■ ウジミナス製鉄所 9月6日


昨日ミナスジェライス入りした我々は、イパティンガのウジミナス製鉄所近くに建つホテルに1泊し、今日ウジミナス製鉄所見学の日を迎えた。ホテルは万里ホテルよりもグレードが高く、とても朝食がおいしかった。ミナスジェライスの湿気が少ない気候も手伝って、とても気分の良い朝だ。

専用バスでウジミナス製鉄所に着いた我々は早速カメラマンにカメラ撮影をしてもらった。そもそも、外国で工場を視察することはあまり容易でなく、できても日本のような手厚い「サービス」は期待できない。中には、「工場視察料」を徴収する企業さえある。これに対し、こうした写真撮影が入るあたりは、やはり家族的な日本企業の発想だ。


ここで簡単に、ウジミナス製鉄所の歴史について触れておきたいと思う。我々は、ブラジルに巡検に行く前の3,4ヶ月間ゼミでブラジルについて勉強し、ウジミナス製鉄所についても勉強して来た。ウジミナス製鉄所を調べていくうちにブラジルの産業について、また日本・ブラジルの関係について様々な示唆を得ることが出来たので、紹介したい。


【ウジミナス製鉄所の歴史】

1958年にUsinas Siderurgicas de Minas Gerais S.A(頭文字などをとって、通称USIMINAS)ウジミナス製鉄所という日本・ブラジル両国出資の合弁事業が発足した。日本からは八幡製鉄所(現在の新日鉄)が中心に参加していくことになった。

当時、ブラジルにおいて産業の中心は農業だった。鉄鋼石などの資源は備えており自然条件は十分なのだが、技術・設備・資金が不足しており、工業化には苦慮していた。クビチェック大統領が「経済開発5カ年計画」を発表し、民間投資を容易にする法整備がなされ、輸入代替工業化政策が積極的に取られるようになったのが製鉄所設立の背景にある。

プロジェクトの目的として、ブラジル側としては、日本の高度成長期に差し掛かった経済力・技術力を吸収したい、また日系人との関係を農業移民としての繋がりから工業へと広げていきたいということがあった。一方、日本側としては、プラント輸出をしていきたい・国際協力をしていきたいという目的があり、双方の希望を適える形で、win-winの関係が構築された。

日本は戦前、満州の鞍山に製鉄所を建設しており、満州国崩壊後、これは中華人民共和国の重要な産業基盤となった。敗戦後も、このような海外の産業基盤投資についての基礎は、技術的にも、また計画思想の上でも、日本に依然として存在していた。敗戦後、日本経済は以前資本不足で、戦災復興のため疲弊していたにもかかわらず、戦後十年たらずのうちに打ち出され実行されたウジミナス製鉄所建設計画には、このような戦前の日本が培った技術と計画思想の遺産が色濃くにじみ出ている。

工場とイパティンガの都市建設に当たっても日本の技術が多大な貢献を果たした。特にイパティンガは、これまでほとんど原野の状態だった場所に、ゼロから都市計画・都市建設を進めたものである。ここにも、戦前の満州で、新京などの都市建設をほぼゼロから行った計画思想との連続性を認めることができる。

製鉄工場に関しては、日本の鉄鋼3社(八幡・富士・日本鋼管)から優秀な人材を派遣し操業技術指導を行った。工場が竣工し、操業を開始したのが1962年のことである。

最初は調整部・管理部・製鉄部・など管理職はほとんど日本人に占められていたのだが、ブラジル側へ操業管理責任を移管していき、徐々にブラジル企業としての色彩を強めていった。これは、出資についても同様に言え、事業発足当初は日本出資が40%だったものが、現在日本ウジミナスの持株比率は10%弱になっている。

操業当初は年間50万トンの生産体制だったものが、68~73年にかけては「ブラジルの奇跡」と呼ばれる好景気で140万トンへの増強計画が立てられ、その後年々生産量を増やしていき、89年には440万トンの生産を達成した。

ここで、「ブラジルの奇跡」の時期について簡単な補足をしておきたい。「ブラジルの奇跡」時代、日本企業のブラジル進出ブームが起こった。両国が官民一体で大型の投資案件(ナショナルプロジェクト)を数多く推進した。当時、まだ東南アジア等の新興市場国は資源の安全調達先や工場建設先としては不安が多かった。軍事政権下で政治的に安定し、急成長を遂げていたブラジルこそが直接投資先としては最適だとの判断がなされたのである。また、この時期には日本側は増大する原料資源や食料の安定供給源確保が緊急課題としてあり、ブラジル側としては産業開発と輸入代替工業が課題としてあったため、お互いの利害も一致していたのである。(参照:『ブラジル新時代』(堀坂浩太郎編・2004)第4章)

さて、1990年、ネオリベラリズムが南米各地を席巻するなかで、着実な成長を遂げてきたウジミナス製鉄所に大きな転換が起きる。90年にコロル政権が「国家民営化計画」を立て、ウジミナス製鉄所は民営化第一号企業になったのである。80年代まではブラジルの産業は国営企業・民族系企業・外資系企業に支えられていたが、ウジミナス製鉄所の民営化を皮切りに、産業の担い手は民族系企業と外資系企業に委ねられるようになった。これが所謂「3つの脚」から「2つの脚」への転換である。特に94年のカルドーソ氏のレアルプラン成功以降は、民営化政策が促進されていった。ルラ政権の下で、ウジミナス製鉄は、輸入代替の内需むけではなく、航空機生産のエンブラエール同様、外貨獲得のための輸出産業として積極的な発展が図られ、現在では年間450万トンの生産量を誇っている。


 ウジミナス製鉄所、Francisco Luiz Araujo Amerio氏による製鉄所の概要説明


ウジミナス製鉄所に入った我々は、フランシスコ氏から製鉄所の概要説明を伺った。まず、「新日鉄とは40年来の深い関係がある。当製鉄所は戦後初の日本企業の投資であり、日本人が来てくれることは有難い」と手厚い歓迎を表していただいた。

まずは、なぜ製鉄所がここに立地したかについて説明があった。立地に関しては、イパティンガ・ベロオリゾンテ・オールブランゴ・イタビラと4箇所の候補があって()、その中からイパティンガが選ばれた。イパティンガが選ばれた理由として、下記の点が挙げられた。

・1つはイタビラからビトリアに向かう鉱山鉄道が通っていたため、鉄鉱石の入手が容易であった。 ・イパティンガの地形は平らかな部分が多く、土地造成のコストも少なくて済んだ ・大きな製鉄所には大量の水が必要で(1000m3/分使用している)、2つの川が合流するイパティンガは都合が良かった。 ・4.5kmという近場に大きな発電所があった。

操業開始当時は、付近に湖が多くてマラリアなどの病気が多発し、もともとこの地域に住んでいた人々の平均寿命は40歳だった。

工場建設するには公害を出してもいけないし、社会的にも良いものにしていかないといけない使命があった。また、ウジミナス製鉄所としては「企業に社員をとどめよう」という意識が強かった。

こうして、ウジミナス製鉄所の建設は、充実した住宅・文化施設を含む都市づくりと一体となって進められた。すなわち、工場の周りに8箇所の住居空間を作り、その中に地元の社交場である11のクラブを作った。製造以外への投資も積極的に行った。92年には社員のほとんどが自分の家を持つようになった。こうした点は、かなり日本企業モデルを参照したという。

病院は一般の住民もOKだし、学校はウジミナス社員が経営し、一般の住民も通学できる。ウジミナス製鉄所としては、病院・教育・文化など色々なことを、地域とともに助け合いたいと考えているという。たしかにこれは、かつての日本の「企業城下町」で、社員や地域住民がその企業によってつくられた数々の福利厚生施設の便益を享受しているのと、うり2つである。

ウジミナス製鉄所は、日本とミナスジェライスの良さを双方取り込み成功したという。日本は「工場内での訓練」・「カイゼン」・「社員がやっている仕事に誇り」といった特長があり、ミナスジェライスは「素直」・「仕事中話しをしない」・「開拓精神」といった特長がある。ミナスジェライスの人々の性格は日本の風土に合いやすかったのであろう。


 工場見学


フランシスコ氏からの説明を伺った後、いよいよ工場の見学に向かった。製鉄所の敷地は大変広いので、工場へ向かうにもバスでの移動になる。

途中、鉄鉱石の山が見えた。この製鉄所で使っている鉄鉱石の84%は、昨日イタビラのリオドセ社を訪問リオドセ社のものだ。昨日見た鉄鉱石は綺麗な銀色をしていたが(不純物が少ないらしい)、さすがに錆びてきたのか表面は少し赤みがかっていた。高炉に入る手前、国道BR-381線沿いに小型の貨車を無数に連結した長い貨物列車が通過していっていた。これが、この工場の立地要因のひとつになった、イタビラから通っているビトリア・ミナス鉄道である。軌間が1mと狭い。


我々は、鉄の生産過程に沿って、まず外から高炉を見学した。

高炉では、炉頂から鉄鉱石・コークスを流し、高熱で還元反応を起こし酸素を奪い、銑鉄にしている。コークスは石炭から作ったもので、石炭の59%はオーストラリアから輸入している(周辺にユーカリの森が多いが、別にこれを木炭に加工して製鉄所で使っているわけではない)。この高炉が完成した1970年は、日本で高度成長期も終わりに差し掛かり、福山・鹿島などで大型製鉄所が出来た時代であった。この高炉にも、当時の日本の最新鋭技術が反映されているといえよう。

次に我々は、転炉を見学させていただくことになった。銑鉄の中にはまだ炭素が多く含まれており品質が良くないため、転炉を通すことで純度を高めていく。トルピードカーで高炉から運ばれた銑鉄が転炉に流れていく迫力は、圧巻だった。1650℃の溶銑が金色に燃えながら流れていく、その様子を間近に見ていた我々はただ圧倒されるばかり。と、その時小さな爆発が起き、火の粉がこちらに飛び散ってきた。幸い誰も怪我をすることはなかったが、われわれはあわてて退散した。こちらの工場見学は日本と異なり、全て自己責任。自分で責任を負う代わりに相当近くで見させてもらえるというわけだ。迫力ある様子は写真にも収めてあるので是非楽しんでいただきたい。

転炉を順々に見ていくうちに、細かい石が入った箱が置いてあるのを見つけた。これは、還元した時に鉄鉱石から除去された、鉄でない成分で、高炉から出てきた石である。主に道路に使うために取ってあるのだそうだ。こうして出来た石の上にアスファルトを敷くと道路になる。先ほど転炉に流され出てきた鋼鉄は鋳造設備に流し込まれ、棒・板状にされて次の工程へと流されていく。我々が見ていた鉄の板は薄めに作られており、自動車用だ。建築資材用は厚くなるらしい。当然ながら用途に応じて鉄の作りも変わってくる。この鉄の厚さは鉄の温度・流されるスピードによって変わってくるが、それは別室で従業員が精密な機械を用いて管理している。

次に我々が見学させていただいたのは、熱延工場である。先に作った鋼鉄の板を更に薄く引き延ばす工場だ。こちらの工場に持ってくるまで、燃料費を節約すべく鋼板が熱い状態を保つように工夫されている。これをホットチャージという。まず見せていただいたのは、スケールブレーカーという機械に鉄鋼板が通される過程である。加熱すると鉄鋼に酸素膜が入ってしまうが、これが表面に傷となり残ってしまう。それではまずいので、酸素膜を吹き飛ばしている。4~5時間に1度はローラーを交換し、常に滑らかなローラーにすることで表面に傷が残らないようにしている。その後、熱延するべく2号の機械に鋼鉄板は流されていく。1号目では8000tの圧力で250mmから80mmまで薄くし、2号目では80mmから30mmまで薄くする。熱延機械は、2000年にアルゼンチンから購入した中古のものだ。アルゼンチンではずっと使われずに、放置されていたものらしい。何故、そのような機械を採用したのか? 案内の方曰く「最近の機械は精度が高すぎて異常事態が起こった時には壊れる可能性が高い。昔の機械の方が設定に余裕があるため、少々異常な事態が生じても柔軟に対応してくれる」とのこと。ITなどの新鋭技術に突き進むのみが進歩でないことを、われわれは学ぶことになった。薄くなった鋼鉄板は機械に通りやすいように先端をきれいに切られて、次の工程に進んでいく。

更に我々は、別棟のブリキ工場の過程も見させていただいた。ここは、新日鉄が最近投資した、最新鋭工場だ。薄くなった鋼板が連続して流れるようにラインを伝っていく。そこに亜鉛メッキを施し、鉄そのものが錆びるのを防いでいる。亜鉛が錆びるまで、鉄は錆びない。

こちらの工場では多様なニーズに応えている。自動車・家電からコカコーラの缶まで、ブラジル国内向け製品のみならず輸出製品も製造している。国内向け70%、輸出30%である。このため、国ないし需要家ごとに異なったスペックの要求にも応えていかないといけない。例えば同じ自動車を取ってみても、日本向けのブリキは、表面の亜鉛と内部の鉄を合金化するのに対し、ヨーロッパ向けのブリキは、表面の亜鉛を合金化しないまま製品にする。合金化は新日鉄の独自技術であり、合金化させたほうが、価格は高いが溶接に対して高い強度を有するそうだ。また、鉄鋼の表面をクローム処理する顧客としない顧客もいる。クローム処理により、表面はピカピカになる。このように、需要家ごとのきめ細かいニーズに応えられるよう製造するのは、日本の企業が得意とするところであり、ウジミナス製鉄は、こうした日本企業のノウハウを最大限に取り入れて、輸出競争力を強化していることがわかる。我々は熱延後の合金化・クローム処理の過程も見ることが出来た。

工場見学をしている間、工場の方から伺うお話しの中に、ウジミナス製鉄所の品質管理レベル高さを窺い知ることが出来た。例えば製造工程で鋼鉄は1000℃以上で流れてくるが、常に温度の誤差は20℃以内になるよう機械で管理されている。冷却時の水の流し方は、水の温度・水を流すスピードで鋼鉄の強度は変わってしまうので、精密に管理されている。亜鉛メッキを施す際は、当然亜鉛メッキの量も精密にコントロールされている。最終チェックではしっかり1つ1つ人の眼がチェックし、そこで精度が怪しいものは精密検査にかけられる。見学途中、「2002年以降労働災害なし」の看板も見られた。安全管理も徹底している。このあたりの技術と品質管理のノウハウは、完全に日本の最新鋭製鉄工場そのままといってよい。

何重もの品質管理を通り抜けて完成された薄鉄板を最後に、我々は工場を後にした。


 ショッピングセンター


工場見学後、我々はショッピングセンターを訪れた。このショッピングセンターは前日の夜、閉店間際に訪れたものと同じだが、昼間改めて見ると、中には噴水もあり清潔感のある立派なショッピングセンターだ。ショッピングセンターには、ウジミナス直営で行っている美術の展示や劇場も併設されていた。我々が行った時には、たまたま日本人の陶芸の展示会をやっていた。劇場は、ウジミナス製鉄所40周年の記念事業として2002年に設立されたという。こちらも大変立派な建物だった。

昼食はビュッフェ形式の、ブラジル料理のメニュー。ブラジルの「良いお店」と言われるところでは、ビュッフェ形式が多い。ここも例に漏れず、美味しかった。この昼食は、ウジミナス製鉄所の方にご馳走になりました。ありがとうございました。


 ベロオリゾンテの空港へ


朝方撮影していただいた写真を早速お土産に頂き、ウジミナス製鉄所・ショッピングセンターに別れを告げる。飛行機の時間が決まっているので、途中休憩も取らず、我々は一路ベロオリゾンテの空港へバスで向かった。バスの中では、今回の見学に関して軽いミーティングが行われた。話題はウジミナス製鉄所の話から昨年巡検で訪れた中央アジア経済とブラジル経済との比較にまで及んだ。

ウジミナス製鉄所は、元々、社会主義国の手法に通じるブラジルの輸入代替工業化の過程で生まれた国営製鉄所である。「輸入代替工業化」とは、自国市場を保護した上で、それまで輸入に頼っていたものを自国で生産する途上国の開発戦略だ。現在、ウジミナス製鉄所は輸出志向へ転換し、鉱工業製品輸出による外貨獲得と経済自立を図るブラジルの経済戦略の牽引役となっている。しかし、輸入代替工業化で始まった産業が、世界中でこのように常に転換に成功しているかというと、決してそのようなことはない。むしろ失敗していることの方がはるかに多いだろう。

技術革新の継続的な基盤がない状況では、いくら経済政策を転換しようと思っても、競争力ある産業の構築は非常に厳しい。例えば、旧ソ連の場合、製鉄所は旧式のままで、市場経済が導入されてから、その工場の多くは国際競争力を失って閉鎖され、製鉄機械は製鉄原料に姿を変えてしまった。インドにも民族資本の鉄鋼産業は存在するが、インドは開発独裁体制で国内が関税障壁で守られていたため、技術革新へのインセンティブは生じなかった。このため、やはり機械は旧式のままで、国際競争に打って出られない。ブラジルの場合、ウジミナス製鉄所・エンブラエール社に代表されるように、外国との提携でやってきたことで、新しい技術へのアクセスが常に可能となり、レベルの高い品質管理も可能になった。基盤技術がしっかりしており、先進国との関係も維持していたため、軍事政権を終え輸出志向型工業に移行しても、比較的迅速な対応が可能になったのだ。

現在のルラ政権では鉄鋼・航空機といった重化学工業の輸出を通じて貿易黒字を増やしていき、対外債務を減らしていく方針を進めている。一見したところ即効薬にみえるマネタリズムに頼るのではなく、産業の発展・雇用の増強といった実体経済の地道な強化を通じて国を成長と自立に導こうとしているのだ。それは、ウジミナス製鉄所・先日のエンブラエール社の見学を通じて確認することが出来た。これは途上国発展を考える際、一つのモデルになり得るだろう。昨年巡検で訪れた旧ソ連共和国のキルギスは、ソ連からの資金が途絶え、マネタリズム中心のIMF主導で一気に経済成長をめざしたが、IMFの圧力を受け緊縮財政を強いたら、失業で溢れかえってしまったそうだ。インフラ整備と実体経済の強化を通じて近年は、ようやく芽を出すようになったようである。

バスからの光景は、晴天の下に緩やかな山脈の起伏が広がり、それをたどってつけられた道は、アップダウンが続いた。製鉄所とイパティンガの都市開発の初めのころ、志に燃えてこの道をベロオリゾンテから通った、日本人技術者や駐在員、そしてその家族の労苦がしのばれる。ただひたすら雄大な自然を私は眺めながら疲れを癒していた。ベロオリゾンテの空港が近づいてくると、集落やビトリア鉄道を見ることが出来た。

ドライバーが一生懸命運転してくれたおかげで、ベロオリゾンテの空港には出発の2時間前に無事到着した。空港はこぢんまりとしていて、店も喫茶店が中心、土産屋はサッカーのユニフォームを売っているところなど少々あっただけだった。ブラジルの国内線に乗るのは、初めてである。ブラジル国内線の航空料金は結構高いが、われわれは、5回分を均一料金で乗れるエアパスを利用して、旅費を節約している

飛行機は、時間通りベロオリゾンテの空港を発ち、1時間少々で飛行機に乗りブラジリアへ到着した。着陸時には、ブラジリアの飛行機状に都市計画された綺麗な夜景も見下ろすことが出来た。

さて、ブラジリアの空港に着いて我々はお金を引き出そうと考えていたのだが、残念ながら空港のATMのどれでも、海外のクレジットカードを使ってお金を引き出すことが出来なかった。仕方がないのでそのままタクシーに乗りホテルへ。道路は今まで訪れたどこよりも快適で綺麗に舗装されていた。ここに、計画都市の一端を見ることが出来た。

(朝田 隆介)

←前日にもどる |  2004年巡検トップにもどる | 翌日に進む→