午前6時半起床。巡検が始まって2週間目の朝である。今日で、3泊した「友好の家《ともお別れである。これまでの慣れない社会主義風のホテルや列車や船に比べれば実に快適な宿泊設備であった。それだけに、これからまたあの船やモネロンホテルに戻るのかと思うとすこし憂鬱になったが、日本本土に帰る日は近づいてきている、と元気を出す。
さて、身支度や荷物整理を終え玄関に向かうと、段ボール箱の中に食料らしきものが。これは今日ロシンカで食べる予定だった昼食分を、「友好の家《の方々が用意してくれたものだ。
じつは私たちは、本来ならば今日郷土博物館と発電所を見学してからお昼過ぎに古釜布/ユジノクリリスクを発つ予定だった。しかし、ビザなし渡航団が急遽国後島/クナシル島を訪問しに来ることになったのでり、ロシアのビザありで訪問している私たちと鉢合わせないようにクリル日本センターの方が配慮してくださり、予定をつめて早く出発することになったのである。ちなみに、ビザなし渡航団は、この前の晩すでに国後/クナシル島付近に到着しており、船内で寝泊りしていたそうだ。
そのため、ロシンカでの昼食が弁当になった関係でこうして私たちのために昼食を用意してくれたのだ。だがこの昼食に我々はこのあと驚くことになる。お弁当と一緒にまた、「友好の家《の方のご好意で、2リットルのミネラルウォーターをダンボールひと箱いただいた。これで、帰りの船で水の心配をすることはなさそうだ。
出発前に「友好の家《ムネオハウスの中を一回りした。食堂をのぞくと、本日の来訪者を迎えるためか,畳の間いっぱいに広げてあった日本の工芸品や観葉椊物などが隅っこのほうに片付けられていた。
さて,集合時間になり,本日の巡検が始まった。私たちは「友好の家《ムネオハウスの前で3日間御世話になった,管理人さんに「スパシ—パ《等お礼をいい、集合写真をとった。管理人さんは「またきてくださいね!《とおっしゃっていた。
私たちは、また例のごとくワゴン車に乗り、朝食のためロシンカへと向かった。ここでの食事も、最後である。今日の朝食は、キュウリとトマトとタマネギのサラダ・グリャ―シ(豚肉とマッシュルームの炒め物)・ラフシャ(ロシア人のうどん、付け合せ)・チョコパイ(中国製のお菓子)・食後のコーヒーもしくは紅茶であった。ラフシャは、昔給食でたべたソフト麺のようで、どことなくなじみのある味だった。
食事中かかっていたテレビを見ると、モスクワの地図が映り、市内の交通情報をやっていた。どこそこで渋滞があり、どれだけ通過にかかる、などと一生懸命説明しているようだ。「ここから行ってモスクワに着くころには、きっとあの渋滞は解消しているよね《といった冗談も聞こえてきた。はるか1万kmちかく離れた遠くの首都とこの古釜布/ユジノクリリスクとは、やはりしっかり結びついているのだということを実感させられる。
しっかりと朝食を取ると出発である。ロシンカでもまた,ミネラルウォーターやジュースなどを貰い、これからの船旅に備えた。まるでサバイバルにでも行くような境地である。
ソ連が作った古釜布/ユジノクリリスク港は、「友好の家《がある高台の市街地からいったん戦前の古釜布/ユジノクリリスクの漁村があった低地方向に降り、そのあと海辺に沿って高台の麓を南に下がったところにある。港の入り口までは、ものの10分で到着した。今日はよく晴れていて、海や山がきれいに見える。港の入り口にゲートがあって、私たちの車は開くのを1分ほど待った。クリル日本センターのスマルチコフセンター長は先に入っていった。
車から降りると,私たちはエキモアさんに別れの挨拶をした。とはいってもスパシ*パ、ダスヴィダ*ニャ程度しかいえないのだが、エキモアさんは、「また来年にも来てください。将来はえらくなってくださいね。皆さんととった写真を親戚に見せます」とにこやかに言い、何人かのゼミテンと固い握手を交わした。そして全員で集合写真を撮影した。
ビザなし渡航団が来島する関係で早く「友好の家《を出発した私たちは、出港予定の10時30分まで約一時間半、吹きさらしの埠頭で待つこととなった。ターミナルビルや待合所のようなものは、何も無い。
海には強い風が吹いており,寒く,私は上着を着込んだ。あまりに風が強いので、端っこの方にいると吹き飛ばされ海に落ちそうで危険なくらいであった。私たちはコンテナの陰に隠れて風を避けた。埠頭にあった乗用車が,船への積み込みのために吊り上げられていたが,風に吹かれてゆれていて危なっかしかった。
私たちが待っている場所の正面には、羅臼山/メンデレーエフ山が見え、山の中腹からは白い湯気が立ち上っていた。地熱発電所のものと思われた。日本からの発電所の援助が途絶えても、このように自分たちで地熱発電所を作り、しっかりやっていっているのだ。他の国の力を借りなければ生きられない人たちではない。
出港予定時刻の一時間前になると、これから乗る予定の旅客用艀舟「希望丸《が到着した。といってもまだ乗れない。
雲が出てきてますます冷え込んできた。ふと、陸のほうに目をやると、半円のアーチ型の虹が出ている。暇を持て余す私たちをよそに,カリタ(KALITA)という、イゴール・ファルフトディノフ号に向かう貨物用の艀に、コンテナやドラム缶の積み込み作業がひたすら行われていた。国後/クナシル島で見た唯一の活気のある場面であった。
10時半に近づくと,乗客が集まってきた。行きの船であった、ロシア人兵士、ニコラスさんにもまた再会した。乗客は、ニコラスさんと同年代と思われる若者や、家族連れ、独りでぽつんといる20歳くらいの女性、日本では見られない一昔前の朊装をした中年女性など、さまざまであったが、行きの船とは違い、新学期が始まった関係であろう、子供は少なかった。
予定時刻から遅れること15分、ようやく艀への乗船が始まった。乗船直前に艀の使用料として140ルーブルが徴収された。10分ほどかかって全員が艀に乗りおわると出発し、本船に到着するのにはさらに10分かかった。私たちは本船につくまで、大量のさびた拿捕船や、このたび銃撃に遭った吉進丸を最後にもう一目見ようと目を凝らした。行きもそうだったが、今日はさらに波が荒く、艀が上下にゆれる。本船に近づくとそのゆれ具合がさらに強調された。つかまるものが何も無いのに転ばないのが上思議なくらいで、怖かった。こんな状態で本船に乗れるのだろうか、とあの危険な本船に登るはしごを思い出して嫌な気分になった。
本船を見上げると、4階のデッキや5階のデッキの手すりにズラリと乗客が並んでこちらを見ていた。子供が結構目立つ。遅れて帰島したのであろうか。国後/クナシル島についたときは、上安そうに上を見上げる艀の乗客たちを見て、避難民みたいだと思ったものだったが、今度は私が本船の人からそう思われているのかもしれない。
はしごが下ろされ固定されるのに5分ほどかかり、本船への乗船が始まった。はじめに、船員関係の人、制朊を着た国境警備隊の人がすごい速さではしごを登っていった。荷物のために往復している人もいた。相変わらず船がゆれる中、私たちゼミ生一行も乗船を開始した。重い荷物を背負って足場の悪いはしごを上りきり、パスポートを渡し、ようやく乗れたときはほっとした。
レセプションに入ると、当たり前だが、行きと全く同じ船であることに気がついた。船員さんも見覚えのある人が多い。次々と新しい状況への直面の連続であった巡検中であったので、快適とはいえないが一度体験した環境であるということにはかすかな安堵感を覚えた。
国後/クナシル島からは約60人の乗客が乗り込んだ。そのためレセプションはごった返していた。いつまでここにいればよいのだろうと思っていると、成様が「行きと同じ部屋です。《とおっしゃった。もう場所がわかっていたので、そそくさと人気のない船室へ向かった。あの二段ベッドとの再会である。行きにこわれかけていた片一方のベッドのはしごは完全にこわれていたのにがっかりした。
船室は妙に蒸し暑く息苦しいので、私は早速4階のデッキに出た。艀舟のほうを見ると、ぞろぞろと国後/クナシル島へ上陸する乗客が艀舟に移っていった。
11時50分ごろ、本船と艀を結ぶはしごはしまいこまれ、ほどなく艀は国後/クナシル島へと戻っていった。手すりにつかまってぼんやりと艀を眺めていると、人ごみの中にわたしたちを本船乗船まで見送ってくださった、クリル日本センターのスマルチコフセンター長を見つけ、手を振った。本当にいろいろ御世話になったものだ。
乗客を乗せた艀に少し遅れて、荷物を載せた小船も国後/クナシル島へと戻っていった。その後も積荷を船から降ろしたり積んだりする作業が続けられていた。
出航したのは,午後12時半頃であった。
港から出ると、私は部屋に戻って同室のゼミ生と今朝貰った昼食を袋から出した。黒パン2切れと、キュウリ、トマト、ソーセージ、りんご、甘めの小さなパン、日本のものと少し違う大量の白いご飯、そして紙パックのジュースであった。全て素材まるごとであった。これがロシア風の御弁当なのだろうか。ご飯と一緒に食べるおかずが少ないので、少し食べるのに苦労し、一同苦笑した。
再び甲板に出ると、国後/クナシル島がどんどん遠ざかっていた。教会のてっぺんや住宅が小さく見えた。天気もよくなってきたので甲板で食事をするゼミ生もいた。
出航してから30分を過ぎると、国後/クナシル島の東にある爺爺/チャチャ岳がその大きな姿を現し始めた。ゼミ生全員が甲板に集合してしばし観賞した。あいにく肩のようになった外輪山のところまでしか見えず、その上に突き出した内輪山は雲に隠れていた。爺爺/チャチャ岳は、知床半島の羅臼岳からも遠望できる美しい形の山であり、間近にその雄姿を鑑賞できる絶好の機会だったが、天候に恵まれず、その全容を見ることができなかったので、非常に心残りである。日本がもし戦後も引き続き実効支配していたら、「百吊山《の1つに指定され、登山道が整備されて、頂上は多くの登山客を呼んでいたことは間違いないだろう。 しばらく船が進むと、国後/クナシル島の最東端である安渡移矢/ロブツォフ岬も見えてきた。岬の辺りは、低い丘陵地帯になっている。
午後2時過ぎになると、皆で、乗船代2900ルーブルとシーツ代90ルーブルを払いに行った。それと引き換えにおばさんからパスポートを受け取る。パスポートにはさんである出入国カードの裏を見ると、古釜布/ユジノクリリスクのスタンプが押してあった。この出入国カードは出国時に回収されてしまうので、このスタンプは残らない貴重なものであるが、国後/クナシル島を訪問したというこれ以上の証拠はない。
私たちの船は、一路ユジノクリリスク海峡を横断、色丹/シコタン島に向けて航海している。
天気がよいせいだろうか、甲板には多くの乗客が見られた。景色を眺めるもの、熱心に写真撮影をする者、イルカやカモメを見て喜ぶ者など人によって過ごし方は様々であった。さっきまでは目を凝らさなければならないほどうっすらとしか見えていなかった色丹/シコタン島がだいぶはっきりと見えてきた。多くの人が船首に詰め掛け、近づきつつあるその様子を眺めた。
このように色丹/シコタン島が近づく一方、国後/クナシル島もまだ遠くにしっかりと見えた。このことは今、北方諸島の真只中のユジノクリリスク海峡にいるということを、私たちに強く感じさせた。海面に目を凝らすと、時折イルカが数匹飛びはねるのが見えた。ほんの一瞬なのでよく見ていないと見逃してしまう。自然豊かな千島/クリル地方の一面である。
午後3時半になると、色丹/シコタン島がだいぶ大きくなり、船員さんが停泊するための縄を出し始めた。少し遠くには色丹/シコタン島に向かう工業用の船が見えた。
3日前に訪れた入り口の狭い入り江が認識できるほど近付くと、ますますより多くの乗客が船首に集まってきた。行きは夜にいつのまにやら入港していたので、入り江の入り口を入る様子を見られなかったが、今度は昼間の入港である。港を護るように切り立った崖の間をくぐり抜け、斜古丹港/マロクリリスク湾に入って、斜古丹/マロクリリスク港の街の景色が次第に広がっていく様子を、集まった人々は眺めつづけた。
入り江に入ると船がぐるりと回り、方向転換して港についた。お昼頃に古釜布/ユジノクリリスクを出航してからおおよそ3時間半、斜古丹/マロクリリスク到着である。私達にとって8月30日の朝以来、2度目の色丹/シコタン島だ。
斜古丹/マロクリリスクは鮮やかな色の建物がならび、鮮やかな緑の丘にかこまれ、どことなく暗い感じが漂っていた古釜布/ユジノクリリスクとは違い、明るい印象を受ける。まるで絵本のような風景である。だが、所々に見える廃墟や、国境警備隊の船がこの島をただならぬものとしている気がした。
さて、船が港につく少し前に私が船首にいると、突如「コンニチハ《と話しかける声が聞こえた。この船ではあまり見掛けない、ロシア人の歩くのも大変そうなおじいさんであった。 挨拶に続いて英語で自己紹介をされた。曰く、彼は科学者で津波の研究をしているそうだ。この南千島/クリル地方では、1994年10月に4.5mの大津波があったそうで、その関係の調査でここに来たのだという。モスクワの大学の方だそうだ。逆におじいさんは私に「トウキョウ?ワセダ?ツクバ?《と質問してきた。彼の知っている日本の大学なのだろう。やはり理系大学ではない一橋は知らないようだ。こうしてこの科学者は一方的にしゃべって去っていった。後で見掛けたときは、助手らしき女性が付き添っていた。また話す機会があるだろうかと思ったら、色丹/シコタン島で降りてしまった。そして船から降りて、すぐに迎えに来ていた車に乗っていった。 それにしても、サマーリン部長様といい、この方といい、学術的な研究目的でこの千島/クリル地方を訪れるロシア人研究者は少なからずいるのだ。地震、火山関係でよい研究対象なのだろう。それにひきかえ、日本人の研究者がこの地方をフィールドに研究することは、極度に「自粛要請《されたままである。結果的に、この地域の日本人による学術研究は、ロシアに比べ立ち遅れてしまっているにちがいない。これで、憲法がいう学問の自由は、ほんとうに保障されているといえるのだろうか。
港に着くとまたはしごが下ろされ、乗客が10人以上下船して行った。いれかわりに、斜古丹/マロクリリスクからは20人近くの人が乗ってきた。それに一歩遅れて、積荷を降ろす作業が始まった。
船の上のクレーンや、別の小型のクレーン船舟でコンテナーが吊り上げられ、降ろされていた。また、網がかけられていたダンボール箱類は手で運ばれていた。こちらの中身は、果物くだもの、トマト、ミネラルウォーター、キュウリ、タバコ、ビール等、おもに食料であった。コンテナーやダンボールはすぐにトラックに積み込まれ、運ばれていった。また、5階の甲板にあったトヨタの大き目の乗用車も吊り上げられ、ここで降ろされ、人が乗り込んですぐに発進していった。並べておいてあった日産の乗用車のほうはそのままであった。
これらの物資は、大泊/コルサコフから運びこまばれたものである。色丹/シコタン島の人々は、少なくとも低次財である最寄品に関しては、樺太/サハリンから輸送された物資で生活していることがわかる。 この活発な荷役作業は、本土から遠く離れた空港のないこの島を樺太/サハリンと結ぶにおいてのこの船の重要性が感じられる場面であった。
船の中で、1965年から色丹島に住みついている電気発電所の技師に会った。彼は月に1万ルーブルを稼ぐという。この技師は、色丹/シコタン島の様子を、いろいろと話してくれた。
テレビや冷蔵庫などの家電製品は漁船に頼むか、ビザなし訪問団に頼んで日本から買うという。漁船員は船員手帳を持っており、割合自由に日本に出入りできる。根室には、このようなロシア人船員相手に、ロシア人向けの家電製品を扱っている店がある。昔は根室でも物々交換であったが、今はもちろん現金で買う。つまり、ロシア人船員を経由して、根室は、色丹/シコタン島の高次財を供給する中心地になっているということだ。
色丹/シコタンでは日用品には困っていない。また、色丹/シコタンの物価は樺太/サハリンと同じくらいであるということだ。
ただし、医療施設はあまり発達していなくて、重病になると2泊3日をかけてサハリン州立病院に行くのだという。
夕方甲板でゼミ生と座り込んで話していると、突如ロシア人のおじさんから"What are you doing?"と質問された。地べたに直接座っている日本人がとても上思議だったようだ。私たちが質問に答えていると別のゼミ生がやって来た。なんとおじさんと彼女は既に知り合いらしい。 おじさんは日本語で「コンニチハワタシノナマエハ、コンスタンティンデス《と自己紹介した。それを聞いたゼミ生が「どうして日本語を知っているのですか《と聞くと、「私は樺太/サハリンでアマチュア無線をしていて、サハリンに近い日本にもメッセージを届けたいから日本に興味があるのです。《というようなことを英語で熱っぽく語ってくれた。 既にコンスタンティンさんと話していたゼミ生によると、アマチュア無線ラジオは趣味で、仕事は営業らしくロシアの大手携帯電話会社のアンテナ建設の系列会社に勤努めているそうだ。豊原/ユジノサハリンスク出身でモスクワの大学に通う娘さん、中学生の娘さん、まだ小さな息子さんがいるという。日本へは、北海道だけ行ったことがあるそうだ。コンスタンティンさんの英語は仕事で英語を少し使われるためか、ロシア人兵士ニコラスさんのより上手だった。
コンスタンティンさんは、私たちゼミ生4人を熱心に自分の部屋でビールを飲むのに誘うので、私たちは行くことになった。コンスタンティンさんの部屋は5階だった。
ドアを開けた瞬間、私たちは自分たちの部屋とあまりにも違うことに驚いた。そこは普通のホテルの部屋のようで、床はカーペット、2段ベッドではない普通の型のベッドが2台おかれ、テーブル1つにイス2つ、冷蔵庫、テレビがあった。さらに洗面所、御手洗いも完備されているとのこと。窓も、私たちの部屋より大きくて、カーテンつきのものが、いくつかあり、そこからは景色がよく見えた。この船にこのような部屋があるとは思わなかった。たしかに、私たちの部屋は3等だとは知っていたが、ここまで違うとは。すべての人々が平等でなくてはならない社会主義社会は、やはりもう過去の遺物なのだろう。
ちなみに同部屋のセルゲイさんはアシスタントで、英語ができないがドイツ語ができた。
ここでまた、コンスタンティンンさんの仕事について伺った。彼の勤める会社では、国後/クナシル島でビジネスをしており、すでにこの会社の携帯電話は国後/クナシル島で使えるという。だが色丹/シコタン島にはまだ地上局のアンテナの基地がなく、この会社の携帯電話が使用できない。そこで何年かかけて基地を建設し、使えるようにしていくところだそうだ。このように民間会社も開発投資に乗り出して、北方領土千島/クリル地方はますますロシアの空間統合ネットワークに組み込まれていっているのである。
日本政府の、北方領土問題に関わる「北風政策が、ますますむなしく響く。
私たちはしばらく歓談し、夕食で食堂へ向かうため失礼した。
この日の船内食堂の夕食は、ミートボール、お酢についてないナマス、リゾット風の甘いご飯、パン、ロシアンティーであった。味はまずまずであった。
食後、しばらくそれぞれで休憩した後、私たちゼミ生ほぼ全員と水岡先生で船の中の、私達の部屋の隣の隣にある、バーへと向かった。
バーは薄暗く、わりと広々としており、船の中とは思えなかった。ミラーボールが天井の中央でぎらぎらと光っていて、話し声が通じないほど大音量でディスコ風の音楽がかかっていた。メロディーラインがはっきりとした、一昔前に流行ったような、ヨーロッパ風のロシアンポップスがメインだったが、数年前のアメリカの曲もかかった。カウンター席の他にテーブルが10つほどあり、私たちが入ったときはそのうち3つくらいしか埋まってなく、だいたい10人ちょっといたくらいで閑散としていた。
私たちは、ビールを注文した。最初はバルティカ9であったか、追加で注文したときは品切れで、DBDBという、ペットボトル入りのビールを頼むことになった。コンスタンティンさんは絶賛していたのだが、こちらの評判は私たちの間ではあまりよろしくなく、とあるゼミ生はただアルコールをぶち込んだだけと称した。ロシア人好みの味で、日本人にはあわないのであろうか。この他に、おつまみにスナック菓子を購入し、しばし歓談した。
ここではやはり、北方諸島訪問の感想が多く語られた。「根室からったった70キロしか離れていない色丹/シコタン島に、日本人は誰も知らない欧州の別世界が広がっていて、厳然と立ちはだかる国境線を実感した」「日本は領土主権を主張するが、もう完全に国後/クナシル島はロシアであった。《「住民たちは日本の援助を必要としていないようであった。《等である。この延長で再び、北方領土四島返還を要求する政策は現実的か、ビザなし交流などの外務省の活動は果たして有効かどうか、などの議論がゼミ生の間で活発になされた。他に、「この船は冬に2ヶ月に1度と減便するが、国後/クナシル島・色丹/シコタン島の人々の生活は成り立つのか。《と心配する声もゼミ生から聞かれた。
このような感じで始めは隅っこのほうでゼミ生は固まっていたのだが、1時間くらいたつうち、次第にロシア人の客が増えてきた。夕方にあったコンスタンティンさんや行きの船からの顔見知りのニコラスさんが出現し、彼らの誘いで私たち一同踊る羽目になってしまった。何人かのゼミ生はニコラスさんの仲間、サハリン大学の学生と一緒に飲むことになった。
北方諸島は日本が領土主権を主張し、今いる色丹/シコタン島は日ソ共同宣言で日本に引渡しが約束されている。とはいえ、現在はロシアが実効支配していることは間違いなく、ロシアの法域に属している。ロシアの法律に従えば、18歳以上で飲酒が可能である。それゆえ、日本では未成年とされる年齢でも、色丹/シコタン島では飲酒が合法なのだ。非常に興味深いことである。
こうして私たちが陽気なロシア人たちの騒ぎに巻き込まれていると、床が振動しているのを感じ、うっすらと低い雑音が聞こえた。午後11時45分、ついに船は色丹/シコタン島を出航したのだ。
真夜中を過ぎるころ、ゼミ生たちはそれぞれに切り上げ、明日に備えて部屋に戻っていった。熟睡する私たちを乗せた船は、深夜の国後水道/エカチェリーナ海峡をぬけ、一路択捉/イトゥルップ島へと航海をつづけた。
(佐藤 香里)