9月17日 コルンバ ブラジル・ボリビア国境 プエルトスアレス 


 飛行場へ 

目覚まし時計の音が鳴り、起床。時間は、3時45分。今日は、国境を越えてボリビアまで向かわなくてはならない。巡検中、もっとも長い行動の日である。

フライトは、6時発である。眠気を覚ますためにシャワーを浴び、荷物を整理した後、5時にホテルをチェックアウトした。その後、ホテルで朝食をとり、5時30分にタクシーで空港に向かった。まだ真っ暗な道は、途中に車をほとんど見かけなかった。

20分ばかりで、空港に到着した。一台あたり一律料金20レアルを支払い、空港の中に入る。チェックインカウンターは早朝であるにもかかわらず、多くの人で混んでいた。順番待ちをしている間、並んでいる人々を見てみると、昨日のイグアスの滝と同じように、中国人観光客が多いことに気付いた。また、並んでいると、前日イタイプダム観光の際ご一緒した日本人の方と出会った。ツアーに参加しておられ、これから、マナウス方面に向かわれるのだという。まさに偶然であった。

チェックインを終えたのち、待合室に向かう。60〜70人ほどは席にすわれる規模であったが、サンパウロ行きの便を待つ客で、ほぼ満席になっていた。私達はなんとか席を見つけて座りフライトの時間までしばらく待った。


 飛行機での移動(イグアスの滝~サンパウロ~カンポグランジ)

7時ごろに飛行機に搭乗する。本日の目的地は、ブラジル側の国境の街コルンバであるが、直行のフライトは無い。また、コルンバへの玄関口に当たるカンポグランジ行きの直行便も無い。いったんサンパウロに行き、そこからトランジットして、カンポグランジに向かうというルートをたどらなければならない。ブラジルの航空交通が、大都市サンパウロをハブとして展開していることが、よくわかる。

サンパウロに着くと、ブラジル巡検の初日から5日間滞在したサンパウロに、懐かしさを覚えた。乗り換えて、2時間の後、ようやくカンポグランジに到着する。

サンパウロとの間には、1時間の時差がある。私達は時計を1時間遅らせた。空港のロビーにつくと、観光ガイドがたくさん客引きをしていた。ここは、アマゾン川に変わって最近人気を集めるパンタナールへの入り口としての地理的な条件を生かし、エコツーリズムに力を入れているのである。たくさんいたガイドのうちの一人は、以前日本のTV番組に出演しパンタナールをガイドしたことがある、と言っていた。

ブラジルは伝統的なヨーロッパの都市空間が残っているところが非常に多い。広場の中心に教会があり、教会が中心となって同心円状に道路が広がっているという都市構造だ。この伝統的な都市構造のために鉄道が有機的に結合せず、結果としてモータリゼーションが進んでいる。鉄道網の不備を補うようにあとから地下鉄が建設された。車による大気汚染や渋滞も問題になっており、車のナンバーの末尾番号による交通規制などの対策も行われている。大金持ちは末尾番号の異なる車を複数所有しているという話も伺った。ブラジル社会の所得格差が大きいことを改めて感じた。


 カンポグランジのバスターミナル

空港から、私達はタクシーを使ってバスターミナルへと向かった。

バスターミナルに向かうまでの間、しばらくは民家が点在しているのみで空き地が目立っていた。しばらくするとターミナル付近の大通りにやってきた。通り沿いには、マクドナルドなどの外資系飲食店やショッピングセンターなどが店を連ねている。大通りを進み、その途中の角を曲がりしばらく進むとバスターミナルに到着した。

到着したのは10時すぎ。10時発のバスは行ったばかりで、次の便には2時間待たなければならなかった。われわれは、ターミナル内の待合室にて荷物を降ろすことにした。その後、ゼミ生の何人かで荷物を見張りつつ建物とその周辺を探索した。バスターミナルは2階建てで、以前訪れたベロオリゾンチのターミナル程度の規模であるが、その外装は薄汚れていた。しかし、パンタナールに向かうヨーロッパ系外国人観光客や多くの荷物を抱えたインディオの人々で賑わっていた。インディオの人々は、ボリビアに帰るのだろうか。

バスターミナル内にはいくつかの店が並んでいた。店では、観光客向けのパンタナールグッズ・サッカーTシャツのレプリカ・カメラ・カメラフィルムなどが売られていた。ターミナル周辺には、宿屋を2・3件見かけた。その内の一つは国際ユースホステル協会に所属しているユースホステルであった。泊まっている人の多くはヨーロッパ系の外国人観光客で、宿屋を頻繁に出入りしていた。また、宿屋は同時にツアー業も取り扱っており、宿屋の料金表の隣にツアーの料金表も見かけた。ここは、やはりパンタナールへの入り口的な場所であり、その周辺は観光業が収入源になっていると感じさせた。

散策の間に、各自ばらばらに昼食をとり、いよいよ12時10分前に私達はバスに乗り込みブラジルとボリビアの国境の町コルンバへと向かった。


 バスでの移動

カンポグランジ〜ミランダ

カンポグランジの町を出るところで、草が生えており現在はあまり使われていないと思われる線路を見かけた。この線路は、以前ボリビア、サンタクルス行きのものだったが、民営化の影響などにより、荒廃している。

10分ほどすると町の郊外にでる。郊外に出ると、廃墟となった工場が見られ、またあたり一面に焼野原が広がっていた。つい最近、人工的に焼き払われたものと思われる。

郊外から更に進むと、草原と森林が半分半分に織り交ざった広大な田園の景色となった。このあたりの草原地帯のほとんどは、大土地所有者によって所有されており、広範囲にわたって自分の領土を杭で囲っていた。ここから、ブラジルでは大土地所有でほとんどの土地が占められているということを実感できた。道路から領地に入る場所には材木で作られた門があり、そこに付けられている看板にはFAZENDAと書かれてあった。また、領域の中の一部分には、集落や住宅群が見られた。この土地の活用方法は、ほとんどが放牧である。また、牧場で牛乳の採乳を行っている工場などを2・3軒見かけた。このあたりでは、大規模に畑作農業を営んでいる様子は見られなかった。それは、このあたりの土地が赤土で質が悪いことなどが挙げられる。しかし、このような条件下にしても土地利用が効率的であるとは言い難いと感じた。

バスが通っている道路は、高速道路ではないが、ブラジル〜ボリビアへの最も重要な幹線道路としてキレイに舗装されており、道路が劣化していると修理が施されていた。この道路の制限時速は80kmであり、バスが時速90kmで走っていたことなども考えると、この道路は日本の高速道路並みの時速を出せるほど良質なものであるといえる。また、道路沿いに椰子の木や杉などが植林されていていた。

通行している車には、トラックや高速バス・観光バスが多かった。トラックはブラジルからボリビアに向けての便であるようで、その積載内容は、牛や羊などの家畜、石油や化学製品などであった。また、ブラジルからボリビアに向けて走行している高速バスをよく見かけた。乗っている人は、インディオが多かった。この道路は、ボリビアに向かう人や物の幹線であることが伺える。

また、この道路沿いには絶えず電線が走っていた。また、この道中にMSTの旗を掲げている小さな集落を見つけた。このようなところにまでMSTの活動が広がっているのだ。

出発から2時間ほどすると、初めて大きな交差点についた。ここの地名はアナスタシアという所で、このまままっすぐ進めばボリビアへ、曲がるとパラグアイへと行く。このあたりには、小規模の村落・ホテル・小工場や発電所が集積していた。また、他のところと比べると道路が少し劣化していた。

ここから少し離れると、再び以前と同じような風景になった。その道中にファゼンダの看板があり、ここの土地所有者が敷地内のパンタナールをガイドするという内容のエコツーリズムの宣伝が書かれていた。ここではパンタナールの大地を、放牧だけでなくエコツーリズムの場として利用していた。この道路沿いの土地の利用方法はほぼ放牧のみであり、あまり効率的な利用が出来ているとは思えなかった。今後は、農業・パンタナールについてのエコツーリズムをすすめる、もしくはMST運動を展開している人々に土地を分配してあげる、などのことをすれば、より有効な土地の利用が今よりは出来るのではないかと思った。

パンタナール

2時30分頃、休憩地であるミランダという地名のところについた。この町に入り口には、「パンタナールへようこそ!」という内容の大きな看板があった。ここでは15分の休憩である。おみやげ物屋が数軒・ホテルなども数軒あり、観光の拠点であることがわかった。また、バスターミナルには、パンタナールに向かうエコツーリズムの観光客を待ち受けるバスが何台も停車していた。

最初アナウンスされた休憩時間が終わると、バスの運転手は、客が全員乗ったかどうか確認もせずに、バスを発車させた。日本と違い、乗り遅れても、それは完全に自己責任である。

しばらくすると、以前とは少しずつ風景が異なってきた。背丈の高い草や低木がうっそうとしげっている場所が多くなり、沼地が所々に見られるようになってきた。また、私の見たことのない珍しい鳥やさぎなどが多く見かけられた。いよいよパンタナールの核心部に入ったのだ。

それでも、比較的乾燥した土地では、ここに来るまでと同様、放牧が行われていた。その中には、ミルク採乳場も多く見かけた。また、電線も依然として引かれていた。

しばらく進むと、農業を行っているところを発見した。以前セラード開発で見かけた半径500mほどの円形の水撒き機があり、ここでも何かが栽培されているようだ。このような農業地が3~4kmほど続いた。この道中、唯一の農地であった

やがて、中・高木の森林や沼の占める割合が多くなってきた。所々、牛などの放牧が行われているものの、このあたりに人の手の加わっている様子はなかった。このような風景が、この後1時間強ほど続いた。道を進むと動物飛び出し注意の標識があり、道路の工事も行われおり新しく道が舗装されていた。

パラグアイ川〜コルンバ

地理好きにとっては憧れのパンタナールの風景が続いた後、パラグアイ川を通過した。今この川には橋が架かっているが、数年前までは、フェリーでこの川を横断していた。橋ができたおかげで、40分くらい時間を節約できた。

橋を横断すると、徐々に風景が変わってきた。今までは見られなかった山々が現れ、牧草地・丘など起伏の多い草原地帯になってきた。更に進むと森林なども現れ、湿地とは違った風景となった。このあたりでは、所々道路の修築が行われていた。また、カンポグランジから依然として電線がつながっていた。

しばらくバスが進むと、アナウンスが流れてきた。もうすぐコルンバに到着するとのことである。私達は身支度をして、バスを降りる準備を始めた。


 コルンバ

コルンバの、乗り降りする場所以外特に店なども見当たらない小規模のバスターミナルに、われわれは17時30分に到着した。

コルンバはボリビアとブラジルの国境の町である。幹線道路以外の道路は舗装されておらず、レンガ造りの家が多かった。

この町には自動車の鉄くずの集積所が多く見られた。日本製の車と思われるものも多く見かけた。これは、ボリビアとの国境付近の町であることを考えるとボリビアへの輸出品であると思われる。この町の経済はこの鉄くずの輸出が大きな割合を占めていることが伺える。さらに、列車の操車場があり、大量の貨車が停まっていた。ボリビアからの鉄道の終点がここで、ここからトラックに積み替えてブラジル国内へ、あるいはその逆という貨物輸送が行われているのであろう。


ブラジル⇔ボリビアの国境

ブラジルからの出国者は、本来、コルンバ市内のブラジル連邦警察で、出国スタンプをパスポートに押してもらわなければならない。しかし、警察の執務時間は17時までで、すでに閉まっている。このようなところに、マスツーリズム的旅行をする日本人は訪れない。しかも、ルールがしばしば変わっているらしく、われわれが契約したサンパウロにある日系旅行社は、ここの国境通過について、役に立つ情報をまったく持ち合わせていなかっだ。

先生は今日19時にプエルトスアレスの駅から夜行列車が発車するという情報を持っており、その後の列車の状況は不明確であった。私達は国境越えをして、ボリビア側の最初の街、プエルトスアレスで宿泊することにしており、ホテルに予約を入れていたが、間に合えばその夜行列車に乗って、今晩中にサンタクルスに向かうつもりでいた。

今回の巡検で唯一の陸路国境越えに、ゼミテン一同、緊張した面持ちだった。私達はタクシーを捕まえ、ブラジル・ボリビアの国境を目指した。もう、夕暮れ近くでタクシーに乗り込むとあたりは急に暗くなっていった。それにつれて、ゼミテンの顔も黒ずんできた。

車で30分ほど走ったところだろうか、日暮の薄暗いなかに、検問所のような建物が現れた。しかし、そこでは特に止まらずに、タクシーは通過する。その後小さな川があり、橋を渡ると、すぐまた再び検問所のような建物が現れた。私達はその建物の前でタクシーを降り、待機していた別のタクシーに乗り換えるように言われた。そこで、メンバーは異変に気付く。「ここはすでにボリビアなのか?」

実は、越えた小川が国境だったのだ。普通、陸路の国境は厳重に警備されており、検問・税関などの出国審査と、その後の同様な入国審査を受けて、初めて通過できるものである。ところが、ここの入国・出国管理の建物のブラジル側には元々誰もいないし、ボリビア側も時間外で、係官が帰ってしまったようだ。このため、国境は、フリーパス状態となっていたのである。事実、たくさんの車が、国境検問なしで絶えず行き来していた。われわれも、それにならって、国境をいとも簡単に通過してしまったのである。

簡単に出入国できたのは良いのだが、問題が生じた。われわれのパスポートには、ボリビアの入国スタンプが無い。このままだと、出国の時、私達に密入国の容疑がかけられてしまう。この先私達はどうすればよいのだろうか?

しかもその前に、私達はボリビアの通貨であるボリビアーノを手に入れなくてはならない。タクシーの運転手は、勝手を知っているかのように、われわれを、ボリビアの国境検問所付近にある闇の両替所へ連れて行った。

国境からすぐの角を左に曲がったところに、その闇両替所があった。一見すると、ただの民家である。看板も何も無い。電灯に照らされた家の玄関先に案内されると、お金の入っているポーチと電卓を持った二人の男が待っており、私達はここで彼らと両替をすることにした。

この時の注意すべきこととして、相手から交換してもらったボリビアーノを受け取り額の確認が完了するまで、自分達の所有するドル・レアル紙幣を相手に見せるだけにして、すぐに渡さないことが挙げられる。先に渡すと、ごまかされて当初もらう予定だった額よりも少ない額しかもらえなくなる可能性がある。

あとで気付いたことに、二人の男はそれぞれ別レートで交換に応じていた。一方は、100米ドル=780ボリビアーノでほとんど公式レートと同じだったのに対して、もう一人は100米ドル=700ボリビアーノと少々レートが悪かった。高額の米ドル紙幣で両替するとレートが良くなるという発展途上国での法則があるのだが、ここでは関係なかった。

タクシーの運転手には英語がまったく通じないため、先生は、片言のスペイン語とポルトガル語を織り交ぜながら、必死で交渉していた。プエルトスアアレス空港に入国管理官がおり、そこで入国スタンプを押してもらえることがわかった。そこでわれわれは、ボリビア側の国境の町プエルトレスアレスの空港へ、タクシーで向うことになった。19時の夜行列車に乗ることは不可能になったが、やむをえない。

ボリビアに来てからかどうも皮膚がかゆい。ここに来たとたん、虫刺されが多くなった。暗闇と虫刺されと国境越えのトラブル。私達の不安がますます増大していった。

20分ほど車で移動すると、空港に着いた。先生が全員のパスポートを集め、空港の入国管理所まで行き入国スタンプをもらいに行った。夕食中のところをしばらくして現れた入国係官は、先生に、ブラジルの出国スタンプがないのでボリビアの入国スタンプをおせないと言い放った。やはり、ブラジルから陸路で出国するには市内のブラジル連邦警察で出国スタンプをもらう必要があるようだ。

先生が入国管理のところに行っている間、あたりはもうすっかり暗闇に包まれていた。空港の建物の前にも、ほとんど照明が無い。すると、私達のタクシーの近くに、急に見知らぬ人がぬっと近寄ってきた。特に、何をされるというわけでもなかったが、なんとも言えぬ不気味さに鳥肌を立てた。ボリビアに入って以降、不安というプレッシャーが刻一刻と濃くなっていくのを感じていた。

10分ほどして、先生が帰ってきた。ゼミテンに入国スタンプがもらえなかったことを告げ、次の日に先生が一人でブラジルに入り出国スタンプをもらってくるので今日はスタンプをもらうのを諦めようと言った。ところが、車を出発させてちょっとするとすぐのところで、急に空港の入国管理官からタクシー運転手の携帯に電話が入った。80米ドルを払えばスタンプを押してやるという。先生は、それが一人当たりか、それとも全体でなのか、詳細を確認した。タクシーの運転手は「para todos(for all)」と答え、8人で80ドル、一人あたり10米ドルを払えば特別にスタンプを押してもらえるのだと伝えてきた。私達はタクシーの運転手と入国管理官がグルになっているなと感じつつ、ようやくスタンプを押してもらえることになり、安堵した。先生は、再び入国管理官のところに行き、一人10ドル、合計米80ドルの賄賂をドル札で払い、スタンプを押してもらった。ビジネスの成功に、入国管理官は非常に満足げだったようだ。

発展途上国、特に低所得国では公務員の大半は給料が少ないため、陸路出入国がらみのトラブルに対して賄賂が横行している。指示に従わなければ入国させない、さらには逮捕するという国家権力を管理官は背景に持っているのだから、高所得国からの旅行者は、いいカモだ。このような時、場合にもよるが、積極的に賄賂を利用することで問題がすっきり解決する場合が多い。また、公務員がいちゃもんをつけて「罰金」を要求してくる時がある。このような時も、変に潔癖にならず、様子を見ながら値切るなどして「罰金」を払うのが利口である。このような時は、必ず、現地通貨ではなく米ドル、あるいは国境が隣接するより信認の高い現地通貨(たとえば、ボリビアーノに対してレアル)での支払いを要求される。それゆえ、米ドルの小額紙幣は常に携行していなければならない。もちろん、払っても、カネは国庫ではなく個人のポケットに収まるのだから、領収書などは要求するだけ野暮である。

さて、このようにして私達は、トラブルを最小限に食い留めて合法的なボリビア入国に成功し、今夜の宿へと向かった。ただ、タクシー料金は、ブラジル通貨で1台20レアルの約束が30レアルとなった。しかし、まあ、これくらいのことはよしとしよう。


 プエルトレスアレス

プエルトスアレスに入ると、街は暗かった。所々に露天商や個人経営のレストランがあるくらいで、その周辺以外に照明は乏しい。

タクシーは、今夜泊まるホテルに着いた。われわれのボリビアの部分を担当するサンタクルスの旅行社「チョビーツアーズ」が予約を入れてくれていたはずであるが、ホテルの人に聞くと、私達の予約は入っていないという。私達の到着が遅かったため、すでに他の客に部屋を入れてしまったのだろうか。全くなぜこんなにトラブル続きなんや、と頭に血がさっと昇ったが、ぐっとこらえる。

しかし、空き部屋が残っていたようなので、私達は3人相部屋など少し窮屈であるが、ここに泊まることが出来た。ほっと一安心する。







 ミーティング

全員、おなかがすいたので、ホテルのレストランで夕御飯をとることにした。長いバス移動や国境越えのトラブルでの精神的ストレスから今ようやく解放されたせいか、みなの機嫌は非常によい。全員、ビールを水のごとく消費していく。その時、結局ビールはCuatro(4)本 × Cuatro(4)回のオーダー =16本にのぼった。全員、気持ちよくCuatro!と店員に叫んでオーダーし、運ばれてくるや否やグビグビと飲んでいったのだった。

そんな風に盛り上がってきたところで、料理が運ばれてきた。肉料理だったのだが、その肉のでかいことでかいこと。一皿30ボリビアーノで、肉1kgのステーキに大量のポテトだった。恐ろしいぐらいの量である。全員、ビールといい、肉といい、食べ物と格闘するかのごとく平らげていった。

このように食事と格闘している間、今日の出来事について話し合うこととなった。その焦点は、やはり国境越えについてである。その国境越えに関して、議論の中心になったのが国境審査の甘さ・非公式の両替所・賄賂についてである。

私達の通過した国境の審査は、非常にルーズだった。このことによって、現地の人々にとって、国境間の移動は非常に容易なものとなっている。また、仮に国境審査を厳しく取り締まっていたとしても、あの広大なパンタナールを経由した密入国、密貿易は、物理的に取り締まれないだろう。

このような物理的透過性が高い国境の状態なので、ブラジルとボリビアとの間の非公式な貿易は、かなりの額を占めていると推測できる。具体的には、車、鉄くず、麻薬などの輸出入が容易に頻繁に行われているだろう。このような密貿易による経済効果は、国のマクロデータには決して含まれないが、その規模は相当に大きいものだといえよう。それゆえ、公式のマクロ経済統計・貿易統計のみを用いて分析する途上国経済論には、常に限界と、誤った判断をするリスクが伴っている。

次に、非公式の両替所についてである。発展途上国ではこのような両替所が点在している。われわれには起こらなかったが、このようなところでは、ぼられたり騙されたりする可能性もあるため、充分注意を払う必要がある。

最後に、賄賂である。前にも書いたが、低所得国では個人所得が低く、とくに公務員がひどい。そのような状況のため、生活するには、他に収入源を確保する必要がある。そのため、いたるところで賄賂が横行している。賄賂は、途上国における通常の経済生活の一部になっているといってよい。このような賄賂を快く思わない高所得国からの旅行者は、もちろんいるだろう。自分は賄賂など絶対払わない、賄賂が悪であることを途上国のやつらに思い知らせてやる、という「高所得国民の責務」に燃える人もいるかもしれない。

しかし、このような賄賂を使うことは、最小のトラブルで旅行を続けるためには必要不可欠なテクニックである。期待した賄賂を得られなかった入国管理官や警官が、報復として、その旅行者を逮捕し刑務所に入れてしまったという事例もある。その国の法律で合法的に逮捕されてしまえば、冤罪であろうがなかろうが、日本大使館もどこも、ほとんど手足を出せなくなる。他方、この賄賂は低所得者にとって不可欠な生活費となっている。また、私達は、所得を落とす事で、現地の人の経済的な利益に貢献していることも忘れてはならない。このような状況を考えると、賄賂は決して汚いお金ではなく、双方にメリットをもたらすものである。発展途上国に海外旅行をする際、このことを旅行者は常に頭に入れておくべきである。


食事と議論が10時すぎに終り、各自部屋に帰り、眠りについた。私は眠りにつく前、ふと考えた。とうとう、はるか南米のボリビアにまできてしまったな、と。明日からのサンタクルスへの移動に期待と不安を募らせつつ、目を閉じた。


(遠藤 徹)

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