■ 9月19日 コロニア沖縄


 サンタクルス(Santa Cruz)に列車は5時間延着

列車の到着予定時刻は午前6時だった。しかし、目覚めたあとも、列車は走り続けている。

開け放した窓から入ってくる砂ぼこりで、髪はごわごわだ。ウエットペーパーで顔を拭くと、すぐに真っ黒になる。途中、もう一本の線路が併走しているところもあった。

車窓には小さな集落がところどころに見える。ブラジルとはまるで異なる、まさに「途上国」の風景が、そこにはあった。停車駅ごとに子供たちがコーヒーや食べ物を売り歩くのも、もう見慣れた。遥か遠くの地、あまりにも大きな経済格差。文化も言語も生活のあり方も、なにもかもが違う。私たちとは、まったく異なる空間に暮らす子供たち。彼らにとって私たちは、まるで別世界の人間だった。列車の中と外。それを隔てるあまりにも分厚い窓はしかし、開け放すことも出入りすることも、この駅ではたやすい。列車が走り出すとき、その窓は再び私たちを絶対的に隔て、遠ざけてゆく。旅がもたらす、別世界に生きる人々との一瞬のふれあいを繰り返しながら、列車はえんえんと走り続けた。

アンデス山岳地帯からボリビア北部へ抜けアマゾン川へと合流する、グランデ川(R. Grande o Guapay)を渡る。この鉄橋は、1km以上にも及ぶ非常に長い橋だ。これだけのものを建造するのはやはり非常に困難だったようで、沖縄からの移民がこの鉄道を利用した頃は、まだこの区間はフェリーに乗り換えていたようだ。いまでも、高い建造コストのために、1本の橋を自動車道路と列車の線路が共用している。

川を渡ったあと、閑散とした途上国の風景の中にも、次第にこの20日間ばかり見慣れてきた建物が姿を見せる。サンタクルスに近づくにつれ、ブラジルで見たものと同じ巨大なサイロや、都市の郊外に住む人々の、発展したきれいな町並みが増えていった。サンタクルスが、「ボリビアのブラジル」として急激に拡大し、郊外化が進んでいることがよくわかる。 ようやくサンタクルスに着いたのは、予定を大幅に超過した午前11時。総走行距離700km、21時間にも及ぶこの巡検最長の移動だった。狭い座席にまる1日近く座り続けて、皆かなり疲労が溜まっていた。とはいえ、旅路では現地の人々との心温まる交流があった。同乗していたボリビアの人からCDを借りて聴いたり、食べ物をもらったりしたゼミテンもいたようだ。帽子をなくして探しまわっていると、まわりの人たちがみんなで見つけてくれた。言葉もわからない未知の世界に入り込みながらも、我々がこわい思いをすることはなかった。ボリビアは、南米でも一番安全な国と言われており、治安の悪さというものを感じることがないのだ。サンパウロではみなカバンに鍵をかけ、抱えるようにして警戒しながら歩いていたのとは対照的だ。


 サンタクルスからオキナワへ

サンタクルス駅は、乗客がいっせいに降りて、非常に混み合っていた。プエルトスアレス(Puerto Suarez)に比べると、駅のつくりはずっとしっかりしており、小ぎれいだった。他国からの援助によって、最近できたものらしく、ここサンタクルスがボリビア第二の都市であることを感じさせた。

駅は、バスターミナルも一緒の総合交通ターミナルになっている。ここができたことで、長距離バスのりばは以前のターミナルから移転したらしい。ここから専用バスに乗り、この日の目的地である、沖縄県出身者の集団移住地である、オキナワ(Colonias Okinawa)という名のついた町に直行した。

この日は本来早朝に駅に着き、日本ボリビア商工会議所の根間様に迎えられてホテルに移動したのちオキナワへ向かう予定だった。だが、列車の到着が大幅に遅れてしまったためにホテルには寄らず直接移動することになった。どうしようもないこととは言え、根間様には大変申し訳ないことをしてしまった。それでも翌日に我々とお会いしてくれたことに感謝したい。ありがとうございました。


サンタクルスの街並みは、列車の窓から見た途上国然とした風景とはまったく違っていた。建物はコンクリートでしっかりつくられており、道路はブラジル・サンパウロなどよりもずっと平らにアスファルトで舗装されていた。ただしほとんどの建物が一階建てか二階建てで建物同士の間隔も広く、広い平地をゆったり使っていることが感じられた。同じボリビアでも、一部のゼミテンが巡検の現地解散後に自由行動で訪問した首都のラパス(La Paz)の中心部にはもっと高層ビルが立ち並び建物も密集している。ラパスは盆地に形成された高山都市のため、今以上の拡大は難しい。そのため限られた範囲に人口と建物が密集するのである。それに対し広い平地を持つサンタクルスは密集させる必要性が低く、平面的に街が拡大していったのだと言える。

バスは次第に郊外へと向かって、閑散とした風景に変わってゆく。アスファルトで舗装された道路は終わり、砂ぼこりを巻き上げながらバスは走り続ける。途中、民営道路へ入る料金所を通過した。ここで得られる通行料収入で道路を建設・改修しているのだ。巨大サイロがところどころに見える。牛や馬が放牧されているところもあった。農村の風景だ。

1時間半かかって昼過ぎに、バスは、オキナワに到着した。村の入り口に近づくと、ひらがなで「めんそ〜れ」(琉球語で”Welcome”の意)と書かれた看板があった。入り口にも日本語で「オキナワ日本ボリビア協会」「沖縄移住地」と大きく書かれていた。遠くには巨大なサイロ群も見える。こんなに日本とかけ離れた、しかも観光では滅多に行かないような場所まで来て日本語をあちこちで見かけることになるとは、奇妙な感覚だった。


 コロニア・オキナワ概観

ここで、この日に訪れたボリビアのオキナワ移住地の概要を解説しておこう。

サンタクルスから100kmほど離れたところに位置する町オキナワは、琉球からボリビアへ移住した人々の子孫である日系人が数多く集まって生活している。琉球の人たちがボリビアに移住した歴史は古く、戦前の20世紀初頭にまでさかのぼる。ペルー海岸地方の農園で農業労働者として雇用された琉球の人たちのうち何名かが、ボリビア北部のベニ県リベラルタ(Riberalta)に転住したのがはじまりである。

オキナワ移住地の建設を最初に計画したのは、こうしたリベラルタに住む琉球出身の戦前移住者だった。敗戦後、第二次大戦の地上戦によって無数の犠牲者を出した琉球の窮状を救うため、琉球の人々をボリビアに移住させる計画が打ち出されたのである。1949年、リベラルタの「沖縄県人会」総会で、琉球の人々の移住とボリビア全土に散らばる琉球の人々も入植させて「沖縄村」を建設することが決議された。受け入れ地にはグランデ川下流の土地が選ばれ、「うるま移住地」と名付けられた。同時に現地の登記のために「うるま農産業組合」が組織された。

琉球は、米軍の占領統治下に置かれ、農地を強制的に接収して次々と広大な軍事基地が建設されていった。建設工事は一時的に住民の雇用を創出したが、それが完了すると多くの過剰労働力と農地を失った農民が発生した。そこで合衆国政府は、琉球住民の反発を抑え安定を確保するための手段として、南米への農業移住計画を発案した。こうして両者の利害は一致し、うるま農産業組合は合衆国政府に全面的に協力することになり、その名称を「うるま移住組合」に変更した。

やがて琉球からの移住がボリビア政府によって認可されると、1954年から、合衆国政府の資金で、ついに移住が開始された。うるま移住地の入植記念日である1954年8月15日、406名から成る第一次移住者が入植し、共同での開拓作業を始めた。

ところが入植後、旱魃や水害、さらに「うるま病」と呼ばれる原因不明の疫病が続き、わずか10ヶ月で移住者全員が移動を余儀なくされた。新たに入植したパロメティア(Palometillas)は土地を拡張する余裕がなく、さらなる移住が行われた。こうしてようやく、今のオキナワ移住地の開拓が始まったのである。当初は現在の第一移住地にあたる15000haの土地を取得したのみだったが、琉球からの移住が続くのと並行して第二・第三移住地の建設が進んだ。

1965年には各移住地の組合が統合され、「コロニア沖縄農業協同組合連合会」として設立された。のちに現在の「コロニア沖縄農牧総合協同組合(通称CAICO)」 へと改称し法定組合として認可を受けた。今ではCAICOは営農に関する部門に特化するようになり、その他の行政・教育・治安維持などは新たに設立された「オキナワ日本ボリビア協会(以下、日ボ協会と表記)」が行うことになっている。

80年代前半のハイパーインフレによってそれまでの借金を容易に返済することができ、新たな基幹作物として大豆が生産されるようになると、オキナワの経済は急激に発展していった。移住地に隣接する土地も沖縄県民が買い求めるようになり、移住者の所有する土地総面積は7万ha近くに及んだ。大型の農業機械が次々と導入され、搾油飼料工場や巨大サイロ、CAICO直営のスーパーマーケット「スーパーオキナワ」といった施設が建設されていった。また、沖縄県とサンタクルス県の姉妹提携が行われ、沖縄県との文化的交流が飛躍的に増大した。そしてついに2000年、第一から第三までの移住地をまとめて「オキナワ村」としてボリビア政府が自治権を承認した。こうしてこの地域は沖縄県民移住地からボリビア社会の一部に完全に移行し、沖縄との関係を維持しながらもボリビア農業の一大拠点として発展を続けているのである。


 コロニア・オキナワ入植50周年記念祭典

 

オキナワに入り、われわれが最初に訪れたのは、日ボ協会の文化会館だった。立派な建物の入口脇には、入植40周年の記念に造られた沖縄移民の像が立っていた。ちなみにこの像は、ボリビアで作られたもので、沖縄移民の像でありながら顔はドイツ人によく似ている。近くには、日本の皇族がこの地を訪れた際に植えたという植樹も立っていた。われわれは日ボ協会のコロニア・オキナワ入植50周年記念祭典実行委員長である中村様の案内で昼食の会場へと向かった。この日の前日は入植50周年記念祭典のひとつである沖縄角力大会が行われており、食堂ではそれに参加するためにブラジルから訪れていたブラジル沖縄角力交流団の方々がすでに食事の準備を整えていた。年配の方と子供が多いが、子供の多くは日本語をしゃべれないようだった。

午後1時過ぎ、準備が整い、中村様が挨拶をする。前日の角力大会を振り返り、ブラジルとボリビアの人々の友好について語っていた。オキナワの移住者はみなブラジルを横断してここへやってきたこと、ブラジルは技術・体力すべてにおいてすぐれており、ボリビアも今後見習うべきであるといったことを述べ、入植50周年にあたってブラジルに感謝の意を表していた。琉球語ではなく、日本語だ。しかしスピーチの中で「われわれの母国は沖縄」だと語っており、これは沖縄が長い間、日本から独立した王国であった歴史を象徴している。オキナワの人々の帰属意識は、沖縄にあるのだろう。事実、オキナワには沖縄県移民以外の日系人は入植していないという。

その後記念品の贈呈、ブラジル沖縄県人会文化センター会長の玉城氏らによるポルトガル語の挨拶があったのち、ようやく乾杯となった。昼間からビールを振舞われる。ずっと列車の旅が続き、途中で小銭が尽きてほとんど食料を買うことができなかったため、ひさびさのまともな食事である。ビュッフェ形式で、定番のシュラスコなど、おいしくいただいた。ごちそう様でした。

食事の最中、われわれ水岡ゼミナールも自己紹介をすることとなった。その後、ブラジルの沖縄県人会の方からの挨拶。沖縄県人会は昨夏95周年を迎え盛大な式典を行い、今は100周年に向けて動いているところだという。相撲や柔道などで青少年団との交流もやりたいと考えており、ボリビアの人々にもぜひ参加してもらいたいという趣旨だった。日本からの移民は今後ないことが予想される中、移民同士の団結を強めるために隣国同士での青少年団の交流を深め、南米の地に「うちなんちゅ(琉球人)」の文化と絆を広げることが重要である、とおっしゃっていた。


 オキナワボリビア歴史資料館

 

昼食後、文化会館の隣にあるオキナワボリビア歴史資料館を見学する。ここは、沖縄移民の背景・歴史、開拓時代の様子、学校教育、生活風景などが分野ごとに区切られて展示されていた。それらとは別に、大型資料の展示や屋外展示もあった。充実した量の資料や道具、模型などが、整然と並べられている。今年8月14日、入植50周年を記念にオープンしたばかりだという。建設資金はオキナワの人々からの寄付と沖縄県の援助によってまかなっている。まさに、沖縄とボリビアの「うちなんちゅ」が共同で作った施設だと言えよう。

入ってすぐのところに飾られているのは、うるまの鐘。祝い事の時に人を集めるのに使っていたものが、うるま病の死者が多発する中でいつしか葬式の合図へと変わっていったのだという。近くには沖縄県移民が渡航した船のルートが記された世界地図や、第一移住地から第三移住地までオキナワ全体のジオラマが展示されていた。

背景・歴史のエリアへ。米国スタンフォード大学教授のジェイムス・ティグナー(James Tigner)博士が南米各国の琉球出身者の活動状況を詳細に調査し、うるま農産業組合に対して移住計画を提案したことで、米政府の移住支援のきっかけとなった有名なティグナー報告書や、当時の移民のパスポート、身分証明書、記載されている心得を皆が暗唱したという青年手帳、うるま病の調査カルテなどが展示されていた。違う時代(89年、94年、04年)にタワーの上から撮影した3枚の写真からオキナワ発展の様子が見て取れた。

開拓時代のエリアでは、カマやクワなどのほか、土を細かくほぐすワーレンホー、小規模の野菜作りなどに使用するヒーラ、丸太をくりぬくティングァー、かたい大豆などを細かく砕くチクマーなど、聞きなれない名前の独特の農機具がたくさん並べられていた。移住初期に移住地内で捕獲されたというアメリカン・ジャガーやアナコンダの皮まであった。当時はこういった動物による家畜への被害が多かったらしい。

学校教育のエリアでは、日本語教育のための教科書や古いオルガン、タイプライターなどが、沖縄移民の長い歴史を感じさせた。

生活風景のエリアでは、三線・尺八・しめ太鼓といった沖縄ならではの楽器や、ランプ・切手帳・当時の衣服・わらじ・家具・食器・キセル・灰皿など、その時代に日常的に使われていたものがリアルな状態で展示されており、当時の生活をうかがい知ることができた。

また、興味深いものとして「B円」という特殊な通貨も展示されていた。これは米軍統治下の琉球のみで使われていた円で、1米ドル=150円の固定相場制で取り引きされた。当時の日本の円は1米ドル=360円と円安で、これが輸出に有利なことが経済成長の一因となっていた。それに対してB円は非常に円高で、つまり円が過大評価された形で固定された。このことにより、戦後の琉球が輸出によって経済を成り立たせることが困難となり、米軍占領下の沖縄は基地経済に縛り付けられることとなったのである。

資料館の外へ出て、屋外展示を見る。オキナワ移住地慰霊塔が静かに立っていた。ここに、沖縄移民の死没者すべての名が記されている。最初に記されているのは「うるま植民地死者」、つまりうるま病の犠牲者であった。一見普通の慰霊塔だが、日本語の活字の入手が困難なボリビアでこれだけの文字を彫るのは相当大変なことだったらしい。昔の住居と学校をそのまま再現した屋外展示もあった。風通しがよく、涼しげな造りをしていた。近くにはゲートボール場、サッカー場、野球場まであった。これらは第一移住地の予算で造成したという。少し前には、50周年記念祭典の一環としてゲートボールの国際試合も行われたようだ。

大変興味深い見学をさせていただいたのち、われわれは文化会館へと戻った。


 オキナワ日本ボリビア協会の方々との懇談

 

文化会館にて、中村氏のほか日ボ協会の組合長・工場長・事務次長らと懇談する貴重な機会を設けていただいた。オキナワの現状と今後の展望、ブラジルの農場との比較、出稼ぎ問題などなど、懇談は大いに盛り上がり2時間にも及んだ。


はじめに、オキナワの歴史と現状に関する概要を聞く。米国政府によるインフラ整備、日本政府による営農費などの支援、日本の移民事業団(現在のJICA)による移民の促進など、様々な支援によって現在のオキナワの基礎が築かれた。しかしそれだけではなく、オキナワの発展はしっかりした組合の運営に支えられていたとも言える。その要因としてオキナワの組合員数が150人程度と適正数を維持してきたことがあげられる。規模を広げすぎないことによって、農家に対し直接営農指導を行うといったきめ細かいケアが可能なのである。対してブラジルのコチア農業組合が失敗した要因のひとつは、5000人もの組合員をかかえていたことにあると言える。マンモス化した組合の維持は難しい。

また、組合の成功要因として、ドルで仕事をしたという点があげられる。ボリビアという小さな国においては、現地の通貨であるボリビアーノよりも、ドルのほうが信用が高い。ボリビアのような途上国では、高級店に行くと普通にドルでも商品が売られている。ドルで仕事をすることにより、ボリビアの為替管理を受けず安定した取引が可能になるのである。また、アメリカの三菱銀行を使っているため、国内でかかる税金を取られずに済んでいるという。

コチアに限らず、ブラジルの大規模セラード開発とオキナワとの間には多くの違いが存在する。最大の違いは、オキナワが政策としての移住であったということだろう。すでに説明したように、沖縄移民は米軍統治下の琉球において農民の反抗を抑止する手段としてアメリカ政府が意図したものである。そこに、当時鉱業が主要産業であり農産物のほとんどを輸入に依存していたボリビアの政府の農業移民に対するニーズと、沖縄出身の戦前移住者の祖国を支援しようとする動きが合致し、実現した移民計画だったのである。

また、他のラテンアメリカ諸国やボリビアでもうひとつの日系移民移住地サンファン(San Vuan)とも違うのは、それが集団的移住だったために土地がまとまっているという点である。オキナワの土地の90%は日系人の土地である。これが人々の結束感を維持させ、オキナワの成功につながったひとつの要因であるとも考えられる。

とは言え、オキナワの土地がこれまで常に日系人のものだったわけではない。60年代から70年代にかけて、ボリビア人との間での土地問題が深刻化した。この時期、人手不足から開拓しただけで耕作していなかった土地がかなりあったため、もともとその土地を所有していた地主から返還要求が出され、2000ha以上の土地を返還しなければいけなくなった。移住地の開拓が進むと、周辺集落の農民が土地の分割を目指してシンジケート運動を起こし、それが当時の政治情勢を反映して次第に強力な政治団体として移住地の土地に侵入するようになり、訴訟問題に発展した。裁判は続き、オキナワの人々は日本大使館に協力を要請した。これによって日本政府がボリビア政府にはたらきかけ、不法侵入者を排除する大統領命令が下され、オキナワ住民は1人当たり250haもの土地を得ることができ、事態は一応の解決に至った。この後、土地を管理する者がいなくなって侵入者が現れるのを防止するため、ボリビア人の農業労働者に土地を貸し与えて日系人の下で働かせたり、住居用として土地を売ったりするようになった。


話題は出稼ぎ問題へとうつった。オキナワでは80年代前半から日本への出稼ぎ現象が活発化した。当初はハイパーインフレによって生活が困難になった給与所得者が中心だったが、次第に二世や三世が親から独立する資金を稼ぐため、あるいは土地をもらえない次男・三男が自立するために出稼ぎに出るようになった。出稼ぎ先で生まれた日系ボリビア人の子供はスペイン語を話せず、母国に帰っても働くことができない。日系移民の悲劇と言えよう。「日本人でもボリビア人でもない人種をつくってしまった」と、嘆いておられた。

やがて出稼ぎから帰ってきた青年たちがまとまった資金を活用して営農規模を拡大していく現象が起こった。また、出稼ぎに行った若者が日本の文化・価値観を持ち帰ったことで、一世と二世・三世との間の相互理解を生み移住地の行事や文化活動に活かされるようになった。日本語や日本の文化・娯楽・情報が以前よりも普及し、現在ではほとんど日本と変わらない生活を送っている家庭も多いという。

出稼ぎに行った日系人のほとんどは、横浜の鶴見に固まり、特別な技術のいらない溶接や配線の仕事についている。中にはそのまま日本に住み着いてしまう者もいて、オキナワでは徐々に若者の人口が減ってしまっている。せっかく日本で金を稼いでも、ボリビアに帰ったら土地も職もないのでは、帰りたいとはなかなか思えない。今後は、出稼ぎに出た若者がオキナワに帰ってきてもらえるような環境をつくっていかなければならない。第一居住地から第三居住地をつなぎサンタクルスへ至る幹線道路を建設し移動を容易にすることで、サンタクルスの人々をターゲットにした近郊農業を行えるようにする、といったことが計画されている。ボリビア最大の都市ラパスは、土地や食料の限界からこれ以上人口を増やすことはできない状態にあり、過剰人口がサンタクルスに流入する傾向にある。このように今後ボリビア第二の都市として発展していく可能性の高いサンタクルスを活用しない手はない、というわけである。


このほか、オキナワの作物加工・販売に関してもお話をうかがうことができたが、それに関しては次の章で詳述する。


日ボ協会会館を出て、日ボ協会の方々と記念撮影をする。心ばかりのお礼の品を手渡し、我々はバスに乗り込んだ。


 工場視察

 

日ボ協会文化会館をあとにし、われわれはバスで第一移住地のCAICOの工場に向かった。途中には、沖縄ならではの守礼の門をそなえた民家もあった。すでに午後6時近くになり、あたりはだいぶ暗くなってきている。

オキナワの主な作物は入植時には米だったが、現在では大豆となっている。ここでは夏季に大豆を栽培し冬に小麦を栽培する二毛作が中心で、95年から導入された不耕起栽培法という農法によって土地をやせさせず安定した収量を確保している。小麦はボリビア全体の生産の40%を占めている。大豆と小麦の他にも、夏季には米・マイス・ソルゴ、冬季にはひまわりなどのほか、40種もの野菜や果実が栽培されている。

収穫された大豆の多くは工場で油を搾らずに高温の蒸気熱で処理し、栄養価の高い家畜飼料用のインテグラル大豆という全粒加工製品にして主にペルーへ輸出される。粉に加工することで、水分をなくして保存がきくようになる、輸送コストが抑えられるなどのメリットがある。加工はすべてコンピュータで管理され、1日に240トンもの製品が生産されている。機械が壊れたらオンラインですぐに会社に連絡がいくなど、危機管理体制も整っているようだ。

年間収穫量6万トンのうち70%が輸出用となっている。しかしペルーへは山道を3日間かけて走らねばならず、加工することで抑えてはいるもののやはり運賃のコストの高さがネックとなっている。メルコスールによる関税撤廃のために国際市場における相場はアルゼンチンを基準としてどこも同じとなっているので、輸送費がかかるほど不利になるのである。ちなみにアンデス共同体では、企業の場合のみ輸出に税がかからない、つまり事実上企業のみが輸出の権利を持つため、組合は書類上だけのダミー会社を作り、その名義で輸出を行っているという。

この工場の敷地は大幅な拡張を続け、今では200aにも及び、古い施設から新しい施設までそろっている。1987年に穀物の保管サイロ、飼料搾油工場が建設され、その後給油所、大豆加工機などが作られサイロも増設された。サイロや農業機械のほとんどはブラジルから輸入している。農業機械修理工場には巨大なコンバインがあった。1台で1日に10haを収穫できるという。

ゴミなどを除去する選別工場、製粉工場、湿気・ゴミなどがないかチェックする検査工場を見てまわる。ここの製品はゴミなどの混入率が0.5%以内で、かなり高品質となっている。粉にするとゴミがわかりにくくなるため、ほかの企業ではごまかしていることもあるという。敷地内には巨大な倉庫やガソリンスタンドまであった。

CAICOはこの工場の建設・運営のほか、3人の農業エンジニアによる品種改良や農家への営農指導、種・燃料などの農家への提供、サンタクルス市内の直営店スーパーオキナワでの販売事業、組合員家族を対象とした共済・奨学金事業、組合機関紙「CAICO NEWS」の発行など、様々な形でオキナワの人々の農業をサポートしている。前述の通り、ブラジルのコチアなどに比べ、非常にしっかりした組合であるということがうかがえる。現在でもさらなる施設の増設が進んでおり、今後オキナワの農業は生産・加工・販売をCAICOによって統括されたアグリビジネスとしてますます多角化し発展していく可能性を持っていると言えるだろう。


 オキナワからサンタクルスへ

 

工場を出たときには、外はすっかり暗くなっていた。バスでサンタクルスへと戻る途中でわれわれは、この日の感想を話し合った。

何人かのゼミテンは、オキナワの人々がもつ、琉球というアイデンティティの強さを指摘した。沖縄出身者の子孫以外は、CAICOに入会するためには理事会の承認が必要ということも、それを如実に物語っている。コチアと違い、組合が成功している要因もこのアイデンティティの強さが根底にあってこそのものだろう。CAICOの手厚い福利厚生に代表されるように、相互扶助のシステムも非常に充実している。

また、日本人はビジネス意識が低いとよく言われ、前述したアグリビジネス的な思考も、日本の農業関係者にはいまだに薄い。それがブラジルでの日系人の劣勢を生み出しているとも考えられるのに対し、ここオキナワでは、着実に戦略的な営農を行っていると言える。

ブラジルとの違いをいくつか見てきたが、最も根本的な違いは、オキナワの人々が空間的にもまとまったコミュニティを形成しているという点であろう。セラードの日系人は、広大な土地に分散して居住し、バラバラに営農している。しかしオキナワでは1か所に人々が集住しており、ゆるぎないコミュニティを基盤とした着実な営農形態を確立しているのである。


長かった南米巡検もついに明日最終日を迎える。サンタクルスのホテルへ着き、これまでの様々な体験を振り返りつつ、巡検最後の夜を明かした。


(桔梗 聡)

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