■ ブラジリア 2004 9.7


 今井弁護士のお話

朝、われわれはホテルのロビーにて、農場主の横田尚武様と合流した。


横田さんは、長野県伊那市のご出身で、戦後のブラジル移民プロジェクトであったコチア青年団に応募し、ブラジルに移り住んだ。 コーヒー農園の労働者として厳しい労働を経験した後、サンパウロ近郊に農園を手に入れて近郊農業を営み、その後セラド開発に尽力された。 現在は、バイーア州で横田農場を経営なさっている。 1世の日系移民である横田さんは、日系移民がブラジルの農業の土台を築いたということに関して強い誇りを持っておられた。 そして、日系移民が着想し、日本の税金を使った援助としてはじまったセラド開発が、その後アメリカの農業資本に大部分乗っ取られ、しかも日本政府がそれをほとんど拱手傍観していたことを、厳しい視点で批判しておられる。 われわれが横田農場主とコンタクトを取ることができたのは、アルファインテル南米交流の佐藤貞茂代表取締役社長の好意あるご紹介によってである。 水岡先生が夏学期に担当していた「経済地理学」の講義では、横田農場主に、セラド開発に関するゲスト講義もしていただいた。

横田農場主は、われわれにぜひ会って話を聴いてほしい人がいるとおっしゃられ、親しい知人である今井真治弁護士を同行しておられた。 47年前にブラジルに渡った今井弁護士は、当初ポルトガル語がまったくわからない状態だったが、猛勉強の末、大学を首席でご卒業された。 現在はブラジルで弁護士として活躍されており、ブラジル政府の公証翻訳人でもある。 主としてブラジルへの投資や輸出に関する国際関係分野の仕事が多く、ヨーロッパにあるリオドセ社の関連会社の顧問や、ベルギーのブリュッセルでのコンサルティング業務など、世界をまたに駆けて仕事をしていらっしゃる。

われわれは、今井弁護士から、貴重な話を伺うことができた。

まず、今井弁護士は、日本企業の体質について語られた。

1970年代、約500社の日本企業がブラジルへと進出したが、その後多くの企業が撤退を余儀なくされ、現在は100社ほどになっている。 多くの日本企業が失敗した理由について、今井弁護士は、日本企業の体質が最大の原因であると指摘された。 そもそも、1970年代に日本企業がブラジルに進出したのは、「他の企業が進出したからわが社も進出しよう」といった理由によるものが多い。 中・長期的な戦略をもたないままに進出してしまったのである。 また、進出した日本企業は独自の意思決定を行わず、現地での経営戦略や撤退なども本社の指示に従っていたのだという。 「日本企業は本社への還元ばかりを考えており、海外に進出しても常に日本のほうを向いている。企業内部の組織も何も変化しない。」と今井さんは厳しく批判された。

1990年代に入ってから、日本企業は地理的に遠いブラジルを軽視し、東南アジアや中国ばかりに目を向けるようになった。 その間に、ブラジルにはEUの企業が大挙して進出している。 EUの企業は中・長期的な戦略をもち、意思決定などの権限は本社とかなりの程度に独立しているという。

次に、今井弁護士は、日本人の国際社会でのありかたについて語られた。

日本人は国際的な舞台において、「語学を勉強して、礼儀正しく振舞おう」という考え方がある、と今井弁護士は指摘された。 しかし、実際の国際関係の場においては、むしろしたたかさやたくましさが必要であるという。 今井さんは、ロビーの窓から見えたホテルのレバノン人経営者の例を挙げられた。 その経営者は、日本人に欠けているしたたかさやたくましさを小さいころから本能的に学び取っているのだという。 国際関係に携わる人は野蛮といってもいいような人が多く、こちらも「会っていきなり張り手をかますような」気持ちで臨む必要があるのだ、と今井さんは力説していた。

日本人がそのような国際感覚を養うことができないのは、初等から高等教育に問題があるのだ、と今井弁護士はおっしゃった。 いまの日本人の若者には覇気がなく、国際感覚や覇気を身につけるためには「ジャングルに放り込むような教育」が必要だとおっしゃる。 この今井弁護士のお話を伺い、自分のことを思うと耳が痛かった。 現在の英語教育も、国際関係の場で使う英語を身につけるためのものだとは言いがたいとおっしゃっていた。

国際感覚を養うために、積極的に外国に行くことも重要であるとおっしゃっていた。 その場合にも、ただ外国に行くのではなく、外国で何を学んでくるかが重要である、と今井弁護士は力説していた。 水岡先生もこの話に同調しており、外国で何を学ぶのかを学生に体感してほしいというのが、この海外巡検の目的の一つであるとおっしゃっていた。

さまざまな国際経験を積んでいる今井さんの主張には、どれも説得力があった。 今井弁護士は、横田農場主とともにわれわれを昼食にご招待いただけるとのありがたいお話をくださり、われわれは再会を約してホテルを後にした。


 独立記念日パレード

ブラジルの独立は、一種の「宮廷革命」で、民衆がかちとったものではない。 しかし、独立した9月7日は独立記念日とされ、この日は国内各地で催し物がある。 われわれは、首都ブラジリアで、この独立記念パレードを参観する幸運に恵まれた。


横田農場主の案内で、パレードが行われる通りへと向かう。 ブラジリアの道路は幅が広く、きれいに舗装されている。 だが、歩道橋や横断歩道がなく、車はかなりのスピードで往来していた。 われわれは、目的地に向かうまでに、何回か何車線もある幅広い道路を横断しなければならなかったのだが、そこには歩行者用信号がないどころか、横断歩道でもなんでもないところなので、車に注意して、走って横断する必要があった。 横田さんは「ブラジルでは車が歩行者を避けてくれますよ」とおっしゃっていたが、とてもそんなことをする勇気はなかった。 ここでわれわれは、早速ブラジリアの都市計画の問題点を知ることになった。 歩行者の存在を無視して都市計画がなされているのである。

途中、近距離バスターミナルを通った。 ここは、最近建設された地下鉄の終点でもあり、交通ハブとしての役割を担っているが、周りにはさしたる商業の繁華街もオフィス街もない。 ブラジリアのほぼ中心に位置しているが、どこからアクセスするにも中途半端な距離でかえって上便であるという印象を受けた。

目的地に着く少し前に10時になってしまい、戦闘機が轟音とともに空を横切った。 パレード開始を告げる合図だ。 10時に少し遅れて、われわれはパレードの行われる通りに到着した。 パレードの行われる通りの周辺はすでに多くの見物客が人垣をつくっていた。 木によじ登って見物しようとする人や、見物客相手に水やアイスクリームを売ろうとする人などがいた。 見たところ、見物客は富裕層ではなく、普通のブラジル庶民といった感じだ。

軍隊のパレードがわれわれの近くまで行進してきた。 軍隊はいくつかの部隊にわかれていて、カラフルな軍?の部隊や、迷彩柄の部隊、国旗、銃、無線機を持って行進する部隊、楽器を演奏する部隊などさまざまであった。 行進の途中に軍隊が号令をかけたときは、見物客から歓声が上がっていた。 軍用機やパラシュート部隊など、空軍によるパフォーマンスもあった。 パレードのスタート地点ではルラ大統領がスタンドから見物していたらしい。

ブラジルは軍隊を持っているものの、現在は戦争をしておらず、目立った軍事活動をしているわけでもない。 こうした派手なパフォーマンスをすることで、軍隊は健在だということを国民にアピールしようとしているのではないか。 人垣のそとでは青い地球のうえに各州をあらわす星があしらわれたブラジル国旗も販売され、それを振って軍隊を歓迎する人も目に付いた。 パレードを見に来たブラジリア市民は、自然な気持ちでこの軍隊を受け入れているようだった。

われわれは一旦解散し、それぞれホテルへと戻った。

私はホテルの向かいのショッピングセンターへ行った。 われわれの滞在したホテルのあるあたりは、ホテル区に地区指定されているようで、たくさんのホテルが集積している。 しかしこのショッピングセンターは、ホテル地区の中に立地していた。 ホテルの宿泊客は車を所有していないので、移動手段は徒歩に限られると言っていい。 宿泊客の上便を補うために、あとから、ホテル地区の中にショッピングセンターを立地させることにしたと考えられる。 人々の動線を考えないで、机の上で地図を色分けするように地区指定を分けても、本当に人々に住みやすい、働きやすい都市にはならないと言うことだ。 このことからも、ブラジリアの都市計画の失敗がうかがえる。


 テレビ塔

われわれは今井弁護士と合流し、横田農場主と今井弁護士のご好意で、ホテルの近くのレストランで昼食をともにした。 ホテルからレストランへと歩いていく途中に、午後のブラジリアツアーのガイドさんに会った。 ブラジリアツアーは14:00からの予定だったのだが、暑いので14:30からにしましょうと提案してきた。

レストランは、ピアノ生演奏もついていて、相当高級な店のようだった。 ビュッフェ形式で、当然メインはシュラスコだ。 テーブルの上に片面が赤、裏面が緑のコースターのようなものがあった。 これは緑の面を見せておくとシュラスコボーイが回ってきて、赤にしておくとボーイが来ないという仕組みらしい。 ある程度シュラスコを皿に切り分けてもらったところで赤にしてみたが、シュラスコボーイはお構いなしに回ってきた。

昼食を取りながら今井弁護士からいろいろな話を伺った。 ブラジルでは、遺産相続の書類作成が難しいのだそうだ。 親子間で国籍が違ったりする場合に、どちらの国の法律に則ればいいのかという点が問題をより複雑にするのだという。 また、ブラジルは移民社会で、出身地の国籍を維持している人が多いのだそうだ。 このため、労働者は国籍を持つ国とブラジルの労働市場を自由に出入りすることができる。 このことは、新垣さんのところでも学んだことであるが、一般の国際労働力移動に比べ、移民労働者の立場がホスト国で強いということも意味する。

レストランで昼食をご馳走になり、今井弁護士と別れたあと、近くのテレビ塔に行くことになった。 ふたたび、横断歩道の無い幅広の道路をひやひやしながら横断し、テレビ塔のある広場に行った。 高さは218mあり、高さ75mの展望台からは、ブラジリアの都市構造が一望できるという話だった。

塔の周りには民芸品や食べ物の屋台が数多く出店していた。大道芸やピエロのショーもやっていた。 しかし、肝心の展望台には長蛇の列ができていた。 並んでいるとブラジリアツアーの時間に間に合わないため、展望台に登ることはあきらめた。


【ブラジリアの遷都と都市計画】

まず、ブラジル独立の背景を簡単に説明する。 1800年代初頭、ブラジルは、ポルトガルの王室がフランスに追われて移転してきたために、ポルトガルの本土であったという特異な歴史を持つ。その後、ポルトガルの摂政王子であったペドロが、ポルトガルからブラジルを切り離すという形で独立が達成された。1822年9月7日のことである。

 スーパーカドラ

われわれはバンでブラジリアを視察した。ガイドさんは、英語の合間に片言の日本語を織り交ぜるユニークな人であった。

最初に、スーパーカドラ(Superquadra)と呼ばれる住宅街に立ち寄った。 ブラジリアの計画的な都市構造において翼にあたる部分の中央に大通りがあり、その両側が住宅地となっている。 住宅地は規則正しく区画されており、その1区画をスーパーカドラと呼ぶ。 区画には7階建ての集合住宅が立ち並び、1つのスーパーカドラには700戸がある、1区画の総人口は、約3,000人である。 スーパーカドラの間には、商店街や学校、緑地帯などが計画的に配置されている。

バンを降りて、スーパーカドラに足を踏み入れた。 集合住宅もオスカー・ニーマイヤーによって設計されたものであり、機能性を追求したモダニズム建築様式のものであった。 スーパーカドラの中は、閑散としていた。 表には駐車場があり、車が何台か止まっていた。 集合住宅の裏側に回ると、外観が格子状になっている。 中の住民は、牢屋の中にいるような気分ではないだろうか。 私を含め多くのゼミテンが「こういう場所には住みたくない」という印象を受けた。 機能性を追求するあまり、そこに住む人々が、建物からどういった心理的影響を受けるのかという点がないがしろにされてしまっていると感じた。 高層住宅の裏手には、子供の遊び場が設けられていたが、あまり遊んでいる子供はいなかった。

スーパーカドラからバンに戻る途中で、道端にタクシーの停留所があった。 ブラジリアでは、プラーノピロットによって都市諸機能が大きく空間的に分化しているために、機能と機能の間に大きな距離があり、車を所有していないと生活に支障をきたす。 しかし車を利用できない人もいるので、そういった人々のためにタクシーの停留所が設置されているのだと先生はおっしゃった。 地下鉄が建設されたが、予算がなくなったために翼の片方の部分しか完成していない。 この地下鉄は、当初の都市計画には入っていなかったもので、住民の上便を解消するために、あとから建設された。

ここで、水岡先生は「いくら計画的に都市を建設しても、都市化のプロセスは予測できない」とおっしゃった。 人口増加が予想以上のスピードで進んでしまうと、無秩序に都市が拡大してしまい、結局当初に計画された都市の部分をオーバーフローしてしまう。 都市計画が間違ったからといって、都市を破壊してもとの状態に戻すことはできない。 そこで、都市のスプロール化現象を防ぐために、周辺に慌てて衛星都市を建設することになる。 そのような意味では、都市は物理的な存在なので、計画都市は、それがはっきりとしたコンセプトをもって設計され建設されればされるほど、ますますフレキシビリティに欠けるという側面を持つ。

商店街の先には、ポンジアスーカルという、大きなチェーンのスーパーマーケットがあった。 ガイドさんの話では、ブラジリアのスーパーマーケットの半分は24時間営業だという。 そして、ここのスーパーマーケットの商品は、価格が若干高めに設定されているという。 近くに商店がなく、競争がないためかもしれない。 スーパーカドラを視察し、計画的に編成された都市空間と、市場の見えざる手による都市空間編成との間のギャップ、そして理想のはずの計画都市空間が、高い物価など住民生活に上都合をもたらす可能性など、われわれはさまざまの示唆を得た。


 ドン・ボスコ聖堂

住宅地のはずれに、ドン・ボスコ聖堂という教会があった。 聖堂の中に入ると一面ブルーのステンドグラスで覆われていて神秘的だった。 中央の天井には巨大な水晶のシャンデリアがあった。重さは1.5tもあり、水晶はイタリア製だという。 ちょうど儀式の最中らしく、祈りをささげている人がたくさんいた。 その人たちは全員、平和の象徴であるという白いTシャツを着ていた。



聖堂の隣には学校があった。 私立の学校で教会が運営しており、授業料は月100USドル程度だという。 近くに富裕層が住んでいるのだろう。

この周辺には、ブラジル政府の先住民担当局であるFUNAI本部などの政府機関の建物もいくつか点在していた。


 カテドラル・メトロポリターナ

ドン・ボスコ聖堂を後にし、カテドラル・メトロポリターナへと向かった。

この教会は、オスカー・ニーマイヤーの設計によるものである。 教会前が広場になっていて、マルコ、ルカ、ヨハネの3人の使徒の像が立っていた。 その3体と向かい合う形でマタイの像が立っていた。 カテドラルは、王冠をひっくり返したような独特のフォルムをしていた。 広場にはワイングラスとパンのような形をした大きなオブジェもあった。 ワインはキリスト教ではキリストの血を象徴し、パンは肉体を象徴する。 この広場は、都市計画に入っていたものである。 ブラジルがカトリック教国だということを象徴している。


 官庁地区〜三権広場

カテドラルから、三権広場へと向かった。 途中に官庁地区を通り抜けた。建物は緑色の派手な外観で、10階建てだった。 ここには左右合わせて17の省庁がある。 省庁のビルは、独立記念日のための装飾が施されていた。

三権広場に着く前に、国会議事堂が目に飛び込んできた。 中央に1対のビルがあり、通りから見て左側のお椀を伏せた形をした屋根を持つのが上院で、受け皿のような形をしているほうが下院である。 これもオスカー・ニーマイヤーの作品であり、上院は日の出、下院は日没をイメージしているのだという。 われわれはバンを降り、国会議事堂をバックに記念撮影をした。

三権広場のやや手前には外務省の建物があった。 全面ガラス張りで、建物の周りは池に囲まれていた。 橋を渡らないと中に入れないような構造になっていた。

三権広場に着いた。広場は大統領府、国会議事堂、最高裁判所の3つに囲まれている。 大統領府の前には2人の人間が肩を組んだようなフォルムのモニュメントがあった。 これは「労働戦士の像」といい、ブラジリアの建設に携わった労働者を記念するものであるという。 大統領府と広場をはさんで向き合っているのが最高裁判所である。 最高裁判所の前にも「目隠し裁判の像」というモニュメントがあった。公平無私な正義を表すものだという。

三権広場の地下には、ルシオ・コスタ展示室という小さな歴史博物館があった。 床一面にブラジリアの立体模型があり、壁にはブラジリアの設計図や開拓以前のブラジリアの写真などが展示されていた。 開拓前のブラジリアは、ただ十字の道があっただけで、周りは木に囲まれた原野だった。 この十字路から開拓が始まり、十字の中心が現在の近距離バスターミナルになった。 この博物館は、プラーノピロットがユネスコ世界遺産に登録されたのを記念して作られたのだという。


 人造湖〜JK橋

三権広場を後にし、珍しい形の橋の手前でわれわれは下車した。 橋の上に3本のループが架かっている。 橋の吊前はJK橋といい、ブラジリア建設を提唱したジュセリーノ・クビシェッキ元大統領のイニシャルを取って名づけられたのだという。 橋の下の湖はパラノア湖という名前の人造湖であり、これも都市計画の段階で造られたものである。

JK橋の両側は高級住宅街であり、家の外観は茶色の屋根に白い壁といったものが多いように感じた。 湖面には何艘かヨットが浮かんでいた。 住民の所得水準は相当に高いことが伺われる。 ブラジリアに滞在する、大使館員や高級官僚が、このようなところに住んでいるのであろう。


 大統領官邸

大統領官邸に着いた。バンを降りたところのすぐそばに警備員の詰め所があり、何人かの警備員が監視の目を光らせていた。 官邸は、広い芝生のはるか奥にあり、芝生の周りを堀が囲んでいた。 部外者は、その堀の縁までしか近づけないようになっている。 部外者の侵入を防ぐためなら塀でもいいような気がするが、堀にすることでブラジル国民との親しみを表しているのであろう。

堀のすぐ横に国旗を掲揚するポールがあり、ここに国旗が掲揚されていれば、大統領が官邸にいるのだという。 この日は幸いにもブラジルの国旗が掲揚されていた。 われわれが、巡検を通してもっともルラ大統領に接近した瞬間であった。


 大使館地区

バンは、大使館地区へと向かった。 大使館地区は、プラーノピロットの右翼の部分に立地している。 大使館地区には世界各国の大使館が集まっているのだが、その配置の仕方にも一定の規則があった。

最初に見えたのはパラグアイ、ペルーといった近隣南米諸国の大使館で、続いてスペイン、オーストラリアといった大使館があった。 ここまでは建物の大きさなどもそれほど差はなかった。

さらに進むと、ロシア(旧ソ連)、オランダ、バチカン、日本などの大使館が確認できた。 日本大使館は、規模もあまり大きくなく、さほど重要な位置にはおかれていないようだ。

アメリカやフランスの大使館は敷地面積が広く、建物も大きかった。 また、高い塀で覆われていて、中の様子がわかりづらい構造になっていた。

最も中心近くに立地していたのは、ポルトガル大使館だった。 つまり、ブラジルにとって外交上または歴史上関係の強い国の大使館はまとまって立地していたのである。 大使館の配置も都市計画の一部だと判断できる。


 夕暮れのブラジリア

ツアーが終わり、われわれはガイドさんと別れた。 ツアーが予想以上に早く終わったため、バス出発までにはまだかなりの時間があった。 私を含めた多くのゼミテンは、昼間登れなかったテレビ塔に再び行ってみることにした。 しかし、もう閉まる時間になっており、またも登れなかった。 あとから聞いた話だが、水岡先生は、エレベーター係にチップを3レアル払って展望台に上ったそうだ。 ただし、展望台は思ったより低く、都市計画は思っていたほど明確には観察できなかったそうである。

お土産を買ったり、大道芸人のパフォーマンスに参加したりしたが、まだ時間は有り余っていた。 仕方なく、芝生に座り込んで無為な時間を過ごす。 ようやく夕食の時間になったので、屋台のあった辺りに戻ってみた。 ある屋台のお客さんが英語をしゃべることができ、親しくなったわれわれはその屋台で夕食にした。 アマゾン料理の屋台らしく、好みの分かれる味だった。

少し遠くのほうがなにやらにぎやかだった。 ロックバンドが野外ライブをやっているようである。 集合時刻が迫っていたために、走ってその場所へと向かった。 だが、時間の制約もあり、実際にライブを見たのは2人だけで、他のゼミテンは途中で引き返した。

全員なんとかホテルでの集合時刻に間に合い、タクシーで長距離バスターミナルへと向かう。 長距離バスターミナルは、近距離ターミナルとはまったく別で、遠く町外れの地下鉄の連絡もない大変上便な場所にあった。 いくら見た目に立派な都市計画をつくっても、実際の都市のユーザのことがあまりに考えられていないブラジリアに、われわれは最後までストレスを強いられることになった。

バスターミナルで横田農場主と再び合流したのだが、ここでトラブルが起きた。 東京で出発前に行った、アルファインテル南米交流社との打ち合わせで、われわれは22:00発のエグゼクティブクラスのバスに乗る予定になっており、その分の料金を払い込んでいた。 横田農場主は、このスケジュールをわれわれから聞き、すでに22時発のバス乗車券を買って待っておられた。 ところが、サンパウロ支店からわれわれに渡されたチケットを確認すると、なぜか22:30発の普通バスで予約されている。

だが、どうすることもできず、われわれは、仕方なく普通のバスに揺られ、セラド開発地へと向かった。 普通バスは夜中にもしばしば停車して乗客の出入りがあり、しかもエグゼクティブクラスのようなミネラルウオーターの無料サービスはなかった。


(山田 尚生)

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