8月25日
ノグリキ、
ネフチゴルスク、オハ

目覚めれば、タイガ広がる北の大地
オイルマネーが集まる裕福な都市
冷帯の景観つらぬく悪路を北へ
今はなき、ネフチゴルスクの廃墟
石油とガスの町 オハ
社会主義住宅を活用したホテル
オイルマネーできれいに模様替えした中央の広場
列島最北端、さいはての夜

目覚めれば、タイガ広がる北の大地

早朝目を覚ましてしまった数人のゼミテンは気づいた…寒い。北へ走り続けた列車は、我々が眠りについている間に北緯50度線を越え、戦前からソ連(ロシア)領であった北樺太/セーベルヌイ・サハリンに入っていた。
 私は、全く目を覚ます様子もなかった。それどころか、滞在5日目にして望郷の念にかられたのだろうか、朝方に日本に帰国している夢を見てしまい、そのまま九時ごろに優雅な目覚めを迎えるかと思いきや、途端にロシア語のラジオ放送が車内に流れていることに気づいて我に返った。日本からほんの少しの距離を移動しただけで、旧共産圏、ロシア語圏というまさに「ありえない」世界に入り込むことを可能にしている国境というものの存在に思いを馳せた。
 外を見渡せばタイガの樹海が広がる。山火事があったのだろうか、枯れ木が一面立ち並んでいるところもある。昨日までいた南樺太/サハリンの景観とは随分異なる。サハリン州の人口密度は1平方キロメートル当たり6.1人。北海道の人口密度、1平方キロメートル当たり72.5人の10分の1以下だ。列車は行けども行けども、集落はまったく目に入らない。

列車はほぼ定刻どおりの午前10時17分、ノグリキ駅に到着した。旅客列車の最北駅となっているこのノグリキ駅は、少なくとも列車の発着時には賑わっている様子である。そのため駅は若干整備が進んでいるのか、ホームとの段差が少なく、列車からは比較的にスムーズに降りることができた。列車からは我々とロシア人以外に、南アジア系の風貌をした労働者風の男性も降りてきた。また、駅前には重機や資材が置かれている。これらもやはり近くで行われている石油・天然ガス開発の影響であろう。

昨晩乗るときは、暗くて気づかなかったのだが、われわれが乗った客車は外装も特に綺麗であり、車体にロシア連邦の双頭の鷲の紋章が描かれている。ソ連時代にはそこに、鎌とハンマーのソ連の紋章が描かれていたのだろう。客車は10数両つながっており、予想以上の長編成であった。それでもコンパートメントが埋まっていたことを考えると、旅客輸送の需要はそれなりに高いということである。実際、石油開発関連で近年乗客が増加しているようで、豊原/ユジノサハリンスク〜ノグリキ間では列車の本数が増えたらしい。また、私たちが乗ったのは、通過駅がある「夜行急行」であったが、同じ区間で「夜行鈍行」というのもある。こちらはほぼ全駅に停車し、急行より2時間以上余計にかかる。

ちなみに、豊原/ユジノサハリンスクから北へ向かう鉄道は、戦前、上敷香/レオニドボまでしか通じていなかった。その先には、古屯/ポペジノまでは、軍用鉄道があったが、一般客はもちろん利用できなかった。その先、さらにノグリキまでの区間は、戦後ソ連によって建設されたものである。このときソ連は、既存の区間との輸送の連続性を保つため、ロシア本土とは異なり、日本の国鉄と同じ狭軌を採用した。
 また、ノグリキ以北へは、線路の幅が狭軌よりも狭い760mmの軽便鉄道が、1930年にオハまで開通していた。この鉄道は、いま、サハリンモルネフチガスの運営で、いぜん貨物輸送用に現役で活躍している。なぜこのような大陸側の広軌にも日本側の狭軌にも合わない規格で線路が敷かれたのだろうか。線路幅が小さいと客車や貨車のサイズも小さくなり、一定の長さのレールにかかる貨物の重さの負担が軽減するため、多少安価なレールを使うことができ、建設費が低く抑えられる、という理由が考えられる。また、このような辺境地域ではそれほどの輸送量は求められない、ということもあったかもしれない。かつては、旅客輸送が行われていたらしいが、オハへの道路が開通して以降、廃止された。

現在、ノグリキ−オハ間の唯一の公共交通機関はバスである。出発を待つバスが、駅前に止まっていた。バスと言っても、日本で想像するようなバスとは違い、頑丈なトラックの荷台に乗客の乗る部分が取り付けられたような構造になっている。タイヤの大きさから、オハへつながる道路の路面状態の悪さがうかがえる。バスの窓には、ノグリキ−オハ間の運賃500ルーブルと書いた紙が張ってあった。これで乗客を集めているのであろう。


オイルマネーが集まる裕福な都市

駅前で私たちは、これから3日間御世話になる自動車2台を見つけ、早速分乗して出発した。車種は2台とも三菱のデリカであった。もちろん中古車ではあるが、クッションが柔らかく、広さに余裕があったこともあって、昨日まで乗っていた韓国製のバンよりはかなり乗り心地が良さそうである。

豊原/ユジノサハリンスクとは違い、ノグリキ駅は町外れにある。そのためか、駅を一歩離れるとあまり建物は見当たらない。ただ、市街地や駅周辺の主要道路のほとんどは舗装されている様子であった。途中、ノグリキ空港の建設現場の傍を通過した。この空港は、米国メジャーの子会社エクソンネフテガスが援助して抜本的な改修を行っている。サハリンプロジェクトのためには、効率的な飛行機による人員輸送が不可欠である。オイルマネーが流れ込んでいること、そして、田中角栄首相の時代に日ソ協力として始まったはずのサハリンプロジェクトのイニシアティブが、いまや欧米企業の手にしっかり握られてしまっていることが、みてとれた。
 駅から15分ほどで、本日の最初の視察予定場所である。北方民族博物館に到着した。まずは、成様が車から降りて開館しているか確認しに行った。元から訪問予定であってガイドブックに載っていても、訪問できるかどうかという根本的なことを確認するのが、この巡検では恒例になっている。それだけ事前にある情報があてにならないのである。

車に戻ってきた成様いわく、開館していないのだという。中にいるニブヒ族らしい人に聞いたところ、現在修理中で、電気も通じていないために、窓がなく内部は真っ暗で見学は不可能だと言うことらしい。しかし、それでは納得できない。水岡先生はこの町には実は他に博物館が存在するのではないのか、とおっしゃった。そこまでの疑問を持たざるを得ないほどに、この国では当てにならないことが多いのだろうか。しかし、残念ながら他に博物館がないとのことであったので、諦めた。

巡検中にしては珍しく時間に若干の余裕ができたので、レストランに行って食事をとることになった。実は二日前の昼からこの昼まで、移動距離の長さと移動時間の余裕のなさのおかげで、売店で買うパンやソーセージ、カップラーメンなどで食いつないでいたのだ。そのため、ゼミ生にとって、多少値が張ってでも食事らしい食事をとれることはこの上ない喜びであった。
 レストランのあるノグリキ中心部に入った私たちがまず気づいたことは、豊原/ユジノサハリンスクに比べて、随分と新しい建物の占める割合が高いことである。もちろん人口1万人を少し超える程度のノグリキは、規模においては劣る。しかし、サハリンプロジェクトが進むこの都市にオイルマネーが流入していることは明らかだ。数ある新しい建物の中には、ロスネフチの事務所(写真)や、欧米風のスーパーマーケットもあった。北海道サハリン事務所の資料によれば、このノグリキ地区の平均賃金は、サハリン州の他の都市を抜いてダントツに高く、州都の2倍以上。1ヶ月およそ4万ルーブルある。
 ただ、町の中心にソビエツカヤ通りが存在する点、社会主義住宅が並ぶ景観などは、豊原/ユジノサハリンスクと共通している。

私たちは、翌日宿泊予定のホテル・ノグリキの中にあるレストランに到着した。だが、午前11時である。日本の感覚ではもうそろそろ開店しそうな時間であるが、当然のごとく営業していない。しかし幸いなことに、特別に食事を用意してもらえることになった。
 建物の外見はソ連時代からのものという印象を受けたが、中に入るとなかなか上品な雰囲気である。このように、建物の外見は古い感じであっても内装はきれいに施されている、というのは巡検中頻繁に遭遇したように思う。
 営業時間外であったため、メニューはとりあえず出せるものになった。だが、ボルシチ、きのこのサラダ、目玉焼きとハム、紅茶が出され、質・量ともに十分だった。特にボルシチは、ロシア料理の定番にもかかわらず、このときまで食べる機会がなく、ロシアの地で初めて口にしたゼミ生は感激した。食事中は、店側のルールで客は手荷物を預けなければならなかった。防犯上の問題かと思ったが、成様によれば、これは単に衛生的問題らしい。


冷帯の景観つらぬく悪路を北へ

1時間にわたってゆっくりと食事を取り、正午過ぎになって、次の目的地であるネフチゴルスクへ出発することになった。成様によると、ノグリキ以北の道路状況がわからないため、とにかく急いだほうがいいらしい。水岡先生が事前に得ていた情報によれば、道路は未舗装どころか穴だらけであるらしく、最悪のドライブになることが予想されていた。
 不安を抱えながらの出発であったが、しばらくは走りやすい道が続いた。周囲には、列車の窓から見た比較的高い針葉樹林の広がる景観と違い、低木短草地帯が広がっている。木々が弱弱しく、それだけ気候の厳しさが見て取れる。また場所によっては、見る限り枯れ木がどこまでも続いているところもある。いかにも殺風景であるが、成様に聞くところによるとこのあたりでは山火事が頻繁に発生するとのことだった。
 出発して20分後、道路の両側にパイプライン建設現場が見えたので一時停車した。これは、サハリンUに関連するパイプラインの埋設工事の現場である。ここでは、パイプラインが道路を潜り抜けるようにして交差しており、道路の両側のところでちょうどパイプを埋め込む作業をしているようで、車体にKOMATSUと書かれたショベルカーが地面を掘り返している。ちなみにコマツ(小松製作所) は日本有数の建設機械メーカーである。21日に稚内のフェリー乗り場で似たような機械が積み込まれていたことから考えると、サハリンU用の建設機械の一部は日本からの輸入に頼っているといえる。

  付近には森が広がっていたが、その現場から遠くを望むと、北西方向に、延々と土壌が露出している部分が道のようになって続くのが見えた。蛇行しているようにも見えるが、それはこの付近が平地ではなく、なだらかな丘陵になっているせいである。土壌が露出しているのは、パイプラインの敷地造成が行われたからであり、これからパイプが埋め込まれる様子であった。このあたりでは一部の環境団体の主張するような土壌の河川への流出や、河川の堰きとめといった環境破壊が起こっているかは不明だが、少なくともかなりの面積の森が破壊されたことは確かである。
 この後も、同様のパイプライン関連の工事現場が見られた。パイプラインは、私たちが走った道路と何度か交差しながら南北を結んでいる様子である。完成すれば樺太/サハリン北東部沖合の採掘現場から、南岸の女麗/プリゴロドノイエで建設中のLNG液化プラントまで、このパイプを伝ってガスが送られることになる。

ノグリキを離れるにつれて、路面状態はどんどん悪くなった。だが、未舗装道路の高速走行に慣れてしまったゼミテンにとっては、車の揺れももはや大した苦痛には感じられなかった。
 道路のそばには、日本では高山でしか見られないハイマツが広がるようになった。また土壌も砂っぽくなり、これまで見ていた黒っぽい土壌と根本的に異なっている。また、その中にはところどころ湿地帯が広がり、池塘が点在している 。
 成様によれば、このあたりは「ツンドラ」なのだという。だがツンドラは定義上、「1年の大部分が堅氷に閉ざされている荒原。夏季に凍土層の表面が融けて蘚苔類・地衣類が生息。」(『広辞苑』)とされており、私たちの見る限り、そのようではなかった。またケッペンの気候区分から考えても、樺太/サハリン島北部は冷帯(ケッペンの記号でDfc)に属しており、寒帯のツンドラ気候(ET)の範囲には含まれていない。一方で、戦前に日本が作った二万五千分一地形図「樺太半田」図幅には、北緯50度付近の幌内/ポロナイ川流域に「ツンドラ地」という記号が広がっている。したがって、成様のおっしゃった「ツンドラ」は俗称として一定程度通ずるものだが、自然地理学上のツンドラとはまた別のものと解釈すべきであろう。

しばらくすると石油採掘の機械が点々と広がるところに差し掛かった。しかしどれも稼動していないようである。成様によればこのような場所は珍しくないとのことだったので、ここでは先を急ぐこととした。

午後1時30分頃、ヴァウという小さな村で休憩を取った。軽便鉄道の駅があり、その周りにみすぼらしい家々が点々と立ち並ぶだけである。周囲は砂漠に少し草が生えただけという感じで、耕作をしている様子もない。この地域で農業以外の産業といえば、漁業と建設業くらいしかなさそうである。村人がどのように生計を立てているのか、甚だ疑問であった。

ここの土壌は、以南に見られた黒っぽい土壌とは根本的に異なる。ポドゾルであろう。これは、無機物の粘土でできており、地味がやせているので、耕作ができない。樺太/サハリン島の南部でも、少し掘るとこの土壌が出てくる。戦後、ソ連統治下でコルホーズになってから、元日本人農民が経営していた農村に送り込まれたソ連人農民が、事情をよく知らないソ連共産党の命令で、ウクライナの黒土地帯と同じように深耕したところ、ポドゾルが出てきてしまい、まったく作物が取れなくなって、コルホーズを放棄せざるを得なくなったという話さえある(油本繁「日本人引揚後における樺太の農村の変容」『樺連新聞』2006年10月1日号)。
 さらに走ると、東側に小さな炎が見え出した。遠くてよく見えないが、この炎はチャイウォ油田のものと思われる。その後、チャイウォへの分岐点で、ヒッチハイクをしている人を目撃した。360度見回しても人家のないこの場所でなぜこんなことをしているのか…。

午後3時、北への一本道を進み続けていた私たちは横道にそれた。ネフチゴルスクへの近道らしいのだが、実際にたどり着けるかは行ってみないとわからないらしい。なにしろネフチゴルスクには現在住民は一人もおらず、その道は現在、車両がわずかに通るだけで、ほとんど手入れがなされていない。私たちの車は、所々にクマの足跡が残り、ウサギが現れる道を恐る恐る進んだ。道路の状態は限りなく悪くなり、地面の凸凹をひたすら上がり下がりするのみで、車内はひどく揺れ続けた。車の揺れにも多少慣れていたゼミ生であったが、さすがにこのときは堪えたようである。

しばらく進むと、石油生産施設が現れた。石油をくみ出すポンプの周りには、いくつものタンクが横たわっており、それらをパイプが結んでいる。パイプはかなり錆びている。古びた監視塔のようなものも見られた。賑わいはないが、今でも細々と石油採掘作業が続けられているようである。そこにいた労働者風の男性に道を聞いて、午後3時半、なんとか私たちはネフチゴルスクに到着した。


今はなき、ネフチゴルスクの廃墟

ネフチゴルスクはソ連時代、石油開発のために作られた計画都市であった。地震前は17棟の5階建てアパートと数棟の2、3階建てアパートが建っており、約3000人の住民が暮らしていた。全て、油田に勤務する労働者とその家族であった。

1995年5月28日未明、ここから40kmの地点を震源として発生したM7.6の地震によって、17棟の5階建て社会主義住宅は一つ残さず完全に崩れ落ち、2、3階建てのものも形は残ったがほとんど破壊された。建設当時、ソ連の学者はこの付近での地震の可能性を認識していなかった。社会主義時代に建てられた、コンクリートの板をセメントでくっつけたような建造物であったため、全くといっていいほど耐震性がなかったのである。さらに地震発生が真夜中で住民のほとんどが睡眠中であったことが重なって、結局のところ、人口の3分の2にあたる2000人が死亡するという惨事に至った。
 素因はたしかに地震であるが、それをこれだけの災害にした必須要因は、質より量を求めてアパートを大量造成したソ連社会主義の住宅政策、そして不十分な住宅インフラ整備のまま資源開発を急いだ当時の経済政策だったといってよかろう。この壊滅的被害を受け、ネフチゴルスクはそのまま町ごと放棄された。
 生存者はすべて、オハや豊原/ユジノサハリンスク、または大陸へと移住した。オハなどには地震被災者のための住宅が公的に建設された。しかし、未だに150人くらいは仮設住宅に残るなど、住宅問題は解決していないという。

かつて町の入り口であったと思われるところにネフチゴルスクの名を記す塔が立っていた。水岡先生によると、都市の入り口にシンボルとして都市名を記した塔を建てるというのは、中央アジアにも見られ、旧ソ連地域特有のものであるらしい。
 被災地の中心には、犠牲者の慰霊のための大きなモニュメントがあった。モニュメントの真ん中にコンクリート造りの塔が立ち、その下にある石碑の傍にはいくつか花束が供えられている。石碑の側面には地震発生時の時刻を示す時計と、地震前の町の絵が彫られている。そしてそれを取り囲むように赤い石の壁があり、壁面には犠牲者全員の名前が刻まれている。いくつかの名前の上には、小さな飾りがつけられていた。遺族が最近お参りに来たときに付けていったのだろう。

  その前には墓石が点在している。よく見るとその並び方は規則的である。墓石に刻まれている文字から推測すると、これらはアパート単位の墓で、それが元々建っていた位置に墓が作られたと思われた。そして周辺には比較的小規模な墓が点在している。これらは個人の墓であるらしく、画一的なアパート単位の墓と違って、一つ一つ独自のデザインを持って亡くなった人たちを偲んでおり、興味深かった。
   このように、町は放棄されても、惨事の記憶は、モニュメントによって後世に残されている。 

成様は、地震発生直後にNHKサハリン事務所駐在の通訳として、NHKの取材に同行し、この地を訪れた。そのときの経験を、私たちに話してくださった。
 災害が起こった直後、ロシア当局は報道陣がネフチゴルスクに入ることを厳しく制限していた。当然、日本のNHK取材団も例外ではなかった。NHKは、サハリン事務所から成様ら4人、ウラジオストック支局から2人、東京から5人が現地に向かうことになった。結局、一番早く現地に着いたのはウラジオストック組であった。彼らはハバロフスクからオハへ飛行機で移動し、そこから車でネフチゴルスクへ強行突入した。
 一方、東京組は、ロシアのビザを東京で取得できないままノービザでハバロフスクに出発、着いて現地警察に止められたが、ハバロフスク在住の知り合いのコネでなんとかビザを取得、飛行機でオハまでたどり着いた。だが、結局ネフチゴルスクに入ることはできなかった。
   成様らサハリン事務所組が現地入りしたのは、地震発生から一週間後のことだったため、地震直後の生生しさは多少薄れている様子だった。だが、家族で一人生き残った父親が、気がふれたように、一日中家族がかつて住んでいた廃墟の周りを回っている姿を目撃し、また偶然、ネフチゴルスクを離れていたために難を逃れた人の証言を聞くことができた。
 一方、NHK以外の日本のマスコミは、一度も現地入りすることはなく、ロシアのタス通信などの情報を買って報道しただけであった。このときのNHKの積極的な報道姿勢は、おおいに評価に値するであろう。

その後、1年以内に穴が掘られて瓦礫は全て埋められた。成様が地震1年後訪れたときは、犬が3匹いただけだった。地震5年後に訪れた際には、何もいなかった。それ以降、変化はない。
 このようにして、ネフチゴルスクの町は完全に放棄されてしまった。
 そして、毎年、地震が発生した5月28日に、少なくとも千人規模の慰霊祭が開催されているそうだ。

後日、ゼミ生の間で一つの疑問が湧いた。なぜ、ネフチゴルスクは放棄されてもいいような場所にそもそも建設されたのか、ということである。石油採掘のための計画都市ではあるが、肝心の採掘地は町から10数km離れていた。そこから考えるとネフチゴルスクの立地の必然性は見えてこない。つまり別の要因が考えられるのである。
 それは、この町が石油「採掘」のためではなく、地域の石油「開発」の拠点として建設されたということではないだろうか。つまり、そのあたりに石油が存在するということだけ確認し、先に町を建設して、それと同時もしくはその後に採掘地を特定した、ということである。実際、海沿いのオハでは戦前から石油採掘が行われており、内陸部でも石油が存在することは確認する前に十分予想され得たはずである。またネフチゴルスクは川沿いにあり、高校地理で習う集落発生の基本的パターンの一つに当てはまる。
 地震前の1994年にロシアで発行されたサハリン州の地図では、オハとノグリキ間の主要道路がネフチゴルスクを通過するように描かれている。私たちが通ってきた、今は悪路になってしまった道がそれにあたる。しかし、ネフチゴルスクが都市機能を失って以降、そのルートは単なる迂回ルートとなってしまったため、ネフチゴルスクを経由しない短絡ルートに主要道路が付け替えられた。地震は単に一つの町を破壊しただけでなく、人や物の流れをも大きく変えたのである。


石油とガスの町 オハ

午後4時半ごろにネフチゴルスクを発った我々は、オハに向かった。
 オハに近づくと、舗装された道路になった。その後しばらく進むと、巨大な塔が二基据えられた建物が見えきた。これが発電所である。
 その付近には、石油を掘削するたくさんの小型ポンプが立ち並んでおり、地面近くには石油を送るためのパイプが、少し高いところにはポンプに電力を供給するために電柱が張り巡らされている。パイプやポンプの支柱のほとんどは錆びており、また人気が全くないため、なんとなく寂れた印象を受けた。しかし、私たちは、このように地味ではありながらも、実際に石油を採掘している現場を間近で見るのは初めてのことだった。北海道サハリン事務所の資料によれば、樺太/サハリンの原油埋蔵量は、およそ605億バレルとされており、これは世界の約5.2%にあたる。
 ちなみに、この付近の油田は、最近のサハリンプロジェクトとは関係のない、ソ連時代からのものである。設備の更新はあまりなされていない。しかし、地面を掘りさえすれば石油が出てくる地域であることもあって、現在も細々とではあるが石油生産は続いているのだ。

成様の説明によれば、ポンプで汲んだ石油を細いパイプに流し、それらが集まって次第に太いパイプになり、タンクに一時貯蔵されたのち、間宮/タタール海峡の下のパイプラインを伝って大陸のコムソモリスク・ナ・アムーレに届くようになっているのだという。また、一部のポンプは動いていなかったが、それらの下では石油はすでに枯渇したらしい。実際、動いていないポンプは多かった。このあたりの陸上での石油は、尽きつつあるようであった。

発電所の門の前に到着した私たちは、とりあえず車を降りた。成様が門の中に入って何やら交渉に当たっているようだった。なんと、予定外ながら発電所の幹部の一人であるアザレンコ様という方にインタビューできるとのことであった。私たちは、門の横にある事務用の小部屋らしきところに招かれた。

この発電所は1961年、当時のソ連石油ガス省によって建設された。元々は周辺の石油・ガス生産地へエネルギーを送るためであったが、発電能力の向上に従って、オハ地区の市民へも電力と、暖房用として発電時に発生する湯を供給するようになった。さらに1970年、さらなる発電能力拡大のため施設が追加建設されると、湯は住宅のみならず工場へも供給されるようになった。基本的に燃料はガスで、予備燃料として石油が使われることもある。
 石油掘削現場へは、発電時に発生する蒸気を送っている。というのも、石油は掘削初期には自噴しているが、しばらくするとくみ上げに圧力が必要になるからである。この蒸気を地中に注入し、その圧力で石油を地表に出すのである。ロシアではこれが一般的なシステムとなっているようだ。また、市内に供給された湯は暖房に使用後再び発電所に戻ってきて、建物の上にある塔で冷却される。
 建設時、多くの設備はスイスから購入した。三年前にもロスネフチが購入したスイス製の19メガワットのタービンが設置された。しかし、特にスイスとの継続的な技術提携関係はないという。従業員は350人ほどおり、たいていは会社のもつ送迎バスで通勤している。意外なことに、ソ連崩壊時においてもほとんどダメージを受けていないとのことだった。また、近年はサハリンT・U関連の施設にも電力を供給しているという。

たった10分余りのインタビューであったが、アポを取っていなかったにもかかわらず快く応じてくださったアザレンコ様に、私たちは感謝の意を伝えた。発電所のパンフレットと設立40周年のバッジをいただいた。
 小部屋を出ると、門の前ではまたもや新郎新婦の姿があった。どうやら発電所の従業員の結婚式があったようで、みな慌しく動いている。この樺太/サハリンでは、気候の穏やかな夏に結婚式が集中するようである。

私たちは発電所を出発して、市街地に向かった。その途中、道沿いの小さな丘の上にポツンと小型の蒸気機関車が置かれているのが目に入ったので、慌てて車を停めた。
 早速、丘に登って機関車を観察した。前部にはソ連の象徴である赤い星印が付けられている。ソ連時代に引退して、その後放置されていることがわかる。機関車は線路の上に載っているのだが、その前後には線路がつながっていないので、機関車は動きようにない。また丘の上にあることから、かつて前後に線路がつながっていたとも考えにくい。目立つ場所に展示するという意図があったとも考えられる。
 線路の幅から判断すると、この機関車は、明らかに軽便鉄道で使われていたものである。1994年発行のサハリン州地図を見ると、ちょうどこの付近に軽便鉄道が通っている。またオハの西にあるモスカリボ港へも、この場所からかつて線路がつながっていた。こちらはロシア本土の基準に合わせて広軌で建設されたが、現在は廃止されている。一方、1940年に日本の関東軍の測量成果を基に作成された北樺太二万五千分一地形図「オハ」によると、軽便鉄道の線路と広軌の線路が、接続してはいないものの、非常に近くなっているところがあり、それがこの丘の位置とほぼ一致する。二つの線路は、1994年発行の地図では連結している。すなわち、ちょうどこの丘のあたりが、軽便鉄道とモスカリボにいく広軌鉄道とを連絡する駅もしくは操車場になっていたのであろう。しかし、いまはこの機関車とそれを取り巻く空き地以外に、その跡をとどめるものはなかった。


社会主義住宅を活用したホテル

午後7時前、ついに私たちはオハの市街地に入った。人口は3.2万人(2005年)、なかなか立派な町である。
 とりあえず荷物を置くために宿泊予定のホテル・サテリートへ向かおうとした。だが、なかなかホテルらしき建物が見つからず、私たちの乗った車は同じところをぐるぐると回っていた。付近には、コンクリート造りの5階建て社会主義住宅が立ち並んでいる。

  ホテルはそのアパート群のど真ん中にあった。厳密に言うと、ある一つのアパートの中の一ブロックがホテルとして利用されていたのである。私たちにとっては社会主義住宅の内部を見る貴重な機会だった。
 住宅に囲まれるようにして、公園がある。公園には、ブランコや鉄棒など子供向けの遊具があり、子供たちがアパートの手すりにぶら下がったり、ブランコに乗ったりし、大勢で遊んでいた。
 外見は薄汚かったが、いざ建物の中に入ってみると、なかなか整備されており、清潔な感じである。内装はリフォームされているのである。これは意外に思えるが、水岡先生によると、社会主義国では基本的に持ち家が建てられないので、その代わりにアパートの内部の維持やリフォームに金をかけ、内装は綺麗にしてあることが多い。ウクライナや中国でも、同じような現象が見られるのだという。
 また、元々一世帯が居住していた空間が一部屋という扱いになっているので、非常に広い。バス・トイレ、キッチン・食堂の部屋、廊下、そのほかにベットルームが3つ。それら全部の外側に一つの玄関とドアがある。このドアが、かつてはアパートの各住居の入り口となっていたのだ。
 各ベッドルームはダブルベットにテレビ、ソファが配置されている。キッチン兼食堂は大きな冷蔵庫も完備され、最近設置されたらしい給湯器もついてお湯もきちんと出る。折りたたみのテーブルの上には、ポットに食器まで完備されていた。日本の公団住宅やモネロンホテルと比較すると、かなり贅沢な空間の使い方である。サハリン・プロジェクトの短期滞在のビジネスマンが不自由なく滞在できるように作られているようだ。ここにも、オイルマネーとサハリンプロジェクトの影響がみてとれる。
 だが、われわれゼミ生9人には3部屋しか割り当てられず、男性5人、女性4人であったために、部屋割りが若干困難であった。また、ガスのつけ方が煩雑で、ロシア語のわからない私たちはホテル従業員の説明があまり理解できず、風呂に入る際に苦労した。
 それにしてもこのようなホテルの形態は日本では考えられないことである。一戸建てを利用したペンションや民宿はありうるが、アパートを利用して「ホテル」を名のるには随分違和感がある。だが、新しくホテルを一棟建設しようとすれば、かなりのコストがかかる。オハでは、そのコストを埋め合わせるだけの十分な宿泊需要は得られないので、投資する人がいないのだろう。そうは言っても、宿泊客が全くいないわけではない。その小さな需要を狙った小規模ビジネスとして、市場経済化のなかで起業されたのが、この「ホテル・サテリート」であるといえる。


オイルマネーできれいに模様替えした中央の広場

しばらくしてから、私たちはオハの中心部へ向かった。やはり中心にはレーニン広場があり、その周りにはレーニン像や行政府、文化会館などの公的施設の他に、レストラン、24時間営業の食料品店、建設会社の事務所などが立ち並んでいた。基本的な行政施設の並び方など、都市構造はソ連時代のままである。
 しかし、今まで訪れた都市との決定的な違いは、それらがすべてといっていいほど、新しく建て替えられていたことである。さらに、広場には色鮮やかなレンガが敷き詰められ、車両が進入できないようになっているために、清潔感に満ち溢れている。社会主義時代の広場はほとんどコンクリートが敷かれただけであったことから、広場にレンガを敷くということ自体が新しい発想だ。ちなみに成様によれば、5年ほど前はもっと薄汚れた雰囲気であったらしく、わずか五年間での大きな変化というのは、まさしくオイルマネーの流入の象徴であろう。

レーニン広場の片隅に「サハリンモルネフチガスとオハの歴史」と題されたモニュメントをみつけた。どうやらこのガス会社が自ら建てたようである。文字が赤茶色の石版に彫られている。
 それによれば、オハの町は1878年、石油が発見されて、大陸からロシア人が瓶を持って、自噴して川のように流れていた石油を取りに来たことに始まるらしい。1888年にはロシア政府から正式に石油を採る許可が出されて、ソ連時代の1928年、積極的な開発が開始された。1931年には、オハから大陸側への外港であるモスカリボへのパイプラインが完成した。さらにモニュメントでは第二次世界大戦中に大量の石油を生産して政府に貢献したことが強調されており、1968年にはソ連の赤旗勲章がサハリンモルネフチガスに授与された、と誇らしげに書かれていた。
 また、その横にはオハ名誉市民をたたえるモニュメントもあった。この町は石油産業とは切っても切れない関係にある。


列島最北端、さいはての夜

オハまでの道程が心配していたほど時間がかからなかったこともあり、私たちはレストランでゆったりと夕食をとることになった。
 メニューはサラダ・パン・肉とイモの煮付けみたいなものであり、なかなか美味しかった。移動が長かったために話し合う時間のなかった一同は、食事を取りながら意見交換を行った。一番目立ったのはやはり、樺太/サハリンという島が、北海道のすぐ北という距離的近接性をもつにもかかわらず、これだけ異質な世界が存在することに対する驚きであった。
   ゼミ生の一部は樺太/サハリンで時々ビールを飲んでいた。ロシアの飲酒年齢は18歳なので、日本では酒が飲めない未成年の1、2年生も、ここでは堂々とビールが飲める。この日はバルティカ3というものだった。バルティカは、サンクトペテルブルクに本社を置くビール会社が製造しているビールの銘柄で、ロシアでは非常にポピュラーである。その中でもさらに10近くの種類があり、それを数字で区別している。

午後9時40分、レストランを出た私たちが市庁舎の上の電光掲示板を見ると、8月なのに気温はなんと13℃であった。それでも、たくさんのロシア人たちが比較的薄着のまま、暗くなっても外で飲食、歓談しており、賑やかな雰囲気であった。
 しかしよく考えると、一年の半分以上の間、雪に閉ざされるオハにおいて、このように夜間に屋外で楽しめる期間はきわめて限られている。日本がある列島最北端、さいはての都市オハの市民は、残りわずかの夏をぎりぎりまで楽しもうとしているのだと、しみじみ感じた。

私を含むゼミ生の一部は、翌日の朝食用のパンなどを買いに商店で買い物を済ませた後、レーニン広場横にあったバーベキューの露店に向かった。そこで歓談しながら肉が焼けるのを待っていたのだが、柄の悪い男性や大柄のおばさんに次々に割り込まれる上、露店主側にも全く配慮がないため、一向に買うことができない。どうやら私たちは外国人ということでからかわれていたようであった。若干不愉快に思った私たちは諦めて、ホテルに戻った。

(渡邊 康太)

前日へ | 2006巡検トップに戻る | 翌日へ

All Copyrights reserved @ Mizusemi2006