9月12日 リオデジャネイロ 


 空港

マナウスから6時間程のフライトを経て、7時頃リオデジャネイロに到着した。長時間のフライトだったので、私はすぐ空港の外に出たかった。しかし、われわれの乗ってきた飛行機は、ベネズエラのカラカスからマナウスを経由してやってきた便だったので、国際線扱いとなり、入国審査ゲートや税関を通過させられた。もっとも、特にそこで審査などは行われなかった。その後、ようやく到着ロビーにたどり着いた。

リオデジャネイロの空港は、非常に規模が大きい。空港の待合スペースも広く、飲食店・売店・土産物屋が多く立ち並んでいる。また、利用客の中にスーツ姿の人も多く見られ、この都市は首都がブラジリアに遷都された後も、観光都市としてのみならずビジネス都市として栄えていると感じた。

ガイドとの待ち合わせ時間にはまだ早かったので、各自ベンチで座るなりレアルを両替するなりして、待つことにした。

ブラジルの空港ではどこもそうだが、ATMがずらりと並んでいる。しかし、たくさんATMがあることと、それが使えることとは別問題だ。われわれが待っている間、ゼミ生の何人かがATMからクレジットカードでレアルを引き出そうとたくさんの機械を試していたが、結局無理だったようだ。ブラジルの空港でATMから現金を引き出そうとすると大概こうなる。ATMはあっても、海外のクレジットカードに対応していないのだ。

しばらくして、ガイドの方がみえた。今日のガイドは石崎エレーナさんという方で、半日間ガイドして頂く予定である。石崎さんと合流した後、バスに乗り込み、リオデジャネイロ市内に向かった。


 空港〜コルコバードの丘

空港から出て高速道路に入ってしばらくすると、景色一面に広がる大規模なファベーラが見えてきた。ここの特徴は、赤い屋根でレンガ造りの建物が一面に広がっていることである。決して粗末な家ではなく、天候の変化に十分対応できる住居が立ち並んでいた。石崎さんは、この家は、水害で家を失った人向けに政府が建てたものだという。

リオデジャネイロ近郊には1600万人が住んでいて、そのうち市内には600万人が暮らしているという。その市内のうち、20万人が600カ所にも及ぶファベーラで生活しているそうだ。

次に、鉱山住宅やアルミニウムのリサイクル工場を通り過ぎた。かなり大規模なもので、リオデジャネイロでは素材型産業が盛んなことが伺える。

大きな墓地が見えてきた。ここは、リオデジャネイロで最初に設けられた墓地だそうだ。ブラジルの埋葬形態は、ほとんどが土葬である。理由は、ブラジルは国土が広大で、大多数の人々がカトリック教徒であるからだということだ。

 進むと、今度は港が見えてきた。ブラジルで5番目の取引量を誇るこのリオデジャネイロ港は、ナポリ・香港と並んで世界三大美港と呼ばれている。だが、遠くから港の様子を見ると、旧式のクレーンをまだ使っていることが分かった。港の整備が非効率で、コンテナ化が進んでおらず、まだまだ改善の余地があると思われる。また、PetroBrasの石油タンカーも見かけた。

高速道路を降り、街の中心地を通過した。その途中には、かの有名なリオデジャネイロのカーニバル会場がある。この会場のダンサーは、多くがファベーラの人々だという。ファベーラの人々が伝統芸能であるリオデジャネイロのカーニバルの一端を担っているという事実を知り、ファベーラの人々の社会におけるプレゼンスが大きなものであるということを垣間見たような気がした。

しばらくすると、トンネルが見えてきた。リオデジャネイロは南北に長細く、これは街の南部と北部を結ぶトンネルだという。トンネルは新しく、よく整備されているという感じを受けた。われわれはトンネルを通過し、北部から南部へと移動した。


 パン屋で朝食

朝食をとっていなかったため、われわれは道端のファーストフード店で朝食をとった。

その後、近くに売店で15レアルのリオデジャネイロの地図を買った。また、その売店には、日本の漫画が数多く売られていた。日本の漫画の人気がブラジルにまで広がっていることが伺える。


 コルコバードの丘

朝食後、コルコバードの丘につながる登山電車乗り場についた。リオデジャネイロの観光と言えばここ! というぐらい、日本のガイドブックでは定番の観光地である。頂上には巨大なキリストの像が建っており、ここから街の景色が一望できる。9時過ぎに乗り場についたが、その日は霧が頂上を覆っていた。街の景色が一望できるかどうかかなり不安を感じた。

頂上行きの登山電車が2,3分後に発車するというので、われわれは全力で走った。おかげでなんとか発車時間には間に合い、タイムロスなく頂上に向かうことができた。この登山電車は、1884年に開通したという。その時の列車は、イギリス製蒸気機関車だった。1910年に電化し、現在に至る。

登山電車から、両側に森林が広がる様子が見えた。両側とも、ブラジルの国立公園だという。ここには、落花生・ゴム・マンゴなど様々な種類の木が植えられている。

2,3駅の停車駅を経て登山電車が終点に近づくと、進行方向の右手に、コパカバーナの風景が見えた。景色は美しく、湖・競馬場・植物園・ビーチなども一望できた。平地が少なく、リオデジャネイロが山に囲まれているということを実感した。

ようやく終点につき、そこからわれわれは220段の階段、もしくはエレベーター・エスカレーターで頂上に向かうことになった。ゼミ生の男どもは、「体力があるやろ」ということで、階段を使って向かうことになった。思ったより距離があり、疲れてしまった。

ようやく頂上にたどりつき、キリストの像を見た。これは、全長31m・幅28m・重さ1145tの巨大な像で、現在は改修中である。この像は、必ずしも信仰の象徴とはいえないものの、リオデジャネイロの精神的なシンボル、いわゆる都市のアイコンとして機能を果たしている。周りが一面霧で覆われていて、時々キリストの顔が見えなくなるなど、いまひとつはっきりと拝めずに残念だった。

写真撮影の店やみやげもの店がいくつも建っている頂上付近や階段のあたりには日本人のツアー観光客が多くみられ、ブラジル人はほとんど見かけなかった。そこには、ブラジル人にとってのリオデジャネイロとはかけ離れた空間が形成されていた。だがそこは、観光客にとってのリオデジャネイロのイメージを一元化している場所でもあった。日本人がここに多く集まるということは、メジャーな観光地しか訪れないというバンドワゴン的な日本人の観光における行動様式を示している。これを逆にいえば、日本人からの観光収入によって海外の地域を活性化させようと思えば、観光客にとってのイメージをはっきりとつくりあげ、日本人の集団心理の中に植えつけてしまわなければならないのである。

われわれは、しばらく頂上にいたが、霧が晴れる様子はなく、リオデジャネイロ市街の展望はあきらめた、再び歩いて登山電車の頂上駅に向かい、そこから電車で麓へと向った。

電車で下山している途中、今日、かの有名なマラカナンスタジアムで、フラメンゴ対フルミネンセというサッカー好きにはたまらない一戦があることを石崎さんから聞いた。私が非常に見に行きたいという素振りを示すと、先生は、急遽予定を変更してその試合を見に行くことを決めてくださった。私は、自分のやる気がこの時急上昇していくのを感じた。

下山すると、バスが停車しているところには、リオデジャネイロで唯一の日系人経営の土産物屋、はたの商店があった。最高級プロポリスなどの健康食品や、日本人向けのおみやげ物などが数多く取り揃えていた。コルコバードの丘の麓に立地し、日本円も通用するということで、日本人のツアー客で賑わっていた。日本の旅行社とここは、提携しているのだろう。


コルコバードの丘〜大聖堂

バスに乗りこみ、われわれはメトロポリタン大聖堂に向かった。

しばらく行くと、ラランジェ・ラス地区を通過した。ここには中流階級が多く、日系人もリオデジャネイロの中では多くすんでいる地域だそうだ。もっとも、リオデジャネイロの日系人の数はサンパウロに比べると圧倒的に少なく、市内で2000人・州で8000人ほどだという。ラランジャというのはポルトガル語で「オレンジ」の意味で、ここには昔、オレンジ畑が広がっていたという。ちなみに、リオデジャネイロでは花の栽培が盛んである。オランダ系移民が特に栽培に従事しており、その次に日系人が、主に菊などを栽培しているという。

われわれは、前来たトンネルをくぐり、北部へと向かった。

まずは、バルガス大通りへと車を進めた。バルガスとは1960年代に政権を担当していた独裁的な大統領で、後に軍部のクーデターが起き、自殺してしまったのだが、今でも国民的な人気がある。ここは、省庁の建物などが立ち並ぶ権力の集中している表通りであり、建物は密集せず一つ一つがどっしりと存在感を出していて、全体的に重厚かつ威圧的な雰囲気を醸し出していた。さすがに、開発独裁体制を維持していたころのブラジルの首都だけある。

だが、今日は日曜日であり、街はゴーストタウンのようにひっそりしていた。平日は、人通りが盛んだという。バスからこの地区の様子を見ていると、この地区のビルにはどれもひさしがついていることに気付いた。これは、リオデジャネイロで降水量が多かったためだという。亜熱帯気候であるリオデジャネイロは、真夏には40℃近くに昇り、冬は14℃ほどだという。また、台風・地震などの災害が他の地域と比べて少ないという。

バスは、かつて軍事クーデターの拠点であった陸軍省のビルを通過した。ここは、ポルトガル王室がナポレオンの侵略を受けてブラジルに落ち延びてきた時、王の率いてきた16000人の兵の駐屯所でもあったという。次に旧国鉄本部ビルの前を通った。

バスは、バルガス大通りからユダヤ人街に入ってきた。やはり日曜日のためか、人通りがきわめて少ない。ここは、通りも狭く建物も古い。ユダヤ人街を抜けると、再び、チラデンテス広場・ペドロ一世の像、そして経済開発銀行・ペトロブラスの本部などの大きなビルが立ち並ぶ再開発地域になった。メトロポリタン大聖堂は、この開発地区の中にある。





 大聖堂

バスはメトロポリタン大聖堂(Catedral Metropolitana)に到着した。

1976年建造であるこの教会は、高さ80m、床の直径が106mあり、先端部分を切り取った円錐形をしている。内部にはいると、奥に聖壇と十字架があり、その周りに席が数百席ほどあった。また、四方には、ステンドグラスが張られており天井のライトに照らされて美しく輝いていた。

この日は日曜日であったため、ミサが開かれており、音楽が流れていて、百名ほどの人々が集まっていた。この教会はリオデジャネイロでもっとも大きいはずなのだが、人の集まりが少々悪い。石崎さんの話によると、ここは中心街に位置し休日は人通りがすくないため、人々はトラブルを避けてあまりこないのだという。信仰のためなら、わざわざ市街地の教会には行かず、地元の教会に行けばよいのであろう。

教会の内部を見渡してみると、入り口付近には土産物屋があった。この教会は、ガイドブックにも掲載されていることも考えると、ミサが開かれる信仰の場であるとともに観光地化された場所でもあることが伺える。しかし、建物が新しく、文化財としての価値もないので、コルコバードの丘と比べ、そこまで観光地として成り立っているような風でもなかった。


 大聖堂〜ホテル

教会を後にして、われわれは首都がリオデジャネイロに置かれていた時代の中心であるセントロ地区を通り抜け、ホテルへと向かった。

セントロは、丘を切り崩して作られたという。われわれは、カリオカ広場の側を通り、リオブランコ大通りに入った。この通りには、銀行などの金融機関が多く見られ、また、劇場・国立美術館・国立図書館・市立劇場・最初にリオデジャネイロで開館されたという映画館オデオンなど、歴史的建造物・文化施設・経済的な機能などが集中しており、バルガス大通りと比べても、威圧感は感じなかった。

この通りを抜け、フラメンゴ海岸沿いの道を通り、1889年の共和国宣言のモニュメント・青果市場・バルガスの胸像を通過すると、カテテ宮殿がみえてきた。この宮殿は旧大統領官邸で、現在は博物館となっている。

やがて現れたボタフォーゴ海岸(Praia de Botafogo)は、さすが日曜日だけに、人出で賑わっていた。そしてまもなく、われわれの泊まる予定のホテルのある、コパカバーナ海岸(Praia de Copacabana)地区にやってきた。

コパカバーナは、世界的に有名な海岸で、ビーチの近くは観光客用の地区であり、高級ホテル・飲食店・ブティックなどが数多くあった。夜中には、海岸沿いの分離帯に観光客用のみやげ物の露店が立ち並んでいた。

一方、特に海岸から外れた内陸側には、ホームレスの人がダンボール箱で寝泊りしている場所も見られ、また一般の市民向けの商店・飲食店も見られた。

このように、コパカバーナは、ビーチからの距離に応じて、観光客相手の地区と、地元で生活している人向けの地区とに分かれている。

コパカバーナビーチは非常に綺麗である。だが、海岸の治安は悪い。一人で観光客然とした態度で出歩くと強盗などに襲われる、と石崎さんから警告された。われわれは誰も被害に遭わなかったが、帰国後、しばらくして新聞を開くと、コパカバーナ海岸で日本人観光客が襲われ、道路側に逃げようとしたところ、走ってきた車にはねられた、という悲惨な事件が報道されていた。


 ホテル

われわれの泊まるホテルは、アウグストゥスと言うギリシャ風の名前であった。このホテルは、ブラジルで今まで泊まったなかで、もっとも豪華であった。ロビーもさることながら、部屋も非常に広く、綺麗である。ただ、料金水準は、それに見合う形で他のホテルより高かった。5・6枚のシャツやズボンをクリーニングしただけで200レアル近くとられたり、10分の国際電話で50レアル以上の電話料金をとられたり、更には、市内で1時間4レアルほどのネットカフェが30分30レアルだったりと、サービス料金もとにかく高かった。このように、高級ホテルは、部屋代だけでなく、このようなサービス料で多くの利益を上げているのだ。

われわれは、いったんロビーで解散し、部屋に荷物を置いた後、各自昼食をとることにした。


 カルロス教授に、都市建造環境を案内していただく

1時に、ゼミ生はホテルのロビーに到着した。

午後は、リオデジャネイロの歴史的都市空間とその発展について、専門のカルロス教授の案内により視察することになっている。

カルロス教授は元々法律家であったが、1983年からツアー会社を起業し、自分でそのガイドをなさっている。リオデジャネイロはかつて200年もの間ブラジルの首都であり、様々な歴史的建造物が存在するにも関わらず、そのような存在があまり観光客に知られていなかったことが、起業した動機だという。日本のパックツアーのような、ガイドブックの写真の現地確認にしか過ぎない観光が多い中で、このようなオルタナティブツアーはわれわれにとって非常に新鮮で、興味をそそられるものだった。

ホテルからバスに乗り込み、われわれはこの日ガイドしてもらう市街地セントロへと向かった。

セントロに行く道中、カルロス教授からリオデジャネイロのビーチとその周辺地区について、解説していただいた。

リオデジャネイロには、初め湾内にボタフォーゴビーチが、外洋側にコパカバーナビーチが作られた。このビーチのある地区は山々に囲まれていて、昔は街の郊外だった。しかし、1892年にセントロからこの地区にトンネルが建設されて街の一部となり、その後ビーチが作られることになった。コパカバーナビーチ周辺には、1960年当時上流階級の人々が住んでいたが、現在では中流階級の住宅地となっているという。

その後しばらくして湾の一部を埋め立てて、フラメンゴビーチと海浜公園が設置された。道中でも、その公園とビーチの様子が観察できた。ちなみに、海浜公園は、2百万uの面積がある広大なものである。ここにも元々上流階級の人々が住んでいたが、現在は中流階級の住宅地に変わっているという。

このように、リオデジャネイロでは、南米のほかの都市と同じように、住民の階層別の住み分けがはっきりしているという。

教授からの話を聞いているうちに、バスは、セントロの一部であるグロリア地区に入った。セントロは、かつての首都の名残を残していて、旧大統領官邸や旧国会議事堂などがあり、現在では博物館・劇場・美術館などが立ち並ぶ文化・芸術地区となっている。教授の話によると、この地区には55もの博物館があるという。また、このグロリア地区には、かなり洗練されたグロリアホテルがある。

 グロリア地区を抜けると、少し古い建物の並ぶ地区に入り、バスはアントニオ・カルロス通り(Antonio Carlos)に停車し、われわれはそこでいったん降りた。

バスから降りてすぐのところに、大きくて古い建物が2軒並んで建っていた。一方は労働裁判所、片方は財務省の建物だった。旧労働裁判所は、クラッシック様式で重厚な造りである。このような重厚な建物が建設されたのは、第二次世界大戦中である。第二次大戦でブラジルは連合国側であったが、独裁政権が政策を担当していて、ムッソリーニやヒトラーのような強力な権威にあこがれたのだという。隣の旧財務省ビルは、アールヌーボー様式への反動で、機能美・幾何学的文様をモチーフとしたデザインが特徴の、アールデコ様式の建造物だった。アールデコ様式は、当時建築デザインの最先端とみなされており、米国のロサンゼルスなどに今でも多く見られる。

そこから少し歩くと、サンタロジア教会(Santa Luzia)が見えた。この教会は、1608年に建設され、1745年に改装された。建物はバロック様式で、所々に青い壁にしたり多くの角に花崗岩を使用したりするなど、アクセントがつけられている。この、18世紀初頭のバロック様式から、この建物はポルトガルの影響をかなり受けていることが分かる。もう一つ、この教会にはオリエント的要素もある。具体的には、様々な色が使用されていたり、らせん状の装飾があったり、モスクのような飾りがあったりすることなどである。このことから、ポルトガル文化には、かつてイベリア半島を支配していたアラブ系の王朝、後ウマイヤ朝の影響が色濃く反映されていることが伺えた。

教会を離れると、イベリア半島によく見られる、素焼きの屋根瓦の建物も見かけられた。

  さらに歩くと、チラデンテス宮殿(Palacio Tiradentes)にやってきた。ここは、1979年に首都がブラジリアに移るまでは国会議事堂であった。現在では、州議会議事堂として使われている。

われわれが歩いてきた道路は、植民地時代には幹線道路で、幹線道路の向こう側はすぐ海岸だったという。ちょうどわれわれの近くの道路のカーブが岸になっていたようだ。

そこから再びバスに乗り、ブラジルがポルトガルの植民地だった頃の旧総督府にやって来た。ここは、現在文化センターになっている。建物は、1743年に2つあった建物を合わせて造った。様式はバロック様式であり、建物の外壁はかなり頑丈に高く作られていた。それというのも、この建物の前は昔すぐに海岸であり、海賊からの攻撃を防ぐためだった、と教授はおっしゃった。

われわれは、建物の中に入った。入ってすぐのところに、中庭があった。その真ん中には、今は鉄板で封鎖されている井戸があった。この井戸で、兵糧攻めにあったとき、総督府を要塞のようにして生活するための水を確保したのだという。

庭から、リオデジャネイロの歴史についての展示のある部屋に入った。まず、始めに一枚の絵画を見た。それは、総督府が設置された時のリオデジャネイロの様子を描いたものだった。そこには、4つの丘と城壁が描かれている。それは、外敵の襲撃に備えるための設計であり、中世ヨーロッパと非常によく似ていると思った。教授は、インディオと海賊の襲撃に備えていたため、このような構造にされたとおっしゃっていた。

ここから教授は、展示の内容説明とともに、リオデジャネイロの歴史とこの総督府の変遷について説明していただいた。1763年、植民地支配の拠点がサルバドールからリオデジャネイロに移された。同時に、ポルトガル国王の代理である副総督の役所(実質的に総督府)もここに移された。

すでに9月4日に学んだように、ナポレオン戦争のためポルトガル国王は王室をブラジルに移転させ、ブラジルがポルトガル本国となったことがある。そのとき、この総督府はポルトガル王室の宮殿となった。それにより、内装は豪華なものとされた。また、周辺には、王立大聖堂が建立された。ここでは、南米で唯一、国王の戴冠式が行われたという。

ナポレオンの敗北後、ポルトガルは再び王室をポルトガルのリスボンに移転し、1822年にブラジルがポルトガルから独立すると、ここはベドロ1世の王宮となった。王立大聖堂はそのまま存続し、ペドロ2・3世もここに葬られたという。

19世紀になると、リオデジャネイロの中心街は拡大し、50万人規模の大都市となった。1889年、ブラジルが共和制に移行すると王室は廃止され、この建物は郵便局になった。しかし、現在では、この建物は昔の状態に戻され、文化センターとして運営されている。

こうして、解説していただいた後、われわれは元王宮から出た。一ヶ月に一回開かれるという年代ものの車の品評会の側を通過し、1590年当時の海岸線の跡についた。われわれは、かつて海だった場所に立ち、そこから、あたかも植民者が船でポルトガル本国からやってきた人々の視線で、植民地時代と帝政期の行政の中心であった場所を見た。左手には、総督府があり、前方には、当時の王立大聖堂がひろがっている。

もし、日本で安土桃山時代がもう少し長く続き、また欧州のポルトガル本国がもっと強力だったならば、ポルトガルは、中国のマカオと同じように、日本の長崎を植民地にしただろうといわれている。この歴史の偶然が起こっていたら、長崎の中心部にも、これに似たような建造物がつくられていたであろう。かつてのグローバルな覇権国ポルトガルの栄華は、互いに地球の裏側のブラジルと日本を、共通して覆っていたのである。

当時の行政の中心地を外観した後、1860年代のパラグアイ戦争の英雄の像の側を通りすぎ、この位置の右手にある路地の中に入った。

ここは、かつての商業の中心地であった場所である。その特徴として、路地はかなり細い。カルロス教授によると、植民地にしていた当時のポルトガル人にとって、ブラジルの日差しは強く、それを避けるためだったという。また、路地はヨーロッパ中世の街のように屈曲している。これは、9日に訪問したサルバドールの都市構造とよく似ている。ポルトガルの影響を受けていることが伺えた。

路地が狭いため、街路灯は建物をまたいで設置されている鉄の棒にぶら下がって付けられている。また、路地に面した建物は、一階がレストランなど商業スペースでその上が居住スペースになっていた。この日は日曜日で人通りがほとんどなかったが、普段この地区はビジネスマンが昼食を食べによく来る場所であり、平日は賑わっているという。だが、日本人、欧米人を問わず、観光客がここ訪れることはほとんどないそうだ。

ここは、ポルトガルの植民地時代にさかのぼる建造環境を持つ歴史地区であり、サルバドールのように歴史的価値もあり、観光地として客を呼び込むこともできるはずである。しかしなぜ、コルコバードの丘のように観光地化しないのであろうか?

その理由として、この場所は、観光地としてのリオデジャネイロのアイコンに適していないということが挙げられると思う。多くの観光客に、リオデジャネイロとは美しいリゾート都市というイメージがあり、観光客たちは、ここにそのような観光資源を求めてくるのである。また、リオデジャネイロの観光局のような生産者側としてみても、消費者としての観光客にとっての都市のイメージのマーケティングを踏まえ、ニーズにあった観光商品を生産しようとしている。このように消費者と生産者の双方によってリオデジャネイロのイメージが作られていき、その結果、ここはリオデジャネイロのアイコンの資格がないという判断が下され、観光地対象から外されていくのではないか。

このような場所に案内して頂いたことで、ポルトガル植民地時代の歴史的遺産とその特徴をつかむことができた。また、マナウスのエコツアーに続いて、「観光地」というものが、実は人為的に生産された歴史であり地理にほかならないことを学べて、大変満足した。

  そこからさらに歩いていると、美術品の倉庫の前に着いた。この倉庫は壁の下側が石で上側がレンガで作られていた。下側は植民地時代に作られ、その後19世紀に、上にレンガ造りの階が作り足されたと教授はおっしゃった。

 その美術品の倉庫の周りには不思議な形をしたアートが放置されていた。カルロス教授によると、これは前衛的アートで、自然による酸化がアートを進化させるというエンドレスな芸術でもあるとおしゃっていた。

美術品の倉庫を通り過ぎると、今までのものと比べて比較的大きな通り、ビスク・デ・イタドライ(Visc de Itadorai)通りに出た。これは19世紀に作られたもので、フランスのシャンゼリゼ通りの影響を受けたものであるという。

しばらく歩くと、1922年に建てられたというビルに着いた。中には、日曜日にもかかわらず開いている郵便局があった。ここでゼミ生のうち何人かは、余った荷物を日本に送るための小包用段ボール箱を買っていた。価格は大きいもので12.5レアル・中ぐらいで4.5レアル・一番小さくて2レアルだった。

だいぶリオデジャネイロの街を歩いて疲れたので、ここで休憩することになった。中にあるショップ内を見ていると、われわれが明後日に訪問するポルトアレグレに関するグッズ・本などを売っている。ビルの外では、ドイツ風の服を着た人がバーベキューをしている。これは、ポルトアレグレの観光プロモーションらしい。

この建物の先には、1820年建築のカサ・フランサ・ブラジル(Casa Franca-Brasil)という博物館の中に入った。ここの修築にあたって、リオドセ社も資金を寄付している、という内容の看板があった。

この建物は、ポルトガル王室がブラジルに移転させられたときのものである。王室は、権威を示すためにこの建物を作ったという。建物の特徴はバロック様式であるが、当時の王室は資金不足に陥っていたために、所々で木材が使われていた。だが、木材を使っていることを隠すため、木材の装飾を大理石調にしてごまかすなどしており、「権威」にしては哀れを誘う。当時、ナポレオンに追いまくられて窮迫していた王室財政の危機的状況が、よく伺える。昔のブラジルの生活で使われていた道具などの展示物があり、われわれはそれらをしばらく見学した。サルバドールと同じように、リオデジャネイロはブラジルの歴史の宝庫である。だが、それを訪れる人々があまりいないのは、大変さびしい。

博物館を出て、旧ブラジル銀行の本社ビルに入った。ビルの内装は、建物の中で死角ができないような構造で、一階から天井まで吹き抜けとなっており、ガラス張りの所がいくつも見られ透明感があった。床は綺麗に清掃され、警備員がエレベーター付近であたりを見張っていた。全体的に、銀行が顧客への信頼感を得るため、開放感をにじませるなかにいかめしい重厚感を示した、銀行建築としては出色の作りである。一階には中・高所得層向けと思われる本屋などの店舗があった。

その後バスに乗り、最後の目的地である、丘の上の教会へと向かった。

この建物は、バロック様式で、内部には一面金箔の装飾が施されていた。その背景には、18世紀のゴールドラッシュがあった、とカルロス教授はおっしゃった。

この教会は、プロテスタントのものである。しかし、普通このような豪華さは、人々の感情に訴えかけることで信者を獲得してきたカトリックの教会で見られる特徴である。カルロス教授は、プロテスタントがこのような教会を作った理由について、当時プロテスタントがカトリックから信者を奪うことを計画してこのような人の心を惹く豪華なものを建設したからだ、とおっしゃった。サルバドールにもよく似た教会があったが、まさにここは拝金主義の塊のような場所であった。

こうして、リオデジャネイロの歴史的建造環境の視察をひとわたり終えた。われわれは、カルロス教授の案内により、リオデジャネイロという都市についての知識・観光への新たなまなざしを得ることができた。ほんとうにありがとうございました!

こうしてわれわれは、サッカー観戦のためマラカナンスタジアムへと向かった。







 スタジアム

 マラカナンスタジアムに到着した。キックオフ直前で、ユニフォームやサッカーグッズが多数売られており、また、人々もスタジアムの周りにあふれかえっていた。私は心踊り、今すぐにでもスタジアムに突入したくなった。しかし、チケットをまだ買っていない。私はぐっとこらえた。

このスタジアムは、1950年にブラジルで開かれたサッカーワールド杯のために作られたものである。当時、収容人数は20万人といわれた。現在スタジアムは全席椅子席となり、収容人数は10万人強となってしまったものの、いぜん世界最大の収容人数を誇っている。

 チケットは1枚10レアルで、幸い窓口ですぐ当日券を入手できた。チケットの買い方がよくわからないわれわれのため、カルロス教授が、親切にも代わりに購入してくださった。その後、記念写真を一緒にとり、カルロス教授とはそこで別れた。

スタジアムの中に入ると、すでに試合は始まっている。われわれはホームチームのフラメンゴ側の席につき、試合を観戦した。ブラジルでサッカーは国民的スポーツであるため、周りの応援はスモーク・鳴り物・大きなフラッグなど大々的に行われている。ブラジルのサッカーは、非常に巧みなドリブルが攻めの中心である。組織的なディフェンスの意識は薄く、ノーガードの攻め合いという感じであった。攻めのバリエーションは、中央からのドリブル突破と、サイドチェンジをあまり使わずにシンプルにディフェンスの裏をつくスルーパスとそこからドリブル突破・センタリングというパターンであった。

ゼミ生は、サッカーを知らない人・知っている人もほぼ全員、興奮して試合に見入っていた。

われわれは、試合終了後の混乱を避けるため、試合終了直前にスタジアムをあとにした。後日、試合のスコアを知ることができ、フラメンゴがフルミネンセに1対2で負けていたことを知った。


スタジアム〜ホテル 

スタジアムから出たわれわれは、地下鉄に乗りホテルへと向かった。

地下鉄は、先に窓口で切符を買い、機械に通して乗るという形であった。

地下鉄はよく整備されていた。案内図なども分かりやすく、印象としてサンパウロの地下鉄と非常によく似ていると思った。地下鉄は6時〜23時ごろまで運行している。2ヶ月前まで、日曜日は全面運休だったという。われわれは、日曜日なのに地下鉄を利用でき、幸運だったことになる。

途中で1回乗り換え、ホテル近くの駅に到着すると、全員が電車から降り出した。近くのお姉さんが、この先工事をしていて運休中のため、ここでシャトルバスと乗り換えなければならない、と英語でわれわれに教えてくれた。駅からシャトルバスが無料で運行され、それに乗ってわれわれのホテル近くへと向かった。


 夕食にて

ホテルにつき、一時部屋にもどった後、全員ホテルで夕食をとることにした。ゼミ生は、当初と比べると打ち解けてきて、お互い気の会った友達と話す時と同様の口調でしゃべりはじめた。大学生活の中で一ヶ月間も同じメンバーで一緒にいることなど滅多にない機会であり、これは巡検の一つの重要な醍醐味であると感じていた。

そのように、仲良く話していたのだが、肝心の夕食が1時間たっても運ばれてこない。われわれは少々いらだったが、店員が酔っ払いのように陽気でおもしろかったので、もう少し待つことにした。ようやく、料理は運ばれてきた。しかし、待った時間の割に、おいしい! とうわけではなく、少々がっかりした。

夕食後、メンバーはそれぞれ部屋に解散した。私の部屋には他のメンバーも集まり、それぞれ自分の心境など、普段あまり話さないことを3時間ほど語り合った。


お互い、一通り話し終わったあとそれぞれ部屋に帰り、私はすぐに眠りについた。


(遠藤 徹)

←前日にもどる |  2004年巡検トップにもどる | 翌日に進む→