ヤウンデ市内視察



 この日は、前日に引き続きヤウンデ市内の視察を行った。夕方にはカメルーン北部のンガウンデレゆきの夜行列車に乗り、この巡検唯一の鉄道の旅をすることになる。とはいえ、ヤウンデは2日目、カメルーンでの生活にも慣れて、少し気持ちに余裕が出てきた。朝から天気も良く、早朝は散歩に出かけたゼミ生もいた。連泊したソマテルホテルのチェックアウトを済ませ、一行は車に乗った。

▽郵便局へ〜市内の様子

 一行はここヤウンデから日本へ国際便を出すべく、市内の郵便局に向かった。
 街では、人々の服装はジーンズにシャツといったカジュアルなものが多く、この点はあまり日本と変わらない。 市内の中心部は特に道の状態もよく、歩道もきれいに整備されている。だが、道幅が広く、横断歩道は少ないため、散歩のときはクルマにとりわけ気を使うので、あまり歩きやすいとはいえない。
 市内には所々ロータリーがあり、「エトワール広場」と呼ばれる最も大きなロータリーでは、七つの道路が一同に会している。こうしたロータリーからは、フランスの都市計画の影響が見て取れる。パリの、凱旋門を中心に道が放射状に伸びていることを連想すれば納得できる。

▽がらんとした郵便局で売っていた小泉元首相の記念切手

 市内南部にある、エトワール広場に面した中央郵便局に到着した。郵便局は、壁が白いタイル状で、二階建てほどの大きさである。白地に、ところどころ青を窓枠や柱に用いたり、窓も丸型であったりと、設計もフランス的で凝っている。入り口の上には、「POSTES TELEGRAPH…」とあり、設立年であろう「1939」という数字が見えた。 郵便局の外壁は二ヶ所横に繰り抜かれていて、その二つの細長い穴の上部にはそれぞれ‘カメルーン’‘海外’とうっすら書かれていた。これはポストであるようだ。ポストは直接郵便局の中に郵便物が入るため、安心感がある。ちなみに、街中でポストらしいものを見かけることはなかった。
 郵便局周辺では、路上で物乞いをしている人々がいた。私たちにも現金を求めているようであった。初めは、物乞いしている人に対して何かをあげることには、自分が上の立場であることを示しているようで抵抗があった。チップも同様に、自分よりも年上の人に非正規のお金を渡すことに申し訳なさを感じていた。しかし、巡検に出発する前にゼミで学んだように、チップや物乞いにカネを渡す行為は、一種の富者から貧者へのインフォーマルな富の社会的再配分という機能をもっており、持つ者が物乞いの人に何かを渡すことは暗黙のうちに当然とされている面がある。物乞い恵まなかった外国人を後で襲撃するという事例もあるようだ。
 郵便局の建物の中に入ると、中には数人の客がいただけで、がらんとしていた。外から見た郵便局の大きさとは裏腹に、局内は窓口があるだけで、それほど広くなかった。このとき、職員がいたのは郵便の窓口だけであった。局内には、ウエスタンユニオンの窓口も置かれていた。
 私たちはそれぞれ窓口で切手を購入した。出てきた切手は、なんと日本のカメルーンに対するODA援助を記念した切手であった。その絵柄には、カメルーンのビヤ大統領と小泉元首相の肖像、そして日本が作った学校の写真があった。他のゼミ生と違い私は手紙を出さなかったので、記念に切手だけでも買って帰ろうと思い、ガイド氏に2000CFAで買えるだけの種類の切手を買ってほしいと伝えた。すると、出てきたのは先述のODAの切手(1枚100CFA)と、1982年のサッカー大会を記念したカメルーン代表の切手(1枚400CFA)の二種類だけである。どうやらこれしか切手はない様子であった。もし切手がこの二種類しかないならば、切手を通じて日本の小学校建設というODA事業はかなりカメルーン国内に浸透しているようにも考えられる。
 日本にはがきを送るのに、200CFA分の切手が必要であった。このとき送ったはがきは、1ヵ月半後、ゼミ生が日本に到着してからちゃんと宛先に届いた。しかし、ゼミ生によっては、宛先が同じ日本であるにもかかわらず、2枚のはがきの到着時期に2週間も違いがあった。カメルーンからはるばるはがきが届いたことに感動すると同時に、郵便物の到着時期など不確実な部分があるようだ。

▽官庁街の近くで繁盛する高級フランス洋菓子店

 中央郵便局で先生は荷物をEMSにて日本に送ろうとしたが、中央郵便局では受け付けていない。官庁が集まった地区にEMS専用の取扱所があるということで、そこに行くことになった。
 発送手続きが済むまでの間、ゼミ生は市内を散策した。先生の荷物を送る手続きは30分程度かかり、日本までの送料は9キロの資料で3万円程度かかったということであった。この荷物は10日位で日本に届けられた。
 先生と別れてすぐに、カメルーン人同士のトラブルを見かけた。車をめぐるトラブルだろうか、ドライバーと通行人らしい女性が口論していた。というよりも、女性が一方的に何かをまくし立てていた。何があったのだろうかということより、その女性の迫力に圧倒された。
 付近の市内を歩く。きれいに整備された道路上を、車がスピードを上げて通り過ぎていく。タクシーが目立つ。車線はきちんと分離されており、中央には分離帯も多く、道路を横断するのに便利であった。街灯も整備されていた。ベンチも路肩に多く設置されており、辺りはのんびりとして雰囲気で治安もよいように感じた。
 歩道には露店があり、様々なものを売っていた。剥いたパイナップルから、タバコ、駄菓子のような食べ物や雑貨のほか、革靴やベルトといったものまで扱っている店もあった。そういった買回り品が路上で販売されていることに驚く。
 しばらく歩くと、Avenue de l’independenceという通りに、「カラファンタス」というという名前のケーキ屋を発見した。木目調でかなり新しく、日本の高級住宅地の中にあってもおかしくない洒落た佇まいをしている。店前にはたくさん車が停まっていて、店内は多くの客で賑わっていた。
 中に入ると、ショーケースの中に、色使いが鮮やかな、きれいに装飾されたフランス風のケーキが並んでいた。さらに、アイスクリームもあり、20種類程ある中から選べるようになっていて、パンも品揃えが豊富であった。私たちは、アイスクリームを買って食べることにした。コーンの上に二種類のアイスを選べて、値段は500CFA、日本円にしておよそ125円である。私は、キウイ味とチューインガム味を選んで食べた。全体として、売っている味の種類はそれほど日本で売っている種類と変わらなかった。買ったアイスを食べてみると、キウイ味もチューインガム味もかなり洗練されており、とても美味であった。
 このようなケーキ屋は、カメルーンの首都ヤウンデに、かなりの数の富裕層が存在することを示している。店先に停まっていた車から、自家用車を所有する層がいることがわかる。アフリカ経済に特徴的な、二重経済の構造の上の端を垣間見る思いがした。

▽カジュアルな服装のムスリムたち--イスラム地区のマーケット

 このあと車で、私たちのホテルの近くまで戻り、イスラム地区のマーケットを視察した。
 先ほど散策した官庁街と違い、ここには露店はそれほどなく、固定した店舗をかまえた店が多かった。家々は錆びたトタン屋根の古い平屋が多く建ち並び、空には電線が張り巡らされ、道も入り組んでいて雑多な印象を受けた。カーペットを扱っている店や、薬局、丈の長いワンピースのような服を扱っている店などもある。なかでも印象的なのは、吊り下げられた肉であった。店に冷蔵施設がないのだろうか、常温で肉という腐りやすい物を売るために肉は燻製が中心で、肉屋では白い煙が上がっていた。
 この地区だけでも、ムスリムの人々は一通り生活必需品が揃えられるくらい、店が多様である。カメルーン国内のイスラム地区はもともと北部であるが、首都にはさまざまの機会を求めてムスリムの人々が集まってくる。この地区は、そのような人々にとって、重要な供給の場になっているのだろう。ここでは、白い装束を着て丸い帽子をかぶったイスラムの衣装もちらほらと見かけるものの、多くはカジュアルな格好をした人たちであった。非ムスリム社会の中にあって、ムスリムの規律はそれほど原理的に守られていないのかもしれない。

▽ここにも中国商人のプレゼンス--セントラル・マーケット(公営市場)
 次に私たちは、セントラル・マーケットを視察した。ここは、市営の施設で、ヤウンデはもちろん、カメルーン全体の供給拠点という様相である。中心にあるのは、らせん状のローマのコロッセウムのような、円形で5階建て程度の建物である。そこは、卸売の機能を持っている。その周辺には、パラソルや簡易な屋根の下で様々な小売店が賑わっている。
 小売店で売っているものは、衣服、特にサッカーのユニフォーム型の服が目立つ。また、たくさんのサッカーボールが売られていて、いかにカメルーンでサッカーが人気かがよく分かる。サッカーのユニフォームや子供用のバックパックに、カメルーン代表エトーの名前を見つけた。バッグ店では、アディダスやナイキ、プーマといったスポーツブランドのバッグのほかに、プーさんやスパイダーマンの姿もあった。おそらくほとんどが、中国製を中心とした、ライセンスを取っていない模造商品だろう。さらには石鹸の塊や、携帯電話のプリペイドカードも販売されている。本も、露店で販売していた。カメルーンのビヤ大統領の額つきの肖像も売っていて、売れ行きが気になるところだ。
 らせん状の中心の建物の中に入った。コンクリートでできたこの建物自体は古く、壁にひびが入っていたり、黒ずんでいた。私たちは螺旋の廊下のような通路を上がっていった。通路には包装紙やごみが散乱しており、通路を余計に狭くしていた。建物の中の店舗では、生活に必要なものが何でも揃いそうな品揃えであった。ただ、値段は交渉制なのか、値札など値段が分かるような表示はどの店にもなかった。店の前には、ダンボールが所狭しと積まれていて、バケツは何十と積み上げられ、ボールも数十個単位で袋に入っている。電化製品、鞄、ベルト、靴、衣服、洗剤、傘、靴下、塩ビパイプ、さらにはビヤ大統領の肖像も置いてある。ある特定の店舗は、たとえば傘なら傘で様々な種類のものを豊富においている。食料品は、建物周辺のテントで売られていて、この建物の中では売られていない様子であった。
 らせん状の建物を出ると、その向かい側にある一角に、中国語で書かれた看板があり、中国人が店員の小売・卸売の店があった。消費財だけでなく、工具や機械など生産財まで、手広く扱っている。中国人の店員の姿も多かった。これらの商店は、カメルーン全体の市場に対して卸売りをする機能を有している。中国人が商業を担っているのは、ドゥアラやヤウンデなどその国の大都市の階層までである。そこから出て行った商品は、地元カメルーン人の手によって、地方の市場で小売される。
 ところで店の前を歩いていると、店の人から「ジャポネ」と声をかけられた。アフリカに来てからというもの、中国人と間違われてばかりであったため新鮮な驚きであった。朝には、市内で「Je m’apelle Yamamoto.」(私は山本です)と通行人が私たちに向かって話しかけてきたこともあった。それなりに日本の存在もカメルーン内で浸透しているのかもしれない。ところで、山本とはどの山本さんをさしていたのだろうか。町では「ヨージヤマモト」というブランドの模造服を着た人が多く、そこから広まったのだろうか。

▽今夜の寝台券を無事予約--乗客と物売りでひしめく駅

 この日は夜行列車で北部のンガウンデレへ向かう予定であった。しかし、カメルーンではその切符を発車当日にしか買うことができない。このため、切符を入手すべく、私たちは、前日にインタビューで訪れたヤウンデ駅に向かった。
 ヤウンデ市内に、鉄道駅は一つしかない。駅舎は鮮やかな赤い屋根が目立つ、見た目にきれいな駅である。駅舎の時計はちっとも合っておらず、駅の時計といえば正確の代名詞のような日本の鉄道のイメージとは程遠い印象であった。
 駅に到着したのが午前10時半過ぎであった。このときすでに、駅は荷物を多く持った人でごった返していた。私たちの車は駅前の駐車場に停まり、ガイド氏がチケットを買いに向かった。車の中から駅の様子を見ていると、駅の2階部分にも大勢の人がいるのが見えた。こうした人の多さは、カメルーンにおいて鉄道が認知されていることを象徴している。国の北部に行くには、事実上、鉄道しか交通手段が無いのだ。駅の中には入れないほど人がいるのだが、人の流れがほとんどない。駅が混雑していてスムーズに切符の販売ができていないのだろう、チケットを買いに行ったガイド氏もなかなか戻ってこない。
 私たちが車で待っていると、駐車場で停まっている車相手に販売している商売人が、私たちの車にも物を売りにきた。子供の売り子もいた。途上国ではある程度の年になると子供も物売りになり、家計に所得を入れるようになるため、子供を生めば生むほど家計が助かる。それゆえ、子供が増えるほど所得が上昇するから、人口は急増する。
 彼らは水やお菓子を中心に売っていたが、DVDを売りにきた人もいた。ゼミ生の一人が成人向けDVDを買おうとしたところ、相手は最初に冗談のつもりか100万CFAと吹っかけてきた。交渉の末、結局彼は2000CFAでそのDVDを購入した。DVDはカバーが裏返しで、売り子のかごの一番下に隠されていた。見るとそのDVDはフランスから輸入されたもののようで、カメルーンでは所持が規制されている様子であった。
 そうこうするうち、ガイドが戻ってきた。寝台券の予約に成功したという。チケットの実物は、午後にもう一度とりに行かなくてはならない。

▽ヤウンデを見渡す丘の上に、キリスト教団体の運営する芸術博物館

 このあと私たちは、郊外に向かい、ヤウンデから北の山の中腹にあるカメルーン美術館を目指した。
 次第に車は山を登っていき、ヤウンデの町並みが見渡せるようになっていく。その中でも、市内の中心にある丘の上の国際会議場と、大統領官邸が一際目立つ。大統領官邸は、たとえ遠景であっても撮影禁止ということだった。
 ホテルを左に見て、九十九折の道を登ると、博物館に到着した。敷地にはベンチが置かれ、芝生があり、ベンチには3人の少女が座っていた。白いワンピースを着ている子に、きれいな赤いロングスカートをはいている子もいて、ペットボトルの水を行儀よく飲んでいた。髪の毛もお洒落に結ってあり、どうやら上流階層のお嬢様のようであった。
 ここからのヤウンデの眺めはとても素晴らしい。雲こそあったが、天気もよく、遠くの地平線も見える。遠く先まで、ずっと緑に覆われているのが分かる。
 博物館は、真っ白な外壁、緑色の屋根の、シンプルな建物であった。というのも、この博物館は、修道院の附属であったからである。修道院はベネディクト派である。博物館の二階の廊下はテラスのようになっていて、中庭のきちんと手入れされた芝生と様々な木々を見渡すことができる。
 中に入ってみると、アフリカの工芸品を中心とした展示がされていた。展示もシンプルで、展示品の説明も横の小さな紙に多少書いてある程度であった。日本と違って、ショーケースの中に入っていないものは実際に触れることができた。
 入り口付近には、パイプがずらりと並んでいた。細長いコーン型のものから、先の方に壷がついたような形のツチノコみたいな形のものまで様々である。長いもので80cmはある。コーン型のパイプは木で、ツチノコ状のものはブロンズでできており、重量も相当ありそうだ。パイプにはブロンズをくりぬいて網目状にデザインが施されており、一つとして同じ模様はない。その加工技術の高さが伺えた。
 人物をかたどった人形や立像も展示の中心となっている。人形は大小さまざまだが、特徴として手足が細く、頭が大きい。目は宇宙人のようで、鼻も横に大きく、唇ははれぼったい。鼻や唇は、やはりカメルーン人をイメージしたのであろうか。土偶によく見られるような女性をかたどった像もあり、種族を残したいという願望がうかがえる。
 それにしても一つ一つの工芸品の装飾が細かく、とある壷には一つ一つ精巧に作られた人形が10体ほどつけられ、壷自体には縄を巻いたような模様がついている。高さが1mはある、小さい樽を積み上げたような立像にも、小さい人形が数十体あしらわれている。このように、全体的に人を中心とした工芸品が多い。パイプにも、パイプの先の太った部分が人形であるものもあり、工芸品の椅子にも背もたれや足の部分が人形であったり、同じくベンチにも手をつないだ人形が足と足の間に置かれていたりしていた。
 鐘も展示されていた。日本では、鐘といえば吊り下げられたものを突き、たたくのに対して、カメルーンの鐘は地面に置かれ、空に向かって口を空けている形状で、棒でその鐘の中をたたく仕組みであった。
 壁面には、レリーフやお面が展示されていた。レリーフには、戦いの様子などが描かれていた。肩を正面にして描かれている人物が多く、エジプトの壁画が思い出された。お面は牛や口紅をつけた女性のものなどあり、ガイド氏が実際にそれをつけて踊ってくれた。お面はガイド氏の顔の3周りくらい大きく、片手で抑えてないといけない。目の部分に穴はないなど、所々日本のお面とは異なる部分があった。
 こうして見学を終え、私たちは博物館を出た。駐車場ではバイクでツーリングをしている若者や遊んでいる子供たちが、ものめずらしそうに私たちのほうを見ていた。

▽カメルーン再統合のモニュメント

 昼食は、博物館にほど近い、昨日と同じレストランでとった。そのあと、私たちは立法・行政機関の集まる地域を視察した。
 国会は、比較的シンプルな建物で、ここも写真撮影は禁止されている。
 私たちは、国会のそばにあるモニュメントで下車した。ドイツが作った植民地カメルーンは、第一次大戦のドイツの敗戦とともにフランス統治圏と英語統治圏に分かれてしまった。このモニュメントは、その再統合の承認を記念したものである。
 実際に見ると、目立ったモニュメントが二つある。一つは、高さが10メートル以上はあるような螺旋型のモニュメントだ。二つの螺旋が次第に近づいてきて、頂上で一つになり天を目指していくさまは、まさにカメルーンの再統合を象徴している。
 もうひとつは、裸の筋肉質の男が子供たちに囲まれながらたいまつを高々と掲げている石像である。その子供たちは笑顔で、男は誇らしげに空を見つめており、再統合の喜びが見る人にも伝わってきた。

日本の援助で補修した国立スタジアムは、中国製スタジアムができるとスクラップ



 その後、私たちは再び郊外に出て、北東の丘の上に立つ国立スタジアムに向かった。スタジアムは日本がODAで修理の援助を行った施設で、日本の援助が実際にどのように行われ、利用されているかを視察する目的である。
 もともと国立スタジアムは、サッカーのアフリカネーションズカップの開催のためにイタリアの援助で1972年に造ったものだ、とガイド氏は教えてくれた。
 スタジアム周辺は広い空き地になっていて、人々がいたるところでサッカーをしていた。統一されたユニフォームを身につけ、本格的にサッカーをやっている人もいれば、普段着で気軽にサッカーを楽しんでいる人もいる。カメルーンのイメージどおり、サッカーの人気はかなりのものであるようだ。
 スタジアムの入り口付近では、人々が砲丸投げをしていた。ガイド氏によれば、この日は体育大学の選抜テストをやっているそうで、カメルーン各地からそのテストの参加者が集まっていた。スタジアムの外では飲み物も販売されており、あたりは運動会のような雰囲気であった。また、駐車場もしっかり整備されており、‘予約’や車椅子の絵が描かれた看板が駐車スペースに設置されていた。駐車場は使途によって駐車する場所が決まっているようだ。
 入り口に近づくと、私たちは、日本とカメルーンの国旗が並んだ記念プレートを発見した。日本のODAによるスタジアム補修を記念したものである。真新しいプレートには、2007年と記されていた。後で外務省のホームページを見たところ、このスタジアム修理は2億9千9百万円の無償援助であったということだ。 (外務省http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/18/rls_0620e.html)
 スタジアムは大きく、サッカー等の規格が共通なので当たり前だが、日本のスタジアムとほとんど同サイズで、18,000~19,000人収容できるということである。ある。スタジアムは壁面がコンクリートでできた骨組みだけになっており、かなり風雨にさらされやすく、しかも雨季には激しいスコールがやってくるのであるから、老朽化も早そうであった。スタジアムの向こう側の観客席は三段になっており、観客席がカメルーンの国旗の色をイメージして上から緑、赤、黄色に塗装されている。入り口側の観客席の方は、国旗に忠実に塗装されている。これら観客席は、日本のODAによって塗装された。ただ、観客席といっても段差になったコンクリートの上に座るもので、椅子は存在しなかった。向こう側の観客席に人はいなかったが、入り口側の観客席は参加者や観客で賑わっていた。
 内部のトラックではちょうど徒競走が行われているところで、こちらも体育大学の選抜試験の最中であった。競技者や関係者が数百人ほどおり、次々に選手がグラウンドを走っていた。トラックの中のサッカーコートの芝生もきれいに整備されている。グラウンドの中に入ることはできなかったので、できるだけグラウンドに近づいてよく見ると、体育大学の選抜試験の割には意外と足が遅い人が目に付いた。体型も決して筋肉質ではない人も多い。一般に、カメルーン人というと高い身体能力を誰もが持っているかのような印象を抱きがちであるが、それは一部の人の努力によるものなのだろう。
 日本政府がスポンサーの「ODA民間モニター」がこのスタジアムを2007年夏に視察し「カメルーン国民が愛するサッカーの聖地を日本人が改修することは、両国友好の大きな礎となるに違いない」(『平成19年度ODA民間モニター報告書、カメルーン』ODA民間モニター事務局、15ページ)などと絶賛している。だがここで、私たちは、報告書に書かれていない衝撃の事実をガイド氏から知らされた。
 日本からの3億円の無償援助で補修されて真新しい様相となったばかりのこの「サッカーの聖地」は、現在計画されている中国による無償援助の新しい国立スタジアムが完成すると、スクラップになってしまうというのである。一体何のために、日本は3億円の資金を費やしたのだろうか。カメルーン政府が「要請」してきたので、ただ唯々諾々と日本人の血税を差し出したのかもしれない。日本の無計画な援助の結末に、私たち一同は、力なく笑うしかなかった。
 中心地区の「代々木体育館」に似せた体育館、そしてそれに続き、最もプリスティジアスな新国立スタジアムの建設と、中国のカメルーンでの積極的な援助活動に驚き、私たちは、その勢いと、中国のプレゼンスを誇示するやり方にあせりを感じざるをえなかった。ガイド氏は、今後もこのスタジアムは「第二競技場」として使用され続けるかもしれない、といって、落胆の表情がありありの私たちを慰めてくれたが、中国の援助による新しいスタジアムが完成したら、日本の援助の意義も薄れてしまうだろう。
 私たちはODAの問題点、すなわち日本政府の戦略性のなさ、すなわち日本自らが援助による相手国の将来像についてビジョンをもつことなく、相手政府の「オーナーシップ」を尊重するという美名の下で「要請」されるままに援助を行うことのマイナス部分を目の当たりにしながら、苦い思いでスタジアムを後にした。

再び市街地へ



▽現代建築に黒人の聖像--ノートルダム大聖堂

 次に私たちは、再び中心市街地に戻り、市街地南部のノートルダム大聖堂に向かうことになった。途中渡った橋からは、この日乗るはずの列車の線路が見える。
 スタジアムを出た辺りから、次第に空の雲が厚くなり、天気が怪しくなってきた。スコールはたいてい午後、夕方近くに降ることは、ナイジェリア、カメルーンに来てわかったことである。案の定、突然激しい雨が降ってきた。
 ノートルダム大聖堂は、最近出来た現代的な建築である。雨で、教会に駆け込むようにして入っていったため、外からじっくり大聖堂の姿を観察することができなかった。内部は、大聖堂というだけあり天井が高く、天井はアーチ状である。天井が高い分柱も太くなっている。内壁は白く、床にはひざまずくための足置きが付いたベンチが並べられていた。両側、背面の窓がステンドガラスになっており、特に背面二階部分にある大きなステンドガラスは模様が細かく、様々な色つきガラスがあてがわれている。シンプルな白い壁面と鮮やかなガラスの対比がとても美しい。
 教会の正面を見ると、人の絵が二つあり、二人重なって両手を広げ、こちらに手を差し伸べている。顔は褐色で赤みがあり、黒人のイメージだ。ヨーロッパ人は、キリスト教のカメルーンへの土着を狙って、このように黒人の像にしたのだろう。日本にもカトリック教会はたくさん存在するが、聖像はどこもあくまで西洋人の姿であり、アジア人の像がない。これとは対照的で、大変興味深かった。祭壇には、小さな十字架や蝋燭が灯っていた。熱心にお祈りをしているカメルーン人の姿も見られる。
 スコールはもはや滝に近いといってもいい。しかも、激しい雨はなかなか衰える気配がない。私たちはしばらくここで足止めされることになった。教会内でじっと雨宿りしている人々もいた。20分近く滞在しても、結局雨が収まらないので、車に入り口のすぐそばに来てもらい、乗ることになった。だが、入り口から車までの1〜2メートルを通るだけで、かなり濡れてしまった。

▽高級スーパーで、夜行列車の買出し

 夜行列車で北部に向かう時間が次第に近づいてきた。ガイド氏の話によると、列車内では水など入手できないということだった。そこで、スーパーで買い出しをすることになった。私たちは、外国人や富裕層を対象としたスーパーに向かった。
 スーパーは、市内で見てきたマーケットとは違い、日本でいえば紀ノ国屋や明治屋といった趣の高級店である。店先には子供用自転車が並べられてあった。店内に入ると、レジの隣にあった台上に監視員が常駐していて、客が万引きをしたり、店員が売り上げを盗んだりしないよう、店内を見張っている。清潔な店内にきれいに棚に商品が陳列されている様子は、日本のスーパーとほとんど変わらない。かごやカートも置いてある。レジ付近にガムがおいてある点など、販売の戦略も似ている。家電製品も置いてあり、テレビや洗濯機、冷蔵庫などを扱っていた。やはりサムスンのような韓国製品が多い。家具も、ガラスのテーブルや棚、椅子のようなものが置いてあった。酒類も豊富で、ワインも高級なものからそれなりのものまで幅広く置かれている。さらに、ニベア、ダブといったおなじみの石鹸ブランドや、カメルーンのスタンダードであるマギーソースも並んでいる。もちろんコカコーラやスプライトもある。なんと、醤油も、日本と同じようなびんにつめられて売られていた。文房具もある。売っており、かなり品揃えが豊富である。
 ここで、このスーパーでの、商品の物価を列記していきたい。
(※CFA価格を4分の1にするとおおよその日本円に換算できる)

・ペットボトルの水 350CFA(以下単位略)
・ワイン 5,000〜15,000
・スニッカーズ(チョコレートバー) 400
・プリングルス(ポテトチップス) 1,700
・板チョコ 1,000
・パスタ一袋 1,000
・マギーブイヨン 850
・リプトン一箱 2,200
・歯ブラシ 300〜800
・紙おむつ 6,000
・アリエール 300
・ドライヤー 6,500
・カッター 200
・キーボード(楽器) 55,000〜185,000
・洗濯機 202,500
・テレビ(三星製)26インチ 340,000
・テレビ(ウェストプール製)14インチ 75,000

 一部にはむき出しの石鹸が売られており、値段もひときわ安かった(一個100CFA)。これは地元の人向けのようであった。
 この高級スーパーはインド人が経営しているようである。私たちが行ったラゴスの高級スーパーは、レバノン人の経営であった。中国人商人が大挙してアフリカの押し寄せてくる前は、インド人やレバノン人がアフリカの高級消費財の流通を握っていた様子がわかる。
 私たちは、水やお菓子、ガムなど、列車内で必要なものを購入していった。
 その後、先生はユーロをCFAに両替するために両替所へ向かった。ヤウンデにある両替所でも、隣国ナイジェリアの通貨であるナイラは、相手にしてもらえなかった。


いよいよ夜行列車へ



 買出しを済ませ、再び駅へと向かった。ガイド氏が再度切符を取りに行き、しばらく駅の駐車場でチケットを待った。戻ってきたガイドの手には寝台券がしっかり握られていて、一人ひとりチケットが手渡された。取ったチケットは、四人部屋一つと二人部屋一つである。値段も多少違い、四人部屋は一人当たり20,000CFA、二人部屋は一人当たり22,000CFAで、やはり二人部屋のほうが高かった。
 いよいよ出発の午後6時が近くなり、私たちは駅構内に向かう。
 相変わらず駅は人で溢れかえっている。長距離夜行列車ということで、どの乗客の荷物もかなり大きい。
 駅の中は小さく、事務所と待合場所があるくらいで、売店などは存在しない。夕方で駅の中は薄暗かったが、電気はついていなかった。駅の中にはちゃんとデジタルの時計があり、時刻表もあった。ガラス張りの窓から、乗るべき列車が停車しているのが見える。発車が6時ちょうどと聞いていたが、このときすでに午後6時10分前。多くの人がまだ駅にも外にもいるので、出発が遅れるだろうと思った。みな、遅れるのを前提に行動しているようである。
 プラットフォームに向かうためには、いったん二階に上がらなくてはならない。そこで私たちが乗るンガウンデレ行き夜行列車を眺めた。列車は屋根が銀、車体はクリーム色と赤のツートンカラーで、車体はきれいに塗装されている。駅には架線がなく、‘電車’ではないことが分かる。それにしても車両が長い。先頭のディーゼル機関車を合わせると14両もある。中央線が10両であるから、その長さ、収容力はなかなかのものだ。運行本数は少ないにせよ、旅客需要があることをうかがわせる。階段を下り、駅舎と列車の間には二本あるレールを簡易な踏切で渡って二本目と三本目の間のプラットフォームへ移動する。
 私たちが乗るのは、コンパートメント(個室部屋)になった寝台車である。この列車の編成の中では、最も高級な車輌だ。4人部屋と2人部屋がある。デッキへの登り口で、4人部屋に泊まるゼミ生と2人部屋に泊まる私と先生が別れた。4人乗りのゼミ生たちはすぐに列車の中に乗れたようだが、私たちは列車の前で女性係員に制止され、なかなか乗れない。係員はフランス語で、さっぱり分からなかった。すでに6時はとっくに過ぎている。しばらくして乗車の許可が得られ、指定された寝台に向かった。
 ここで、カメルーンに来てからお世話になったガイド氏に別れと感謝を告げた。
 2人部屋の個室に入る。中には三畳ほどの部屋に二段ベッドとちょっとした洗面台が付いている。室内はきれいに掃除されているものの、ベッドや備品、壁などは老朽化して、かなりくたびれていた。車齢は、30年はありそうだ。部屋の鍵は付いているが、中からかけられるだけなので、誰かが部屋に残らないと防犯上危険だ。二段ベッドのはしごは立て付けが悪く、がたがたする。私は上段に寝ることになったが、上に移動すると、ベッドは日本人の私より体格のいいカメルーン人が利用するとは思えないほど狭い。よほどのことがないと上から落ちはしないだろうが、身長170センチの私がやっと上体を起こすことができるくらいで、天井は結構圧迫感がある。4人乗りの部屋を見に行くと、2段ベッドが2つ向かい合って置いてあり、その分部屋自体は広いので、それほど部屋の狭さを感じなかった。 
 通路には窓が付いており、景色を眺めることができる。灰皿も一定間隔で備え付けられている。通路には、席を取れなかった人が、出入り口付近を中心に溢れていた。
 列車は、とうに予定の出発時刻を過ぎているはずなのに、なかなか発車しない。最初は夕方だったので電気がなくてもよかったが、次第に日が暮れていき、部屋も暗くなっていく。それでも電気はつかない。部屋のドアを開けていると通行人の邪魔になるため、閉めていると、この時期はやはり息苦しくなっていく。窓を開けようと試みたが、下に引っ張って開けるタイプのその窓はびくともしない。精一杯やって10センチほどあけることができた。同時にマラリア防止のため蚊取り線香も焚かなければならないだろう。
 なかなか発車しないため、食堂車の様子を見に行った。本来ならば私たちも食堂車で食べるはずであった。ところが、実際に見に行ってみると、すでに席は満席であり、通路にも人が溢れている。どうやら寝台車の切符を取れなかった人が居座っている様子で、ここで、この列車が定員を相当オーバーして走るのだということを知った。結局、食堂車での食事はあきらめることになった。
 まもなく午後7時になろうかというそのとき、汽笛が2回鳴った。部屋に明かりが灯り、少ししてやっと列車が走り出した。七時が定刻だったのだろうか。
 列車はゆっくりと走り出してゆく。列車は揺れが激しいが、景色の移り変わりを見ると、スピードは40km/h、出ていても50km/h程度くらいではないかと思った。振動が激しいのは、線形が良くないこと、また枕木も鉄でできていることなどがその要因であろう。鉄枕木は、メンテナンスには良いだろうが、あまり振動を吸収できないようだ。
 トイレットペーパーが各部屋に一つ配られた。しばらくして、女性乗務員さんが夕食の注文を取りにきた。夕食にはライスとフランスパンにフライドポテト、チキンにサラダといったものであった。たまねぎにトマトを煮たものもあった。ラップにつつまれた状態で料理は登場した。テーブルが部屋になく、ベッドの上におぼんを置いて食べた。料理は、美味しかった。食べ終わった食器は、通路に置いておくと乗務員さんが回収してくれた。
 トイレは、各車両に設置されており、列車によって陶器のタイプ、ステンレスのタイプがあった。トイレットペーパーを持参し、トイレに向かう。トイレには電気がないので、懐中電灯を持参していかねばならない。トイレの前には、席がない人が座っていたり、床に寝ていたりした。トイレを開けてみると、席がない人が居場所を求めてトイレの中にも入ってきていた。使うことを伝え、出てもらう。また、トイレによって鍵のきちんとかからないものもあった。それに、洋式であるのに、座って落ち着いて用を足すのには汚すぎる。床もなぜか水浸しであった。そのため、中腰の体勢で、一方の手で鍵のかからないドアを押さえ、片一方の手で壁に手を当てて列車の激しい振動のなか体を支えながら用を足すということを強いられた。朝になって気づいたことだが、トイレの中を覗くと外の地面が見えた。日本のJRのようなタンク式ではなく、汚物は客車の外にそのまま流し、沿線に微細な粉末として飛び散らせて処理しているらしい。もっとも、かつての日本国鉄も、こういう飛び散らせ式列車トイレだったが。
 1時間ほど走って列車が止まった。駅に着いたようだ。外には新たに乗るお客さんもいる。時間はほぼ8時。この後、次の駅に到着したのが9時過ぎであった。およそ1時間間隔の場所に定期的に駅が存在しており、深夜でも列車はその一つ一つに停まってゆく。単線で、上りと下りの列車を交換できるのは駅だけだとすると、この線では、上り・下りとも2時間間隔でしか列車を走らせられないことになる。輸送の容量には、かなりの限界が感じられる。
 乗客には、様々な人がいる。子供連れの家族から、銃を持った軍人風の男、ヨーロッパ人の同年代の人の姿もあった。通路で中年のカメルーン人と少し話をした。彼はンガウンデレが生まれ故郷で、ヤウンデで働いているとのこと。今回は帰省だそうだ。イスラム教の彼は、ンガウンデレまでの残り到着時間や、ンガウンデレの名前の由来となった山の話をしてくれた。白人のカトリック修道士の姿もあった。
 車内には、ときどきマンダリンオレンジを売りにきた人がいた。物売りは、深夜にもかかわらず、途中の停車駅にも沢山いた。客が駅のホームにいる売り子に注文すると、その注文に売り子が集まってきて喧嘩になった。駅では、乗客とのトラブルを防止するためか、警官の見張りが立っていた。
 午後10時を過ぎたところで、電気を消して就寝した。夜は騒ぐ人もおらず、列車の振動だけが響く車内で、ゆっくり寝ることができた。



(原田 洪大)

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