イグアス 2004 9.16


外が明るくなって目が覚めると、バスは広い草原を走っている。所々の町でこまめに停まりながら、終点のフォスドイグアスをめざした。早朝のパーキングエリアには、メルコバスというロゴと、近隣諸国の国旗が書かれたバスが停まっている。メルコスール4ヶ国を走るのだろうか。この2週間あまり、ブラジル各地を回ってきたが、南米の近隣諸国との関係や相互に与える影響をここでは肌で感じる。国境に近い地まで来たことを実感した。

外が明るくなって目が覚めると、バスは広い草原を走っている。所々の町でこまめに停まりながら、終点のフォスドイグアスをめざした。早朝のパーキングエリアには、メルコバスというロゴと、近隣諸国の国旗が書かれたバスが停まっている。メルコスール4ヶ国を走るのだろうか。この2週間あまり、ブラジル各地を回ってきたが、南米の近隣諸国との関係や相互に与える影響をここでは肌で感じる。国境に近い地まで来たことを実感した。

人口18万人、パラナ州フォスドイグアスはアルゼンチンとパラグアイに隣接し、イグアスの滝の拠点として発展した観光都市である。イグアスの滝は世界三大瀑布に数えられ、日本からもリオデジャネイロの次に多く観光客が訪れる。毎月ESTADOS DES AMERICASというホテルで、ブラジル・アルゼンチン・パラグアイの観光にかかわる3ヶ国会議が開かれるそうだ。

今日のガイドは、早場さんだ。「ガイド兼運転手なんです。」と颯爽とバンの運転席に乗り込む姿にゼミテン一同「つよい!!」と声をあげる。私たちは早場さんの運転でホテルに向かった。今日宿泊するホテルカリマは、市街地を抜けたところにあり、低層で落ち着いたリゾートホテルの趣きで,コロニアル風の豪華な、やたらに広い建物である。実際ホテルの中で迷子になったゼミテンもいたようだった。プール、カフェ・レストランなどがあったが、とてもホテルの全構造を把握できないほどの広さだった。われわれが滞在したホテルの中では、リオデジャネイロと並んで高級だった。
われわれは、部屋に荷物を置いて、朝食を取った後、イグアスの滝へと出発した。


 イグアスの滝

滝のあるイグアス国立公園の中へ。途中、アルゼンチン行きの分かれ道があった。
入場口で一旦降り、ビジターセンターを通って、入場券(20レアル)を手に、回ってくる車を待つ。
国が経営するこのビジターセンターは、日本のアウトレットモールのような雰囲気で、大きなおみやげ店や、案内タッチパネルなどがあり、綺麗で快適な空間をつくっていた。自然に調和したデザインになっており、欧米から来る観光客に受けるようになっている。ブラジル政府がどれだけイグアス国立公園の国際観光地化に力を入れているかが、ありありと伝わってきた。

案内版によると、この公園は1939年設立、面積185,262.05ha。1542年スペイン人がイグアスの滝を発見し、1986年にはユネスコ自然遺産に認定された。滝の13km手前から国立公園になっている。この土地を政府が買って、国立公園にしたようだ。ブラジルには44ヶ所の国立公園があるが、儲かっているのはここだけだよ、と早場さんが仰っていた。アルゼンチン側にも国立公園があり、R$35で入れる。だが、アルゼンチン側から滝を見るためにはフォスドイグアスに戻り、プエルト・イグアスというアルゼンチンの街から入国してぐるっと一周してこなければならないそうだ。

本来、公園内は公園内専用のサファリバスのような二階建てオープンバスでなければ入れないのだが、われわれの旅行社は、国立公園と契約しているようで、われわれの乗ったバンでそのまま入場できた。園内の道路はきれいに整備されていて、ところどころに「鹿に注意」という趣旨の標識も立っていた。公園管理人の子女の学校まで園内にあるそうだ。

白いバンが緑の中を行くこと10分、滝の入り口に到着。正面にはVARIG系列のトロピカルホテルがあった。公園内にわりと調和している。元は大統領の別荘だったらしい。公園内にある唯一のホテルということで、立地状況は最高であった。このようなたくさんの観光客の目に触れるところに民族系資本の高級ホテルがあれば、ブラジルは国力を示すことができよう。

アルゼンチン側をみわたすと、そこにはアメリカ資本のシェラトンホテルが見えた。シェラトンホテルは、白いモダニズムのつくりで、牢獄のような外観だった。周りの自然に調和しているとは決して言いがたい。このような国立公園内のホテルの立地は、市場経済内だけで決まる話ではなく、実際には政治力が大きく影響を与える。アルゼンチンの国立公園内の最もよいところにアメリカ資本の大ホテルが迫り立っている姿は多くの示唆を私たちに与えた。「大自然の中にあのような人工物があることはVISUAL POLUTIONだ、環境破壊ホテルだ」と、先生が滝ではなくホテルを指差して語った。確かに、朝目覚めてカーテンをあければ大瀑布という設定は、現代人が最も望むものだろう。シェラトンホテルの客は、心地よいベッド、上質のサービス。そして居ながらにしてガラス一枚を隔てて自然遺産が独占できるのだ。しかし、ブラジル側から、このホテルを見せつけられる方はたまらない。自然との調和という点では、ブラジル側の国立公園の方が全体にプロデュースがうまく行われているように感じた。

さて、イグアスの滝だ。インディオの言葉で「巨大な水」という意味のとおり、次から次に水が惜しげもなく溢れてくる。約4kmにわたって大小275の滝があるのだそうだ。以前ナイアガラの滝を見たときは冬で、氷の壁に囲まれて押し寄せる大きな水の塊ひとつ、という記憶があるが、簡単にいえばイグアスには275個ナイアガラがあるようなものだった。30分ほど遊歩道を歩く間、常に右側に滝があり、二段、三段になって褐色の岩々の間を流れ落ちる水の勢いは圧巻だ。目印にバット風の風船を手にした熟年団体と同じペースで私たちは滝を回った。国境の向こうにアルゼンチン側を見渡すと、そこには遊覧船などが浮かんでいる。あちらのほうが、観光開発という点ではすすんでいるようだ。

周りの観光客は、白人が最も多く、中国人や日本人も見られた。ツアーで訪れる人が大半のようである。とくに、ブラジルの他のどこよりも、中華人民共和国の中国人が多かった。商工会議所のような中国人団体客の記念写真も、フォトショップに飾られていた。中国では、はるばるブラジルまで海外旅行にこられる新上流階級が増加しているのだろうか。著名観光地ばかりをまわるのは、中国人観光客の観光嗜好レベルが初期段階にあるということなのかもしれない。。イグアスの滝は、歴史や知識など、背景の理解が必要な観光地ではなく、巨大な滝はその凄さが直感的にわかりやすい。そこからわっと人気が広まったのではないではないだろうか。景気よくどんどん流れてくるイグアスの滝は、ブラジルに観光に来られるような新上流階級の中国人にとって、追い風に感じられるのかも知れない。

遊歩道が終わったところに、滝に向かって突き出した桟橋があった。長い巡検の疲れをイグアスのマイナスイオンで癒そうと考えていたのだが、桟橋ではイオンなんて生易しいものではなく、私たちは全身に水をかぶった。「進めば進むほど滝が大きくなる」と早場さんが教えてくれた通り、ここに現れた巨大な滝の前では、轟音に声がかき消されて話もろくにできないほどであった。しかし、よく見ると滝の所々には雑草があって、激しく流れ落ちる水に必死に抵抗して生え続けている。これだけの水の勢いにあらがって生き続ける雑草の力。これに感動を覚えた人もいたようだ。

桟橋のところには4段の展望台があり、エレベーターと階段で上るようになっている。上りきるとそのまま目の前が駐車場、バスターミナル、レストラン、おみやげ店が並ぶ商業地区になっていた。ネットカフェも見られた。全く速くないファーストフード店でハンバーガーを慌しく食べ、私たちは滝を後にした。先生は「セットで5.5〜8レアルというのは、観光地にしては安価な価格だ。ぼったくりではない、珍しい。」と後々まで評価されていた。国際観光地であるこの地にハンバーガーショップがあること、それはイグアスがグローバル・ツーリズムの目的地として存在するということを示している。世界のどこでも変わらない味。地域性を持たないハンバーガーは、グローバリゼーションのひとつの記号になっている。

 イタイプダム

バンは再び市街地を通過して、パラナ川沿いの道を北上、イタイプダムへ向かった。

ここは、1975年にブラジルとパラグアイが国境のパラナ川に共同で建設した、現在世界最大の総出力をもつ水力発電ダムである。このダム1つで、ブラジルの電力の25%、パラグアイの90%をまかなっている。電力の権利は50%づつなのだが、ブラジルが必要な分を買い取り、現在は92:8%の割合で消費しているそうだ。パラグアイにとっては、貴重な外貨収入源なのであろう。

サンパウロでお会いした、学者でもある日本ブラジル文化協会の上原会長が、水流工学設計をしたということで我々は多少親しみをもちつつ訪れた。が、現地についてみると、ダムはそんな親しみをはねのけるほど圧倒的な巨大さで迫ってきた。イグアスの滝を凌ぐ存在感を、私は感じた。

初めに、博物館のシアターでイグアスの滝とイタイプダムを説明する映画を見た。シアターでは観客の8割がたが日本人で、四方八方から日本語が聞こえた。滝で見たより多くの日本人がいたのではないだろうか。映画は、正直な記録映画というよりもかなり「芸術的」作品である。イグアスの滝の映像もあり、誰かえらい人が「ナイアガラの滝がかわいそう」と言っていた。

その後、イタイプダムの専用バスに乗り込み、ダム見学ツアーに向かう。観客を乗せた10台ものバスの列は、ダムが最もよく見える石造りの展望場で停車した。黒部ダムなど、日本の水力発電は普通高い山の中にあり、高低差を利用して小数の発電機で発電するが、イタイプダムは、高さがないかわりに幅があり、多数の発電機並列させ、平地のダムながら高出力の水力発電ができるようになっている。これは、アメリカ合衆国の技術ということだ。コンクリートの壁のようなダムは、展望場からかなり離れた対岸にあるのに大きく、遠近感がわからなくなるほどだった。

バスのなかで流れる3カ国語の解説テープは、ダム建設のために1300万uのコンクリートが使われ、この量は、400万人の都市がつくれる量だと言っていた。総建設費は180億ドルで、2025年までに世界銀行に返済する予定だそうだ。今はネオリベラリズムの機関になってしまったが、かつて世界銀行は、このように途上国のインフラ整備に資金を多く出していたのだ、と先生の解説を受けた。散々ダムの周りを走った後、ほんの少しだけ見ることができたダムの貯水池は、海のように果てしなく、日本との規模の違いを目の当たりにした。

シアター、10台ものバス、イヤホンから流れる3カ国語での解説、最後にリラクゼーション風音楽、という一連の流れは実によくできた観光ツアーだった。しかも、夜のライトアップ時間帯の入場料以外は、全て無料である。これらの点を考えると、ブラジル政府がこのダムツアーに国力を顕示する役目を大いに担わせていることが読み取れた。

ツアーバスを降りた後、各自おみやげショップでマテ茶用木彫りのコップ、カメラのフィルム、CDなどを手に入れたり、コーヒーを飲んだりと楽しみ、ようやくイタイプダムを後にした。因みに、ダムの水が流れる轟音が入っているのではないかとおもしろがったゼミテンが私財を投じたCDだったが、後日ただのクラシック音楽だったことがわかって精神的ダメージをうけていた。

パラグアイ国境・友好橋

この日最もゼミテンの意気が揚がっていたのは、イグアスの滝でもイタイプダムでもなく、ここではなかったかと思う。ダムから三国国境地帯へ向かう車の中、右前方に見える緑の中のビル群は、パラグアイの都市、シウダーデルエステである。うとうとしていたゼミテンもぱちっと目を覚まし、勿論今までの人生で初となるパラグアイを窓にはりついて観察した。パラグアイは、長い間ナチの残党であるドイツ系のシュレスナーによる独裁政権が続き、この街もその人物の名で呼ばれていた。独裁政権崩壊後、地名が変更されている。

緑の中に、多数の近代的な高層ビルがそう広くない地帯に固まって建っており、この都市が経済的に潤っていることを伺わせた。この国境の都市では、中国・韓国・アラブ人などの手によって関税を突破して、生活水準の高いブラジルへの密輸が行われているそうだ。一方で免税の町として、ブラジル・アルゼンチンから時計やカメラ、電気製品などを求めて買い物客が多くやってくる。もともと関税が安いパラグアイ側も、これによって地域経済が活性化している。これらの人々のため、モスクや中国寺院もあるそうだ。そして、この町の更に向こうには、日系人が多く住む町がある。 

このような国境地帯には特別な経済が存在する。それは、2つのあい異なった経済・政治のシステムが国境をはさんで空間的に近接しているため、一方から他方へ移動して、一方の国にない経済的・社会的利益を他方の国で得ることが容易にできるからである。我々が2日後に行くボリビアのプエルトスアレス、アルバニアや東ドイツのゴミビジネスなど、世界にはきわめて多数の、国境経済の事例がある。

バスの中で熱いゼミが行われるのを後ろに聞いていた早場さんが、気を利かせてパラグアイとの国境のすぐ近くまで車を回してくれた。ブラジル・パラグアイの国境にはパラナ川をまたいで友好橋が架かっており、手続き待ちの車が列を成していた。この道は、そのまま、パラグアイの首都アスンシオンまでつながっている。国境付近にはSONYやCanon、Panasonicなどの大きな広告塔が立っている。ブラジルからパラグアイに入って、関税が少ないためブラジルに比べて安価な電気製品を買う人が多いのであろう。一方のブラジル側には、パラグアイでは入手が難しいと思われる、衣料品などを売る店が、多数並んでいた。

車を降りた私たちは興奮気味に写真を撮り、パラグアイ側ににじり寄っ生まれて初めて国境というものを目のあたりにした私は、人の往来に目を凝らしつつ、国境という概念を改めて考えた。私が漠然とイメージしていた国境は、鉄条網で隔てられたものであったり、二国の兵隊が向かい合う板門店だったり、対立的なものだった。しかし、今目の前にある国境は、メルコスールという域内経済の中にあって、人とものが頻繁に行き来する、規制の緩いものだ。 日本にとっての国境とは海を指し、そこにある程度の距離や分断があるが、陸続きで接する国の間の国境は、正規にしろ闇にしろ大きな移動が起こり、国境地帯に特別な種類の経済をもたらす可能性がある。とても勉強になった寄り道でした。

 三国国境地帯

いよいよ本日最後の目的地、三国国境地帯に到着した。ここは、滝から30km、ダムから20kmきた地点で、アルゼンチン、パラグアイ、ブラジルとの三国間国境地帯となっている。みやげもの店や記念撮影パネルなどがあり、結構な観光地となっているようだ。 崖から下を見下ろすと、右手にパラナ川を挟んでパラグアイの岸が、左手にはイグアス川を挟んでアルゼンチンの岸が見える。それぞれの岸の上には、国旗の色のモニュメントが立っていた。

アルゼンチン岸の丘の上には、資金が足りず建設が中止された白いホテルの残骸がそのままの姿で見えた。「あれがまさにアルゼンチンの経済状況を物語っている。」と先生が仰っていた。 それにしてもこんな人の目に晒されるところに残っていなくてもよいのに、と私は思った。せめて解体して何もなかったことにするという体裁も繕えないほど、状況が逼迫しているのかもしれないと考えると、痛々しかった。

アルゼンチン人の旅行者など、私たちの他にも人がまばらにいた。眼下には傘をかぶったような建物(Folum Do Americas Espaco)があり、そこで観光関係の会議が開かれると聞いた。早場さんの話では、ここから600km下流に、アルゼンチンとパラグアイ間でイタイプのようなダムを作っているそうだ。


【パラグアイ戦争】
1865年、ラプラタ川の航海権をめぐって勃発。パラグアイは戦前、南米指折りの先進国だったが、ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイの三国同盟との総力戦に敗れて荒廃した。人口が4分の1の20万人くらいに激減し、しかもその9割は女性で、生き残った2万人の男性のうち75%は老人か子どもだったという記述が残っている。南米史上最も血生臭い戦争だとされる。

最後に,スーパーに寄ってもらって,私たちはマテ茶やコーヒーなど、おみやげを買った。明日は遂にブラジルを出国、ということはこれがブラジルみやげを買うラストチャンスかも知れない!マテ茶とコーヒーを何袋も抱え、買いすぎかなと思いつつもレジに並んだ。ホテルの部屋で久しぶりのバスタブを発見してはしゃぎつつ、ブラジル最後の夜を、各自思い思いにゆったり味わった。

(藤目 琴実)

←前日にもどる |  2004年巡検トップにもどる | 翌日に進む→