9時45分、稚内総合文化センターに集合し、今回の巡検が始まった。このセンターにて「第44回氷雪の門・九人の乙女の平和祈念祭」が行われる。
この平和祈念祭は、樺太/サハリン西海岸の主要都市である真岡/ホルムスクにソ連が艦砲射撃を加えて攻め込んだ1945年8月20日に、当時の真岡郵便局電話交換室で自決した電話交換手を含む、樺太/サハリンで亡くなった方の霊を悼み、平和を願うという趣旨で、毎年8月20日に行われているものだ。
私たちは事前に『九人の乙女 一瞬の夏』(川嶋康男著、響文社、2003年)を読み、交換手達の悲劇についても学習し、一通りの知識を得ていた。
平和祈念祭には樺太/サハリンにゆかりのある方々、そして北海道で郵便・電話業務にかかわっておられる方々が参列した。稲原秀雄全国樺太連盟会長、高橋はるみ北海道知事、壺井俊博郵政公社北海道支社長、加茂孝之東日本電信電話(株)理事北海道支店長らが「慰霊平和祈念のことば」を述べることになっていた。だが、実際に平和祈念祭が始まってみると、本人は出席せず、代理の人が挨拶文を読むケースも多かった。
挨拶のなかでは、ソ連が日本の降伏直前の8月9日に、日ソ中立条約を破棄して日本へ攻め入ったこと、真岡/ホルムスクにソ連軍が侵攻したのが、日本降伏後の8月20日であったことなど、ソ連による樺太/サハリン侵攻とその後の占領の理不尽さにふれたものが耳に残った。そのなかで、「九人の乙女」が自決したいきさつを、事実と異なる一般に流布し形式化された言説の内容で紹介していた点が気になった。
参列者全員が献花した後、皇太后陛下の御歌などをあつめた構成吟「氷雪の門と九人の乙女」が、「床しきその香も運べよ北風 恨みに凍れる真岡のあの空 遥かに仰ぎて女神の像立つ 噫噫稚内氷雪の門…」と詠われた。
引き続き、地元の女声合唱団によって、樺太/サハリン生まれの北原じゅんが作詞作曲、実弟の演歌歌手、城卓矢が歌った「ふるさとは宗谷の果てに」が披露された。「…小ちゃな頃の 思い出のせて かすかに浮かぶ 樺太の島 … 二度と帰れぬ ふるさとは 今も変わらず いるのだろうか … 北は遠く 北緯五十度 もう帰れない ふるさとよ…」。樺太/サハリンで生まれ育ち、幼少時の身体の中へと自生的に埋め込まれた故郷を奪われた者の気持ちが、歌声から切々とつたわってくる。
それにしてもなぜ、この祈念祭が稚内で行われているのだろうか。
その日の夜、私たちが宿舎でミーティングをおこなったとき、この疑問が出た。
その理由として、ます、樺太/サハリン出身者が、戦前に培った漁業技術を生かして、戦後の稚内の地域経済を支えたことがあるだろう。樺太/サハリン出身者はその近辺の地元人しか知らない漁場を知っていたため、稚内市の漁業の発展に貢献したのである。
また、距離的に樺太/サハリンに近い点などから、日本が樺太/サハリンの実効支配を失ったあと、稚内がその「代理都市」の役割を果たしているのではないか、という意見も出た。
都市は、土地に固着しているから、その場所は変わらない。しかし、戦争その他により、ある都市Aを支配する国家が代わることはありうる。支配する国家が変わると、もといた住民は、国が違う都市Bに強制的に移されることがある。樺太/サハリンは、まさにそのケースだ。その時、都市Bには、もと都市Aにいた住民が多く住み、その住民が抱く都市Aの歴史的な伝統をになう役割を果たすことになる。このような都市Bのことを、「代理都市」という。
国境の変遷が激しかった欧州には、代理都市が各所にみられる。戦前はドイツ領だったケーニヒスベルク(カリーニングラード)がソ連・ロシア領になったあと、その伝統を引き継いだデュースブルク、また、戦前はポーランド領だったリボフ(リビフ)がソ連・ウクライナ領になったあと、そのポーランド人が大量に移住したブレスラウ(ブロツワフ)がその例である。
これとは別に、「稚内に限らず、式典そのものが事実からはなれて象徴化しつつあるのではないか」という意見も出た。「九人の乙女」の話が事実とは必ずしも一致しない「崇高な殉職物語」として蒸留され、象徴化されて伝えられるようになり、存在したはずの生き残った人物についてはあまり語られない状況にある、という現状がある。
平和教育のためにもっとこの経験を生かすべきだとする意見も出た。「地元の児童が慰霊祭に出席していなかったが、もっと平和教育の題材として樺太/サハリンで起こった事実を伝えていくべきだ。」という提案や、「樺太/サハリンでの戦争経験が、戦後の日本の平和運動から抜け落ちてきたのは何故か?」という疑問が上がった。これについては、広島・長崎が、米国による原爆投下に対する怒りを「平和の祈り」という形で昇華させて、戦場の惨禍を現実にもたらした米国の責任が日本人の意識の中で問われなくなっているのに対し、樺太/サハリンでは、惨禍をもたらしたソ連に対する反感がいまだ現実の意識として市民に残っているから、かえって「平和教育」の題材として取り上げにくいのではないか、という意見が出た。
平和祈念祭終了後、樺太/サハリンご出身の波間様、道下先生、信太様と会場の出口で会い、樺太/サハリンにゆかりのある碑がいくつも並ぶ、稚内公園へ車で移動した。
公園は、急な坂をのぼった海岸段丘面の明るい場所にある。目の前に宗谷/ラペルーズ海峡の海原が広がり、その先には、空気が澄んだ日には、遠く樺太/サハリンの島影が望めるという。
公園に着くと、私たちは「教學の碑」の前に立ち、その説明を波間さんから伺った。ソ連による樺太/サハリン占領により開校後5〜6年で実質的に廃校されてしまった樺太師範学校の記念碑である。明日、船の中でお話を伺う山口様の御尊父は、この学校で教鞭をとっておられた。
つぎに、「氷雪の門」の前に立った。これは、失われた樺太/サハリンへの望郷の念と、そこで亡くなった日本人を慰霊するために建立されたものである。彫刻家の本郷新氏が設計・計画したもので、樺太/サハリン開拓に奮闘した方々を象徴するブロンズ像の門の向こうに樺太/サハリンが望めるように作られている、と波間様が説明してくださった。
「九人の乙女の碑」の前に移動し、その建立に関わる話を伺った。九人の乙女の話は、戦後、樺太/サハリンから帰還した方々の間で、しだいに語り継がれるようになった。本斗/ネベリスクからの帰還者である上田佑子さんは、働いていた札幌のお店で、浜森辰雄元稚内市長と知り合って話をし、彼女たちの慰霊碑を創って欲しいと頼み込んだ。浜森元市長は当時の市長に頼み、場所を提供してもらったそうだ。その後、様々な方の援助を受け、本郷新氏設計の下、「九人の乙女の碑」が建立された。こうして、「九人の乙女」のできごとに、樺太/サハリンにおける戦争の悲劇全体の可視的な象徴としての地位が与えられることになった。
碑をひとわたり見たあと、その場所にて、信太忠治様から戦争体験のお話を伺った。
信太様は、真岡/ホルムスクと豊原/ユジノサハリンスクをむすぶ鉄道の豊真線ぞいにある町、逢坂/ピャチレチェの工場に勤務していた。日本が敗戦となり、一段落した8月20日に、地元の真岡/ホルムスクに帰った。
そのとき、ちょうどソ連軍による艦砲射撃が始まった。それを避けるため、一旦隠れたが、出てくると、上陸してきたソ連兵に捕まってしまい、岸壁に連れていかれた。そこには、日本軍の兵士が集められていた。信太さんは、着ていた国民服が兵士のものと似ていたため、兵士と間違えられたようだ。
ソ連兵は集めた者を座らせ、一斉射撃を行った。ばたばたと日本兵たちが死んでいった。信太さんも腰と足を撃たれたが、ソ連兵が去るまで死んだ振りをしていて、助かった。その後、真岡病院に運ばれる。
そこで、信太さんは、キミ子さんという少女と出会った。病院は怪我人で混乱しており十分な治療を受けられなかったが、キミ子さんの親切に救われたという。ある日、怪我に苦しんでいる時、キミ子さんは偶然通りかかった見習い医師に助けを求めた。信太さんを救ったその医師が、この後にお話を伺うことになる道下先生である。
信太さんは、盛り上がった土塁のなかに仮埋葬された九人の乙女の変わり果てた姿を見て、死を覚悟した。
さいわい、信太さんの怪我は完治した。そのあとキミ子さんを探したが、結局見付からなかった。だが、命の恩人である道下先生とは、妹である道下匡子さんの書いた本『ダスビダーニャ、わが樺太』(河出書房新社、1996年)を見て探し出し、やっと再会が出来たそうだ。
別れ際に信太さんは、私たちのために、自作の短歌と写真をあつめ、心をこめて手作りされた冊子
『フレップの里――詩文誌・歌集 樺太随想』を、私たちのゼミのため寄贈してくださった。感謝のしるしとして、そこから、3首を抜粋しておく。
飄飄と 海暮れ砂浜 空しけれ 昔し豊漁 樺太の幸
御神祇と 笑顔で話す 不思議な子 親身の介護に 吾れ蘇生する
殺さねば 殺されるのは 戦場か 民間人も 哀れ巻添え
碑の建った広場を後にして、私たちは車で丘を上り、すでに営業をやめたスキー場の横を過ぎて、稚内公園内にある開基百年記念塔に着いた。
海抜240mもある塔の頂上にある展望台に上ると、360度景色が見渡せる。西を見ると、利尻島、礼文島まではっきりと見えた。北を見たが、残念ながら、宗谷/ラペルーズ海峡のむこうに樺太/サハリンの島影は見えなかった。
ここで、樺太/サハリン生まれでいまは稚内に漁業会社を経営する波間様が、お話をしてくださった。
宗谷/ラペルーズ海峡は、風と波が逆方向に流れており、航海の難所である。密漁は、晴れの日は捕まりやすく、船の番号が分からなくなる霧の日が適しているとのこと。波間様は、御尊父が漁業に携わっていたため、戦後も樺太/サハリン近辺の海域に出かけていたそうだ。戦後すぐには、日本人引き揚げ者25人を樺太/サハリンから稚内まで運び、一人につき米2俵を報酬としてもらったこともあるという。
ちょうど記念塔の向かい側にある小高い丘に、大きなドーム型の建物が見おろせる。自衛隊の基地だ、と教えて頂いた。稚内には陸上・海上・航空の各自衛隊が揃っており、宗谷/ラペルーズ海峡を通過する船を監視するレーダー基地がおかれている。陸上・海上・航空の3自衛隊が揃っているのは、稚内と那覇だけとのことだ。ちなみに、樺太/サハリン島の最南端、西能登呂/クリリオン岬には、ロシア軍のレーダー基地があって、同じように海峡を通過する船を監視している。ここは緊張した国境の街だということを、改めて実感させられた。
次に、開基百年記念塔の1・2階にある北方記念館を見学した。1階には稚内の歴史・自然に関する資料、2階には日露友好、そして樺太/サハリンに関する資料が主に展示されていた。
入るとまず、船の模型があった。かつて、カムチャツカ半島まで行き魚を獲る為に使われていた船だという。そして宗谷/ラペルーズ海峡を拓いた人々に関する資料があった。他に明治時代の農業に関する用具などが展示されている。
鉄道コーナーには旧天北線に関する資料が揃っていた。旧天北線とは、1922年に開設された官設宗谷線のことである。これは、浜頓別から一部の区間はオホーツク海沿いに線路が走り、石炭運搬ならびに樺太/サハリン連絡に重要な役割を果たす幹線であった。だが、距離がより短い現在の宗谷本線が天塩線として1926年に全通すると、幹線列車はほとんどそちらまわりとなり、天北線はローカル線に転落した。そして、国鉄民営化直後の1989年に廃止されてしまった。
一階には他に、北海道に生息する野鳥を中心とした自然のコーナー・稚内に初めて人が現れた二万年前からの歴史のコーナー・発掘された先史時代の遺物のコーナーなどがあった。
二階にあがると、左手にある樺太/サハリンの大きな立体地図に目を奪われた。山の隆起をよく現していて、思わず見入ってしまう。波間さんが戦前住んでいた真岡/ホルムスクの南にある阿幸/ヤスノモルスキーの場所も分かった。
波間様は、展示を見ながら、歴史をご説明くださった。
当時樺太/サハリンは、内務省ではなく、拓務省の管轄下にあった。拓務省は予算を多く持っていたため、樺太/サハリンのインフラ整備はかなり進んでいたが、このため、樺太/サハリンの内地編入がかえって遅れたのである。樺太/サハリンでは米が取れないので、豊富に取れたニシンと引き換えで、日本統治時代には米が大量に手に入り、樺太庁の倉庫に蓄積されていた。
2階には、国境標石(北緯50度線)のレプリカ、豊真線の宝台/カムイシェボループ線のジオラマ、九人の乙女に関する資料など、樺太/サハリン関係の展示が豊富にあった。私たちは、これらを見ながら、今は異国の実効支配をうけている、これから訪れる地への思いをはせた。
1983年、大韓航空機が樺太/サハリンに侵入し、西海岸の海馬/モネロン島沖でソ連の戦闘機に撃墜されて乗客乗員269名全員が死亡した大韓航空機撃墜事件コーナーもあり、事件の記録や写真などが展示されていた。当時稚内市は、遺留品を回収する活動などを行った。
また、日露友好コーナーでは、稚内市の友好都市にあたる、本斗/ネベリスク・大泊/コルサコフ・豊原/ユジノサハリンスクなどとの交流の様子が、資料として展示されていた。
北方記念館を見終えた後、車で稚内駅近くの商店街まで降りた。商店街の歩道を覆うアーケードには、それぞれの店に、ロシア語の看板が掲げられている。また、道路標識も、日本語、英語のほかにロシア語が書かれている。
この商店街の一角を占める「はせ川すし」に入った。昼食を食べながら、医師の道下先生と波間様から、戦争体験を伺った。
道下俊一先生は、
北海道大学医学部を卒業され、研修生であった時、1953年に一年という約束で、釧路と根室の中間にある村、霧多布に赴任する。8000人に1人の医者という状況下で村人との交流を深め、2000年札幌に戻るまでの47年間霧多布の医師として全力を尽くした。その献身的な医療活動は、道下先生ご自身がお書きになられた
『霧多布人になった医者』(北海道新聞、2004年) にくわしい。
戦前、道下先生は、樺太医学専門学校で学ばれた。敗戦直後は、信太様から伺ったように、真岡/ホルムスクで負傷した日本人の治療にあたっておられた。
1946年に始まった引き揚げでは、内地に本籍のある日本人は戻ることが許されたが、樺太/サハリンに本籍がある生徒はなかなか北海道に渡れない。道下先生もそうだった。
道下先生はロシア語ができたので、日本人捕虜の労働のための通訳として重宝がられ、樺太/サハリンに残った。1946年は、砂糖大根が大豊作で、製糖工場はフル操業した。道下先生は、ロシア人の指示によって日本人労働者を生産ラインにつける仕事に携わっていた。あるとき、製糖工場で働いている若者を徴発して、「赤い部屋」に集めろという指示をうけたのでそうしたところ、その若者たちはトラックに載せられていずこへと連れ去られた。炭鉱労働に向けられたらしい。道下様にも、学生20名を連れて炭鉱に行け、と指示がくだった。ところが、この指示を出した労働部長は、ソ連共産党員でなかったらしい。そこで道下先生は、共産党委員会に行き、「心ならずも敗戦となり、今はこうしているが、私は医学を志している。その私に石炭を掘れとはどういうことか」と詰め寄ったということだ。談判をしたところ、なんと話が通じて、炭鉱へ行かなくてもよいことになった。ところが、「道下は最後まで樺太/サハリンに残れ」と共産党員に言われてしまった。おそらく、共産党のシンパと評価されたのであろう。
こうして道下さんは1〜2年樺太/サハリンに残ることになった。ソ連政府としては、道下先生にソ連の協力者として働いて欲しかったらしく、「モスクワ医科大学に行かないか」などと誘われた。他の日本人にもそのような話を持ちかけられた人が居り、ソ連共産党に協力していた人もいたそうだ。だが、道下さんにそのつもりはなかった。
当時、日本共産党はソ連共産党とは同じコミンテルンのもとに組織されていたので仲が良く、ソ連占領下の樺太/サハリンには、戦前弾圧されて亡命した党員など、日本共産党員が何人もいて、日本人の組織にあたっていた。ポケットにルーブル札を詰め込み、外国タバコを吸う羽振りの良い生活であったという。道下先生は、この日本共産党員の一人にうまく話しをつけてもらい、無事北海道にわたることができた。
すでに、冷戦ははじまっていた。道下先生が北海道に引き揚げ日本人の団長として戻ると、GHQに函館で1週間のあいだ取り調べを受け、当時の樺太/サハリンの様子を事細かに聞かれた。その後、北海道大学医学部に入試を受けなおして入学した。
当時、北大は共産党が強かった。道下様が、樺太/サハリンで共産党と繋がりがあったことが共産党のルートで伝わっていたためか、入学後、日本共産党への入党を勧められた。
道下さんは入党を断った。むしろ道下さんは、共産党には批判的な傾向にあった。その為か、「道下を葬れ」との横断幕が掲げられてしまった。さらに、共産党の動きを内部から探れと、戦前の特高がなりかわった公安調査庁から依頼されたこともあったという。
1952年、白鳥一雄警部が銃殺され、日本共産党員が犯人と疑われる「白鳥事件」が起こった。だが、物的証拠はなく、本当に犯人は共産党員であったのか、謎につつまれたままだ。道下先生は、共産党関係で白鳥事件について関わりがあるのではないかと思われ、霧多布に赴任していた時、容疑者の居所を知っているのではないか、と疑われたこともあったそうだ。
このように、道下先生は、空間的に分断された樺太/サハリンと北海道、そしてソ連・日本共産党と米国占領下の保守政治という、空間と政治の2つの分断の中で翻弄されながら、それぞれをしたたかに操って、医学を修め立派な医師になりたいという信念をひたすら貫かれたのだ。
戦後の社会が安定し、ソ連が制限つきながら日本からの団体訪問者を樺太/サハリンに受け入れはじめたとき、道下先生は通訳として、釧路と友好関係にある想い出の真岡/ホルムスクに行った。ソ連の特務機関である
KGBが日本人を警戒していたことは言うまでもない。日本語が分からない振りをして、日本人の会話を探っていた日本語のできるKGB員もいた。道下さんが少しロシア語を話すと、とたんに警戒された。KGB員の一人が「日本語を教えてくれ」と言って道下先生から離れなくなったそうだ。
ここまで道下先生からお話をうかがったところで、波間三平様が話をひきつがれた。戦後は、稚内で波間漁業という水産会社を経営するかたわら、樺太連盟の役員などもつとめられる波間さんも、1970年頃、戦後初めて真岡/ホルムスクを訪れた。そのとき、ソ連による厳しい監視下におかれ、山の上から全景をとることは勿論、線路を写すことも禁止されたそうだ。スパイ行為を恐れてのことである。
波間さんは、友人のYさんという方の話を始められた。彼は、樺太/サハリンに住んでいて学徒出陣で徴集され、終戦時にソ連軍部隊長と交渉した。その交渉で、ソ連は「日本兵が大人しくして秩序を守れば、日本に返してやる」と約束した。だが、実際には、日本人を乗せたソ連の船は、大泊/コルサコフを出港すると、まっすぐ南には向かわず、西能登呂/クリリオン岬を回って北上し、シベリアに向かっている。
Yさんは不安になり、お父様に相談して現地除隊にしてもらった。大泊/コルサコフの出身だったので、これが可能だったのである。
日本の統治が崩壊したあとの大泊/コルサコフでは、ソ連兵が連日無法行為を繰り返していた。蕎麦屋にソ連兵がはいり、客かと思っておかみさんがでてくると、たちまち婦女暴行におよぶ、平気で撃ち殺す、などという状況であったという。だが、樺太/サハリンを出る為に必要な引き揚げ船はソ連に管理されてしまっているので、簡単に出られない。そこで米原さんのお父さんは「ここでロシア人になって漁師をしたいので、船が必要だから船をくれ」とロシア人に訴えてみた。すると、一番いい船をくれた。当時、港はソ連兵によって封鎖されていたが、漁業目的の船は、船員が腕章を付けていればそこを通過して外洋に出られた。漁業をしながら無事に稚内に着いた彼らは、再び樺太/サハリンに戻り、その後腕章を偽造して家族を連れ、稚内へ向かった。
だが、宗谷/ラペルーズ海峡を4往復したところで、GHQにみつかった。ソ連のスパイをしないかともちかけられたが、断った。その後、Yさんも稚内で漁業を発展させ、地域経済に貢献しているという。
このように、戦後も樺太/サハリンに取り残された多くの日本人は、政府のまともな援護もなく、自力で命からがら北海道へと渡ったのである。
しかし、なかには、現地でソ連人として生きた者もいる。波間様は続いてSさんという方の話をして下さった。
Sさんは、戦前、朝鮮にあった化学会社が樺太に投資したため出向してきた社長の息子さんであった。はじめ本斗/ネベリスクの水産学校に通っていたが、優秀さが認められ、その後函館高等水産学校(現 北大水産学部)に編入した。
1944年の函館空襲をきっかけとして、目に見えて戦局は悪化してくる。迷ったすえ、家族のいる樺太/サハリンに帰ることに決めた。札幌に着いたときが8月15日、そこで日本の敗戦を知った。もはや樺太/サハリンに向かう日本人は居らず、札幌発稚内ゆきの列車は、ガラガラであった。稚内に着いてみると、すでに稚泊連絡船は運航されておらず、故郷に帰れなくなったことがわかった。
どうしたらよいかわからないまま、函館の下宿のおばさんからもらったおこげをかじりながら野宿することこと数日。Sさんがかぶっていた函館高等水産学校の制帽が、たまたま通りかがった先輩の目に留まり、1945年8月22日に、彼は大泊/コルサコフから日本の海軍関係者を連れてくる最後の引き揚げ船に乗ることができた。
樺太/サハリンに着くと、空襲警報が鳴った。知取/マカロフで日ソ停戦協定が発効したあとにも拘らず、豊原/ユジノサハリンスク駅前に全島から集まっていた日本人めがけて、ソ連軍が空爆を加えたのだ。100人を越える民間人が犠牲となった。その死体と血の海をSさんは乗り越えて、母と無事に再会が出来た。
とはいうものの、日本にはもう容易に帰れない。函館を発つとき、先生が餞別にロシア語の本をくれたことを思い出した。そこでSさんは、「ロシア人になるんだ」と決意した。ロシア語を勉強しはじめ、ロシア人女性と結婚して、本斗/ネベリスクの漁業コルホーズに仕事を得た。ある日、日本語で救助の声が聞こえるので行ってみると、稚内の底引船が座礁していたので救助した。だが、それが原因でKGBに一ヶ月取り調べを受けたこともあったという。
家族はみな引き揚げたが、Sさんはロシア人女性と結婚していたので、帰らないことにした。捕虜も、ロシア人女性と結婚していると優遇されたそうだ。共産主義は絶対だと信じていたSさんは、真面目に仕事に打ち込んだので、サハリン州行政局長にまで出世した。イシコフ漁業相の通訳として日露漁業協定締結に貢献したこともある。
優秀なソ連人として活躍してきたSさんであったが、ソ連崩壊後に、連邦保安局(FSB、KGBの流れをくむ組織)が、Sさんの過去を調べはじめたとの情報を掴んだ。鈴木さんは、自分はこれまで、これだけソ連のために尽くしてきたつもりなのに、なぜこんなことをするのか、と失望し、日本の古い友人が招いてくれるのに答えて、ロシア人の妻とともに日本へ亡命を決意した。見つからないように、妻とSさんは別のルートでロシアを出国し、日本で合流した。
日本に帰国したSさんは、失った日本国籍を回復しようとした。だが、なかなか手続きがうまく進まない。あるとき、日本の外務大臣に呼ばれ、「お前は二十何年もソ連人でいながら、いまさら日本国籍が欲しいとはどういうことだ」と問われたという。その時、次のように答えたという。「これまでソ連人として過したのは、生きる為だ。日本は何もしてくれなかったではないか。」こうしてようやく、Sさんは5年ほど前に日本国籍を回復することができた。
日本の敗戦後、樺太/サハリンには多くの人が放置された。多くの無辜の市民は樺太/サハリンで犠牲となり、また、精一杯の努力で生き延びた市民は、ほとんどが自分や家族の力だけを頼りに、北海道へと逃げ戻った。帰還者の中には、船に乗れず手漕ぎの船で北海道まで行こうとした人もいたという。日本の植民地であった朝鮮半島出身の人々は、けっきょくそのまま置き去りにされた。ロシア人として旧ソ連で生活している樺太出身の日本人も、まだ結構いるようだ。
政府は無責任に侵略戦争を起こし、市民に「お国のため」と忠誠を誓わせ、戦争に動員する。そしてけっきょく、その市民を、政府は無残に棄て去るのである。道下先生や波間様からうかがった戦争体験は、国家は共同体だというような甘言を弄して市民を戦争に巻き込む政府というものがいかに無責任な行為主体であるか、貴重な教訓を、あらためて私たちに与えてくれたのではないだろうか。
そのあと、話題は全国樺太連盟のことになった。全国樺太連盟は、かつて樺太返還を主な主張として掲げ、同時に樺太引揚者の支援の為1949年に設立された機関である。だが、現在樺太返還は現実的でないとして、返還運動は行っていない。しかし、日本の統治下にあった樺太の存在と戦争体験を語り継ぐため、数々の活動を行っている。赤レンガの旧北海道庁の2階にある樺太/サハリンの常設展は、全国樺太連盟が協力してできたものである。
戦争体験のお話を伺った後、私たちはすし屋を出て、稚内駅前の目抜き通りに建つ商工会議所の施設にある戦前の樺太/サハリンの写真展に向かった。これは、将来、稚内に樺太/サハリンの恒久的な記念館を設置する準備のためにつくられたものである。
そこには、戦前の樺太/サハリンの写真が豊富に展示されていた。これから実際に行くことになる都市の戦前の様子を、わたしたちはじっくりと眺めた。また、稚内の戦前の様子と現在の様子も比較できて、実に興味深かった。
写真展を見終わり、波間さん達と別れた。有志は、多少時間があったのを利用して、現在日本が実効支配する領土の最北端、宗谷岬にバスで向かった。
宿に戻ったあと、私たちは宿のすぐ近くにある北防波堤ドームを歩き、その脇にある稚泊航路記念碑を見た。
ギリシャ風の列柱を思わせる72本の柱が並んだ長い北防波堤ドームに守られ1923年から1945年まで、稚内と大泊/コルサコフを結んだ稚泊航路の桟橋と、連絡船と列車とをつなぐ「稚内桟橋」駅がここにあった。宗谷本線はこの駅まで伸びており、樺太/サハリンと北海道を往来する乗客は、列車と船をスムースに乗り継げるようになっていた。
戦後は、樺太/サハリン島民が北海道に引き揚げる基地としても貢献した。その後しばらくは放置され荒れ果てていたが、樺太/サハリンと稚内との結びつきを示す可視的な象徴として、この防波堤は1981年に修復された。だが、修復のさいに、かつての「稚内桟橋」駅はすべて取り壊されてしまい、今は跡形もない。惜しまれることである。
駅の跡に、稚泊航路記念碑がある。この碑は、当時走っていた蒸気機関車の動輪をあしらい、この鉄道連絡船がつむいだ歴史の記憶をながくとどめている。
(折田翠)