今日は、ついにキルギスを出て、イルケシュタム峠を越え、カシュガルへ入る日だ。
朝五時半ごろ目を覚ますと、外はまだ真っ暗で、視界はぼやけ、深い霧がかかっていた。六時出発のはずが、なんとまだガイドとドライバーが寝たままである。前日の晩、ガイドは、旅行社が、運転手とガイドに必要な前夜泊の宿泊手当を支給しないので、われわれとウズベキスタンの国境で会う前の晩、運転手と2人で車のなかで夜明かしした、とこぼしていた。このような労働強化の疲労が溜まって寝坊してしまったのだろうか。しかし、早く出発しないと、国境が閉まってしまって今日中に中国に入れなくなってしまうかもしれない。今日、中国側の旅行社に国境まで迎えに来てもらうことになっているのに、中国の旅行社が、われわれが来ないからと帰ってしまっては困る。そこで、われわれがガイドと運転手をたたき起こした。
朝ごはんを食べ、ステイ先の方にお礼を言って、なんとか6時半にグルチャを出発した。
グルチャの町を抜けると、道は谷あいを縫って進むようになる。ここは、わずか15年前には、外国人の立ち入りが厳しく禁止されたソ連国境地帯だった。木がほとんど生えていない斜面には遊牧風景が見え、薄日がさす空の遠方には、険しい岩と雪の山々が望める。これまで砂漠と平原を見慣れてきた目に、この山岳景観は息をのむようだった。
途中、小さな峠を越えるところでは、河岸段丘や谷底平野がはっきりと確認できた。沿道には、絶えず小さな集落が続いている。人口密度は案外と高いようだ。集落には、カフェやユルトがあり、オシュ方向に、ワゴンに近い車の路線バスが走っている。次第に太陽がのぼり、登校時間になると、街道には集団登校する小学生の列が現れた。このような深い山の中でも、社会主義以来の教育制度がきちんと機能しているのだ。
標高3000mのあたりにある最後の集落を抜けると、目の前に高い天山山脈の支稜がたちはだかった。車は、険しい山中の九十九折の道を、少しずつ標高を上げ、あえぎながら登っていく。道のすぐ横は崖で、道の広さも十分とはいえない幅である。霧が濃いため視界も悪く、車が崖から落ちてしまうのではないかと少し不安になった。道沿いにはずっと電線があり、時たま牛や馬の群れがいる。まわりの山々を見ると、頂上が白く、下の方は草が生い茂っている。
標高3500mくらいまで上ると、景色が完全に白くなった。雪がつもっているのではなく、草の上にうすくしゃりしゃりした氷状のものが積もっている。気温もかなり下がって、トレーナーや使い捨て懐炉なしでは相当苦しくなった。この日ゼミ生の多くは体調が良くなかったのだが、一部の学生には、頭痛や吐き気など、高山病と思われる症状が出てきた。山の上のほうから今まで通ってきた道を見下ろすと、霧が濃くてよくは見えなかったが、道が非常にグネグネとしており、山の斜面をはうようにしてここまで上ってきたことが分かった。
午前9時、タルディク峠(標高3630m)に到着した。ここは、アムダリア川とシルダリア川の分水嶺に当たっており、この巡検中にわれわれが陸路到達する、最高地点である。気温は4℃。石碑とトイレがある。トイレといってもただ壁があって、道側の反対側から壁に向かって用を足すと道側からは見えない、といった目隠し程度のものだが。とにかく雪が吹き付けてきて、寒い寒い寒い!! 石碑を見ると、1933年、この道路が竣工したことが表示されていた。よくこんなところまで道路をつくったものだ。スターリン時代の強制労働の成果だろうか。また、牛糞がけっこうあった。牛もよくこんなところまでやってくるものだ
寒さに我慢できなくなり、早々に車に乗って出発した。この峠から先、イルケシュタムまでは、日本国外務省の、危険度3「渡航の延期をおすすめします」地域になっている。しかしわれわれは、そのような情報にはこだわらないで前進する。この辺りは標高が高すぎるためか、木は生えていない。広大な草原に向かって、車は山を下っていく。われわれはここではじめて、中国新疆ナンバーの大型トラックを見た。
9時45分、サリタシュ(標高3200m)に到着。サリタシュは中国やタジク方面に行く道の分岐点にある小さな村である。ここには、商店もカフェもない。暖房のきいた車から降りた時,タルディク峠に比べると暖かくて少しほっとした。だが、村の人たちは皆長袖の服を着ており、まだ九月半ばだったがロングコートやジャンパーを着ている人も多かった。人々の顔は赤く、紫外線が強いからか若くても少ししわの入っている人が多い。
村にはレンガ造りで一階建ての建物が二つある学校があり、子供たちが校庭で元気に遊んでいた。われわれはそこでトイレを借りた。はるか草原のかなたに、レーニン峰(7134m)を擁し、キルギスとタジキスタンの国境をなす、トランスアライ山脈が雪をいただいて聳えている。
サリタシュを過ぎると、道は未舗装になった。石や水溜りなどで一気に車が走りにくくなった。20-40km/hでしか走れない。だがこの道は、昔から、カシュガルとサマルカンドをつなぐシルクロードの重要な交通路だった。そして現在は、ウルムチから阿拉山口を経てアティラウに至るルートと並び、欧亜連絡ルートと中国が構想している、重要な道なのだ。
すぐ隣を旧道が走っていて、道の状態があまりに悪くなると、ドライバーは「旧道のほうが走りやすい」と、そちらに迂回する。道にはめったに車はいないが、ごくごくたまに鉄くずを満パンに積んだ、屋根のついていない大型トラックが、道が狭い上にかなりでこぼこ道で走りにくいのか、ゆっくりとキルギスから新疆に向かって動いている。これは、旧ソ連側の老朽化した工場を解体して出た鉄くずを、鉄の需要が高く、鉄を溶かしてリサイクルする技術が相対的に高い中国へ運んでいるものであろう。これらのトラックは帰り、中国からは屋根無しで運べるものがないめ、何も載せずに帰っているようだ。また、屋根のついた、日本の運送屋が使っている、いわゆる大型トラックもたまに走っていた。道路沿いには絶えず電線が走っている。時たまユルトも見える。途中、道から落ちてひっくり返ったまま放置されたトラックを見た。
草原の向こうに見える天山山脈は、頂上のあたりは白く、下のほうは水色で、とても険しい地形をしていた。日本では絶対に見られない、壮大な風景だった。ただ、ここの標高がすでに高いからか、6000〜7000m級の山々が続いているというわりには高く見えなかった。なにしろここは、天山山脈のど真ん中なのだ。内側から天山山脈を見ることは、おそらくもう一生ないであろう。
途中、ガイドの私用なのか、何回か道端にぽつんとあるカフェに止まった。ガイドが戻ってくるまで、我々は天山山脈をバックに写真をとったりトイレにいったりした。この一つで私が入ったトイレは、目隠しのためにレンガがコの字形に並べられていて、その中の両端に、ぼろぼろのまともにのったら壊れそうな木が敷いてあり、木が古くなりすぎて結構大きくなった真ん中のすきまに用を足すといったものだった。寒すぎて虫がわかないうえに、乾燥しているので臭い匂いもせず、清潔であった…がなにしろ怖かった。
しばらく行くと、車は、アラル海に流れ込むアムダリア川水系と、タリム盆地に流れ込むタリム川水系とを分ける、ユーラシア大陸の脊梁をなす分水嶺にさしかかった。険しい山肌には、氷河が認められる。道路の最高点の標高は3536m。しかし、道路のあるあたりだけは、山脈の岩稜が切れていて、草原がそのままタリム川水系になだれ込む地形になっている。こうした通過の容易さから、この場所は、古代からシルクロードの主要なルートの一つとして使われてきた。ここでわれわれは少し下車し、写真を撮影した。自然地理的には、ここが旧ソ連と中国の国境でもおかしくはないが、この場所では、旧ソ連がタリム川水系方にかなり領土を張りだしている。
分水嶺を越えると、それまで黄色かった土が赤茶っぽくなっていき、タリム盆地側に来たことを感じさせた。しかし、そこはまだキルギス領だ。車は再び谷の中へ入って行く。12時50分、小さなチェックポイントに到着。ここではパスポートチェックを受けた。銃を持った兵隊が数人と、小学生くらいの子供がいた。20分後に許可が下り、遮断機が上がって、われわれはここを通過した。これ以降(もちろんチェックポイントも!)は写真撮影禁止…。
13時30分、キルギス側の最後の集落であるヌラNuraを通過した。ヌラは、山の斜面にある小さな村で、ここから道路沿いに、キルギス側の国境フェンスが張られている。フェンスは有刺鉄線で非常に頑丈にできており、遊牧民も越えられないようにしてあった。いよいよ、ユーラシア大陸のなかでも通過が面倒とされ、昨年夏にようやく開放された、かつての中ソ国境に迫る緊張感が高まった。
13時50分、車は、穴だらけの未舗装道路を悪戦苦闘の末、予定よりおよそ1時間遅れて、イルケシュタム国境通過地点のキルギス側検問所ゲートに到着した。鉄くずを満タンに積んだ大型トラックがたくさん広場の駐車場に停めてあり、そのまわりでは運転手たちがたむろしていた。少ないが女の人もいる。旅行者らしき人は、われわれだけだ。
軽く食事でもとって、「よっしゃ気合入れて国境を越えるか」と思っていたら、ここで考えてもいなかったビッグトラブルが発生した。キルギス側国境検問所と中国側国境検問所の間の、約10kmにわたる中立地帯は、徒歩では越えられない規則になっている。われわれは事前に、旅行社Asia Toursに何度も中立地帯を越える許可証permissionをとってあるかどうか確認したにも関わらず、なんとドライバーもガイドも、許可証を持っていないというのだ。ガイドは自分達の非を否定し、国境では許可証がとれないから、どうにもならないという。「それは契約と違う。どうにかしろ」という水岡先生の抗議に対し、ガイドは「どうしようもない」と言い、検問所の敷地のまわりを一応うろうろしている。しまいには先生に対し「I don’t like you」と言い出し、さすがに先生も語調が荒くなり、この旅一番の言い争いとなってしまった。
どうしようもないので、学生たちはトラック駐車場の奥にあるカフェで、食事をとって待つこととなった。メニューはシシカバブ、肉のスープ、ナン、目玉焼き、紅茶。寒いし、前々日、シシカバブもどきにあたって以来肉は食べる気にもなれず、持ち運びやすい上にくさりにくいナンばかり食べていたからか、こんな時でも、あつあつの目玉焼きがうまい。
しばらくすると先生がやって来て、「トラックが手配できたから急いで!」と言う。トラックは、ガイドがトラックの運転手に頼んでくれたそうだ。中立地帯を歩いて越えることができないので、ここでは、トラックのヒッチハイクは普通に行われているようである。トラックの運転手もわかっていて、あっさりと乗せてくれるようだ。ここの中立地帯は道が狭いため、2時間ごとの交互一方通行である。ここでおいて行かれると2時間待ちになってしまう! 急いで紅茶とナン、目玉焼きを口につめて、出国審査等をする建物へ向かった。建物はこぢんまりとしていて、天井が低く薄暗かった。ここでわれわれは、はじめにカザフ入国したときと同じ書式のキルギスの税関申告書1枚を書いた。次いで保健検査、荷物検査、出国審査を受けた。荷物検査では、カバンの中身を出してほとんど全ての荷物をチェックされた。手さげ袋を含め荷物が4つにまでふくらんでいた私は、1個だけ全部出してごまかそうとしたが無理であった。さすがに7人全員が全部の荷物をチェックされるまでにはいたらなかったが。それでいて検査官が我々の持ち物を物珍しげにいろいろとじっくり見るので、時間をかなりとられてしまった。
すべての検査が終わり、手洗いを済ませたあと、われわれはトラック三台に分乗した。屋根つきの、キルギスナンバーのトラックであった。トラックの中は三人くらいが座れ、それ以外に一人分の寝るスペースがついていた。われわれの荷物を載せてもらうために荷台をあけてもらうと、なんと荷台には何も入っていなかった。このトラックは、中国から輸入する工業製品をキルギスへ運ぶ車で、行きはキルギスから中国向けに輸出するのに適した工業製品がないから、何も載せずに回送しているものと推測される。
そのうちの一台には、日本人の女性バックパッカーが同乗した。この旅では訪問先の事務所とウズベキスタンの観光地以外では日本人をほとんど見かけなかったので、天山山脈のど真ん中で、日本人、それも女性で一人旅の方に会うとは、意外であった。京都にある大学の四年生で、半年間中央アジア、コーカサスを中心に旅を続けているという。おとといオシュを出て、ヒッチハイクでサリタシュまで行き、昨日サリタシュでまたヒッチハイクをしてそのままトラックで一泊してここまで来たそうだ。また、別の一台には、キルギスの国境審査官が、キルギス側の最終チェックポイントまで同乗していった。
15時30分、われわれはなんとか中立地帯に入ることができた。道は舗装されておらず、山の斜面に沿ったグネグネとした道が続き、トラックはゆっくりと走っていく。
少し行くとキルギス側の最終チェックポイントがあった。ロシア風の小さくてきれいな建物だった。ここでわれわれは、もう一度パスポートの検査を受けると、陽気な兵士たちに「カメラ持ってないのか」「一緒に写真をとろう」とジェスチャーで言われ、われわれのカメラで記念撮影をした。写真禁止ではなかったのだろうか…?
キルギス側最終チェックポイントを越えると、トラックは曲がりくねった未舗装の道路を、エンジン全開で登り始めた。ここに本当の国境線がひかれているのである。進んていくと、左手の斜面に、キルギスの国旗の色を模して赤と黄色に塗られた、キルギス側国境標柱があった。そこを少し進んで、道が360度ぐるっと回ると、こんどは天山山脈をバックに大きな中国の国境標石が屹立していた。また右手には、山の斜面を使って大きく中国の国旗が描かれていた。広大な中国領土の最西端は、ここからそれほど遠くない山中にある。
キルギス時間16時30分、北京時間では18時30分、われわれは中国側の最初の検問所に到着してトラックから降ろされた。トラックのおじさん、本当にありがとうございました!!!お礼に、日本から持ってきた携帯電卓をプレゼントした。ここで再びパスポートチェックと荷物検査が行われた。屋根のない道端で荷物を全て出さされ、洗いざらいチェックを受けた。ゼミ生の一人はここで、英字新聞を没収された。また、カセットやCD,FDなど、情報の入っている可能性のあるものは一旦取られた。
検査を受けている間、カシュガルまで行く中国側旅行社の車が見えなかったので、「北京時間16時00の待ち合わせ予約だったから、放って帰られたのでは‥」とかなり心配になった。だが、われわれが来たのを確認した中国側係官が、無線を使って入国審査場で待っていた旅行社を呼んでくれ、中国側のバスはまもなく現れた。迎えに来てくれた旅行社の車に荷物を積む。日本人バックパッカーに同乗させてもらえないかと頼まれ、車にまだ余裕がありそうだったので、同乗させてあげることにした。
最初の検問所を北京時間(以下同じ)18時55分に出発、19時00に中国側入国審査場に到着した。2002年夏の、このイルケシュタム国境の開通に向けて建設されたということもあってか、今まで見てきた旧ソ連の建物に比べると、たいそう立派な建物である。ここでは、検疫に書類1枚を書き、Entry Card1枚を書いて入国審査を受け、荷物をチェックされた。さきほど一旦とられたCD等は、ここで戻ってきた。ここでも荷物チェックは相当厳しく、再度全ての荷物をカバンから出さされた。われわれの持っていたノートやレジュメ、本は相当厳しくチェックをうけた。新聞を紙の中にまぎれこませて隠すのは逆効果なので、気をつけよう。内容が推測できるからか、英語のものより日本語のものが、注意深く点検された。漢字でたくさん「新疆」と書いてあった某ゼミ生のレジュメは、特に厳しくチェックを受けた。やはり、独立問題などで細心の注意を払っているのであろう。ちなみに某ゼミ生はここで新聞を没収され検査官に5元(約75円)ほど賄賂を渡して返してくれるよう交渉してみたが、金額が少なすぎたのか一笑されダメであった。「税関法により新聞は持ち込み禁止」と言われたそうだ。
19時45分、入国審査が全て終了し、2度目の中国入りを果たした。ソムは中国では両替できないだろうとは聞いていたが、我々はここであやしげなおじさんたちに100ソム=18元で交渉を持ちかけられた。しかし途中で公安が来て交渉はダメになった。彼らは闇両替商なのだろう。キルギス側国境検問所にも、ここ中国側入国審査場にも、公式の両替所は一切ない。我々は二度目の中国なので元を持っており問題なかったが、ここで初めて中国入りする人は、闇両替商に期待するより、オシュなどであらかじめ中国元を入手しておくことを勧める。キルギスでは、オシュまで行けばソムと元との間の両替は簡単にできるが、中国では、ソムは全く通用しないし、両替もできず、紙屑同然になる。
入国審査場の外には、食堂が数軒営業していたが、カシュガルはここからさらに車を飛ばして4〜5時間の道のりと知り、食事はせずにカシュガルへと急いだ。道路はさっきまでのキルギスの道とは比較にならないほど整備されていて走りやすい。周りの山は、天山山脈の峠を越えて以来赤茶色が続いている。激しく侵食がすすんでいて、トルファンの火焔山に酷似した形をしている。きれいにななめ向きの地層や、地層の傾きのおかげで1つの山で色が赤・黄・緑の3色がある山なども見られる。また野生のふたこぶラクダが散見された。
次第に日が暮れ、途中、明かりが薄暗くともった小さな村をいくつか通った。一度検問所でパスポートチェックを受けたが、これは車外に降りて順番にパスポートを見せるだけで、すぐに終わった。そのあと、小さな町の小さな店で、先生が駄菓子を買ってきてくれた。久々の醤油味で、思わず食がすすんでしまった。
真夜中の12時、キルギスのグルチャから15時間半の大移動を終えて、われわれはようやくカシュガルの街にはいった。
カシュガルは雨が降っていたが、今まで見てきた町に比べると光がたくさんある、都会だった。この日われわれは、かつてイギリス領事館があり、グレートゲームの舞台となった場所にあるChini Bagh Hotelに宿泊予定で、先生はひときわ楽しみにしておられたのだが、「満室」でホテルが手配できなかったといわれ、町の中心から少し離れたところにある東海漁村大酒店に宿泊となった。こんな内陸の地に「漁村」とは驚きのホテル名だったが、五階建ての清潔なホテルであった。
既に述べたように、この日とその前日に通ったキルギス南部は、外務省安全情報では、危険度2[渡航の是非を検討して下さい]、ないしは危険度3〔渡航の延期をお勧めします〕となっている。この危険度の高さの原因としては、数年前に起きた日本人鉱山技術者拉致事件のことが関係していると考えられる。だが、実際通ってみると、全然危ないとは感じなかった。外務省は「事なかれ主義」であり、日本が軽視していいと外務省が判断した国に対しては、危険度を高めに出したまま放置しているとも思われる。しかし、新疆ウイグル自治区独立問題との絡みから中国人(漢民族)を狙ったバス爆破事件が一件あった以外は、類似した事件は発生していない。それなのに未だに拉致事件のことを引きずって、さらにあまり日本人の行かない地域だからといって危険度を再検討することも怠っている外務省のやり方は、ずさんであるといわざるを得ない。関係者は、実際に行って現地で確認すれば、危険でないことが分かるはずである。これは、外務省の現地に対する認識のなさ、官僚主義の負の面、そして、いったん危険情報を出してしまうとそれを解除したあと事件が起これば責任を問われかねないという事なかれ主義に端を発し、なかなか危険地域という指定を解除できないことに原因があろう。JICAの使命である貧困地域での活動ができないという支障が、ここから起こっている。他方、9.11直後のニューヨークをはじめ米国に高い危険度を出さなかったあたりを考えると、安全情報には政治・経済的配慮の要素が強く介在していると思われ、危険度基準の信頼性を大きく損なっている。危険度が2以上の地域には、「旅行社の自粛」によってツアーが催行されなくなる。
もちろん、やみくもに危険地域に入り込むことは戒めなくてはならないが、このような理由から、旅行の際は、「安全情報」に惑わされるのではなく、インターネットなどを使って危険情報の根拠を調べ、自分たちできちんと検討し自主的に判断することが必要であると、われわれは考えている。