朝食を済まし、全員が荷物をまとめて7時20分にホテルのフロント前に集合した。そこでチェックアウトをすませた。長く滞在したホテル・モネロンともこれでお別れかと思うと感慨深い。
7時26分に、予定通り迎えの車が到着した。車と運転手は、8月28日に女麗/プリゴロドノイエへいった時と同じである。この大泊/コルサコフ送りの車は、過去に2回、大遅刻をして客にタクシー利用を強いたことがある。この車が遅れると、午前8時半までに着かなくてはならない稚内ゆきフェリーに乗りそこなうリスクが生じる。きちんと時間通り来るかどうか心配だったが、「三度目の正直」であった。
ここで、ガイドの成様とお別れである。成様には、私たちが樺太/サハリンに到着してから、ほとんどすべての行動を共にし、大変お世話になった。日本語、朝鮮語、ロシア語の三ヶ国語を自由に操り、知識も豊富、そして人脈も幅広いというスーパーガイドの成様なくして、私たちの巡検の成功はなかったであろう。この場を借りて深く感謝したい。
みなが乗り込むと、車は一路大泊/コルサコフへ向かった。駅前の巨大なレーニン像も、これで見納めである。レーニン通りを郊外へ。雨が降っており、暗く、何度も見た豊原/ユジノサハリンスクとの別れに寂しさが募る。
すでに何度も通った豊原/ユジノサハリンスクと大泊/コルサコフを結ぶ道路を走っている間、水岡先生から帰国に関してのさまざまな注意を受けた。私たちはその注意を心に留め、無事に帰ることができるように細心の注意を払うよう気を引き締めた。
8時15分に大泊/コルサコフに到着し、25分ごろ、ターミナルで水岡先生と別れた。
先生は8日まで滞在し、翌日には、樺太/サハリンの名山、鈴谷岳/チェーホフ峰(1045m)に登られた。翌日の6日は大快晴で、後日、山頂からはるか彼方の西能登呂/クリリオン岬方面を遠望した写真を拝見させていただいた。
入国したときと同じ場所で、出国の手続きを行った。まず私たちは出国税500ルーブルを払った。日本円にしておよそ2000円である。決して安くはない。そのうえ、日本円や、米ドルは受け付けてもらえない。クレジットカードももちろん不可。ルーブルの現金でなくてはならないのだ。
ここで、二人組の日本人ビジネスマンに出会った。そのうちの一人は、出国税500ルーブルが手元になく、往生していた。そこで、ルーブルを余分に持っていたゼミ生が日本円と両替してあげた。そのビジネスマンは、普段は飛行機を利用しているので、出国税があることを知らなかったそうだ。飛行機を利用するときは、出国税は航空券の料金に含まれているのであろう。それにしても、このビジネスマンは、もし私たちがいなかったらどうするつもりだったのだろうか。出国時の万一の備えに、多少の現地通貨を使い残して財布に入れておくというくらい、海外でビジネスをする際のリスク管理の基本であろう。将来就職した際の他山の石として、勉強になった。
出国税を払い、その後出国審査および手荷物審査を受ける。特に厳しいわけではなく、いたって普通な審査であった。私はもっと手間がかかると思っていたので、いささか拍子ぬけしてしまった。水岡先生によれば、出国審査はどこの国でも大きな差はなく、入国審査に比べればゆるいのだそうだ。
ここで青いカードを渡された。これは、正規に出国審査を済ませたという証明である。密出国を防止するためのものだ。
審査が無事終わると、荷物をトラックに積み込んで、私たちは、すっかりおなじみとなってしまった宗谷バスの中古に乗り込んだ。なお、積み込んだ荷物はトラックに乗せられたままフェリーに乗せられ、日本へと運ばれるのである。
バスを降り、青いカードを渡して、9時ごろ車両甲板から船に乗り込んだ。船のスタッフは日本人なので、まだロシアの実効支配領域ではあったが、日本に帰ってきたような気がして。ほっとした。
9時50分に船が出発した。離れていく樺太/サハリン島を感慨深く眺めていたが、悪天候のため、情緒が深まる間もなく、すぐにかすんで見えなくなってしまった。
霧がかかっているため視界が悪く、宗谷/ラペルーズ海峡を監視しているロシア軍の白いレーダードームが望めるはずの西能登呂/クリリオン岬も、今日はまったく見えない。近くを通ったはずの二丈岩/カーメン・オパスノスチも見えなかった。
写真は、別の日に撮影したロシア軍のレーダードーム
宗谷/ラペルーズ海峡に出ると、海が荒れているために、結構揺れが出てきて、乗り心地もあまりよくない。
船内では、日本のカップラーメンが売られており、客室には熱湯の出るポットが置いてある。多くのゼミ生が日本の食事恋しさにそれを食した。カップラーメンとはいえ、久しぶりの日本の味に感動した。船内で弁当が出ることになっていたが、お構いなしである。
その後、弁当が出た。箱を開けると、食物はすべて密封されていた。。これには理由がある。この弁当は、大泊/コルサコフで積み込まれたロシア製ではなく、前日に製造された日本製なのだ。稚内で積み込まれ、大泊/コルサコフまで長い航海を経て、一夜船内で保存され、帰路に私たちの口に運ばれるのである。それゆえ、長く保存できるように密封加工が施されている。
弁当にはサンドイッチ、ウインナー、つくねなどのちょっとしたおかずが入っていたが味気なく、また量も物足りなかった。しかも、メニューは毎便かわりばえがないようである。この船にたびたび乗る常連客は、うんざりしているのではないか。無償で配る弁当なのだからどんなものでもいいだろう、という船会社の投げやりな姿勢がどことなく感じられた。運賃が高い国際航路なのだから、もう少し気のきいた食事を乗客に提供してほしいものだ。
日本到着の一時間ほど前あたりから、海は荒れたままであったが、外が急に明るくなってきた。天候が回復してきたのである。青空が心地よい。それゆえ、入港の前から北海道の突端を望むことができた。徐々に近づく稚内を臨みながら、下船の準備も進める。
まもなく、稚内港に到着した。慎重を期して、ゼミ生はまとまってではなく、ばらばらに入国審査場にむかった。
ここでの入国審査は少しばかり手間取った。パスポートの審査はすぐ終わったものの、手荷物検査で、一部のゼミ生は、カバンを開けるよう言われ、荷物の中身を確認させられたのである。私は幸運にもすぐパスできたが、それに引っかかったゼミ生は、荷物の中身をわざわざカバンから出さねばならず、大変そうであった。どういう理由でそのゼミ生が選ばれたのかはわからない。何人かに一人の割合で、抜き打ちにしっかり調べるのかもしれない。ロシアからのモノの流れをいぜん警戒している日本国税関の姿勢がうかがえる。
入国審査が終了し、日本に正式に降り立ったら、山品様が出迎えに来てくださっていた。実は、船の中で波間様から電話をいただき、稚内についた後のことについて手助けをしてくださるとのことだったのである。そしてそのために派遣されたのが、山品様であった。一部のゼミ生は、山品様の車で、稚内空港やその日の宿へ送っていただいた。稚内に宿泊する予定であったゼミ生は、山品様に稚内公園へ連れて行ってもらった。天候が回復したために、そこから樺太/サハリン島を望むことができた。
私自身も、解散後宗谷岬から樺太/サハリン島を望むことができた。写真はそのときのものである。空と海の狭間に、うっすらとではあるが樺太/サハリン島が見える。
波間様や山品様を始め、稚内でも多くの方々に援助していただき、私たちの巡検を実り多いものにしていただいた。この場を借りて深く御礼申し上げたい。
稚内に到着と同時に、2週間以上に及んだ私たちの今回の巡検は終わりを告げた。その後、飛行機で東京に帰る者、稚内に一泊していく者、列車やバスで帰る者、北海道を旅行していく者など、ゼミ生それぞれが、各自の予定にしたがって行動を開始した。
(井野 俊介)