■ セラド開発 2004.9.8

早朝、5時30分頃、ルイス・エドウアルド・マガリャンエスに着く。この村は、バイーア州の西の州境から東に延びる、メストレ台地のちょうど中央に位置する。バスから降りると、旅行社の手違いで予定より遅れ、まだ暗い早朝から30分も多くお待たせてしまうこととなったにもかかわらず、堀田良介さんと新田さんは私たちを暖かく出迎えてくれた。

堀田家とは、兄弟三人で23,000haを所有する大農園一家だ。良介さんは堀田家の長男、2世の方で、バヘイラス日系人会会長もされている。新田さんは堀田農場の一部を任せられている農業経営者であり、ブラジルで生まれ育ったにもかかわらず、流暢な日本語を話す。サンパウロの日本人高等学校を卒業し、その後ミナスジェライス州立大学の農業学部で修学したそうだ。その気さくな人柄で、まだ寝ぼけ気味で無愛想なゼミテンに、気遣いとユーモアの混じった言葉をかけてくれた。

朝焼けの中、2台のジープでわれわれはホテルに向かった。

 ホテルにて

セントルイスという名のホテルに着く。ホテルはぴかぴかの新築で、真ん中が吹き抜けとなった大胆な設計である。合衆国のセントルイスにある放物線を逆にしたようなモニュメントが、ロゴとして使われていた。この街に、最近はアメリカ人が多く出張で来るのであろう。泊まるわけではないが、とりあえず荷物を置き、良介さんたちのご好意で、シャワーや歯磨きなど身仕度をさせていただいた。

ロビーで、今日の巡検についてのミーティングを行った。

まず、やはりこの近傍で大農場を経営される横田さんが、このセラド開発の舞台となるメストレ台地について、簡単に説明をしてくださった。横田さんが拠点となったこの村に入ったのは、1984年であった。その頃、家は10軒ほどしかなかったという。セラド開発の成功のため、今では、人口が35,000人を超え、2010年までには10万人に達するといわれているそうだ。

メストレ台地は、海抜900mであり、平らな土地の広さとしては世界第2位である。その面積は400万haを誇り、オランダの国土に匹敵する。トカンチンス州とバイーア州の境には標高差400mの崖がある。アマゾンで湿気を帯びた風がトカンチンス州を通ってその崖の上まで約400m上昇する。その間、風は温度を2.4℃低下させるため、崖を越えたところ、すなわちバイーア州のメストレ台地の西の端に、大量の雨を降らせるのだ。これが、この地域の農業の基盤になっている。しかし、メストレ台地でも高地から少し離れた地域はその雨にありつけず収量が低い。そういった地域には、ブラジル第3番目の大河であるサン・フランシスコ川から水を引いてくるのだという。川の水はセンターフロートという巨大水撒き機によって、一気に150haの耕地に撒かれる。センターフロートは長さ600mの棒状のもので、水を撒き散らしながら片方の端を中心に24時間かけて一回転する。後でみたメストレ台地の衛星写真からそこだけ色の違う円形をいくつも確認することができたが、センターフロートによるものである。

メストレ台地は、朝と夜に冷え込み、昼は暑くなる気候である。このため、果物の栽培に適しているそうだ。確かに、ホテルで取った朝食のパイナップルは、甘くておいしかった。

朝食を取った後、われわれは、堀田農場に向かった。


【セラド開発】

セラド地帯は、ブラジルの中西部に広がり、約2億400万haの面積を持つ。メストレ台地はその一角にある。セラード地帯は土壌酸性度が高く、農作には不適だと考えられていたが、実際は、水酸化カルシウムを用いて適切な土地改良を施せば、農地化は可能であった。この開発ポテンシャルに注目し、日系人がブラジル政府に持ちかけ、同政府は1970年代半ばから、同地帯の開発に着手する。

この開発への日本参加の先鞭をつけたのが、1974年の田中角栄首相の訪伯である。日本の自立を目指した田中首相は、石油ショック後、日本の食料安定供給を図るため、大規模な農業開発を考えていたのだ。79年、官民合同のナショナル・プロジェクトとして日伯セラード農業開発協力事業が開始される。合同事業は1期、2期、3期と続き、2001年3月をもって終了した。

日本移民事業団(JICAの前身)および国際協力機構(JICA)は、積極的に日系移民をセラドに送ってきた。その日本系農家が大きな役割を担ったことにより、セラドは大穀倉地帯へと生まれ変わった。だがその後、日系農産協同組合コチアの破綻に対し、有効な対策を打つこともなく、アメリカ多国籍農業資本の進出を許してしまった。現在では日系農家に変わって、アメリカ穀物メジャーが著しくセラドに進出し、寡占化が特に大豆で著しい。セラド地帯の日系農家という日本の財産を失い、日本が事業で膨大に血税を拠出したセラド開発の成果を、アメリカ多国籍資本にさらっていかれたといえる。


 堀田農場へ

しばらく車が走った後、助手席に座っている横田さんが、ゼミテンに向かって叫んだ。「ここから77km、一つのカーブもない。まっすぐ!」メストレ台地の広大で平らな土地が、長距離カーブのない道路を可能にしたのだ。前には地平線までまっすぐ道が伸び、左右には綿、コーヒーなどの広大な畑が広がっていた。

車の中で、新田さんから綿農業についてお話を伺った。12月、1月に緑の絨毯のような綿畑は5月には真っ白になり、6月から8月にかけて収穫期を迎える。4月から9月は乾季で雨が降らないため、綿花がいたまず高品質ものが収穫できるそうだ。車の窓越しに、9月というのに窓からまだ白さが残る綿畑を見た。収穫が遅れているらしい。


 良介さんの事務所

時速100kmで一時間強走り、堀田農場の経営拠点の一つについた。先述のように堀田農場は23,000haの面積を持つが、実際作付けが行われているのは18,500haである。その18,500haの耕地は3つの区画に分かれていて、それぞれの区画に経営拠点があり、異なる経営者がいるのだ。ここは良介さんが担当している区画の経営拠点である。

車から降りてあたりを見回す。とんがり帽子の巨大なサイロが4つ並んでいるのが目に入る。それを気にしつつ、いただいた「HORITA」と白のロゴの入った、明るい青の帽子をかぶって、事務所に入る。事務所の中にはパソコンや無線機があった。パソコンで、農業に関する情報を管理しているそうだ。


良介さんが無線機をとってなにか話し始めた。どうやら農場にいる従業員とやりとりしているようだ。ポルトガル語で何を言っているかはわからなかったが、「仕事の進み具合はどうだ」などと聞いているのかもしれない。広大な農場では無線機でも使わないとやっていけないのだ。さらに、人工衛星を利用して自分が地球上のどこにいるのかを正確に割り出すシステムであるGPS(全地球測位システム)を利用し、農場管理に役立てている。

現在は治安がいいこの地域も、10年前までは農園乗っ取り団が横行していたという。彼らのやりかたは実に単純である。農園を占領して、そこをよこせと脅迫するのである。3,000haを奪われた人もいたそうだ。横田さんも一度銃を突きつけられ、農園の譲渡を要求されたが屈せず、逆に相手に「お前は震えているぞ」と諭して、命も落とすこともなかったという。

大豆を貯蔵したサイロやトラクターを見終わった後、事務所のそばにある良介さんの別宅に向かって歩いた。良介さんは仕事のため別宅によく泊まるが、残りの家族はバヘイラスの本宅に住んでいるという。別宅に通ずる並木道の左側にはサッカー場があり、スプリンクラーが勢いよく水を噴いている。このサッカー場は従業員が休み時間などに使うそうだ。ちなみに、堀田農場には、常時300人から400人の従業員がおり、収穫期には1000人にもなるという。農場の中には従業員用の食物を作る畑や家畜がある。

きれいで広い別宅の中には、仏壇があった。1937年に熊本から移民した祖父、祖母を祀っているのだ。良介さんは祖父に今でも感謝の念を抱いていた。今の自分があるのは祖父のおかげだと。良介さんたち三人兄弟は、三代目である。

コチア産業組合の破綻などが原因で、日系人移民農家の中には三代目で経営を破綻させてしまい、中には日本へ出稼ぎに行くようになった人もいるという。その結果、多くの農場従業員が職を失うことになり、地元民の日系人への尊敬の念は、薄れてしまう。しかし、「堀田さんのように先祖を敬う義という精神を持つ限り農園はつぶれることはない」と横田さんは語っておられた。

【コチア産業組合】

1927年、コチア産業組合(以下コチア)は創立し、家族農業経営の販売協同組合として発展していく。日系移住者によって、日本での農業協同組合の影響で、その組織形態がもちこまれた。そのため、コチアは、家族農業経営を基盤にし、ブラジルの大規模な農業経営に対して、家族的小規模農業経営を守る役割を果たしてきた。

しかし、70年代から80年代にかけてコチアは、家族小規模農家のための組合から、大規模な工場経営、国際的な商業的資本の仲間入りの形態をもって大企業化していくことになる。73年からは、この一環として同組合はセラド開発を始める。だが、その後、経営も放漫化していき、日本政府が援助の手を差し伸べないまま94年に破綻、多くの日系農家が土地を手放して出稼ぎ労働者となることを余儀なくされた。


 綿の加工・運送拠点

堀田農場の中をジープで案内していただいている途中、飛行機の格納庫を見せていただいた。赤い小型機である。もしやと思って会社名を探すと「ENBRAER」という文字を見つける。ENBRAER社は3日に訪れたブラジル民族資本の航空機会社である。値段を聞いてみると20万ドルだそうだ。地上20mの低空飛行で、一日800haの耕地に農薬を散布できるという。一般人には操縦が難しいので、この飛行機専用の腕のいいパイロットを雇っているらしい。各区画に一つの飛行機があるので、堀田農場には計3つの飛行機があるということになる。ちなみに、その納屋の側には馬を飼っている牧場があった。

ジープで綿の加工・運送拠点に着く。ここは、綿花から種を取り除き、残った綿を圧縮して一つ200kgの荷物にする、工場のような施設だ。

筒状の屋根の大きな倉庫に、圧縮された一つ200kgの荷物が山積みになっている。その一部は、1000km離れたサルバドールに向けて出荷される。敷地の中に、大きなトラックがいくつか止まっていた。実際、トラックが荷台いっぱいに綿を積みこんでいる場面にも出くわした。綿はトラックに運ばれて、この加工・運送拠点から出て行く。われわれも後で移動中に確認することができたが、運送中、そのトラックから綿が道路にこぼれる。その綿を貧しい人々が拾い集めて布を作るという。 次に、綿の格付けをしている現場を見せてもらう。なにやら作業服を着た男の人が、綿を少し引きちぎり、感触を確かめている。

種も有効利用される。来年植付けに使う種を除き、製油会社に売られ食料油になるという。

良介さんは、ブラジル人の品質格付士と共同で会社を作り、綿を格付けし、その格に応じて値段を決めて売っている。例えば、品質のいいものはハンカチなどに使われ、日清紡などの日本企業が買っていく。それほど品質のよくないものはジーパンに使われ、ブラジルの国内市場がその買い手となる。さらに品質のよくないものは絨毯などに使われるという。

 新田さんの事務所

次に私たちは、新田さんの事務所に案内された。事務所は、広大な綿花畑の奥にある。見渡す限りの農場がひろがり、遠く地平線に、蜃気楼を見る。石灰石の粉末が畑のところどころに積んであるのも見受けられた。このあたり土地は強酸性であり、20年前まで地元民には不毛の土地とみられていた。しかし、日本移民が石灰石の粉末を混ぜることにより土を中和させ、作物を育てることに成功したのだ。日本移民が「緑の魔術師」と呼ばれることの所以である。こうして日本移民が血のにじむ努力で開発した農地に目をつけ、アメリカ資本が入ってくることとなる。

事務所ではコーヒーとクッキーをいただいた。新田さんが、同じ大学の農学部で知り合って結婚したという奥さんを紹介してくださった。夫婦二人で5,800haの耕地を共同で経営しているそうだ。事務所には、もう一人パソコンに向かって仕事している従業員がいた。新田さんの個室に入れてもらう。新田さんがパソコンで何かをチェックしていた。一瞬、経営者の顔に戻る。

事務所から道路に戻るとき、新田さんが経営する農場と、日系人ではない他の人が経営する農場の境界線の道を通ってくれた。両者の違いは歴然であった。新田さんの農場は、手をかけて管理が行き届いているのに対し、他の人のそれは一目見て荒れて、粗放的に耕作されていた。日本の農業技術は、単位面積あたり労働を多投するという特徴をもっている。ブラジルに来ても、このような伝統がそのまま受け継がれているのだろう。


帰り道に、綿畑で下ろしてもらった。見渡す限り白。ゼミテンははしゃいで、綿畑に姿を隠す。今日は快晴で空に雲ひとつない。まわりに建物がない分、ブラジル・ボリビア巡検で一番広い空であった。




 BUNGE

正午、ホテルに戻る。荷物をジープに押し込み、ユダヤ系アメリカ農業資本のBUNGEを訪問しに行く。Bungeとは、Cargillと肩を並べるアメリカ合衆国の多国籍穀物メジャーである。ブラジルでは、主に大豆を買い取り、その加工と販売を行っている。

ここは、敷地面積145ha、一日4000tの大豆を扱う、大きな大豆加工工場になっている。堀田さんの取り計らいで、ブラジル人の事業所長からお話を伺うことができた。さすが、外資に勤めているだけあって、ブラジル人だが英語がうまい。


ここは、南米第二の基地だそうだ。一番目の基地はアルゼンチンにある。Bungeでは、地元農家から大豆買い取って加工し、いろいろな製品を作っている。基本的に、生の大豆は輸出し、加工品は国内で販売している。で大豆から精製した食用油はブラジル市場向けに、絞りかすは飼料としてヨーロッパに輸出する。マーガリンも生産しており、主にサンパウロで販売するという。一方で、加工しない大豆も取り扱っており、主に輸出向けとして年間20万t売る。

今年、日本企業で初めて、伊藤忠が17,000t買い付けに来たそうだ。かつては日系人が中心となって開発した土地の大豆をアメリカ資本が牛耳り、今ではその大豆をアメリカ資本を経由で日本が買い付けるとは皮肉なことだ。JICAは、セラド開発が「成功だった」と自画自賛して、すでに開発から手を引いた。横田さんのお話では、JICAは朝日新聞の記者を5つ星ホテルなどで厚遇して視察させ、その記者は、セラド開発が成功だったとPRする本を書いてJICAの外郭出版社から出したのだという。そして、知恵を絞り、会社を起業してセラドの農地を引き続き日系人の手で発展させようと真摯に努力している横田さんに、この朝日の記者は、木で鼻をくくったような対応しかしなかったということだ。多額の日本国民の血税でアメリカ多国籍企業にビジネスチャンスをあたえてやったことが、「成功」だったとでもいうのだろうか。アメリカ企業のグローバルな支配力と経営力を、あらためて思い知らされる。国、地域別に見た大豆の取引額はヨーロッパに60%、中国に20%だという。

残念ながら工場の内部は視察させてもらえなかったが、帰りに、敷地の外から写真で工場を撮ることが許可された。概してアメリカ企業は内部の情報をあまり提示したがらない。それにもかかわらず、事業所長がインタビューに応じてくださり、遠くからではあるが写真まで撮らせてもらったのは「堀田さんがこの土地の有力者だからだ」と横田さんは言う。




 昼食

昼食はシュラスコ料理をご馳走になった。このレストランでは厨房を見ることができ、いままで見たことのなかったシュラスコを焼く現場を見ることができた。

食事をしながら、横田さんが起業しようとしている会社の話を伺うことができたので、紹介しよう。コチア産業組合がつぶれたため、横田さんは日系人の農園を再興しようと努力しておられる。そのために、土地を買い、買った土地で作物を作れるようにするための資本金がいる。近年、ブラジルの法律改正で、外国人でも2,500haまでならブラジルの土地を所有できるようになった。このことを受けて、横田さんはその資本金を日本国内に住んでいる日本人に出資してもらおうと考えている。出資した日本人は、日本にいたままで、横田さんと日系人が責任を持って農園で耕作し、作物を管理する。「日本にいながらにして、農園主だよ。ブラジルにもいつでも来られる。だって農園主だから。夢が広がるよ」と横田さんは熱く語っておられた。2,500haの土地を買い、作物が育つようにするまで、約3,000万円かかる。しかし、作物が育つようになる5年目からは毎年600万円の収益と土地の値上がりによる利益が見込めるということだ。

 本社ビル

ジープに戻って、供え付の温度計を見ると39℃。熱い。メストレ台地の東に位置するバヘイラス向かって走る。車が進むにつれ、農地にある作物の生育状態が悪くなってきていることに気づいた。次第に台地の中に入り込み、水利が悪くなってきているのだ、と堀田さんが指摘された。その間に高度は400m下がる。大地の東側は崖になっておらず、ならだかな斜面だ。、下がった分、気温はさらに熱くなった。

ジープの窓から、牛、馬などがちらほら見受けられる。先住民の血が入っている地元のバイーア人が放牧しているという。良介さんの話によると、バイーアは自然が豊かであるので、農業するといっても採取経済で食べていける。そのため、バイーア人には決められた時間に働くという概念がなかったという。遅刻、さぼりはあたりまえの彼らに、決まった時間に労働するという観念を教え込むのは、一苦労だったそうだ。しかし、例えば、最近では若い男が女の子にもてるためにラジカセを欲しがるようになり、日系人の農場で働いてラジカセのためのお金をかせごうとする者も多いという。バイーア人も徐々に、労働者として自らを労働市場に投げ出すようになってきているのである。

途中、小川のそばで今工事中の堀田家の別荘に立ち寄った。ゼミ生はみんな、川の水に足をつけるなどしてすずむ。夏には、子供たちがこの川で泳いで遊ぶという。そんな別荘をうらやましく思いながら、立ち去る。

移動中、Bungeの看板を見た。「大豆買います」と、ポルトガル語で大きく書かれていた。

バヘイラスは、人口11万のメストレ台地最大の中心都市である。バヘイラスの堀田家の本社ビルに着く。駐車場も広く、3階建ての建物は、きれいで立派であった。水色の制服をきた女性従業員が、十数名パソコンに向かいながら働いている。ここでは、主に堀田農場で生産された作物や製品の販売を管理している。農機具を買い付けたり、綿に関して注文を受け、世界中で一番高い価格をつける所を輸出先として選んだりする。最近、取引の交渉を行う優秀なスペシャリストの引き抜きも行ったという。綿の販売で、農場自体がグローバルな戦略をもって経営行動をしている。保護政策ばかりに目が向かいがちな日本の農業では、あまり考えられないことだ。

堀田家の次男で、本社ビルを統轄しているユキオさんにお話を伺った。ちなみに三男の方は、財務関係の仕事を担当されているという。

ユキオさんは、18,500haの耕地うち13,500haは綿、500haは大豆を作付けしている。1haの売り上げは、綿畑でR$6,000、大豆畑でR$1,800と綿のほうが儲かるので、作付面積も綿のほうが大きい。今年度の総売上高は約R$9,000万、うち30%が収益である、と説明してくださった。

私には、大豆産業における穀物メジャーの加工・販売独占に対して、綿産業へ傾斜することで利益を上げ、メジャーに対する依存度低下を図る堀田農場の戦略が存在するように思われた。CargillやBungeなどの穀物メジャーに販売ルートを押さえられているため、堀田農場は大豆を穀物メジャーに売るしかない。さらに、メジャーは加工業務をもこなすので、大豆は加工されずほぼそのまま堀田農場から売られることになる。そこでは付加価値が発生しないので、大豆の1ha分の売り上げが少ない。これから堀田農場が自前で大豆の加工・販売業務を始めようとしても、技術と経験を蓄積したメジャーとの競争に勝つ可能は少ないだろう。そこで、堀田農場は穀物メジャーの未進出の分野である綿産業への傾斜を強めたと考えられる。綿を栽培し、午前中に視察した綿の加工・運送拠点のようなところで、自分たちの手で加工業務を行い、綿製品の付加価値を高め、独自で販売ルートを作ることで、直接の綿市場へのアクセスを確保しているのである。

日本企業には農場でとれる作物を売っているのか、と質問してみた。すると、例えば三井物産の30tの注文といった、大豆の小規模の取引はあまり商売にならないといっていたが、綿ならありうると言っておられた 続いて、堀田農場の今にいたる経緯をお伺いした。1984年、ユキオさんは21歳のとき、単身で祖父や父親のいたパラナ州からここバイーア州メストレ台地に来る。堀田農場の最初の135haは父親の財産で買ったそうだ。パラナ州ではもう土地がなかったからだという。この頃は、ここまで農園が大きくなるとは思いもしなかったそうだ。

85年にはBanco do Brasilから融資を受けるようになる。ユキオさんはコチア農業協同組合員であったが、作物を売ることが目的であり、、融資を受けるためにコチアに入ったのではないという。コチアの融資の条件がうるさく、担当者が居丈高で、借りる気にならなかったのだという。しかも、94年のコチア倒産前には、コチアの経営は腐敗し混乱しており、借り手の農家との人間関係もうかくいっていなかったそうだ。コチアが潰れた後、コチアに売っていた作物はCargillやBUNGEなどの穀物メジャーに売るようになったという。


コチアが多額の負債を抱え倒産し、業務を清算することになったとき、コチアから融資を受けていた多くの日系農家は借金返済を直ちに求められ、それに応ずるために、泣く泣く農地を手放すこととなった。しかし、ユキオさんはBanco do Brasilの本社の理事に日系2世の友達がいて、コチアより低い利子率で引き続き融資を受けることができたそうだ。今、日系農家で生き残っている人は、コチア以外に融資先を見つけた者であるという。特に、ユキオさんのように政府や銀行に強いコネを持っていた人は、そうでない人より大きな成功にめぐまれる可能性が高かった。しかし、強いコネを持っていた人はごくまれである。コネがなく、しかも農業を続けている日系農家の経営は苦しく厳しい。『サンパウロ新聞』は、現在バヘイラス(もしくは、メストレ台地)に残っている日系農家は、「個人によって状況は違う。が、自己資金を持てず、銀行や穀物メジャーからの高利息支払いのために農作業を続けている人々が大半を占めている」と伝えている。

ゼミテンの一人が、成功の秘訣を聞いた。ユキオさんは、いい質問だと言って答えられた。第一に、お金がなくても土地を買うこと。堀田さんのお父さんは「ブラジルではまだ夢が見られる。それには、土地を手に入れることだ。」とよく言っていたそうだ。どんなに貧しくても土地だけは手放さなかったという。第二に、一度信用した相手は最後まで信用する。交渉相手を変えないことで、信頼関係ができていきそれがうまく経営と結びつくという。第三に、いいと思ったらすぐ実行する。機を逃さないこと。ユキオさんはセラドの土地をここぞというときに買ってきたのだ。最後に、経営陣が協力し合うこと。堀田さんは、両親のおかげで兄弟三人仲がよく、協力してきた。お父さんはよく毛利元就の3本の矢をなぞらえて、兄弟三人仲よくしていくようにと諭したという。もらった「HORITA」のロゴ入りの帽子の「O」の中に、矢の羽が3つあしらっているのを確認した。

 日系人会館

良介さんの本宅でシャワーを浴びさせてもらった。昨晩と今晩、2連続の夜行バスでの移動で、しかも今日一日汗とほこりにまみれたので、シャワーがとてもありがたい。3つもシャワールームがあり、一同手際よくシャワーを浴びることができた。良介さんの子供たちはサッカーをテレビ観戦したり、テレビゲームをしたりしていた。住宅のつくりはほぼ完全に西洋風であったが、階段には、日本の農村風景の絵がかかり、屋根の上には、日本語で「堀田」と書かれていた。堀田さん一家の、日本人としてのアイデンティティは、まだ健在なのであろう。

その後、日系人会館に向けて出発する。バヘイラスの街の様子を見てみる。広々とした感じで、あまり高い建物はなく、住宅が多い。

われわれが着くと、日系人会員の皆様の手作りによる、心づくしの豪華な日本食が用意されていた。焼き魚の料理、筑前煮、ヒジキに混ぜご飯などがあった。日系人会は独自の建物を持っている。そこには日本語学校、図書館、運動場、舞台のついた集会場があった。日本から地球の裏側、日本人はほとんど知らないこのバヘイラスの街に、確固とした日系人コミュニティが築かれているのだ。自己紹介が終わった後、ビュッフェ形式で夕食を頂く。日本食が恋しくなっていたので感激である。

お礼に藤目さんが詩舞を披露する。日系人会館の観客約30名からアンコールがあり、今度は動きの意味を解説しながら、再披露。ゼミテンも、動きの意味を聞くのは初めてなので興味津々である。

カラオケセットがあり、横田さんに薦められ、また、ゼミテン一人にお礼を任せるわけにもいかないので、日本の文化を見せるとの理由で、急遽ゼミテン全員で「昴」、「乾杯」を熱唱することとなった。先生も「男船」を熱唱された。

19時45分、別れを惜しみながらバスターミナルに向けて発つ。バスが出発する最後まで良介さんと新田さんが見送ってくれた。堀田農場と日系人会館の皆さん、よくしていただいて本当にありがとうございました。




20時30分、バスはサルバドールに向けて出発した。この夜のバスは、これまでに乗った中で一番豪華な寝台バスで、列車の寝台車のように完全に横たわり、寝具に包まって移動できるようになっていた。まだ夜は早かったが、バスの中では何もすることができないし、疲れていたので、みな早々に眠りについた。



(荒木 直哉)

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