プエルトスアレス 2004 9.18


スリルに満ちた昨夜の入国を経て、ボリビア初めての朝をむかえた。今日は国境の町プエルト・スアレスから、列車でサンタ・クルスへと向かう。

ホテルの中庭に用意されたテーブルで朝食を取る。朝食がホテル代に含まれていることは同じであるが、ブラジルのバイキング式朝食とくらべるとずっと簡素である。ブラジル式に慣れて胃が拡大してしまった私たちには少しもの足りないように思った。

開放的な気分でテーブルから空を見上げる。昨日は夜遅くてわからなかったが、このホテルのつくりは、やはり今まで見てきたポルトガル風ブラジル様式とは違い、こぎれいなスペイン風の趣を漂わせている。ホテルというよりはペンションといった感じで、中央の中庭を囲んで部屋が平屋の回廊式に配置されており、中庭の真ん中には、使っていない井戸があった。

つくりは質素で、シャワーで感電しそうになったゼミテンがいたりと、ボリビアに入るなりいろいろな不具合が起きたりもしたが、私たちの靴の泥で汚れた部屋の床をおじさんがにこにこしてすぐに拭いてくれたり、あたたかいサービスがうれしかった。

 プエルトスアレス市内

先生は列車の切符を買いに駅に出かけたので、朝は自由行動になった。散歩に、女子2人で独自視察に歩いてみた。

まず、おみやげ屋があった。観光客も少なそうにみえるこの町におみやげ屋があるなんて…と興味津々で中に入ると、年配の女性店員が応対してくれた。まだまだあるわよ〜と、奥へ奥へと案内してくれた。家のつくりは細長く、道路に面している広さに比べて奥行きがかなりある。セーターやアクセサリー、バック、置物など、かなりの数と種類があった。

列車の時間が午後1時半なので、午前中はプエルト・スアレス市内を見て回ることにした。ホテルの正面が、町の中心らしい広場(公園)になっており、なにやら催し物をやっている。「FESTIVAL AMERICA DO SUL」 という南米フェスティバルキャンペーンの一環の「Arte NAS RUAS」というイベントのようだ。 脇に大きな音響機材を設置した舞台のような一角で、おじさんバンドが歌っている。「シャラヴィオーラ、片倉さん」と私には聞こえたが、一体何のことだろう。テレビ局や警察も来ていたので、知名度のあるイベントであることが伺えた。演説、フラメンコ、小・中学生の合唱など朝からいろいろな出し物があったが、出演者の数に比べて観客は少ないように見えた。

公園に面した角地にある事務所のようなところの窓に、この南米キャンペーンのポスターが貼ってあった。窓に張り付いて見てみると、以下のようなことが書いてあった。

主催 : マット・グロッソ・ド・スル州
賛助 : EMBRATUR・CVRD・ブラジル連邦政府 ・BANCO DO BRASIL
開催期間 9月17日〜25日
コルンバ ― パンタナール  マットグロッソドスル ― ブラジル

ブラジルが中心になって、国境を越えた、かなり狭い範囲の地域の協力と観光客誘致を推進するキャンペーンのようだ。昨夜のようなストレスのある国境越えではなく、国境の通過を円滑にするとか、コルンバ―サンタクルス間の国際列車を復活させるとか、環境問題へのとりくみなど、自然地理的共通性を持つローカルな地域が国境を越えてに取り組むべき問題は、山積みだ。「国際協力というのは、何も国が単位じゃなくてもいい。もっとローカルな単位で国境を越えて協力することも必要だ」先生の言った言葉は、ここに限らず多くの地の可能性を示唆していた。

ブラジルではそんなこともなかったが、 ボリビア、特にこの町では外国人は珍しいのだろう。公園を横切る我々ゼミテンは舞台のバンドよりも多くの観客の視線を集めていた。

公園をまたいでホテルの対面には薄桃色の教会があった。Corpus ChristiSAN JOSEという名のようだ。建物に入ると、聖堂までの道が緑溢れる回廊になっていて、開放的だった。朝行ったおみやげ屋で見たポストカードには、この教会を写したものもあったが、建物の色は白だった。かなり古びていたので、塗り替えたのだろう。

聖堂は、段々になった屋根の間がステンドグラスになっていて、白い壁にさまざまな色の光が射していて印象的だった。木製のはりつけのキリストが、とってつけたような布のスカートをはかされていたり、像の代わりに絵が多用されていたり、地元の人の手がよく加えてある感じだった。ブラジルでも各地で教会を訪れたが、その土地土地で教会建築は異なる特徴をもつ。宗教、信仰は画一的で完全に形而上のものではなく、土地や生活、人間に根付いたものであると私に感じさせた。そんなことを思いながら教会を出たとき、丁度目の前を自転車で通っていった少年が、胸の前で十字架を切った。

教会を出て、公園をぐるりと回る。道路は広場を囲む部分だけは舗装されているが、それ以外は舗装されていない。商店が並ぶ道を歩いていると、携帯電話を売る店・ビリヤード場・歯医者・コスメティック用品店・スーパーマーケット・宝飾店・CD&ビデオショップ・薬局・精肉店・電話屋(一般の人が公衆電話のように使うTelecel)、ネットカフェなどがあった。商店街と呼ぶにはあまりに人気が少なく、全体的にさびれた、裏ぶれた風が吹いているこの町で、携帯電話店の新しい看板はかなり浮いている。

この日以後わたしたちは、ボリビアでのネットカフェの多さに驚くことになる。これは逆に、ボリビアではまだ家庭のパソコン普及率が低いことを示している。パソコンを持っていなくても、だいたい1時間 4〜5ボリビアーノ(≒60〜70円)払えば、インターネットを誰でも使えるのだ。

ひとわたり商店街をみたあと、私たちはスーパーに入って、商品の種類や生産地を調べた。砂糖、ケチャップ、シーチキン缶など消費財はブラジル産が多い。サバ缶はチリ産。牛ガラはボリビア産のものとペルー産のものがある。怪しいポケモン鉛筆を発見。ポケモンはやっぱり世界に羽ばたいていた。ガラスやプラスチックなど食器はブラジル産だ。そういえば昨夜のビアグラスの裏にもブラジルと彫ってあったことを思い出した。水を1.5ボリビアーノ(≒23円)で買った。

レジではブラジルのレアルでも払えると言われ、店内に両替所もあった。私たちがブラジルでレアルからボリビアーノへ両替しようとしても、両替できるところはみつからず、情報もわずかだった。ところが、ボリビア側ではこんな小さなスーパーにも両替所があり、普通にレアルが使える。レアルの強さとボリビアーノの従属性、そして南米の周辺国に対してブラジルが持っている覇権の大きさを、ブラジルから出てみて、はじめてリアルに身に感じた。

そういえば、さっきから時々中古の日本車が通っていく。「○○文具店」のような日本語のロゴが入ったものが多い。プエルトスアレスは、ブラジルからの中古車密輸入が経済をささえている。ボリビアの首都ラ・パスでは2年前に日本の中古車が流れてきていて、今ラ・パスを走る車のほとんどが、日本車だと聞いたが、巡検解散後に訪れたところ確かにトヨタ、スズキ、ホンダ、スバルなどたくさんの日本中古車を目にした。

大通りから一本中に入ってみる。SE VENDE、売り地の看板がそこかしこに立っている。土地を売りに出しているものもあれば、建物に紙で貼ってあって、家付きで売るものもあった。地域経済は衰退してきているのであろう。先生は国境貿易でもっと栄えているかと来る以前予想していたと仰っていたが、なぜこうした衰退が起こっているのだろうか。

ホテルに戻り、シャワーを浴びて昼食を取った私たちは、列車に乗るためにホテルを出発した。その直前、ホテルの前でコーヒーを飲んでいたおじさんが、裏に電話番号を書いた名刺をくれた。笑顔でグラシアスと告げ、二度と会うことがないだろう彼に手を振りながら、南米ウケする顔なのだろうか…と喜んでいいのか思案に暮れた。

ホテルが手配してくれたタクシーはこれまで巡検中に乗ったかなりのタクシーの中でもつわもので、なんとドアが閉まらなかった。バタン、と閉めても簡単にデロン、と力なく開いてしまう。タクシーの運転手は「乗車中ずっとつかんでいれば大丈夫だ!」と無茶なことを言うが、おもしろがる私たちを他所に、「NONONONO NO!」という先生の一蹴で別のタクシーが呼ばれた。

 Estacion Ferroviaria Puerto Suarez 

タクシーで10分くらい乗って、プエルトスアレス駅に到着。周りの風景に不似合いな真新しくて大きな駅舎が立っていた。線路の近くには警備員が二人いるのが見える。

駅には、貨物列車と、オレンジ色の車両が止まっていた。車両にはRed Orientalと書いてある。これが、ネオリベラリズムの流れに乗って、ボリビア国鉄は最近民営化された鉄道会社の名前らしい。

入り口の近くに国旗を含む三つの旗と、16.SEPTEMBRE.04と標した碑があった。これっておととい…?おとといこの駅ができたのか?この碑ができたのか? いずれにしても、コンクリートや建物のつくりを見ると、かなり最近にできたものだと分かる。だだっ広くがらんどうの待合室は人もまばらだが、ホームには、たくさんの人が、コンピュータ印字された前売り指定券を手に、列車を待っている。この鉄道は、ボリビアの人たちには大変ポピュラーなようだ。乗客にパンや水、レモネードを売るこどもたち。のどが渇いたので、飲み物を買おうとしたのだが、大きな札ばかりで小銭の持ち合わせがなく、売ってくれない。この列車は、ブラジルからの密輸品をボリビア国内に運ぶ、運び屋列車として知られている。家電を風呂敷に包んで持っている人たちは、出稼ぎの帰りだろうか、ブラジルからの買出しだろうか。

13:30発のはずの列車は、14:00になってもまだ来ない。ホームと待合室を行ったり来たりしながら、ブラジル製のトラクターなど農機を乗せた貨物列車が行くのを見た。貨車もブラジル製と書いてあった。ブラジルは工業力も圧倒的に強い。

この列車移動に関しては、かなり、ボリビアを担当したサンタクルスの日系旅行社「チョビーツアーズ」とのあいだで紆余曲折があったようだ。当初は、この区間の列車の切符は買えないと言われたが、交渉したところ、ビジネスクラス、車内食付き220ボリビアーノの列車があり、旅行社がチケットをアレンジしてくれることになった。しかしその後、ビジネスクラスがなく普通列車のみだという情報を受けた。ところが、巡検中に再度アルファインテル社経由で連絡が来て、「列車自体が運休になった」、約5万円の追加料金を払って、サンパウロからサンタクルスまで飛行機で行け、という提案が旅行社からなされた。しかし、今まで幾多の巡検経験を積んだ水岡教授は、二転三転する旅行社の情報はあてにならない、列車は必ず運行しているはずだ、飛行機で一挙に飛ぶより列車を利用してつぶさな経験をした方が教育効果ははるかに高く、しかも南米に行くだけで多額の費用がかかっているところに5万円の追加は学生に過大な経済的負担をかけると判断し、この列車で移動することを貫いたのだった。そして実際この地まで来てみると、前売り指定券は発売されており、列車は運行されていた。この一連の話は、帰国後のゼミ室で初めて耳にし、私は今更ながら軽い震えを覚えた。先生ご自身も、コルンバからプエルトスアレスまでのあたりは、巡検中で一番情報が入りにくかったエリアで、列車に乗るまで気が抜けなかったと言っていた。

  列車21時間の旅

14:15、ようやく来た列車の「プルマンカー」(1等)に、私たちはとりあえず乗車した。さてこの列車、今朝先生が買いにいってくれたにも拘わらず、指定券は前日までの前売りのみで、当日売りをしていなかった。だから、私たちは乗車券を持っていないのである。しかし、プルマンカーの車内に若干の余席はあったので、私たち水岡ゼミ一行は、とりあえず空いた席に座ってその後車掌にお金を払うという、既成事実作戦に出ることになった。

しかし、スペイン語で説明をする先生が車掌に連れてゆかれ、この車両から去り、残された私たちを昨夜の国境越えに次ぐ緊張感が襲う。軌道の保守がよくないようで、列車の揺れが激しく、しかも上下に揺れるので、これは酔うかもしれない。壊れて少ししか開かない窓の外はずっと枯れた林が流れていく。

15:30までに車掌との交渉が成立、2割ほどペナルティー込みの140ボリビアーノで指定のないプルマンカー乗車券(いわゆる「立席特急券」のようなもの)を買うことに成功した。パスポートもチェックが済み、そのままこの席に座っていてよいことになった。座席は多少古びているが、一応リクライニングする。しかし、客車に冷房はついておらず、暑い。というより熱い。斜め前の座席に座っているゼミテンの山田さんが窓を開けてくれた。窓から吹く風は熱風だ。乾燥機の中に入れられた気分だ。速度はかなり遅い。時速40〜50kmくらいだろうか。ラ・パスの標高が高いイメージが先行して寒いと思っていたが、ブラジルにはなかった、南米の大地の熱さがここにはある。途中、少し視界が開けた。遠くに山、山脈が見える。このあたりの土地は砂塵や土煙が多い。灰のようなものも時々舞う。

15:50列車は駅に停まった。「タマリンドー?」という呼び声がする。子どもたちがコーヒーや食べ物を売りに、列車の中や外を歩いてまわっているのだ。「リモナード フリーオ?(冷たいレモネード)」「カフェ・レイチェー?(ミルクコーヒー)」コーヒーやレモネードを詰めたタンクを提げ、張り上げる声は途切れることがない。子どもに混じって犬が列車を見上げている。おこぼれに預かることがあるのだろう。カルネという餃子みたいなかたちをした揚げ物が熱くておいしい。中身がポテトだったりカレーだったりする。発車してもしばらくついてくるこどもたちを振り切るように、列車は駅を離れた。

16:35、窓の外を見るとそこら中の草に火がついている。しかも風が熱くなるくらいだった。森林伐採、焼き畑農業。といつか習った単語を思わず呟いた。

17:10、町にさしかかる。どこの国の赤ちゃんも電車を見るのは好きらしく、親が抱きあげて一緒に指さしていた。姉妹だろうか、8歳と5歳くらいの小さな女の子に窓から手を振ると、二人手を振ってくれた。間もなく列車は再び停車し、40分ほどの長い夕食休憩となった。ホームでは、肉を焼いてライスの上に乗せて売るおばさんや、行き交うパンや飲み物の売り子、そして乗客でごった返している。この列車には食堂車がついていないので、乗客は思い思いにここでホームから食物を休憩の間に、プラスチックのパックに入った肉+ケチャップライス+ポテト+トマトを5.5ボリビアーノで買った。0.5ボリビアーノの冷たいレモネードが熱い体に染み入る。

前の座席のおじさんのいびきがあまりにダイナミックで、周りの乗客は顔を見合わせて苦笑いしている。座席のクッションのやわらかさと体の熱で寝るにも寝られず、トイレへ立った。「そこまで汚くないや、よかったー」と安心したのも束の間、何やら便器の底が緑色…。動いてる? まさか…。緑色は地面の草だった。動いているのは勿論、列車が動いて景色が変わるからだ。要するに便器はただの筒。先生は後に、日本だってついこのあいだまで、ああした線路に垂れ流しのトイレでしたよ、と言ったが、私にとってはネズミの丸焼き料理に勝るカルチャーショックだった。後日、先生は私がカルチャーショックを感じたことにジェネレーション・ギャップを感じ、逆にショックを受けてみえた。

18:00線路沿いに見えた赤茶色の真っ直ぐな土の道は、プエルトスアレスとサンタクルスを結ぶ唯一の道だ。サンタクルスに行くには、あの道をバスか車で行くか、この鉄道か、さもなくば飛行機しかないのだ。ボリビアの道路のインフラはまだまだ悪い。しばらく見ていたが、その間、大量の貨物を積んだ大型トラックに2台すれ違った。ブラジルへ向かうのだろうか。まだまだトラックが行く先の長さを思うと、何となくかわいそうになってしまった。

私たちは明日訪ねるオキナワ移住地の人たちと同じルートでサンタクルスに向かっている。米国統治下の琉球からシンガポール、南アフリカ経由でサントス港に到着した沖縄の人たちは、その時代に確かな情報もなく、言葉もわからない中でこのように列車に揺られ、どれだけ大きな不安を抱えた手探りの状態だったのだろうか。それとも不安よりももっと大きな夢を抱いてこの景色を眺めていたのだろうか。 

この狭い列車の中で、私たちはほぼ丸一日、ボリビアの人と一緒に過ごした。車両中に響くほどの大声で「ヒロシマ!」と叫ばれたときは、悪意があるのか陽気なだけなのかわからず、びくびくしたが、窓の開け方を教えてくれたり、ボリビアは初めてだと言うと「クイダード(気をつけるんだよ)」と何回も言ってくれたり、決して快適とは言えない長旅を和ませてくれた。この列車の旅と、窓に流れる大地の果てしなさは、ちょっと忘れがたい。日本に帰って、再び狭い空間で生きるようになって、どこかで行き詰まったとしても、このどこまでも続く景色が私を救ってくれるだろう。

少し涼しくなってきた風に晒されながら、そんなことを思って目を閉じた。

(藤目 琴実)

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