が1人住んでいて、各小屋には妻が1人ずつ住んでいる。つまり、この集落の場合、男は4、5人の妻を囲っていることになる。

▽ラマダンのお祈りに消えたガイドと運転手

ガルアから1時間程走ると、ついに日が沈んできた。ドライバーはイスラム教徒だったため、ラマダンのお祈りをしないといけない。ナイジェリアと同様にカメルーンにおいても、北部は人口に占めるムスリムの割合が大きい。このため、日が暮れた頃になると、どこからともなくアザーンが聞こえてくる。ガルアとマルアの間にある市場が集まった場所に車を停めると、ドライバーは25分間もお祈りに行ってしまった。ガイドも一緒にどこかに行ったため、車の中に取り残された私たちは少し不安になった。

日がとっぷり暮れたなか、再びマルアに向かって出発した。夜になっても相変わらずコンテナなどを運ぶ長距離トラックや、2、3人乗りで走るバイクの交通量は多い。集落から集落の間を歩く歩行者の数も、だいたい5分に1組は見かける。集落間の交流は多いようだ。村民でもバイク移動ができる層とできない層に別れるのだろうか。

北部の中心都市マルア


▽「アフリカ風」につくられたホテル

午後8時半、私たちはついにマルアの街に入った。マルアは20万人の人口を有していて、その中の70%はムスリムである。 街には、途中にガイドの家があり、車はそちらに立ち寄って、ガイド氏は荷物を取りにいってしまった。ンガウンデレ以北は、ヤウンデの旅行会社の下請けの会社がサービスを提供してくれている。ドゥアラやヤウンデで私たちに付いてくれていたガイドよりも、提供してくれるサービスの質はいささか落ちるように感じた。

ガイドの家を過ぎるとすぐにホテル「ルレードラポルトマヨ"Le Relais de la Porte Mayo "に到着した。このホテルはフランス人が経営しており、主として欧州からの旅行者向けに、一般的にアフリカに対して抱くイメージを形にしたようなつくりとなっている。(写真は翌朝撮影)すなわち、今まで道沿いにたくさん見てきた藁葺き三角屋根の小屋がひとつの部屋になっていて、そのような小屋が庭に6〜7棟点在している。昼間には、アフリカ風のアクセサリーや布を販売している露店も出る。カメルーン北部は、観光産業の発達していないカメルーンのなかにあってツーリズムの評判が比較的高いところであり、ここマルアの町は、マンダラ山地を訪れるヨーロッパ人などの観光客の拠点として利用されている。このような需要を満たす施設が、いくつか存在する。

部屋に荷物を置くと、私たちはすぐに夕飯を食べることになった。レストランは野外にあり、アフリカの星空のもと、フランス風のとても美味しいコース料理を食べることができた。宿泊者は外国人が多く、隣の席にはNGO関係者と思われるドイツ人男性の2人組が座っていた。この辺に来る外国人は、カメルーン国境に接しているチャドの首都ンジャメナ経由から入ることが多い。

夕食を食べ終わり、小屋に戻った。部屋を一匹の蚊が飛び回っていた。マラリア蚊に対する警戒心が強まり、蚊と格闘した後、就寝した。


(下野 皓平)

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