国境に向けて出発



▽洗濯代を請求された

巡検8日目。今日は、ナイジェリアからカメルーンに高速船で渡る日である。到着後、ボヤー大学ではインタビューがある。
我々は、一昨日から泊まっていた「ミラージュホテル」で、午前6時過ぎから朝食をとった。 朝から贅沢なビュッフェスタイルで、オムレツやホットケーキなど各自好みの物を食べた。朝食後私たちは、7時の出発に向けて準備を進めた。

ここのホテルは、巡検全体を通して、最も高価なホテルであった。このためか、この朝、予期しない出来事が起こった。 ここでなんと、ガイドから、これまでのナイジェリアでの7日間、一度も請求されなかった洗濯代と飲み物代を請求されたのである。 ゼミ生の中には3500ナイラも請求される者もいた。私たちの旅費には初めから、食事代を含んでいた。洗濯や飲み物などの料金は含まれてはいなかったが、 これまでは旅行社が洗濯代や飲み物代を払ってくれていた。食事代などが、予算よりも安く上がっていたからにちがいない。 しかし、このホテルは特に高価であり、旅行代金の予算を超えたのだろう。到着日の夜、私たちが、どうせ旅行社が払ってくれるさ、 と気が大きくなって中華料理を大食いしたのも原因かもしれない。

▽カラバルの波止場で

ホテルの受付には、白人の男女がいた。久しぶりの白人の登場に少し驚いた。やはりここは高級ホテルなのだと認識した。 午前7時過ぎ、私たちは、ガイド2人、警官2人、クロスリバー州の観光局の人と共に、カラバル港を目指しホテルを出発した。

今回、私たちがナイジェリアからカメルーンへの国境越えに高速船を使うのは、カメルーンへの国境越えの道路で、カメルーン側の道路が整備されておらず、 雨季にはその道路が使えなくなるからである。コートジボアールからナイジェリアに至る西アフリカの国々は、一応幹線道路で結ばれていて交通は頻繁であるが、 カメルーンは中部アフリカで、西アフリカとは異なった地域のくくりに属し、余り関係が緊密でない。カメルーン側があえて国境近くの道路を整備せず、 ナイジェリアに飲み込まれるのを必死にこらえているという印象もある。

前日行った教会のそばを通り、30分ほどで港に到着した。港といっても、ここは貿易港ではない。 現地の人がオロン港へ行くための移動用として使っている、小さなフェリーの波止場である。






船だまりの右側には、Calabar Marine Resortと書いた一階建ての待合室のような建物があった。 大人は200ナイラ、7歳以下は無料で利用できると看板に書いてある。しかしその上から、全員無料という紙が貼ってあった。 港には、車が3台ほど停まり、屋根の無いコンクリートの広場には、これから船に乗るのであろう30人ほどが待っていた。



珍しい東洋人の出現に彼らは興味津々に我々を見てきた。この周辺は治安が悪いエリアであり、ゼミ生一同先生も含め、出発まで車の中で待機した。 この間に、乗船名簿に名前やパスポートの番号などを書かされた。 船だまりには、小型のボートが15隻ほど停まっていた。どの船も決して綺麗と言えるものではなかったが、そのほとんどがYAMAHAの船外機を取り付けていた。 中国製よりも日本製の船外機のほうが、やはり質がいいらしい。。出発まで20分ほど、車の中で待機した。 待っている間、一隻の船が出発した。対岸のオロンに向かうのであろう。船外機のついた小さいモーターボートに、窮屈そうに20人が乗り込んでいた。

▽救命胴衣を着けてモーターボートに〜増す緊張感

やっと乗船できることになった。私たちだけで船を貸しきり、まず、ここからクロス川を渡って対岸のオロンに向かい、 そこでナイジェリアの出国手続きをしてから、ギニア湾に出て、アフリカ大陸が直角に曲がっているところを南東方向に、カメルーンのイデノー港まで向かうのである。

船は、屋根のない、YAMAHAの船外機の付いた緑色のグラスファイバー製のモーターボートであり、先ほど20人乗り込んだものと同じであった。 ガイドが先ほどの港の利用許可証を赤色の服を着た港の係員に渡した。






その後、我々は車から全ての荷物を降ろし、埠頭まで自ら運び、船の前側に積んだ。 その後、危険回避のためライフジャケットを着用した。ライフジャケットの種類が3種類ほどあり、その一つはかなり新しい物であった。 ライフジャケットを着用すると、急に緊張感が増してきた。船の後方に3列に分かれて乗り込んだ。船の底には水が少し溜まっていた。



ここで、アブジャから案内してくれていたガイド2人と、警官2人と、観光局の人とお別れした。 ガイドと警官とはまた9月9日にカメルーンからナイジェリアに、北部バンキの国境を通り戻ってくる時に会う予定である。 無事に再会できることを祈りつつ、握手を交わした。

船には我々6人と操舵手、海軍の人が二人乗り、全員で9人となった。全員が乗り込み、すぐに出発するのかと思っていたが、なかなか出発しない。 すぐにその理由が分かった。船着場で2,3人の男たちがこちらに向かって、何か文句を言っているのである。 その内容は「本来この埠頭を利用することになっていない我々が、港を長時間占拠している」といったもののようであった。 厄介なことが起こったと心配していると、すぐにガイドが2000ナイラをその男たちに払い、問題は即座に解決した。 このようなとき、dashと呼ばれる一種の「賄賂」は、角を立てずに社会関係の潤滑油の役を果してくれる。

▽狂乱のスピードでクロス川を突き進む

結局、予定を30分遅れ、8時過ぎにオロン港目指し、私たちのモーターボートは出発した。 ボートは急旋回するやいなや、急にスピードを上げた。私たちは、予想を超える猛然としたスピードに驚き、思わず身をかがめた。 先ほどいた港はすぐに見えなくなり、川が広がっていった。川といっても、今海に注ごうという大陸の川は、大変に広い。



マングローブの木々が生い茂った大きな中州があって、対岸のオロンの町は全く見えない。 船は、カラバル川の真ん中を疾走した。横揺れがひどく、船から落ちそうで恐かった。遊園地のジェットコースターと同じで、気が弱い人にこの乗り物は薦められない。 川は濁っていて、天気も悪くどんよりとしていた。少し行くと、進行方向左側にクルーザーのような贅沢で大きな船が停まっていた。 カメルーンに船で行くというので、このようなクルーザーでのんびり優雅な航海を予想していたゼミ生もいたらしい。地元の漁師の船とすれ違った。 彼らの船には船外機は取り付けられてはなく、漁用の網と人が二人乗っていた。ここにもまた、ナイジェリアの中の二重経済の様子が見えてくる。

途中、操舵手から、座っている席を3列から2列にするように促された。船のバランスが悪かったらしい。 操舵手の船の操作は手馴れたもので、しだいにスピードに慣れてきた私たちのあいだに、信頼感と安心がひろがってきた。 船の中で海軍の人が、韓国人や中国人は頻繁にカラバルからオロン港までの移動のために、この船を利用しているということを教えてくれた。 このようなところに観光とは思えないから、仕事のためなのであろう。ここでも、日本人のプレゼンスは乏しい。 出発して30分くらい経った時、雨がぱらつき始めた。幸い雨は本降りにはならず、少しして止んだため、助かった。 それでも我々はレインコートを着ていなかったため、少し濡れてしまった。 船は、オロン港に近づき、右に大きく旋回した。この時は落ちそうに感じて、再び恐ろしかった。そうこうしているうち、に午前9時前に船はオロン港へ到着した。

オロン港に到着



▽ひと気のないオロン港で出国手続き

オロンは、カラバルよりずっと小さな、河口の町である。ここは、カメルーンへの国境越えの交通拠点となっている。 埠頭に人はほとんどいなかった。川のぎりぎりの場所は、木材やゴミが散乱し、その手前に簡単な高波防止用の役目でもあるのか低いながらも壁があった。 その奥に、川に面して、出入国審査所を左右に民家が何軒か並んでいた。屋根はトタン葺きである。家の周りにもごみが散乱し、ヤギがそれを食べていた。

ここでいったん船を下り、私たちは出入国審査所に向かった。「NIGERIA IMMIGRATION SERVICE ORON CONTROL」と書かれた一階建てのコンクリート作りの建物で、 出国審査が行われた。 最初に通された部屋では、中には係員が一人と机と椅子があるだけだった。部屋の中はピリピリした雰囲気であり、とても緊張した。 最初の部屋で係員がノートを取りながら、名前、職業、何日滞在したかなどを聞いてきた。その後、次の部屋に通された。そこには別の係員が一人いた。 パスポートを見ながら最初の部屋で聞かれたことと同じようなことを聞かれた。また学生証を持っているかと聞かれた。 私が持ってないと答えると、それ以上何も言われなかった。最後にようやく、出国スタンプを押してもらった。 30分ほどで全員出国手続きを完了し、この建物のトイレを順々に借りた。トイレは自分で水を汲み、流すスタイルである。

出国の手続きを終え、先ほど着いた埠頭へ戻った。そこで地元のジャーナリストの女の人が私たちの写真を何枚も撮っていた。 ボートの前方に積み込まれた荷物は、すでに大きなビニール袋に詰められていて、雨に濡れないようにしてくれてあった。 ここで、レインコートを持っていないゼミ生はレインコートを買った。レインコートは一つ1000ナイラであり、3人分買いたかったが、 2人分しかレインコートの在庫がなく、仕方なくゼミ生の一人はレインコートのないまま乗船することとなった。黄色のレインコートは意外にも丈夫であった。

船には、操舵手と、先ほどとは違うガイドと我々6人の計8人が乗り込んだ。 午前9時50分、予定より1時間弱遅れて、私たちはいよいよカメルーンのイデノーへ向けて出発した。

▽滝のようなスコールの中、ギニア湾の大海原を驀進

船は、ぐんぐんスピードを上げていく。スピードは5〜60キロであろうか、すぐにオロンの街は見えなくなり、緊張感が高まってきた。 風は弱く、波は穏やかであったが、空には雲が広がっていた。遠く彼方では雨が降っているようであった。 海には木などが浮かんでいたが、この操舵手も、先ほどの人と同様、見事なテクニックでそれらを避けながら進んでいく。 海のように広いクロス川を下り、船はいよいよ広大なギニア湾の海原に出た。 左を見ると、私たちと逆のルートでカメルーンからナイジェリアのオロンを目指している緑色のモーターボートとすれ違った。 このスピードボートのルートが、カメルーンとナイジェリアを海岸部でつなぐ重要な国境越えルートとして使われているのが分かる。 周りには、何隻か漁船がいた。先ほどのオロン港近くの漁船とは異なり、ヨットのように帆が付いていたが、船外機は取り付けてはいなかった。

出発から1時間弱ほどした時、遠くで何かが燃えているのに気付いた。近づくとそれが石油の海底油田リグと青い色のタンカーであることが確認できた。 ちょうどそばを通った時、巨大なタンカーが横付けになっていて、石油が積みこまれているときであった。会社の名前などは確認できなかったが、 壁には「AGBANI」と船名が書かれ、クレーンや煙突などが確認できた。 この地域よりかなり西のポートハコートの南のニジェール川デルタ地帯では石油のプラントが武装組織によって攻撃されている。 その地域からは離れているとは言え、そばを通るときは非常に緊張した。

進行方向左手を望むと、バカシ半島が見えてきた。ここは、カメルーンとナイジェリアが国境をめぐって争ったところである。 軍事衝突も起こったが、海の上から見るととても紛争がおこっているとは思えない、静かな森のように見えた。 かつてのドイツとイギリスの植民地時代の国境線を踏襲するかたちで、すでに問題が解決しているとはいえ、一番緊張感が高まった瞬間であった。


やがて、ガイドと操舵手が昼飯を食べはじめた。ガイド氏と操舵手は、パンをそれぞれ1枚と袋に入った水で昼食を済ませていた。 とても質素な昼食であり、二重経済の下の階層の人々が何を食べて過ごしているか、垣間見た感じがした。ガイド氏は、自分たちのパンを我々に分けてくれた。 食パンに似た感じであったが、口触りはぱさぱさしており、味は防腐剤か何か、薬品の味がかなりした。ゼミ生の中には、貰ったのは良いが 、なかなか食が進まない者もいた。ガイド氏は、このパンが150ナイラであると教えてくれた。 日本円で約130円程度であるから、一般のナイジェリア人の所得から擦ればかなり高価である。 だが、その量は非常に多く、薄い食パンが15枚ほどは入っていた。

天候がよければ、正面に標高4000mをこえるカメルーン山が望まれるところであるが、雨季のため、残念なことに山の姿は厚い雲に覆われていた。 私たちのスピードボートは、たじろぐことなく、この厚い雲の下に突っ込んでいった。 そこは、強雨帯である。屋根のないボートにいる私たちを、滝の中にいるようなすさまじい大雨が容赦なく襲った。 1000ナイラのレインコート、そして頑丈に荷物をビニールに包んだのが何故か、その理由がよくわかる。

強雨のなかを、ボートは少しもスピードを緩めずに突き進むため、前列に座っていた二人は真正面から雨を浴び続けた。 強い雨で視界もきかず、今ここがどこらへんなのか、いつ到着するのか、そういった情報はまったく分からない、自分の身を雨から守るのが精一杯である。 私たちは、雨に打たれ続けながら、しだいに心配な気分になっていった。



30分ほどしてようやく雨が止み、空がすこし晴れあがってきた。それと同時に、正面にカメルーンの海岸が見えてきた。 いぜん頂上は見えなかったが、前方には、カメルーン山の麓がその姿を現した。 あと少しで到着だと皆が思ったが、ここからまだ遠かった。30分近くボートは走り続けた。 残念ながら視界はまだ余りきかず、右側に見えるはずの赤道ギニアの島は望むことが出来なかった。 赤道ギニアは、カメルーン山と同じ火山帯に属する火山島であるが、こちらは元スペイン領であり、カメルーンと別の国になっている。

ここで、今まで何があってもスピードを落とさなかったボートが急に止まってしまった。エンジンの調子が悪いようである。 操舵手がエンジンのふたを開け、少しいじくるとその後復活した。海の上で船が止まる経験はもう二度としたくないと思った。

午後12時45分、私たちのボートはカメルーンの海岸線に接近した。ここで左に急旋回し、河口に入っていった。 熱帯の空の下、雨で濡れた寒さに震えながら、私たちはついに無事、カメルーンのイデノー港への到着を果たした。 ちょうど3時間の、スリルに満ちたスピードボートの国境越えであった。

カメルーン入国



▽イデノー港〜賄賂もなく、英語で入国手続き

イデノーの港の施設は、河口から入った川べりの入り江のようなところにあった。到着したイデノーの港は汚く、そこら辺にゴミが散らかっていた。 港といっても、きちんとした埠頭や立派なターミナルビルなどは無く、大きな小屋が4,5軒建っているだけだった。 こんな場所だが、町自体にはかなりの人が住んでいるようだ。出入国手続き関係の仕事に、かなり雇用があるのかもしれない。

到着してすぐに、船の中から岸へ向かって写真を撮っていると、海岸に立っていた国境警備員らしき男にそのカメラを渡すよう要求された。 上陸時に岸に向けて写真を撮ったことを怒っているらしい。しかたなくカメラを渡し、上陸した。カメルーンとはいっても、ここは英語圏である。 国境警備員もみな英語を話していて、少し安心した。

ボートが港に着くと、すぐに屈強な男たちが近寄ってき、勝手に荷物を運んでいった。トイレ用の建物が近くにあったが、鍵が開かず、結局外で用をたすしかなかった。 我々はすぐにガイドのジョージと会うことができた。ジョージは英語・フランス語が堪能で、大変気さくな人物であった。 ジョージに私たちはパスポートを渡し、彼が私たちの代わりに入国審査を行なってくれた。 私たちは、東京は世田谷区の閑静な住宅街にあるカメルーン大使館ですでにビザを取っていたので、問題なく入国スタンプをもらうことができた。

荷物は、小屋のような税関の建物に持って行かれた。しかし、荷物をほとんど見せることなく、 賄賂のようなものを係官に払う必要も無く済ますことが出来て、いたって簡単であった。

その間に私たちは両替を行うことにした。木で出来た青い建物の中で、スピードボートの組合が両替を行っていた。 机と長椅子が置かれた粗末な両替所で、レートは280ナイラ=1000CFA中部アフリカフラン(コード:XAF、西アフリカのCFAフラン(コード:XOF)とは別種)であった。 私たちはカメルーンにいる間、いつでもこのレートで両替できるとばかりおもっていて、ここで余り両替をしなかったのだが、 これが大きな誤算であったことが後にわかる。なお、国境の両替所はナイジェリア側には見当たらず、カメルーンのイデノーにしかなかった。 つまり、この両替は、スピードボート組合が便宜的に行っているものであり、ナイラとCFAとを取引する、 きちんとした銀行が関わる通貨市場があるわけではないようである。 両替を終え、荷物を運んでくれた人が余りにもしつこいので、しかたなくチップを払い車に乗り込んだ。 そこでガイドからパスポートと共に、先ほど取り上げられたカメラを返してもらった。

私たちの車が出発したのは、午後1時15分であった。ここからまずリンベに向かい、そこで昼食を済ませ、その後ボヤーに行く。 そして夕方ボヤー大学の地理学科でのインタビューをする予定である。

▽プランテーションの中を車は進む

イデノーからリンベまで、私たちの車は、ギニア湾の海岸線にそってカメルーン山のふもとを回り込むように進んで行った。ここでもカメルーン山は見えなかった。 走り出してすぐ、整然と並んだパイナップルやパーム油、バナナ、お茶などの商業的プランテーションが広がった。 このプランテーションは,、ドイツの植民地時代に始められたものという。その様子は、今までいたナイジェリアの農民自身の手になる農地の様子とは全く異なっていた。

【カメルーンの歴史】
カメルーンは、第1次大戦までドイツの植民地だった。ギニア湾岸のこのあたりに、19世紀半ばからドイツ商人が交易のため入り込んでいたことに乗じ、 1884年にドイツが沿岸部を保護領とした。アフリカ大陸を欧州諸列強のあいだで植民地としてどのように山分けするか取り決めたベルリン会議で、 この地域がドイツ領と決まると、これをもとに、ドイツは20世紀初頭までに内陸部に侵攻、諸部族を支配下においた。 植民地の面積は75万平方キロメートルに達し、プランテーション経営などが行われた。第一次世界大戦でアフリカが植民地再分割戦争の対象となり、 カメルーンはドイツと仏・英との間の戦場となった。 ドイツの敗戦によってカメルーンは英国、フランス、ベルギーの連合軍に占領され、1918年のベルサイユ条約によって、 「国際連盟の委任統治領」という名目で、英仏両国の戦勝権益として、イギリスが英領ナイジェリアの国境に近い地方の全体の5分の1、 フランスが残りの5分の4と山分けされたのである。このきわめて人為的な上置境界は、いまでも、 英語圏と仏語圏という2つのカメルーンの言語領域にはっきり受け継がれている。

参考文献:『ジェトロ貿易市場シリーズNo.239 カメルーン』1983年 参照


プランテーション以外の場所は、熱帯雨林が広がり、道には椰子の実が落ちていた。木を積んだ車ともすれ違った。 途中、CDC(Cameroon Development corporation)という国営の熱帯作物のプランテーション、バナナやゴム、油やしなどを作り、 作物を加工する企業などが海沿いに見られた。また国営の製油所もあった。タンクローリーが何台も止まっていて、ガスのタンクもいくつか見える。 熱帯雨林にはさまれて時折見える民家は、どれも木やトタン板でできた質素なものであった。家の目の前に洗濯物を山ほど干していた。 1時間ほど経ち、私たちの車はリンベの町に到着した。人口が違うからであるが、これまでのナイジェリアの街と比べて、とても静かで落ち着いた街であった。ここにもプランテーションも多く広がっていた。また、植物園があった。

▽赤道ギニアのマラボ山を眺めながら、フランス風の昼食

リンベでは、海に面したAtlantic Beach Hotelで昼食をとった。とても綺麗なホテルで、外にはプールもあった。 天気がよくなったので、我々はレストランの中ではなく、海が見える外の席で昼食を取った。海の向こうには、赤道ギニアのマラボ山の山影がかすかに見えていた。 テーブルに着くと、すぐに綺麗にフランスパンが盛られた皿が運ばれてきた。料理の味付けも辛くなく、とても美味しい。 スープ、メインディッシュ、デザートと順々にコースで運ばれてくる。 カメルーンでも、この地域は英領ナイジェリアの延長上に位置づけられ、第一次大戦後は英領となったはずであるが、 食事などの様式は、ナイジェリアと違って明らかにフランスの影響が濃い。このランチに、ここはナイジェリアとは別の国であることを実感した。

隣には、スーツでビシッと決めた黒人のエリートらしき人二人が、なにやら真剣な話をしながら、食事を取っていた。 リンベに来るまでに見た人と比べると、ここもまた二重経済の上のホテルであることを感じさせた。 緊張した船旅を終えたあと、ゆったりとした海辺のレストランで私たちはようやくわれを取り戻した気分になり、潮風に吹かれながらゆっくりとランチタイムをすごした。

▽カメルーン山の山腹を登って、ボヤーへ

昼食を済ませ、私たちはボヤーに向けて出発した。ボヤーは、ドイツがカメルーン植民地をつくったとき、最初の首都とされた、高原の町である。 海岸からボヤーまで、標高差にして1000mほど車で山道を登ることになる。






ホテルを出てほどなく、リンベの街中に日本政府からのODAで作られた小学校があった。 平成19年度ODA民間モニター報告書によれば、第三次小学校建設計画においては、中部州及び南部州の11地域に12校の小学校を建設する予定になっている。 カメルーン国内で日本のっプレゼンスの代名詞とも言えるのが、小学校建設なのだ。 学校は、1mほどの茶色い塀に囲まれており、中には二棟の簡素な校舎が建っていた。2階建てで1・2階全部あわせた15部屋ほどは教室がありそうに感じた。 他の様子は見えなかったが、敷地はかなり広く、グラウンドなどもあると思われた。校庭には日本国旗が立てられていた。 この旗は、日本政府が立てたのではなく、小学校の人が日本に感謝して立てたのではないだろうか。 ここでガイド氏が、カメルーンでは日本のODAによる小学校建設に対してとても感謝している、と語ってくれた。

すぐに道は山道になった。道は舗装されておらず、あまり整備されていなかった。道沿いには、山に沿うように民家がぽつぽつと並び、 周囲にはダージリン種の茶畑が広がっていた。標高が高くなるに連れ、霧がひどくなっていき、一時はほとんど先が見えないようなときもあった。




30分ほど走ったとき、道で警官が行なっている検問に引っかかった。パスポートを見せるよう言われ、ビザなどをチェックされた。 特に問題はなく通過することが出来た。

山道にもかかわらず、電線が途切れることなく続いていたのが印象的であった。電気の供給はかなり進んでいるのであろう。 午前中の船での移動の疲れが出たのか、多くのゼミ生が車中うとうとしているうち、そして午後4時30分、ボヤーの町に到着した。今夜の宿舎は、Capitol Hotelである。

【ボヤーの歴史】
ボヤーは、カメルーン植民地の変遷にあわせ、その都市の政治的な中心性がめまぐるしく盛衰した都市である。 1901年から1909年までドイツ領カメルーンの首都であったが、ドイツの敗戦後、イギリス統治下のカメルーン時代には、人口が大きく減少した。 だが、独立後、1961年から72年まで、旧イギリス領カメルーン南部と旧フランス領カメルーンとの二つの州からなる連邦国家であった当時は、 英語圏のカメルーンの首都になって、再びボヤーの重要性は増した。しかしこれも、独立後11年しか続かなかった。72年に連邦制が廃止されると、 ヤウンデが統一カメルーンの首都となって、ボヤーの政治的重要性は失われた。だがその後、94年に西カメルーンの独立運動が盛んになり、 南カメルーン国民会議(SCNC)が結成され、ボヤーは、SCNCの拠点のひとつともなっている。現在、ボヤーの人口は6万人である。

参考文献:Cameroon Bradtガイドブック p.124 を参照


キャピタルホテルは、外壁が白の、レンガ造りで柱や屋根の淵が水色に塗られた小さなかわいいホテルであった。 入り口のすぐ左にレストランがあり、客室は右の階段の上にあった。部屋の鍵は開きづらく、部屋に入るのに時間がかかった。 部屋にはベッドと上から吊るされているテレビ、小さい机だけ、とてもシンプルであった。バスルームは綺麗であったが、トイレの流れは悪かった。 しかしこれまでのホテルと異なり、小さいながらもバルコニーが部屋についていた。そして、高原のため、マラリアの心配をほとんどしなくてよいのはありがたい。 濃い霧が原因でホテルの裏側に見えるはずのカメルーン山が全く見えなかったのは残念であった。 翌日市内視察の時に見られることを信じつつ、船旅の疲れを振り払って、私たちは、30分後のボヤー大学へのインタビューに向けて準備した。

▽ボヤー大学へ出発

午後4時50分に、私たちはホテルを出発した。始めは来た道どおり、がたがたと山道を進んで行った。少し行くとボヤーの市街地に出た。 市内の道は整備され、車が多く走っていた。人も大変多くいた。 街自体の雰囲気はあまり綺麗とは言えないが、道路沿いには、歩道も整備されていた。

道路のすぐ横の道端ではマーケットが開かれており、多くの人が集まっていた。地面にそのまま野菜や果物を置いて、売っている。 またパラソルを建て、その下で日用品から食べ物、携帯電話版公衆電話の店まで多くの店が開かれていた。 そのまま街の中心部に来ると、建物の中に店を構えている人たちも多く見かけるようになった。薬局などもあった。



街に入った当初は一階建てのトタン板の屋根の家が多かった。しかし中心部に近づくにつれて、二階建て、三階建ての最近建設されたであろう立派な建物も増えていった。 そのような建物は一階にお店が入り、二・三階が住居スペースになっているようだった。

ボヤー大学でのインタビュー



5時過ぎに大学に到着した。入り口にUniversity of BUEAと書かれた大きなアーチが建って いて、大学の中に道自体が続いている。キャンパスには、芝生と熱帯雨林の植生とが綺麗に植栽されていた。 学生自体はそれほど多くなかったが、より集まってサッカーをしたりしていた。それぞれの学部ごとに校舎が別々であった。



門から5分ほど走り、目的地の地理学科の属している、社会・経営学部(Faculty of Social and Management Sciences)の校舎に到着した。 コンクリートで出来た箱型の校舎であった。







中に入るとすぐの壁の掲示板にレポート提出を催促されている学生の名前が掲示されていた。どこの国の学生も変わらないと感じたが、 レポートが遅れた個人名を掲示板にさらすというのは、厳しい。アメリカの大学と連携して、学位をもらえるシステムの紹介する紙が張られていた。 2階の会議室のような場所に通され、インタビュー開始を待った。



▽インタビュー開始

地理学科長のASONG Alexander ASAHA氏(アソンゴ氏)が我々の訪問を快く迎えてくれた。 席に座り、始めに、我々が今日の午前中にカラバルからボヤーまで船外機付きのボートで5時間弱かけてやってきたことを言うと、大変驚かれた。 その後、互いの自己紹介、我々のゼミの目的などを話し、インタビューへ移った。 まずボヤー大学自体のことについて伺った。


【ボヤー大学】
ボヤー大学の大学のホームページhttp://www.ub.cm/docs/about_ub.php によると、 ボヤー大学は、1993年に設立された州立大学である。社会・経営学部(Faculty of Social and Management Sciences)、 人文学部(Faculty of Arts)、理学部(Faculty of Sciences)、教育学部(Faculty of Educational Sciences)、健康科学部(Faculty of Health Sciences)、 の五つの学部がある。また通訳・翻訳専門学校(the Advanced School of translators and Interpreters)を持っている。 学生の数は合計一万人で、そのうち女性が51%である。授業での言語はすべて英語で行われている。アシスタントも含め全部で305人の教員がいる。 このほか、6週間の英語研修プログラムがあり、仏語地域からボヤー大学にやってきて、英語を学ぶ学生もいる。



▽卒業後の進路(地理学科)

ボヤー大学地理学科の卒業生は、民間企業・政府機関・学校の先生、などの職に付く。または院生となって大学に残る。その中でも特に政府機関が中心である。 政府機関の雇用の15%を西カメルーンからの者雇用することに決まっている。 現在、就職の状況は非常に悪く、10人に1人しか仕事がない状況である。その大きな理由は、民間部門が安定していないことであるとおっしゃられた。 ボヤー大学の学生は英語が話せるため、優秀な生徒はベルギー、ドイツ、スウェーデン、オランダといったEU諸国やアメリカなどへ働きに行ってしまう。 その中で将来、カメルーンに帰って来る人はほとんどいないという。教授たちは人材の流出についてとても悲しんでおられた。また平均月給2万CFAであるという。

▽なぜ、植民地分割の遺産・マイノリティの英語が強く残存しているか

現在、カメルーンではフランス語と英語の二カ国が公用語に指定されている。独立までドイツ語のままだったなら、 今でもカメルーンの公用語はドイツ語一ヶ国語と単純だったであろうが、ドイツ領の植民地を山分けしてカメルーンを2つに分け、 イギリスもフランスも、自国の覇権をそれぞれの地域に拡張しようとしたため、戦勝権益山分けの境界がそのまま言語境界となって刻み付けられ、 もはや永遠に消すことが出来ない領域性をアフリカのこの地に刻み付けてしまったのだ。

カメルーン全体としては、英語よりフランス語が優勢である。ではなぜ、独立後の中央政府は。英語圏のカメルーンにフランス語を強要しなかったのだろうか。 質問してみると、伝統が強かった西部地域にフランス語の利用を強要すると、戦争が起こっていただろうとおっしゃられた。 また他面には、政府は国内に英語圏を残すことが重要であると考えたからだ、ともいわれた。 それは教育システムの保護も意味していた。フランス式のバカロレアだけではなく、 イギリス式のGCE(General Certificate of Education)といったシステムも温存しておきたいと考えたというのである。

ここで私たちの頭に浮かぶのは、英語ならびに英国の制度がグローバルに持つ普遍性である。 つまり、独立後も植民地宗主国の言語である英語をそのまま堅持することで、その国は、グローバルな社会関係への参入が容易となるのである。 これは、旧英領植民地のインドやシンガポールの場合を考えてみれば良くわかる。もし、西カメルーンの言語が、グローバルな通用性の乏しい、 例えばアフリカーンスのようなものだったら、たちどころに放棄されていたであろう。

事実、この地域に住む多くの人が、フランス語圏カメルーンではなくナイジェリアで高等教育を受けたり、またフランス語圏のエリートたちは、 英語を身につけさせるため、わざわざ英語圏カメルーンの高校に、自分たちの子女を内地留学させたりしているのである。

▽カメルーンの鉄道の重要性

次に私たちは、ナイジェリアでの鉄道の現状を話し、カメルーンの鉄道インフラのことについて伺った。 カメルーンの鉄道は、1.06mの狭軌を使っており、鉄道の建設などアドバイスは、フランスの政府が関わった共同企業体が行っているという。

鉄道は、カメルーンの国家統一において非常に重要である、とおっしゃられた。特にドゥアラとンガウンデレとの間の鉄道が重要であると言う。 ンガウンデレは中央アフリカの輸送の中心地で、輸入や輸出において、北から綿や牛を運んでいる。 ンガウンデレからチャドの首都ンジャメナへ路線を延長する計画もある。

しかし一方で道路があまり整備されていないため、鉄道に頼っているともおっしゃられた。 先ほどのドゥアラ−ンガウンデレ間には道路はあるが、整備されておらず、事実上大量輸送を可能にしているのは鉄道だけなのである。

▽カメルーンとナイジェリアの国境

次に、ナイジェリアとカメルーンの国境の話になった。 私たちが今回カメルーンに来る際に船を利用したことからも分かるように、ナイジェリアとカメルーンをつなぐ南部の道路ネットワークは整備されていない。 ナイジェリア側の道は整備されているが、ひとたび国境をこえたカメルーン側の道は、全然整備がされていない。 そのため雨季になると、道は水浸しになり、利用することができなくなる。

その理由として、地理学科の先生方は、まず森があることが問題だ、と言われた。 また、領土紛争(バカシ問題)が原因となって、カメルーン側にナイジェリアとの交流を盛んにさせようとする機運がうまれなかったのも理由かもしれない。 しかし、もし立派な国境越えの道路を完成させてしまったら、人口が10倍も多いナイジェリアから流入してきた大量の人・物でカメルーンは溢れかえり、 カメルーンはナイジェリアに飲み込まれてしまいそうになる。そのためカメルーン政府はなかなか道路の整備をしないのではないか、 というようなご意見であった。現在200万人のナイジェリア人がカメルーンにいるとおっしゃった時、あまりうれしそうな顔をされてはいなかった。 このつながりでECOWASのことをどう考えているか伺うと、他の経済共同体である、とあっさり切り捨てられてしまった。 改めて、ナイジェリアとは別の、新しいアフリカの経済圏に来たことを実感した。

とはいえ、北部では国境の存在自体がとても緩く、かなり自由に行き来できる環境が整っているらしい。 マルアなどがその行き来の中心地である。国境の両側で民族が一緒であるため、文化が似ている。そのためかなり自由に行き来できる。 ここは、比較的道路が整備されているので、北部の国境経由でナイジェリアから物資が入ってきているようである

▽電力

ここで私たちは、ナイジェリアでひどかった停電について、カメルーンの状況を聞いた。 現在カメルーンでは、停電はほとんど起きない。電力は AES-SONEL というアメリカとカメルーンの合弁企業が電力を供給している。 将来、カメルーンがCEMAC(中部アフリカ経済通貨共同体)の電力供給の一番の中心地になるつもりであるということであった。また地熱発電も行われている。

▽インタビューを終えて

インタビューを終え、教授たちはボヤーの詳しい地図と都市計画図をくれた。 その後、校舎の入り口まで見送ってくれた。

西部カメルーンの歴史や教育、またナイジェリアとの交通の話など、興味のある話をいろいろと聞かせてもらってとても面白かった。 外はもう暗くなっており、真っ直ぐホテルへ向かった。

ホテル到着



ホテルに到着したのが7時前であった。部屋に戻り、夕食まで休憩していた。 今夜の滞在は、高原なのでマラリアの心配も要らず、せっかくなので、バルコニーで休憩をしてみた。 バルコニーからは、数軒の民家の明かりしか見えなかった。木でできた二階建ての家で何部屋も横に繋がっていた。それは長屋のような雰囲気であった。 ちょうど仕事から帰って来たのかどうか、何人も男の人が家に向かって歩いていた。

 夕食のため、1階のレストランに集合した。中には予想外にもたくさんお客さんがいた。 確かに駐車場には4、5台の車が停まっていた。白人の夫婦や黒人の裕福そうな人がカウンターバーで酒を飲んだり、食事をしたりしていた。 また若者も数人いた。私たちは、早速注文した。フランス料理でよく使われるウサギ肉などがメニューにならんでいた。 ここは英語圏カメルーンであるが、料理はフランス料理であった。ナイジェリアのホテルと同様に、メニューに載っている料理の半分以上が用意されていない。 結局、チキンやスープなどを食べた。味はここでもなかなか美味しい。料理を運んでくるのが遅く、全部で2時間近くかかった。 夕食を終え、それぞれ部屋に戻った。今日のタフな移動の疲れを取るためにも早めに床に就いた。


(吉村 崇)
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