ボヤーの視察――ドイツ植民地時代の面影に触れる


▽残されたドイツ植民地時代の建造環境――ボヤー市内視察

朝目覚める。1000mと標高が高いため、太陽の日差しは若干強く感じるが、空気は涼しく、まさしく高原の気持ち良さであった。 空は晴れていたが、あいにく富士山よりも標高が高いカメルーン山(4040m)の方向には厚い雲がかかり、 頂上を眺めることはできなかった。雨季だからやむをえないとはいえ、やはり残念である。 毎年2月には、カメルーン山マラソンが行なわれ、標高差3000m、距離41,6kmを登って降りるマラソンに世界中からランナーが集まるという。

朝8時にホテルを出発し、ドイツ植民地時代の建造物が残る市内中心部を視察に行く。

ボヤーの町は、大別して二つに分けられる。一つは、「Government Station」 と呼ばれるカメルーン山のふもとの行政機関の集積地であり、もう一つは「Buea Town」と 呼ばれるホテルや商業施設が集積する地域である。

1901年から1909年までドイツのカメルーン植民地の首都であったボヤーには、 ドイツ植民地時代の建物が比較的良好な状態で残っている。 車からカメルーン山の方角に、ドイツの植民地総督官邸として建設されたヨーロッパ風のお城のような建物が見える。 カメルーン山のふもとの方向へ走るに従い、ドイツ植民地時代からの民家が、道路沿いにしばしば確認される。 民家は、波型のトタン屋根、白い壁、大きな窓の質素な作りをしている。中には高床式の建物もあった。 当時は、ドイツ人の植民地官僚などが住んでいたのかもしれないが、今でも現地の人々が住居として使っているようだ。 ロコジャでもイギリス植民地時代の建物をいくつか見たが、明らかにこちらの方が、保存状態が良く多くの建物が残っている模様。

私たちは、次第に、旧ドイツ植民地の行政地区に入ってきた。この地区で、カメルーン山のふもとの旧総督官邸を中心に、 放射状に、行政機関の建物が立地し、さらにその外側にドイツ統治時代に建設された住居やドイツ人墓地が配置されている。 ドイツ人の墓地は、小石が敷き詰められよく整備されていて、10個程度の墓石が並んでいる。 墓地も墓石も、ロコジャよりずっと綺麗に保存されている。ドイツの援助機関であるGTZによる環境プロジェクトの看板も発見した。 この墓地も、カラバルの植物園同様、植民地時代の遺産を保全するため、 旧宗主国ドイツの政府ないしは民間の資金がでて整備されているのかもしれない。

更に道を登っていくと、行政の中心地に到着。州政府の役所や、州知事の事務所、警察・軍の施設がある。 そして道を最後まで登っていくと、植民地時代の総督官邸に着いた。大統領がボヤーに滞在する時のための官邸が位置している。 この大統領官邸は、先程遠くから見えたお城のような建物で、真っ白な壁をしており、簡素なつくりだが、非常に綺麗であった。 ドイツにある狩猟のための館を模して建設された。この非常に立派な旧官邸からは、 当時ドイツが恒久的にこの地の植民地経営を行おうとする意思を持っていたことが伺える。

近くには、ドイツ統一を果たした宰相ビスマルクの絵が描かれた水汲み場があった。 このようなビスマルク像は、ドイツのシンボルとしてドイツ本国にも沢山あるようだ。 次に、「E II R」と描かれたイギリス植民地時代のものと思われるポストを発見。

この地域は、第一次世界大戦の後、ドイツからイギリスへと宗主国が変わり、イギリス植民地であったにもかかわらず、 気付けばイギリス固有の建造物を発見したのはこのポストのみであった。イギリスが植民地化した際には、 ドイツが基本的な社会インフラを構築済みであったこと、イギリスは、英領カメルーンに政治拠点を置いて独自の政治単位として扱わず、 むしろナイジェリアの延長のように扱っていたことがわかる。 イギリスがボヤーに新たに建築した物といえばポストぐらいだったのだろうか。 こうした条件から、ボヤーには、いまでも色濃くドイツの建造物や町並みの面影が残されることになった。

▽英語圏への援助に仏語の記念碑--日本の援助により建設された小学校

行政機能の中心地区よりすぐ近くに、日本の援助によって建設された小学校があり、立ち寄った。 昨日イデノーで目撃した、日本の援助で作られた小学校と同様の長い箱形をしている。2007年に建設された、 しっかりとした作りの建物で、教室も通気性が確保されていた。 まだ夏休み期間らしく、児童は一人もいなかったが、いらっしゃった校長先生に少しお話を伺う事ができた。

この学校は「Government School Buea Town group I&II」という名前で、1000名を越える児童がいるという。 一クラスあたりの児童数はおよそ50人。教師数は11人。 ボヤーのような都市や町の中心部の学校には十分な教師がいるが、田舎の学校には教師が足りないとのことで、 この学校は、農村部の学校にパートタイムの教師を派遣する拠点ともなっているという。教師の給料は全て政府から支給されており、 日本の援助が教師の給料に使われるといったことはない。また、小学校教育技術というソフトの面で、 日本が指導的役割を果しているということもないようであった。つまり、この小学校建設は、典型的な「ハコもの援助」だといってよい。

小学校の授業は全て英語で行なわれ、フランス語の授業もカリキュラムに含まれている。家庭でも英語で会話することがあるため、 児童のほとんどが学校に来る以前から英語を話せるらしい。カメルーンでは独立後およそ50年経った今でも、 フランス語と英語を公用語としている。こうして、ボヤーの児童は、幼い小学生時代から、 英語・フランス語・現地語の三つを小さい頃から操るトリリンガル環境で生まれ育つのである。 グローバル社会を生きていくうえで非常に理想的な環境であり、日本で初等教育における英語教育が論争になっているのは、 世界のスタンダードを知らず、デリケート過ぎる印象を持った。

小学校には、さすがに日本の国旗が飾られてはいなかったが、日本の援助で作られたことを示す日本が造った記念碑があった。 ところが、この記念碑をみて驚いた。たしかに、中央政府ではフランス語が有力であるが、この地域の人々は、 分離独立運動に走る者もいるほど英語を強い地域的アイデンティティとして抱いている。ところが、この記念碑は、 フランス語で表記されていたのである。この点は、援助される地域が持つ個別的事情に関する配慮を全く欠いている。 中央政府の目線に偏りがちな日本の援助政策の限界を垣間見る思いがした。

教室内にはちゃんと机、椅子、黒板、チョークなど授業に必要な備品がそろっていた。 校庭にはサッカーグラウンドがあり、広々としていた。校長室にあった、地球儀や掲示板、机などは、 日本からの援助で調達された備品ということであった。校長先生から、日本の援助に対して感謝の気持ちを頂いた。 小学校建設という日本の援助は、カメルーン全土で行われていて、基本的にハコモノとはいえ非常に厚みがあり、 存在感のある援助であることはまちがいない。お世話になった校長先生にお礼とお別れを告げ、出発。

ボヤーの町の周辺部には、Great Soppo、Small Soppoという地区があり、 それぞれカトリックとプロテスタント(バプティスト派)の伝道会ミッションが作った開拓集落となっている。 それぞれの地区の中心に教会がある。カトリックとプロテスタントの両方が存在するのは、 本国で両派が共存するドイツが統治したからこその結果である。

ボヤーの町の商業的中心を担う大通りには、ロコジャで見たようなEnglish Clubを見つけた。 ドイツはこのようなクラブを作らなかったようだが、イギリス領になってから、主要な植民都市と同様、 ここにもこの娯楽施設を作ったのだろう。二国の違いを感じさせる。

English Clubからほど近いところには、英国統治時代の植民地官僚の住宅が位置していた。 バナナやゴム、ヤシなどのプランテーションで働く労働者の住宅もこの通り沿いに立地していた。 また、園芸業を営む商店も見かけられた。


▽ドゥアラで見かけた企業―旧宗主国フランス資本と新興の中国資本のプレゼンス―

ボヤーの町から20分ほど走ったところに、ゴム栽培プランテーションがあり、車を止めて視察した。

初めてゴムの木を見たので、ゼミ生は皆、すこし興奮する。高さ2メートルくらいのところから切込みがらせん状につけられており、 腰くらいの高さの所に据えつけられている小さな受け皿にゴムの樹液が流れ込む仕組みになっている。木の根元に、樹液が垂れて流れ。 固まった塊があったので。踏んでみると本当にぶよぶよ弾力を持っていたので感動した。 しばらく踏んで遊んでいたかったが堪えて観察を続ける。途中で農園の方がやってきて、エチレンガスを用いた実験を見せてもらった。 プラスチック製の容器を木に取り付け、そこにチューブを用いた装置でエチレンガスを注入して、 ゴムの木の成長を促進させる試みを行なっているという。

先進的な技術を導入している点に驚き、ガイド氏に聞いてみると、この辺りのゴム栽培のプランテーションは、 カメルーンが経済危機に陥り、重債務貧困国(HIPCs)に認定されて導入された構造調整政策の結果民営化され、 マレーシアのゴム会社によって買収されたものだと言う。同様に、バナナプランテーション、鉄道、電気、水道などの分野でも、 構造調整政策の結果、規制緩和・民営化され、外資が経営を握るという現象が起きている。 米国企業のデルモンテは、バナナプランテーションの大きな権益を持っているという。 先進的なゴムの生産技術を持っている外資が入ることによってカメルーンのゴムの生産性が上がるのは良いことかもしれないが、 構造調整政策の結果、国の基幹産業が外資に買収され、国の産業政策が及びにくくなるとともに、 利潤が国外へ流れるカメルーンの現実を知り、ナイジェリア経済との違いを感じた。

しかし、世界銀行等の国際機関は、これでも上十分とみているらしく、さらに経済発展を達成するため、 より多くの外国資本による投資が必要であり、民主化や人権の確立、汚職の廃絶などを引き続き求められている、 という教科書に出てくるような状況を伺った。

失業率は高く、これを引き下げることが政府の一つの大きな目標であるという。最低賃金水準は28,000CFA、 日本円でおよそ7,000円である。

鉄道や電気いった公共インフラが民営化されて、消費者は利益を得たのだろうか。価格は上昇したという。 ただ単に民営化しただけでは、行政の規模を縮小しただけであり、消費者の便益は上がらない。民営化した結果、 競争が生まれることによって価格が下落し、始めて消費者に利益が還元される。そして需要が増加し、産業の規模が拡大し、 雇用が増大する。そうして二重経済が解消されていく。私たちが見た限りでも、 カメルーンの民営化された公共インフラ分野で競争が起こっているとは思えなかった。

ガイド氏のようなカメルーン社会でも大卒でインテリの部類に入る方が、 構造調整政策に批判的な姿勢をとっていたことが印象的であった。

▽CEMAC (Communaute Economique et Monetaire de l’Afrique Centrale):中部アフリカ経済通貨共同体

ドゥアラへ向かう途中で、ガイド氏から、中央アフリカにおける地域共同体であるCEMACについて説明を受けた。

カメルーン、中央アフリカ共和国、チャド、ガボン、コンゴ民主共和国、赤道ギニアの六カ国が加盟国であり、 私達がアブジャで訪れたECOWASの西アフリカ版である。ECOWASと同様、域内のヒト・モノ・カネの自由な移動を推進しており、 CFAを域内共通通貨として流通させている。域内中央銀行である中部アフリカ諸国中央銀行はCEMACの主要機関の一つであり、 カメルーンのヤウンデに所在している。CFAはユーロにペッグしてあり、1ユーロ=約655CFAの固定レートが設定されている。 加盟国間のビザの廃止はある程度までは進んでいるようだが、完全に廃止されている訳ではなく、 例えばカメルーン人のガイド氏が赤道ギニアに行く場合にはビザが必要だという。
CEMACのHP
CEMACの構成

▽人々の活気に満ちたカメルーン産業・物流の拠点、 ドゥアラ

道程に、英語圏とフランス語圏の境となる橋を通過した。

いまは、小さな橋であるが、ドイツの敗戦後カメルーンが英仏両国で分割された時代、この境は、 英領カメルーンと仏領カメルーンの境であった。英領カメルーンは、ナイジェリアの一部のように扱われ、 ラゴスから統治されていた。独立後、カメルーンが連邦制を採用していた時には、この橋にチェックポイントがあり、 行き来するには、laissez passerと呼ばれる証明書が求められた。現在は、証明書もいらず、チェックポイントも無く、 自由にここを越えられる。しかし、欧州列強の植民地再分割戦争の結果無理にはるかアフリカのこの川にそって刻まれた境は、 いまでも言語の境界として、カメルーンの領域に永遠に消せない障壁をつくりだしている。

カメルーン最大の経済都市で、ドイツ植民地時代はカメルーンシュタットと呼ばれ首都であったドゥアラ(Douala)が近づいてきた。 人々の経済活動が活発になってくるのがわかる。道路にそって日常雑貨を扱う商店の数、行きかう人の数、道路を通る車の量、 貨物を運ぶトラックの数、ボヤでは全く見られなかった工場や倉庫の数など、このどれもが増えてくる。 具体的には、ミシュランの工場、材木工場、家具屋、ココア工場、変電施設、セメント工場など、 ここには産業があるのだと確認できるようになってきた。看板は、大多数がフランス語に変わる。

カメルーンではバフォーサム(Bafoussam)を中心とした地域の「バムリケ(Bamileke)」という人々がビジネスを非常に得意としており、 いくつもの大企業を所有していると、ガイドの方が話してくださった。この民族の人々によって営まれる商店なり工場が、 現在通っている道路沿いにいくつもあり、カメルーンの経済の中心であるドゥアラをある意味「牛耳って」いるとのことである。 プロテスタントのように、倹約・貯蓄精神を持った民族らしい。 ケニアにもキクユ族というビジネスが非常に得意な民族がいるという話と重なって、 どこの土地でもビジネスが潜在的に得意な人々がいるのだと思った。日本で言えば、いわゆる「浪花の商人」と言ったところであろう。 カメルーンでビジネスをされる方は、「バムリケ」の人々と良い関係を築けると、もしかしたら非常に上手く事が進むかもしれない。

さらに進むと、旧イギリス領地域のンコンサンバ(Nkongsamba)からドゥアラまでつながっている鉄道線路が道路に合流し、 線路と併走する状態となった。この道路沿いにはやしの木がずっと並んで植えてあり、大陸ヨーロッパ的なつくりである。

ウォーリ(Wouri)川にかかるドゥアラ中心部への唯一の橋を渡る。この橋付近は特に交通渋滞がひどく、 二本目の橋建設が必要とされているようであった。川に沿って沢山工場が立地しているのが見られる。 ドゥアラ中心地にさらに近づくと、コンテナを載せた貨車が停まっている鉄道線路があり 、その傍らには多くの貨物倉庫が立ち並んでいた。ここは、カメルーン鉄道Camrailの貨物駅である。

ドゥアラの人口は130万人 (Survey of Subsaharan Africa: A Regional Geography, Roy Cole, H.J.de Blij, Oxford University Press, 2007, P434)であり、 人口にしてカメルーンにおける最大規模の都市である。ドゥアラが、カメルーンの工業生産、そして物流の中心であるということが、 市街の観察から強く認識された。

いよいよ市内の中心地に入ってきた。ドイツによって計画されたであろう小奇麗な中央広場を通り過ぎる。市内視察は後に回し、 私たちは11時に迫ったドゥアラ港湾局のインタビューへと向かう。

市内中心地を少し走っただけで、活気に満ちた港周辺の風景に変わってきた。ここには、 カラバルでお会いした日本人の方が勤務するフランスのサガ社の大きなオフィスがあり、 またコンテナを積んだトラックがせわしなく動いていた。倉庫がある敷地の中を通り過ぎ、私たちはドゥアラ港の入り口に到着した。

ドゥアラ港湾
カメルーンの物流拠点を訪れる



▽中部アフリカの物流のハブ、ドゥアラ港湾局長にインタビュー

ドゥアラ港は、カメルーンだけでなく、内陸国であるチャドや中央アフリカ共和国にとっても重要な物流玄関となっており、 中部アフリカ地域を空間的に統合するハブとして機能している。私たちは、ナイジェリアのアブジャで、 ECOWASにカメルーンが参加しなかった理由は、カメルーンが中部アフリカの地域区分に属するためと聞いた。 確かにカメルーンは中央アフリカの国々を経済的に束ねる役割を果たしており、カメルーンは中央アフリカの国であることが、 この港を見ているとよくわかる。つまり、ドゥアラ港からは、インフラ面での結節点を自国に確立し、 中部アフリカの覇権国家目指すカメルーンの意図が読み取れる。

入り口ゲートを抜け、港湾内の建物を通り過ぎ、私たちは、ドゥアラ港湾局へのインタビューのため、港湾局のオフィスに到着した。 途中で、米国の農産多国籍企業であるデルモンテの倉庫を発見した。しかし、この中部アフリカのハブ港湾に、 日本企業の姿は、影も形もない。

港湾の敷地内は、立派な事務所建物や倉庫が存在し、コンテナも所定の場所に整理整頓されている。車もきちんと駐車され、 特段目立つごみ等もなく、非常によく整備されている。作業している労働者や港湾スタッフの数、駐車されている車の数、 停泊している船の数などからも、ドゥアラ港が活発に機能していることが伺えた。

私たちのインタビューに応じてくださったのは、 港湾局長Harbour Master, Port Authority of DoualaのハキムHakim氏である。オフィスに伺い、少し待った後、対面する。 フランス語圏カメルーンでの初めての取材で、相手方がフランス語を使うのかと思いきや、英語で応じてくれた。 高級な公的ポジションについている人たちは、みな、英仏バイリンガルである。

▽ドゥアラ港の概要

まずはドゥアラ港の概要について伺った。

ドゥアラ港は、19世紀末のドイツ植民地時代に建設された。先程通ったウリWouri川河口の湾の中に港は立地しており、 港まで海からは40海里の距離がある。 ドゥアラ港の最大の泣き所は、水深が浅いことである。そのため、より大きな船を通すには、 常時多量の浚渫作業を続けなければならない。ドゥアラ港は、 喫水(船が水にうく時に水中に沈んでいる船体の深さ:英「draft」)が8.65メートルしかない。 国際的に主要な港は、喫水15メートルある他の港と比べると、ドゥアラ港は浅い。 カメルーンの貨物運送の95%がこのドゥアラ港を経由する。チャドや中央アフリカ共和国にとっても中心的な港となっており、 ドゥアラ港で扱う貨物量の約20%がチャド・中央アフリカ共和国に行く。主要な取り扱い輸出品目は、材木、フルーツ、綿、 バナナ、アルミニウム(精錬所がドゥアラ郊外にあり)、ココア、コーヒー、ゴム、パーム油、石油等であり、主な輸入品目は、 国内使用のためのほとんど全ての工業製品、米、小麦等の食物等である。一年間に約1200隻の船が寄港する。 2007年において、輸出船容積量がおよそ220万トン、輸入船容積量が480万トン、 コンテナ取扱量がおよそ22万TEUs(20フィートコンテナ一個分を示す単位)である。

ドゥアラ港は、政府機関である港湾局が管理権限を有している。実際の運営は、 APM Moraという民間企業(デンマークの海運多国籍企業であるメルスクMaerskの子会社) のさらに子会社であるドゥアラ国際ターミナルDouala International Terminalという会社が担っている。 この運営会社の資本構成は、政府が22%、APMが75%、その他投資家3%という状況。運営自体は当局から独立している。 港湾局が、この民間運営会社に対して、管理権限・管理責任を及ぼしている。


▽ドゥアラ港の効率化

ドゥアラ港のコンテナ化には多額の設備投資がなされた。なかでも、日本の円借款援助によって、 コンテナクレーン近代化プロジェクト が実施されたのは特筆に値する。

海上運送は、バラ積み輸送からコンテナ輸送へとその中心が移り、従来は通常の積荷で輸入されていた小麦なども、 その利便性・安全性などからコンテナで輸入されてきている。これに対応するため、三井物産が案件を受注し、 80年台後半から2001年にかけて総額約60億円が貸し付けられたもので、ガントリークレーン(gantry crane)などの近代設備を購入し、 コンテナ化に対応するようにした。その後、借款は、債務帳消しになったので、事実上の無償援助である 。ところが、ドゥアラ港の運営は、以前から民間企業が担っていて、このプロジェクトでも、 その後国際入札を行った結果、港湾の運営がデンマーク多国籍資本の民間企業に発注された。

ドゥアラ港のコンテナ化というインフラ設備を援助したことは、カメルーンにとって有益であり、 日本の援助政策として優れた案件だった。ただし、日本はハコモノのインフラ整備を援助するのみで、 整備された港の運営を受注しているのは欧州企業である。日本の海外進出において、自動車や家電などは一部の国で優位性を持つが、 サービス業の海外展開力はほとんど感じられない。もちろん、だれが運営するかは国際競争できまるから、 日本企業にはじめからリスクを恐れてビジネス拡大の意思がなく、またノウハウも無ければ、当然それは、外国の企業に行く。 現在、サービス業で、ノウハウをもってグローバルに展開する日本企業はどれだけあるだろうか。 これでは、「援助より投資」とは掛け声ばかりで、日本国民の血税と借金の成果が、外国企業にうまくさらわれてしまうばかりである。

ドゥアラ港を機能的・効率的にしている第二の要因は、インターモーダルなシステムがきちんと整備されていることだ。 鉄道がドゥアラ港湾内にまで引き込まれ、船からおろされた貨物がすぐ停まっている鉄道貨車に積み込めるように線路が配置されている。 ここからカメルーン北部のンガウンデレまで、貨車で直行できる。このルートで、内陸国のチャドから綿花や材木が、 ンガウンデレを経由してここドゥアラ港にやって来る。

第三に、多くの企業が、港湾内に倉庫もしくは工場を立地させている。 輸入された原料がすぐに工場に運び込める点は原料地立地といえるし、すぐ輸出できる点からは需要地立地である。 この点も、ドゥアラ港が非常に効率的である理由の一つだ。これらの企業から、港湾当局は土地賃貸料を集めている。

寄港・停泊するまでの船舶の待機時間は平均12時間と非常に短いことも注目される。 ラゴスのアパパ港が非常に混雑していたのと対照的であった。この待ち時間の短さによって、 どれだけ港が効率的に運営されているかがわかるだろう。また積み下ろし・積み上げ作業や事務手続きにかかる時間は平均18日である。

輸出と輸入を比較すると、輸入の方が多いために、輸入の際に入ってきたコンテナが空の状態で出港することが多々起きる。 これは海運経済的に非常にもったいないことなので、出来るだけコンテナを埋めるよう努力している。 具体的には、材木や、資源価値のあるスクラップなどがコンテナによって輸出されている。

▽港湾当局と運営会社との関係

コンテナ等積荷の取り扱いは、全て運営会社が管理している。設備投資に関しては、港湾当局が出資することも、 運営会社が出資することも、分担して出資することもあるそうだ。 ガントリークレーンなど港の重要な機関インフラへの設備投資に関しては、当局が出資することもあるが、 倉庫などの施設では、運営会社が利用者から使用料を得ることによって採算を取っている。

設備投資を含め、港湾の運営に関して変更を伴う試みがある場合、運営会社は必ず事前に当局の承認を得なくてはならない。

▽ドゥアラ港の地形的制約

ドゥアラ港湾内の水路が浅いために、世界的に使用されているような巨大コンテナ船(喫水12m)が入港できず、 港の競争力を落としていると思われる。このことについて、水路を浚渫して水深を深くする計画はないのかと訊ねたところ、 川の河口で常に土砂が堆積するため、日常的に掘削する必要があり、水深8メートルよりも深くしようとすると工事費が莫大になり、 コストを回収できなくなるとお答え頂いた。もともと水路の水深は6.5mであり、これに高潮時の2m分を加えて、 8.5mの水深を確保しているという。

近年のコンテナ船は、最低喫水12mを必要とし、容積も9,000TEUレベルある、 積み下ろしには一度に6〜8基のガントリークレーンを使用するという。しかし、ドゥアラ港の喫水は最大8.5mであり、 許容できるコンテナ船の大きさも3,000TEUが限界で、ガントリークレーン2基というのが現実だ。 やはり何よりも、地形的制約がその発展を妨げている。よって、更なる大規模な設備投資は、現実的ではないそうだ。 しかし、2008年第1四半期だけでも、取り扱い貨物量が30%増加しており、このままだと貨物スペースが上足するので、 この点において設備投資は必要と考えているようだ。また、都市中心に近接しており盗難事件も発生することから、 セキュリティー強化も喫緊の課題である。

このようなドゥアラ港の地形的制約を抜本的に回避するため、新しい港をクリビに建設する計画が進んでいるという。 クリビの港は、ドゥアラ港よりも深い喫水を確保できるため、より大きな船が入港できる。将来、ドゥアラ港にとって、 クリビ港が大きなライバルになるのではないかとの問いに対しては、クリビ港は鉱山資源の輸送に特化し、 ドゥアラ港は引き続き産業の集積したドゥアラの貨物を取り扱うことになるとお答えになった。

▽増大する中国はじめアジアの台頭

やはり海運業界においても中国はじめアジアの取引に占める割合が増加しているという。 以前はヨーロッパとの取引が中心であったが、最近はアジアとの貿易量が増えている。これに伴い、 南アフリカのケープタウン港やスペインのアルヘシラス(Algeciras)といった大きな港が、 アフリカへの中継港として発展しているという。

設備の足りないドゥアラ港



▽港内視察

港湾局長の取り計らいにより、幸運にも僕たちは港湾内を見学して回れることになった。 いくら日本の援助が過去に入ったからといって、港湾は元来セキュリティの厳しい地区であり、 そう簡単に港湾内を見学することはできないのは明らかだった。Hakim氏には感謝しなければならない。

職員の方に同行して頂き、私たちの車で港湾敷地内をぐるりと一周した。 港には大型のコンテナ船から小型の貨物船まで様々な種類の船舶がおよそ10隻程度停泊していた。 石油やLNGなどの資源を運ぶタンカーや、実際に、ミレットというキビ穀物を積み下ろしている貨物船もあった。 穀物は、機械で自動的に港湾内の受け皿となる施設に吐き出されていて、呼吸に困難を感じるほど粉塵が周辺に飛び散っている。 現場で働いている労働者にとってはマスクをしていても辛い環境であろう。 岸壁には、河口水路の底面を削る浚渫船が常駐していたのが印象的であった。 ここにも、サガ社のタンクローリーがいた。植民地時代からの結びつきを活用して、 いまもアフリカの物流ビジネスに深く食い込むフランス多国籍企業の姿を実感する。

日本の援助で出来たコンテナ船専用の区域には残念ながら入れなかったが、ガントリークレーン2基が稼動しているのが外から見えた。 この区域には鉄道線路が延びていて、コンテナ車とコンテナ船の間の積み換えが非常に効率的に行われるようになっていた。 港湾敷地内には、多くの倉庫があり、物流の拠点となっている。また、セメント工場のような設備あり、 たしかに生産機能もこの港湾は有しているようだ。倉庫群やコンテナ群の脇にも、線路が延びていて、 異なる輸送手段相互の連結性(intermodality)が高いように思えた。特に、貨車・線路と倉庫が並行に位置しており、 積み下ろし作業がスムーズにできるのを直接見ることができた。

ガントリークレーンを使わずに、通常のクレーンでコンテナの積み下ろしをしているクレーンも見かけた。 今の国際物流ではコンテナが中心となっており、 ガントリークレーンがどれだけあるかということがその港の発展状況を知る上で有効な手がかりとなる。 ガントリークレーンが休みなく動いていたのを見ると、ドゥアラ港では、ガントリークレーンが上足していると察せられた。

それほど空き地が余っているようではなかったが、倉庫にも通路にも適度なスペースが使用されていて、 混雑による作業の阻害は見られなかったし、見学をするのにも快適であった。

カメルーン経済を支えるきわめて重要な施設の取材・見学を実現することができ、ゼミ生一同は非常に満足した。 この困難なアポイントメントを果敢に取ってくれた、私たちのカムツアーCamtourという現地旅行社に感謝しつつ、 ドゥアラ港を後にした。

ドゥアラ港はよく整備されており、効率的に運営されていることが、話を聴いた上でも、実際に現場に来た上でも感じられた。 港湾の浅さという地形的な制約がどうにもしがたい障害であり、非常に効率的に機能しているだけに、この点が残念であった。 限界のある港に、今後巨額の設備投資がなされる見込みは少ないであろう。

日本の援助もあったが、今回現場に来て、存在感を感じたのは、明らかに港湾運営や物流に携わる欧州諸企業であった。 外国に対して、システムやノウハウを売り込み、または、運営権を獲得するなど、 海外におけるソフトビジネス面での日本の展開能力の欠如というある種普遍的な状況は、ここドゥアラ港にも現れていた。 日本国内でも、多くのサービス業の外資系企業を見かける。思いつく限りであるが、銀行業であれば、 Citibank はリテールをやっているし、資産運用の分野でも、米・英系のCitibank、 香港上海銀行(HSBC) などを見かける。 証券業では、米・欧の投資銀行が多く進出している。保険業では、がん保険のアリコなどが有名だ。 物流業でも、 FedExUPS 、DHSなどを見かけるし、ホテル業でも多くの外資系ホテルが存在感を示している。 コンサルティング業でも、多くの外資系コンサルティングファームがある。小売業でも、最近話題のCostcoや、 西友株主としてのウォルマート、イギリスのテスコなどもある。今の日本経済の苦境を脱するため、海外市場開拓は急務である。 サービス業の分野でも、今後日本企業のいっそうのアフリカ市場における健闘を期待したい。

▽「アフリカのイメージ」を演出する外国人向けレストラン: 昼食

その後、ドゥアラ市内の「Village H」というおしゃれなレストランで昼食を取った。

さすがにカメルーンのビジネスの中心地らしく、店内にはスマートな服装をしたビジネスマンがいた。 店全体として、わらぶきの屋根など、「アフリカのイメージ」を演出しており、外国人受けしそうな感じであった。 カメルーンの中でも非常に洗練されたレストランなのだと感じた。これまでの巡検記録で、 ナイジェリアでの食事よりカメルーンの方が格段に美味だとお伝えしたことと思うが、ここでも美味しい料理をビュッフェ形式で頂いた。 フランスパンも美味しいし、個人的には、ナイジェリアではあまり使われていないニンニクが頻繁に使われているのが好きだった。

フランス系、中国系の企業の多いドゥアラの街



▽ドゥアラで見かけた企業―旧宗主国フランス資本と新興の中国資本のプレゼンス―

昼食後、CBD(中心業務地区)を車窓より観察しながらホテルへ向かった。 道の脇に“ミシュラン”の看板が立っているのが見えた。あの有名なタイヤのマスコットが目立つ。旧宗主国なだけあり、 ここカメルーンでは、やはりフランス資本の会社をよく見かける。

マクドナルドやKFC、スターバックスはまだない。ちなみに、西アフリカ一般に、アメリカ系のファーストフード店はなかった。 映画館があり、その正面で多くの若者が上映開始を待っていた。カメルーン航空の看板もしばしばみかけた。

すこし進んだ所に今度は China Road and Bridge Corporation Cameroon Office の看板があった。 この会社は、道路や鉄橋などの交通インフラを専門に請け負う会社で、アフリカにはカメルーンを含む21ヶ国にオフィスを構えている。 この会社がアフリカに持つオフィスの多さにも驚きべきものがある。さらに、CBDをすこし外れると、中国系の店が多く並ぶ通りがあった。 中国のアフリカへの進出はこれまで目の当たりにしてきたが、 市民の生活の場でその存在を感じられるという点でフランスなどの旧宗主国に匹敵する存在感を醸し出していると思った。

これに対し、カメルーン国内では、小学校の援助は有名でも、日系企業の広告看板を目にする機会は皆無と言ってよい。

到着したホテルは、港に近いドゥアラの町外れに立地している。外観は、高級アパートかビジネスホテルといった感じで、建物内も綺麗であった。 さすがカメルーンの経済首都だけある。しかし、ホテルのすぐ脇には、トタン屋根の平たい小屋が密集した、スラムとまでは言えないが貧しい住宅街が集積していた。 また、生鮮食品を扱う道端のマーケットや、かばんなどを扱うアーケード状のマーケットもある。いずれも多くの人でごった返しており、 特に後者ではバイクに乗った人を多く見かける。ガイド氏の話によれば、町の中で店を間借りすることのできない人たちが、こうして道端のマーケットを開いているという。

こうした状況はナイジェリアのラゴスと同様と言える。都市内での住民の住み分けで、経済的上層部の人びとが都市周辺に居住しないという点についても、 やはり同じ様な都市の様相となっていることがわかる。

ホテルにチェックインの後、部屋で10分程休んで伊藤忠のオフィスへ向かう。


伊藤忠商事のオフィスへ
商社の現実を知る



▽日本人のいない日本商社の事務所:
伊藤忠ドゥアラ事務所長にインタビュー


予定時刻の15時に伊藤忠オフィスに到着。

本日お話を伺う予定の事務所長のンコンジャ氏(Mr. Nkouedja)が出迎えてくれた。現在、この事務所に日本人駐在員は一人もいない。 しかし、応接間には日本語の文庫本などが壁一杯に収納されており、日本人がいた匂いが伺えた。 ンコンジャ氏は、80年代中ごろに早稲田大学で商学の修士号を取り、伊藤忠商事に就職。日本で研修を受けた後、すぐにカメルーン勤務となり、 それから21年間勤務していると言う。そのため一橋大学についてもご存知で、アフリカで初めて「Hitotsubashi」を問題なく発音してくれる人と出会って感激した。

▽伊藤忠カメルーン事務所の概要

伊藤忠カメルーン事務所は、中部アフリカ地域の国々を担当している。西アフリカ地域で、伊藤忠はガーナの首都アクラとナイジェリアの首都ラゴスに事務所を持つ。 ただし、この管轄区分は必ずしも厳密でなく、カメルーン事務所が西アフリカのフランス語圏の国を担当することもある。アフリカ大陸のスケールでは、 南アフリカのヨハネスブルグ事務所がアフリカ全体を担当し、そこには5〜6名の日本人駐在員がいる。

カメルーン事務所はンコンジャ氏を含め現在5名のスタッフが勤務しており、全てが現地人採用である。今年の3月まで日本人社員が事務所長を勤めていたが、 日本に呼び戻され、空席になった事務所長のポストをンコンジャ氏が埋めることになった。

主な事業分野は、ODA関連事業、いすゞ・マツダの自動車の輸入・販売事業、コマツの建設重機輸入・販売(ガボン)、 ココア・コーヒーの日本への輸出、ゴマの中国・日本への輸出など。ODA案件は、伊藤忠カメルーン事務所にとっても重要な柱の一つであるが、 近年はODA予算の減少によって、ODAビジネスも減ってきている。

▽カメルーン経済の失速

日本のバブル経済が上向きだった1986年から1987年にかけて、カメルーンへの日本企業の参入熱は最も高かった。 当時、伊藤忠カメルーン事務所には8人ほどの駐在員がいた。三井・三菱・住友・丸紅といった他の商社大手企業も皆、ここに事務所を構えていた。 しかし、カメルーン経済の失速によりほとんどの商社がカメルーンでの事業を中止し、JETROも1992年に事務所を閉鎖した。 現在カメルーンに残っているのは、伊藤忠のみである。

ではなぜカメルーン経済は失速したのか。ここでカメルーン人のガイド氏が議論に加わり、「構造調整政策が理由だ」と述べたが、 ンコンジャ氏は、その前に、ではなぜカメルーンは構造調整政策を受けることになったのかという点も重要だ、とおっしゃった。

カメルーンが構造調整政策を受ける結果を生んだ経済危機が起きた理由には、外的要因と内的要員があるという。 外的要因とは、石油価格などの資源価格や食料価格の上昇を予知出来ず、値上がりに対処できなかったことであり、 内的要因は腐敗した政府による政府のミスマネジメントである。この経済危機に陥った結果、解決策を模索し、 それが重債務貧困国(HIPCs)の認定を受け借金を帳消ししてもらう代償に構造調整政策を取り入れることとなった、というのだ。

▽資源: 撤退する日本、進出する中国

しかしながら、例えば、観光業や資源開発などによって、カメルーンは経済発展を遂げる可能性を秘めている。 特に資源開発は、アフリカ諸国が近年世界的に注目されている理由であり、カメルーンも例外に漏れず、鉄鉱石やボーキサイトといった資源を有する。

にもかかわらず、日本の商社がカメルーンから撤退してしまったのはどうしてなのだろうか。

ンコンジャ氏は、次のように説明した。日本の商社がカメルーンで事業展開した当初の目的は、ココアやコーヒーの輸出と自動車事業であった。 元来、カメルーンはナイジェリアのように人口が多くはなく、約1,700万人しかいない。全人口の30%強が14歳以下であり、ドゥアラの人口は約150万人。 経済の失速によって、新車が年間3,000台しか売れない状態では、自動車販売はビジネスにならない。因みに隣国ガボンは、ドゥアラの人口より少ないにもかかわらず、 石油や木材の輸出により好景気で、年間5,000台新車が売れているという。また、旧宗主国のフランスが依然としてカメルーンに大きな影響力を持っているので、 これらの国々で資源等の権益を目指すことは、デリケートな国際政治の側面に触れることになる、だから、日本勢が営業展開しないのだ、という。

しかし、このような状況でも、中国や韓国は盛んに進出してきている、とンコンジャ氏は指摘された。中国はガボンで、石油開発を行っていて、 カメルーンでも鉄鉱石などの鉱山資源開発を狙っている。また、韓国もセメント工場を有しており、さらにはドゥアラに韓国領事館を置いて、 カメルーン人の領事が積極的な経済外交を行なっている。

他方、日本は、出遅れが明白である。2008年に横浜で行なわれたTICAD IVが示すとおり、日本でもアフリカに対する関心が高まっていることも感じられ、 日本政府主催の貿易・投資機会を探る官民合同ミッションが9月下旬に西アフリカ諸国を訪れることになっていることにンコンジャ氏は期待感を示された。

現段階で、伊藤忠カメルーン事務所は、資源関連のプロジェクトは行なっていないとのことだ。以前、コンゴ民主共和国でプロジェクトを行なっていたが、 カビラが政権に就いたときに外資企業に税金を10年前倒しで支払うように迫ったために、他の外資企業と同時に撤退したという。 カメルーンで、鉄鉱石以外に有望な鉱物資源として、ボーキサイトが挙げられる。中央部のンガンデレ周辺で採れるため、 ンガンデレから鉄道で南部へ運んできて、輸出することが計画されている。ドゥアラ港では大きな船舶が入港できないため、 今日ドゥアラ港の取材で伺ったクリビに水深の深い港湾を建設することが注目されている。カメルーン政府が建設のパートナーを探しており、 これに中国が大きな興味を示している。もちろん、ボーキサイト資源権益がらみであろう。カメルーンの資源開発はこれからという段階なので、 各国は今まさに、先鞭をつけておこうと競っているのだ。ンコンジャ氏からは、既にカメルーンに進出している企業として、 米ハイドロマインHydromine社と豪サンダンス Sundance社の名前を伺った。日本の立ち遅れが、ここでも目立ってきている。

アフリカでの資源開発において、電気と鉄道(輸送手段)というインフラ整備が課題となる。開発をするには電気が必要であるが、国内電力機関から十分な電力の供給を受けることは難しいので、自前のディーゼル発電を行なう必要があり、多額の費用がかかる。また、資源を掘り当てても、輸出するために海岸まで鉄道を引く必要があり、これも多額のコストがかかる。このように資源案件はリスクが高く、超巨大資本や国家が関わらない限り開発することは困難である。そこまで巨大ではない日本企業にとっては、日本政府・現地政府・パートナー企業などがリスクを分担をしつつ権益を獲得していかざるを得ない。 しかし、巡検終了後、ガーナの首都アクラを訪れた先生は、ンコンジャ氏が言う日本政府主催官民合同ミッションと同じ欧州系高級ホテルでたまたま同宿し、現地日本大使館員が「翌日は、大統領には会えず、副大統領に表敬です」などとブリーフィングしている席に遭遇した。40人ほどもの大勢の日本人が団体ツアーを組んで国費で回っていたのだが、非常に駆け足の日程で、どの程度社内・省内で権限をもつかわからない若い参加者も目出ち、ホテル内で現地アフリカ人と懇談している姿はなく、このミッションがどれだけの持続的なビジネスの成果をアフリカに生み出せるかは疑問ということであった。やはり多額の血税を投じてアフリカの要人を招待したTICAD IVも、開催当時は盛り上がっていたが、いったん終われば,、メディアもほとんどその成果について取り上げない。日本は、アフリカへの腰が、欧米はもちろん、中国・韓国などと比べても、段違いに引けているのだ。

▽「援助から投資へ」

次に私たちは、ンコンジャ氏に、最近日本で繰り返し叫ばれている「援助から投資」の流れについて、カメルーンの場合はどうか伺った。

ンコンジャ氏曰く、企業にとっては利潤を産むことが何よりも重要であるから、まずは進出する先に大きな市場がなければならず、 この点からするとナイジェリアの方がずっとアドバンテージはあるという。しかし、ヨーロッパとの間でACP条約というのが結ばれていて、 アフリカ・カリブ・太平洋諸国からの輸入に対して免税・減税といった優遇措置を取る制度が存在しており、例えばカメルーンに直接投資をして工場で生産をし、 生産物をヨーロッパに輸出するというビジネスも成り立つという。実際にモーリシャスにおいて、中国やインド企業が進出し、 現地労働力を雇用して製造してヨーロッパに輸出しているそうだ。

▽伊藤忠の研修制度と人事方針

伊藤忠には三つ研修制度があり、一つは日本人向けの国内研修、二つ目はGlobal Scholarship Programme (2週間)、 三つ目はGlobal Leadership Programme (2ヵ月半)である。ンコンジャ氏は、二つ目のGlobal Scholarship Programmeでしばしば日本に行く機会があるという。 また三つ目のGlobal Leadership Programmeは管理職向けの特別な研修プログラムだそうだ。 海外事務所の所長には、どのスタッフを研修に送るか決定する権限があり、今年も一人の職員を日本に研修に行かせることを検討しているという。

ンコンジャ氏が現在カメルーン事務所の所長を務めているわけだが、これは単に前任の日本人所長が日本に呼び戻されただけでなく、 伊藤忠の、積極的に現地に精通した人間を採用していくという海外事務所についての人事方針がある。 これは、現地人スタッフにとってもモチベーション向上につながって、組織的にも良い流れを作るだろう。勿論、現地人管理職を養成するには多くのコストがかかるが、 上記の研修によって伊藤忠の独自の文化なりアイデンティティを教育し、組織としての統一を図ろうという伊藤忠の方針である。

他方、日本本社側の観点からすると、現地人を積極的に登用することは、単純に言って人件費の削減となる。 日本人スタッフを海外に駐在させると、危険手当や家族の扶養費など特別手当が相当にかさむ。そもそも本社に十分な日本人スタッフがいない状態で、 さらにアフリカ勤務となると志望者も減るため、本社側にも現地人を雇うメリットがある。

とはいえ、アフリカ赴任を志望する日本人社員が乏しいというのは、重大な問題である。ンコンジャ氏は、最近の日本人社員は、 入社してもあまり海外に行きたがらない、行くとしても、志望は欧米で、アフリカは敬遠される、と仰っていた。 本社がどれだけ有能な人物を配置するかによって、その場所での業績は決まってくる。現地人を積極的に登用することにも、日本人を配置することにも、 それぞれメリットがある。現地人であれば、コネクションを活かして、その社会に深く食い込み、ビジネスチャンスを発掘できる可能性は高いであろう。 しかし、意思決定を担う日本の本社とのコミュニケーションがより円滑にできる日本人社員がいなければ、発掘したそのチャンスは実現しない。

ンコンジャ氏が伊藤忠カメルーン事務所長としてビジネスをやっていく上で、日本の本社との関係は、いうまでもなく非常に重要である。 ンコンジャ氏が、いくらよいアイデアや案件をあげても、本社がそれを取り上げ、採用してくれなければ前進しない。 本社との連絡に時間がかかったり、優先順位が低く扱われ、返事すら来ない、といった問題もある。いくら現地事務所が頑張っても、 本社でアフリカでのビジネスに関心をもっともたなければ、アフリカでの日本の投資は拡大しないのだ。 また、本社に勤める日本人社員からは、現地支社からの提案や報告はレベルが低い、という残念な言葉を聞いた。 真のグローバルカンパニーになるには、現地人の登用は上可欠であるし、コミュニケーションに問題があるなら、研修制度も問題解消に向けて有用だろう。 そして、研修の結果信頼関係が高まった現地人のになう事務所に権限を思い切って委譲する、分権的な企業組織をつくることが重要である。

午前中に訪問したドゥアラ港の運営会社APMにおいても、恐らくほとんど全ての従業員が現地人であろう。 それであれほどの効率性・機能性を実現していたことから、デンマークにある本社の人事管理能力や企業組織は優れていると評価できる。 味の素の方から伺ったシェル社の現地人幹部養成方法も、非常にダイナミックなものであった。日本企業が、サービス産業において海外で成功するには、 現地人をいかに養成していかに登用し、またそのイニシアティブを活かす企業組織のグローバルな分権化が重要な鍵を握っていることは明らかである。 是非とも、伊藤忠にもンコンジャ氏にも頑張って欲しいと思った。

▽海外事務所のODA案件の仕込み方

こうした状況の下、カメルーン事務所として、東京本社とヨハネスブルグのアフリカブロック本部と連絡を取り合っている。 東京本部とヨハネスブルグへの新規業務提案は、ンコンジャ氏にとって非常に重要な仕事だ。日本人スタッフがカメルーン事務所にはいないだけに、 自ら積極的にビジネスチャンスをアピールしていかなければ、カメルーンでの業務拡大は進んでいかない。

最近で言えば、ドゥアラのウォーリ(Wouri)川に二つ目の橋を架けるプロジェクトに伊藤忠がかかわれないか、在カメルーンの日本大使と協議しており、 この案件仕込みについて本社・ヨハネスブルグと連絡を取り合っていると言う。具体的には、 この案件を「円クレジット」といういわゆるバイヤーズクレジットという特別融資方法を用いてカメルーン政府の負担を減らす援助案件に仕込みたいのだが、 そうなるとOECDの規程により受注者は国際競争入札で選ばざるを得なくなり、入札となれば、必ず中国・韓国企業が低コストを武器に応札してくる。 それを避ける上手い方法について、東京の本社・建設会社・ヨハネスブルグと協議しているそうだ。

ここではあまり深く聞かなかったが、ODA案件を商社が「仕込む」作業は非常に興味深い。ODAについては興味を持っていたが、 どうやってそのODA案件が産まれるかについてはあまり知識をもっていなかった。しかし、ンコンジャ氏が現在試行錯誤している橋建設プロジェクトのように、 日本のODA案件は日本人・日系企業によってコーディネートされていることは少なくない。日本の援助の基本理念として「要請主義」があり、 被援助国から要請されて形成される案件も勿論沢山あるのだろう。しかし、実際に日本人が関与しなければ、 被援助国の人間だけで案件を作ることは非常に困難な場合も多いはずだ。現地の行政機関にどれだけ政策形成能力があるのかが問題である。 政策形成能力が低い国では、要請主義は現実には機能しない。日本の商社などが現地政府の事実上のコンサルタントとなって、 「要請」の道をつけて行く必要がある。それでも、日本があえて「要請主義」を採用しているのは、なにより日本自身に、 現地におけるこのような途上国案件にかんするコンサルティング能力が乏しいため、案件の形成を現地に丸投げせざるを得ない事情がある、 といううがった見方も可能ではなかろうか。

私たちが明日訪問する予定のクリビのJICA漁村市場プロジェクトも、伊藤忠が案件を形成し、清水建設が建設を行ったという。 商社のような海外にネットワークを持つ日本人が、相手国のニーズを汲み取り、案件に載せる作業は、途上国にとっても、 日本の援助をより効果的に活用できるという点で好ましいし、また少しでも日本企業が利する分が増える工夫ができるという点で日本経済にとっても好ましい。 日本の商社がそのイニシアティブでODA案件を仕込むことは日本の国益に資するのであるから、もっと仕込む能力を高めてもらいたいと思う。


ドゥアラ市内視察



▽フランス植民地支配の栄光をいまに伝える広場: ドゥアラ市内視察

五時少し前に伊藤忠でのインタビューを終え、市内見学に向かった。

まず、政府広場Place du Gouvernementと呼ばれる市内の中央広場に着いた。広場の中心には噴水が設置されていて、その周りには緑が植えられ、 ベンチが置かれており、都心の憩いの場となっている。広場周辺には、郵便局や裁判所、博物館が立地していた。

このような広場や教会、市庁舎を市内の中心地に据えることはドイツやフランスなどの大陸ヨーロッパの国の都市構造として一般的であり、 ドイツもしくはフランス植民地時代の遺産である。確かにイギリスの直轄植民地であったラゴスには、ここが町の中心だ、 と言えるような場所はなく、「へそ」の無い都市構造をしており、都市を観察する上でもなんとなく紊まりが悪かった印象を覚えている。 日本の場合は、この都市の中心の機能を「駅」が果している点で、他国の都市と比較して特徴的であろう。

 噴水の中央部には、1914年から1918年の第一次大戦において、 ドイツ領カメルーンをめぐるフランスとドイツの間での植民地再分割戦争が起こった時に戦力として従軍したカメルーン兵士を称える記念碑が、 取り壊されることなく建っていた。また広場のすぐ脇には、フランス植民地の主要都市とその地方、兵士や戦闘機などの兵器・武器を描写する絵を刻んだ壁画と、 その正面に第二次世界大戦中にカメルーン兵士を率いたフランス軍司令官の銅像があった。ルクレールGeneral Leclercというこの司令官は、 第一次世界大戦中にカメルーンをドイツから「解放した」ためカメルーン人から愛されていたのだという。

壁画には、首都パリを中心に、 50余りのフランスの植民地都市の名前が刻まれていた。そのなかには、プノンペン、サイゴン、ハノイという、アジアの都市名もあった。 日本の江戸幕府は、ペリー来航を機に開国したあと大政奉還に至る15年ほどの間、急速にナポレオン三世のフランスに傾斜し、製鉄所建設や軍備近代化のため、 フランスから借款しフランスの産業技術を導入、パリ万博に出展、横浜に幕府立仏語学校も開設した。もし、徳川慶喜がもっと権力に恋々としていたら、 日本はやがて重債務国となってフランスの保護領化され、江戸や長崎の名が、サイゴンなどと並んでこの壁画に刻まれる事態となっていたかもしれない。

個人的な感想だが、この壁画はフランスの植民地支配の栄光を伝える以外の何物でもなく、 これが現在に至るまでカメルーンの中心都市の中心地に存在し続けていることが、現在にまで続くフランスの影響力の強さを示しているように思われた。 ボヤーでもそうであったし、ドゥアラでも植民地時代の建物がよく保存されていて現在でも活用されている。 このことからも、カメルーンは今でもフランスに対する心理的結びつきを持っていることがわかる。 これは、カメルーンがフランスに対して独立戦争をやったことがないことが一因となっているのかもしれない。 そしていまは、これが、EUの外縁すなわち「ワイダーヨーロッパ」という押収の覇権下ににアフリカを位置させる重要な基盤となっている。

▽植民地時代の建造環境と社会階層による住み分け

市内には、ドイツ植民地時代・フランス植民地時代に使用されていた建物が現在でも裁判所や役所として使用されており、 これら建物が存在する地域一帯は、重要な政治機能をいまも担っている。

ドイツ語で碑文が書かれた独軍総指揮官のモニュメントが立ち、当時の植民地官僚が住んでいたと思われる民家が多く残っているJoss地区を訪れた。 これらは、波型のトタン屋根で、質素なつくりをしている。ドゥアラがドイツ統治時代の首都であったことがわかる。 建物の保存状態は良く、現在でも植民地時代の住宅街が今日の高級住宅街として残存していることが伺える。 ホテルの窓から見えた家が、低層で屋根が平らなトタン状であるのと対照に、屋根はきれいでななめになっており二階建てのものが多く見られる。 そして敷地は塀で囲まれていて、庭には高い樹木が茂り、緑も比較的多い。

次に、ドゥアラで一番大きいと思われるカトリックの聖ペテロ・パウロ教会に立ち寄った。非常に大きく、立派な造りをしており、 ヨーロッパにある教会のようであった。内部は厳粛な雰囲気で、今でも教会として機能しており、お祈りしている人が複数いた。 ステンドグラスや多数の壁画など、凝った内装をしている。立派な祭壇や壁画があった。フランスはカトリックの国であり、こうした立派な教会も、 植民地宗主国のイデオロギーを広める一種の支配装置であり、フランス支配のシンボルのようであった。

教会を後にしてから、港湾の取材を終えたあとの午前中に通ったドゥアラ有数の商店街へと向かい、実際に歩いてみた。 電化製品店、衣料品店、薬局、写真店、日用雑貨店、スポーツ用品店、食料品店、自転車店など様々な種類の商店が軒を連ねていた。 「自由通り」と呼ばれる通りでは、排水工事がなされていた。人通りが多い。ナイジェリアで見たマーケットよりも、商品のバラエティーに富んでいるような気がした。


▽大規模な中国人商店街に圧倒される

少し街外れに進むと、そこには、中国の国旗が掲げられるなど、中国人経営のお店がならぶ大規模な中国人商店街であった。 扱っている商品はさまざまであり、消費財だけでなく、業務用に使う商品や生産財が目につく。

なぜ中国人がここドゥアラで写真屋を営んでいるのだろうかと思う場面もあった。中国語表記の看板を掲げている商店がいくつもあり、 ここで消費財を買う中国人客がそれなりにいることが察せられる。店員は中国人が多く、歩行者として実際の中国人を見たのはおよそ10人くらいだった。 中には私達と同じ年代の若い人もいる。どのような理由でここに住んでいるのか興味深く思った。家族一同移住してきたのか、 もしくは若くして出稼ぎに来ているのだろうか。いずれにせよ、日本の大企業の駐在員のように本国から危険手当つきで派遣されているわけではなく、 自らビジネスチャンスを実現してカネを稼ぐため、 自力で来ていることはまちがいない。町で歩けば「チャイナ」と必ず呼ばれるし、 中国人経営の商店が違和感なく営業を続けているのを見ると、ドゥアラにはそうとうに中国人が浸透しているのだろう。

国家レベルからの資源権益確保と、 草の根レベルから小規模商業による中国製品の浸透によるボリュームゾーン市場確保。上と下の両方からアグレッシブに攻める中国のアフリカへの進出には、 全く侮れないパワーがある。アフリカをいぜん「貧困者への援助対象」としか考えないことが多い日本は、はじめから相手にならないかのようだ。

▽国境からの距離が、闇市場の両替レートに反映する理由

最後に私たちは、ナイジェリアのナイラをCFAフランに両替をすることになった。 カメルーンに入国した際に、イデノーの港の両替所で十分な額のCFAフランを手に入れておらず、しかも驚いたことに、 首都ヤウンデではそもそも隣国の通貨ナイラとの両替ができないからである。

といっても、ドゥアラの銀行で、ナイラを取り扱っているわけではない。両替をしてくれるのは、街中の闇市場である。

両替レートは、イデノーと比べて20%近く悪かった。イデノーの港では1000CFAフランが280ナイラであったが、 このドゥアラの闇市場では1000CFAフランが333ナイラであった。勿論、いざという時のために現金は非常に重要なので、 私たちは、この悪いレートでしかたなく両替したが、通貨は、全国どこでも同じレートで日本円から米ドルやユーロに替えられるというような感覚でいた渡地たちには、 少し手痛い教訓となった。先生は、「旅行においては、自分が必要と思った半分の量の衣?と2?の現金を持っていくべき」と仰っていたのが印象に残っている。

私達がこのことから学んだのは、闇市場の両替レートは、その通貨が出入りする結節点から距離があればあるほど悪化する、ということだ。 今回の場合、私達はナイジェリアからカメルーンに入国して、ナイジェリアの通貨ナイラをカメルーンの通貨CFAフランに両替したかった。ここで結節点とは、 ナイラとCFAフランの取引が頻繁に行なわれている交通の結節点であり、 この地域では、両国の間で頻繁に人が行き来する国境通過地点のイデノー港が第一位結節点に該当する。

ではなぜ、闇市場では、頻繁に両通貨の取引がなされる結節点、つまり通貨の回転が速い地点でレートが良く、回転が遅い地点ではレートが悪くなるのだろうか。

これに答えるには、利子率の概念を入れてこなくてはならない。今回の場合、ドゥアラの両替商は、私たちと取引したあと、そのナイラ紙幣を保有することになる。 しかし、ドゥアラでは、イデノーほどにナイラ紙幣の需要がないため、次にナイラ紙幣を求める顧客にCFAフランと引き換えでそれを売却する機会が来るのは、 ある程度の時間を要する。本来、ある程度の時間を要するのであれば、その間ナイラを銀行に預けて利子を稼ぐことが出来るが、 ドゥアラではナイラ建ての貯金を扱う銀行はないし、なによりも次の客はいつ来るかわからないから、両替商はナイラの流動性を実際に保有し続けなければならない。 よって、この両替商は、その間本来得られるであろう利子を失うことになる。 そのため、つまり、流動性保有によって生じる機会費用=すなわち利子分が、交換レートに上乗せされるのである。 経済学で言う、時間コストとしての利子である。よって、どこの闇市場で両替するのが得か考える際には、どの地点で両通貨の両替頻度が最も高いか考えるべきなのである。

それにしても、カメルーンの経済首都であるドゥアラにおいて、お隣の西アフリカ最大の経済大国ナイジェリアの通貨ナイラが、 正式の金融機関で両替できないという事実には驚いた。ナイラ・CFAフランはいずれもはーカレンシーではなく、その流通国でしか使用されない。 国際決済は、米ドルやユーロで行われているのだ。

両替を終えた後、ホテルに戻る。非常に濃密な一日を振り返りつつ、美味しい夕食を摂った。IMFの構造調整政策の結果に触れたり、 港湾について新たに勉強したり、日本のアフリカ進出の問題点を認識したり、経済学の教科書にある時間コストの概念が利子に反映される命題を実地に知るなど、 有意義な一日であった。


(佐藤 剛)

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