コラム 「九人の乙女」言説と、歴史の象徴化

真岡郵便局における「九人の乙女」の話は、樺太/サハリンから帰還してきた方々の間に広まり、その言説はしだいに、ソ連軍の樺太/サハリン侵攻がもたらした日本人への犠牲の象徴となった。

そしてそれは、「国のため若く尊い命をなげうった犠牲的精神」を美化するストーリーへと、蒸留されていった。その 一般的に語られているストーリーは、次の通りである。

1945年8月20日、ソ連軍が真岡/ホルムスクに攻め入った時、電話交換手であった九人の女性は、通信を維持するため電話交換台を死守した。ソ連軍が背後に迫ってそれ以上業務が続けられなくなったとき、国の自決命令により「皆さんこれが最後です。さようなら!さようなら!」の通信を最後に、用意していた青酸カリを服用して集団自決した。


隠された真実

出典:稚内公園 九人の乙女の碑

しかし、ノンフィクション作家の川嶋康男氏は、このように象徴化されたストーリーに疑問を持ち、当時の状況を体験した者に聞き取りを行って、当時の実際の状況を再現することに尽力された。
 『九人の乙女一瞬の夏』(響文社、2003年)に、これがまとめられている。

それによれば、実際には「九人の乙女」以外にも、その場に三人の交換手の女性が存在した。また、自決したのは、必ずしもソ連軍兵士が郵便局に侵入し電話交換手に襲い掛かるばかりの状況となって業務が不可能になったからではない。
 私たちのゼミでも、この『九人の乙女一瞬の夏』をテキストに使い、当時の状況をできるだけ事実に即して知るための学習をした。



真岡/ホルムスクが赤に染まった日

1945年8月15日、天皇による玉音放送が流れ、日本の敗戦が決定する。こうして日本軍が無条件降伏したにもかかわらず、8月8日に対日宣戦布告をしたソ連は、20日になって、樺太/サハリン西海岸の主要都市、真岡/ホルムスクに攻め入った。

私たちが稚内で会った樺太/サハリン出身の波間様から伺ったところによれば、1945年、ソ連が樺太/サハリンを占領したとき、あるソ連兵は「星条旗があれば襲撃しなかった」と話したという。しかし、米国とソ連、そして英国は、1945年2月にヤルタで協定を結び、敗戦する日本の領土・植民地を戦勝権益として山分けする約束をすでに済ませていた。日本領南樺太は、この協定により、ソ連領となることになっていた。米国は、第2次大戦で同盟国であったソ連と結んだこの協定を、忠実に遵守した。



二つの鍵

当時、電話交換業務は女性が担っており、真岡でも局長を除く交換手は全て女性であった。8月20日の朝、当直の電話交換手は9人ではなく11人いた。また、電話交換室は郵便局の二階にあったが、激しい襲撃により一階とは連絡が取れない状況にあった。

ここで重要な点は2点ある。
 1点は、「九人」ではなく、11人であったこと。
 そしてもう1点は、2階の交換室の中には女性しかいなかったことである。責任者である上田郵便局長は、なぜかこの緊急時に郵便局内にいなかった。もし、交換手「たちを避難誘導する上司か男子職員」がいたならば、集団自決は避けられたはずだ、と川嶋氏は主張する(164ページ)。上田局長がこのとき何処にいたかは、謎のままだ。

そして悲劇は起こってしまう。青酸カリは、「事前に交換室に持ち込まれ、自決するときに、先輩交換手が[局内の]テーブルの上に置いた可能性が強い」 (川嶋、88ページ)。まず班長である高石さんが、青酸カリで率先して自決した。続いて服毒し自決する者が相次いだ。一階にいた男性職員が弾丸の合間をぬって二階に行くと、2人しか生き残っていなかったそうだ。また、1人は当直でないにも関わらず駆けつけ自決してしまい、当直であった他の1人は無事に生き残ることができた。つまり、「九人」とは11+1−3の結果である。彼女達が自決に使った青酸カリはどこからきたのか、上田局長は襲撃前に何処にいたのか、など解けない謎はいまだ残されている。



お国の為に

彼女達が自決した背景として、日本政府ないし軍からの自決命令があったと言われている。だが、実際にはそれは公式の命令ではなく、彼女達が自主的に行ったものであった。
 とはいえ、当時は全体に「お国の為に死ぬ」ことは立派だという国家主義的な教育がゆきわたっていた。さらに、上田局長は、真岡郵便局の電話交換手たちに「残留命令」を発していた。これが、電話交換という、国家の空間統合の結節点を担っていた彼女たちに、国のために殉じる「特攻隊員」を命じられたかのように、使命感をもってとらえられたとしても、不思議ではない。

波間様から伺ったところによれば、ソ連兵は女性に性的暴力を振るう、と噂されており、事実、ソ連軍侵攻後、樺太/サハリンの各地でソ連兵による婦女暴行が発生していた。このような辱めを受けたくないという感情も、彼女たちが自決した背景にあるだろう。

同じような集団自決は、実は、樺太/サハリンでほかにも起こっていた。恵須取/ウグレゴルスクの病院では、看護婦が互いに劇薬を注射しあって集団自決を図った。ところが、今日まで語り継がれているのは、この「九人の乙女」の話だけで、他はほとんど忘れ去られてしまっている。



三人の乙女は何処に

出典:北方記念館

この上田局長が、「九人」というキーワードを広め、生き残った三人の存在を薄めた人でもある。彼は後に「生き残ったことで人に後ろ指をさされないよう気を使った」と語っている。だが、この事件がこのように象徴として蒸留されてきた背景には、戦後に、上田局長が、当時自分自身が現場にいなかったことの贖罪という意識もあってか、「九人の乙女」に叙勲されるよう奮闘したことがあるだろう。努力の甲斐あって、「九人の乙女」は、1973年、勲八等宝冠章を授与された。

8月20日に稚内で開かれた平和祈念祭の挨拶で、「当時九人の乙女が宿直にあたり」というような事実と異なる表現が使用されていたことを聞き、「九人の乙女」を強調するあまり、同じように献身的に電話交換業務に従事しながら生き残った三人の乙女たち、そして、恵須取./ウグレゴルスクなど、ソ連軍の戦火に怯えながら、おそらく樺太/サハリンのいろいろなところで起こっていたであろうできごとを、歴史の闇に埋もれてさせてしまうことにならないか? と私たちは疑問に思った。



(折田翠)

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