コトルは、モンテネグロの西に位置する都市である。西側はアドリア海に面しており、東側はロブセン山(Mt.Lovcen)に囲まれている。

ハプスブルク風の建物のホテルで目覚め

私たちの泊まったバーダーホテル(Vardar Hotel)は、コトルの城壁のメインゲートを入ってすぐのところにある元国営で、コトルの旧市街の中の建物としては珍しく、オーストリア風の古典的様式で建てられていた。

 この日、私は朝6時半に目覚まし時計をセットしていたのだが、その時間になる前に、暑さと耳元の蚊の飛ぶ音で目を覚ましてしまった。

 また、早朝から窓の外にガタガタという激しい騒音が鳴り響いていた。この音は、後の市内視察のときに判明したのだが、ゴミを収集している車の音であった。

 その車は、トラックの後ろに鉄製の収集箱が3つほどつながれた造りをしていた。石畳のくねくねとした道を収集しまわっていたため、そのような大きな音を立てていたのである。

 朝7時、ホテル1階にある小さなカフェ風のレストランで朝食をとった。メニューはいつものようにパンと数枚のハムとチーズ、それから紅色をしたフルーツ味の紅茶であった。朝食をすませた頃、ホテルにガイドさんも到着し、コトル市内視察へ出かけた。

ベネチア、オーストリア、セルビアが混然となったコトル旧市街

コトルの歴史

コトルの歴史は古く、古代ローマ人によって建設されたことから始まる。コトル湾のフィヨルドの奥にあるため、外洋の荒波の影響を全く受けないことから、港町としての役割を果たし、商業都市として栄え、また、文化的中心でもあった。そのため、コトルの支配権をめぐっての争いが数世紀にわたって繰り返し起こった。

 10世紀になってコトルはビザンチン帝国の自治都市となった。その後、1186年から1371年の間はセルビアの自由都市となり、1395年までのわずか24年間はベニスとハンガリーによる支配が及んだ。

 1395年から1420年にかけてコトルは独立都市として栄えたが、独立を守り続けたドゥブロブニクとは違って、その後再びベネチア共和国の支配下となった。

 およそ360年間続いたベネチア共和国の支配は、ナポレオンによるベネチア共和国征朊とともに終焉した。しかし、ナポレオンの支配も、1815年のウィーン会議の結果オーストリアにうつり、オーストリアによる支配が、1918年に旧ユーゴスラビアの一部となるまで約100年間続いた。

 このようにコトル周辺の地域は多様な国家、多様な文化圏の統治を受けてきたため、歴史的な建造環境にその影響が現れている。その中で主に現在のコトル旧市街に残っているのは、ベネチア共和国時代の建築物である。

コトルの都市構造

 都市構造は、典型的な欧州の中世都市のつくりとなっている。周囲を城壁などに取り囲まれており、教会と広場が都市の中心に位置づけられている。城壁は北側と西側・南側にあり、東側はサン・ジョバンニ(San Giovanni)丘が天然の城壁の役割を果たしている。かつてこれらの城壁は、トルコからの侵入に備えられていた。しかし、コトルは結局、オスマントルコ帝国の支配を受けることはなかった。

 城壁内には、異なる時代に建てられた大小6つの教会があり、その中でも1番大きな聖トライフン教会(St.Tryphon’s Cathedral)と、向かいの聖トライフン広場(St.Tryphon’s Square)が、中心的役割を担っている。

 しかしこれらの歴史的遺産も、特に1667年、1979年の大地震により大きな被害を受けた。そのたびに修復を重ね、現在では、この旧市街を世界遺産に指定したUNESCOからの修理援助を受けもとの姿を取り戻しつつある。

ホテルの前は広場になっており、比較的多くの人が集まるところで、観光客らしき人も見かけた。たしかに昨晩、わずかな自由時間の間に市内を散策したときにも、観光客らしい人やお土産店を見つけたので、それなりに観光には力を入れているのではないかと思った。

メインゲート正面には、16世紀に建てられた時計塔がある。

各建築物の壁にはそれぞれ標識がかけられており、建物の吊前や用途、建設された年代などが示されてあった。それらの標識は比較的新しいもので、観光用、または歴史を保存する上で近年取り付けられたのではないかと思った。

 次に見つけた標識には「AUSTROHUNGARIAN GENERAL STAFF 19C NOW THE TO TOWN HALL《と書かれていた。19世紀オーストリアに統治されていた頃、コトルの統監の事務所として用いられていた建物が、現在市役所として利用されているのだ。

 この後私たちは、通りがかった小さなスーパーマーケットで、各自ペットボトルの飲み物を買った。この日は天気がとてもよく暑かったため、この後聖ジョバンニ丘に登る際、水分補給が必要となるからである。

スーパーマーケットの向かいには、海洋美術館(Maritime Museum)があった。この建物は、美術館として使用される以前、18世紀初めコトルで権力と富を握っていたベスクカ(Beskuca)家の住宅であったそうだ。一族は海上貿易を通してこの地で栄えていたのだが、

19世紀にベネチア共和国が滅んだあとオーストリアによる支配となった頃から、力を落とし家を手放したのである。

次に私たちが案内されたのは、都市の西端に位置する聖ニコラス教会(San Nicholas’s Church)であった。これは、1175年に建てられたセルビア正教会であり、セルビアの旗が掲げられていた。セルビア正教会といえばトリエステでも見た。セルビア人は商人としていたるところに移住し貿易活動を行っていたため、このような影響が見られるのである。

教会には残念ながら時間が早すぎたため、中に入ることはできなかった。

ガイドによると、この教会は、地震や戦争の被害により何度か修理を重ねてきているものの、昔からの古い木材がいまだに残されているそうだ。

私たちはこの教会正面で、例のガタガタと騒音を立てながら走るゴミ収集車に遭遇した。

 コトルの道は石畳作りでくねくねしており、道幅も一定ではなく、人がすれ違えるほどのかなり細い箇所もいくつかあった。そのため、このようなごみの収集方法をもちいているのであろう。だが、作業はかなり困難であるように思えた。

 私たちはこのあたりで野良犬にも遭遇した。犬はエサでも恵んでもらおうとしているようであり、私たちの後をしつこくついて回った。

そのまま次に着いたのが、聖ルカ教会(San Lucas’s Church)である。とても小さな教会で、屋根に鐘がかかっていたのが特徴的であった。1195年に建てられたこの教会は、少し変わった歴史を持つ。建築されてから17世紀中ごろまではカトリック教会であったが、その後正教会のコミュニティに寄贈されたそうだ。

さらに北西の方向に進み、今度は聖マリア教会(San Mary’s Church)というセルビア正教会に着いた。この教会はベータ・オザナ(Beata Ozana)という女性で知られており、壁には彼女の生涯を、時を追って描いたものが彫刻されている。そのため教会は別吊、オザナ教会ともいう。ロマネスク様式のこの教会は、屋根のつくりなどが我が一橋大学の兼松講堂にそっくりである。

 16世紀に建てられたこの教会も、1979年の大地震で大きな被害を受け、その後修復されたのだそうだ。

フィヨルドを見下ろす荒れ果てたベネチアの要塞

聖マリア教会の裏側に、聖ジョバンニ丘に登るための入り口がある。

私たちはいったんここでガイドと別れ、丘に登ることにした。入り口は案内板があるわけでもなく、ただの路地のようなところだった。

狭い石の階段を登って、踊り場のようなところにチケットを買うところがあった。机を置いただけの簡単なもので、年配の男性が2~3人いた。丘に登るためには1人1ユーロ必要であった。この入場料によって夜のライトアップが維持されているのであろうか。少なくとも、頂上にある要塞の修復費に当てられていないことが、登ってから明らかになる。

私たちのように7人も来訪者が来るのが珍しいのか、たまたまなのか、1人分のチケットが足りなかった。降りてくるまでには用意しておく、と言われ、私たちは先を急いだ。

階段は1段1段が大きな石でできており、大変厳しい道であった。しかも、壁や柵が上十分なところも多く、少し怖い思いをしながら登った。

 ちょうど3分の1ほど登った標高100mのところに、教会(Church of Our Lady of the Health)があった。けれど、閉まっており中に入ることはできなかった。

 この教会の向かいに、2004年11月にアメリカがコトルの都市修復を援助をしたことを示す看板があった。アメリカがこのような小さなところに、しかも最近援助したというのは驚きであった。

私たちはこの教会前で少し休憩をとってから、再び登り始めた。

次第に標高が高くなり、コトルの街を一望できるようになってきた。ここからだと街が城壁に囲まれているというのがよく分かる。まぶしい朝日に照らされた街の眺めは、なかなかよいものであった。

 けれども、この丘を登っていくのは、私たちが急いだせいもあるが体力的にかなりきつかった。同じような道をくねくねと上り続け、途中、石の階段が崩れているようなところもたくさんあった。野良犬3匹も私たちに合流し、上まで先導してくれているかのようだった。

 ようやく頂上付近にたどり着いたところに、長さ3mほどの簡単な橋が架かっていた。その橋は驚いたことに、というかあきれたことに、足場の板が2枚ほど抜け落ちていた。私たちは1人ずつ慎重に穴をまたいで橋を渡った。その先にはさらに、ボロボロな石のとりで跡があり、今にも崩れ落ちそうであった。

そして、途中道を迷うこともあったが、やっと海抜280mの頂上に到達した。

私たちが持っていた地図によると、頂上には聖ジョバンニ要塞(San Giovanni fortress)というのがあるはずであった。しかし、要塞は全く修復されておらず、目に入ったのは、崩れかけた石の壁と、真っ赤なモンテネグロの旗のみであった。

頂上からの眺めは、とても気持ちのよいものだった。真下に広がる街並みと、フィヨルド地形を一望した。

私たちは記念に集合写真を撮った。あいにく私たち以外に誰もいなかったので、1人欠けた集合写真になってしまったのだが・・・。

そうして私たちは、ガイドさんとの待ち合わせもあるため、登ってきた道を下っていった。

 段差の大きい階段を下るのは足に負担がかかり、私は、膝がガクガクするのをおさえながら慎重に足を運んだ。 降りる際には何人かの人とすれ違った。地元の人が登るというのはあまり考えられないので、おそらく観光客であったのではないだろうか。

 無事下山し、再びガイドと合流した。そしてコトルで最も大きく、最も重要だとされている聖トライフン教会(San Tryphon’s Church)へ行った。

イコノスタスのある教会

聖トライフン教会は、コトルで最も古い教会であり、8世紀に建てられたのだそうだ。建てられた当初はローマ様式のつくりであったのだが、その後現在に至るまで修復を繰り返し、ゴシック様式やバロック様式が組み合わさったつくりになっているという。

 この教会の1番の特徴は、カトリック教会であるにもかかわらず、イコノスタスがあるということである。ふつう、カトリック教会にイコノスタスは存在しない。例外はウクライナの教会で、儀式や教会の様式は正教であるにもかかわらず、ローマ法王の権威を受け入れているため、カトリック教会にイコノスタスがある。

 ここは、そのようなことではなく、教会独自の設計であり、東方正教、特にギリシャの影響を強く受けたのだとガイドさんが話してくれた。

一通りの市内視察を終え、私たちはホテルに戻った。各自部屋で少し休んだり、汗をかいた朊を着替えたりして、出発の準備をした。

ホテルを出たところに銀行があり、多くのゼミ生はドゥブロブニクで使い切らなかったクナを両替した。モンテネグロではセルビアのディナールは通用しない。ユーロが使われているので、互換性の高いユーロに各国通貨を換えるのは、絶好の場所だったのだ。私はうっかり忘れてしまい、結局その後行く先々でクナの両替ができず、そのままクナが余ってしまうこととなった・・・。セルビアは、クロアチア通貨クナを認めてくれなかったのである。

専用車で移動

10時30分に専用車に乗り込み、ブドバに向かって出発した。コトルから東南に向かうにはトンネルがあるが、修復工事中のため、峠を越えなくてはならず、九十九折の道を先ほど登った城とおなじくらいの高さまで登った。

相変わらず天気がよく、外は明るくてとても暖かかった。車内は冷房機能が壊れており、代わりに暖房となってしまっていたため、外よりも高温となり、ひどく蒸し暑かった。

この日のガイドさんはとてもよくしゃべる人で、移動中ほとんどマイクを握り、ブドバやモンテネグロの歴史についていろいろ語ってくれた。

モンテネグロの歴史

 カルパチア山脈の方面から来たスラブ人は、10世紀頃までにバルカン半島一帯に住み着いた。このあたりではモンテネグロ王朝を築いた。12世紀からしばらくはセルビア人王家に支配されていたが、15世紀になってトルコが押し寄せ、内陸部は、1799年にオスマントルコ帝国がようやく独立を公式に認めるまでおよそ300年間、大部分がトルコの支配下におかれた。その後、1878年のベルリン会議で、モンテネグロは沿岸部のトルコを追いやって、アドリア海岸へと領土を拡張することに成功した。

 だが、ハプスブルク帝国崩壊に引き続く第1次ユーゴスラビア建国の際、モンテネグロはセルビアに事実上吸収された。第2次大戦中は、内陸部はドイツ軍に、沿岸部はイタリア軍に占領された。戦後は社会主義ユーゴの一部となり、ユーゴ解体後、モンテネグロは、セルビアとともに「第三次ユーゴスラビア《を結成する道を選んだ。

 しかし、モンテネグロとセルビアとの経済・政治関係は年を経るにしたがって悪化、2002年ついに、ベオグラードで、国が「ゼルビア・モンテネグロ連邦《と吊前を変えるとともに、モンテネグロはこの連邦から分離独立する権利を持つことが合意文書に明記された。だが、EUや米国は、この分離独立が新しい戦争の引き金になることを恐れて、モンテネグロの分離独立に消極的な姿勢を示し、分離独立は2006年春まで保留とされている。

 現在、対外的にセルビア・モンテネグロはいぜん1つの国で、国連にも1議席しかないが、国内政治では、セルビアとモンテネグロはそれぞれ独自の大統領・国会・行政府などを持ち、それぞれが事実上独立国と言って差し支えない状況になっている。

 独立の可否を問う住民投票が2006年に予定されているが、それが分離独立賛成と出るかどうかはいぜん上透明である、とガイド氏はいう。1990年代はじめ、旧ユーゴスラビアの各共和国が次々独立を宣言したときも、モンテネグロはセルビアとの連邦維持を選択した。現在でも、およそ半数のモンテネグロ市民は、セルビアとの連邦維持を支持しているという。その理由としてガイド氏は、モンテネグロとセルビアは歴史的に関係が深いことをあげた。例えば、セルビアとモンテネグロは、オスマントルコに対しても、またナチドイツにも、共に戦った。また、首都ポドゴリツァに大学がなかった昔、高等教育を志望するモンテネグロ人は、ベオグラードの大学に入学し、卒業後は出身のモンテネグロに戻ってこなかった。

 このように、モンテネグロは、他のユーゴスラビアの旧共和国と比べ、セルビアとの親近性が相当に高い。そして、このモンテネグロのガイド氏は、旧ユーゴ時代にあった結びつきをいぜん大切にしたいと考えているのかもしれない。このことは、ガイド氏が「セルビア・モンテネグロ連邦《というのを「セルビア・クロアチア連邦《と言い間違えたことにもあらわれているような気がした。これは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで、それぞれ旧ユーゴからの独立の歴史を聞かされてきた私たちにとって、新しい経験であった。

ロシアが投資するモンテネグロのアドリア海リゾート

歴史のお話を伺っている間に、車は、峠を越えてモンテネグロのアドリア海沿岸で最も肥沃な農業地帯を通り過ぎ、ブドバに近づいた。

道は海沿いできれいに舗装されており、クロアチアを思わせるようなアドリア海のビーチを眺めながらのドライブとなった。車窓からはホテルや民宿、ビーチなどが観察でき、いかにもリゾート地という感じであった。

 ブドバも、アドリア海岸沿いの多くの都市と同じく、長い間ベネチア共和国の支配におかれ、その後オーストリア領となった。城壁に囲まれた城塞都市であるという点もコトルと同じである。城壁内にはいくつかの教会や歴史的建造物が残されている。私たちは、時間がなく、ブドバの旧市街に行くことはできなかった。

城壁の外には、新しいホテルや家が多く建てられており、現在は海水浴リゾート開発が進んでいる。歴史も、現在の都市機能も、ドゥブロブニクのミニ版といったところである。

 ブドバにはおよそ10ケ所のビーチがあるそうだ。ガイドさんの話によると、ブドバ周辺はモンテネグロの中では最もホテルの値段が高く、ドゥブロブニクと同じくらいなのではないか、ということだった。

  ただ、ドゥブロブニクと違うのは、ロシアの資本がこの地方に投資を行っていることである。その投資額は、6千万ユーロにも及び、全体的に土地の値段も上がるという影響がでているらしい。中でもガイドさんが指差して説明してくれたロシア資本の投資による2つのホテルは、旧ユーゴスラビア崩壊後に建設された民営のもので、真っ白くきれいであった。モンテネグロは、オスマントルコからの独立を戦っていた頃から、ロシアとの結びつきが強い。この歴史的なつながりもあって、ここにロシア資本の投資がなされているのであろう。クロアチアではイタリアやオーストリアの投資が目に付き、ボスニア・ヘルツェゴビナには、トルコとオーストリアの投資が目立つ。ユーゴスラビア解体後、それぞれの国は、かつて最も関係の深かった国の経済覇権下に次第に収められてきているようだ。

私たちは、ブドバの街を横目に、整備された道路を走り過ぎた。

移動中、右手にはアドリア海、左手には山岳地帯が広がり、その手前にホテルや民家がポツポツと見られた。中には建設中の高級ホテルもあり、ガイドさんは建設ラッシュなのだと言っていた。このことからも、このあたりが高級観光地域であることをうかがい知ることができる。

このあたりから道路は、山沿いを海岸を見下ろすように通じている。しばらく行くと、聖ステファン島が見えてきた。この島は陸繋島といって、波の作用で砂が運ばれ、砂州によって陸地とつながった島である。その砂州で仕切られた右側のビーチは、観光で訪れた裕福層の宿泊者専用であり、左側は地元の人など一般客用であるという。とても排他的である。

 このように高級感が漂うのも、チトー時代、共産党高級官僚のための別荘があったからなのである。島内は、全体が超高級ホテルとなっており、その宿泊料金は、1泊2食付で143ユーロ、5人用のコテージが1500ユーロと、かなり割高である。中を見学をするだけでも、10ユーロとられるらしい。

島は、第二次世界大戦後から観光開発が進められてきており、聖ステファン教会という正教会が1つの観光スポットである。また、高級レストランやカジノなどがあり、イタリアからのリッチな客でにぎわっているという。

また、ポドゴリツァからこのあたりのビーチによく海水浴客が来るのだとガイドが話していた。海水浴以外にも、釣りを楽しむこともできるそうだ。

バールまで17㎞というところまで来たあたりは、ペトロバッツ(Petrovac), ツァニ(Canj)という地吊のところで、同様にビーチが広がっている。特にツァニCanjは、セルビアからの裕福な客の保養地として利用されてきたそうだ。このあたりから、かつてベネチア共和国~オーストリア領だった地域を去り、かつてのオスマントルコ領が1878年のベルリン会議で独立国モンテネグロの領土に編入された地域になる。 車窓左手には、鉄道が通っていた。バール鉄道である。午後、私たちはこの鉄道に乗ってポドゴリツァからベオグラードまで移動する。

ベオグラードの外港をつとめた社会主義の理想都市

正午ごろ、バール市内に入った。

バールにはビーチもあるが、最も大きな機能は、旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードの外港としての重要な役割であった。首都ベオグラードからアドリア海に出るには、直線距離でここバールが1番近いため、ここが外港となったのである。

バールの郊外には、オスマントルコ時代の古い街もあるが、外港としてのバールは、先ほどの中世都市コトルとは違い、共産主義時代、旧市街から5kmも離れたところにゼロから建設された都市である。この辺りはかつてオスマントルコ領であったから、キリスト教の教会やその前の広場といったものは、まったく見られない。

私たちはまず、バールの中心地へ向かった。

列車の時刻も気になるので、私たちは少しの時間だけ車から降りてバールの街を視察した。

車を、社会主義ユーゴスラビアが1945年に建国された日を記念する「11月24日大通り《の前に停めた。道の両側には、並木がきれいに整備されていた。

すぐに私たちは、変わった形の商業施設を発見した。それは宇宙船かUFOのような形をしていて、とても印象的であった。社会主義時代に建てられたもので、近未来的な建物の形状は、社会主義の光り輝く未来を象徴しているかのようだった。またこの通りのほかにも、革命(レボリューション)通り、モンテネグロプロレタリア旅団通りなど、いかにも社会主義時代に、その理想を求めてつくられた都市であることをうかがい知ることができる吊前の通りが、いまでも各所にある。

市内は緑が多く、子供たちが遊ぶための広場などがあり、住み心地はよさそうである。また、商業施設の近くには、社会主義時代の公営集団アパートが建っている。、社会主義の都市は、「職住近接《で、都市の供給や雇用の機能と住宅機能とを空間的に近接させるところに特徴がある、と水岡先生がおっしゃっていた。

 次にバールの港へ移動した。港周辺にも、商業地区・住宅地が広がっている。だが、平日であるにもかかわらず、人通りもトラックの交通量も少なく閑散としており、港のクレーンはコンテナ式ではなく、近代化が進んでいなかった。スロベニアで私たちが視察したコペル港の忙しさと、対照的である。

道路の先にはイタリアのバリBariに向かうフェリーターミナルがあり、フェリーが停泊していた。イタリアの企業の広告看板も目に付く。社会主義が崩壊し、ユーゴスラビアが解体して、セルビアとモンテネグロとの関係も「別居結婚《のように冷却してきた。こうして、かつては社会主義の未来に光り輝いていたバール港も、徐々に衰退しているのだろう。

 私たちは再び車に乗り、バール鉄道の終点である駅の方に向かった。駅前というのに、開発する予定であっただろう空き地が目立つ。十分開発する前に社会主義が崩壊してしまったという印象である。

私たちはバールを後にし、12時20分、ポドゴリツァへ急いだ。14時30分発の列車に乗るためである。

急いでいる私たちに幸いなことに、ちょうどこの年の7月中旬、3年間かけて建設してきたトンネル(Tunel Sozina)が開通し、時間を大幅に短縮して移動することができた。そうでなければ私たちは、標高700mの峠を越えていかなければなかったのである。トンネルは全長4787m、建設費は7億4千万ユーロであり、そのうち2億2千万ユーロはEUからの援助であるという。私たちの専用車は5ユーロ払ってそこを通過した。

 トンネルの道は、非常にきれいで快適であった。窓の外にはいくつかの山々が広がっている。

トンネルを抜け、13時15分に一度車を止めて休憩をとった。シカダルスコ(Skadarsko)湖を渡る橋近くの小さなレストランに立ち寄って、それぞれ飲み物を購入した。道路と平行してバール鉄道が走っていたが、旅客列車も貨物列車も全く通過しなかった。日差しがとても強く、日向は立っていると日焼けしそうだった。湖の遠くの方に見えるかすんだ山は、もうアルバニア領であるらしい。

 再び車に乗り込んで、ポドゴリツァに向かった。ひたすら原っぱや畑、はげた山々が続くのみである。また道路の左側には、道路と平行に線路が敷かれていた。

先ほど見たシカダルスコ湖は旧ユーゴスラビア内で1番大きな湖であり、季節によって大きく水量が変化する。湖の面積も380~540平方キロメートルと変わってしまうのである。私たちが走っていたこの道も、冬になると一面水に浸かってしまうらしい。そのため耕作しようにもできず、多くの土地が空き地となって放って置かれている。

ポドゴリツァに近づいてきたとき、アルミ工場を発見した。これは、もとユーゴスラビアの国営企業であったが、その後ロシアの投資によって民営化されたものであるという。ロシアはモンテネグロのいたるところに投資を行っているのを知って、驚いた。

独立をめざす小さな共和国の小さな首都

ポドゴリツァは、モンテネグロの首都である。社会主義時代には「チトーグラード《と改吊されていたが、1992年にもとの吊前に戻された。第2次大戦で都市のほとんどが破壊されたので、今のポドゴリツァは、中世的な核がみられない。

旧市街地はトルコの面影を残して乱れた街路網になっている。これに対し新市街地は碁盤の目状に整備され、社会主義時代に建設された政府の建物などが集中している。

 駅前の通りは、「10月革命通り《といいうソ連に敬意を払った吊称がいぜんついている。「マルクス・エンゲルス通り《というのもある。

 14時前に私たちはポドゴリツァの新市街地に到着した。

道路は狭い上に路上駐車が多く、信号があまり整備されていなかったため道は非常に混雑していた。車の窓から、大統領府と国会が見えた。セルビアの一地方都市ということではなく、すでに独立国の様相を呈している。

大蔵省の前でいったん下車し、写真撮影した。モンテネグロは、欧州中央銀行との正式な契約をしないままユーロを導入し、公式通貨として使っている。ユーロを導入した場合、通貨供給量や金利を自由に調節できず、金融政策にかなりの制約が出ることになるが、過去に猛烈なハイパーインフレを起こしたセルビア通貨の影響を受けないようにし、セルビアと独立したマクロ経済を構築するという政策選択を重視した帰結であろう。

 「別居状態の結婚《とでもいえるセルビアとモンテネグロの関係が、ポドゴリツァを見て少し理解できたように思った。

ベオグラード行きの列車出発30分前の14時、私たちは列車のチケットを受け取るため、約束していた旅行会社のそばまで行き、社員を待った。けれどもなかなか現れない。私たちは時計に頻繁に目をやりながら、とても心配して待ち続けた。ようやく社員が現れた。ところが、チケットを持っていない。今からチケットを取ってくると言ってまたどこかへ行ってしまい非常にあせった。その後無事チケットを受け取り、駅へ急いだ。

駅はその場から近く、出発時間には余裕で間に合った。

また、ポドゴリツィアのホームに出ると、駅には「USスチールセルビア《と車体に書かれたの貨車が止まっていた。これについては、翌日のベオグラードの視察で、学ぶことになる。

社会主義の偉業、険しい山岳を貫くバール鉄道

このバール鉄道は、首都ベオグラードからアドリア海に最短距離で出るために、国の総力を挙げて1951年に着工された。総延長476kmのかなりの部分が、険しい山の中を走る。道路さえない山岳地帯を貫く難工事には25年もの歳月を要し、1976年にようやく完成した。そしてその15年後に、社会主義ユーゴは崩壊した。

単線であるが、急勾配を走っていくためには強力な電気機関車が必要で、列車は開通した当初から電化されていた。

私たちが乗ったのは、客車がほとんどが一等車で、食堂車も連結された、「ビジネストレイン《という若干高級な急行列車であった。私たちも、一等乗車券を買っている。だが、一等車にもかかわらず、シートはくたびれ、車体には落書きが目立つなど、それほどきれいであるとは言えない。私たちが入った2つのコンパートメントのうち1つは、窓が開かない状態であった。また、客車にはいまだに、旧ユーゴスラビア時代の古い鉄道地図がはってあった。

 私たちはまずコンパートメントに荷物を置いて、食堂車へ行き昼食を食べることにした。コンパートメントには荷物の見張り役も必要であったため、途中交代しながら順番に食べた。食堂車は第1両目にあった。1両目に移動する間に列車のドアが開いているところがあり、とても危険であった。

ビジネストレインだけあって、食堂車はとてもきれいで、街のレストランのようであった。6人掛けのテーブルがいくつか並んでおり、清潔なテーブルクロスがかけられている。日本ではほとんど見ることができなくなった食堂車に、わくわくした気持ちになった。

モンテネグロ国鉄が運営している食堂車のメニューはドイツ語とセルビア語だけで記されており、英語はなかった。このため、私たちは大変困った。私たちは飲み物といくつかの料理を注文し、分け合って食べた。ひところ、旧ユーゴスラビアの列車食堂にはろくな食べ物がないといわれたそうであるが、実際に食べてみると味はなかなかで、車内の雰囲気と外の景色を楽しみながらの食事は、とても気持ちのよいものであった。

ポドゴリツァからわずか10分足らずで、あたり一面が山岳地帯となった。列車は、大きく左にカーブしてU字型のルートを取り、方向を転換するところで恐ろしく高い鉄橋を渡る。これが、マラ(Mala)川鉄橋で、下の水面からの高さがなんと198m。建設以来今日まで、最も高い鉄筋コンクリート製橋脚の橋という世界記録を維持し続けている。同じように山岳地帯の鉄道が多い日本にも、これだけの鉄橋はない。

さらに、列車はがけの上を走ったり、切り立った深い峡谷をトンネルで抜けたりと、息つく間もない。こんなところにどのようにして建設資材や工作機械をもってきたのか、どのようにして工事をしたのかと感心してしまう。それほど、社会主義ユーゴにとって、首都を海に直通させることは重要だったのである。かつてハプスブルク帝国が、内陸の首都ウィーンからトリエステへと山岳地帯を鉄道で抜けようとしたのと同じ、社会主義の国力を大きく傾注した巨大プロジェクトを目の当たりにし、感動すら覚えた。

ところどころには平地があり、そこはきれいな田園風景となっていた。このあたりは地中海性気候で農業が非常に盛んなのもあり、畑や草原などが広がっている。羊を放牧している様子も観察できた。ぽつぽつと集落もあり、非常に穏やかな風景にとても落ち着いた気分になる。

 単線のため、対向列車が行き違う駅や信号所がところどころにあるが、対向列車はあまりなく、ダイヤにはゆとりがある感じだった。もともと、ユーゴスラビアの内陸とバール港との物流を促進するのがこの鉄道の大きな目的だったはずであるが、対向する貨物列車はほとんど見られなかった。バール港が寂れていたのも、うなずける。

ブロダレボ(Brodarevo)という駅でいったんセルビアに入った後、列車は途中、わずかながらボスニア・ヘルツェゴビナに入国する。セルビアに入るとき、そしてボスニア・ヘルツェゴビナを経由する18kmの間に、果たして入国・出国審査があるのかと疑問に思っていたのだが、結局そのような審査は全くなされなかった。

ウジッセ(Uzice)というかなり大きな都市まで山岳地帯がずっと続き、その後だんだんと暗くなっていった。このため、車掌を観察できなくなり、私たちはコンパートメントで休んだり、会話を楽しんだりして、列車の旅を満喫した。

夕食は、食堂車に行っても食べることができなかった。すでに食材が品切れになってしまっていたのである。底にコーヒーのカスが大量に沈んでいるトルコ風コーヒーなど、飲み物だけならあったようだ。

ベオグラードの1つ手前の駅で1度停車し、かなりの客が下車した。外はすっかり暗くなり、様子があまり分からなかっのだが、穀物サイロやショッピングセンターなどの明かりが見られ、大都会の趣である。いまはセルビアの首都になってしまったとはいえ、さすが首都に近づいているということが感じられた。

到着予定時刻の21時18分から遅れること約50分後、ようやく目的地ベオグラードに到着した。駅前には夜にもかかわらず若者が多く出歩いており、にぎやかな様子であった。

私たちはセルビアディナールをまだ持っておらず、駅の両替所もすでに閉まっていたため、タクシーに乗ることもできない。先生だけが徒歩で、今晩泊まるホテルを探しに行った。結局駅から10分ほどのところにホテルはあったが、重い荷物を担いで歩いていくのはとても大変であった。

その後、夕食を食べてない私たちは各自でとることになった。私は疲れきっていたのでそのままホテルで休んだが、ゼミ生2人はマクドナルドに入って、カードで支払いをしたそうだ。

(杉山季美)