サルバドール 2004 9.9


朝8:30、予定より1時間早く、ブラジル北東部、バイーア州の州都であるサルバドール着。

1549年、ポルトガルが、ここサルバドールに総督府を置いた。日本では安土桃山時代、ポルトガルが、長崎やマカオに拠点を設けたのと同じ時期である。このころポルトガルは、スペインと並んでグローバルな覇権をにぎる世界帝国の一つであった。その後、1763年に総督府がリオデジャネイロに移されるまでの214年間、サルバドールは、ポルトガルのブラジル植民地の拠点として栄えた。

昨晩は、巡検中初の寝台バスだったので、ゼミテン一同なかなか心地よい目覚めが得られた。日本にはない、シートが水平になるベッドタイプで、狭い・辛いバス連泊を予想していた私たちは、ホテルに泊まったのとあまり変わらない快適さて、サルバトールの朝を迎えた。

ターミナルは白くて清潔感があり、比較的新しく建てられた近代的な建物だった。デザイン性の高いベンチ・ソファやATM、観光案内パネルや中規模の店舗などがあり、標示は英語でも書いてあった。ターミナル周辺には高いビル群や住宅地が見られた。さすがに、国際観光地のことだけある。このターミナルは、内陸部の、比較的裕福な人々が住む地区にある。サルバトールでは、昔は沿岸部が栄えたが、今では、街の中心は移り変わっている。

さすがプロフェッショナル、1時間早い私たちのサルバドール入りにもかかわらず、ここでのガイド北村欧介さんは既にターミナルで待機していた。サルバドールに12年暮らす北村さんは、ガイドの仕事をしたり、写真を撮ったり、SONY World Event Villageというインターネットサイト上でサルバドールの音楽イベントの映像提供などの仕事をなさっている。

http://www.worldeventvillage.com/サルバドールは音楽が盛んなことで有名で、多くのアーティストも輩出している。ブラジル音楽のCDを買おうと思っていたゼミテンは、ハウル・セイシャス、カエターノ・ジルベルト・ジルなど北村さんの口から出るMPB(ブラジルポピュラーミュージック)ミュージシャンの名前をしきりにメモに書きとめていた。

バスに乗り込み、北村さんによるこの街の説明を聞きながら最初の目的地:Bon Fim 教会に向かう。途中で、さすが裕福な住宅地区と思わせる、こぎれいでサービスのよい、高級スーパーに寄って各自朝食を買い、車内で慌しく食べた。

 サルバドールの概要

北村さんによれば、人口約300万人のこの街には、日系人の数がせいぜい100人程度しかいないそうだ。中国人も数は少なく、他にスペイン・ポルトガル・イタリア系の移民がいる。これに対し、圧倒的に多いのは黒人である。事前にそうとは知っていたが、今まで滞在してきた土地に比べて、街を行き来する人々に黒人系の顔が多いことを、バスターミナルに着くなり私たちも実感していた。ここに黒人が多いのは、300年間続いた奴隷貿易で述べ300万人の奴隷がアフリカから連れてこられたからだ。このため、サルバドールには、カンドンブレという黒人密教、格闘技カポエイラに代表される、アフリカから連れてこられた奴隷によってもたらされた黒人文化の特色をもつ。人口の80%は、黒人の血が入っている人だというが、自分が何人で、何の血を受け継いでいるかという血筋や人種は自己申告によるため、統計上の数字が常に真実かといったら、それはわからない、と北村さんは言っていた。統計上の数値の危うさ、それは私たちがこの巡検中何度も感じ、またいろいろな人から聞いたことだった。

丁度バスの左側に、トロロ湖が見えてきた。海、鉄、火などを象徴する神様8体の像が湖の中に立っていた。それぞれが象徴色を持つ神々の像は全体でカラフルな一角をつくっており、ディズニーランドのようだった。ギリシャ神のように、嫉妬深いなどの人間的な性格をもつのだそうだ。

この街には一年を通じてさまざまな祭りがあり、最も有名なのがBonFim祭りだ。また2月2日には、カンドンブレの海の神様イエマンジャを称えて、花や鏡や香水を海に投げ入れる祭りがある。リオに続いてサルバドールのカーニバルも盛大で有名らしい。奴隷が逃げ込んで生まれたアフリカと同じ生活様式ですごした集落であるキロンボの首長ズンビの命日は、11月にある。この日を黒人意識高揚の日として、7月2日のバイーア独立記念日よりも地元の人たちは大切にしているという話も聞いた。

北村さんが、最近のサルバドールのニュースをいくつか教えてくれた。サルバドールは治安が悪く、ここ一ヶ月の間に10人くらいの路上生活者が殺されているという。これに対して、ブラジル独立記念パレードの時期には路上生活者たちがデモを行ったらしい。また、学生が、バス賃の学生割引を平日だけでなく週末にも拡大するよう求めて道路を封鎖したのだそうだ。これらのニュースからわかったことは、ブラジルでの政府に対する市民の力の強さ、社会運動・大衆運動の大きさだった。MST運動など大規模なものは有名だが、このような各地の事件まで、市民の中に社会運動の精神が根付いているのだと感じた。


 BonFim教会

そうこうするうちに、バスは丘の上のボンフィン(BonFim)教会へ到着した。この教会は街の北に位置し、都市中心であるセントロからは離れている。

教会前の広場から、海も街も見下ろすことができた。それにしても空が青い。余りにも絵に書いたような景色に、何故か私はびくついてしまった。教会の周りにはポルトガルに特徴的な淡いピンクの建物が並んでいた。古いものが多い。 左手に教会を見上げると、白くて凹凸が無く、窓も小さいのでのっぺりとした印象を受けた。階段を上りだすと、すかさず少年がおみやげを売りに寄ってくる。まぁまぁ後で、とあしらいながら教会の中へ入った。丁度ミサをやっているところで、たくさんの人が祈りを捧げていた。確かに、今までに見たどの街の教会とも違う。白地の壁に金の装飾がゴテゴテと施してある。荘厳というよりは親しみやすく、手垢のついたような壁.何千回も触れられた跡のある装飾。そこかしこに,無数の人々の訪れた足跡が感じられた。

かつて、ぺオドロ・ロドリゲスというポルトガル海軍の将軍が、ブラジルに来る途中海で遭難し、神に祈ったところ無事辿り着けたので感謝を印して1754年この教会を建て、神を祀ったそうだ。建築様式は、クラシックとバロックの中間に位置するネオ・クラシックで、青・白のタイルはポルトガルに特徴的だ。ボンフィン祭りの際には、サルバドール大小50の島からキリスト教の聖像を船で運んできてここに納めるのだという。

北村さんが、この街の人々は黒人密教カンドンブレとキリスト教の両方を、同時に信じるのだと教えてくれた。

教会の右奥、タイル張りの廊下の先には「奇蹟の部屋」があった。壁一面に写真がぎっしり貼ってある。一歩入って、ふと上を見て心臓が止まりそうにびっくりした。マネキンの足、頭部、腕などが天井から無数にぶら下がっているのだ。さながらバラバラ殺人事件である。「奇蹟の教会」に願掛けに来て、元気になった人たちが写真や治癒した体の部位にあたるマネキンのパーツや勲章を奉納したものらしい。ホラー映画のようで本当に異様な空間だった。キリスト教でありながら、このように呪術的色彩を帯びているところは、アフリカ文化とブラジル文化の融合の地サルバドールならではである。

教会を出ると、再びおみやげ売りの人たちに囲まれた。 奇蹟のミサンガという色とりどりの布製のリボンがある。教会の鉄柵にもひらめいており、それを手首に巻き、願い事をすると、リボンが切れたときに願いが叶うという。10本1束でR$1(=¥40)だった。私は友達へのおみやげに20本も買ったのだが、「奇蹟の大量買い」は果たして効果があり得るだろうか。今後の結果が待たれる。

再びバスに乗り込むと、小学生くらいの男の子が、1レアルでボンフィンの歌を歌わせてほしいと言ってきた。北村さんが危険はないといったので、そこからバスに乗せ、歌ってもらった。これはボンフィン祭りのときに歌われる歌で、このあたりの子供はみんな歌えるのだそうだ。歌い終わると男の子はチップを受け取り、その地点で降りていった。「全員で1レアル」と言って乗ったのだが、一人1レアルだと勘違いしたゼミテンが財布から出しかけたお金を、少年は全てもらっていった。今日は平日で、普通なら学校へ行っているはずの時間だ。だが、このぐらいの年になれば、家計を支える労働力として子供が働くのは珍しくない。他でも観光地には、ほぼかならず、同じくらいの年の男の子たちがおみやげを売ってきていた。ブラジルの生活水準は高く、進んだ国と言えるのは間違いないが、こどもたちの置かれる状況は必ずしもよくない。あの少年は、今も、教会の前で観光客のバスをつかまえては歌っているのだろう。

 モンチセラート要塞

教会から5分もすると、岬の先端にある、モンチセラート(Monte Serrat)要塞に着いた。青々とした草の中で、大砲が2,3台海に向かっている。それらに囲まれた要塞の階段を上った。そう高くない階段だが、先は崖で見晴らしがいい。要塞の上にも大砲があり、四方に小さな窓付きの塔があるが、全体としては小ぶりな要塞だった。

この要塞は、オランダに占領されたことがある。ポルトガルが覇権勢力として衰退したあと、オランダがグローバルな覇権の力をつけてきた。このオランダが、ポルトガル植民地の拠点であるサルバドールを攻撃し、ブラジルをオランダの植民地支配下におこうと図ったのだが、失敗に終わった。しかし、アジアでオランダは、マラッカ植民地をオランダから奪い、日本からもポルトガルの勢力を追い出して江戸幕府と結びつき、貿易を独占することに成功したのである。

大西洋に向けて弓なりに広がる海岸線の先には、高層ビルなどが並ぶ旧市街セントロ地区が見渡せた。手前の海岸ではビーチサッカーをやっている。目の前に広がるこの湾は Bala de Todos os Santos、全ての聖人が宿る湾という名をもつ。

この要塞の近くは、今でも海軍基地になっている。階段を下りていく帰り道、遠くの兵隊が一人、平穏さに呑まれているようにぽつんと歩いていた。

 港

 

バスでセントロへと向かう途中、右手に港が見えたので急いで止まってもらい、車内から観察した。最新型のコンテナクレーンや、たくさん積まれたコンテナ、沿岸に並ぶ倉庫群などが確認できた。そういえば前日に訪れた堀田さんの綿もサルバドールの港から出荷すると言っていた。道路には港に向かうのであろう運送トラックがたくさん走っている。

サルバドールは、旧ポルトガル総督府のあった都市として観光地であるだけでなく、活発な経済をもつ生きた街であることを実感した。

 下町(Cidade Baixa)

先ほど、浜の向こうに遠目に見た、セントロ地区へ。

かつての経済の中心セントロは、下町と上町の二つの地区からなり、その間は、ラセルダ(Lacerda)と呼ばれる大型エレベーターや、坂道で結ばれている。下町地区は雑然とした賑やかな商業地区で、昔日本人の船員たちが遊んだ娼婦街もあるという。バスターミナル周辺地区のような最新型ビルはなく、2階建て程度の、少し古いつくりの建物が多かった。上町は宮殿や古い教会などが立ち並ぶ歴史地区になっている。

私たちは下町のモデロ市場(Mercado Modelo)と呼ばれる民芸品市場の前でバスを降り、ここから歩くことにした。

市場の入り口、レストランスペースでは、伝統格闘技カポエイラのステージを演っていた。見学するだけでお金をとられるそうだが、初めて目にする生カポエイラだったので、10レアルを握り締めて各自写真やビデオを撮った。

カポエイラはもともと、武器を持たない奴隷階級の、素手による攻撃・自己防衛術として発達したそうで、黒人密教カンドンブレと共に禁止された時期もあったという。カポエイラにはアンゴラとへジョーカルというふたつのタイプがあり、武術的要素が強く戦闘的なものよりも、ダンスの要素が強く派手な動きのものが、近年は観光の観点から人気なのだそうだ。

私たちがここで見たのは、格闘技というよりはステージダンスで、側転など派手な動きの他はカポエイラそのものにスリルはなかった。しかしバックバンドの楽器と歌に合わせて独特のスローステップを踏む情景は、これが噂の、という感慨に私を浸らせるには十分だった。 レストランには観光客もブラジル人もいたが、このモデロ市場という完全な観光地区の入り口で、丸い小さなステージを囲み写真を撮る、明らかに観光客の私たちの周りには、おみやげ売りやお金を求めるこどもがたくさん寄って来ていた。

モデロ市場は、「市場」といっても大きな石造りの建物で、天井の高く薄暗い中央の道を挟んで民芸品店がところ狭しと並んでいる。アクセサリーから楽器、お酒、ブラジルの国旗をデザインしたビキニまで、民芸品なら何でもあるといった感じだった。何度も足を止められそうになりつつ、時間がないので何も買わずに中央の道を通り抜けた。

表に出ると、今度は民芸品テントが並んでいた。カラフルな民族衣装を纏ったおばさんバイアーナ3、4人にいきなり囲まれ、有無を言わさず手相を見られる。占ってやるからいくらです、のようなことを言われて慌てて断り足早に去った。

次から次へと声をかけられるのを笑顔ですり抜けてようやくラセルダというエレベーターの乗り場へ。このエレベーターは、19世紀末イギリスの技術で建設された。オランダのあと、グローバルな覇権を握った国は、いうまでもなくイギリスだった。大英帝国は世界の七つの海を支配し、海運をもって空間統合を図ろうとしていた。ポルトガルとスペインの国力は遠く昔に衰退し、19世紀末に南米のブラジルやアルゼンチンの経済を支えたのも、実はイギリスだった。当時のイギリスは、重要な貿易拠点としてサルバトールの港湾や設備などを整えた。このような、ブラジルにおけるイギリス覇権のの遺産として、ラセルダを捉えることができる。

エレベーターホールはかなり近代的に改修されており、外から入るとそこだけが高級ホテルのロビーのようだった。並んでいる人々は観光客だけでなく、地元の人も多い。このエレベーターは、下町・上町間を移動する市民の主な足になっているようだった。20センタボを払ってチケットを買い、エレベーターで標高差約80mの上町へと上る。

 上町(Cidade Alta)

 

上町は、歴史地区となっており、サルバドールという都市をつくるポルトガルとアフリカという二つの大きな要素の中でも、ポルトガル総督府時代の面影が色濃く残っている地区である。

エレベーターを降りるとガラス張りの展望台になっており、今通ってきた港や下町を見下ろすことができた。外に出ると、トメ・ジ・ソーザ(Tome de Souza) 広場が広がっていた。この広場は、宮殿や市庁舎などに取り囲まれている。右手手前にあるリオブランコ(Rio Branco)宮殿は、1549年に初代総督Tome de Souzaの邸宅として建てられ、法律を作成したり、舞踏会を開いたりしたという。広場の正面は、白くアーチの特徴的な旧市庁舎である。コロニアルなこれらの建造物とは対照的に、近代的なのが新市庁舎だ。モノレールのプラットホームのようで、市庁舎とは気づきにくい。

 セー広場

地下鉄建設のために移転されたという教会の十字架のオブジェ、ブラジル最初の司教、ダルディニャ(Fernandes Tardinha)像などを見ながら、セー(Se)広場の石畳の上を行く。原住民には、偉大な人物を食することでその人の力が宿るという信仰があり、司教はそのために食べられてしまった。ポルトガル植民地時代の総督像もあった。一部石畳が白いタイルになっているところがあったが、そこがかつて、セー教会があった地なのだという。

再び先ほどとは別のバイアーナが寄ってきて、いくいくらであたしと一緒に写真を撮れるわよ、と言う。それじゃあ、と言って私は写真を撮った。ゼミテンの一人は後日「バイアーナ人形を見るとあの押しの強いおばさんたちを思い出して怖くなるからいや。」と漏らしていた。あの押しの強さは、そのままおばさんたちの生活の重さなのかもしれない。

 ピエール・ベルジェ写真展

写真家でもあるガイドの北村さんが、セー広場の先にある写真展に案内してくれた。ピエール・ベルジェPierre Verger という、写真家であり、人類学者でもあったフランス人である。バイーアとアフリカの関係の研究に生涯を捧げた。バイーアの黒人たちの生活がすぐ近くに感じられる写真や彼の著書が、白い壁にきれいに映えていた。 

 イエス広場(Terreiro de Jesus)

 

ここサルバドールは、ブラジルの中でもポルトガルの面影が最もよく保存されている都市のひとつだ。ポルトガル帝国時代、サルバドールはリスボンに次ぐ都市だったというだけあって、建物も広場も風格があった。

大陸ヨーロッパと同じく、ラテンアメリカの古い殖民都市中心には、このように広場がある。先生が、大陸ヨーロッパの都市は、行政機能や教会が面した広場のある中心街、その周りに商業地区、さらにそれを囲むように、資本主義になってから、工業・住宅地などの近代的な地域がその外側に発展すると解説された。

広場には、それを取り巻くようにいくつ者特徴的な建物があった。

まず、Basilica大寺院は、広場に出てすぐ左手、クラシック様式の緑色の大きなドアが印象的な建物だ。1657年建設が開始された。私たちが行ったときには閉まっていたが1752年の強制退去まで、イエズス会の拠点として機能したそうだ。

広場を挟んで左側にピンクの建物は、医学学校とアフロ・ブラジル博物館である。この医学学校には、われわれが日本出発前に抜かりなく打っていった予防接種の病原体である黄熱病の研究に従事した野口英世博士が、1920年代に来たことがあるという。もとはイエズス会の学校だったと聞いた。私たちは行かなかったが、中にアフロ・ブラジル博物館があり、カンドンブレの神にまつわるものや、陶芸、木工品などの展示があるそうだ。

広場の奥、バジリカ大聖堂と向き合う形で、サンフランシスコ教会が建っている。

これは、南米の中でも豪華で有名であり、黄金の教会と呼ばれている。18世紀に建てられた、柱が曲線的なバロック様式の建造物だ。さとうきび農場主たちの寄付金によってつくられた、金持ちが通うための教会だった。ごてごてとした装飾、80kgの銀のシャンデリア、ふんだんに使われた金。サルバドールの中心の中心に位置するこの教会の立地を合わせて考えても、ポルトガル植民地時代の経済を握っていたさとうきび農場主が誇示した富の大きさが見て取れた。先生が、この教会を装飾している天使には性器がある、と指摘された。建設に働かされた黒人労働者の反抗だという。他にも妊娠した女性や、酔っ払い顔の天使など、他の教会には通常あるはずのない装飾があった。黒人労働者たちは、自分たちの宗教であるカンドンブレの教会をもてない一方で、主人の教会を建築するために働かされたのだ。奴隷身分の人々にこのような反抗する力があったことに私は驚いた。しかし何故これらの装飾はその形のまま現在まで残ってこられたのだろうか。怒った農場主たちが作り直させたりはしなかったのだろうか。篤い信仰から、というよりは金に代表される富を誇示する、という意図で建てられた教会だから現在までそのままなのかも知れない。

教会の入り口は、風でろうそくが消えないように二重扉になっていた。奴隷時代には、黒人女性と黒人男性がそれぞれ扉の横のスペースをあてがわれたそうだ。 壁には、黒人のマリア様の絵画が懸かっていた。奥には、ローマ哲学をもとに書かれた詩を題材に、オランダ人が描いたタイル画の回廊があった。教会の思想を象徴するこれらのタイル画は、嫉妬など人間の道徳心や、生と死、お金についてのテーマが多くかった。天使がお金をかき集めていたり、「金(きん)があれば何でも買える」「お金(かね)は支配する主人だ」などの標語がラテン語で書かれていたりした。キリスト教の教会としては普通あり得ないが、この教会そのものの成り立ちから考えると納得のいく内容だと思えた。

この教会は撮影可だったが、ブラジル中を回る中で撮影禁止、或いはフラッシュ撮影禁止の教会はたくさんあった。いつか「ここって撮影可ですか」と聞いた私たちにガイドさんがこう教えてくれたことがあった。「ブラジル人は、事前に可か不可かとか、何も聞かないで手を触れたりフラッシュ撮影したりするんだ。やった後でそれはダメだと注意されたら、謝ってもう撮らない。そういう風なんだよ。」話を聞いたすぐ後まさにそれを体現しているブラジル人観光客と警備員のやりとりを見つけて、なるほど本当だと実感した。歴史保存という観点から言えば困った問題だが、これもひとつの国民性なのだろう。完全に市民をシャットアウトして一年に一回だけ公開されるような歴史もあれば、人の手垢に塗れて表面の金が少しずつ剥げていく歴史もあるのだと思った。

インターネットカフェや両替所、ビザカードやマスターカードのステッカーがドアの各所に見られる、よく整備された道を通って、ペロウリーニョ広場へ向かう。インターネットカフェや両替所は、ブラジルではあまり簡単に見つからない。巡検中、私たちが両替にかけた手間と苦労、あるいは電子メイルを見るための端末を探す努力を考えると、この一本の通りに何軒も両替商があるのは珍しいことだった。確実に観光客向けだろう。サルバドールにおける観光の占める重要性の高さが伺えた。

ペロウリーニョ地区が1985年にユネスコ歴史遺産に登録されたことを受けて、周辺一帯の保護・保存や復旧工事が進んだようだった。かつての街の中心は、今歴史的・文化的地区として、観光産業の面からサルバドールを大きく支えている。

 ペロウリーニョ広場

中世の面影が残る石畳の道、狭くて傾斜の激しい細い路地、うねり曲がった坂。パステルカラーの、植民地時代の建物が立ち並ぶ。戸口の狭い、1・2階建ての店が狭い道の両側に迫りたつように並んでいて、それぞれ店の小さな看板が頭の上に突き出している。

路地を通り過ぎると、ぺウロリーニョ広場に出た。この広場は、16世紀から18世紀にかけて作られた。「pelourinho」とは むち打ち刑の柱という意味だそうだ。つまり、ここはかつて奴隷売買や、奴隷への拷問が行われた場であった。奴隷市場の建物は今も残っている。

広場に面してジョルジェ・アマド記念館があった。彼は2001年に亡くなったバイーア出身のブラジル国民的作家である。作品は世界40ヵ国で翻訳されており、5作品は日本語翻訳でも出版されているそうだ。共産党で活動し、3度逮捕されたこともあるが、58年『ガブリエラ―クローブとシナモンの娘』で世界的に評価された。広場に向かって開かれた記念館は各国の翻訳本が並べられ、奥のカフェからペロウリーニョ広場を見渡せるようになっていた。バイーアに根ざした世界的な作家ジョルジェ・アマドをこの地を訪れた人にうまくアピールしていたように思う。

 サンティシモ・サクラメント教会(Igreja do Santissimo Sacramento do Passo)

ペロウリーニョ広場の奥に、建物の間から少しだけ黒くすすけた塔の頭がのぞく教会があった。よくサルバドールの絵葉書や映画にもつかわれる、有名な教会だ。ブラジル映画として始めてカンヌ映画祭で受賞した“O Pagador de Promessas”は、ここで撮影されたらしい。われわれは時間が無く、残念ながら教会の前まで行くことはできなかった。

ようやく昼食! ブラジル巡検中お世話になった旅行社、アルファインテルが手配してくれたバイーア料理のレストラン「Restaurate Ugua」でムケッカなどを食べる。店内は、アフリカの民芸品や木をたくさん飾った素朴な内装で、アフリカ文化とブラジル文化の融合したサルバドールならではの雰囲気が楽しめた。飛行機の出発まで時間のない私たちは、すぐ食べられるよう事前に連絡しておいたのだが、何度せかしてもなかなか料理がでてこなかった。これもまたブラジルならではの雰囲気なのだろう。しかしおかげでできたての料理をいただくことができた。

料理は、ココナッツをつかったものが多く、魚介類のスープやアインピンというポテトの中にチーズをいれたものなど、今まで食べたことのない料理であった。シュラスコとはまた違った、奥の深いブラジル料理に舌鼓を打ちつつ、お腹いっぱい食べることができた。このレストランを指定してくれた、アルファインテル旅行社に、一同感謝した。

 Rosario教会


昼食後、ロザリオ教会へ。イルマンダージという黒人宗教団体が建設したというこの教会は、黒人を見せしめに処したペロウリーニョ広場がすぐ裏手にある。奴隷として労働したあとの夜間しか建設する時間がなかったために、完成まで100年もかかったのだそうだ。

午前中訪れたサンフランシスコ教会が農場主の教会であるのに対して、この教会は奴隷による、奴隷のための教会だった。現在も黒人だけの修道会によって運営されているようだ。さすが、ここではミサの曲がサンバらしい。そのCDも売っているのだが、広告も宣伝も全く無く存在を知られていない。そのやる気のなさに魅かれて、12レアルでつい購入してしまった。サンタ・バルバラ(Santa Barbara)という火の神を祀っていて、祭りの期間には消防署で聖像に水をかけてもらうのだと聞いた。

教会の裏は奴隷のための墓になっていて、口に轡をはめた女性奴隷の像がガラスケースに入っていた。夫と奴隷の仲に嫉妬した奴隷主の奥さんに轡をはめられ、食事ができなくなって、餓死したのだという。

バスは、上町のある台地のふもとに停まっているので、われわれは坂を下り、10分ばかり駐車場まで歩かなくてはならなかった。

上町の台地を一歩出ると、そこは観光客向けの民芸品市場であるモデロ市場と違い、地元の人向けの商店街だった。電化製品・服・ふとんなど、生活に必要なものはここに来れば一通り揃う。人通りも多く、庶民的な通りだ。歴史・観光都市サルバドールは、再びわれわれに、客観的に、現在の時間の中で、リアルなものとしてもどってきた。

空港に向かう道すがら、われわれのバスは、港湾都市サルバトールの経済がイギリスによって事実上支配されていたころ、イギリス人が集まって住んでいた地区を通った。この地区の名前は、当時、大英帝国の拡張を何より好んだビクトリア女王の名をそのままとって、ビクトリア(Victoria)という。ここは、現在は高層マンション街になっており、緑も多く、気品ある建物が多い。かつてイギリスが進出した時代にこの地区に形成された高級感が残存して、今でも裕福なブラジル人が好んでここに住むのだ、と先生が解説した。

そしてバーハ灯台。サルバドールの半島の先端に位置する。1598年に要塞としてつくられたが、ここも17世紀オランダに一時占領された。この近海でよく船が座礁したらしく、ブラジルを統括するはずだった要人も亡くなったという。時間が無いので文字通り駆け足で要塞の周りを一周し、滞在わずか5分でバスに戻り、空港へ急いだ。眺める余裕はなかったが、走る背中にバイーアの陽がさしていた。

サルバドールの空港に着くと、飛行機の出発まであまり時間が無く、チェックインに忙しかった。これから長時間のマナウスへの機上で、たまっている日本への絵葉書を書こうと、絵葉書をたくさん買い込んでいる人もいた。北村さんは、空港のチェックインのところまで、われわれに大変気を使って見送ってくださった。半日ちょっとという短い時間ながら、サルバドールの色々な顔を、そして青くて高い空を見せてくれた北村さん、ありがとうございました。

 マナウスまでの各停フライト…5回の機内食!

飛行機は16:10、マナウスへと発った…

のは嘘ではないのだが、この便は途中レシフェ、フォルタレザ、サンルイス、ベレンの4箇所に止まる「各停便」である。

ブラジルの国内線では、軽い機内食と飲み物のサービスがある。このサービスは、1区間に1回だ。すると待てよ、このフライトが途中4回止まるということは、マナウスに着くまでに機内食が5回…?? われわれは、期待と恐怖に胸さわぎを覚えながら、機上の人となった。

不気味な予想は当たった。離陸のたびに機内で軽食が出た。植木算のように正確に、計5回。そして5回とも、みごとに全く同じ、ハムとチーズが中にはいった、饅頭のようなホットサンドイッチ…曰く言い難いパンだった。はじめぼそぼそと口にしていたゼミテンも、やがて飽食状態となり、一人、また一人とギブアップしてゆく。5食完食したのは、荒木君(法2)と水岡先生だけであった。マナウス到着後、ゼミテンは、荒木君の栄誉を「水岡ゼミフードファイター」として称えた。

マナウスに到着したのは現地時間0:50。日付が変わっている。時差も含めて9時間半のフライトは、長かった。これで国内線である。ブラジルの国土の広大さを、改めて認識した。赤道直下、マナウスの空港に着くと、いきなりアマゾンの熱気が襲ってきた。

ターミナルビルの外では、タクシーの客取り合戦が繰り広げられている。運賃メーターがきちんとついている車を注意深く選別して、疲労で重くなったバックパックを積み込み、何とかホテルに向かった。

久しぶりのホテル泊。天井も高くて、熱気の中で床だけがひんやり気持ちよい…と思う余裕もなく、意地でシャワーを浴びてベッドに倒れこんだ。

あぁついにアマゾンまで来てしまった…と目を閉じて、長い長い一日を終えた。


(藤目 琴実)

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