今日は朝8時にゲストハウスを出発した。今日は太陽が隠れてうすら寒く、雨もぱらついていた。だが、学校訪問が続く今日のスケジュール、子供好きのメンバー達は天候に関わらず陽気であった。
ウッタランの教育プログラム現在のバングラデシュの教育体系は、イギリス植民地時代に導入されたものである。これはもともと、イギリス人がベンガル人に対する支配を効率的に図るために教育を行うものだった。具体的には、英国植民地政府が上流階級に優先的に教育を施し、この上流階級が徐々に下の階級にむけて教育を行っていく「下方濾過システム」といわれるものだった。貧困層の草の根からの活動はあまり実施されず、貧困層の識字率は今でも低い。ウッタランはそのような教育制度を改革しようと、1985年以来取り組んでいる。ウッタランの活動は、@非公式教育 A技術教育 B公式教育 からなる。@では学校に行く機会のない子供達のためにインフォーマルな教育を施したり、REFLECTという成人教育を実施したりしている。Aでは、大工・機械などの実践的な技術を教えている。Bでは、ウッタランが設立した私立学校による、政府のカリキュラムに沿った教育を行っている。これには、6年間の小学校、4年間の中学校・2年間の高校(カレッジ)からなる。 ウッタランの教育プログラムにより、教育を受けた人の知識・技術・理解が拡大し、このプログラムは大いに役立っている。 |
小学校の概要・問題点について
本日の視察はウッタランの設置した小学校から始まった。この学校は「サマカル・マダャミク・ビッヂアピシュ(Samakal
Madhyamik
Biddyapith)」という名称で、石川信克医師の寄付により、ウッタラン最初の教育事業として、1985年に創設された。一つの建物に、小学校と中学校が一緒になっている。校舎は木造建てで、平屋建てであったが、敷地面積は広かった。グラウンドは草地であり、野放図に雑草が生い茂っていた。
始めに我々は、小学校の校長先生ら三人の方からこの学校の概要や歴史をうかがった。この学校は、公立学校ではない。このため、公立学校ではは授業料は月に15タカで(約30円)、経費全額を政府から支給されるところ、この学校は職員の給料の8割以外は政府から受け取っておらず、その他の費用はウッタランが支払っている。イスラムさんはこの学校に対して、様々なアドバイスをしている。隅田川ライオンズクラブも多くの寄付をしており、建物にはそれに感謝する額が飾ってあった。1年生から5年生は授業料が無料であり、6年生から10年生は3ヶ月で12タカ(約24円)支払うが、どうしても払えない場合は払わなくて良い。もともと授業料を支払うのは30%程度の人達にすぎず、50%の貧困者や20%の成績優秀者は授業料を免除されている。制服や文房具は支給され、奨学金制度もあるそうだ。
この学校は資金不足に悩まされており、教室や施設が十分ではないことや教師の給料の問題が生じている。教師は全員で17人おり、大卒が16人で皆訓練を受けていて優秀である。1人の教師が複数の科目を教えている。生徒は、1学年(6歳)から10学年(16歳)まであわせて650人だ。ウッタランのメンバーであろうとなかろうとこの学校に通うことができる。男女の割合は35%が男子、65%が女子で女子の割合が高く、女子の地位向上のためにウッタランが活動していることがみられる。スクールバスや寮はなく、基本的に皆自宅から徒歩か自転車で通学している。
またSSC(中学におけるバングラデシュでの全国的な統一試験で、これに合格することで社会的な評価が非常に高くなる)で72%前後毎年合格するほど教育レベルは高いそうだ。全国的な賞を取った女子学生もいるらしい。95%が卒業でき、卒業後はウッタランが設置した高校などに4割が進学し、他は軍隊に入ったり、電線を引っ張ったりするラインマンなどの地元の労働者になったりする。
この学校ではすべてベンガル語で教えられており、数学・ベンガル語・英語・宗教が必修である。宗教はヒンズー教でもイスラム教でもキリスト教でも選択可能であり、イスラム教以外の宗派にも配慮している。教育課程は政府のカリキュラムに従っており、社会・政治・経済・歴史・会計・社会科学などの科目も教えられている。女性の地位向上については社会科学の授業で教えられており、この学校にはガールスカウトもいるそうだ。コンピューター教育は政府の許可が必要であり、設備も整っておらず、まだ行われていないが、近々実施したいと言っていた。またこの学校の独特な点は衛生管理や健康教育などの地域に密着した問題も学べるため、実生活に非常に役に立つようだ。
優秀な生徒達
概要を聞いた後、我々は学校の様子を見学した。制服が支給されると聞いたが、どの生徒も思い思いのこざっぱりとした服装で、制服着用の生徒は誰もいなかった。出席率は平均99%だそうだが、今は期末試験の時期なので学校に来ている生徒は少なかった。日本で中学1年生にあたる7学年のクラスを覗いたところ、使用している英語のテキストは日本での高校2年生程度のレベルで驚いた。バングラデシュのカリキュラムでは、英国植民地以来の伝統で、いまも6歳から全員が英語を学習しているのだから、かなりの英語力を習得できるのだと感じた。
このクラスの成績トップの女子生徒であるパルルゾンさんに話を聞いたところ、経営の知識が生かして銀行に就職したい、と将来を語ってくれた。どの銀行がよいかと尋ねると、貧しい人を助けることができるから、グラミン銀行だと答えた。グラミン銀行が地方においても尊敬の対象となっており、エリートコースになっていることがうかがえる。またここから、地方の学校を卒業する優秀な生徒は都市のビジネスに参加したいという意欲がみられることがわかる。実際に彼女のような優秀な人材は都市のビジネスに参加できる。彼女のような人材が、将来のバングラデシュ社会にどのような影響を与えていくかが楽しみだ。
また、クラスの様子として目立ったことは、男子が真中に黒板の正面を向いて座り、女子がそれとは直角の位置で壁に沿って座っていることである。他のクラスでも男子と女子が一緒に座っていることはなかった。斬新的に女性の地位向上に向けて取り組んでいるウッタランだが、現状ではまだ制度として定められた教育システムの制約から完全に抜け出すことはできないように思えた。
問題のある授業
次にわれわれは、中学の数学の授業をのぞいた。日本でも中学生程度の方程式の授業だったが、数学が得意で日本で塾講師のアルバイトをしている我々のメンバーはこれを見て、方程式の解き方を説明せずに、答えだけを教えこんでいると指摘していた。試験の時には、この答えを丸暗記してくれば良い点が取れるということなのだろう。バングラデシュで数学ができる人材はソフトウェア開発などに携わり、しかも国外流出をする傾向にある。あまり数学の能力のない落ちこぼれ組が国内の学校で数学を教える。そのために、教師の力の無さから、質の悪い授業がなされてしまうようだ。この問題に、ウッタランはどう対処していくのだろうか。
一番奥のクラスではウッタラン独特の「開発教育プログラム」として、健康を理解させる授業が行われていた。この日は、下痢にならないようにするにはどうするかという説明がなされていた。先生が1人の男の子を一方的に何度も指名し、男の子がうまく答えられなかったらしく、先生が叱っていた。独特のプログラムとはいえ、やはり暗記中心主義的な教育なのであろうか。
職員室での懇談
一通り視察を終えた後、我々は職員室に通された。ここにはウッタランの本部にも見られた7人のポスターがはってあった。その人達は独立戦争の時に殺された知識人で、この学校はその人達のような人物を理想として教育していると語ってくれた。
最も大変な仕事は親の事情で学校に来られなくなった生徒の家を訪問して、生徒が学校に来るように親を説得することだとウッタランの教育プログラム担当者が語っていた。依然として教育の重要性を分かっていない親は多いようだ。だが、出席率を99%まで維持していることから必死に親を説得していることがわかる。若干の問題があるとはいえ、この学校はこの地域で役立っているといってよいだろう。
高校の概要
続いて我々は高校を訪問した。この学校の名称は「シャイド・ムクチジョッダ・モハビディアロヤ(Shahid
Muktijoddha
Mohabidyaloya)」であり、1993年に創設された。この学校は2年制で、日本の高校2・3年にあたる教育が、政府のカリキュラムにのっとってなされている。授業は朝9時から夕方4時までである。
学科は文系・理系・商業系の3つである。ここでも授業はすべてベンガル語で教えられている。文系では、経済理論や地理、農業などを学び、商業ではマネジメントや会計などの実践的な技術を身に付ける。理科は数学・物理などの政府伝統のカリキュラムであるようだ。この他に、環境問題や差別問題などが近年カリキュラムに導入され、ディベートやセミナーなど、生徒の参加型の形式がとられている。
資金面ではウッタランを中心に、石川信克医師・イタリア人神父・カナダ人・NGOのPROSHIKA・地方のドナーから獲得しており、政府やBRACからは一切受け取っていない。またアメリカの援助機関のアジア ファンデーション(Asia Foundation)も資金援助をしており、ウッタランとアメリカとの結びつきの強さが、ここにもみられる。生徒は授業料が無料で、テキストもおさがりを使うことで無料である。優秀だが、貧困な境遇にある家庭の生徒には奨学制度もあるようだ。ただ、資金不足は深刻で、教師は使命的な熱意(missionary zeal)を持って、ボランティア的な低賃金でこのカレッジのために働いている。
先生は28人(女性5人)で皆熱心である。学生は入学前のプレテストでおさめた学力かによってクラス分けされる。学生数は11学年が195人(女性は35人)で、12学年は126人(女性26人)である。その他に、貧しくて定期的に来られない人が315人いる。1クラスは10〜20人で1クラスに担任が1人つく。生徒はほぼ1〜10kmの道のりを徒歩や自転車で通学しており、中には20〜40kmをかけて通学している人もいる。ただし、97年から3階建ての寮が建てられ、貧しく優秀である人は通学しなくても学校で学べるようになった。現在寮には、30名が住んでいる。
この高校は全国試験においてジェソールで12番目の成績をとっており、レベルは高い。卒業後、学生は大学進学やエンジニアなどの志望を持っているが、ビジネスや農業に従事する人も多い。
高校の教師達
この学校の課題は多くの学生がコースを修了できないで、辞めてしまうところにある。この学校でも小学校のように、教師が家庭訪問をして親に教育の重要性を伝えたり、庭先での話し合い(Yard Meeting)といって、教師が生徒のいる村まで行って生徒に教えたりしている。教師の献身的な指導が高校を意義あるものにしているようだ。だが、話を伺っている時先生の英語はあまり上手でないことに気付いた。ここでも先生の質についての問題があるように感じた。
高校の生徒達と面会
我々は話を伺った後、講堂のような大きな部屋に通され、何百人もいる生徒達の前に向き合って壇上に座った。生徒達は、我々に花輪をかけてくれたりして歓待してくれた。思い思いの服装をした生徒達は、はじめもの珍しそうに我々を眺めていたが、我々が挨拶で「アッサマラーゲン(こんにちは)」や「How are you?」というと、次第に打ち解けた様子になってきた。女の子は固まって座っていたが、小学校のように女の子が端に座っているようなことはなかった。若干ではあれ、男女の隔たりがなくなっているように見える。
我々は英語で学生達に「バングラデシュは将来どうなると思うか?」と尋ねてみた。すると、「まだ読み書きができない人が多いので、教育が向上して文盲がいなくなり、雇用が均等化すればいいと思う。」、という答えであった。次いで「環境問題についてどう思うか?」と尋ねると、「砒素汚染が大きな問題だが、交通渋滞やスラムの問題などの都市問題も考慮するべきだと思う。」、と明快で論理的な解答が、きれいな英語で返ってきた。この学校の学生は優秀だと思えたが、ただいつも解答するのが特定の人だったから、他の人達がしっかり解答できるかはわからなかった。
日本人についてどう思うかを尋ねたところ、勤勉・有能・積極的?・時間厳守(耳が痛い)・花が好きなどと答えてくれた。世界的な日本人のステレオタイプ的なイメージを彼らも持っており、最近の日本人は違うんだよ、と説明したかった。
その後我々はこの高校を去ろうとしたが、サインを求める学生の波にのまれて立ち往生した。まるでスターになったような気分だった。学生達が我々に良好なイメージを持ってくれたことを喜びつつ、我々は高校を後にした。
ユニオンの歴史
その後我々は、ウッタランの本部に戻り、そこで待ち合わせていた5人の村会(=ユニオン)議員達と会合した。ユニオンはイギリス植民地下の1873年の条例により誕生した地方政府である。植民地時代、ユニオンの活動の主要な内容は、インフラ整備であった。これは、税金収入確保のために道路交通網整備による空間統合を行う必要があったからだ。また、イギリス主導の下に活動していたため、ユニオンはイギリス植民地時代に作られた地主・小作関係のシステムをかえって強化することにもつながった。だからユニオンはイギリスの植民地政策を補完するために作られた組織であり、バングラデシュの地方を変えていこうというインセンティブもみられなかった。そのため、従来ユニオンの力は弱く、効果的な役割を発揮できなかった。
そこで、政府は現在、村議会議席の3分の1を女性にするなどの画期的な政策を繰り広げ、ユニオンの機能を高めようとしている。ウッタランもユニオンを強化し、村会議員と貧困層の関係が深くなることを目指しており、村会議員のトレーニングを行ったり、ユニオンの集会に参加してアドバイスを行ったりしている。
ウッタランのユニオン支援
村議会議員は英語ができないため、我々は議員と直接に話すことは少なく、ウッタランの職員が代わりに答えてくれたところが多かった。村議会は議長を含めて13人で構成され、3人が女性である。1997年からウッタランのトレーニングを受けており、そのためウッタランに対して好意的で信頼しているようだ。
農作物を独占したり、小作人に適切な賃金を与えなかったりする悪徳地主の送り込む候補者が村議会に当選することもある。ウッタランはそのような状況を是正するために公正な選挙がなされるようなサポートをしている。具体的には、@誠実・交渉力がある・礼儀正しい・問題解決能力がある、などの条件を持つ人を探す、A700人以上が集まる集会を開き、そこで候補者に政見を述べさせる、Bプロジェクトミーティングで住民と候補者の対話の機会を設ける、などである。このようにして住民にウッタランが支持する適切な議員候補に投票するように呼びかけているのである。当選したメンバー達は特に優秀な知識人というわけでなく、立候補したのは政府と住民の間に立って貧しい人を助けたいがためだから、ウッタランはそれを保障するため、メンバーに対して5年間の研修・アドバイスをも行っている。
ユニオンの活動と今後の展望
現在のユニオンは教育・法・衛生などの社会発展の問題に取り組んでおり、その中でウッタランは、例えばイギリス植民地時代に作られた地主・小作関係のシステムの変革を試みている。ユニオンが村の草の根からの自治組織になっていくのが目標であるが、旧来の目的であったインフラ整備にも意欲を見せている。村議会の民主化を図るためには、まず人々の間にデモクラシーの意識を高めることが必要だとウッタランは考える。さらに、規模の拡大も重要だ。このため、現在16〜18あるウッタランが関与したユニオンを今後は77程に拡大し、さらにゆくゆくは、このようなユニオンと同じような民主的な運動を、郡(タナ)レベル・県レベルにまで引き上げていきたいそうだ。
現在ウッタランはADAB(Assosiation of Development Agency in Bangladesh) というバングラデシュのNGO連合に所属しており、ウッタランは執行委員を務めている。このADABは国政レベルに影響力があるから、バングラデシュでウッタランと同様の方向をとる局地的なNGOがネットワーキングを図り、その場で民主的な政策を出していくことで、やがては国政そのものに参与し、その民主化を図ることも射程に収めようとしている。
「腐敗政治にとって代わるのは市場経済である」というグラミン銀行の考えを伝えると、ウッタランのスタッフは「それを軽率だ」と答えた。そして、政治において民主的なシステムが確立されなければ腐敗政治は改善されないと主張した。村会議員の1人は、「自分達の力で政治を変えていきたい」と意欲を示していた。今まで中央政府に支配されていたユニオンをテコとしたウッタランの草の根レベルからの社会改革が、今後どのような成果をあげるかが注目される。
ウッタランとアメリカ合衆国との関わりウッタランに多額の資金を提供しているアメリカ合衆国は、途上国の民主化を進めている立場から、ウッタランのユニオンによる草の根レベルからの民主化を図る活動に協力している。これは、援助を、腐敗した政権ではなく効率的に本当に援助すべき人に対して行おうとするためである。腐敗した政権に対し援助を続けて、その政権が国際的な批判を浴びるようになれば、援助の正統性自体が米国内の有権者から厳しい批判にさらされる。こうしたタックスペイヤーへの説明責任(アカウンタビリティー)を重視する米政府の姿勢と、ウッタランの腐敗政治に対する姿勢とが重なり合って、合衆国がウッタランに資金提供をしている。合衆国はウッタランを信頼し、ウッタランに援助するのは、その限りでのことだ。 ただし、アメリカ合衆国は途上国の社会変革を好まない。既存の資本主義システムの変革による世界資本主義システムの崩壊を恐れるからだ。だから、本来の原理原則からいえば、アメリカはウッタランの社会改革活動には否定的な立場をとるはずであろう。これに対しウッタランは、 「私たちの方針や行動を合衆国が支持してくれている限り、合衆国の援助を受け入れる。そうでなくなったら、それまでのこと。合衆国の方針にわれわれが振り回されるようなことはしない」と自信を示し、さめたものであった。 新保守主義のもとで市場万能の立場に立つ合衆国が、市場機構に懐疑的で腐敗した政府と農村社会構造の変革を目指すウッタランを援助するという、いささか皮肉な構図になっているのだ。こう考えると、比較的小規模の局地的NGOとされるウッタランも、実はグローバルな空間スケールですでに影響力を持っていることが分かる。 |
REFLECTとは
村会議員と会談して遅い昼食をとった後我々は、車で1時間程かけて、県庁所在地のシャトキラからさらに先にある、REFLECTの実施されている村を訪問した。
REFLECT(成年教育)は、村で教育を受ける機会のなかった人々に教育を行うシステムである。このREFLECTの思想的背景は2つあり、一つはPRAというイギリスの農村開発学者ロバートチェンバースにより提唱された参加型農村評価であり、一方的な指導を村人達にするのではなく村人達が積極的に参加しながら学習していくというプロセスである。もう一つはブラジルの教育学者フレイリーによって提唱された貧民に啓蒙活動を行う教育思想である。このイギリス的な概念の実践と普及のため、現在はバングラデシュ・エルサルバトル・ウガンダの3カ国がモデルとなっている。バングラデシュでは、現在50の組織が採用している。BRACやPROSHIKAなどのNGOはこのシステムを採用しておらず、草の根レベルからの改革を目指すウッタランはこのシステムを実施している。
REFLECTの様子
この村は少し薄暗く、また川に近いためなのか蚊が多く、マラリアにならないかと皆心配した。この村では、REFLECTの集会が、屋根つきの集会場で行われていた。対象は18歳から45歳の女性で、男性はもともと知識を持っているのでREFLECTには参加していない。@読み書き・計算、A家族問題・社会問題への取り組み、を実施している。読み書きではノートでアルファベットの練習やベンガル語の練習を行っていた。計算では掛け算などを練習しており、小学校低学年レベルの教育がされているようだ。
このREFLECTでの目ざましい特徴は、社会地図Social Mapという村の地理と地域社会が書かれている図を用いて、この地域にどんな問題が起きているかを自ら見出し、問題点・解決策を自分たちで主体的に考えていこうというものである。例えばマップに井戸の場所を書き込み、井戸の不足を理解させ、井戸増設を所属する自治体に働きかける。また、子供を学校に行かせていない家が地図に書かれ、明日の朝子供を学校に行かせるプランを立てたりしている。実際に見せてもらい、様々な問題について絵を用いていることが分かった。
実際にREFLECTの参加者に尋ねたところ、「夫も月に2回参加し、家族問題について夫と話す機会ができた。」「子供が学校へ行くようになった。」「収入が増加した。」などと、みな肯定的な意見であった。ウッタランは問題を衛生問題解決のような比較的短期で解決できそうな問題から村の階層関係などの長期的な問題に場合分けして徐々に解決していこうとしている。着実に成果はあがっているようだ。REFLECTの進展に期待しつつ、名残を惜しむ村の人々に挨拶をし、我々は村を去った。
REFLECTについての質疑
その後このREFLECTの推進スタッフである大柄なセリムさんから近くの現地オフィスでお話を聞いた。辺りはすっかり暗くなったが、この家は停電のためにろうそくの灯りを頼りに話を聞いた。ウッタランのREFLECTは1998年の5月から始まり、現在は60の成功例がある。活動を始めるにあたって、ウッタランがいきなり村に入っていくことは不可能であるので、村人を徐々に巻き込んでREFLECTサークルを作っていった。REFLECTは24ヶ月実施しており、最初の3ヶ月で地域の問題を調査し、次の9ヶ月が基本的な実施期間であり、最後の12ヶ月で復習をする。図表は一枚につき平均15日使用し、それを終了したら次の図表に移る。文盲のためにキーワードを何度も繰り返して丁寧に教えるらしい。
またSSC試験をパスした高卒程度の学歴があり、地域の背景的な知識のある者を、REFLECTを指導するファシリティーターとして公募する。また、このシステム実施においてTAP(Teach Assistant Provider)という6人のスタッフがおり、NGOが実施できているかをチェックして、サポートしているそうだ。
24ヶ月の期間を終了することによって、REFLECTのメンバーが自主的に組織を作り、問題解決に向けて行動していき、このようなシステムがあらゆる地方に広がっていくのが目標だそうだ。
● BRAC・PROSHIKA・グラミン銀行・・・市場経済こそが「人々が平等にドル紙幣を使って投票できる」デモクラシーであり、それによって貧困層に機会を与えて有能な人がまっとうにその能力を発揮できるようにし、それを通じて政治の腐敗を改善していこうとしていると考える。 VS ● ウッタラン・・・市場経済こそが貧困拡大につながっている。ボトムアップ的な貧困者のエンパワーメントにより、貧困者が自立して真のデモクラシーの政治主体として自己を確立していくことをめざす。 |
上のような両者の理念における考え方の違いがある。この考えを援助・村落社会における開発にまで突き進めても、明白な違いが現れる。BRACやPROSHIKAは貧困層にマイクロクレジットの融資をするが、これは貧困層に対する単なる施しではなく、貧困層もゆくゆくは自立できるように自己責任を持って、最低限のルールを守ることを義務づけている。つまり、市場という機会を与え、それを経済主体として貧困者自身が行使するべきだと考えている。単にお恵みだけの援助は貧困者の経済主体としてのインセンティブを低下させ、かえって悪影響があるととらえているのだ。だから、REFLECTを、「@富を生まず、市場経済発展につながらないため無意味 Aお恵み的な援助要求が生じ、貧困者の甘えにつながる」ととらえて、REFLECTを実施しないのであろう。
それに対してウッタランは、貧困層が今すぐ急いで市場主体として自立していくことに懐疑的だ。むしろ、貧困層の社会・経済状況を改善し、民主主義を担う社会主体として自立してゆくことを重視する。そのためには、いま多くの援助やサポートがなされなければならず、援助は単なるお恵みではない、とウッタランは考えてる。援助によってこそ、貧困者が知識を増やし、技術を身に付けることができる。援助は、貧困者が社会主体として自立することに役立っているのである。その点、REFLECTは富を生まなくても、貧困者の自立に有効な活動であるとして、実施しているのだ。
REFLECT活動を重視する姿勢から、ウッタランのNGOとしての明確な姿勢が見えてくる。
REFLECTの話を聞いた後の帰途の道はもはや暗くて何も見えなかった。明日には一週間お世話になったバングラデシュとももう別れてしまうのに、しっかりとバングラデシュの風景を目に焼き付けることができないかと思うと残念だった。メンバーだけでなく、先生までもが気を紛らわそうと歌を歌ったり、笑いあったりしていた。セリムさんが最後にご馳走してくれたアイスクリームはほろ苦かった。明日は早いので今日の夜のゼミは早めに終わった。3日間泊まったゲストハウスともお別れである。今までの日々を回想しながら、明日からの日々に思いを馳せつつ床についた。
ベンガル地方の植民地化の歴史と開発思想
今日は再びギラギラとした日光が照り付ける気候である。今日は、忙しい日程を縫って、朝8時の食事に、代表のイスラムさんがゲストハウスを訪れて我々と会談して下さった。
イスラムさんはインド国境に近いラシャヒー大学で歴史の勉強をし、ヨーロッパの発展に興味を持った。1984年に帰国し、妹さんが貧民のための学校を始めたことをきっかけにウッタランを創設された。
バングラデシュ南西部のタラやジェソールは、今日でこそ別の国になったが、イギリス植民地時代には英領インドの首都であるカルカッタのヒンターランドに属していた。このためにウッタランのある地域も、イギリスの影響を多く受けていた。植民地時代、4億人のインド人を3万3千人のイギリスが支配した。また、「インド高等文官試験(Indian
Civil
Service)」というインド統治のための特別公務員試験があり、それに合格した者は、植民地官僚としてインドに派遣された。
だが、インドにおける有力層もまた、このシステムの中で優遇される仕組みになっていた。例えば、インド高等文官試験はインド人も受験でき、子弟に英国風の教育を受けさせる家庭の出身のインド人が合格できるようになっていったのである。このためにバングラデシュを含む英領インドで、英国に取り込まれてゆく有力者と、そこから取り残される貧困層との格差は拡大していった。バングラデシュの貧困層が多いのはイギリス植民地時代においてイギリスが上流階級にだけ教育を与えたことによる、とイスラムさんははっきりおっしゃっていた。
1835年からイギリスは植民地教育を導入し、ヒンズー教徒を優遇し、イギリス支配層がヒンズー教徒を教育→ヒンズー教徒がそれ以外のイスラム教徒などを教育→イスラム教徒がそれより下層民を……というように上から下への教育を行う、という「下方濾過システム」を導入した。すべての人々に費用をかけて平等な教育を施すのではなく、一部の人々のみを親英エリートに仕立て上げて植民地支配を担わせ、残りの人々を事実上植民地の公教育体制から排除して「愚民」のままにとどめておくこのシステムは、結局、独立後も旧英領植民地諸国に垂直的な社会関係を遺し、大多数の人々の識字率を今でも低いままにとどめている。
イスラム氏の祖父はザミンダールの徴税請負人で、子供達を奨学金でイギリスなど外国に留学させた。イスラムさんの家系はその名の通りイスラム教であるが、イスラムさんの祖父は、優遇されているヒンズー教徒の教育システムを取り入れた。そのために、依然としてイスラムさんもイギリス植民地主義的な発想に取り込まれており、現在でも、イギリス思想に親近感をいだいているようだ。しかし、このような植民地教育システムの負の部分の是正が不可欠だと述べていた。
今までのイスラムさんの話を考察するとこのようにまとまる。現在でもイギリス人の中には、インドを植民地としたことに「積極的意義」を認め、イギリスのおかげでインド社会は近代化し、インド経済は発展したのだととらえている人々がいる。その意識は、日本が、朝鮮半島に対する過去の植民地支配の償いを、戦後一生懸命にやろうとしてきたのとは、きわめて対照的だ。その背景には、上層レベルの豊かな層は、貧しい下層レベルの層に何かしらの慈善を施さねばならないという、イギリスのノブレス・オブリッジ(noblesse oblige)と呼ばれる意識があるのだ。イスラムさんも、このような意識を根底にして自らの出自であるザミンダールの請負人という上のレベルから下のレベルの貧困な人々を助けるためにウッタランを創設したのならば、イスラムさんも知らず知らずのうちに、ヨーロッパの思想に取り込まれていることが分かる。この思想は、翌日われわれが会うことになるカルカッタの建築家チャクラボティさんの中にも、形を変えてはっきり認められた。イギリス植民地主義の思想は、独立して半世紀以上が経過した今も、インド人やバングラデシュ人の心のなかに、血となり肉となって統合されてしまっているのだろうか。
先進国の援助について
イスラムさんは続けた。現在のバングラデシュはODAなどの年間2億ドルの援助があり、1.7億ドルが政府へ流れてしまう。日本のODAは8万1千ドルと多額だが、NGOに向かっていないのが問題である。そのために貧困層は80%いても、NGOがサポートできるのは3割ほどでしかない。しかもBRACやグラミン銀行などの12の大規模な組織が援助金の90%を手にしていて、NGOの寡占化もみられる。ウッタランは、日本のライオンズクラブの資金提供を受けているが、日本政府からの援助はなく、現在資金不足に悩んでいる。このような援助における不平等システムこそが問題であるとイスラムさんは語っていた。
ウッタランのイデオロギー
また、ウッタランはBRACのような市場主義にのっとるNGOとは性質が異なる、とイスラムさんは再三強調していた。BRACは銀行業に特化しすぎており、ウッタランの活動精神とは相容れない。ウッタランはあくまで経済よりも社会変革を目的としており、それによって民主化がなされていくととらえる。新国際分業の流れにのってグローバリゼーションに関わっていくのでは、欧米に追随していくことになる。これでは真の意味での貧困者の自立やエンパワーメントが達成できないということだ。日本もその意味で、腐敗した政府へに対する上からのODA投与ではなく、このような草の根からの社会改革をサポ−トしてほしい、と切々と訴えた。
資金面などで制約はあるにせよイスラムさんの、ウッタランの社会改革へのモティベーションは高い。数年後ウッタランがどのように発展しているかを見てみたい。我々はウッタランの今後に期待しつつ、イスラムさんをはじめとするウッタランスタッフに手を振られながら、ゲストハウスを去った。
がんばれ、ウッタラン!