早朝、英国の跡残るロコジャを急いで巡る



▽早朝に出発

本日は昨日見逃したイギリス植民地時代の遺物を簡単に見た後に、ロコジャから約610km離れたカラバルに自動車で移動する日である。治安上の問題で日が暮れる前にカラバルに着きたかった我々は、早起きして7時にはホテルを出発した。

ちなみに今日の朝ごはんは、バナナの揚げ物と野菜の激辛トマト炒めというアフリカ風の朝飯であった。ホテルのレストランで出てくる料理はここに限らず、8割方唐辛子がかなり入っている。

▽OKADAに先導され、Government Houseへ

アブジャからカラバルまで私たちに付いている旅行社は通常カノで営業しているため、ロコジャやカラバルの市内、その間の道も、土地勘があまりないようで、地図を見ながら進む。そのためロコジャ市内では必要に応じて、OKADAを先導のナビゲーターとして雇っていた。バイクタクシーを通常の乗り物としてではなく、運転手の土地勘を利用したナビゲーターとしての利用は、私たちにとって斬新であった。さっそく今日もOKADAに先導され、現在は州知事の家であるGovernment Houseに向かった。

ルガードは、1901年以降、現在Government Houseがあるこの敷地に移った。しかし現在使われている中の建物は建て替えられたもので、現在も植民地時代の遺構として残っているのは、正面に立ちはだかる立派な門のみである。

門は、スロープ状の形をした石段とその上に2つのドア、ナイジェリアの紋章を中央に置き、左右にアーチ型をした車輌が通行できるゲートを配した造りで、統治機構として威厳がある。Government Houseは正面からの見学と写真撮影のみにとどまった。

▽イギリス植民地の至るところにある社交クラブ、ロコジャクラブ

次に私たちは、ロコジャクラブへと向かい、7時半に到着した。 英国植民地において、地名を冠した「クラブ」とは、植民地時代、その土地の英国人や英国人に近い地元現地人のエリートが集った社交場である。旧大英帝国内の都市は必ずといって良い程に、「クラブ」が作られている。このクラブも1901年に作られた。当時は、ルガードはじめ多くの植民地官僚やビジネスマンがここへやってきて、本国から遠く離れたこの地で、夕べを過ごしたのである。こうしたクラブは、植民地支配者たち会員だけから成る排他的な空間であった。クラブにおける社交のなかで、インフォーマルな形で多くの重要事項が決定された。

7時半という早い時間にも関わらず、現在の支配人や係員が快く案内してくれた。いまの支配人は、もちろん現地のナイジェリア人で、いかにもクラブの支配人といった感じの親しみやすい、体格の良いおじさんだった。外装、内装とも、植民地時代から大きな変化なく、かなり老朽化しているが、それだけに植民地時代のクラブの面影を今に良く残している。

屋内に入ると大きな広間があり、そこは普通のイギリス風のパブの作りである。壁に沿って胸の高さほどのカウンターがあり、高い椅子が置かれ、カウンターの奥にギネスのマークの入った冷蔵庫が置かれている。野外スペースには突き出た屋根の下にテーブルとベンチが置かれていて、ポップコーンや飲み物の露店があった。

クラブの支配人によれば、毎週木曜から日曜まで4日間営業していて、金曜日のフェスティバルには1000人も訪れるらしい。もちろん、いま来るのは、ほとんどが地元のナイジェリア人たちである。昨日は4、5人の中国人グループが来たと話してくれた。ただし、このクラブにはいまでも会員制度があり、5000ナイラのゴールデンカードを持っている200人はいつでも来ることができるらしい。

クラブにやってくる客層以外にも、植民地時代と変わっているところもあった。酒場の隣の部屋がフィットネス・クラブになっている。ランニングマシンや筋トレマシンが所狭しに置かれていた。何やら現在の管理人とその息子が武術関係の人のようで、壁に写真が何枚も貼ってあった。

▽旧植民地病院Colonial Hospitalと教員の給料

長距離の運転に備えて、車の部品街で空気圧を調べた後、ロコジャ最後の見学スポットとしてColonial Hospitalに行った。

ここは、現在は病院ではなく、コギ(Kogi)州の文化センターになっているが、建物は植民地時代のままだった。1階建てで、三角型の屋根がかなり大きめに作ってあることで風通しが良い作りの建物が2棟あった。このほか、窓が木の板で密閉されている黄色い小さな小屋も残っていた。この小屋は遺体の保管に使われていたらしく、”matuary”と呼ばれていた。医療技術が未熟な当時は、風土病などで、たくさんの植民地イギリス人もここで命を落としたのであろう。

ここで、教員の給料についての話題が出た。ロコジャでは月給9000ナイラらしい。カノから来たガイドによれば、カノのような大都市では月給20000ナイラとのこと。情報が正確であれば、同職種の給料が地域によって2倍以上異なることになる。



▽味の素の看板

植民地病院跡を出てしばらく行くと、道ばたに、しっかりとしたつくりのキオスクがならんでおり、そこで商業活動が営まれているのを目にした。これは、一般によく見られる露店のような粗末なつくりではなく、外国の援助で建てられたもののようだ。地元の小規模商業の振興を通じた貧困の解消、といった名目なのであろう。建物を立派にしたから、商業活動が急激に活発になって貧困がなくなるわけでは、もちろんないのだが。

さらに車を進めると、ロコジャ市内を離れる直前に、味の素の現地法人West Africa Seasoningの、道沿いにある大きな広告の野立看板を見つけた。看板には、おいしそうな現地の料理の写真と、”SUPER SEASONING AJI-NO-MOTOという文字の下に、赤いどんぶりの形の中に「味の素」と日本語で書いた、かつて日本でも使っていた味の素のロゴが入っている。ナイジェリアの人でも、漢字を使っていることから、アジア企業の製品であることはわかるだろう。下にはSINCE1909と書いてあり、製品の歴史の長さで権威付けて、現地伝統の料理も、味の素を使えばこんなに美味しくなる、と訴えていた。

4日前に味の素(株)の現地法人の社長の林さんにお話を伺った後、私たちは、アフリカの片隅で早速味の素(株)の積極的な進出姿勢を感じることができた。ロコジャという街は、高所得者層の人口は非常に少なく、街の人口の殆どが二重経済の下に属する一般市民である。一方、今まで私たちが訪問したラゴスとアブジャの2都市は、一般市民のみならず高所得者層も存在する都市であった。少なくとも2都市において私たちが通った道では、巨大な広告を見つけることができなかったが、今回低所得者層の多いロコジャの目抜き通りでこれを見つけることができた。私たちは、日本企業には珍しく、一般市民の「ボリュームゾーン」に属する市場に浸透する形で積極的な企業活動を行う味の素(株)の営業姿勢を、実際に垣間見ることができた。

ここから1分ほど車で走ったところに、現地では味の素のライバルであるコンソメスープ調味料マギーの出店があった。なかなか調味料市場の競争は激しそうである。

約12時間の自動車移動の始まり



▽ロコジャからアジャオクタへ

ロコジャ市街を出た私たちは、30kmほど南にあるアジャオクタという町までニジェール川に沿って車をすすめた。

ロコジャ市街を出て川沿いを眺めていると、昨日山の上からみた川の合流点が近くに見えた。その隣には、Confluence Beach Hotelという、外国人も泊まる立派なホテルがあった。車窓から見える景色は独特のもので、大きな岩石がところどころにあり、仮に地震でもあれば、今にも転がって来そうな岩石もあった。アジャオクタまでの道は整備されているとは言いがたく、一部では穴が開きすぎていて、右側通行というルールは殆ど守られていなかった。

50分くらいで我々はアジャオクタに到着した。アジャオクタの近くになると白地に”AJAOKUTA IRON AND STEEL COMPLEXと黒い字で書いただけの看板があった。西アフリカ最初の製鉄所である。ここの製鉄所プロジェクトはナイジェリアの一大プロジェクトで、(※5)西アフリカ最初の製鉄所であった。1979年、独、仏、ソ連の3カ国共同プロジェクトとして、年間130万トンの粗鋼を生産する一貫製鉄所が計画された。その後、独仏が撤退し、ソ連だけが残って建設が続けられた。このあたりは鉱工業投資が進んでいる地域であり、30km程離れて、鉄鉱石の産地であるイタクペもある。

イタクベとアジャオクタをつないで、幅1435mmの標準軌の鉄道も1992年に建設された。標準機のレールが敷かれているのは、ナイジェリアで唯一ここだけである。線路の上の橋を通過したとき、線路が車からちらりと見えた。線路は、きちんと整備されていたようだ。 その後、車はPower Holding Company of Nigeriaという看板のある発電所の横を通った。シーメンスの建設した天然ガス発電所で、最新設備を備えているようだった。ドイツのナイジェリアにおけるプレゼンスが大きいことを、改めて認識する。

▽長大な橋とプラント群

やがて、ニジェール川を渡る箸の取り付け道路へと車は入っていった。ロコジャから車でニジェール川の対岸に行くためには、ここで橋を渡るしかない。この橋を渡るために我々は舗装しているとは言い難い道を、ロコジャからアジャオクタまでわざわざ南下したのである。

取り付け道路は状態が悪く、大型のタンクローリーが、身をくねらせながら穴をよけて走っている。

いよいよ橋をわたる。この橋は1980年代前半、製鉄所の計画と並行する形で、作られた。ドイツの研究機関Fraunhofer によれば、橋の長さは2890m、川の部分だけでも2090mとかなり長く、往復二車線となっている。ナイジェリアに浸透しているドイツのゼネコン、ユリウスベルガー社によって作られただけのことはあり、かなりしっかり作られている。

長い橋の上からは、大規模な製鉄所のプラント群を遠望することができた。

島田周平氏の『アフリカ 可能性を生きる農民 環境−国家−村の比較生態研究』 によれば、調査によって1980年代、製鉄所建設のために1万人以上の雇用を生み出していたことは確認できる。この建設現場での労働は、高等専門学校を卒業している人たちには敬遠されるような単純労働であった。また、製鉄所建設において、労働者達がロシア人の影を大きく感じていたことは、島田氏の著作の中の「英語も良くできないロシア人の下でロバのように働かされる」という文章から推測できる。

▽南下することによる気候・植生の変化

12時20分、私たちはオボロ(Obolo)という街に着いた。この頃になるとまわりの景色がロコジャにいた頃とは明らかに変わってくる。植生に関してはヤシの木のような熱帯性の木が増えてきた。南下するに連れて、サバンナ気候から熱帯性気候へとシフトしてきたということだ。農法の変化も見られ、複数の種類の作物を同じ場所に植える間作が目立つようになった。間作はアフリカの伝統的な農法で、生産性には限界がある。だが、自然の循環に依存し、地力の低下を防いだり、天候のリスクを回避できたりすることから、古くから採られてきた合理的な農法である。いわゆる「緑の革命」 は、この伝統農法がもつ合理性を否定し、単一作物栽培と自然の循環を断ち切った化学肥料導入をはかるという特色を有する。

▽オボロからエヌグへ 高いトラック交通量の幹線道路

オボロは、工業都市のエヌグ(Enugu)に通ずる幹線道路上にあり、長距離移動するトラックの通過地点としての機能や近隣地域のセンターとしての機能を有している。オボロ市街は車が他の道路に比べると混み合っていて、メイズを輸送する大型トラック、タンクローリーをはじめとした長距離移動中と見られる大型トラックが長く連なっている情景を見た。オボロの街を出た頃、ガソリンスタンドが8軒も連続している所があった。8軒全部が営業しているかは怪しいが、鉄道がほとんど機能しておらず、長距離移動は事実上自動車しかないナイジェリアのガソリン需要の高さがわかる。

オボロを出た頃、警察の検問に引っかかったが、同伴する警察官のおかげか難なく通過できた。

車は、オボロよりも下位の階層にあたる街を頻繁に通過する。そこには、頭の上に売り物を載せている人たちが数名から数十名単位で群がって、小さな商業中心になっている。ナイジェリアの農村部では、エヌグのような巨大都市の次の階層にオボロのような中心地、そしてオボロよりも更に下の階層には、このような街が無数にちらばっているのだ。これは、農民の人口密度の高さを示している。 1時を過ぎた頃でお腹が空いてきたので、朝ホテルで作ってもらったクラブハウス・サンドイッチを車内で食べた。本日は行程が長く、治安上の理由から日没前にできるだけカラバルに近くまで移動しておきたいので、昼食をとるためレストランに立ち寄っている時間が無い。ナイジェリアに来て3度目となるクラブハウス・サンドイッチは一様にパンが良くトーストされていて美味しかった。ただし生野菜が入っているため、腹痛の素になるのではないかという心配もあった。他に食べるものもないので食べるしかないのだが・・・。

工業都市エヌグ通過--中間地点



▽有数の工業都市エヌグ?しかし、日本企業の姿は無し。

13時15分、エヌグに到着した。ここはナイジェリア3大民族の1つであるイボ族の中心都市で、World Gazeteer によれば、人口は1991年時点で推定約41万人、2008年現在は約68万人に拡大している。工業都市として経済的に発達し、必然的に政治的にも重要な一面を持ち合わせてきた。1945年には石炭労働者によるゼネストが起こる。1949年にも植民地政府によって21人の鉱山労働者が射殺されたときには再びストライキが起こり、ナショナリズム運動に拍車をかけていった。

独立後、ナイジェリアがラゴスを除いて3州に別れていた頃は、東部州の州都であった。独立の7年後に起きているビアフラ戦争(1967-70)では、イボ族がつくった分離国家、ビアフラ共和国の首都となった。

エヌグに近づき、段々周囲の家の数が増えてきたと思うと、セブンアップの巨大なボトル詰め工場・ベンツの組み立て工場・ビール工場などが、次々目に飛び込んできた。大きな倉庫を併設している工場も多い。ある工場ではNigerian BreweriesのNBというロゴが目立つビールの醸造用の大きなタンクと、ペプシコーラの大きな看板を確認することができた。その産業部門からみて、これらの工場はどれも、人口稠密なこの地域にむけた市場地立地である。工場をもつ企業の国籍は、アメリカ合衆国、ドイツなどであり、日本企業は影も形もない。味の素のような例外を除き、日本企業には、首都から離れたアフリカのこのような地でボリュームゾーンの市場を開拓しようという意欲も計画もないということだろう。「アフリカはリスクが高い」とかいう先入観で、はじめから諦めてしまっている。これでは、日本製品の市場は広がらず、日本経済の回復は覚束ない。

【エヌグの歴史】
エヌグが一大都市として発達した歴史は長くはない。この地方にかつてからいたイボ族は、集中して居住するという特徴がなく、ヨルバ族のように大きな都市が形成されなかった。街の起源は1909年に銀を探していたイギリス軍が、この地域で銀の代わりに石炭の鉱脈を発見した時にある。1914年からはルガードによって炭鉱が開かれ、1912年には完成していたポート・ハーコートへとつながる鉄道で石炭が運ばれ、そこから船でラゴスに運ばれていた。鉄道がディーゼルに変わったことで石炭需要は低下したが、地元のセメント業者からの燃料としての需要はまだまだあり、炭鉱は現在も存続している。

参考文献:Bradt Nigeria edition2 p.195,196


エヌグは本日の移動のほぼ中間地点にあたり、ガソリンスタンドに寄って、簡単なトイレ休憩をとった。ガソリンスタンドに止まると待ち構えていた路上販売人が一斉に近づいてくる。彼ら・彼女らはオレンジやバナナ、水、プリペイド携帯のカードなど、大抵一人につき一商品ずつ飲食物を中心に、様々な物を売っていて、食べ物の場合は商品を中に入れたざるを頭に乗っけている。我々の車を取り囲む彼らをくぐり抜けて、ガソリンスタンドの売店に向かった。ゼミ生の一部はそこで50ナイラ払いトイレを借り、私は50ナイラ払って“Buttered Chin-Chim”というお菓子を買った。うどんを揚げたような食べ物で一度食べ始めると止まらなくなるような味だ。コストパフォーマンスはかなり良い。急な土砂降りがはじまったが、熱帯特有のスコールで、15分ほど降るとやんだ。

▽エヌグから南西へ

エヌグからは高速道路に乗った。乗ってすぐのあたりは整備されていて、スピードを出す車が多い。脇にはトラックが倒れていた。かなり事故が多いのだろう。道路の周囲にはゴミも捨てられていて汚い。高速道路に乗ってからも15分位は住宅が所々に見えて、スプロール的にエヌグの街が広がっていることがわかった。

20分程走ったところで、高速道路が突然途切れた。次の高速道路に乗る部分まで、一般道を走るようになっているのだが、道路標識が全くといっていいほどに無い上に、乗り継ぐ部分の作りが一般道とほとんど違っていない。高速道路への入り口を見失って直進してしまい、20分程迷って時間をロスしてしまった。こうした点も、ユーザーに分かりやすいように改善すべきである。

高速道路は無料であるが、広い中央分離帯が作られている。だが、路面には、時たま穴が出来ているし、高速道路への出入は一般道のようにどこからでもできるなど、きちんと高速走行のために管理されているとは言いがたい。

エヌグ郊外を走っている時、鉄道の上を通った。ナイジェリアの鉄道は植民地時代には機能していたが、少なくとも現在はかつてのようには機能していない。しかし一瞬見えた線路の周りは草が生え放題といった感じではなく、それなりに整備されていた。JETRO発行のレポート「アフリカビジネスの現象を追う」の中の2006年12月27日付けの情報によれば、このポート・ハーコートとマイドゥグリを結ぶ路線は、韓国企業のPOSCOによるリハビリが進められる計画であるという。日本は鉄道技術が強いといわれるが、ここでも中国・韓国企業に先を越されてしまっているようだ。

エヌグの街を出たあたりからは、高速道路は山の斜面に沿って作られており、片側には広大なサバンナの景色が広がっていた。

3時を過ぎた頃アビア(Abia)州に入った。キリスト教系の組織の看板が目立つ。多くは教会、または教会が経営するミッションスクールの看板である。”Come and be blessed” などと書いてあった。道路を走るトラックにも、キリスト教のデザインをあしらったトラックを見ることができた。日本でも見かける派手な装飾を行っている大型トラックに共通するものがある。

ニジェール川とベヌエ川に囲まれるナイジェリアの南部では、もともとポルトガルとイギリスの布教活動の影響が強く、伝統的にキリスト教徒が多い。これが、北部のムスリム地区とのあいだで、国内の大きな差異と不統一の原因をつくりだしている。

ビアフラ戦争の記憶残るウマイア



▽ウマイアに到着

私たちは、高速道路をおり、ウマイア(Umuahia)という街にむかった。国立戦争博物館The National War Museumというビアフラ戦争の博物館を訪れるためである。 ウマイアは、かつてビアフラ戦争中、エヌグが陥落してから、イボ族を中心としたビアフラ軍の本拠地になった。エヌグに比べれば経済的な発展度は劣り、中心地の階層としては、ロコジャやオボロに近いと考えられる。商店や露店の続く幅の広い通りにも、高い建物はなく、低い家が多い。

ビアフラ戦争の博物館に寄るか寄らないかで一悶着あった。ガイドが執拗に行きたがらなかったのである。表向きの理由は、「時間が無い、早くカラバルに着かなければならない」からだったが、実際のところ彼らは北部のイスラム教徒で、言語も宗教も違う南部を警戒しており、しかも戦時中は敵対したイボ人の地域に建てられた博物館だからだということは、推測できた。

散々ガイドを説得した末、ようやく博物館を訪れることが決まった。交差点近くにいた警察官に博物館の場所を聞いたり、OKADAと呼ばれるバイクタクシーに再び誘導してもらったりして、ようやく博物館に着いた。

▽博物館見学?イボ族への対等な配慮ににじむ多民族国家の苦悩

ビアフラ戦争ビアフラ戦争の博物館では、警備員に自動車を停められ、駐車場代を払って中に入った。改めてガイドに10分以内に戻ってくるように念を押された。

博物館は、地元の若者たちの憩いの場になっていった。そのゆったりとした雰囲気とは対照的に展示してあるものは、戦争で使われた戦車や船など、過去の悲惨な戦争の歴史を思い起させる物である。まず私たちは、時間がない中で博物館の建物の中から巡ることになった。屋外では人を写真の中に入れれば、写真撮影可能であったが、屋内ではカメラの持ち込みさえ不可で、カメラを預けさせられた。

最初のほうには西暦207年の頃に使われていたという品が展示されており、その頃からある水準の社会が形成されていたことを強調する内容となっていた。次に昔着られていた衣服などが展示してあった。

階段廊下をおりると、いよいよビアフラ戦争についての展示になった。展示は、向かって左側にビアフラ軍について、右側に政府軍について展示してあり、空間的に両者を比較しやすい並列した作りとなっていた。このように連邦政府とビアフラ共和国が対等な形で展示されており、連邦軍の勝利を一方的に強調する「愛国教育基地」のようにはなっていない。反乱軍であるビアフラ軍にも好意的な展示だったように感じる。国立の博物館であっても、それはこの博物館がウマイアというイボ族を中心とする地域に立地しているからかもしれない。中国のように卓越した民族が無く、民族問題が常に大きな政治的イシューになるナイジェリアにおいて、国家統合のため、有力な民族の一つであるイボ族を懐柔しておかなければならない連邦政府の苦悩を垣間見る思いがした。

ビアフラ軍がどのように進軍していったかといった資料や、ビアフラ軍の旗、ビアフラ共和国の国章も展示してあった。階段廊下を下り終わると、そこは屋内展示の最終部分となっており、最後に国家再統合を喜ぶ民衆の嬉しそうな写真が展示され、平和の大切さが強調されていた。奥にある階段を昇ると屋外に出ることができた。

▽屋外展示―手作り武器で果敢に戦ったビアフラ軍

時間が迫っていた私たちは、受付でカメラを受け取り、戦車等が展示されている屋外展示をまわった。カメラは受付に預けたものの、受付の管理に対して十分な信頼が置けず、盗難の不安があったが、幸いどのカメラも無事であった。

屋外展示も、ビアフラ軍と連邦政府軍の兵器が比較できるように展示してあった。たとえば戦車の場合、 政府軍は1940年代のソ連製を使っていたのに対して、ビアフラ軍は手作りの戦車とフランスから援助された戦車を使っていた。いかにも手作りといった素朴さではあったが、それでも、まともに戦車として実戦で機能していたようで、その技術と、最後まで独立を諦なかったイボ族の人々の熱意に心を打たれる思いがした。

40m位は長さのある大きな船や戦闘機の展示もあったが、そこを見る時間はなかった。 現在は船室がカフェになっているようで、15名ほどの人がゆったりとした時間を過ごしていた。

自動車移動、終盤戦。日暮れと共に増す緊張



▽イコト・エクアエネを経由

博物館を出発した。ウマイアからは、高速道路ではない街道で、40kmほど離れたイコト・エクアエネ(Ikot Ekaene)を経由して、私たちはカラバルに向かう。

街道に入る前、市内で鉄道のレールを見ることができた。一応踏切は存在したが、レールのまわりを囲うような柵は存在せず、レールから2mも離れていないようなところに小屋が建てられていた。この路線がどの程度使われているかは不明である。鉄道の周りには市場があり、食料やかばんなど生活用品を売っている露店で賑わっていた。

イコト・エクアエネまでの道路は、熱帯雨林を切り開いた道であった。道は整備されているところもあるが、所々穴が開いている。道の左右には、集落や畑に囲まれていた家を定期的に観察できた。煉瓦の壁に木を積み重ねて屋根を作っているような伝統的な家屋もあったが、簡素ではあるが近代的な建築も多かった。ドイツの国旗がはためいていたのは、ODAでドイツが建てた小学校であろう。ドイツは、ナイジェリアで、ビジネスと援助のバランスを上手く取りながら浸透してきている印象である。

イコト・エクアエネに至る途中、急に激しいスコールが降ってきた。すぐさま、車がタイヤまで浸かってしまうような水たまりがいくつもできた。日本ではこのような深い水たまりを走る機会はあまりないので、車が故障しないか心配になったが、構わず車は水しぶきを上げて飛ばしていた。

イコト・エクアエネはアバ(Aba)や我々が後に出国スタンプを押してもらうオロン(Oron)にもつながる交通の要所で、ローカルの人を対象とした商業中心となっている。ウマイアよりは大き目の印象があった。カラバルへ行くためには今まで走ってきた道から外れないといけなかったのだが、ここにも道路標識が無く、分かり辛くなっていた。

▽日暮れと共に増す緊張感

ロコジャからの長いドライブも、カラバルまで直線距離で、いよいよ100km強まで近づいた。日も段々暮れてきたと同時に、襲われないかという緊張感も増してきた。この辺りは、外国人がしばしば襲われる石油生産拠点、ポート・ハーコートを中心とするニジェール川デルタの影響圏にある。私たちは、さすがにポート・ハーコート自体の訪問は避けたが、ゲリラがここまで侵出していないという保証はない。ゲリラは、草むらに隠れていて、突然道路に飛び出してくるのだという。こうした事態に備え、私たちを銃を持った武装警官2名が護衛している。いざとなれば、この警官が頼りである。

検問が頻繁になった。検問を行っている主体は警察や軍であったが、同行している警官のおかげで、比較的楽に通過することができた。ただし、軍の場合は少し時間をとられることもあった。

6時半を過ぎた頃、私たちの車は、ナイジェリア東部の大河、クロス川(Cross River)にさしかかった。右側にはクロス川沿岸の広大な湿地帯が広がり始めた。車は、暮れなずむクロス川のしっかりした長い橋を、全力で走りぬけた。ここを渡ると、ポート・ハーコートの影響圏から逃れることができる。渡り切ると、治安に対する緊張感は緩めることができる。 渡りおわると、完全に日は暮れていた。いよいよ、カラバルまで残り50kmほどになった。交通安全という観点からは、まだ緊張の糸はほどけない。川を渡ってすぐの所で、大型トラックと二輪車の正面衝突した事故現場の横を通り過ぎた。

カラバルまで20km程という国道の合流地点の近くの、こうこうと電灯がついた露店がたくさん出ている中心地で、車は停まった。ガイドが車を停めて、プリペイド携帯のカードを買いに行ってしまった。

ここは、夜になっても非常に賑わっていた。このような地元民向けマーケットが多数存在し、溢れかえっている状況は、この一体の人口密度が高いことを示している。これは、ナイジェリアが、東アフリカのケニアのような白人の入植植民地とはならなかった背景と繋がっている。ナイジェリアには、イギリス人が入植する余地がなかったのである。

ところで、このような地元民向けのマーケットでも携帯電話のプリペイドカードが売られていることは驚きに値する。経済的にかなり下の層にも携帯電話が浸透していることがわかる。AFP通信によれば、2008年初めにナイジェリアの携帯電話市場規模は南アフリカ市場を抜き、アフリカ一番の市場規模となった。携帯電話を持っていたゼミ生によれば、ナイジェリアおよびカメルーンにおいて、今回の巡検を通して、電波が圏外と表示されたのは2日後に通過する海上のみだったそうだ。

日本人に遭遇したカラバルのホテル



▽カラバルに到着?リスボンから長崎への通商路に位置した街

7時半を過ぎたころ、私たちは、およそ600km 、12 時間のドライブを終えて、無事カラバル市街に入った。

私たちは、ホテルの場所がわからず、またもOKADAにホテルまで先導を頼んだ。カラバル市内は道も整備され、中央分離帯には電灯も備えてある。並木もあり、綺麗で落ち着いた印象があった。7時50分、私たちはホテルに着いた。

ホテルは、MCC Roadの近くのミラージュホテル(The Mirage Hotel)で、外国人が泊まることを想定した非常に綺麗なつくりであった。ロビーの天井は吹き抜けになっている。

カラバルは西アフリカで最も古いヨーロッパ勢力の拠点のひとつである。首都リスボンから、モザンビーク、インドのゴア、マレーのマラッカ、そしてマカオを経由して、はるか安土桃山時代の長崎にいたる通商路上に位置していた。このことを意識して、ホテル内部はポルトガル色の強いインテリアとなっており、それは随所に置かれた陶器などにも表れていた。アフリカ風のインテリアも置いてあり、それがうまくポルトガルのおもむきと調和している。このようなポルトガル趣味は、中国のマカオにもみられる。はるかかなたの東アジアまで覇権を広げた昔日の帝国・ポルトガルの力を、改めて知る思いがした。

客は西洋人から所得の高そうなアフリカ人、他にセメント会社のTシャツを着た中国人の5人グループがいた。ロビーでは、無線LANのインターネットが利用できた。

部屋に荷物を置いた後、ホテルの敷地内の中華料理レストランで夕食を食べた。“Star Beer”というナイジェリアではよく見かけるビールを頼み、無事に着いたこと、無事に再会できたことを祝した。再会したゼミ生のカラバルに至るまでの話を聞いて盛り上がった。料理は久しぶりの中華料理で、細かい味付けは日本と違うが、久しぶりの味であった。日本の中華料理店にはなかなかないという先生お奨めの酸辣湯も美味しかった。

この中華料理レストランはホテルの敷地内にあり、高所得者を対象にしている。だが、カラバル市内のホテルの外では、一度も中華料理レストランを見ることはなかった。中国製品も相当程度流入している上に、経済の下の層で生活する在留中国人もかなりいる。それにも関わらず、時に「世界中で食べられるのが中華料理」と言われる程に世界に広がる中華料理レストランが、街中に全く見当たらないことは興味深い。ナイジェリア人は食に保守的ということなのだろうか。ちなみにラゴスのような大都市で、マクドナルドなどのファーストフード店を全く見つけられなかったことも、その保守性に起因するのかもしれない。

▽日本人に遭遇

しばらくすると隣のテーブルから日本語が聞こえてきた。なんとお隣の方は2人組の日本人だった。お互い、はるかアフリカの彼方のカラバルでばったりとあったことに驚いた。お二人は日本のODA案件の地方電化プロジェクトの関係者の方で、発注先の民間企業の社員の方達であった。詳しいお話は、幸運にも翌日伺うこととなる。残った我々も食事を済ませ、解散した。


(下野 皓平)

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