朝、目を覚ます。昨夜、今日の午後に現地解散したあとの自由旅行でラパスへ向かうゼミテンと計画を立てたりしながら、遅くまで話し込んでいたため、眠気眼をこすりながら、準備した。そう、今日はついに巡検最終日である。レポート担当に責任を感じ、朝食のため、らせん状の階段を下りた。
ここ、ホテル・コパカバーナは小さな靴屋や服屋、レストランなどが並ぶ旧市街の一角にある。造りはモダン的な吹き抜けで、廊下には観葉植物が植えられており、真っ赤な手すりが印象的なホテルだ。エレベーターはなく、バックパックを背負って階段を上り下りするのは大変だった。朝食はパンとパパイヤジュース、コーヒーのみ。コーヒーの味は断然下がり、ブラジルのコーヒーを懐かしく思った。バイキングに慣れた私たちはちょっとお腹をすかせながら、8:00に出発した。
昨日のバスの運転手さんが、待っていましたとばかりに日本語で「おはようございます」と素敵な笑顔で迎えてくれた。
バスに乗り込んで、窓から外を眺めてみる。町なみはコロニアル風で、歩道に二階の部屋が突き出していて、その床を柱が支えている。二階が屋根の役割も果たし、歩行者が雨に濡れなくても歩けるようになっているし、二階部屋の面積も多く取れるようになっている。近代化した高層ビルが立ち並び、少しポルトガルテイストも残ったブラジルとは、明らかに景観が異なる。古い建物が多く、高い商業ビルはあまり見られず、ほとんどが二階建てか、一階建てである。
昨日オキナワ集落で、ここサンタクルス(Santa Cruz de la Sierra)は、昔はうらぶれていたが、ブラジルとの交流が緊密化するようになって、急速に栄えたと聞いた。1541年にスペイン人によって初めて建設されたサンタクルスは、今の場所より200kmも東側にあった。その後、ポルトガル人や先住民の攻撃を避けて、首都スクレに近い現在の位置に移転した。
1955年には僅か5万人だったサンタクルス都市圏の人口は、現在200万近くに達し、ラテンアメリカでもっとも急速に成長している都市の一つである。首都ラパスとは違い、平野で標高は低く、位置も地理的にもブラジルに近い。高山の谷間にあるラパスの収容人口は限界に達し始め、南米にひろがるネオリベラリズムで成功し「勝ち組」となった新中産階級を、ここサンタクルスが惹きつけて、人口はいまや首都ラパス都市圏の250万人に迫る勢いとなっている。しかし、この都市の中心部には、昔のサンタクルスの景観が、まだ、残っているのだ。先生曰く、かつてここを支配していたスペインの殖民都市の面影だそうだ。
サンタクルスは、基本的に欧州などからの移民でできた都市であるが、ここには、インディオ風の人もみかける。アンデスの高地では経済状況がよくないため、そこから、急成長するサンタクルス地区へ、経済的機会を求めてやってくるのだ。国境の町プエルトスアレスでは見かけなかったが、列車でもインディヘナを本当によく見かけた。子供から大人まで、長い髪の毛を二つに三つ編みし、派手な柄のスカートをはき、カラフルな原色の布に物を包んで背中に背負って歩いていた。見る限り、皆がっしりとした体格で、ほとんど一人か女性だけでいた。多くの人のボリビアのイメージといったら、インディヘナではないだろうか。私もはがきなどで見たことがあるが、これは観光用の衣装か、すでにアンデスに住むごく少数の人々になってしまっていたかと思っていたが、実際に、普通の街中で、普通に生活しているのを見て、とても驚いた。いい年をしたおばちゃんが、三つ編みをして、少し短めのフリフリのピンクのスカートをはいて、男の人が運転するバイクに二人乗りしているのを、窓から眺めて、そのミスマッチさに顔が緩んだ。
私たち、そういえば経済地理学のゼミだったんだ、と今更ながら実感しているうち、ボリビア日系会議所へ到着した。
会議所の隣には、公文がある。ブラジル・マナウスの日系会議所の隣にもあったことを思い出す。根間会長と、佐藤さん、JICAの日系社会ボランティアとして働いている菅野さんが、懐かしい緑茶で迎えてくれた。それから、私たちの質問に答えてくださる形式で、ボリビアの経済・社会の歴史や現在の状況などを説明していただいた。
スペイン領だったころ、今のボリビアとなっている地域では銀や錫を産し、ポトシにある鉱山から採取される銀は、世界経済が銀本位制であった当時、スペインの世界覇権のために重要な経済基盤を提供した。
スペイン語圏のラテンアメリカでは、合衆国の独立やフランス革命の影響もあって、18世紀末から独立の気運が高まった。ベネズエラの革命家シモン・ボリバルらの指導者に率いられた独立軍は、1824年にスペイン国王派軍に大勝して、ボリビアは1825年に独立を果たした。独立してからは、これらの金属の輸出で栄えた。実権は、ある大富豪が握り、経済、政治をも動かしていた。
1930年頃からナショナリズムの動きが起こり、これが、1952年、パス(Victor Paz Estenssoro)大統領ひきいる左翼の民族革命運動党(Movimiento Nacionalista Revolucionario、MNR)による、社会主義的大改革につながった。これは、農地改革、教育改革、普通選挙(経済的地位、女性、読み書き能力の有無による差別あり)、鉱山の国有化といった政策であった。
しかし、この社会主義政権のもとでも貧困層の経済状況は改善せず、1964年に軍事政権によって打倒された。1970年代は、ボリビアやブラジル、チリ、アルゼンチンを始めとするラテンアメリカの多くの国で軍事政権が支配していた。軍事政権は、外資導入や自由主義的な経済政策によって経済成長に努めたが、 貧富の差はひらくばかりで対外債務が累積した。
累積債務問題と経済不況が深刻化して国民の不満が高まり、ラテンアメリカ諸国の軍部や保守派の中にも、民主化や経済改革を求める動きが出てきた。こうして各国で民政移管が相次いだ。ボリビアでは1982年、民政移管が行われて、左翼のスアソ(Hernan Siles Zuazo)政権が誕生した。だが、政府の放漫財政などから、1984年、年間2万7千%のハイパーインフレを記録。対外債務に対する支払停止(モラトリアム)が行われた。
1985年、軍事政権前のパス元大統領が大統領に復帰し、左翼から右翼へと180度転向して、ネオリベラリズム的な根本的改革を断行した。賃金を凍結、変動相場制に移行し、市場経済が導入された。市場経済化により、それまで政府の公定だった石油価格は15倍になった。
1994年、パス大統領と同じ民族革命運動党のロサダ(Gonzalo Sanchez de Lozada) 政権による大改革が行われる。国有会社を資本化(capitalizacion) して、その株式の49%を外資(ブラジルとスペインが中心)へ売り、ボリビアでの経営権を与えた。これにより、マクロ的には経済成長を達成したが、国民は豊かさを感じてはいないし、失業者は増え、貧富の格差も拡大している。最近は、スペイン・イタリア・アメリカへ出稼ぎに行く者も多い。
ポトシ銀山の埋蔵量はだんだん少なくなってきており、今は天然ガスの輸出に頼る状況だ。ボリビアの天然ガス埋蔵量は、ベネズエラに次いでラテンアメリカ2位である。昨年、ここサンタクルスから100キロほどのところにあるタリハ(Tarija)からサンパウロまでのパイプラインが完成し、ブラジルに輸出している。
2003年10月、新たにチリの港までパイプラインを敷設してメキシコやアメリカにガスをパイプラインで輸出する計画がもちあがった。しかし、ボリビア国民の間に大きな反対運動が起こり、政府治安部隊と衝突して100人近い死者が出た。昔、戦争によってボリビアから重要な海岸沿いの土地を奪ったチリとは、現在も外交関係がなく、国民はチリがパイプラインの通行料などを得ることに反発を感じているのだ。この反対運動により、ロサダ大統領は辞任を余儀なくされ、アメリカへ亡命した。
憲法の規定により、メサ (Carlos Mesa) 副大統領が大統領に就任した。もともとネオリベラリズム的政策を支持していた副大統領ではあったが、この国民の力に動かされ、次第にメサ大統領は、社会主義の方に変わり、ブラジルのルラ大統領に近い立場をとるようになっていった。
2004年7月18日、天然ガスについての国民投票が行われた。その結果、外資への優遇をやめ、天然ガスが国有であることを明確にする一方、港を使う権利を得るためガスを外交戦略として使うということで、輸出そのものにはゴーサインが出た。主として、メキシコとアメリカに輸出するという計画のようだ。最近は資源価格が急騰しており、ボリビア経済にとって好影響をもたらしている。
現在、国民投票の結果を受けて、石油改革法について国会で審議中である。そこでは、石油とガスの国有化が計画されている。これが成立すれば、外資は、有効期間中に契約を破棄されてしまうことにもなりかねず、スペインやブラジル、イギリス、アメリカなど海外の投資家や企業が大反対している。しかし、ボリビアは採掘技術や資本の面で外国の協力が不可欠なため、折り合いをどうつけるのか、注目される。会長は、今後この問題がボリビア経済と政治の大きな不安定要因になるのではないか、と心配されていた。
こうしたなかで、MNRよりも左翼に位置する政治的な動きがコカ栽培者の支持で台頭している。これが、社会主義運動党(Movimiento al Socialismo, MAS)である。最近、この政党は選挙で2位となった。市場経済の導入で急増した失業者の一部は、コカ栽培の従事に向かう。これによってコカ栽培が急成長し、市場主義に反対するコカ栽培者が左翼運動の支持基盤となってきたのだ。アメリカは、バナナとかパイナップルとか、代替作物を導入しようとしているが、販売市場がなく、うまく行っていない。ただ、私たちはコカといったら麻薬、と思うだろうが、高山の国、ボリビアでは、疲労を回復やファイトを高めるため、合法的に使う方法をもっているようだ。
これまでボリビアでは、中央集権の傾向が強く、州知事は中央政府の任命制だった。だが、特にサンタクルスなどで、豊かになった経済力をバックに、地方分権を目指す動きが強まっているという。
ここまでお話を伺って、今、ブラジルと連動して、南米各地で左派の動きが顕著であることを思い出した。われわれが帰国後、同じブラジルの隣国ウルグアイでも、左翼候補が大統領選挙で勝利している。また。ベネズエラのチャベスは、もともと反米・独自外交路線をとっている。経済的に力の強いブラジルの政局が、隣接諸国に政治的にも多大な影響を与えていることを実感した。市場主義やネオリベラリズムが失業を拡大しており、民主主義的な選挙をすると、市場主義政策に不満を抱く「負け組」の人々が左派政党に投票して、社会主義が勢力を伸ばすという皮肉な構図が、いま南米で連鎖反応を起こしている。ブラジルだけでなく、ボリビアにも足を伸ばすことで、ブラジルという国をより相対化してとらえることができる。ボリビアに来た甲斐があった。
ボリビアでは、一般的に皆貧しい。住居不法侵入が多く、特に車を狙った強盗も増えている。そのため、厳罰化した刑法改正も行われた。ボリビアの人は正妻の他、愛人を何人かつくって私生児をもうけることがまれではない。愛人は生活に困ってこどもたちは施設に預けられるが、施設は厳しいため、逃げてしまう。靴磨きなどで生計を立てる者もいるが、犯罪に手を染めてしまう者もいるようだ。コカイン・マリファナなどの麻薬犯罪は多く、サンタクルスはブラジルへ輸出する拠点になっているそうだ。
こう書くと、一見ボリビアはとても治安が悪そうに聞こえるが、犯罪はどこの国にでもあることで、旅行者としてボリビアは、一般に南米の中で治安が良い国である。最低限気をつけていれば、比較的安全である。街を歩いていても、ブラジルより、断然良いことが、肌を通して感じた。
これからのボリビアについて、根間会長は、かなり変動的な政治・経済状況を予想された。
サンタクルス地区では、ブラジル型の大規模農業が近年になって発達し、作付面積は70万ヘクタールに及んでいる。オキナワ集落でも作付けしているし、欧州から来た宗教移民でドイツ語を話すメノナイトたちもやっている。昨年から、アメリカの大豆の不作、中国市場における需要の増加などで、鉱物や農産物の値段が上がり、ボリビアに好影響を与えている。オキナワ集落も、これで潤っているようだ。だが、これはもろいものである。天候に左右され、すぐに暴落もする。多品種を生産することで危険分散を図ったり、加工など、付加価値を生み出したりしなければ、と語られた。
アマゾンの熱帯雨林の一部はボリビア領内にあり、根間会長は、その環境を保護する必要性も、強調された。
学生の一人から、「ブラジルとボリビアを比較してみると、ブラジルは教育に投資、ボリビアはインフラ整備に投資しているように思われるが?」という質問が出た。会長は、これに対し、こう答えて下さった。
「国として教育は大事だといってはいるが、予算がない。一番の問題は、教師の地位と月給が最も低いことにある。初任給は、60米ドル相当額だ。お手伝いさんでも月給60米ドルを獲得するといえば、その低さが分かるだろうか。これでは教育の質は良くならない。ボリビアには仕事がないため、優秀な人材は皆、海外へ流れてしまう。他方、子供は、家族に所得をもたらす重要な労働力のため、働きながら学校へ通っている。」確かに、列車でサンタクルスに向かう間にも、昼間から駅で物売りをする子供たちを多く見かけた。
また、アマゾン低地には、西洋文化を拒否し、依然として原始的な生活を送る先住民のタカナ(Tacana)族がおり、これに欧州のNGOが入って、タカナ族に民族自治を教育する活動を行っているという。ただし、これに対し政府は、5年ほど前から、ボリビア国内におけるNGOの活動を厳しくチェックし制限する動きに出ているそうだ。
ここで根間会長は、こう強調された。「道路がないと学校へ行くのはとても負担だ。だからまず道路の整備を進めることが重要なのだ。」アンデス地方では、子供たちが1時間も山道を歩いて学校に通うことはよくある。オキナワ集落で、昔移住者たちは子弟たちの教育のため、何時間もかけて、ボートで川を渡ったりしながら、学校への送り迎えをしたと聞いた。雨が降ると、川が氾濫したり、道がぐちゃぐちゃになったりで通学できなくなり、教育に著しい悪影響があった。このため、オキナワ集落内に日系人のための学校を建設したのだった。
幸い、道路インフラは整備されてきた。かつては、サンタクルスから140km離れたサンフアンの日系人移住地へは、悪路のためバスが日に往復1便しかなく、車を雇うとサンタクルスから8〜9時間かかり、100米ドルもとられた。だが今は、タクシーだと10数米ドル相当額で、すばやく移動できる。また、情報の面では、TVが映らずビデオで我慢していた状況はなくなり、1980年末までは1日遅れだった首都ラパス発行の新聞がその日のうちに読めるようになり、インターネットも使えるようになった。これらのインフラ整備がここ10年の間に急速に進み、人々の行動半径や得られる情報は大きく広がってきた。サンタクルス地区では、天然ガスと農業を基盤とする急速な経済成長によって得られた富が、税収を増加させ、このようなインフラ整備をもたらしているのであろう。
私は、インフラより何より、教育が大事だと思ってきた。しかし、子供が勉強するためには、電気であったり、道であったり、教師であったり、時間であったり、必要なものが山ほどあったのだ。教育とインフラ整備や労働問題などは全て、切っても切れない関係にあることが分かった。適切な予算配分と、その予算配分ができる人材が重要である。先行き暗そうな話を聞いてきたが、最後に、「30~40年前は識字率50~60%だったのが、現在では地域差はあるものの、90%まで向上している。」という話を伺い、少し希望をもてた。
親切な説明をしていただいたみなさんに感謝して、バスに乗り込み、サンタクルスを取り囲む環状道路をとおって、次の目的地へと私たちは向かった。
オキナワ集落の協同組合CAICOがサンタクルスで経営しているスーパーマーケット「オキナワ」に着いた。
地図を見ると、サンタクルスの中心部は碁盤目のように道路が通っており、そこを環状道路が三重に取り巻いている。この辺りは、一重目の環状道路のそばにあって次に行く教会や広場のある昔の中心地から外れたところに広がる、新たな商業・ビジネス地区である。
店内はかなり広く、豊富な商品が取り揃えられている。CAICOのマーク入りの大豆を見つけた。やはり日本食や箸、巻きすなど、日本的なものが多く取り揃えられていた。しかし、日本でもよく見かけるアメリカのお菓子など、たいていのお菓子は10ボリビアーノ以下だったのに対し、柿ピーは27ボリビアーノ,せんべい37ボリビアーノなど、とても値段は高かった(1ボリビアーノ=約15円)。客は日系人がほとんどであった。今夜ラパスに向け出発する組は、長距離夜行バスの中で食べるために、お菓子をいくつか買った。
辺りにはファーマシア・ジャパン (薬局)や、沖縄の暦を売っているところなど、日系商店が立ち並んでいた。
この地区からすこし表通りに出たところには、国際電話のかけられるところ、そしてネットカフェがここかしこに立ち並んでいた。サンタクルスでは、1996年ごろからインターネットが普及し、いまでは高速回線が開通している。だが、プロバイダとの契約には毎月45米ドルも必要なため、一般の市民はとても自分の家でインターネットができない。そこで、一般市民はネットカフェに来て、ホームページをみたり、電子メイルをやり取りしたりするのだ。ブラジルでは、サルバドールのような観光地区以外にこの種のネットカフェが表通りにほとんどみあたらなかったのと、対照的である。ブラジル市民の所得なら、自分でパソコンを買い、プロバイダと契約して自宅でインターネットができるということなのだろう。
サンタクルスのネットカフェの利用料金は、1時間で15米セント相当額くらい。かなり格安だ。ボリビアでは、サンタクルスのほか、ラパス、スクレ、コチャバンバなどの主要都市で、すでにインターネットの高速回線と接続できる。他の地区はまだ電話回線とモデム経由だが、インターネットにアクセスはできる。
インターネットのグローバル化というと、連想ゲームのように「途上国や貧困層のディジタルディバイド」という言葉が浮かんでくる。だが、こうして林立するネットカフェを見ると、そのように考えることが必ずしも適切でないことがわかってくる。いまや、インターネットは文字通りグローバルなコミュニケーションの手段なのだ。
すぐ近くの日系旅行会社、チョビーツアーズに寄って支払いを終え、英語ガイドのエツコさんがバスに加わり、まずは,同じ商店街の界隈にある高級スーパー「プラサ(Plaza)」を訪れた。
まず入ると、スーパーオキナワの買い物袋をもっていた私たちは警備員に止められ、袋を預けるように言われた。先ほどのスーパーオキナワとは雰囲気が違った。店内はまだ新しくきれいで、小さいながらも食料品以外に、ブランドの服やバービー人形、赤ちゃんのおもちゃ、ワインボトルなど、豊富な品揃えだった。服はドル表示とボリビアーノ表示の両方がされていた。
これは、ネオリベラリズムの下、サンタクルスの急速な発展で出現した新中産階級の存在を示すスーパーである。国立の大学のそばには、マダム御用達の「紀ノ国屋」という高級スーバーがあるが、それと似たような存在といったところだろうか。
Plazaスーパーから歩いていける距離に、裁判所があった。
この裁判所はサンタクルスで一番高い建物である。建設費として1000~1500万米ドルがかかった。メンテナンスも大変である。裁判所前には、社会正義を求めるスローガンが書かれた横断幕を掲げて、人々が集まっていた。「国にそんなお金があるんだったら、国民のために使え!」ということらしい。この裁判所は市民から”injustice place”と呼ばれているそうだ。実に上手い皮肉である。
それから、向かいの雑居ビルの中にも行ってみた。旅行会社や弁護士事務所、政党事務所、公証人役場、診療所など、色々に使われている。遠方には、高級マンションが何棟かみえた。ここの人々はマンションより戸建てを好む。だから、このマンションは企業が買って、駐在員がホテル代わりに使っていると、エツコさんが教えて下さった。売値は5万米ドル、家賃は300~400米ドルだそうだ。
他はスペイン風の背の低い建物だが、裁判所、雑居ビル、マンションは近代的で高い。この市が急速に発展している象徴で、世界各国に見られる現象だ。サンタクルスには、ネオリベラリズムの影響下にある途上国の都市の、典型的な景観が認められる。
その後バスは、旧市街の中心に向かった。少し走ると、大きな茶色の教会が見えてきた。
教会前には広場がある。これは、サンタクルス地区がスペインから独立を勝ち取った日をとって「9月24日広場」と呼ばれ、スペイン植民地時代からの歴史的なサンタクルスの中心である。中心部に教会と広場。ここも典型的な、ヨーロッパ風都市である。
広場は緑にあふれていて、スペインからの独立運動を指導して、ボリビアの国名のもとになったシモン・ボリバルの像があった。ボリバルは、スペイン語圏の南米を広くアメリカ合衆国のような一つの連邦国家として独立させようとしたが、地域どうしの対抗が起こってそれは失敗し、ボリバルは排斥された。結局、ポルトガル植民地全体が一つの国になったブラジルと異なり、スペインの植民地だった南米は、沢山の国にばらばらに分かれて独立してしまった。そして、死後ようやく、ボリバルは独立の英雄として再評価された。
広場には、話をしたり、チェスをしたりするスペースもあった。お腹がぽこっと出たような木が多く植えられており、聞くと、この木には干ばつのときにも耐えられるよう、中には水が蓄えられていて、「酔っ払いの木」とよばれているそうだ。
広場に面して、訪れた教会のほかに、昔の裁判所や県庁、上層階級の社交クラブ、かつて市をコントロールしていた金持ちの家を改築した市役所などが立ち並んでいて、かつてサンタクルスの中心であったことが、伺える。社交クラブは、入会に高い会費が必要で、誰でも会員になれるわけではない排他的な組織だ。これも、ヨーロッパ文化の一つである。もっとも、裁判所も県庁も、都市周辺部に移転してしまって、今はない。もと県庁の建物は、今ではいろいろなイベントを開くホールに使われている。
今でも、この広場に面した土地は、由緒あるブランドネームの場所とみなされている。そこに、アルゼンチン航空、アルゼンチン領事館、アルゼンチン銀行があった。1975年ごろに建てられたというこのアルゼンチン関係の建物だけが、コロニアル風の建築様式ではなく、歴史的都市景観の統一性を損ねていた。賄賂を使ってボリビア政府に建設を許してもらったのだと、ガイドさんは言う。スペイン語圏南米の盟主だというアルゼンチンの自負が、にじみ出ているようだ。だが、心あるサンタクルス市民は、この異質な建物に怒って、取り壊せと求めているらしい。
聖ロレンソ教会(Basilica Menor de San Lorenzo)の中に入ってみた。天井は木でできている。イエズス会は、先住民が木材を用いているのを見て、ここでは他の教会のように漆喰ではなく、地元に生えている木を使ったのだという。湿気でくもの巣が張りめぐらされていた。ポトシの銀でできたシャンデリアが正面にあった。キリスト教にとって音楽は重要な精神的意味があり、ここにも聖歌隊があって、それが歌う壇が設けられている。市の中心にある教会で、市民の信仰にとって重要な場所だそうだ。
広場は現在工事中で、工事現場の周りの囲いには、セーラームーンやるろうに剣心など、日本アニメのキャラクターが所狭しと落書きされている。こんなところにまで日本の文化が、と感嘆した。日本にいるときは、日本の文化といえば、和紙やちりめんでできたものなどが知られているのかと思っていたが、断然、アニメのほうが普及していることを改めて実感した。確かにアニメは若者の心をつかみやすく、商品化もされるので、広まりやすいだろうと思った。それが日本に興味をもつきっかけとなれば、嬉しいなと思うと同時に、世界の最先端をいく日本のアニメ業界を頼もしく、誇らしく思った。
広場を後にし、次の目的地へと向かった。
高級な住宅地区をバスが進んでゆくと、金持ち用の病院、そして、立派な私立女子中学校があった。広い前庭、横に長い二階建ての新しくきれいな校舎が、3mくらいはある高さの柵に囲まれていた。バスを降りると、左胸に校章の入ったワンピースを着た子供たちの興味津々な視線に晒された。ワンピースの色は真っ白だが、どの生徒の制服も、シミや汚れ一つなく、きわめて清潔に保たれている。金持ちの子弟たちであろう。階層分化が進んでいることがわかる。
そのはす向かいには、教会がある。カトリックの新しい一派が建てた教会である。これは、アメリカのクリス神父とダニエル神父が始めた、独特なものらしい。手をかざすと何でも治るご利益があると言って布教しているらしく、神秘主義的なところもあるようだ。カリスマ女性の寄付で建てられたというこの教会は、3000人収容できる、横に広くてオープンなつくりになっている。正面には、夕日の中にキリストが立っている。横には長い絵がかけられ、椅子や天井は全て木でできていて、異質だが、怪しい感じは受けなかった。それどころか、南国のイメージで、開放的な印象を受けた。ミサでは古い賛美歌ではなく、現代的な明るいリズムを採用し、自由な服装でよい、ということなどから、人々を惹きつけているそうだ。毎日のようにいろいろなグループが来て、イベントをやっているという。同じ敷地内に、宗教について勉強する部屋や、図書館のようなところ、懺悔室があった。
このような新しい宗教は、サンタクルスでもっとも急速に広まっているということだ。ミサにミニスカートで出席することを許さないような、伝統的因習にとらわれた古いカトリックに縛られず、そこから脱しようとする、かなりカジュアルな意識への変容が、新しい中産階級を中心に生まれていることを感じとった。
ついに最終目的地へ。バスの窓から、家族がぎゅうぎゅうに乗った中古車に描かれた不二家のペコちゃんに、満面の笑顔を向けられ、ちょっと笑ってしまった。
着いたところは、二番目の環状道路の外側、都心から見て西方に位置する高級住宅街である。そこに立ち並んでいたのは、サンタクルスの上層階級が住んでいる、立派な家々だった。家一軒の値段が、20万〜30万米ドルくらいだという。有刺鉄線も張り巡らされた高い塀で、中はほとんど見えない。イパティンガの社長居住区でみた、塀のないオープンな北米式の高級住宅とは違う。これだけの警備では飽き足らず、監視員を二人ずつ程、雇っていた。また、門には番地しか書かれていなかった。「表札なんか掛けるのは日本だけ」と先生は指摘された。
この高級住宅街の一角に、アメリカンスクールがあった。ここの多くの子供たちが、公立高校や郊外の私立学校には行かず、この学校に通うのだろう。入学に国籍は関係なく、受験資格は地元のボリビア人ももっている。だが、入試を行っているため、レベルは高い。また、授業料は1ヶ月に400米ドルもするので、実際に入学できる人は、高所得者の子女に限られる。授業は英語で行われ、ここで英語を身につけ、大学はアメリカなどに留学する人が多いそうだ。高所得者の子供は高所得者になる、というプロセスがここでも確立されている。アメリカは、こうしたアメリカンスクールをパイプにして、世界中から優秀な学生をアメリカの大学に集める。午前中の、「優秀な人材は海外へ流出する」という話を思い出した。アメリカの大学を卒業した人は、アメリカ的な考え方を身につけ、親米派になって、帰国後は世界じゅうの国で、そこの経済と政治を支配する地位につく。アメリカが支配するグローバリズムは、教育というソフト面でもしっかり浸透しているのである。
なお、アメリカンスクールと違って、外国にある日本人学校は、地元の人が志望しても門前払いで、日本国籍保有者しか入学資格がない。アメリカと日本の、教育をめぐるグローバル戦略の違いは明白である。
プエルトスアレスから列車で見てきたボリビアと、この高級住宅地区とは、まるで別世界だった。ネオリベラリズムの波が押し寄せ、拡大している世界の格差をなくそうと叫ばれている一方、同じ国のなかにもこれだけの格差があるとは。格差をなくす難しさを感じると同時に、悲しくなった。お金を手に入れるほど、お金に対する執着も強まってしまうものなのだろうか。
世界は民主主義化、資本主義化を進めてはいるが、ネオリベラリズムが浸透するほど、金持ちはマイノリティ、貧困者がマジョリティになる。だから選挙をすれば、左派政権が生まれやすい。この矛盾のなかで、ラテンアメリカにおけるネオリベラリズムは、掘り崩されてきているのである。
行く先々で資料をいただき、だんだん荷物が重くなってきた先生やゼミテンが日本へ荷物を送るため、バスに中央郵便局へ寄ってもらった。
これからボリビアへ行く人のために、ここでちょっと状況を説明しておこう。まず、箱、テープ、マジックは必須である。郵便局で箱は売っておらず、自分で調達しなくてはならない。郵便局には、まともにインクの出るマジックインキは無い。私たちは、チョビーツアーズで古い箱をいただいて、詰めた。封はせずに持っていき、税関検査を受ける。検査を受けながら、税関申告書を書くのだが、申告書の用紙には英語が無く、スペイン語と、万国郵便連合の公用語であるフランス語しか印刷されていない。その後、封をして、重さを量り、代金を支払う。一部区間は飛行機を使う船便(SAL)の書留である、エコノミーのSAL便で送ると、2~3週間で日本に届いた。ちなみに値段は10kgで700Bs、5kgで335Bsだった。
ようやく今日の日程が終わり、ということは巡検の全日程が終わり、本当に最後の最後の予定、打ち上げを南国リゾート風のレストランで行った。
ガイドさんにお礼を言って見送ったあと、「乾杯!」・・・今までで一番おいしいビールだったかもしれない。今はこれから待っている巡検レポートや合宿やタームペーパー作成のことなんて考えない! 料理は炊き込みご飯のようなものから、肉と大豆の煮込み料理、サラダ、スープ、ピクルスまで、もうなんでもおいしかった。ちなみにこれだけ飲み食いして、値段は一人約500円だった(!)。一人ひとり、今回の巡検の感想から、今後の予定を話し合って、打ち上げを終えた。
長かった、本当に長かった巡検が終わった。これから夜行バスでスクレへ向かう先生と、翌日日本へと戻るゼミテン二人に見送られ、私たちラパス組は、また新たな、今度はただ楽しく気楽なはずの旅に期待を膨らませ、その夕方、ラパス行きの長距離バスに乗り込んだ。