■ 9月15日 MST農場(ポルトアレグレ)


 はじめに

ポルトアレグレ(Porto Alegre)2日目。この日は一日を、MSTと呼ばれる土地なし農民運動に関する視察 を行った。MSTというトピックは、前日の参加型予算と並んで、我々が南米を巡検するにあたって南米の市民 運動について最初に調べた事項のひとつであり、この巡検後半の大きな山場と言えるものだった。


 ■ MST運動とは

そもそも、MST(Movimento dos Trabalhadores Rurais Sem Terra)というのはどういった運動なのか。MST の支援を行っているThe Friends of the MST(FMST)のホームページ にわかりやすくまとめられている。

運動が始まった背景として、ブラジルの農業の特色について触れる必要がある。南米は多くの国で 植民地時代の大土地所有制が根深く残っており、ブラジルでも非常にかたよった土地配分パターンを示して いる。代々受け継いだ3%未満の農園主が、ブラジル全体の耕地の3分の2を所有し、2500万人もの小作農がわ ずかな土地を耕し苦しい生活を送っている。いまだに480万の農家は土地を持っていない。その一方で、60% もの農地が、ろくに耕作されることもなく無駄に放置されている。しかも農家の貧困は深刻化する一方だっ た。政府から地方への貸与金額が1980年代の180億ドルから44億ドルまで制限されるようになり、農家が恩恵 を受けることは難しくなった。そもそもブラジルの物価・農業生産性から言って、50ha未満の地所は生活に 必要な最低賃金を得ることができないという。政府の官僚主義的な対応や農家の貧困は改善されているとい うプロパガンダなどによって、これらの問題の解決はさらに難しくなっている。

そういった社会状況を、政府による取り組みではなく草の根からの運動によって解決していこうと いう動きが現れるようになった。最初の運動が起こったのは1985年。自分の土地を持たない数百人の人々が 、使われていないプランテーション農場を乗っ取り、共同住宅を建設した。背後にはカトリック教会の支援 もあった。結局、この農民たちは、1987年にその土地の占有権を認められている。これがMST、つまり土地な し農民運動の始まりである。
以降、ブラジル各地で土地を持たない人々が、使われていない農場を乗っ取り、自分たちの耕地にして しまう運動がさかんになった。現在までに1600の居留地で25万世帯以上が1500エーカー以上にも及ぶ土地の 占有権を獲得し、野営地の7万世帯が政府の承認を待っている状態である。

なお、占有権とは、法律的に所有権とは異なる。どちらも、その土地を経済的・社会的に充用し続 けることを公的に認めるものではある。だが、所有権は充用だけではなく、その土地を自由に処分する権利 が含まれている。占有権には、自由処分権がない。つまり、その土地を売買したり、地形を改変したり、も ともとそこにあった木を勝手に切り倒したりすることはできない。占有者は、他者が所有権を持つ土地をそ のままの姿で充用する権利を許されているに過ぎないのである。

MST運動は、土地の占有権を獲得する運動であり、所有権までを求めてはいない。なぜなら、そもそ も本質的に、MST運動とは、所有権社会そのものを否定し、オルタナティブな空間所有のあり方を模索する運 動、すなわち空間を個人の所有物とせずそこに住む人々の総有のものとすることを目指す運動だからである 。

ちなみにMSTは、使われていない大農場の土地を土地なし農民に再分配するだけの運動ではない。生 産・教育・ジェンダー・文化・環境・健康など、それに関わる人々の生活全般の向上をはかる大規模なプロ ジェクトである。たとえば生産性を最大化するため、生産協同組合や小規模な農業事業をつくったりしてい る。今ではブラジル国内23の州によって組織される全国的な運動へと広がり、様々な人権グループ、労働組 合、国際機関からの支援、UNICEF教育賞など、多くの国際的な表彰を受けている。

以上のように、MSTはラテンアメリカ最大の社会運動であり、MST運動家は、世界でもっとも成功し ている草の根運動のひとつであると自身を評価している。

もちろん、これだけ大きな運動、しかも他人の土地を乗っ取るという 大胆な方法であるから、当然に反発も多い。MST運動に参加する人々に対して、これまで無数の弾圧が各地で 行われてきた。サンパウロやパラナ、ペルナンブーコなどを中心に政府の憲兵隊による不当な暴力が繰り返 され、過去10年間で1169人が殺された。殺された者の中には、労働者のリーダーや、教会の人間、法律家、 州の議員などまで含まれていた。しかも、このような悲惨な状態にもかかわらず、弾圧を加えた者の中で起 訴されたのは58件、有罪判決が下されたのはわずかに11件という結果だった。

この状況に対し、2000年の4・5月に、大規模なデモが行われた。多くの地方の零細農家が土地を占領 し、デモ行進し、政府施設などを占領した。貿易組合運動など他の社会運動との連携も見られ、15万の農家 が500以上のキャンプを形成したという。

このように、多くの対立と暴力を抱えながらも、MSTはブラジル最大の社会運動として長く続き、成 果をあげてきた。では、実際MSTに加わって土地を獲得した人々、あるいはこれから獲得しようとしている人 々の現実はどうなっているのだろうか。この日の巡検は、それを知る良い機会となった。


 MST農場へ

早朝、ホテルに集合しチェックアウトを済ませ、バスに乗り込んだ。昨日からガイド兼通訳をしてくださ っている福岡さんに加えて、今日は、MSTのペドロさんが案内をしてくださる。なかなか整った彫りの深い顔 立ちが印象深い方だ。

バスで少し行くと、風景はすぐに都会から田舎のそれへと移り変わった。われわれの走っている道は、ウ ルグアイとアルゼンチンにつながる、幹線国道である。現在民間に管理を委ねており、道路料金をとってメ ンテナンスをしているという。そのため道路はきれいに舗装されている。

途中、ポルトアレグレの街並みをきれいに見渡せる川を渡った。朝曇っていた空は、この頃には青く晴れ 渡っていた。川沿いの泥質で土壌の悪い湿地帯には、ぼろぼろの家がところどころ建っている。洪水や雨に そなえ、高床式になっている。これも一種のファベーラである。ファベーラは山の斜面にのみあるとは限ら ない。要は、街の周辺部の、自然環境の悪い場所に形成されるのだ。ここの住民は、工場で働いたり、ポル トアレグレで清掃業に携わったり、洪水時にゴミを回収したりして生計を立てている。

他にも、セラードを訪れた時に話題になったアメリカの穀物メジャー、ブンゲ(BUNGE)のサイロや、ア ルゼンチンの方角へと向かう大型トラックを見かけた。車窓からは、刑務所や民営化された工場などが見え た。水田もあったが、これは別に日系人が耕しているわけではない。米は主にサンパウロに輸出され、日系 人が高値で買うため、かなりもうかる作物である。MST運動に参加しているがまだ土地をもらっていない人々 が暮らしているというアパートも見ることができた。

やがて外は、ひたすらに広い農場や牧場が続くようになった。このあたりは粗放的な農業が中心なのだ。 見渡す限りの平原のあちこちで家畜がのんびりとたたずんでいる風景は一見のどかだが、それらの土地は、 ブラジルの極端な格差を生み出している大土地所有におかれたものである。MST運動は、この車窓に見える広 大な土地に対するひとつの挑戦と言えるのだろう。

1時間半ほど走り、バスはカルクエアダス(Charqueadas)に到着した。われわれが本日視察するMSTの集 落は、この街の近くに点在している。


 第1のMST集落 〜自分の土地を持ったばかりの農場夫婦〜

MSTの集落が見えた。

バスを降りると、MSTの夫婦、ノエリ(Noeli)さんとジョセ(Gose)さんが出迎えてくれた。まずは、ご 夫婦の農場を視察する。

夫婦はもともと、カシオドスル(Cacio de Sul)という地方の小作人だったが、5年前にMSTに入会し、2 年半前からここへ入った。農業を始めたのは昨年からだという。ここへ定住する前は様々な土地を転々とし 、12回にわたり州警察の立ち退き命令によって追い出され続けたらしい。昨年ようやく裁判所から許可が降 り、正式に占有権を獲得して、この地でずっと暮らせるようになったそうだ。この土地は、もともとリオグ ランデスル銀行(Banco de Rio Grande Sul)(州立銀行の一つ)の土地であり、すなわち州の土地だと言っ てよいものだった。つまり、州が土地をMSTに譲ったのである。まだ定住して年数が浅いので、所有権は得ら れていない。そのため、木を切るのにもいちいち許可が必要らしい。

ここでの作物は主に野菜と米だ。野菜は自給用と販売用を兼ねている。MSTの共同販売が作物を受け取り に来てくれるが、自分たちで直接売ったほうが良いと夫婦は語る。町の人々に面と向かって自分たちの作物 を売ることで、「よそ者」である自分たちを受け入れてもらうのだという。よく町まで自転車で行商に行く そうだ。前述の通り米はもっとももうかる作物で、商社との契約栽培も行っている。米を栽培しない時期は 自給用のとうもろこしを栽培している。自分たちの食料と、家畜の飼料に使われるのだ。

農場を案内してもらう。どこまでが自分たちの土地かを指し示してくれる。15ha。平均耕地面積が1haに も満たない日本の農村の感覚からすれば、かなり広い。歩いていくと、こぢんまりとしたユーカリ林が広が っていた。この木を薪として使っているそうだ。

ユーカリ林の先には小さなキャベツ畑があった。青々としたキャベツが整然と並んでいる。ここで我々は 、夫婦が飲んでいるマテ茶をいただいた。いただくといっても、ひとつの器をまわし飲みするのがこの地域 の一般的な飲み方。壷のような独特の器に茶葉を詰め込み、お湯を注いだ部分にフィルターのついたストロ ーをさして飲む。日本の抹茶とそう変わらない味で、多くのゼミテンも抵抗なく飲むことができた。後日、 多くのゼミテンがマテ茶を土産に買っていた。

続いて家畜を見せていただく。豚、鶏、兎など。愛らしい動物にゼミテンは心奪われたが、これらはみな 、いずれ食料になる運命である。

家族の住む家を訪問する。木造で簡素な作りの家だ。中は暖房がきいていて暖かい。狭い分、空間の有効 利用がはかられている。衣類や食器、食料が雑然と狭い室内に詰め込まれ、なかなかの生活感があった。冷 蔵庫があるが、まだ電気は通っておらず、棚として使っている。政府はそういったインフラ整備に関して全 然動かないらしい。他の農家では、自分たちでディーゼル発電しているところもあるという。ここの食料は ほとんどすべて自家製だ。チーズもソーセージも、自分たちで作っているという。めずらしい青い卵も見か けた。

ここで暮らしているのは、夫婦とその娘。娘は毎日スクールバスで普通学校へ通学している。息子もいる が、現在はMSTの経営する農業高校の寮に住んでいるそうだ。食料は作物と家畜でほぼ自給していて、政府か ら現物による生活保護を受けている。生活は決して楽ではないが、自分たちの土地があるということが重要 だと夫婦は語る。夫婦の兄弟はみな都会に出てファベーラに住み、そこで仕事も収入も不安定な生活を強い られていた。しかし自分たちは土地が好きだから、自分の土地を持って、苦しくても安定した生活を送る道 を選んだのだという。MSTに入ってからこの地に安定するまで2年半かかったが、それは短いほうらしい。ま じめに耕していれば、許可をもらいやすいのだ。

家をあとにし少し歩くと、井戸らしきものがあった。といっても、レンガで囲まれた典型的な井戸ではな く、穴が掘ってあるだけのものである。深さは約2.5m。水溜りと間違えて足を突っ込んだら一巻の終わりだ 。囲いがないため、雨天時に汚水や家畜の糞尿が流れ込んでしまい、飲み水としては使えない。近くには洗 濯場があった。井戸を背景に、記念撮影をする。

夫は肩を壊し重いものを持ったりできないため、今では奥さんが主に力仕事をしている。たくましいこの ひとりの女性が、生活面でも精神面でも家族をしっかり支えている。そう感じた。2年後には、この農場に果 物ができるという。この家族がこれから幸せな生活を送れることを願って、僕らは農家をあとにした。


 第2のMST集落 〜仮住まいから定住へ〜

バスに乗り5分ほど移動すると、別のMSTの集落に着いた。ここには、定住して数年、占有権を獲得して1 年程度が経過した59世帯の農家が居住し、販売用作物を共同で栽培している。集落全体で、18,000haもの土 地を持っている。

定住してからある程度の期間がたったとは言え、黒いビニールで覆われた家はテントのようで、キャンプ 場のような集落の風景からは、まだまだ仮住まいといった印象は拭えない。しかしそのうちの一軒の中を見 せていただくと、整った内部には電気こそまだ通っていないものの、ひととおりの家具が揃っている。人形 やギターまであった。MST運動のシンボルマークや旗も飾られている。先ほどの夫婦よりも、もう一段階時間 が経過して、発展しつつあるMST集落だと言える。

ここの家の息子も今は農業学校の寮に住んでいるらしい。この家族は、はじめはポルトアレグレから 120km離れた田舎に住み、その後ポルトアレグレのファベーラに20年間暮らしていた。しかし不安定で治安の 悪い環境から脱したいと思い、MSTへ入会したそうだ。何度も立ち退き命令を出され各地を転々とした後、3 年4ヶ月前からここに住み、去年占有権をもらったという。自分たちの土地があるということ、食料が安定し て手に入るということ、通学バス代は中学まで市が払ってくれるため4人の子供を学校に行かせてやることが できるということに、とても満足しているということだった。今では50haの土地を家族で共同耕作している 。はじめはほとんどタダ働きだったが、努力することで周囲の人々や企業に認めてもらえるようになり、今 年から自分たちで販売まで行うようになった。今では200%もの利益率らしい。いずれ土地の所有権を認めら れたら、農業中学に通う息子に相続するつもりだそうだ。ブラジル名物のお酒、ピンガまでいただいて、こ の農家をあとにした。


 第3のMST集落〜MST運動のモデルケース〜

さらにバスで移動し、3つ目のMSTの集落にたどり着いた。先ほどの集落は占有権を得てから1年程度のも のだったのに対し、今度は占有権を得て定住してから久しい成熟段階のMST集落である。家は仮住まいという より普通の住宅で、中にはレンガなどでしっかりと建てられた頑丈そうな建物もある。ひとつひとつの家が ある程度の大きさを持ち、造りも非常にしっかりしている印象を受けた。27世帯の家族がここの組合に所属 しているという。

集落の集会所へ。ここは、住民の共同食堂や会議所など、一種のコミュニティセンターとして広くここの 農民全体に共有されている。食堂の壁には「世界を変えるためには我々が道をつくらなければいけない」「 みんなで協力すれば夢はかなう」「我々の戦い、価値、土地、夢を相続しよう」といった、MSTのスローガン が描かれ、スウェーデンのThe Right Livelihood Awardの賞状が掲げられていた。

集落の人々と一緒に長いお祈りをしたあと、私たちのためにMSTが実費で用意してくださった遅めの昼食 をとる。予想をはるかに上回る食事の質の高さに驚く。午前中の行程が長く、腹を空かせていたこともあり 、ゼミテンはみな、さかんにおかわりをしていた。

昼食後、そのまま集落の人々と懇談する機会を設けていただいた。ここの人々は1987年に運動を始めた。 ほとんどが貧しい小作人や農業労働者。現在の土地に落ち着くまで、5ヶ所もの土地を移動した。使われてい ない土地を見つけて占拠し、政府や警察に立ち退きを命じられ、また新たな土地を探すということの繰り返 し。途中で脱落する者もいた。その中で、90年ごろから政府とMSTが交渉を開始し、少しずつ土地をもらえる ようになっていった。今では粘り強く耐えて闘えば、ほとんどの人が土地をもらえるという。ただし、この 集落の人たちは、土地の所有権を求めていない。政府は、所有権を出しても良いと言っているのだが、占有 権まででよいとしている。

ここでの作物は、牛・豚・鶏などの家畜、野菜類、米、とうもろこし、豆類など多岐に渡る。集落の人々 は生産、食品加工、販売のグループにわかれ、分業体制で協働生活をしているのである。


懇談後、集落を案内していただく。集会所の裏にはシュラスコ場があった。少し足をのばしたところには 学校がある。レンガ造りのきれいな建物だ。ここの学校は正規の小学校として認められており、公式のカリ キュラムで、州の予算を使い、先生を市から派遣してもらい教育を行っている。ただし小学4年生までしか扱 っていないので、それ以降は遠くの学校に通うか寮に入ることになる。

ここの集落はこれまでと違い、舗装はされておらずところどころ凹凸が激しいが、きちんと整えられた道 がある。そこをゆっくり歩きながら周囲を見渡すと、馬や牛といった家畜が至るところに見える。少年が馬 に乗っていたり、牛車が子供たちを乗せてゆっくりと道を進んでいたり、童話の中のような牧歌的な光景だ った。市民運動というと、看板を持った人々が街を行進して時に暴力が飛び交う物騒なイメージを抱きがち である。我々もMSTと聞いてそのようなものを少なからず想像していただけに、まったく正反対の、のどかな 様子に驚いた。

その一方で、近代的な農業のための施設もかなり揃っている。住民が共同で利用している農機具倉庫を覗 いてみた。ここの農業機械・器具は、国から援助を受けながら共同購入している。メンテナンスや修理も自 分たちでやっているという。屠殺場、製材所を通り過ぎる。いずれも建物は頑丈に造られている。さらに行 くと、牛の搾乳所まである。牛乳をためる巨大なタンクや無数のパイプ群などの無機質な設備が整い、外の のどかな農村の風景とはだいぶギャップがある。とは言え、ここではまだ製品段階の牛乳までは加工できず 、タンクに入れて別の工場へ運ぶことになるようだった。

その後豚小屋へ。大量の豚がせまい空間に詰められている。ここの豚は草食でよく歩き回るため、脂肪分 の少ないしまった肉がとれるという。我々が近づくと、逃げようとしてわらわらと動く様はなかなか見てい て面白い。ちなみに、ここに入れられている豚は、食品加工される直前らしい。

近くには造酒所もあった。酒まで自分たちで作っているようだ。畑を訪れ、実際に作物が栽培されている 様子を見る。青々とした作物の葉が茂っていた。ビニルハウスに覆われた養殖場を通過し、橋を渡る。橋と いっても、飛び越えられる程度の幅の狭い川に木の板が渡されている程度のものである。ここでは、集落の 人が一生懸命ミツバチの巣箱を製作していた。

最後に、六角形の形状をしていて2階建てのレンガでがっしり造られた特徴的な建物へ。ここも集会場の ひとつである。かつてここに世界社会フォーラムの視察団が訪れ、2000人もの人々でシュラスコパーティが 行われたらしい。

食堂へ戻りしばし休憩。砂糖をたっぷり入れた甘く濃いコーヒーが、歩き通して疲れた身体にしみわたる 。


ある一定の場所に住む人々が協力・分業して農業を行う組織としては、中国の人民公社や、旧ソ連・東欧 にコルホーズがあった。

旧ソ連のコルホーズは、農民に大規模な集団農場化を強制した。集団農場では、個人がいくら努力しても 得られるベネフィットは全員同じであるために、農家のモチベーションが下がり、農業全体の生産性が低下 した。

これに対し、MSTの農場は、自給的な協同組合として連携している。MSTは言わば、農民ひとりひとりが支 える社会主義であり、競争や格差のない理想の農村社会の実現を目指す運動である。この点で、われわれが 訪問した集落は、中国共産主義社会を支え続けた人民公社に近いと言えるかもしれない。

MSTは、日本の農地改革のように小土地所有、つまり自作農をめざすこともしない。自作農になると個々 人が保守的になり、協同組合が解体する可能性がある。それは、MSTや参加型予算、その他多様な組合運動と いうブラジルの左翼運動の目指す方向に反するものである。だからこそMSTは、所有権を得ることを拒否して いるのである。

我々は、バスに乗り込み、長い時間を過ごしたこの集落を去った。


 スーパーマーケット

最後に、MSTが経営しているスーパーマーケットを訪れた。MSTの人々を主な対象としてはいるが、一般の 人も自由に買い物できる。集落で栽培された野菜が、安価で売られている。先ほど集落で見かけた豚たちの 先輩方が、ソーセージになって売られていた。試食もできたが、かなりクセが強く、好みは分かれた。MSTシ ャツ、MST帽子、MST旗など、MSTグッズも一通り揃っていた。Tシャツなど意外とデザインの良いものもあり 、何人かのゼミテンが購入していた。

ここで店員をしているのは、先ほどの集落の住民である。無給のボランティアとして、シフト制を組んで 働いているらしい。

スーパーマーケットを出ると、労働党の選挙宣伝カーが偶然通り過ぎていった。この日福岡さんとともに 案内をしてくださったイケメンのペドロさんとはここでお別れ。記念撮影をしたあと、颯爽と去っていく後 姿は、どこまでもクールだった。




 農業牧畜補給省とインクラ――農村運動における「永続革命」

われわれは、再びバスでポルトアレグレに戻った。

西日がまぶしい頃、バスがたどり着いたのは、市内にある連邦政府の農業牧畜補給省事務所。7、8階建て とかなり高く、いかにも連邦政府といった感じのきれいに整った無機質な施設である。ここに隣接して、土 地を要求するMSTの人々約400世帯が生活している黒いテント群が広がっている。

インクラと呼ばれるこのテント群は、政府に対する抗議行動のように見える。MSTが社会運動である限り 、体裁としてはそれに近いものだが、長年の闘争の結果MSTの運動は公的に認知されてきており、実際に政府 と深い対立があるというわけではない。ここでテント生活を続けていればいずれは政府の公用地がもらえる ことになるようだ。施設の外の旗ざおにひるがえっている、政府の建物であることを示すブラジル国旗の下 に、誰かがMSTの旗を勝手に飾りつけている。だが、政府側はそれをあえてはずそうとしない。これが、両者 の関係を象徴している。

なぜこのような奇妙な関係が成立しているのだろうか。それはまさに、MSTが社会運動だからであり、MST 自身が、自らを社会運動として永続させることを自ら望んでいるからである。

例えば、MSTを媒介にした仲介業者の登場は、まさに「運動」を形式化・公式化する存在だ。州とMSTの関 係が事実上公式化してきたために、それを利用する仲介業者とも言える人々が現れはじめたのだ。自分の土 地をもらうにはまずMSTに入会する必要があり、入会の許可を得るのはそれなりに難しい。そこで、MSTに入 会できない人に土地を貸し与え、小作人として働かせるのである。その小作人がやがてMSTに入り、自分の土 地を持つようになるまで、これが続く。これはまさに、MSTをひとつの形式として利用したものだと言え、こ ういったものが増えることで、ますますMSTは、本来的な社会運動からかけ離れたひとつの制度として公式化 していってしまう危険が存在するのである。

社会運動は、当初、政府などの権力への抵抗として生まれる。しかし、その運動が成功を収め広く社会か ら認められると、徐々に社会運動という意味合いは薄れ、自動的に便益が手に入る所与の手続きとして制度 化・官僚化してしまう。こうなれば、当初の運動がもつラディカルな精神は蒸散し、人々は、社会の主体か ら、再び単なる社会組織の駒にひきさげられてしまう。それを利用して運動が骨抜きにされることもある。 1917年のロシア革命が、やがてソ連の官僚制スターリニズムに変質していったのは、この典型例であろう。

運動をそう変質させてはならない、と考えるところに、社会主義思想におけるトロツキーの影響を感じと ることができる。事実、MSTも支持母体の1つとなっているブラジル労働党には、193x年、メキシコ亡命中だ ったトロツキーが主導して組織された第4インター系がそれなりの影響力を持っているようだ。MSTが、自身 を常に社会運動としてあり続けるため構築している非常に巧妙なシステムが、この、テント群なのである。 政府の施設の横で黒いテントが物々しく並んでいる様子は、我々の多くが抱く一般的な社会運動のイメージ と近いだろう。そこでの生活は苦しい。だが、そうやって苦しい中で生活する中から、土地のためには闘っ ていかなければならない、闘わなければ土地は勝ち取れないものなのだということを、MSTに参加する人々は 、自然と学び取るようになる。それにより、MSTは、運動として永続するのである。

実際にテント群を見てまわる。ここに人々はもう2ヶ月以上住んでいるらしい。MSTの人々がやってくる前 、ここはなにもない空き地だったという。テントの中にはテレビまで備わっていて、意外と人の生活の場と してしっかり造られているという印象を受けた。中には学校や薬局の役割を果たすテントまであった。学校 は、正規の学校として認められているというのが驚きだ。ここで生活している人々は、政府から土地をもら えるまでこうして各地を転々としている。早い人なら半年くらいで土地をもらえるが、長い人は6年もかかる ことがあるらしい。そのため、多くの場合は家族揃って生活している。テント群のあちこちで小さな子供が 遊んでいた。みな元気がよく、我々に興味を示して集まってくる。やはり栄養が不足しているのだろう。腹 の出た子が多かった。

ここにいる人々には、インクラから生活用品・食料が支給される。他の協同組合からの援助もあり、中に は市に出稼ぎに向かう人もいる。しかし不安定で非衛生的な生活であることに変わりはない。待っていれば いつかは土地がもらえるとはいえ、いつもらえるのか、どんな土地をもらえるのかはわからない。

この場所からの立ち退き命令は当分出ないようだ。国の土地であり、行政と裁判所の対立も起こりうるた め、そう簡単に立ち退き命令を出すわけにはいかないのだそうだ。今後もしばらくはこの場所で、公的な制 度としてではなく、闘争と獲得という「ショー」を通じて、人々への土地の分配が行われていくのだろう。

 

 MST運動 総括

この日一日を通じて、ブラジルの代表的な左翼運動の一つであるMST運動を広く見てきた。そして今回訪 れた集落などは、実はMST運動の4つの段階をあらわしているのである。すなわち、最後のインクラが土地を 獲得するまでの段階、3つの集落は、訪れた順に占有権獲得後のMST集落の発展の段階をそれぞれ代表してい るのだ。こうして様々な段階を実際に見て、それに関わっている人々の声を生で聞くことを通じて、MSTとい う社会運動の全体像を明確に掴むことができた。最終段階である第3のMST集落のような分業による集団農業 が確立した安定状態にたどり着くためには、まず黒テントでの長く苦しい生活を経なければいけないという ことである。


最後に、MST運動の特性について何点かまとめておこう。

第一に、MSTは、一種の下からの農地改革運動ととらえることができるのではないか。ブラジルで貧しい 農家が多いのは、植民地期の大土地所有制が原因であることは先述したとおりだ。この問題はアジアや南米 の多くの国々で見られる。バングラデシュでは、MSTと似たような、未利用地の解放運動が起こった。ただし 、運動の対象は公有地のみである。日本では、戦後の農地改革によって寄生地主制の解体と自作農化が進み 、極端な格差が生まれなくなった。これは、上からの改革であった。その結果、ほとんどの農民は土地所有 者として、保守的な意識を持つようになった。MSTは、そうではなく、永続的な農地改革運動をめざしている 。

第二に、アジアでは貧しい農民が職を求めて都市に集中し失業者が増加するという問題が起こっている。 これに対し、ブラジルでは、MSTを通じ、都市から農村への人口移動という一見特異な現象が起こっている。 これは、人口に比して広大な土地があるブラジルの地理的特性ゆえに成り立っているのである。

第三に、MSTは、土地資源のより効率的な再配分を目指す運動だということである。MSTの運動参加者が占 拠して占有をめざす土地は、大土地所有者によって、放牧など粗放的な用途にしか用いられてこなかった場 合が多い。こうした大土地所有者にとって、多少の土地をMST運動参加者に占有させても、限界的な産出量減 少・農場主の所得減少分は、限りなくゼロに近い。他方、MST運動参加者は、その土地を集約的に耕作するの で、土地生産性と農業生産高が目に見えて増大し、MST運動参加者の所得も向上する。要するに、マクロに見 ると、ある人が損失をこうむることなく、他の人がよりよくなり、経済はパレート最適により近い状況とな るのである。皮肉は、このような資源配分の最適化が、最近ネオリベラリストが強調する「所有権社会」の ルールを厳しく遵守しているかぎり、決して訪れないというところにある。「所有権社会」は、土地利用が 粗放的であろうと集約的であろうと、農場主の土地所有権を保護する。ネオリベラリズムが、その表向きの 主張とは裏腹に、「所有する者」の権利にのみ関心が向き、マクロな資源配分の最適化・効率化とマクロ経 済における厚生の向上ということに実は無関心であることを、MSTはたくみに、その運動の過程で逆照射して いるのである。

第四に、MST運動で注目すべき点は、それが生産の現場にまで関わる社会運動だということである。社会 運動は、消費者側の立場からのものであることが多い。生活協同組合や環境保全運動、賃上げを求める労働 者のストライキなどは、すべて受益者としての権利を要求する運動であり、つまりは消費者が要求する運動 である。それに対しMSTは、農業を行う土地を確保するための、すなわち生産者としての運動である。生産す る側による社会運動でここまで大規模に拡大し、かつ成果を収めている例はそう多くないだろう。


多様な展開を見せるブラジルの左翼運動、その中心であるポルトアレグレ。MST、参加型予算といった様 々な市民活動がさかんであり、世界社会フォーラムの開催地であるこの州が今後どうなっていくのかは注目 に値する。グローバリゼーションのオルタナティブとしての可能性のひとつを、我々はこの地で垣間見るこ とができた。


 イグアスへ

太陽が沈もうとしている頃ホテルに戻り、バスを降りると、ゼミテンの荷物が整然と並べられていた。運 転手の粋な計らいに微笑み、記念撮影をする。2日間にわたりガイドをしていただき、本来のガイドの仕事を 大きく超える通訳を快く引き受けてくださった福岡さんともここまで。本当にお世話になりました。

山場のひとつであったポルトアレグレを巡り終え、いよいよ巡検も終盤に差し掛かろうとしていた。各自 で夕食をとった後、午後7時15分発の夜行バスに乗り込む。夜行バスではこれまでで最も長い、1000kmあまり の移動距離。目指すは遠方の地、イグアスだ。


(桔梗 聡)

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