私たちは、本日一番の予定である、学校の始業式参加の為に正装していたが、急遽予定を変更し、国後/クナシル島の南端にある、泊/ガラブニノまで行くことになった。これは、サハリン州郷土博物館サマーリン部長のお力添えがあってのことである。
もともと、泊/ガラブニノは、私たちの調査候補地に入っていたのだが、クリル日本センター側から「道の状態が悪い」と言われ、予定から外されたのだ。本当の理由は、北海道本土に近く警備も厳重な国境地帯だからということだったのかもしれない。こうした特別な場所の訪問が可能になったことは、私たちにとって貴重な経験となった。
とはいえ、学校の始業式で、ゼミ生の二人が楽器を演奏する予定だったが、その演奏が聴けなかったことは私たちとしても心残りである。
レストラン「ロシンカ」で朝食を食べ、もうお馴染みとなった四台の車に分乗し、国後/クナシル島の南下を始めた。
古釜布/ユジノクリリスクを出発してしばらくすると、周りから民家が消え、辺りが森になってきた。
そこで事件は起きた。私の乗っていた車がいきなり止まったのである。後ろを走っていた二台は止まり、運転手の人達が何やら話し合いをしているようだが、私たちには何が起こったのか分からない。さらに、成様が乗っていた、先を走っていた一台はあっという間に見えなくなり、不安は増すばかりだ。
運転手さんがタイヤを指差しているので、ようやくパンクしていることが分かった。そして、身振り手振りでパンクした車に乗っていた三人は、詰めて他の車に同乗するよう要求された。このとき言葉が通じないことの不便さを切に感じた。
古い建物がちらほらと見え始め、倉庫が立ち並んでいる光景が見られるようになった。小さな集落のようである。少し大きめの白い建物が見えた、と思ったら車が停まった。この建物が、ソ連によって建設された、国後島のメンデレーフ空港である。
ターミナルビルは、まるで小屋のようであった。周囲に人の気配はなく、寂れている印象を受けた。本当に飛行機が発着出来るのか疑問になったが、建物の横には大きな敷地が広がり、トラックが何台も停まっている。
ターミナルビルの中に入ると、いちおうカウンターや検査所のような所もあり、事務所らしき部屋には人の気配があったことから、機能はしていることが分かる。ここから豊原/ユジノサハリンスクに、週に四便、サハリン航空のフライトが飛んでいるのだ。公共投資漬けの日本の地方空港のターミナルが豪華すぎる、ということなのかもしれない。
ターミナルビルの前には小さな駐車場があり、その横に、こちらも簡素な公衆トイレが設置されていた。
この地点から右手に森の向こう側を見ると、知床半島の山並みが、今日ははっきりと望めた。
空港を出て先に進むと、山からおりて、海岸沿いの広い湿原のような場所に出た。川があり、橋がかかっている。
この橋は日本時代とほぼ同じ場所にかかっている。昔はこの橋の付近に、古釜布/ユジノクリリスクと同規模の、東沸/セルノヴォドスクという大きな集落があった。だが、今は打ち捨てられたコンクリートの残骸が一つあるだけで、生活のあとを思わせるものはすべて消え去り、ただ草原が広がっているだけだった。
集落跡のすぐ北には、グルホエ湖があり、その前には「自然保護地域」との看板が立っている。私たちが湖のほうに歩いてゆくと、ライフルを持った1人の男性に出会った。 聞くと、この男性は自然保護地域の担当者であり、密漁者を取り締まるため見回り中とのことである。その後、少し車で行ったところに、川が真っ黒になるほどおびただしい数の鮭や鱒が、産卵のため、アンドレイエフカ川を上っている光景を見た。
国後/クナシル島では、60年という時間を経て、戦前に日本人が開拓した場所の多くが再び原初の自然にもどってしまっている。そこがいま、自然保護区とされているのだ。
東沸/セルノヴォドスクから先の道は、戦前に日本が建設した道路をそのまま使っている。
さらに進むと、道は、泊/ガラブニノに通じる、標高114mのゆるい峠にさしかかった。周辺にさえぎるものがなく、天候が回復したので、ここからケラムイ崎/ビエスロ岬が一望できる。そしてその向こうには、野付崎、そして標津湿原の一帯が望めた。北海道本土がとても近い。距離にして、およそ25kmほどしか離れていないのだ。
私たちは、森の中の道を下り、島の南端の海岸線に辿り着いた。スマルチコフセンター長のお話によると、日本統治時代、国後/クナシル島には81の集落があり、南の海岸線上には12の集落があったという。その中でも一番大きかったのが泊/ガラブニノで、国後/クナシル島の中心都市ともいえる場所であった。
国後/クナシル島全体の行政中心として、泊/ガラブニノには、病院、学校、警察、郵便局、裁判所といった主要公共機関が集中しており、また、島全体の経済中心でもあった。その為公務員が多く、また比較的お金持ちが住んでいたという。日本統治時代は、年間250頭もの馬を軍に提供していたそうだ。
この戦前の中心都市の立地には、十分納得が行く。というのも、泊/ガラブニノは国後/クナシル島の南端にあり、北海道本土にもっとも近く、国後/クナシル島の玄関口ともいえる位置であるからだ。
だが、ソ連が実効支配をはじめてから、島の中心都市は古釜布/ユジノクリリスクに移され、泊/ガラブニノは、放棄されたともいえる有様になって、中心機能を完全に失った。ソ連にとって、北海道本島と近く、緊張する国境地帯となったこの場所に中心都市を引き続き置くことは、都合が良くなかったのであろう。かつては、海岸沿いの12の村全てを合わせて5000人もの人が住んでいたが、現在、泊/ガラブニノには、200人足らずしか住んでいないそうである。
中心街は、こうして草原へと変貌してしまった。
集落の少し手前で車を停め、草原の中に入ってゆくと、墓地に出た。広大な草原の中に、「先祖代々の墓」と書かれた墓石が、1つぽつんと立っていた。基礎のコンクリートは、いかにも後から作り直したものらしい。大きな町だった泊/ガラブニノに、墓石がこれだけのはずはないから、残りはすべて失われてしまったのであろう。
その後、私たちは車で、かつて泊/ガラブニノの東にある、かつて「植内(うえんない)」と呼ばれた集落のあった辺りに移動した。行政の中心であった泊/ガラブニノとは違い、植内は漁村として発展していた。昔は、魚の加工工場や、北海道と取引のある缶詰工場、そして寒天の工場もここに立地し、栄えていたという。加工工場には近くで獲れた魚の他に、少し離れた場所で獲った魚も運ばれていたそうだ。また、寒天工場があるのは、寒天の材料であるイタニグサが近くで取れたからだという。だが、ここもいまはすっかり寂れていた。
海のほうを見ると、8kmほど野付水道/イズメナ海峡につきだした先にある、ケラムイ崎/ビエスロ岬の灯台を遠望することが出来た。
植内から泊/ガラブニノへ、私たちは、歩いて戻ることになった。海辺には、漁船が大量に打ち棄てられている。なかには、拿捕され没収された日本の漁船もあるかもしれない。
ほどなく、海岸と反対方向の道沿いに、塔のある大きな建物が見えてきた。少し離れた建物の奥に大きなアンテナが見え、敷地に立っている高いやぐらには、制服を着て銃を持った男性が二人程いた。やぐらから少し離れた所にも、もう一人男性がいた。ロシア国境警備隊の基地である。
成様は、「写真を撮るな! カメラを隠せ! カメラを出しているとスパイと間違われる。」と忠告し、私たちの緊張は否応なく高まった。ここ国後/クナシル島で、一番身の危険を感じた瞬間であった。写真は、少し離れた所から目立たないように撮ったものである。
対岸の、北海道野付崎のあたりはのどかな湿原がひろがるだけで、そこに行っても私たちはこの緊張を自覚することがまったくない。だが実際には、対岸の北海道本土の動きや野付水道/イズメナ海峡を航行する船は、ここに駐屯するロシア国境警備隊によって、24時間監視下に置かれているのだ。ここが、ロシアにとって厳しい国境の最前線であることを、改めて強く認識させられた。
泊/ガラブニノは、かつて島の中心都市であったから、島全体の守護神である国後神社がここに立地していた。私たちは、いまやロシア国境警備隊の敷地の横になってしまった神社の跡を訪れた。そこは、完全に草むらになっていて、神社は跡形もなかった。樺太/サハリンの神社跡には戦勝記念碑が建っていたが、国後神社の跡に記念碑らしきものすらなかったのは、泊/ガラブニノが都市として完全に放棄されたことの証であろう。
少し先に白い建物が見えてきた。そのあたりにかつては泊村役場があったのである。官庁街のあたりには、もはやまったく建物の跡形もない。途中、泊/ガラブニノ川という名の小さな川を渡った。この河口に、戦前は、根室と約3時間で結ぶ船への艀が発着する港があった。
少し歩くと、正方形の大きな石の台があった。近づいてみると、寺院の鐘つき場の跡である。その周りには、日本のお寺に立っていそうな巨木が、荒れ果てた姿をさらしていた。これが唯一、今でも残っている、日本統治時代に繁栄した泊村中心街の面影である。
60年の歴史の中で、国後/クナシル島最大の都市の建造環境は、すっかり草原の中に埋もれてしまっていた。
私たちは、車で帰路に着いた。遠く、東沸/セルノヴォドスクの集落跡を望む地点で集合写真を撮った後、オリコノモイ/プザノバ崎に立ち寄って岩壁を眺めた。海岸線の崖がきれいな弧を描いていて、思わず見とれてしまう。崖自体はかなり高く切り立っているから、不注意に歩くと落ちてしまいそうだ。柵がないのが不思議である。もし日本が統治していたなら間違いなく、遊歩道や看板を作るなどして観光地化していただろう。
ふたたびメンデレーフ空港のそばまで来ると、木々の向こうに、日本百名山の1つとされる羅臼岳(標高1660m)をはじめとする、世界遺産・知床半島が、大きく迫ってきていた。知床半島は、国後/クナシル島に比べ全般に標高が高い山が連なっているため、こちら側から見るとかなりの迫力である。
この巡検解散後、大泊/コルサコフから稚内、旭川を経てはるばる羅臼に至り、知床半島から国後/クナシル島を眺めたゼミ生は、「国後/クナシル島が、前よりも遠く感じた」と話していた。船だと一時間足らずで着く距離にありながら、知床半島と隔てる根室/クナシルスキー海峡を直接越えることは、誰にも許されない。北海道本土の知床半島をここから間近に見て、私たちは「国境」というものの存在を改めて強く感じた。
だが、世界遺産である知床半島と、ここ国後/クナシル島は、類似した植物・動物相をもち、知床の連山と、国後/クナシル島の連山は、同じ千島火山帯に属するのだ。自然地理には、政治地理的な国境など関係がないということも、同時に強く感じた。
その後古釜布/ユジノクリリスクへ帰り着いた。真っ直ぐロシンカへ向かい、遅い昼食を食べた後、「友好の家」に戻り、着替えて出発した。
午後、私たちは、この美しい国後/クナシル島の自然を保護管理している、クリリスキー自然保護委員会の事務所を訪れた。事務所の建物は、古釜布/ユジノクリリスクの郊外にある二階建てのこぢんまりした白いコンクリートづくりであり、外見からは広範囲に及ぶこの島の自然保護区を管理する場所とは思えない。
副所長であるエレメンコ・ナタリアさんが、インタビューに応じてくださった。
国立クリリスキー自然保護区は、ソ連政府によって1983年に決定され、84年に設立された。ロシアでは“地区”それ自体が機関といえるので、自然保護委員会が1984年に設立されたといってもいいであろう。この委員会は、委員長の下に5つの部署がつく形で形成されている。
国後/クナシル島は、全長約120kmある。国立クリリスキー自然保護区の総面積は6万5000ヘクタールにも及び、その中に南千島/クリルの七島が含まれている。保護区の事務所が国後/クナシル島にあることからも分かるように、国後/クナシル島は、管轄する七島の中で最も大きく、重要な役割を果たしている。
保護区は、管理レベルが異なる大きく3つの区域に分けられている。色分けされた地図でそれぞれの区域を示してくれた。オレンジ色が市民の居住地区であり、黄色がバッファーゾーンと呼ばれる緩衝地帯である。ここは監視対象であるが、自然に影響のない限り営業許可が出る。緑色が保存地域であり、立ち入ることさえ禁止されている。また、色丹島南部はピンク色に塗られており、行政の許可を得た場合に限り耕作などが許されるそうだ。
エレメンコ副所長は、パワーポイントのスライドを使って国後/クナシル島の自然を私たちに紹介して下さった。
今日も私たちが湖や魚、岩壁など様々な美しい自然を見たように、国後/クナシル島には自然があふれている。その自然の豊かさは、世界遺産になった、対岸の知床半島をはるかにしのぐかもしれない。
島の北部には、国後/クナシル島の脊梁をなすドクチャエフ山脈、そして世界第三位の美しさを持つ火山と称えられる、標高1819mの爺々/チャチャ岳が存在する。この火山は1973年に噴火し、周囲20キロまで灰で埋まり、北海道本島まで灰がとんだという。灰で埋まったあたりは、今は草原となっているそうだ。
爺々/チャチャ岳を含め、島には四つの活火山が存在する。南部には、泊/ガラブニノ山という標高541mのカルデラ火山があり、火口原の中には湖ができている。北部と南部には温泉も出る。
車で走っても分かるように、この島には森林が多い。保護区の70%を森林が占めており、900種もの植物を保護対象としているという。その内100種程度が絶滅危惧種で、世界的に絶滅に瀕している種も少なくない。このため、国立クリリスキー自然保護区は、ロシアにとって、カフカス自然保護区に次いで重要な保護区となっている。
動物に関しては、陸・海・空と、豊富な種類の動物が生息している。なお、鯨は1965年から捕獲が禁止された。動物の中でも特に鳥類は数が多く、岩壁に巣を作ったり、100万匹の鳥が渡ってきたりすることもあるという。距離の近い知床半島からの渡り鳥も多く、グルホエ湖にも鶴が飛んでくることがあるそうだ。
知床半島と国後/クナシル島の動物の生態系が似ているのは、鳥と同様に、流氷期に、海を渡る陸上動物もあるからではないかと思い、「動物が北海道本土と国後/クナシル島を移動することはあるのか?」と質問をしてみた。それに対して、「トナカイが渡ろうとして失敗した。陸の動物は難しい。」と答えて下さった。とはいえ、世界遺産である知床半島の生態系の維持に、知床以上に自然が保護されている国後/クナシル島の生態系が寄与していることは間違いないだろう。人間が作った政治地理的な境界を越えて、動物や植物は、この地域全体で共生を続けているにちがいない。
以上のようなすばらしい自然を守るため、国立クリリスキー自然保護区の職員は日々奮闘している。
監視区域を小さく分けて人員を配置し、密漁者を取り締まっている。周辺の海域は船で取り締まり、島に4つある火山は常に監視員が監視しているそうだ。ただし、司法権はないので逮捕は出来ない。代わりに罰金を課すことで罰しており、一昨年は100万ルーブルもの罰金を徴収したそうだ。職員の中には地元の人もいるという。監視員達は無線で連絡を取り合い、日誌に結果を記録するなど、職員同士の情報交換も欠かさない。年間報告書や個人研究の報告書も作ることが義務づけられている。
対外関係としては、ビザなし訪問で来る日本の自然団体との交流、そして近年では日本から毎年植物・動物の専門家が来訪しての共同研究も行っている。さらに、日本野鳥の会やクリルアイランドネットワーク(KIN)などのNGO団体と繋がりがあり、書物などの物品面で支援を受けているそうだ。米国の開発庁(USAID)の助成金をもとに世界野生生物基金(WWF)が供与した資金で作られた、日本語のパンフレットも用意されていた。
エレメンコ副所長は、保護区の基本的な運営はモスクワの政府機関である自然資源委員会のもとにおかれており、サハリン州政府の言いなりではない、と強調された。4年前、国後/クナシル島で金が発見され、サハリン州政府が開発を提案したが、保護区は強い反対の意を示し、現在も開発は行われていないという。つまり、サハリン州の短期的な経済的動機にもとづく開発提案を抑制する役割を果たしているのが、このモスクワ直轄の自然保護委員会ということだ。
モスクワの中央政府は、資源を外交ならびに国力増強の重要なカードとしていることはよく知られており、そのさい、「自然環境」が、自らの政策を押し通す際の重要な理由付けとして使われることは、サハリンUで経験済みである。場合によると、いまは自然環境保護を理由に金の資源をひとまず眠らせておき、中央政府が適切と判断した時期に開発を始めるということなのかもしれない。
途中、他の部屋で数人仕事をしているのを見かけた。エレメンコ副所長によると、保護委員会の人ではなく、他の自然保護団体のスペースであるという。一つの建物を何個かの団体が利用しているようだ。
また、研究だけでなく、子供への啓蒙活動にも力を入れているようだ。国後/クナシル島にある多くの珍しい植物を活用し、押し花を作り子供の教材などにしているそうだ。他にも子供に自然について語るなどの活動をしている。全ては子供達に美しい自然を渡す為だ、とエレメンコ副所長は語って下さった。
国立クリリスキー自然保護区の事務所を出発し、私たちはレーニン像のある、都市の中心部に向かった。巡検中、サハリン州のどの都市を回っても必ずレーニン像があったので、ここでようやく古釜布/ユジノクリリスクのレーニン像を正面から確認できて、奇妙な安堵感に包まれる。
古釜布/ユジノクリリスクは、戦後になって国後/クナシル島の中心都市として繁栄しはじめた。このため、規模は小さいものの、ソ連的な都市計画の思想がそこには色濃くうかがえる。高台につくられた新市街は、その中心が広場になっている。そこにはレーニン像が立ち、広場の周りには郵便局などの公共機関が集まっている。かつては広場の正面に行政府の建物があったが、1994年の地震で破壊されてしまった。
新しい、ログハウス風の教会が広場のそばにある。博物館で見ることになった、地震前の古釜布/ユジノクリリスクの写真にこの教会はなかったので、これはソ連崩壊後建てられたものであろう。
都市の中心部の広場から、博物館に移動した。博物館は、社会主義住宅の1階を改装して作られた、小ぢんまりとした施設である。
館内に入ると、子供が5,6人おり、私たちに興味を持ったらしく片言の日本語でしゃべりかけてきた。さらに、持っていたチョコレートを配ってくれた。また、博物館を案内して下さった館長のヴァレンチさんは、先日図書館でお会いした方々の一人である。
ヴァレンチ館長は、展示された資料を使って、国後/クナシル島の歴史について、次のように説明して下さった。
17世紀、ピョートル一世の時代に、皇帝の支援を受けた探検家が国後/クナシル島を発見する。1713年、コゼレフスキが国後/クナシル島へ初めて到達した。1771年には、ベーリングが北太平洋を探検し国後/クナシル島にたどり着き、1811年ゴロブニンが千島列島から帰り、初めて地図を作成する。
その後、第二次世界大戦へと突入。博物館には、ソ連が千島/クリル列島を獲得した戦争に関する地図が展示されていた。北部では占守/シムシュ島で大激戦があり、日本軍を制圧した後、ソ連軍は得撫/ウルップ島まで占領する。南部の国後/クナシル、択捉/イトゥルップ、色丹/シコタン島などへは、これとは別に、ウラジオストクから兵が入って占領した。
戦闘時の武器も展示してあり、その中には、日本軍が使っていたものもあった。
そして、1946年クリル地区が正式に発足し、1947年以降、ソ連の各地から人が移住してきた。1万kmも離れた、レニングラード(現サンクトペテルブルク)から移住してきた人たちもいたようである。また、1947年まで日本人は千島/クリル列島に住んでおり、共存していた時期もあった。
当初、移民達が使っていた物を展示してある部屋があった。炭の熱を利用するアイロンなどが目に付いた。ロシアの計算機やそろばんなどが展示してあった。日本人が置いていったものを使うこともあったようである。
気になったのは、コラムで書かれているような日本とソ連・ロシアとの間の千島領有権をめぐる争いについては説明を受けなかった点だ。また、日露和親条約以降第二次世界大戦にいたる、日本統治時代の島の様子についての展示は、みかけなかった。ヴァレンチさんは、故意に日露間の衝突に関する説明を避けていたのかもしれない。それは、私たち日本人への配慮であろうか。それとも、国後/クナシル島をロシアが領有するのは当然のことであるから、あえてそのような争いや日本統治時代のことには踏み込む必要がないと考えたのであろうか。
戦前の日本人に関する展示はなかったが、アイヌ人の生活に関する展示はあった。1947年まで、国後/クナシル島にもアイヌ人はいたのである。その後、アイヌ人たちは、日本人と一緒に日本へ移住したため、今は誰も住んでいない。部屋には、18〜19世紀にアイヌ人たちが使っていた道具が展示されていた。また、国後/クナシル島にアイヌ人たちが移住してきた経路を示す地図もあった。それによると、樺太/サハリンから、北海道を通じて国後/クナシル島にアイヌ人たちが流れてきたのだという。だが、今では、境界によって仕切られてしまい、北海道がそのような「陸の橋」のような機能を果たすことはできない。
国後/クナシル島の美しい山々の写真も展示されていた。爺々/チャチャ岳やその噴火の様子。また、1883年に羅臼/メンデレーフ火山からガスが出た時の様子、あまり調査・研究の手が及んでいないという秘境、標高1485mのルルイ岳の写真などがあった。国後/クナシル島にあるもう一つの活火山である泊/ゴロニン火山からは温泉が出て、湖の淵に硫黄が検出されているそうだ。
最近、日本とのビザなし交流がはじまってからの、交流先についての展示がこれに付け加えられていた。日本から来た交流団が置いていったものであろう。軍事力を誇示する、ソ連時代につくられた展示物と、なにか不調和であった。
その後レストランに移動し、日本に興味を持つ現地の方々と懇親会を行った。
集まった方々は、前日図書館でお会いした方々がほとんどである。食事は鶏肉やソーセージ、ポテトなど、豪華だった。酒は、遠くコーカサス地方産のワインなどがだされ、旧ソ連内での経済的結びつきがなお強いことを感じた。
最初にクリル日本センターのスマルチコフセンター長が挨拶をした。その中で、明日、日本人44人がビザなし交流団として来島することを知る。
ロシアでは「親愛なる皆さん」から始まる挨拶のあと乾杯をするのが慣わしであるようだ。所長さんに続き、それぞれ間を置いてエキモアさん、我らがゼミ幹、博物館ヴァレンチ館長、北海道民であるゼミ生、水岡先生が挨拶をし、計六回乾杯をしたことになる。ロシアの人はよく飲む。また、食事も度々勧められた。
また、水岡先生が挨拶で「現行の『ビザ無し交流』は、すべての日本人に門戸が開かれているわけではない。」とおっしゃった時に、ロシアの人々から驚きの声が上がった。ロシアでは「日本人なら誰でもビザ無し訪問が出来る。」という考えが浸透していることを改めて知った瞬間である。
懇談会の中で、エキモアさんの話を伺った。エキモアさんがクリル日本センターで働く理由は、外国の人と仕事をするのが好きだからだという。彼女は、センターの中で経理を担当しているそうだ。センターには常駐のオフィスで仕事をしている人が4人しかいないということ、また、半年くらいは土・日にすら休めないと聞き、そんなに頻繁に日本人と国後/クナシル島民は交流しているのか、と驚きを感じた。気候が悪くなる晩秋から冬にかけては仕事が楽になるらしい。以前からエキモアさんは好奇心旺盛な方だと思っていたが、想像以上に活発な方であったようだ。
懇親会の最後に、スマルチコフセンター長は、国後/クナシル島の想い出にしてほしいと、材木岩/ストルブチャーティ岬の写真と、爺々/チャチャ岳の写真を私たちにプレゼントしてくださった。
写真をいただいたお礼の印として、日本の国土地理院が作った、戦前の5万分の1地形図に戦後のソ連・ロシアが作った地図を加刷した地形図を、クリル日本センターに、後日郵送により寄贈した。国後/クナシル島に来て、すばらしい人々と出会い、すばらしい経験と勉強をすることができた。これは、なかんずく、スマルチコフセンター長をはじめとするクリル日本センターの皆様のおかげであり、この場を借りて深く感謝したい。次に私たちがここに来るときは、この地図に示されているような、日本とロシアとが共生する国後/クナシル島を、ぜひ見てみたいものである。
懇親会が終わって、私たちはひどく幻想的な夕焼けの街を歩き、鈴木宗男が関わったことで有名なディーゼル発電所を視察した。このディーゼル発電所は、2000年に人道支援の一環として日本が建設した。
これは、日本が北方四島の領有権を手に入れる為に、島民の日本に対する感情を良くしたい、という意図があってのものだ。その為か、日本政府は精製された石油で動くディーゼル発電機を採用している。ロシアでは精製された石油が手に入りにくいので、石油も日本に頼らなくてはならない状況にしたかったのだ。
ところが、鈴木宗男が失脚した後、日本からの石油援助は途切れてしまった。現在、この発電所は、ロシアの石油で立派に稼動している。発電所の横にはルークオイルなどと英語で書かれた空のドラム缶が多く放置されていた。
発電所は海岸沿いの高台ににあり、切り立った崖がすぐ海に落ち込んでいる。対岸には、地熱発電所が見える。はじめ、ロシア側は日本に地熱発電所の建設を希望したが、これは恒久施設であるため返還の障害になるとして認められなかったいわくつきのものだ。日本が意地悪して地熱発電所を作らなくても、ロシアが自分たちで作ってしまうのだから、こういう「北風政策」にはまったく意味が無い。ディーゼル発電所から古釜布/ユジノクリリスクに電力を供給し、他の地区へは地熱発電所から供給しているという。
発電所は鉄格子で囲まれていた。成様の交渉の結果、建物の中まで見せてもらえることになった。鉄格子をくぐると、建物の入り口付近に「日本国民の友情の印として」との看板がある。中に入ると、そこは薄暗く、機械が動いている音がやかましく響いていた。人はいない。入り口にいた警備らしき人だけである。
入り口近くには大きな縦長の発電機があり、圧倒される。その奥に他の三つの発電機も同じように並んでいた。4基の発電機のうち、1基はバックアップの予備になっている。また、制御装置のようなものもあった。当たり前のことだが、表示は日本語である。
建物の裏には、ソ連時代に作られた発電所があった。建物はぼろぼろだが、まだ稼動できる状態にある。この発電所は、通常は稼動しておらず、緊急の際に使用出来るようしてあるとの話だ。日本からの援助がなくても、ロシアだけで電力は何とかなる、ということだ。
発電所を見終えるとすでに辺りはすっかり暗くなっていた。人工的な明かりが少ない道を気をつけて歩きながら、「友好の家」まで戻った。
私たちは、国後/クナシル島での、最後の夜を過ごした。
(折田翠)