デューク州知事によるカラバル文明化政策は成功!


▽クロスリバー州都、カラバル

 カラバルは、デュークという前任の州知事が、積極的で開明的な地域振興策を打ち出したことで名高い、クロスリバー州の州都である。 前日のロコジャからの610kmに及ぶ大移動の疲れもあり、朝は遅めの出発であった。

 私たちは、ティナパ開発プロジェクトに向けて車に乗り込んだ。雨季のため雲が多く、快晴とまではいかないが、海に近いこともあってか、決して暑くなく気持ちがいい。 カラバルは赤道に近く、植生もヤシの木が目立つ。道路沿いは草が短く刈られていることが多いが、それ以外では木々が密集して地面を覆っており、まさに熱帯雨林といった様子である。 ホテルの周りは立派な塀がついた邸宅が立ち並び、きれいに整備された道とあいまって高級な住宅地であることが伺える。電線も張り巡らされ、電化がかなり進んでいるように思った。ただ、発電インフラが不足のため、前日体験したように、一時間に一回は3分程度の停電がある。 きれいな赤い屋根の、真新しい教会もその一角にあった。カラバルでは植民地時代、ポルトガル人らによる布教活動の結果、カトリック教徒が多いということだ。これは、プロテスタントの国教会であるイギリスとは宗派が違う。長崎県に今日でもカトリック教徒がたいへん多いのと同様、一度種をまくと長く続くという宗教の空間的持続性を実感させられる。

▽道路掃除にいそしむ市民

 この高級住宅地の街路では、ほうきをもって道路を掃除している地域住民の姿がよく見受けられた。日本のものと違ってほうきには長い柄が付いておらず、手作り感がある。これを両手に持ってごみを掃くスタイルが一般的なようである。腰への負担が大きそうだ。掃除をしている人の数も結構なものであり、見かけたのは女性がほとんどであった。自分の街は自分で進んできれいにしようというデューク知事のキャンペーンが浸透しているということだろうか。高級住宅地だからこそ、自分たちの街を自分たちできれいにしようという意欲もわくのかもしれない。  

▽バイクに乗る人はみなヘルメット

 車で走りながら景色を眺めていると、バイクに乗っている人のほとんどがヘルメットを装着している。同乗者がいるバイクは大抵オカダと呼ばれるバイクタクシーであるが、運転手だけでなくその同乗者まできちんとヘルメットを被っている。いうまでもなく、バイクでは転倒時に頭を保護するため、ヘルメット装着は安全対策上当たり前のことで、、日本では全国で法律により義務化されている。しかしこれまで私たちが見たナイジェリアでは、ヘルメットをかぶっている人はあまりおらず、ノーヘルもしくは帽子をかぶってバイクを運転している人がほとんどであった。それがここでは、みなヘルメットをかぶっている。色は青が大多数である。赤、黄色などのヘルメットの着用者もいるので青が義務というわけではないようだが、州のマークのようなものが入ったヘルメットもあり、やはり規則が設けられているのかもしれない。

▽きれいな道路

 また、走っていて道路の状態が非常に良いことに驚く。これまで道路は舗装されていてもメンテナンスされておらず穴だらけになってしまっており、その穴を避けつつ走らなければならないところもあった。そのため車の流れが悪くなり、渋滞を引き起こす要因となるうえ、また車内での揺れもひどいものだった。ところが、ここではそうした路面の凹凸が非常に少ないため、そのような不快感もなく気持ちよく走ることができた。 また、道路にところどころ、意図的な突起や障害物が配されている。これは車のスピードの出しすぎを防ぐものであるという。その突起はかまぼこ状で高さは5センチあるかくらいのものであり、それなりにスピードを出しても通り抜けられないことはないだろう。しかし、実際にその上を高速で通ると、わずかなスピードでも車内では体が浮き上がるほどの衝撃があり、とても無視できない。そのためか、どの車も停止しそうなくらいにまで減速してその上を通過していく。 その他、路上に障害物を置き、車に蛇行を強いることで減速させるものもあった。行政の、無謀運転、交通事故を減らそうという意図を感じることができた。信号の普及や交通ルールの徹底をさせることができればさらにスムーズな移動ができるとは思うが、そのためには電力や予算の問題がある。このように道路に直接的な仕掛けを置いておくことが現段階では効果的なのだろう。

 同乗していた観光局のアムンバ氏が、私たちにクロスリバー州について解説してくださった。 クロスリバー州の前知事であったデューク(Donald Duke)が、上に書いたような政策を行った。デューク知事は汚職にも厳しく対処し、その統治は、国のガバナンスのモデルケースになった。また、州経済の成長政策も積極的に推進した。これから向かうティナパ開発プロジェクトでビジネスの誘致、そして山間部にはリゾート開発を行い、観光客の誘致を図った。こうした努力が評価され、オバサンジョ前大統領の後に大統領になるという話もあったが、北部ムスリム地域の利害もあって、それは立ち消えになった。

ティナパ開発プロジェクト

▽‘ナイジェリアのドバイ’をめざして

 しばらくして町の中心を外れると、舗装道路が途切れ、沿道の家々もグレードダウンしていく。レンガを組み立てたような、赤茶けた家を多く見かけた。 私たちの乗る車は、人通りの多い道路から外れ、周辺に建物のなく、それでいてよく整備された道を進んでいった。歩道も整備されており、芝生もきれいに刈りそろえられている。付近に家などがないにもかかわらず、ここにも道路を清掃している人を見かけた。少し走ると、ゆったりとしたカーブを曲がる先にコンクリートでできた長い壁が見えてきた。その壁と壁の間の入り口を抜けると、広々とした敷地の中に真新しく、それまでの町の風景にはとても溶け込まないような建物が存在していた。シドニーのオペラハウスに似たような屋根の形をもつ建造物に、フジテレビのにあるような球体の施設も見える。そして、広大な駐車場も存在している。こうして、私たちはティナパに到着した。  私たちは車から降り、まず入り口から程近くの建物の応接室に案内された。ティナパを案内してくれるハリソンさんと挨拶を交わした後、施設内を見学することになった。

 開口一番、ここティナパは、‘ナイジェリアのドバイ’を目指していると聞かされた。この言葉が意味するものはなんであろうか。ドバイは中東における商業の一大中心都市であり、ナイジェリアからも商人が商品を買い付けにドバイまで行く。私たちが飛行機で日本からドバイ経由でラゴスへ行こうとすると、日本からドバイへの空席はあっても、ドバイからラゴスへの空席を見つけるのが難しいため、早い段階でのチケットの予約が必要であった。ドバイとラゴスを往復するナイジェリア人が多いのである。そうした卸の買い付けを、ドバイまで行くことなく、ここティナパで行えるようにしたい、というのがティナパ開発の意義である。  また、ティナパはカラバル自由貿易地域(Free Trade Zone)に指定されている。自由貿易地域にして関税障壁をなくし、外国企業を参入しやすくしているということである。外国企業がナイジェリアにおいて事業を展開することによって、ナイジェリア人の雇用の増加も期待されているようだ。

▽客のいない店舗、がらんとしたカジノ予定地--ティナパ開発区内を歩く

 敷地内は、4つに分けられた商業地区と、娯楽地区、‘釣り人の村’(fisherman’s village)、事務局から構成されている。建物は、オバサンジョ前大統領の肝いりで、2006年に完成したそうだ。ティナパは小売、卸売を合わせた商業と娯楽の二本柱からなり、輸入品よりも安い価格を目指すということである。ただし、基本的には卸売機能が中心であり、小売り機能はショールームがあるといった程度である。

 まずは商業地区の様子を見ていった。一つの商業地区は1万平方メートルあるそうで、これが4つあるとなかなかの広さである。案内板に書いてあるような、一つの大きな正方形の建物からなるのではなく、一つ一つの小さな店舗スペースの集合体のようなつくりになていて、それぞれのスペースはガラス張りになっている。日本でもショッピングコンプレックスによくある店の形態であると感じた。 すでに、ところどころに店舗が入っていた。UBAといったアフリカの銀行、私たちにもおなじみのPOLO、またウディングスという衣服店、そしてvivaというコンゴ民主共和国の洋服会社もあった。これら衣服店は基本的に卸売りで、ショールームを開いているという様子であった。また、化粧品を扱っている店や、gloworld, celtel(後にzainと名称が変わった)といった携帯電話会社も発見した。 銀行には人の姿がなかったが、洋服店にはすでに従業員がいた。だが、買い物客は、卸売りの商人を含めティナパ内には誰一人おらず、従業員はとにかく手持ちぶさたそうであった。
 ショップを過ぎて、私たちは体育館のような広いフロアを持つ建物の中に入った。中はがらんとしていて、まだ何もなく、照明がついていなかったため真っ暗であった。この建物は2007年3月に完成したということで、カジノを中に造る計画ということであるが、完成から1年半、まだ買い手が付かないのだそうだ。  ガイド氏の話によると、ここの出店企業はすべて外資ということである。全体的に見るとまだまだテナントの稼働率は低く、これからどの程度外国企業が参入してくるのか、私たちは不安を覚えた。

 大きな建物から外に出て奥に進み、階段を降りていくと、うっそうと茂った森が見え、その手前に水辺が広がっていた。川から水を引き込んでいる様子で、水は濁っていて流れが感じられなかったが、雰囲気のよい親水公園がしつらえられていた。ここはヨットやボートなど水上スポーツを楽しむ場所になる予定とのことで、すでに小さな波止場も設置されていた。  一行は次に工芸の村(craft village)というエリアに向かった。石を並べた小道を進み、かわいらしい入り口をくぐると、屋根をわらで葺いてある伝統的な住居を模した建物が並んでいた。ここでは工芸品を販売し、フードコートになるそうだ。ここもまだ準備中で、実際に使用されていなかった。 また、このエリアのすぐ隣に、5階建ての、Amber Sunホテルがそびえたっていた。どちらかといえばリゾートホテルというよりビジネスホテルに近い建物である。ガイド氏の話によれば、このホテルは2008年12月にオープンするということであり、南アフリカの‘southern sun’という会社が経営し、客室は243あるということだ。壁の色は茶色系で、落ち着いた印象をもった。隣の工芸村とは対照的な、近代的な建物であった。
 現段階では、ティナパ開発区は全体としてまだまだ完成まで時間がかかりそうなので、今オープンしてもどの程度ホテルに客が集まるのか、疑問に思った。
 ホテルの正面に回ったところで、私たちは皆で記念撮影をした。

▽NOLLYWOOD〜スタジオティナパ〜

 私たちはその後、映画撮影ならびに編集の施設に行った。ナイジェリアでは年に1000作以上の映画が作られ、アフリカ中に配給されており、ハリウッドをもじってナイジェリアのNをつけたノリウッドと呼ばれているほどの一大製作拠点となっている。これは、ラゴスなどにある映画製作機能をカラバルに立地移動させ、国際的に競争優位を持つ映画産業で地域経済の急成長を図ろうという戦略であろう。

 ティナパのホームページのスタジオ紹介には、次のように書かれている。

 ティナパでは国内外の映画、テレビや音楽プロデューサーのために最高の機器が利用できるようになっており、ファーストクラスのプロダクションとサポートサービスを提供するために設立された。ティナパは観光地として世界中からやってきた訪問者がみやげ物を買えるだけでなく映画の作り方も学ぶことができる。またティナパはノリウッドの中心となって、フランスのカンヌ国際映画祭のように毎年映画祭の開催地となる予定である。スタジオティナパの技術的パートナーとして、技術面と事業の計画のサポートをしているのがDream Entertainment(Nig.)である。これはハリウッドのDream EntertainmentとイスラエルのMeimad(MTVS)スタジオが出資したものである。こうした複合施設と進歩的なインフラによって、より大きな予算でより多くの映画を作ることができるようになるだろう。それによってナイジェリアがアフリカ文化の中心となり、世界に広くアフリカ文化を広める代弁者になることができるのである。… (http://www.tinapa.com.ng/portal/modules/mastop_publish/?tac=Studio_Tinapa)

 施設は、大きな球体がシンボルであり、スタジオの周囲には恐竜の像やインディアン、カウボーイ、小人の人形などが設置されてあった。これらのキャラクターはアメリカ的だが、カウボーイはアフリカ人のような顔つきをしていた。先ほど見た球体の上にはノリウッドと書いた看板を高々と掲げたゴリラがいた。このような人形の類は、映画撮影の業務にはむろん必要でない。米国のユニバーサルスタジオのように、映画製作所自体を観光アトラクションとして、ツーリストを引き付けようとする計画なのだと考えられる。
 だが、残念なことに、この日はスタジオが使われておらず、その撮影模様を見学することはできなかった。いつ利用されているのかも、わからなかった。

▽インタビュー

 その後、私たちは事務所に案内され、ゼネラルマネージャーのエコムFrancis Ekomさんにお話を伺った。エコムEkomさんは建築家で、1984年に来日し、筑波大学のにコンペに行かれたという。そのときに丹下健三や黒川紀章のような、そうそうたる日本人の建築家たちに お会いしたそうだ。エコムEkomさんによれば、首都アブジャのマスタープランを作ったのは日本のが丹下健三で、ドイツの企業はがそれを建設したのだという。 事務室にはあちこちに、きれいなティナパの完成予想図が額に入れられ飾られていた。
 さきほどからまた、ティナパのカメラマンの方がしきりに、写真を撮っていた。私たちの訪問の様子は、以前、ティナパのホームページでも紹介された。
 私たちは、エコムさんから、ティナパ開発計画の全体像についてブリーフィングを受けた。





▽投資額、連邦ナイジェリア政府の出資

 ティナパ開発への総投資額は、政府と民間をあわせて4億5千万ドルであり、そのうち半分が民間からのものであり、民間とは、ナイジェリア国内の銀行からのものである。また、連邦政府が債券を発行し、これを州政府が保証している。外国からは、インフラのために1千万ドルをECOWASから借りている。カメルーンからの資本も入っている。 中国のプレゼンスもある。しかし投資者ではなく、テナントに出資しているという形だという。しかし、中国の企業は、その名前を隠しナイジェリアの名前を用いているので、中国企業とはわかりにくくなっているそうだ。

 私たちは、この話を聞き、これだけ大規模な投資がナイジェリア国内の貯蓄からだけまかなわれているのか、疑問に感じた。ナイジェリアの銀行や連邦政府債券などのルートを経由し、新興国で一儲けを狙う海外からの資金も相当程度流れ込んでいるのではないか。そうだとすれば、施設はバブリーなまでに立派だが、顧客はほとんどおらずガランとしたティナパ開発が結局失敗した場合、資金の返済が滞り、不良債権化するかもしれない。あるいは、そうなることを見越して、海外の債権者はさっさと短期資金を引き揚げてしまうかもしれない。ファイナンスの面でも、ティナパの計画が「ナイジェリアのドバイ」にならない保証は、どこにもないように思われる。

▽計画作成コンサルタント

 もともと、アフリカの特に旧英領植民地は、アパルトヘイト政策の下で白人支配が長く続いた南アフリカ共和国の経済的・政治的覇権下に置かれていた。最近の中国やドイツなどのプレゼンスの増大は、ナイジェリアでこのような南アフリカの覇権を弱めてきているが、それでも、南アフリカはあなどりがたい力を示している。 ティナパの設計を計画したコンサルタントティング会社は、南アフリカの、Gap Consultingという会社であり、これに加えて、ナイジェリアの、Cogedsというコンサルティング会社も関わっている。建築技術の面でも南アフリカが主導権を握り、エンジニアとしては、ARUPという、南アフリカ、ボツワナ、ナイジェリアの合弁企業が計画に携わっている。

▽連邦政府の政策的配慮

   ティナパは独立した計画ではなく、クロスリバー州の大きな総合開発計画のうちの一部である。観光業のインフラも備えていて、セキュリティも整備している。 ティナパは、自由貿易地域(FTZ:Free Trade Zone)に指定されており、関税がない。また、ここで稼いだ利益を自由に本国へ送金しても良いという政策を取っている。さらに、映画シネマスタジオやホテルなど、エンターテインメントやレジャー施設を設けているところが特徴だ。 現段階でティナパに製造業の機能はないが、そのスペースはあるので、今後のポテンシャルはあるといえる。ナイジェリアにはすでにレッキで製造業基地の開発が進んでいるが、ティナパの次の段階では、労働集約的な製造業の企業を呼び寄せることも考えている。それに、自然に即した伝統的な天然の工芸品を作るのもいいかもしれない、とエコムさんは言われた。

▽観光客の引き寄せ

 ティナパをナイジェリアでも観光客が多く集うアトラクションの一つにしようと考えている。だが、カラバルはポート・ハーコートに近く、現在多くの国の政府が、治安上の理由から、クロスリバー州への入域をしないよう自国民に注意を喚起している。そこでまずは、ナイジェリア国内の客をターゲットにしている。また、スタッフをトレーニングし、技術を身につけさせないといけない。海外から観光客人々を招けるようになるためには今後5年程度かかるだろう。あとはニジェール川デルタ地域の治安が改善されればよいと思う。
 日本企業との直接的なコンタクトは全くない。丸紅とは関係があるが、電力供給の案件について交渉中であるが、丸紅がティナパへ投資するというわけではない。

▽テナント、雇用について

 テナントは、一平方メートルあたり年間150ドルで借りることができる。借りる面積や期間に応じて割引もしている。 従業員の雇用は、直接的、間接的な雇用を含めて、ティナパ全体で二万人程度になるだろうと予想している。その賃金だが、ここでは最低賃金が月62ドルと決められている。ちなみに、ナイジェリアの平均賃金は月5〜7000ナイラ、すなわちおよそ月33〜45ドルである。
 また、ナイジェリア人の労働者としての特徴として、企業家精神があり、楽観的で、一生懸命に働くというものがある。

▽発展への問題点−非効率な政府と電力不足

 ナイジェリアには卸売市場が十分でないので、商品がナイジェリアにこない。そのため、ナイジェリアに卸売市場をつくらなくてはならない。ナイジェリアは製造業が発達しておらず、中国やドバイとの貿易を多く行っていて、商品を買い付けている。このため、例えばナイジェリアからドバイへ30億ドルも支払っている。だが、わざわざナイジェリア人が買い付けに海外に行くのはもったいない。それにナイジェリア人が海外に買い付けに行くのには様々なコストがかかる。例えば、ビザの問題や飛行機代、船代があり、両替などにもコストがかかる。さらに、時間もかかってしまう。そのため、ナイジェリアに市場を持ってきたいと考えているのだ。
 だが、そのために解決しなければならないのは、まず、電力の問題である。南アフリカでは、人口5千万人に対し発電量が4万メガワットであるのに比べ、ナイジェリアでは人口1億4千万人に対して3千メガワットの発電量しかない。
 そして解決しなければならない最大の問題は、政府の一貫性のない政策である。これがナイジェリアの発展を妨げている。例えば、我々が政府の承認をもらうのに1年はかかる。 前政権のオバサンジョは、こうしたプロジェクトをサポートしてきた。現政権も雇用のポテンシャルなどからティナパをサポートしてくれている。ただ、新大臣がティナパの運営上のガイドラインを作るのに時間がかかっている。このガイドラインというのは、自由貿易区のティナパで買った商品をナイジェリア国内で流通させるためのガイドラインである。ナイジェリア人の卸売り商人がティナパで商品を買うと税金を支払わなければならないのだが、そのガイドラインがまだ決まっていないため未だにナイジェリア人がここティナパで商品を買うことができないのである。また、卸売りでない普通の消費者も、ここで商品を買うことができないのだ。
 こうした連邦の行動が、ティナパのポテンシャルを削いでいるといえよう。ちなみにその認可はあと60日で下りそうだ。もうすでに18ヶ月も待っている。先月、その書類に財務省、商務省、中央銀行、国土省、税関、ティナパなどがサインした。これを最終的に認可するのは連邦政府である。
 エコムさんは、憤懣やるかたない様子だった。  

▽インタビューを終えて

 まだティナパ全体が完成しておらず、実際にこの開発プロジェクトが成功を収めることができるのか現段階では分からなかった。果たして現地のナイジェリア人がどれだけ訪れるのか、テナントは埋まるのかなど、未知数のことだらけである。広大できちんと整備された施設に、主導している州政府の意気込みは感じられたが、こういった箱物施設を作って失敗したときは誰が責任を取るのだろうか。その責任の所在は、かならずしも明確でないように見受けられた。

カラバル博物館

▽カラバル博物館概要

私たちはティナパを見学後、一旦ホテルに戻り、昼食を取った後、次の視察予定地であるカラバル博物館に向かった。ミラージュホテルから博物館までは、地図を見ると1.5キロ程の距離である。雨季ということもあって、午後からは雨が降り始めていた。一同あいにくの天気に少しがっかりしながら、車に乗り込んだ。
 まもなくして、博物館に到着した。私たちのほかに観光客はいない様子であった。この博物館は、元イギリス総督の官邸として作られ、その後ナイジェリア政府によって保存されている。建物の紹介が、次のように看板に書いてあった:

                 旧イギリス総督官邸

 この建物はもともとガバメントハウスとして知られており、1884年にイギリスで部品を作りここで組み立てた‘プレハブ’の家で、ニジェール川沿岸の領域を統治する初期のイギリス人が生活するためにカラバルに建設されたものである。ここはオイル川とニジェール川沿岸保護領すなわち南ナイジェリア保護領の本拠地であり、1914年以降はオールドカラバル州の総督代理の本拠地であった。1950年代には政府のゲストハウスの役割を、ナイジェリアの内戦後は新たにサウスイースト州の事務所の役割を果たした。1959年に、建物とその複合施設は国定記念物になった。1986年に、国によってこの博物館は修復され、博物館とモニュメントとなった。

 外から博物館を眺めてみると、木造のその建物は壁が黄色と茶色に塗装されており、色の対比が美しい。1986年に補修されたこともあって、建築から1世紀以上たった現在でも屋根や窓に植民地時代の建築様式が十分に見て取れた。
 入り口付近には、工芸品や書籍を扱っている売店があった。観光業がまだそれほど発達していないナイジェリアにおいて、このような店があるのはここに多くの観光客が訪れていることを表しているように思った。しかし、店の棚は、ブレスレットや首飾りといったアクセサリー類や、置物など、いわゆる‘アフリカをイメージさせる’手作りの工芸品で溢れていてた。その反面、日本で見られるような画一的なキーホルダーや名物の菓子といったものは売っていなかった。土産物屋を見ればその場所の観光・マスツーリズムの成熟度が分かるというが、ここではまだマスツーリズムが発達していないということである。というのは、マスツーリズムのシンボルといえる土産物として、キーホルダーや名物の菓子を買う習慣が見られなかったためである。
 私たちは入場料として50ナイラ支払い、中に入った。私たちの他に観光客はいない様子であった。私たちには女性の学芸員の方がつきっきりで案内してくださった。

 

▽カラバルの経済基盤の変遷−奴隷貿易からパーム油貿易へ

 展示されていた年表によると、ヨーロッパとこの地域の交易の歴史は、15世紀にさかのぼる。15世紀から16世紀にかけて、ポルトガルとの間で石炭、象牙、金などの交易を行っていた。また同時に、ポルトガル人はここで奴隷貿易を行ったのである。ポルトガル人は長崎へ向かう途中に、リスボンを出発してここカラバルに寄港し、モザンビークやゴア、マラッカ、マカオを経由したのであった。
 その後、16世紀半ばになると、貿易相手はポルトガルからスペインが中心となり、17世紀にはいると、貿易相手はオランダ、フランス、イギリスに代わった。
 忘れてならないのは、イギリスも17世紀以降、この地で奴隷を売買する奴隷貿易を行っていたことである。展示によると、イギリスは1690年から1807年にかけて、実に257万9400人もの奴隷を扱ったそうだ。そうした奴隷貿易の歴史のため、西アフリカのトーゴ、ベナン、ナイジェリア付近の沿岸地帯は「奴隷海岸」と呼ばれていた。博物館には、その当時の奴隷のオークションをしている写真が展示されてあった。高校の世界史で学んだような、船上に奴隷が繋がれたまま隙間なく寝そべって乗っている図もあった。抵抗する奴隷に対して、奴隷商人たちは彼らを海に投げ入れて殺し、報復した。
 その後、19世紀に入ると、1807年にイギリスは奴隷貿易を禁止するようになった。その色から‘red gold’と呼ばれていた、パーム油の貿易に切り替えたのである。パーム油はポート・ハーコートを経由し、ラゴスのアパパ港から積まれていった。その貿易の最盛期は第二次大戦中であり、パーム油は軍用機械にも用いられた。  

▽港を見下ろすイギリス総督官邸の窓

 博物館の2階の窓からは、港や周囲の街が見渡せた。その風景は、展示してあった写真と比べても昔とそれほど変わらないように思える。ここからかつてのイギリス総督は、カラバルの港の様子を見張って、経済状況を観察していたのだろうと思うと、少し感慨深い。ここで、私たちは長崎にある元イギリス貿易商人のグラバー邸で見たような風景に似ているという話をした。二つは波や風を防ぐために湾を深くした港や、高台に作られて港を見渡せる邸宅が共通している。
 1884年のベルリン会議ではアフリカ大陸が帝国列強間で分割され、ニジェール川デルタ地域の中部から下流がイギリス領となった。1914年からは、香港総督をしていたルガードがナイジェリア総督となった。ルガードはそれまでラゴス直轄地とナイジェリア北部と南部に分けられていた保護領を統合した。また、ポート・ハーコートという港湾都市が作られ、イギリス植民地相であったハーコート卿にちなんでその地名がつけられた。
 館内にはイギリス植民地時代に作られたラゴスの競馬場や市街地の様子を撮った写真が 展示してあった。競馬はイギリスの国民的な娯楽で、植民地には決まって競馬場が設けられている。
 このような旧ラゴス市街の写真は、ミラージュホテルの中にも展示されていた。1950年代頃の町の様子、競馬場や裁判所、バスが機能している様子や郵便配達をしているところなどの写真を15枚ほど見ることができた。  

▽展示物

 その他博物館内には、様々な貴重な展示品があった。 使われてきた貨幣の変遷もその一つである。現在ではナイラ紙幣を使用しているが、昔は貝殻、ガラス瓶のようなものから、銅や真鍮でできているもの、鉄の棒のようなものなどがお金として使われていたようだ。持ち運びが大変そうであった。鉄の棒は36本あれば奴隷が一人買えた、と学芸員が説明してくれた。
 また、パーム油精製・生産の道具やNRCの植民地時代の鉄道の地図、さらには植民地時代のイギリス植民地官僚の職務室と、伝統的な現地王の玉座とが、対比されて展示してあった。
 庭先に出ると、古びたバイクが置かれていた。ガイドブック(Nigeria, Bradt)によると、これは20世紀初期のものであり、宣教師がカラバルの周辺で使用したものだということである。そしておそらくナイジェリアで最初に使われたオカダ(okada,バイクタクシー)の一つであるそうだ。
 ナイジェリア東部沿岸部にいる、エフィク民族について学芸員が説明してくれた。エフィク人はカラバルを文化的な中心地としていて、彼らは独自の言語エフィク語を持っている。独立の直前、1956年にイギリス女王がカラバルを訪れた時には、エフィク民族の文化を奉ったホールにも立ち寄ったそうだ。ここにはそのときの写真が収められていた。

 全体的な博物館の印象として、資料が豊富で見やすく、州政府が文化に力を入れていると感じた。展示物からは奴隷貿易、ならびにイギリスを中心とした旧宗主諸国への批判も感じるが、それは強いものではなく、博物館自体にかつてのイギリスの建物を使っているのを見ても、ひどくイギリスに嫌悪感を抱いている様子はなかった。

19世紀に英国人たちが住んだ高級住区のいま



 私たちは車に乗り、博物館を後にした。カラバルは道路のメンテナンスに力を入れているとはいえ、主要な道路を外れればやはり道は穴も多く、走りにくい。私たちの車はそんな道を進んでいき、19世紀にイギリス人などが住むカラバルの高級住区であったデュークタウンを目指した。

▽英国人の墓地

 海から近く、それでいて海からは長い斜面になっていてカラバル湾を見渡せるような場所で私たちは止まった。辺りには古い家が並び、特に何もしていないような人々を多く見かけた。ここは観光客が立ち入るところというよりは、完全に地元の人々が生活をしているような地域である。
 ここで塀越しに、イギリス人墓地を覗いた。博物館で見た、双子についての悪習の撤廃に尽力した、スコットランド人のメアリー牧師(Mary Slessor’s Tomb)がここに眠っている。墓地の敷地にはカギがかかっていて中には入れなかったが、外から見ただけでもそれなりに芝生が整えられ、海を遠くに望む墓地は、落書き一つなくきれいに整備されており、潮風も届いて、大小さまざまな十字架も気持ちよさそうだった。
 墓のなかには、かつての植民地官僚のものもあるということだった。これらかつての大英帝国を支えた植民地官僚は、まだ医学が十分発達していない時代、マラリアなど熱帯の風土病にかかったり、地元民との戦乱に巻き込まれるなど大きなリスクを背負いながら、40代半ばで定年退職し、高額の退職金でイギリスの田園に大邸宅を建て、植民地政府からくる潤沢な年金で送る悠々自適の生活を夢見てナイジェリアに来た人々であった。イギリス植民地官僚というのは、そのようなハイリスク・ハイリターンな職業だったのである。そうした官僚にも、スコットランド人が多かったという。ここの墓の中に埋葬されている人は、そうしたリスクが降りかかったり、または戦死してしまったりして、夢半ばにして遠く植民地のこの地に命を落としてしまった人たちである。        

 

▽イギリス植民地支配に奉仕したミッションスクール−デュークタウン中等学校

 英国人墓地の対面には、デュークタウン中等学校がある。メアリー牧師の教団が建てたミッションスクールだ。建物はトタン屋根の平屋の一階建てで細長く、広い軒下が特徴的である。門や塀が非常に頑強なつくりで、学校を周囲から強く護っているという印象であった。
 看板や建物は、かなり古さを感じさせる。敷地内には、緑と白のナイジェリア国旗と、青と白地のクロスリバー州旗が掲げられてあった。建物は、ナイジェリアの緑をイメージした塗装がなされており、窓ガラスの代わりに金網がかけられている。熱帯であるため、あまり年間で気温の変化がないので金網でも大丈夫なのであろう。夏休みのため教室の中はがらんどうで、生徒は誰もいなかった。
 この学校は、イギリスが植民地政府の中間管理職を養成するために創設した名門の学校である。大英帝国の植民地主義は間接統治を特徴としたから、イギリスの立場に立って現地語を話し現地人を統治する、現地人の中間植民地エリートがどうしても必要だった。このため、こうした中等学校を創設することは、大英帝国の植民地統治にとって不可欠だった。ミッションスクールが、この役割を担ったのである。
 イギリス植民地政府が植民地に大学をつくることは、むしろ例外的であった。ルガードは、当時清朝に影響力を強めていた日本と対抗する帝国主義的意図から、香港植民地総督時代に香港に大学を創設したが(いまの香港大学)、ナイジェリアを統治していたときにはついにここに大学を作らなかった。このため、当時ナイジェリア植民地には “大卒”は存在せず、ナイジェリアの現地人は、このようなミッションスクールを出るとすぐ、イギリス人の意を受けて、植民地エリートとして活躍したのである。  

▽スコットランド国教・長老派教会(Duke Town Church)

 デュークタウンをみおろすような尖塔の教会があった。外観こそ黒ずんでしまっているが、今でも現役である。教会の尖塔には時計(時計台)がついており、近隣に住む現地住民に、「時間」という、ヨーロッパ人的規律の重要さを告げている。
 この教会は1904年に、キリスト教プロテスタントの一派で、スコットランド国教会である長老派の宣教師によって作られた。イングランド国教会(聖公会)中心のイギリス植民地からすると、むしろ異色であるが、それだけに、ここにスコットランド人のプレゼンスが大きかったことを示している。ちなみに、長老派教会は、アメリカ合衆国経由で日本にも影響を及ぼし、東京の女子学院などいくつかの著名なミッションスクールを創設している。
 中に入ってみると、薄暗く、天井が意外と高い。長いベンチ状の木の椅子が整然と並べられている。前方の十字架には花が添えられ、「OCCUPY TILL I COME」という垂れ幕が掲げられてあった。現地の人が中に数人ほどおり、いまも教会としてきちんと機能していることを物語っていた。教会はプロテスタント系ということもあって、カトリック教会のような華美な装飾は見当たらず、比較的質素なつくりをしている。とりあえず、椅子に座ってひざまずき、観光客然とならないよう気をつけながらお祈りをしてみた。


▽旧イギリス人商人の邸宅

 教会から出てすぐ近くに旧イギリス人の邸宅があるということで、私たちはそこに向かった。ガイド氏は治安面を考慮して私たちにそのエリアには行かないほうがいいということだったが、同行の警官が私たちの護衛に付いて来てくれることになり、行くことができた。
 かつては植民地イギリス人たちが潮風に吹かれながら散歩したであろうこの界隈は、いまでは完全に、現地人の住宅地区と化していた。それはあたかも、都市の中にある小さな村のようであった。道路はかつて舗装されていたようだが荒廃してしまい、水溜りにはごみが集積している。ごみ収集といった公共サービスも希薄なのだろう。現地人といっても、わたしたちが泊まったホテルの周辺にあった高級住宅地とは正反対の、低所得者の住宅地である。カラバルに、都市の激しいセグリゲーションがあることがわかる。荒れた小道沿いに、ぼろぼろの住居が立ち並ぶ。
 住民は若者が多く、子供たちは笑顔だった。だが、大人たちからは怪訝な顔をされ、とても安心して写真を撮れるような雰囲気ではなかった。洗濯をしていたり、食べ物を売っていたりする人、また広場で小さなゴールを使ってサッカーをしている子供たちなどがいたが、それ以上に印象に残ったのが、何もしていない人の多さであった。住宅地なのに、昼間から人がたむろしていて、それもほとんど男性であった。潜在的な労働者の数は多いが、失業していて、過剰な人口を有効に活用にできていないように思った。 少し奥に進んでいくと、白い塀に囲まれた、旧イギリス人商人の邸宅が2軒あった。現在は地元の人が住んでいるということで、住人の方ともお会いした。
 一軒目は、屋根の風見鶏が印象的な大きな木造建物で、屋根はトタン葺きになっている。二階には装飾が施されたバルコニーがあり、典型的なイギリス植民地時代の建物である。残念ながら、中には入れなかった。
 少し歩くと、二軒目の邸宅があった。立派な門に囲まれたその大きな邸宅は、いまの周囲の貧困な町並みからすると場違いな感じがする。当時としてもお金をかけた建物であったに違いない。バルコニーがあるのは、風通しをよくし、日陰を作るためで、まだ冷房など開発されていなかった当時、熱帯での生活には、こういうつくりにしなくてはならなかったのだ。バルコニーからは、港を見下ろすことが出来るのであろう。庭には何故か、怪獣と半裸の筋肉質な男の人形があった。ビリヤードの台もあったが、これはいつの時代のものだろうか。ここで地元の人に囲まれてしまい、少し危ない雰囲気になってきたため、私たちはそそくさとこの建物を後にした。

 旧イギリス邸宅という、歴史的な建築物が補修もされず消極的に保存され、未だに現役として使われていたが、住民は特に観光客を呼ぶという意識を持っていない。日本の神戸にも、「風見鶏の家」というのがある。せっかく建物が残っているのだから、積極的に保存を指定して、ヘリテイジ・ツーリズムの振興に役立てられれば、と少しもったいなく感じた。

マーケット



▽マーケットと労働集約的産業

 私たちは車に乗り、次なる目的地へ向かった。その途中で、カラバルの道路沿いに大規模なマーケットがあった。二階建ての長屋のような建物には、衣類や鞄、電化製品といった買回り品がたくさん飾られている。色鮮やかなレディースものの衣服が目立っていた。路上ではパラソルを広げ、生鮮食品が売られていた。最寄品は買いやすい路上で販売し、そうでない買い回り品は建物の近く、および二階で販売している。頭に品物を載せて、マーケットの前を通る自動車に移動販売をしている人もいた。

 この地区には、靴修理や縫製業などの手工業を営む店がいくつも見られた。個人経営の問屋制手工業であり、問屋に仕事をもらうことで雇用が生まれる。見たところ店一軒に一つのミシンがあるようだった。その規模の小ささからすれば、輸出ではなく、地元向けの財を扱っているのだろう。このような労働集約的産業の現場を目撃したのは、これが初めてである。

 駐車している車の姿もあるところからすれば、ここに車で買出しに来ている人もいるのかもしれない。車から降りずに通り過ぎてしまったため、詳しくその様子を知ることはできなかったが、通るだけでもその活気を感じることができた。

母国の田園の面影をアフリカに求めた植民地イギリス人――植物園



 夕方の5時になる少し前に、私たちは植物園に到着した。ナイジェリアの森林委員会の本部もここにあった。営業時間終了が迫っていたため最初は中に入れてくれなかったが、交渉した結果何とか入ることができた。路上に車を止めても、車、バイクがひっきりなしに通るので無事に降りるのも一苦労である。
 この植物園ができたのは、1893年のことである。ナイジェリアの植民地に来たイギリス人が、イギリス本国の雰囲気をナイジェリアでも味わえるように造られたということだ。今と違って旅客機もなかった時代、ナイジェリアからイギリスに帰りたいと思っても船で何ヶ月の道のりであるため、帰りたくてもそう簡単に帰れない。そんなイギリス人の心を癒したのが、この植物園であったのだろう。
 敷地内には、短くきれいに刈りそろえられた芝生があり、ところどころに木が点在している。高い椰子の木が印象的であった。敷地内には、若いグループがいた。植物園のスタッフが「Who are you?」と尋ねると、演劇の練習をしていると答えていた。
 かつては植民地イギリス人の保養地の役割を果たしていたこの植物園であったが、案内してくれた職員によれば、1970年代にクロスリバー州の林野庁によって一度動物園になったのだという。その後約20年間放置されるも、2004年からイギリスのNGOである、イロコ基金Iroko Foundation が、イギリスからのODA資金を使って、この植物園を復元しているのだそうだ。イギリスがODAを出して、大英帝国時代に外地に作った自らの植民地的遺産を、自国のNGOの手でで整備しようとしている。これに対して、日本の外務省は、樺太にいたかつての日本人の戸籍が豊原/ユジノサハリスクの図書館にあることがわかっているのに、これを回収しようともしないという例を聞き、イギリスと日本との自らの旧植民地への認識の違いを感じさせた。

 私たちは、長かったカラバルの一日を終え、ミラージュホテルへと帰った。

日本政府資金のおかげで、アフリカで安定的ビジネス――ODA工事に携わってアフリカで働く日本人たち



 夜は、前日夜にミラージュホテルそばの中華料理店で偶然お会いした、日本のODA資金による現地の工事に携わっておられるお二人の日本人、坂上さんと渡辺さんに、インタビューの機会を頂けることになった。
 坂上さんは現在、電気工事会社である株式会社ユアテックの営業本部海外業務室副長をされている。また、渡辺さんは、フランスに本社のある運送会社サガ(SAGA)の日本支社で、プロジェクト・コーディネーターをされている。サガはアフリカ全体にネットワークがあり、ODA案件を中心に扱っている会社である。これに対し、日本の運送会社はあまり外国、特にアフリカにはほとんど進出していない。お二人はすでに夕食を済まされていたので、私たちの夕食に付き合っていただきながら、貴重なお話を伺った。

▽現在のナイジェリアでの活動

 まず、坂上さんは、日本のODAの援助の一環で、電気のない村に電気を通すお仕事(無償資金援助の地方電化案件)を三菱商事の下請けで行っている。これはそもそも商社案件であり、ODAの元請は商社である。この商社に下請が付き、さらにサガのような運送会社に発注がなされる。

 現在は、カラバルの外れにある未電化のコミュニティで工事を行っている。完成予定は2008年度いっぱい。ナイジェリアでは、ほとんど三菱商事がODA事業に携わっており、ユアテックは2001年から工事を担当している。前回は、アブジャ以北の地域で3年にわたって電化工事を行った。昨年は、南北に細長いクロスリバー州の北部で工事し、今年からは、南部で行っている。要するに、日本からのODA援助が続く限り、三菱商事のビジネスも、自分たちの仕事も安定的に続く、ということだ。

▽ODA電化事業について

坂上さんの電化工事の対象地域であるコミュニティを対象に電化事業を行っている。基本的にコミュニティとは農村であり、そのコミュニティまで、電気を、今ある電源から送電線を引いて運んでこなければいけない。今回は約70kmの送電線を作る予定で、そのための電柱を建植するのが、坂上さんの仕事である。
坂上さんは、次のようにお話をされた――

 ODA援助ということなので、できれば地元の技術者に仕事を任せたいが、技術力不足や日本の税金がきちんと使われているか、期限までに工事を終わらせられるかといった問題があるため、それを監視するために常時4人の日本人技術者がいて、地元の人と一緒に、教えながら工事をしている。ただし、雨季は工事が進まないため、一旦日本に帰ってもらっていて、坂上さんはここで留守番をしている。
 坂上さんは、日本では高圧線の鉄塔を立てるお仕事をされていたという。11年前にガーナで1年仕事をしたことがきっかけで、現在ナイジェリアで電柱を立てる仕事をすることになった。
 日本では、高圧線は6600Vだが、ナイジェリアの高圧線は33000Vもある。高圧線はむき出しのままであるため、10メートルの高さにかけられているとはいえ危なっかしい。その高圧線を一気に220Vまで降圧し、コミュニティに配電している。ODAでは電気を降圧するためのトランスの取り付けも行っており、今回は30のトランスの設置が計画されている。一つのコミュニティにトランスは2つ程度設置される。
 どのコミュニティに送電するかは、州の要望を基にその場所を日本が調査し、発展に有益と判断されることで決定される。というのも、援助額は限られてしまうので優先順位を決めなければいけないからである。カラバルのあるクロスリバー州はその90%が電化されており、これはナイジェリアの中では高い電化率である。これはカラバルには昔から外国人の出入りがあったことが影響している。
 ナイジェリア南部は湿地帯が多く、電柱が立てにくい。そのため、水田の多い日本に技術援助を頼んでいる。ただし、乾燥している北部では電化が進んでいるというわけではなく、むしろ北部は非電化地域がまだまだ多い。コンクリート柱はラゴスで現地生産されたものを用い、その他は品質が信頼できる日本製である。そうした日本の物資がラゴスに到着し、それをサガが運んでいる。電化事業に関わっているのは合わせて10社ほどである。

▽セキュリティについて

 ナイジェリアは治安が悪く、特に治安が悪いとされるニジェールデルタ地域に近いカラバルも例外ではない。実際に、過去の案件でもスタッフが武装強盗に遭ったことがあった。そのため、プロジェクトにはナイジェリア側の負担で6人の警官を警護に当たらせている。 ただし、一口に治安が悪いといってもラゴスのような大都市での犯罪やポート・ハーコートでの誘拐など場所によって様々であり、また基本的に命まで奪われることは少ない。警官がついていれば、犯人も警官との衝突のリスクを避けるため、襲われることはほとんどない。

▽停電問題

 ナイジェリアでは停電が多い。電気の生産量が少ないのに負荷が大きすぎるため、電圧降下してしまうのだ。電圧を維持するため、特定の期間停電させ、負荷を小さくしている。
 ところが、その停電があまり計画的といえない。何時から何時まで停電させるといった規則性がなく、いつ停電するか分からないため仕事が非常にしにくい。さらに、要人がある地方を訪問するときは、電気を優先的にその地区に送るといったことも行われている。停電対策として、自家用の小型発電機を使う方法があるが、ガソリンより高い軽油の値段が負担となる。また、小型発電機を電線につなげておくと、復電したときに発電機に電気が流れ込んできて危ない。そのため、大規模な発電施設を造るといった根本的な対策が重要であり、その計画も進んではいるが、なかなか実現までは遠い。
 デューク知事から交代した現在の知事であるイモケ知事は元電力大臣であり、電化にも関心が強い。ヤラドゥア大統領も電力危機を訴えていて、工事計画が進められているようだ。そのときの発電所の種類は、ガスか火力になるだろう。ただ、大統領は原子力にも興味を持っているらしい。

▽仕事の障害

 次に、渡辺さんが、ナイジェリアの仕事の環境について語られた。
 ナイジェリアでは仕事がしづらいと感じる。というのは、電柱を立てる足場を立てるのは日本の仕事であり、物資を運ぶ道路を整備するのはナイジェリアの仕事であるが、ナイジェリア側の工事が遅々として進まないからである。それで、日本の工事も遅れてしまう。そのような状況の中、ODAの仕事は年度末までに終わらせなければいけない。そうしないと、3月末には銀行の口座が閉じてしまい、資金が調達できなくなってしまうのである。
 サガでは、物資の輸送全体のコーディネートを担当し、輸送はまた別の会社が行う。輸送会社の選定には、ナイジェリア国内で交通事故が頻発していることもあって非常に気を使っている。輸送する物資は船で横浜などから約2ヶ月かけてラゴスまで運ばれる。その後ラゴスで通関を受けるのだが、それが他の国では考えられないほど大変なものである。 
 その要因として、ナイジェリアでは政府がコントロールする領域が大きいことが挙げられる。例えば、貨物には輸送の際に保険がかけられている。一般的には日本側の保険さえあればいいのだが、ナイジェリアでは現地の保険会社が発行したものでないといけない。これは、政府が国内の保険会社を保護しているからである。また、その後貨物は民間の検査会社によって偽物ではないか調べられる。これによって国内の輸入業者を保護している。その他外貨を取得するための申請書を作るなどあるが、申請しても書類ができるのが非常に遅い。1ヶ月や、長いときには半年待つこともある。そうした手続きをスムーズに行えるようプッシュする仕事をしている。
 政府の規制に関し、坂上さんは、ユアテックはナイジェリアに登記がないため現地の人を雇用できないため、登記のあるインドの会社に仕事をアウトソーシングしている、と追加された。

▽ODAによる貢献

 坂上さんは続いて、ODAの貢献について語られた。
 こうした電化事業を進めることで、地域住民はラジオやテレビを利用することができるようになった。それは、人々がエイズ撲滅運動などの情報に触れることができるようになったことも意味している。さらに、病院に冷蔵庫が設置できるようになり、血清の保管ができるようになった。とはいえ、停電が頻発する現在の状況では、冷蔵庫による保存に不安が残る。
 昨年までは、ODAによってナイジェリア北部に3年がかりで小学校建設が建設された。教室の数はおよそ700である。この学校はレンガの平屋であるため難しい技術は必要ないが、工期を守る、建物の見栄えをよくするといったことに日本の力が必要となる。その他、ODAでは井戸を掘る、通信網の整備をするといったことをしている。
 渡辺さんは、ナイジェリア、カメルーンではODAくらいしか仕事がない、とおっしゃられた。カメルーンでは、地方電化やラジオ局のリハビリなどを行っているそうだ。サガのビジネスは、ODAの予算が減少したことにより減ったが、最近では、企業案件も少しずつ増えてきているそうだ。

▽労働環境

 坂上さんは、現地の労働環境について述べられた。
 現地の賃金は、運転手で月8000ナイラ、コックで月6000ナイラである。現地の人はこれでやっていけるが、日本人にとっては、外国人向けの商品やサービスが高価という二重経済のため、この賃金ではやっていけない。仕事をする上でODA案件ならば日本政府から資金が支払われるため不払いということはないが、物価の変動が大きなリスクとなっている。
 また、労働者としてのナイジェリア人は、手先が器用ではあるけれども先にお金を渡さないとよく働いてくれない。
 坂上さんは、日本に一ヶ月、ナイジェリアに一ヶ月といったように、一ヶ月交代で行き来している。治安、疫病などを考えれば妻子をナイジェリアに連れてくることはリスクが大きすぎる。マラリアの薬は、長期で滞在するときは 長期の服用となって肝臓への負担を避けるため、薬は事前に予防薬として飲むのではなくマラリアにかかったときに飲むようにしている。
 ちなみに以前日本人の方が足を骨折し、ドイツのフランクフルトで治療、そのまま日本へ帰国した際には800万円かかった。 こうした高い治療費もアフリカで働く際には大きなリスクとなる、と坂上さんはおっしゃられるが、一ヶ月ごとに日本とナイジェリアを往復する旅費も、骨折の治療費も、もとをただせば、ODAにツケが回るのであろう。

▽インタビューを終えて〜全体の考察〜

 このあたりで夜も遅くなり、インタビューがお開きとなった。長くナイジェリアで勤務されているお二人のお話からは、より実際のナイジェリアの状況がうかがえ、とても貴重な経験となった。
 やはりアフリカでの日本企業はODA事業中心であるということを改めて感じた。日本企業としては、ODA関連の仕事はスペック通りの仕事をやれば政府から確実な利益を受け取れるおいしい仕事なのだ。ここに、ODAの別の顔がのぞいている。つまり、貧困な途上国への支援という大義名分の下で、ODAは、アフリカにおいて安全確実なビジネスチャンスを日本をはじめ海外の企業に提供しているのである。ODAを増やすことは、日本企業を潤すためという意味合いも大きいのだろう。
 また、ODAによって造るのは送電線ばかりで、ナイジェリアでは肝心の電力量が足りないといった問題がある。しかし、企業としてはODA事業で造ったものがどの程度役に立つかということよりも、やはりビジネスとして利益を優先しなければならない。つまり、電気が来ないかもしれない送電線でも、とにかくODAのスペックどおりに造ればそれでよし、という発想であり、地元の人々が実際に電気を安定的に享受できるか、それで農村開発がどうなるかは、二義的・三義的な問題となる。それでも、国際協力に関われるということでサガを受けに来る学生も多いと、渡辺さんはおっしゃっていた。
 サガのように、欧米系企業が積極的にアフリカに進出しているのと比べて、味の素のような例外を除き、全体的に日本企業はアフリカに積極的に進出していない。中国なども、最近は市場のリスク分散先として積極的にアフリカ市場に入り込んできているのに対し、日本企業は、アフリカ戦略で大きく出遅れている。これは、やはり何とか改善していかなければならない状況である、と感じた。

 翌日は、カメルーンへの厳しい航海を控えていたので、食事後は皆早めに休んだ。カラバルを堪能できた一日であった。


(原田 洪大)

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