社会主義時代の石鹸で朝のシャワー

9:00にホテルのフロント前に集合ということになっていたので、それまでに各々が朝食をとったり荷物の準備をしたりと時間を有効に使った。

朝食は着席式で、中身はお決まりのものであった。コーヒーは、おいしくはなかった。

朝シャワーを浴びた。湯は白っぽく、鉄のにおいがした。水道管がさび付いてしまっているのだろう。

置いてある石鹸も質があまりよろしくない。社会主義時代の設備をそのまま使って生産しているセルビア製なのだろう。社会主義時代の流通径路は市場経済に移行してもかなりの程度に存するので、質が良くない日用品は、市場からなかなか駆逐されない。地元で償却済み設備を使って生産していれば、生産・輸送コストが安くてすむので、それなりに価格面で競争力はあるだろう。私たちが泊まったような安いホテルで、低価格の石鹸を仕入れることは重要だ。そのため、このように今でも質の悪い石鹸が使われているのだ。

ホテルのフロント前に集合した。そしてデジカメに使うフロッピーをもとめて少し街へ出た。私たちのゼミのデジカメは記憶媒体にフロッピーを使うのである。パソコンショップを三軒回ったが、手に入れることはできなかった。

 5分ほどでホテルに戻ってきた。約束ではそろそろガイドが来る予定であったが、なかなかこない。30分位してホテルに電話が来た。ガイドは大学院を出たエリートが来る予定だったのだが、「ギリシャに客を連れて行ったところ帰れなくなって」来られなくなってしまったそうだ。旅行社は代わりのガイドを手配してくれたのだが、私たちは結構長く待たされることになった。

 10:30ごろ、ガイドさんがようやく来た。かなり年配の女性であった。休日だったところに急遽仕事が入ってしまったからであろうか、かなり不機嫌で、会うやいきなり「私にガイドしてほしいのですか?いらないなら帰りますよ!」という調子であった。

このガイドさんは、最初来る予定であったガイドはもっとお金になる客をガイドする仕事が舞い込んできたので私たちのほうはキャンセルしたのだ、と言って怒っていた。

何がともあれガイドさんが来たので、私たちはようやく出発することになった。ホテルに荷物を置かせてもらい、徒歩で市内の視察をはじめた。

セルビアの拠点、ベオグラード(Belglade,Беоглад)

ドナウ(Dunav)川とサバ(Sava)川の合流点という交通の要衝にある、人口約158万人の都市である。

市街地はドナウ川の南側にひろがっている。サバ川の東側に位置するのが旧市街地であり、その西側に位置するのが新市街地である。ハプスブルク帝国が進出してきたとき、サバ川の西側である現在の新市街地はハプスブルク帝国領(二重帝国になったあとはハンガリー領)のもとにおかれ、現在の旧市街地のある東側はオスマントルコ領であった。サバ川が、ハプスブルクとオスマントルコという、かつてバルカンを支配した2大帝国の国境線であったのだ。現在のベオグラードは、その旧国境をまたいで両方に広がっている。

オスマントルコの支配下となったのは、1389年のコソボの戦い以降のことである。トルコの支配力が低下してくると、1817年にセルビアは自治権を獲得し、その後1878年に完全に独立を果たす。独立すると、セルビアは次第に大セルビア主義の立場をとるようになり、ハプスブルク帝国やオスマントルコ帝国と対抗しつつ、バルカンのスラブ人居住地域を自己の覇権下におくため、ミニ帝国として行動しはじめた。それ以降ベオグラードは、大セルビア主義の中心という面も持ちはじめる。この意図は成功し、第一次大戦後にベオグラードはユーゴスラビア王国の、そして第二次大戦後には、社会主義国ユーゴスラビア連邦の首都となった。

ユーゴスラビア崩壊後、支配する領域は大幅に狭まり、新ユーゴスラビア連邦、そして現在はセルビア=モンテネグロの首都となっている。

ベオグラードは、約2300年の歴史の間に40回破壊され、そのたびに再建されてきた。20世紀には四回もの激しい攻撃にも見舞われた。一回目は1915年、オーストリアによって、二回目は1941年のナチスドイツによって、三回目は1944年のアメリカによって、そして最後に、これは記憶に新しい、1999年のNATOによる攻撃である。

トルコとセルビアが作った街

私たちはまず旧市街地を見て周り、その後新市街地を見て回る予定である。まず旧市街地全体の都市構造を述べておこう。

旧市街地は、さらに新旧2つの部分に大きく分かれている。核心にあるのは、サバ川とドナウ川の合流点という戦略拠点に面したオスマントルコのカレメグダン城砦跡と、それに接した市街地である。ここは、中世都市の特徴を示し、道は狭く不規則で、石畳になっている。

その東から東南には、セルビアが独立してから建設された、比較的広く規則的でアスファルト舗装の街路網を持つ市街地の地区が広がっている。ここでは、聖サバ寺院(Hram Svetog Save)というセルビア正教の大寺院が中心にある。これは、セルビアの独立後、セルビアの精神的象徴として、19世紀末に建設工事が始まった。そこから北西方向に、メインストリートであるクラリミラン通りが通っている。昨晩バールからの列車が到着した鉄道駅は、寺院の西側に位置する。

統一性のない建築様式

まず私たちはホテルから、クラリミラン通りに出た。まず目にしたのはホテルモスクワである。二十世紀初頭にロシアの投資で作られたホテルだそうだ。当時からロシアとの結びつきが強かったことをうかがい知ることができる。建物自体は19世紀半ばに立てられた折衷様式で、概観も塗りなおされていてきれいである。

 クラリミランはかなり広い通りである。土曜日の午前中は歩行者天国になるそうで、この日は車がまったく通っておらず、人がその広い通りを好き勝手に歩いていた。私たちも、広い道路を車の心配をすることなくど真ん中を歩くことができた。

この辺りの建物は大変シンプルにできていたので、私には社会主義時代の建物であるように思われた。だが実際これらは第二次世界大戦前に建てられた建物だという。1930年代にドイツで、合理主義・機能主義的な建物を作るというバウハウス運動というものが起こっていた。このようなシンプルな建物が建てられているのはその影響であろう。バウハウス運動はその後、社会主義時代の機能主義的な建築様式に影響を与えていく。

全体的に建物が古いように見える。建物の築年数はトリエステやザグレブなどの旧ハプスブルクの都市と変わらないかむしろ新しいはずであるのに、古く見えてしまうのは安普請だからだろうか。全体的に傷みも激しい。また、それらの都市に比べると見た目もかなり異なる。

トリエステやザグレブといったハプスブルク帝国の都市は、帝国時代の都市計画によって作られた街並みが残っている。ハプスブルクの文化が都市の建造環境に現れており、その特徴を随所に見ることができる。そのため、視覚的にも統一感のある整然とした都市であった。

 一方でベオグラードを見てみよう。現在のこの町並みは主にセルビア人によって作られたのだが、セルビアにはハプスブルク帝国のような過去より脈々とつながる文化というものが存在しない。そのため都市内部の建物は、様々な建築様式を真似して建てられているために、建造環境に統一感というものが感じられない。そのため、ザグレブやトリエステなどハプスブルク帝国が作った都市と比べると雑然とした感じを受けてしまう。雑然さという面では東京の街並みに似ている。東京も、現在の建物は日本文化の延長線上ではなく、海外から取り入れた様式がほとんどである。そのため文化的な統一性がなく、ベオグラード同様の雑然とした感じを受けてしまうのだ。

現在のベオグラードには、社会主義時代に建てられた建物も多いが、建築物にはスターリン主義的な影響があまりないようだ。その点でポーランドなどの、旧ソ連圏の国とは建物の様式が違う、と水岡先生はおっしゃった。

 メインストリートの南側を見ると、世界最大級の大きさであるという聖サバ寺院が望めた。本当に大きい。地図で見ると1km以上離れているようだが、よく見えた。ガイドさんさんによるとその教会は12世紀に建てられて、いまだに建築工事中であるとのことである。また、ヒトラーの時代と社会主義時代には活動が中断されていた。

ベオグラードの歴史的な核へ

広いクラリミラン通りから少し歩くと、オスマントルコ時代に街路網ができた不規則な街並みになる。ここが、ベオグラードの歴史的な核だ。その中央を貫く、いまは歩行者専用のショッピングモールになっているクネズミハイロフ通りに入った。ベオグラードの一番の中心だけあって、ところどころに街路樹があり、景観面で配慮されていることが伺えた。

 歩行者専用の通りに入ってすぐに、建物の上に「jugoslvija publik」という看板を見つけた。明らかに旧ユーゴ時代のものである。その建物はあまり手入れもされている感じを受けなかった。金がないから看板を取り外せないのだろうか。あるいは、この国がもはやユーゴスラビアではなくなったことを認めたくないのだろうか。どちらにせよ、思わぬ形で旧ユーゴスラビア時代の名残を見ることができた。この看板だけでなく、街の表示には、キリル文字だけでなく、ローマ字が意外と広く用いられている。

さらに進むと、ロシア料理のレストランだったところへ来た。ここには、ロシア革命後逃れてきた150人ほどの白系ロシア人(共産党と対立し帝政ロシアを支持していたロシア人)がいたところだそうだ。中にはツァーリの絵も飾られていたという。そこで高級な伝統料理を出していたようだが、今はやっていない。1945年にソ連の赤軍がベオグラードに進出してきた時、そのロシア人たちはフランスへさらに亡命したそうだ。

1933年に建てられ、その後フランス文化センターが入った建物を見た。ベオグラードは第二次大戦前からユーゴスラビアの中心であったため、ロシアやイタリアなどが文化センターを置いていた。社会主義国になってから、さらにベオグラードに文化センターを持つ国が増えてくる。 1950年にはドイツ、フランス、アメリカ、イギリスが文化センターを設置した。社会主義時代は、これらの文化センターが、西側への窓口になっていたのだ。

 すぐに、以前アメリカの文化センターがあった建物に来た。第二次世界大戦前は大金持ちの家だったそうだが、戦後そこにアメリカが文化センターを作ったそうだ。しかし、そのアメリカは、ユーゴが解体し、社会主義経済が崩壊したあと、10年ほど前にカルチャーセンターを閉じてしまった。市場経済の小さなセルビアになれば、文化センターを置く戦略的価値は乏しい。コストと利益を天秤にかければ、もはや文化センター設置は引き合わないということだろう。アメリカの世界戦略のドライさが、透けてみえる。現在では、スペインの文化センターになっている。

交換できないクロアチアの通貨

銀行があり、ここでセルビアディナールを得ることができた。昨日ベオグラードに到着してから交換する機会に恵まれなかったため、ようやく交換できるという気持ちであった。

ここでひとつ興味深いことがわかった。クロアチアの通貨であるクナが、ここベオグラードでは交換できないのだ。クナは、取引そのものを拒否された。ユーロやドルはもちろん、近隣諸国の通貨も取引可能で、ボスニアの通貨であるマルクですら取引することが可能であった。にもかかわらず、隣国であり、旧ユーゴスラビア構成国であり、ほとんど同じ言語を使うクロアチアの通貨が取引できない。セルビア人がクロアチアのことをどのように思っているかということが、ひしひしと伝わってくる。本当に嫌いらしい。クロアチアとは凄惨な殺し合いをしているので、当然といえば当然かもしれない。また、同属嫌悪ということもあるのかもしれない。しかし、これは正直なところ不便である。このことから考えると、セルビアとクロアチアで交流することなど、ほとんどないのかもしれない。

途中にちょっとした広場があり、泉がわいていた。ためしに飲んでみたが結構おいしかった。後でガイドさんが言っていたが、セルビアは水も輸出しているらしい。なるほど、と納得した。

新古典主義的な建物があった。1階は商店になっているが、これはセルビア科学アカデミーの建物で、1886年にセルビア王立アカデミーとして作られた由緒ある施設である。その学問的権威を、ハプスブルク帝国の建築様式で表現したのだろう。クロアチアの首都ザグレブで多数見られたハプスブルクの勢力圏にあった建物とそっくりなのは、セルビア人が「西欧」に対して一種の憧れのような気持ちを抱いていることを示している。そしてクロアチアは、その「西欧」、つまりハプスブルク帝国の一部だったのだ。大セルビア主義を鼓吹しながら、その敵であるはずのハプスブルクの建築様式に権威を求めざるを得なかったセルビア人。その微妙に屈折した感情が、この建物から伝わってくるようだ。

 途中の売店でジュース等を買う。先ほど手に入れたセルビアディナールを早速使った。どこに行っても並んでいる商品は大差がない。特に飲み物(清涼飲料水)に関しては顕著であり、コーラ、ファンタ、スプライト等々がどこでも手に入る。もちろん味もほとんど、というよりもまったく変わらない。一口飲むと、たちまち、プレースレスなグローバルの世界に引き戻された。スプライトは日本ではあまり見かけなくなってきたが、ヨーロッパでは今でもコーラと並ぶ主要な清涼飲料水であるようだ。どこでも手に入るとはいえ、これを生産している国はセルビアである。

トルコ時代の石畳での興味

歩いてきたショッピングモールを左折して、メインストリートと垂直に交わる通りに入った。通りは、オスマントルコ特有の石畳になった。

少し行くと左手側にセルビア中央銀行の建物があった。19世紀に建てられた折衷様式で、なかなか立派な建物である。外にはセルビアの国旗が掲げられていた。注意したいのは、この旗は赤・青・白の順で横縞三色のうえに国章をつけたセルビア共和国の国旗であり、旧ユーゴの国旗から社会主義の星を外しただけのセルビア・モンテネグロの国旗ではない、ということである。なお、このサイトではセルビアとモンテネグロの国旗を別々に扱っている。左のフレームの上にあるのはセルビアの国旗である。

 モンテネグロでは流通通貨はユーロであり、セルビアディナールは使われていない。そのため、この中央銀行の力が及ぶのはセルビア内だけである。だからセルビアの旗が掲げられていたのであろう。すでに「別居結婚」状態の国内2つの地域の関係を象徴するようであった。

少し進むと右手側に学校が見えてきた。1907年に建てられたそうで、セルビア初の女性建築家によって立てられたものだそうだ。

 さらに行くと、右手に大きなセルビア正教の教会が見えてきた。このセルビア正教の大きな教会は、時計つきの塔が大変立派であったが、残念ながら観光客には開放していないようで中を見ることはできなかった。

 その建物のすぐ横に、そこの大司教が住んでいる建物があった。この建物は19世紀のユーゴスラビア王国の皇太子の妻と子供の住居だったそうだ。ただし、皇太子自身は恋多き人で、愛人と住んでいたのでここには住んでいなかったのだという。

その反対側にはトルコ風の建物があった。レストランを営んでいるようだ。トルコ風の石畳の通りとあいまって、ここまで来ると、ベオグラードをトルコが支配していたことを実感させられる。

 このレストランの名前を「?」と言う。最初セルビア正教の教会に因んだ名前だったのだが、この教会からクレームが来てしまい、どうしたらよいか分からなくなった。そこで「?」という名前がついたそうだ。

 この通りの終わりに、興味深い看板が建物にかけられていた。この通りの名前の変遷を示すものであった。

現在は上から二番目の名前であるクラリェ・ペトル(kuralje petru)に戻っている。ガイドさんが言うには、ベオグラードの通りの名前はA→B→Aという変化が徐々に起こっているということである。社会主義時代にAからBに名前を変え、最近またAに戻すということである。そのような変遷を知ることができる看板を見られて幸運であった。ちなみに社会主義時代の通りの名前である7月7日というのは、ドイツに対して反乱を行った記念日なのだそうだ。いかにも社会主義国らしい通りの名前である。

 通りを右折して北側へ。ここも石畳であった。左側に車がたくさん路上駐車されており、さらにその奥にはサバ川が見える。その路上駐車されている車の中に、ユーロのマークがついている車があった。復興なり援助なり何らかの活動をしているのだろう。

大きな通りに出ると、路面電車が走っていた。この路面電車に乗ればベオグラード駅までいけるようだ。そしてその奥には公園がある。ヨーロッパの主要都市には路面電車が走っていることが多い。私が今回の巡検で赴いた都市ではウィーン、ザグレブ、ベオグラード、ソフィア、イスタンブールといった都市で路面電車が走っていた。バスと違って、線路があるため、どこに連れて行かれるかわからない不安もないし、排気ガスを街中に撒き散らさない。路面電車に、都市交通手段として優れた点は多い。 大きな通りに出ようとしていたちょうどその時、右手側にオーストリア大使館を見つけた。新古典主義に近い折衷様式の建物であろうか、いかにもハプスブルクを思わせる建物である。外にはユーロの旗と、ハプスブルク帝国以来続く白地の上下に赤の帯をつけたオーストリアの国旗が掲げられていた。

そのオーストリアの国旗の真ん中には、オーストリアの国章が描かれている。現在の国章はハプスブルク帝国解体後、1918年に共和制となった時に作られた国章をルーツに持つ。鷲は、胸にオーストリア国旗をあらわす、赤−白−赤で色付けされた盾を胸にぶら下げており、左右の足にそれぞれ鎌とハンマーを握っている。鎌は農民、ハンマーが労働者を表している。これらは1918年時から変わっていない。また、鷲の左右の足元には、乱暴そうにちぎられた鎖がぶら下がっている。これは1945年の第二次大戦後、第二共和制に移行したときに付け加えられたものだ。ちぎられた鎖はオーストリアの自由化を表している。まるで社会主義国のようなそのモチーフは、ロシア革命の影響を受けている。おおもとの旧ソ連では、すでに鎌とハンマーの国章が廃止され、かつてハプスブルク帝国の影響を受けて制定された双頭の鷲の旧ロシア帝国国章に戻された。オーストリアとロシアが、あたかも国章を交換したようなかたちになっているわけで、大変興味深い。

トルコ時代の砦跡のある公園で聞く、セルビアへの熱愛

十二時ごろ、カレメグダン(Kalemegdan)城砦の公園に到着した。トルコ時代に建てられた要塞のあとが残り、中には軍事博物館や教会などがあって、市民の憩いの場としても役立っている。

公園に入ると、街中のように説明することがなくなり、緑の木々に囲まれて気持ちが落ち着いたのか、段々私たちに馴染んできたのか、ガイドさんがさまざまな話を始めた。

私たちが、ベオグラードのあとコソボも訪問する予定だと言うと、コソボについて口を開いた。

ガイドさんの話 その一

「セルビアにとって、コソボは重要な一部分です。コソボには金や鉄が埋蔵されていて、切り離すことのできない部分なのです。でも、現在ではアメリカにとられてしまってい、ます。あそこに住んでいるアルバニア人は、人身売買や麻薬取引を行っています。セルビア人がまじめに働いて、あそこにインフラを整備し、一生懸命コソボをいい場所にしてきたのに、アルバニアの奴等はそこでそんな犯罪行為を行っている… 許せません!」

アルバニア人のことをかなり悪く言っている。少なくとも好意を持っていないことは確かだ。そして彼女にとっては、コソボはアメリカに不当に取られてしまっていて、アメリカの庇護の下で、アルバニア人が勝手なことをやっているということであろう。

話をしていると露店のおばさんに声をかけられた。ガイドさんと知り合いらしい。一般に、ガイドさんは大概顔が広く、一緒にいるといろんなところで声をかけられする。その顔の広さには、いつも驚かされた。

 ここではちょっとしたみやげ物を売っていた。チトー大統領の顔が印刷された紙幣や、ハイパーインフレで0の数がものすごい旧ユーゴスラビア時代の紙幣などを売っている。興味をもったゼミのメンバーは、購入していた。

 露店を離れると、またガイドさんの話が始まった。こんどは、セルビアの現在と、旧ユーゴスラビアの崩壊に関してである。

ガイドさんの話 その二

「クロアチアやスロベニアが独立したって、セルビアにはまったく関係ありません。セルビアにはたくさんの人口がいるし、資源も豊富ですから。食糧もほとんど自給できるのですよ。セルビアは隣国なしに、独自にやっていけるポテンシャルを十分に持っている。だから、関係ないですね!」

やせ我慢という言葉が似つかわしいかもしれない。旧ユーゴスラビア時代に比べると、現在は明らかにセルビアの地位は低下しているであろう。にもかかわらず、セルビアは単独でやっていけるのだという発言は、どこかで過去の栄光を懐かしみ、現在の衰退を嘆いている意識の裏返しではないだろうか。だが、それを外国人の前では決して認めたくない。そして、自分自身としても、セルビア人としての強いアイデンティティーをとりもどしたい。こういう意識の現われではないだろうか。

歩いていたら、サバ川に面したところへやってきた。そこからは、サバ川やその対岸の新市街地にある政府の建物がよく見えた。新市街地は旧市街地と違い、社会主義時代に整備された整然とした街並みで、幅広い道路が規則正しく設けられ、区画等もしっかり行われている。新市街地には、高層ビルも結構あるのが見て取れた。

 サバ川は、そこをはさんでハプスブルクとオスマントルコが対峙したところでもある。ここを境に二つの帝国がかつて長い間睨み合っていたと考えると、なかなか感慨深かった。

 手洗いに行ってから再び歩き始めた。さらにガイドさんの話が続く。モンテネグロの独立の可能性についてどう思うか、と尋ねたところ、

ガイドさんの話 その三

「自分には親戚の中にモンテネグロ人がいるから複雑なので、これに関しては答えられないですね。」

と言っていた。だが、本心では独立は認められないのであろう。ガイドさんにとってこれ以上のセルビアの衰退は避けたいところではないだろうか。モンテネグロが独立するとセルビアは完全な内陸国になってしまう。やはりセルビアは、海への出口が欲しいであろう。そうでなければベオグラード〜バール間を鉄道で結ぼうなんて考えなかったはずだ。モンテネグロ人は独立したがっている、だけど自分は反対である。だから答えられないということなのかもしれない。

 ガイドさんの熱のこもった話を聞いていると、トルコ時代に作られた要塞跡の内部に入った。すると今度は軍事博物館が見えてきた。中には入らなかったが、外にも重砲などが置いてあった。旧ユーゴスラビアの歴史が中心らしいのだが、コソボやNATOに関するものもあるそうだ。

さらに奥に進むと、教会が見えた。ちょうど結婚式をしていて、とても華やかな感じであった。それに出席するのだろうか、着飾った人々が回りにたくさんいた。私は、自分のみすぼらしい格好が場違いのように感じられて、少しだけ居心地が悪かった。

 教会をあとにして、一番北側、ドナウ川に面している城壁に着いた。崖のようになっており、落ちたら多分生きて日本の土は踏めなかっただろう。それくらい高い城壁であった。そこで大河ドナウの悠久の流れを感じることができた。合流点には大きな緑の島が横たわり、その遠くには、ハプスブルク時代のハプスブルク帝国側のフロンティアポストで、二重帝国となったあとハンガリー領となった街、ゼムン (Zemun)が見えた。遠かったので街の詳細を見て取ることはできなかったが、ハプスブルク風の整然とした町並みが残っていることであろう。島の右側に目をやると、こちらの岸に、大きな体育施設がある。そしてそこには巨大なコーヒー会社の宣伝看板が見えた。雄大なドナウ川の景観に、見苦しい視覚公害(visual pollution)である。

 再び公園内部を通っていくと、ローマ時代に造られた部分の残っている壁もあった。ベオグラードが交通の要衝としてローマ時代から続いているということが分かる。

第1次ユーゴスラビア時代の住宅地区

今度は食事を取るために、公園を出て、再びセルビア独立から第1次ユーゴスラビアの時代にかけて発展した市街地へと向かった。また、ガイドさんが話をはじめた。今度は、USスチールをめぐる問題である。

ガイドさんの話 その四

「USスチールはアメリカの鉄鋼会社です。それはセルビアの国営製鉄工場を買収したのですが、その工場は以前、西ドイツの鉄鋼メーカーから技術協力を得ていました。にもかかわらず、そのドイツの鉄鋼メーカーに何の断りもなく、勝手にアメリカの会社に売られてしまったのです。そのため、ドイツがアメリカを訴える裁判にまで発展してしまっています。」

私たちは、「USスチールセルビア」と書かれた貨車をポドゴリツァ駅で見たのを思い出した。社会主義時代に、技術革新を図るため、西ドイツの鉄鋼メーカーの技術協力でそれなりの生産技術水準に達していた国営工場が、市場経済導入後、アメリカの企業に買収されてしまった。西ドイツ政府は、国際協力の立場から、援助を供与していたのかもしれない。まだドイツ側には何かの権利があったのだろう。それをアメリカにさらわれたのだから、ドイツも我慢がならず、訴訟を起こしたということなのだろう。

めちゃくちゃである。このガイドさんには、基幹産業である鉄鋼工場が、ハゲタカまがいの外資に買収されたことに対して腹が立って仕方ないようだ。

といっても、これはセルビアにとっても苦渋の選択だったのかもしれない。鉄鋼は、産業の中でも、基本中の基本となる産業である。その鉄鋼工場を買収されてしまうのは、国の経済的独立にも関わり、なるべくならば避けたいはずである。しかし一方で、買収されなければますます技術が陳腐化し、国際競争力はなくなり、工場はやがてただの鉄くずになってしまう。いずれにせよ、自分だけでやっていくのは難しい。

ガイドさんの熱弁を聞きながら歩いてゆくと、4階建て程度の石造り住宅が林立するエリアに到着した。機能主義的な、シンプルな建物である。どれも大変古くなっており、ひどい状態であった。しかしそのような場所でも、人は普通に住んでいた。

よく見ると1925と書かれていた建物もあったので、第二次大戦前のバウハウス運動によって立てられたものかもしれない。1925年は、ベオグラードが第1次ユーゴスラビアの新首都となり、急速に発達した時期である。

 路上駐車がものすごく多かった。車を見ると、質に差があり、貧富の差が感じられた。ユーゴ(YUGO)という、社会主義時代の国民車も見ることができた。今でも現役で走っているらしい。

 住宅街を抜け、スカダリア(Skadaria)という、芸術家などがあつまる地区に来た。歩き回って疲れ、空腹になったので、最初は売店で軽く昼食を食べようかということだったが、座る場所がなかったために、私たちは普通のレストランに入った。青空の見えるテラスのテーブルがとれた。

出てきたのは、様々なものがちょっとずつ皿に盛られていて、おしゃれな料理であった。主に肉が中心で、セルビアの伝統的な料理らしい。わたしはそれに加えてビールを飲んだ。なかなかの味であった。

 ガイドさんによれば、このあたりでは肉料理が中心であり、少しの米料理以外はパン食であるとのことであった。また、魚は高級であるために、裕福な家庭で週末に食べられるくらいだそうだ。

 食事後、われわれは車に乗って、市場へ向かった。近くに車を止めてもらって、歩いて市場へ。路面電車の通る広い通りを横断するとき、横断歩道がなかったので、結構怖い思いをした。

市場は、土曜日の午後ということもあり、人も営業している店もまばらであった。ガイドさんによれば、人々は大概午前中に来るので、午後は閑散としているそうだ。また、このような市場はベオグラード市内に16箇所あり、オレンジ、レモン、バナナ以外はすべて自国のさまざまな場所で生産されたものが運ばれて販売されているということを強調していた。ここからも、セルビアはひとりでもやっていけるという、ガイドさんの自信が窺えた。

 とはいえ、実際は、マケドニア産と書いた箱に入ったままのブドウも売っていたので、ガイドさんの話には多少誇張があるかもしれない。

NATO軍が破壊したビルを通ってチトー大統領の墓へ

その後私たちは、再び車に戻り、チトー大統領の墓へ向かった。

大使館やテレビ局の多く集まる主要な道である、クネズミロシュ通りを南下していく。途中に、コソボで戦争中の1999年4月にNATO軍のミサイル攻撃を受け、16人の放送局員が殺された国営テレビ局が破壊されたまま放置されている。これを見て、私はてっきり修復するお金がないからそのままになっているのだと思ったが、そうではないらしい。アメリカがこの地で何をしたかということを証明するために、わざと残しているのだ。

チトー(TITO, Josip Broz 1892〜1980)

 クロアチア人の父とスロベニア人の母を持つ、社会主義ユーゴスラビアの大統領。第二次大戦中はパルチザンを率いて、ナチスドイツに抵抗した。パルチザンの英雄としてカリスマ性をもって旧ユーゴスラビアの大統領となり、死ぬまでその指導的な立場にあった。早い段階でソ連と袂を分かち、スターリン型ではない、独自の社会主義国家として自主管理社会主義や各共和国に強い自治権を与えるなど、さまざまの「民主的な社会主義」の政治的実験を推進した。多数の民族を抱えた社会主義ユーゴスラビアは、彼が精神的支柱となってまとめていたといっても過言ではないだろう。また外交的には、東側勢力と西側勢力の間を縫って非同盟外交を行い、その中心として国際舞台でも大いに活躍した。

 彼は今でも、旧ユーゴ諸国で敬愛を集めている。それは、多くのメインストリートが現在でもいぜんとしてチトー通りという名前を捨てていないことからもうかがえる。彼の死によって精神的支柱を失った旧ユーゴスラビアは、崩壊へと突き進んだ。

チトーの墓のある場所には、「花の家」という名前がつけられている。ちょっとした小高い丘になっており、上からは市街を一望できる。ここはもともと、チトーの別荘であったところである。ちなみにチトーの邸宅は、1999年時にミロシェビッチが住んでいたために爆撃を受けてしまって残っていないそうだ。

道路に面したところで車から降りようとしたら、警察がいて降りられなかった。多くの警察官がいたので、不審な感じを受けた。何のためにいたのだろうか。

 少し離れたところで車を降りて、チトーの墓を見るために小高い丘を登ることになった。植物は今でもよく手入れされており、清掃も行き届いていてきれいであった。しかし、チトーが生きていたころは使われていたであろう噴水は、今は使われておらず、古くなっており、落書きすらされていた。やはり、時代の流れと現在のセルビアの力の衰退にはあらがえないのであろうか。途中、観光客の集団にすれ違った。ここはベオグラードの主要な観光スポットの一部である。

 庭には、1945年当時のチトーの像が建てられていた。ガイドさんによれば今でも誕生日には若者が贈り物を備えに来るとのことだ。

チトーの棺があるところは、ちょっとしたミュージアムのようになっていて、生前使っていた職務室などが展示されてあった。建物中央が中庭のようにしつらえてあって、そこに棺がある。それは真っ白で、金でチトーとかかれている。執務室も落ち着いた感じで、いかにも一国の大統領にふさわしい部屋であった。そこの売店で私は、手のひらサイズのチトーの像と、旧ユーゴに関連するピンバッジを購入した。

 チトーの墓について興味深いのは、チトーが剥製にならなかったことである。レーニン、ホーチミン、毛沢東といった社会主義国で終身指導的地位にあった独裁者は、剥製になって、首都にある廟で祀られている。しかし、チトーは、そうはならなかった。やはりスターリン型社会主義とは、どこか一線を画していたのであろう。

隣の建物には、世界各地からチトーに送られた贈り物が飾られていた。もちろん日本からのものもあった。また、チトーが生前乗っていた官用車を展示した一角もあった。チトーは、厳重な防弾ガラスつきのロールスロイスとベンツを愛用していたようだ。

 帰りに、日本人の女子大生とすれ違った。彼女は、卒論のためにこのあたりに来ているそうで、コソボにも行ってきたそうだ。私たちもこれから行く予定だといったら、よいところですよ、という答えが返ってきた。その言葉に半信半疑になりつつ、彼女と別れた。

新市街と、アメリカに爆撃された中国大使館

車に再び乗り込んで、サバ川を渡り、私たちは新市街地へと向かった。

このとき渡った橋は第二次大戦のころサバ川にかかる唯一の橋であったそうだ。新市街地になるとそれまでとはうって変わって道がきわめて広くなり、またきれいな碁盤目に整備されていた。社会主義ユーゴの首都機能が集中する場所として、当時の都市計画によって整備された様子が伝わってくる。

通りの名前も、プロレタリア連帯(Proleterski solidarnost)通りや人民英雄(Narodnih heroje)通り、パリ・コミューン(Parski komune)通りなど、いかにも社会主義といった名前が多くついていることが地図から見て取れた。

政府系の建物や大きなホールのほかに、アメリカ資本のハイヤットホテル、スロベニア資本のメルカトールショッピングセンターなど、外資の手になる中心性の高い都市機能が集積しているのが認められる。カジノが入っている建物もある。以前は社会主義の政治的な中心であったが、今では、多国籍企業によるグローバルビジネスの中心でもあるようだ。余裕のある都市建造環境、そして、車で15分という良好な空港へのアクセスもそれを手助けしているだろう。空港に近いという新市街の立地条件もあって、かつての社会主義の中心が、いまや、市場経済とグローバル化の最先端を行くビジネスセンターに変貌しているのだ。

新市街を少し奥まで走り、車を近くに止めてもらって、歩いて壊れた建物まで近づいた。これが、1999年に米軍によって爆撃を受けた元中国大使館である。建物は意外に新しい感じで、屋根に瓦が乗っており、中洋折衷様式になっている。中国の建築家が設計したのであろう。

 爆撃によって大使館員の中国人が3人殺された。アメリカは、地図が古かったから誤爆したのだというふざけた理由を主張した。だが、そもそも、本当に「誤爆」かどうかすら疑わしい。私たちはその後コソボに行き、首都プリシュティナで、コソボ戦争に使われていた中国製の迫撃砲を発見した。中国は、コソボ戦争のもう一方の当事者であるアルバニア人の母国、アルバニアと歴史的に密接な関係がある。中国がコソボ戦争に関与することを牽制しようとしたアメリカの意図は、十分推察できる。

 とはいえ、この大使館爆撃についてアメリカは中国に公式謝罪し、アメリカ政府は中国に対し2800万ドルの賠償金を払ったそうだ。アメリカは、アジア唯一の安保理常任理事国であり核保有国でもある中国との関係を悪化させたくなかったのだろう。

だが、この大使館の建物は、今も爆撃されたときのままの状態で放置されている。中国は、ベオグラード大使館をすでにサバ川の右岸に移転した。それゆえ、中国は、この建物のある敷地を何かに使うさしせまった必要がない。先ほど見た国営放送局と同様に、放置というよりは消極的保存というのが正確かもしれない。柵で覆われており、さすがに中に入ることはできないが、柵越しからでも十分その惨状が伝わってきた。窓ガラスが割れていたり瓦礫が散らばっていたりと、ひどい有様である。

 ここを訪問する人は誰も、アメリカが何をやったのかを自分の目で見て知ることができる。入り口の柵のところには、アメリカの空爆で死んだ大使館員3名を「烈士」と表現した、中国外務省の使節団による花輪が捧げられていた。アメリカが行ったこの大使館空爆を永遠に忘れない、という中国のしたたかさがそこには十分感じられた。

日本では「誤爆」と呼ばれているが、これは日本のメディアの誤訳である。英語ではcollateral bombingで、「二次的な、傍系の」爆撃、といった意味である。「誤る」という意味はまったくない。日本ではメディアがこれを誤爆と訳してしまい、本質が見えなくされてしまったことが問題だろう。

 大使館から再びサバ川の方角に車を向けた。新市街地は建物が新しく、かつ立派である。旧ユーゴ時代に「連邦宮殿」と呼ばれた国会議事堂が見えた。旧ユーゴ時代に使うことが可能であった大きさなので、今のセルビア・モンテネグロにとっては大きすぎる。

寝台列車の旅を満喫

ホテルに戻って荷物を返してもらい、駅まで車で送ってもらった。ここで、セルビアについていろいろ勉強させてもらったガイドさんと別れた。

私たちの乗る列車には食堂車が連結されていないので、乗車前に各自で食事を取ったり飲み物を買ったりしたため、あまり時間の余裕がなかった。

私は、駅前の露店でキーホルダーを買ったのだが、そのとき店員にどこから来たのかと聞かれた。日本からだと答えたら、「日本はいいね、でもアメリカはだめだ。」と言われた。ただのリップサービスではないだろう。やはりセルビア人はアメリカが嫌いらしい。コミュニケーションはとってみるものだと感じた。だが、日本がいま、アメリカべったりの外交をしているとこのセルビア人が知ったとしたら、同じようにこのセルビア人は親日家でいられるだろうか。

列車の出発が迫っていたので列車に乗り込んだ。ギリシャのテサロニキ行き国際急行列車で、これからマケドニアに向けて出発する。寝台車は初めてだったので、大変面白かった。私たちが予約した1等寝台は二人用の個室であったが、三人にもできる構造になっている。個室の中には机があり、これを上げると洗面台にもなる。乗り込んでしばらくすると、所定時刻通りにベオグラード駅のホームを列車は静かに離れた。

 前日に引き続き、長距離列車の旅である。座席車にはない良さが寝台にはあるというのを感じた。というよりも病み付きになりそうである。今度は日本でも、寝台列車を使って旅行をしてみたいと思った。

 ベオグラードから離れるにつれて、日も暮れてきた。

 マケドニアへの国境を通過する前、車窓から、稼動している工場をいくつか見ることができた。いま私たちの列車が走っている、オーストリアからギリシャまでつながる南欧の幹線鉄道の沿線は、リュブリャナからザグレブ、ベオグラード、スコピエを経てテサロニキまで結ぶ幹線高速道路も平行しており、立地条件がいい。また、旧ユーゴの中心ということもあり、社会主義時代もそれなりに設備投資がなされてきたのであろう。よって、ユーゴスラビアの崩壊後も競争力があり、工場が民営化されてもそのまま存続できるか、外資に買い取られることが可能なのである。ボスニア・ヘルツェゴビナで多く見られた廃棄された工場と比べて、こうした稼動中の工場が多いことは、このような背景によるものであろう。

今日の昼、愛国主義者のセルビア人ガイドさんがおっしゃっていた、「セルビアは、他の旧ユーゴ諸国が離れていってしまっても、一国で十分やっていけるのですよ!」という言葉を、ふと思い出した。

夜になって完全に暗くなると、星がものすごくきれいに見えた。窓を開けるとかなり寒かったが、星空を見ながら、列車の旅を楽しんだ。


(井野俊介)