9月4日 サンパウロ サントス 


 ホテル

今日がサンパウロの最終日だ。メンバーは、それぞれの思いを胸に秘めながら次なる旅の準備をし、チェックアウトした。サンパウロ滞在中お世話になったホテル万里。キツイ日程の中、疲れを癒してくれたこのホテルは、まさにオアシスであった。その後、前日からガイドしてくださっていた米田さんとともにホテルを後にした。さらば、ホテル万里!


 朝〜市場

今日の最初の目的地は、「フリーマーケット」と呼ばれる、サンパウロの流通機能の一つ、露天市場である。その道中、米田さんは昨日と同様、色々な興味深い話をしてくださった。

一つは、「なぜ私達の滞在していたホテルの場所に、リベルダージ(自由という意味)の地名が付けられたのか」である。かつて、このあたりで給料米の未払いに対して反乱が起きたという。その反乱は鎮圧され、首謀者は死刑執行場であるこの地で縛り首に処された。死刑執行は10分にも及んだにも関わらず、その者は生き残った。その様子を伺っていた市民は、再び死刑に処されることを残酷に感じ、また反乱の原因が給料米の未払いであり行政側にも落ち度があると判断し、死刑執行の取りやめを訴えた。その時、周りにいた者は皆、声高々に「自由を、自由を!」と叫んだという。だがその願いは届かず、その者は再び縛り首にされて死んだ。そのエピソードは後世に残り後にリベルダージという地名がここに付けられた、というのが由来である。

あと一つが、ブラジルの私立病院についてである。私達は、バスからポルトガル人経営の病院を見かけた。米田さんの話だと、この他にもユダヤ人・アラブ人・ドイツ人・日本人経営の病院があるという。中でも、ユダヤ人経営のアインシュタイン病院が最良のサービスを受けられるそうだ。ユダヤ人の財の影響力がサンパウロにも浸透していることが伺える。

そうこうするうちに、パウリスタ通りについた。ここで米田さんは、この通りの歴史的建築物について話してくださった。ここは元々、大農場主の邸宅が並んでいた通りであり、現在でも所々に邸宅跡が多くある。私達は、アールヌーボー様式の旧宅・1890年に建てられた邸宅(現在は学校)・パスツール研究所跡・旧宅の外観をそのまま利用したマクドナルドの店舗などを見ることができた。

ちなみに、アールヌーボー(Art nouveau)様式とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行した建築様式で、植物の蔓や人体の体のような曲線美をモチーフとしたデザインが特徴である。

パウリスタ通りを抜け、しばらくすると高級住宅地に入った。ここにはルラ大統領やフランコ大統領もかつて住んでいたという。

その場所を離れ、しばらくすると市営の総合競技場が見えてきた。ここでは、サッカーの試合がよく行われているという。ここにフリーマーケットがある。






 フリーマーケット

まず、このフリーマーケットの概要を説明する。このマーケットは、月曜以外、毎日開かれており、野菜・魚・肉などの生鮮食品からチーズなどの加工食品や日用雑貨品が売られている。売り場は3列にキレイに並んでいて、それぞれ清掃されており、商品の種類が店舗ごとに清潔かつ分かりやすく整理されていた。商品はパッケージ化され、ガラスのショーケースの中で保管されており、商品の品質管理が行き届いていると感じた。

私達はまず、肉・魚・チーズを売っているブロックに入った。米田さんの話では、ここの魚はサントスで前日獲れたものだという。だいたい、一匹で10〜20レアルであった。チーズはミナス産のフレッシュチーズで、ブラジルのチーズはミナス産が主流だという。

次に、果物・野菜を売っている場所に来た。ここでは、マンゴー・バナナなどあらゆる種類の果物・野菜が売られていた。特に、バナナは種類が豊富で、値段も1束2~4レアルとかなり安い。じゃがいもは、年中取れる野菜で、Isあたり2~3レアルとこれもまた安い。米田さんは、じゃがいもはブラジルではかなり投機的な作物であると話してくださった。成功すると「いも御殿」と呼ばれるほどの大金持ちになるが、失敗すると全財産を失うという。

米田さんから、ここには日本人がよく来るという話も伺った。実際、われわれは店員に片言の日本語で話しかけられた。カナダ製の醤油や、ブラジル産のほうれん草・大根・豆腐などの日本食が売られている店を見かけたりした。おそらく、地元の日系人もよくここを利用しているのだろう。この日ここで買い物をしている日系人と出会わなかったのは悔やまれた。

あと、この奥では花が売られていた。米田さんの話では、ブラジルの花はオランダ系移民が栽培するものが一番多く、その次に日系移民のものが多いという。

ここを回っている途中、日系人の店員の方とあった。この人は、日本からの移民で、ここから60km離れているイビューナで農業を営んでいたという。今では農業では儲からないので、その土地の農作は外国人に任しているという。では、なぜ農業では儲からないのにその土地を売らないのかと聞くと、土地が道路沿いで立地条件が良く、将来その資産価値が高まる可能性が高いからだとおっしゃった。近年、日清と味の素の合弁会社で経営されているラーメン工場、中国系ブランドのラーメン工場がその土地付近で建設されているなど、地域での土地需要は高まっていると話していた。

ちなみに、ブラジルでは、即席ラーメンのことを一般名詞で「ミョウジョウ」と言う。名前の由来は、ブラジルに始めて即席ラーメンがもたらされたときのメーカーが「明星食品」だったからということのようだ。ところがそのあと、日清食品が即席ラーメンをブラジルで製造販売することになり、ハタと困った。結局、日清食品は明星食品と話し合い、日清のラーメンにも「ミョウジョウ」と記載できることになったのだという。それにしても、ライバル社のブランドを自社のラーメンに書くことになった日清食品は、どういう気持ちだったのだろうか。先行者の利益をまざまざとしめす出来事である。

フリーマーケットを回り終えた後、すぐそばにある市営総合競技場に向かった。入り口のところで、選挙運動している集団からサンチーニョという名刺サイズのビラをもらった。この紙には、候補者の名前と番号が記載されている。現在、ブラジルの選挙戦においてこれのバラマキは欠かせない、と米田さんが話してくださった。これは、「有権者がたまたまビラを投票所へ持って来た場合、持っているビラに書かれてある候補者に投票する確率が高い」からである。その背景には、近年ブラジルに電子投票システムが導入されたという経緯がある。このシステムは、有権者が候補者の番号を覚えておき、番号で投票するという形になっている。候補者数はかなりいるため、有権者は候補者の名前と番号をセットでなかなか覚えられない。だから、投票所ではどうしてもこのビラに頼る傾向になってしまうのだという。

競技場ではこの日、ちょうどサッカーの試合があるらしく、サポーターが大勢駆けつけていて賑わっていた。競技場の入り口近くまでくると、そこには、サッカーブラジル代表のワールドカップ優勝時メンバーの名前の綴られたプレートや、ペレの生涯得点の記録プレートがあった。私はサッカーファンという事もあり、滅多に切らないカメラのシャッターをこの時とばかりに押しまくった。




 フリーマーケット〜独立記念モニュメント

フリーマーケットをあとにし、次に独立記念モニュメントに向かった。しばらく行くと、国連本部ビルやブラジリアを建設した事で有名なオスカル・ニーマイヤー作の建物が公園にあった。

カーニバル会場とそのカーニバル準備用のバラックを抜けると、プロジェクト・シンガプーラによく似た試みを行っているコンクリートの住宅が見えてきた。ここは、2004年9月現在市長であるマルタによって、プロジェクト・シンガプーラを引き継いだ形で市が行っているものだ。この手のプロジェクトは貧困者への政治プロモーションの一環として行われるため、先任者の手柄と思われてしまわないように、プロジェクトは別の名前になって行われている。

「サンパウロのビーチ」と呼ばれているほど休日は人で賑わっているショッピングセンター、市営のフリーマーケットを横切ると、放置された高架バスの路線が見えた。この路線は昔、選挙アピールで試運転まで行われていたが、結局一般向けには運行されなかった。しかし、現在の市長マルタは再びこの路線の整備に着手しようとしているという。

また、この道中に、米田さんが、なぜ日本人がリベルダージにきたかについて話をしてくださった。サンパウロで坂になっている部分には、かつて日系人がコミュニティーを形成していた。農業移民として来た日系人は当時まだ自作地を獲得しておらず、生活水準が低かったため、ここに集まってきたのである。第二次世界大戦で日本が敗戦した結果、日系人はそこから立ち退かされることになった。その後、日系人はかつて日系人経営の映画館が集積していた場所、すなわちリベルダージにある大坂橋付近に住むようになったのである。

日系人が立ち退いた後、その地には比較的密入国しやすいパラグアイから入ってきた韓国人が住むようになったという。韓国人は、そこで自らの作った服を売って生活していた。現在、韓国人は以前からその地で共存していたユダヤ人によって追い出され、ユダヤ人がそこで暮らしているという。

このように色々米田さんにガイドしてもらい移動時間はあっという間に過ぎ、バスは目的地に到着した。



 独立モニュメント(イピランガの丘)

【ブラジルの独立】

ブラジルの独立は一般市民による独立とは事情が違う。独立は、民衆や独立運動のリーダーが独立戦争で宗主国から勝ち取ったものではなく、ポルトガル王室の思惑による「宮廷革命」だった。

ブラジルの独立の発端は、ナポレオン戦争である。ポルトガルが侵略された後、国を追われたポルトガル王室は、植民地であるブラジルに王室を移動させることを決定した(1807年)。ナポレオンの敗北後、ポルトガル王室は本国に戻ることになったが、それによってブラジル支配が弱体化してしまうという問題が生じた。すでにポルトガルはグローバルな覇権国の座を失って久しく、支配体制の弱体化は、イギリスやオランダがブラジルを乗っ取ってしまうという恐れにつながる。このような事態の中、後の初代ブラジル皇帝、ペドロ一世が本国召還に応じず、自分の国を持ちたいという願望のために独立国の建設を宣言した(1822年)。これは、ポルトガル王室が影響力をブラジルに残せるという思惑と合致したため、ポルトガルはブラジルの独立を認め、ペドロ一世が初代皇帝となった。

その後、ペドロ一世はブラジル皇帝を退位し皇太子に地位を譲り、ポルトガル本国でペドロ4世の名でポルトガル王に君臨した。しかし、即位からしばらくして36歳で一生を終えた(1834年)。


このモニュメントは、馬車に乗っているドン・ペドロ一世と、その周りを囲んでいる何人もの人々の像から構成されている。その中でも注目すべき点は、ジョン・ボニファシオと、馬車の最後尾に位置するインディオである。ジョン・ボニファシオは、未整備であったブラジル軍を編成し、側近1の地位にいた人物である。彼の像は、モニュメントとは違った台にあり、独立の第一功労者として別格に飾られていた。一方、インディオは、他の像と少し離れたところで仲間はずれのような位置に置かれてあった。これは、建国以降も彼らの待遇が向上せず、依然として独立前と同じであったことを表している。

また、このモニュメントは、ウピランカ(赤い水)の上に作られたといわれている。この事は、ブラジルがポルトガル王室の思惑によって独立できたため、血を流すことがなかったという事実を示している。

そのようなモニュメントであるが、近年ブラジルの工業化で大気汚染がひどくなったため、至る所で錆が目立っていた。

だが、その周辺を見てみるとキレイに整備されていた。米田さんの話によると、これは近年ブラジルで、ブラデスコ、イタウについで第三位の規模を誇る銀行、バンコレアルによって整備されたからだという。この銀行は元々南米銀行と呼ばれていた。その後、スナメリス銀行によって買収され、そのスナメリスが後にオランダ系銀行ABN AMROに買収された。この銀行は現在ABN AMRO資本であるが、ブラジルでは市民受けを考慮してバンコレアルの名称に変えて営業している。この銀行は、他にも公園などの整備も行っているという。モニュメントの周りには、バンコレアルが公園を整備したと書いた大きな看板が至る所で見られた。ここから、企業の社会貢献活動は、市民に対する企業イメージ向上策の一環であることがうかがえる。

モニュメントを背景に私達は記念撮影をし、その後、独立以前の状況として、米田さんから1789年に起こったミナスの反乱の解説があった。この反乱は、国家の金に対する課税や国庫への債務から起こった。反乱は鎮圧され、審問の結果、上流階級の人々は助かった。しかし、チラデンテスのみは最も貧しいという理由で、見せしめに処刑されたという。

独立記念モニュメントを一通り見たあと、私たちはモニュメントの下にあるペドロ1世の墓地に入った。皇帝の墓地は、1889年に建設された。墓地に至るまでは、大理石などで飾られ、スロープがついて整備されていた。墓地の内装は、黒い御影石で部屋の壁が覆われている。墓地への入り口の正面にはブラジル皇帝の紋章が刻まれており、その向かい側には、1889年当時の政府であるブラジル共和国の紋章が同じく刻まれていた。その左側にはペドロ1世と第一皇后が、右側には第二皇后が葬られていた。一番目の皇后は、オーストリア・ハプスブルク家の皇女であった。ハプスブルク家の皇女がなぜブラジルに嫁いだのだろうか。当時ハプスブルク家は、ラテンアメリカに興味を持っており、一時期メキシコの国王も派遣したことがある。ハプスブルク家は、政略結婚により、オーストリアの領土をこの地域に拡大しようとしたためであった。

皇帝の墓地を見終わった後、私達はモニュメントの周りにツツジが咲いていることに気付いた。ツツジは、日系移民が持ち込んだものである。これにまつわる話として、米田さんは以下のように話してくださった。このツツジは、サンパウロ市花になっている。はじめブラジルの人々は、この花をブラジルに元々あったものと思っていた。しかし、これが日本から持ち込まれたものだと聞き、ブラジルの議員の一部は、このような花を市花にするのはおかしいと主張し始めた。しかし、そのような発想は人種差別につながるとして、結局ツツジはそのまま市花となったのだという。

このあと、私達はバスに乗り、サントスに向けて出発することになった。


 独立モニュメント〜サントス

道中まず見えたのが、サンパウロ最大のファベーラ、エリオポリスである。ここでもプロジェクト・シンガプーラが実施されており、その脇には5階建てのアパートが立ち並んでいた。

しばらくすると、ABC地区に入った。このABCはキリスト教の3聖人の名前に由来する公害都市のイニシャルを合わせたものである。ここは工業地帯で、ブラジルにおいて自動車産業が勃興した最初の地でもある。道沿いには、ダイムラークライスラー・フォード・トヨタ・ルノーなど世界各国の有名ブランドの自動車メーカーの工場が見られた。また、労働組合の勢力が強く、かつて、現大統領のルラがここの組合の委員長を務めていたという。

自動車産業に関して、米田さんは興味深い点を話していただいた。昔は、フォルクスワーゲンがブラジルの自動車シェアの75%以上を占めていた。しかし、現在は、フォルクスワーゲン・ジェネラルモータース・FIATがそれぞれ30%ずつシェアを確保しているという。もしトヨタの進出がFIATの進出時と同じく早ければ、もっとブラジル国内のシェアを増やせただろうとの意見であった。ブラジルにおける自動車工場の分布についてみると、昔は輸出の面からサントスに近いサンパウロ近郊に工場が集中していたが、近年様々な州で税制面などの優遇策を取られ、ミナス・リオデジャネイロ・リオグランデドスル・マナウスなど各地に工場が分散していったという。

しばらくすると、大きな湖が見えた。そこで、米田さんから、その湖の先にサンパウロの水源があるという話を伺った。近年、サンパウロではこの水源の水質悪化が問題になっているという。原因は、ここの水源地帯への不法侵入・住み込みであるという。労働党政権は、貧困者の住居確保の問題を考慮して、これを黙認しているのが現状であるらしい。

道路は山がちの地帯に差し掛かり、濃い霧があたり一面に発生してきた。そこからすぐのところに、道路の料金所が見えてきた。昔、この区間の道路料金は徴収されなかった。しかし、次第に道路が荒廃し再舗装の必要性が生じた。初めは国が整備のため料金徴収をしていたが、政府内の利権構造などにより、徴収された料金が道路整備に回らないという事態に陥った。そこで、30年の期限付きで民間に委託し、料金徴収・道路整備を任せたという。現在では、かなり整備が行き届いている。

有料道路のあたりには、広大な森林が広がっていた。昔は、大西洋雨林がこの一帯を覆っていたが、最近ではユーカリの木などの太平洋雨林の場所が拡大し、大西洋雨林の原生林の占める割合はごくわずかになったという。

その一因は日系移民にある、と米田さんは話してくださった。1930年代以降の輸入代替工業化によってブラジルで工業化が促進された結果、大土地所有者は、農業資本を工業への投資に向けるために農地や山地の小売をし始めた。コーヒー移民として入ってきた日系人はそのような土地を購入し、山の中まで開拓し森林を伐採していった。それが、大西洋雨林の減少につながったという。

サンパウロからサントスまでの間に、森林地帯にファベーラを見つけた。また、しばらく行くと、死の谷と呼ばれる場所を見た。ここは工業地帯で、かつては世界一の大気汚染地域であり、無脳胎児などが生まれた場所であったという。現在では、企業も環境に配慮するようになり、状況は改善されている。

森林地帯を通過中、米田さんからさらに興味深い話を聞くことができた。NHKがかつて日系移民に関する番組を放映した時、「移民」という言葉は差別用語に当たるので番組で言わないこと、「移住者」と言うように、と出演者に指示したというのだ。これを聞いた出演者の一人であるブラジル日系人は、「自分は『移民』であることに誇りを持っている、『移民』の何が差別用語なのか」とNHKを批判し、番組中でも堂々と「移民」という言葉を使ったのだという。このようなNHKの、言葉だけ言い換えてこと足れりとする「差別用語狩り」について、私も疑問に思わざるをえなかった。

森林地帯を抜けると、今度はマングローブの群生地帯に入った。ここでは、渡り蟹がとれ、道端では渡り蟹を売っている人が何人もいた。


 サントスの概要

そうこうするうち、車はサントスの町に入ってきた。サントスは、1532年に、ブラジルで最初の市町村となった町である。初めて見て、ブラジル最大の港というには古ぼけた感じを受けた。大きな商業ビル群も見られず、もっと近代的な都市をイメージしていた私には、意外であった。

ここで、米田さんは、サントス港について以下のように話してくださった。

サントス港はブラジルで最大の港である。その取引額は、2002年で年間2700億米ドルにも及ぶ。昔はコーヒーの輸出が盛んであったが、最近では大豆が主な輸出産品となっている。港までの物流インフラは整っており、各地から運ばれてくる産品を鉄道で港に送れるようになっている。これは、かつてブラジルの輸出産品第一位がコーヒーであり、そのコーヒーの輸出港としてサントス港があったころの交通ネットワークがそのまま生きているからである。

このような規模を誇る一方で、この港には重大な問題点がある。それは港湾の非効率性である。その原因として、まず一番に、コンテナ船を停泊させる埠頭の収容量不足が挙げられる。また、通関を代理人に任せているため、その代理人がいないと港が機能しなくなることがある。組合の結束も強く、ストライキが多くて港が機能しない事もよくある。そして、民営化されているにも関わらず、港湾の使用料高いことも挙げられる。

今後、港にIT技術が導入されれば、アジア以上のポテンシャルになると、米田さんは予測していたが、はたしてどうだろうか。


 モンチセラートの丘: 最後まで日本の戦勝を信じた日系人たち

展望台ゆきケーブルカーの乗り場に到着した。私達は、往復運賃10レアルを払い、乗りこんだ。ケーブルカーは全長270m、標高差147m、傾斜30度あり、高所恐怖症のあるゼミ生はすこし声を震わせながら「怖ぇえ」とつぶやくほどだった。ケーブルカーの最前列には、修道女がたくさんの食料品を持って座っていた。

10分ほどで、モンチセラートの丘の頂上に着いた。ケーブルカーから降りて、正面にある二階建ての白い建物の中に入り屋上にある展望台へと向かった。この展望台はもともとカジノだったが、1953年に禁止され、そのあと現在の展望台になった。展望台のある山の頂上には教会があり、人が住んでいる。

屋上に出ると、そこからサントスの町が一望できた。ここで、米田さんからこの町の外観について説明してもらった。町の東側に港湾、西側にはビーチが広がっている。東側にある港湾では、扱う品物が地区ごとに決まっていて、自動車は山よりの所、砂糖は海よりの所から積み出されていく。ちなみに、私達がサンパウロからサントスに来た時は東側の道路を通ってきた。また、港湾とビーチの接するところがリゾートシティーとして知られている、グァルジャである。

港を見渡しながら、米田さんはサントス港についての話をしてくださった。

カルドーゾ前大統領は、鉄道・トラック・海運などのインフラ整備にはあまりウエイトを置かなかった。そのため、インフラが老朽化し、また容量が足りなくなり、ブラジル・リスクの一つになってしまった。

具体的に見ていくと、サントス港では、まずコンテナ船を停泊させる埠頭の収容量不足が挙げられる。そのため、船が港に入れず、収容されるのを待って海の沖合に待機している。私達が展望台からビーチ側の海を見た際、沖合に何台もの船が停泊しているのを見た。また、冷凍船不足なども、収容量不足とあいまって、鳥・牛肉の輸出量の伸び悩みの要因となっているそうだ。

そのようなインフラの不備は、サントス港の他でも障害となっているという。例えば、第三位の港、パラナグア港が挙げられる。この港では、鉄道による港への運送ルートの不備からトラック輸送に依存している。そのため、道路の渋滞が起こって非効率だという話である。

ネオリベラリズムを政策の基本にすえていたカルドーゾ政権は、マネタリズムに傾斜し、小さな政府が金融政策を操作すればブラジル経済が成長できると考えた。その結果、民間投資には必ずしもなじまない物的なインフラ整備がおろそかとなり、こうしたインフラのボトルネックという問題が起こってしまったのである。ルラ政権は、地道な産業政策を基本にすえて、方向転換を図っているが、インフラ整備には莫大な公共投資が必要なので、すぐに問題が解決するという状況にはなりそうもない。このような、カルドーゾ前政権が残したネオリベラリズムという負の遺産を背負わざるを得ないルラ政権は、いぜん難しい状況に置かれていようだ。

インフラ整備以外の非効率性もある。サントス港について第二位の港である、ビトリオ港のケースが挙げられる。ここでは、ミナス州内の工場から運ばれてくるFIATの自動車の輸出が一番のシェアを誇っている。ビトリオ港から自動車などが輸出されるのだが、帰りにビトリオ港に向けて積む荷物量が少ないため、片道の船がカラになるという。

港についての話を伺ったあと、私達は広大な水平線のあたりを見渡していた。しばらくすると、米田さんは、沖の方を指さしながら、第二次世界大戦終結後「勝ち組」と呼ばれた人々が、沖から菊の御紋をつけた日本の出迎えの船が来るのを待っていたんだよ、と話してくださった。

「勝ち組」とは、日本が戦争に勝ったと信じていた人々のことで、主に、ブラジルに住みながらポルトガル語を理解できず、また日本語の言論の制限、日本の敗戦による支援体制の切替えなどによって、自ら情報を収集できなかった人々が占めていた。「勝ち組」の人たちは、戦勝国日本の天皇がブラジルに差し向けた船で、日本が新たに「獲得した」ボルネオ島の農業開発に、移民たちが、ブラジル開拓の経験を生かし派遣されるという噂を信じていたという。

「勝ち組」に対して、「負け組」という日系人も存在した。「負け組」とは、ポルトガル語を理解できて日本の敗戦の情報を手に入れることができたため、日本の敗戦を受け入れていた人のことである。

このように、「勝ち組」・「負け組」と日系人が分かれたことで、「負け組」の人が、非国民だと「勝ち組」の人に殺されたり、「勝ち組」の人が詐欺にあったりしたという。

その詐欺の一つは、ブラジル日系人がボルネオに配置換えする勅令のデマで日系人が騙され、悪徳商人との取引で、自分達の土地を偽のボルネオ札と交換させられたというものである。その結果、無一文になった日系人は引き返すに引き返せず、天皇の船を絶えず待ち続け、サントスの沖をずーと見ていたという。このほかにも、偽宮様なる人物が登場して日系人に土地の寄進を要求するなどの詐欺が横行したという。

後にサンパウロ州政府が、日本の敗戦という事実を説明したにもかかわらず、「勝ち組」の人々はそれを認めようとしなかった。ブラジルに住む日系人にとって、日本は唯一の心の頼りであった。日本が戦争に敗北するはずはなく、日本の戦勝によって自分達はきっと救われると、最後まで信じていたのである。

このような話を聞いたのち、下の階に降りた。その階には、かつてのカジノ場があった。現在では、結婚式場となっており、この日の結婚式の準備が進んでいた。

昼食時間を大幅にすぎていたので、私達はここの売店で、焼きたてのパンを食べた。そして、ケーブルカーで下山した。


 廃止されたサントス駅

その後われわれは、この港で船を下りた日本の移民たちがサンパウロへと向かう出発点となった、旧サントス駅に向かった。

昔、サントス〜サンパウロ間には鉄道が運行されていた。しかし、20~30年前からモータリゼーションの影響で旅客鉄道の需要は減り、現在ではブラジルの長距離列車のほとんどが廃止されてしまった。2年前まではリオデジャネイロ〜サンパウロ間で夜行寝台列車が運行されていたが、それすらも結局廃止されてしまったという。

到着したサントスの駅舎は、昔運行していた旅客列車の遺品を展示する場所になっていた。プラットホームに入ってみると、そこは飾り一つなく真っ白でガランとしていた。ネオリベラリズム政策にともなう、巨大な輸送インフラ資産の放棄を、われわれは目の当たりにした。

ここで、水岡先生は、旅客鉄道が最低でもリオデジャネイロ~サンパウロ間で必要であるという話をした。この区間は東京〜名古屋ぐらいの距離であるが、旅客鉄道がないため移動には時間がかかる。飛行機は早いようだが、都心から空港に車で向かう時間、チェックインの時間、セキュリティチェックの時間、出発ロビーでの待ち時間、その他を考慮すれば、走行距離が1000km以内では、鉄道は旅客機と比べて競争優位に立つ。特に、リオデジャネイロ~サンパウロ間のような距離で、かつ大量の輸送需要が見込める大都市間では、飛行機と比較して鉄道がより高い競争力を有する。このようなことを考慮すると、政府が援助して新幹線のような高速旅客鉄道をインフラ整備すべきではないか、と水岡先生は話した。

駅舎を出て正面の所に、外壁しか残っていない大きな建物があった。米田さんの話では、そこは昔農場主の邸宅でその後市庁の建物として使われていたという。しかし、市庁がここから別のところに移転した後、火事で全焼し外壁のみが残るという状況になってしまった。建物の中は、雑草で生い茂っており、ごみの不法投棄なのか、所々で悪臭が立ち込めていた。かつての駅前は、旅客列車が廃止されたあと、いまや惨めな場末に変わってしまっていた。


 駅舎〜コーヒー博物館

駅舎からコーヒー博物館までは近いため、われわれは歩いてそこに向かうことになった。その道中、このあたりは昔のサントスの町並みの残っている地域だと米田さんは話してくださった。建物の特徴は天井が高く外壁がパステルカラーで窓の上側は丸く下側は四角形といった、いわゆるコロニアル建築様式のものである。ここでは、かつてポルトガルが植民地支配していた名残を垣間見た。

また、UCCコーヒーの看板を見かけた。ただ看板は古びており、今も営業しているかどうかはよく分からなかった。






 コーヒー博物館

この博物館は、かつてのコーヒー取引所で、1922〜1950年まで実際取引が行われ、全国からのコーヒーがここに集まり輸出されていった。そのため、ブラジルのコーヒーのブランドは「サントス」と表記されていた。

建物の外観は重厚なつくりをしており、内装はきれいに整備されていた。中央にはコーヒーが取引されていた大きな広間があり、議長席を中心として、広間の真ん中を席がぐるっと囲んでいた。

かつてセリが行われていた大広間の天井には、ステンドグラスがあった。ここには、ブラジルの生態系・ブラジルの農業とその主産品のコーヒー栽培・ブラジルの港と工業化の様子がそれぞれ描かれている。特にコーヒー栽培の描写が大きく取り上げられており、コーヒー栽培を賛美している様子が伺えた。また、独立当時のサントスの様子やその100年後の様子などの描かれた絵画、当時のコーヒー取引の現場写真などが展示されていた。

博物館を視察し終わったあと、私達は入り口付近にあったカフェでコーヒーを飲むことにした。値段はエスプレッソで一杯3レアル、コーヒー豆が1sで25〜30レアルだった。ここのコーヒー豆は海外輸出用の一流豆であり、普段ブラジルの一般市民の飲むコーヒー豆は三流品だと米田さんは話してくださった。ゼミ生はここでコーヒー豆をお土産として買っていった。

米田さんは、ブラジルにもしかするとスターバックスが進出してくるかもしれない、とおっしゃっていた。そういえば、サンパウロのどこにも、スターバックスの看板を見かけなかった。私達はブラジルに来て、いつもにも増してコーヒーを飲む機会が多くなった。それらのコーヒーは、みな格別においしい。このような状況下で、スターバックスはどのように対抗するのだろうか。少し興味を持った。


 埠頭

コーヒー博物館をあとにした私達は、笠戸丸に乗って日系移民が初めてブラジルにやってきたとき上陸に使われた14番埠頭に向かった。1~9番埠頭は、倉庫も荒廃しきっており現在も使用されている形跡はほとんどなかった。10~13番埠頭は、倉庫も手入れされており使用されていた。そして日系移民が上陸した場所である14番埠頭は、現在企業が所有しており、中に入って直接様子を伺うことはできなかった。そこでわれわれは、16番埠頭に入り、そこから14番埠頭を見ることにした。

16番埠頭のあたりは倉庫がかなり整備されており、トラック・牽引車・事務所などの他の設備も整っていて、サントス港として実質的に稼動している。コーヒー袋を頭で抱えている人の像の傍を通り過ぎ、16番埠頭にたどり着いた。トレーラーが多く見られ、また倉庫前には大型の貨物列車が停車していた。列車はもうすぐ動き出そうとしているところで、いったん列車が動き始めると、貨物列車は長いため通過に大変時間がかかり、当分線路の反対側に行けなくなってしまうため、われわれはあわてて線路を横断した。

事務所で許可をもらい、16番埠頭に入った。ここでは、停泊している船が荷役をしていた。積荷は化学製品で、積荷にEUROと書かれていたことからヨーロッパへ輸送される製品と推測できる。14番埠頭はここから50mぐらいのところで、中国の国旗の船が停泊していたことを確認できた。ただ、残念なことに、14番埠頭方面に歩いていくことも許されなかった。写真は、14番埠頭への遠望を一枚だけ撮影することが許可された。

シンガポールなどの東南アジア諸国では、港に設置されているクレーンで積荷作業するが、ここでは船に設置されているクレーンを使って作業していた。これは非効率であり積荷への被害などのリスクも高い。サントスが港湾として国際競争力を持つためには、相当の公共投資が求められるであろう。すでに民営化されてしまったサントス港に、それは果たして可能であろうか。

港に来て私の感じたことは、中国が積極的にブラジルへ進出しているということである。具体的には、中国は、ブラジルへの投資に対し積極的な姿勢である。日本ではJETROにあたる機関によってブラジルへの貿易振興が促されており、更に北京からリオデジャネイロやサンパウロへの直航便なども設置されはじめている。また、個人レベルでも、中国人の観光・ビジネス目的でのブラジル来訪が増加している。先ほどの16埠頭の見学で、ブラジルと中国の間で盛んに貿易が行われていることを実感した。中国はBRICsの結びつきを通じて、ブラジルでの自国のプレゼンスを積極的に高めようとしていることが分かった。

ブラジルの近年の貿易の動向について、米田さんは以下のように話してくださった。ブラジルは、最近ようやく輸出の重要性を認識したという。以前は、レアルプランのときのように、自国通貨の対米ドルレートを高く設定していた。そのため、投機筋から攻撃を受け、高為替レート維持のために高金利で国債を更に大量に発行するなどして、悪循環に陥っていた。しかし近年は、国際競争力を高めるためには、むしろ為替レートを低くした方が得策であると考え、変動為替相場制にしてブラジルの実物経済に見合う水準にまで低下させた。このような状況の下で、ルラ大統領による産業政策の強化とあいまって大豆・鉄鉱石・飛行機・鉄鋼・自動車などの輸出が促進された。その結果、国際収支の黒字が十数ヶ月維持されることになった。この国際収支の安定的な黒字は、対外債務返済・国債の金利低下・為替安定を生み、ブラジルを将来テイクオフさせると、米田さんは力説していた。この論点は、サンパウロのFIESPでも会長から伺った論点と基本的に同じである。今後のブラジルの経済発展は、輸出を中心とした、着実なポストネオリベラリズム的産業政策によって達成できるだろうと私は感じた。

米田さんは、ルラ政権にまつわる話として、次のような話をしてくださった。労働党によるルラ政権発足直後、対外債務の返済を停止するかもしれないという不安感から、1米ドル=4レアルにまで通貨は下落した。しかし、ルラが中央銀行総裁や財務大臣のポストに引き続きマネタリストを登用するなど、マクロ経済政策は以前のカルドーソ政権の経済政策を踏襲する姿勢を示した。その結果、債務返済停止するという不安感は消え、レートは1米ドル=2,6レアルまで戻った。現在もこのレートは維持されている。ルラ労働党政権は、国際政治の面ではアメリカ合衆国から自立する姿勢を明確に打ち出しているが、こうした産業政策は、市場も評価しているのである。グローバル経済で競争するため、べつにアメリカべったりになる必要は全くないということだ。


 港〜ビーチ

埠頭の視察を終え、今度は日本移民上陸記念碑に向かった。

その移動中、他の埠頭も見ることができた。30番台の埠頭には香港・シンガポールにあるような最新鋭の箱型クレーンが設置され、コンテナの数も多かった。サントス港でも、最近では積極的な設備投資が行われている部分があることもわかった。

また、日本への輸出用ジュースのタンクなども見られた。ここから発送されたジュースは、愛知県にある基地に陸揚げされ、日本全国に発送されるらしい。日本のパックジュースの原料は、かなりのものがブラジル産である、と米田さんが話していた。

移動中にガソリンスタンドを通り過ぎると、米田さんは、ブラジルではアルコールをガソリンスタンドで売っていることについて説明してくださった。ブラジルは砂糖生産が世界一で、サトウキビから含水アルコールがとれる。石油危機の時、それに目をつけ国内の車の90%近くをアルコール車に転換させるというプロジェクトを行った。しかし、季節によって取れる量の変動が激しかったこと、また不況になってサトウキビを備蓄しなくなりアルコールが不足したことなどが原因で、結局プロジェクトは頓挫した。現在では、ガソリンの中にアルコールを混ぜて使うというやりかたが採用され、25%までアルコールを混ぜてもよいという法律となっているらしい。グローバルにみて、石油エネルギーは米英系メジャーに支配された戦略物資となっていう。ブラジルで大量に取れるアルコールを代替エネルギーとすることは、米英支配から脱却しようとするブラジルの資源戦略にちがいない。日本が、こうした戦略を全く持っていないことが悔やまれる。

埠頭の端に近づいてくると、砦が見えてきた。これは、かつてポルトガルがコショウ貿易を牛耳っていた頃、その報復としてオランダ・フランスから受けていた海賊行為の取締りまた防衛のためのものだという。


 世界一長いビーチ(日本移民上陸記念碑)

世界最大の海浜公園だというサントス・ビーチについた。ビーチは、バレー・サッカーしている人で賑わっていた。ちなみに、ブラジルでは海開きはないそうで、年中開放しているという。

道路が込み合っていたため長居はできず、バスがビーチを巡回している間に、私達は日本移民上陸記念碑を視察した。この記念碑は、1998年に移民90周年を記念して、移民の到着地であるここサントスに、当時の総理大臣橋本龍太郎によって建立された。そして、1999年に神戸でも同じく日系移民の乗船記念碑が建立された。

記念碑は、日本語とポルトガル語が併記されており、1998年当時の日系人の人口数が書かれていた。それによると、現在存命の日系人は140万人で、そのうち1世は7万人だという。私達は、日本から距離的に最も遠い国の一つであるブラジルに移民としてやって来て、立派に生き亡くなられた人々に、黙祷を捧げた。

この移動の中で、米田さんから、ブラジルでは、1988年から、重国籍が認められるようになったという話を聞いた。ブラジルでは、IDを取得すれば、二重国籍を認めているため国籍を放棄せずに選挙権を獲得できる可能性があるとも話していた。すでに新垣さんのお宅で伺ったように、ブラジルの人たちは、このような制度を利用して、海外に積極的に労働力移動を行っているのである。





 植物園

サントス訪問の最後に、われわれは植物園に入った。

ここでは、ブラジルの国名の由来であるパオ・ブラジルの樹やハイビスカス、水に浮かべようとすると沈んでしまうアイアンツリー(鉄の木)などを見た。

そもそもブラジルは、当時グローバルな覇権国家だったポルトガルの人たちが、パオ・ブラジルを求めて入植したところに始まる。パオ・ブラジルとは、弦楽器や赤の染料に使われる最高級の材質の樹である。近年では、伐採が進んでいるため、ほとんど天然の木はみられないそうだ。また、コチア組合の名前の由来となったコチアの木も見かけた。


 植物園〜サンパウロ

サンパウロに戻る時間となった。植物園から、サントスのサッカースタジアム、24時間体制のキリスト教系病院などをバスの中から見ながら、サントス〜サンパウロを結ぶ道路に入っていった。ここは、上りと下りがまったく別のルートを通っている。サントスからサンパウロには、標高差が800mある。上りの道路には、トンネルが多く、この道路建設にはかなり大規模な土木工事がかかわっていたと思われた。

その道路を通りながら、米田さんからブラジルのゼネコンについての話を聞いた。ブラジルは、ラテンアメリカでもっともこの分野の技術が進んでいるという。特に、大規模な工事は、日本やフランスから最新技術の移転も受けているが、基本的な点では自前の技術を持っているという。海外、特にアフリカや他の中南米諸国では、ブラジルのゼネコンが工事を請け負っている。その要因として、コストが他国と比べて安く済むこと、また中南米においてブラジルが地域大国として影響力を及ぼしていることなどが挙げられるという。一方、小規模工事は弱く、道路の整備などはあまり行われていないそうだ。また、もっとも政治献金が多い業種は、ゼネコンだそうだ。昨日視察した航空機などだけでなく、土木技術でも国際的な競争優位をもつブラジル。なかなか大したものだと思った。

帰りは、行きよりも更に濃い霧に覆われており、外の風景は全く見えなかった。しかし、サントスからサンパウロへのバスがかなり走っており、サンパウロからサントスへの道路が渋滞していたのを見かけた。

サンパウロにつくと、米田さんから日系人芸術家はかなり評価されているという話を聞いた。その途中日系人の作ったアートがあった。


 ショッピングセンター

サンパウロに着いたが、夜行高速バスの出発までは、まだ時間があった。そこで、近くの大規模なショッピングセンターで、私達は1時間ほど時間をとり、各自夕飯をとることにした。

このショッピングセンターは、アメリカ風のつくりで、平屋ないし二階建ての広い建物が二つある。また、大きな駐車場も設置されていた。少し価格が高そうな店が多いが、どんな所得層の人も入れそうな仕掛けが施されていた。ウインドウショッピングが楽しめそうであり、入っている店舗もレストラン・家具・電化製品・洋服店など様々であった。その中でも、分割払い・普通払いが併記されていたこと、フランス系スーパーのカルフールが店舗を構えており生鮮食品が山積みになって置かれていたことなどは印象的であった。午前中視察したサンパウロの露天マーケットが小さかったのも、このようなスーパーマーケットがサンパウロでは浸透しているからであると思われる。来ている客はこざっぱりとした無難な服装をした人が多い。米田さんの話では、ファベーラからの客もよく訪れているのだそうだ。このようなショッピングモールは、サンパウロにはかなりの数がある。このことから、ここには幅広い所得層が足を運んでおり、その消費によって一定の利益を上げているということが伺える。更に、ファベーラの人と一般の人との生活水準や購買意識に、大きな違いはないということもいえる。

米田さんのお勧めで、あのアイルトンセナの愛用していたシュラスコの店に入り、米田さんと楽しく食事した。果たして、この日以降何回目シュラスコを食べることになるのだろうか。このときは知る由もなかった。


 バスターミナル

さよならサンパウロ!

食事を終え合流した私達は、次の目的地ベロオリゾンチに向かうべく、夜行バスのターミナルへと向かった。アルファインテル南米交流サンパウロ支店の米田さんには、2日間ガイドをしていただいた。ブラジル日系人の日本語ガイドは、これほど幅広い分野の内容に精通しているのかと、われわれ一同驚いた。米田さんは大変よく勉強しておられ、大変な熱意でブラジルのさまざまなことを詳しく私たちに説明してくださる、優秀なガイドだったと思う。ほんとうにありがとうございました!

バスターミナルは、ブラジルの中でも最大規模であり、内装も空港のような感じできれいだった。建物は2階建てで、2階部分は天井が高く、店舗もレストラン・売店・ネットカフェ・おみやげ物屋など数多く入っている。そこから、エレベーターもしくは階段で1階のバスの乗り場に降りた。バス会社が30〜40社ほど入っており、同一区間にたくさんの会社の路線が並行して走っていて、バス会社間で激しく競争していることが伺えた。統一したチケットブースはなく、チケットに記載されているゲートの番号のゲートに行き、そこから直接バスに乗りこむことになる。

私達はゲートを見つけて、チケットの確認を受け、バスの下のトランクに荷物を積込み、バスに乗り込んだ。バスは2人席だがスペースは広く、飲み水がバスの後方の冷蔵庫にあったり、DVDの上演などがあったりとなかなか快適だった。運転手との間には、頑丈なドアがあって、走行中は閉ざされていた。箱車のようなつくりは、バスジャック防止のためだと思われる。


5日間いただけでとても愛着をもてたブラジル最大の都市サンパウロに別れを告げ、明日からの未知なるブラジルの広大な大地に期待を踊らせながら、目を閉じた。


(遠藤 徹)

←前日にもどる |  2004年巡検トップにもどる | 翌日に進む→