■ サン・パウロ2日目 2004.9.1

巡検2日目の朝だ。昨日は晴れていたが、今朝は曇っており、少し肌寒い感じだ。バイキング形式の朝食を済ませたあと、8時15分に万里ホテルのロビーに集合し、地下鉄に乗って最寄りのパライソ(Paraiso)駅に向かう。今日はサンパウロの街を地下鉄で移動することとなった。

 パウリスタ通り/Av.paulista

 ハマウ・パウリスタ線(Romal-Paulista)で一駅のブリガデイロ(Brigadeiro)駅で降りると、高層ビルが片側4車線の大通りにびっしりと並ぶパウリスタ通りだ。

パウリスタ通りは、日本でいう東京の丸の内、大阪の北浜といったところで、経済のビッグネームが軒をそろえる地区である。サンパウロ経済の中心地が、約30年前に、都市構造の中心であるセー広場周辺から、かつてコーヒー農園主の邸宅が軒を連ねていたこのパウリスタ通りに移ったのだ。企業はこういった地区の一角に事務所を構えることで、一流というイメージを得ることができる。全長は2800mあり、規則正しく番地が振られている。東南のスタート地点からみて、通りの左側が奇数、右側が偶数である。

  これから訪問するジャパンデスクが事務所を構える、パウリスタ通り509番地の高層ビルに入ると、一階に英語で書かれた専門書を扱っている書店があった。ブラジル人はポルトガル語でほとんど用がたりるし、中南米ならルトガル語とスペイン語同士で勉強しなくても互いに意思疎通が図れるから、英語を理解するブラジル人は、限られている。この書店の存在は、パウリスタ通りを利用する人々の、教育水準の高さをうかがい知ることができる。

ビジネスマンがランチなど食べられるこぎれいなレストランがあった。サンパウロには、ファべーラなどの貧困地区もあれば、英語の専門書を読むほど知的で、そのようなレストランで食事をとるほど豊かな所得を得ている人が利用する地区もある。巨大な貧富の格差という、ブラジルの一番深刻な問題一つの一端を垣間見たような気がした。

 ジャパンデスク/Japan Desk

ビルの15階に位置するジャパンデスクの事務所を訪ねた。

ジャパンデスクとは、日本の企業などにブラジルの政治、経済、金融、ビジネスの情報を日本語で提供している通信社である。代表取締役である高山直巳さんは、ハイパーインフレ、ポルトガル語など日本の企業が馴染みにくいブラジルの経済社会状況を鑑み、ブラジルの情報を分かりやすく提供することがビジネスになるのではないかと、15年前に起業したそうだ。今では300から400社の顧客がいるという。

  懇談は、最初、高山社長にブラジルの基礎情報、経済社会を解説してもらい、その後、われわれが質疑するという形式を取とった。ブラジル入門にはもってこいのお話であった。それらを8つのトピックに分けて整理したい。

(1)プロフィール

ブラジルは広大な国土を持った国家である。その国土面積855平方キロメートルであり、日本の23倍、世界第5位である。ブラジルの領土を日本と重ねて、南北で考えれば、北は宗谷岬から南はインドネシアぐらい、東西で考えれば東は千葉県から西はモンゴルぐらいの距離があるという。今や人口1億8000万を数え、人口増加率は1.45だそうだ。現在の平均寿命は67歳であるが、2050年には81歳になると予測されている。民族は主に先住民(インディオ)、アフリカから来た奴隷の子孫、ポルトガル人、欧州や日本などからの近代移民とそれらの混血から構成される。

(2)貧富の差

ブラジルは、貧富の差が大きい国である。人口の10%が所得の50%を占めている。また、地域間でも所得の格差が激しい。国内に南北問題が存在しているのである。さらに、中産階級以上の出生率は0.4と日本並みだが、低所得者のそれは2〜3であり、低所得者層が急速に拡大する構図がある。貧しい農村からサンパウロに出てきてファべーラに住むが、なかなか職に就けない。高山社長は「低所得者の増加は国家発展の足かせとなりかねない」とおっしゃった。

ブラジルもアメリカ合衆国も、植民の歴史は約500年前の発見にさかのぼる。ブラジル人は、アメリカ合衆国に劣等感を持っているわけではない。アメリカもブラジルも発見されてからの年月は大して変わらないとの自負がある。

では、今の両国の格差はなぜできたのだろうか。高山社長は、その原因を、宗教と独立の歴史の長さに求められた。アメリカ合衆国は、プロテスタントの国であり、自らの開拓精神で発展していったのに対し、ブラジルは、カトリックの国であり、独立が遅れ、発見からの400年間は植民地支配の歴史であった。この差がアメリカとブラジルの格差を広げた、と社長はおっしゃられた。また、国家は人材によって発展していくが、アメリカ合衆国と違って、ブラジルには有能な人材が流れなかったのだそうだ。

(3)選挙と教育水準

高山社長によると、ブラジルの市会立候補者は36万人いる。その最終学歴は、小学校6%、中学校40%、高等学校36%、大学中退5%、大卒14%と、あまり高くない。一方、有権者も1億人いるといわれているが、文盲が8%、初等中退35%、初等卒8.5%、中等中退10.6%、中等卒8.9%、大卒3.3%と状況はさらに悪い。このような教育水準では、候補者はマニフェストなどの政策のみで勝負することは不可能に近い、とおっしゃった。そのため、ブラジルの選挙は、例えばテレビで芸能人を集めてイベントを行い、人気を取ろうとするなどのポピュリズム、大衆迎合的なものに陥りやすいということだ。

(4)経済規模

 2001年の統計によれば、ブラジルのGDPは世界11位の規模であるが、南米大陸では、そのシェアは45%と存在感を示す。 中国と比較すると、1995年の時点では、ブラジルが中国をドル換算のGDPで若干上回っていた。しかし、1998年にはすでに中国がブラジルを追い越しており、2002年の時点で中国のGDPは、ブラジルのそれの2倍以上となっている。理由としては、中国が高度経済成長をキープしていることに加え、ブラジルが1999年に通貨を切り下げたことで、ドル換算のGDPがもとの60%に下がったことがあげられる。

◆ブラジルと中国のGDPと成長率の比較

199519981999200020012002
ブラジルGDP(億 US$)7,0427,7505,2945,9385,0204,900
成長率(%)+4.2%+0.2%+0.8%+4.4%+1.5%+1.5%
中国GDP(億 US$)7,0029,6439,91210,08011,59012,300
成長率(%)+10.5% +7.8%+7.1%+8.0%+7.0%+8.0%

出典)ジャパン・デスク配布資料

(5)貿易

GDPでは世界11位のブラジルではあるが、2002年の世界貿易に占める輸出のシェアでは26位、輸入は27位と振るわない。主要輸出産品として、一次産品に、鉄鉱石、大豆、コーヒー、オレンジジュース、砂糖、食肉、タバコなど、工業製品に、航空機、自動車、電子機器、金属、紙パルプなどがある。 カンクンでWTOの交渉が決裂した理由の一つとして、「偏った自由主義」を先進国が押しし進めようとし、途上国がそれに抵抗したことが挙げられる。「偏った自由主義」とは、工業製品の自由化は行うが、農業製品のそれは行わないというものであり、農業立国であるブラジルにとっては、好ましくない。ブラジルはBRICs、メルコスールなどで他国との連帯を強めることで、国際会議で先進国に対しての交渉力の向上を目指しているという。

(6)産業

数字では、ブラジルの各種産業のシェアは、おおよそ第一次産業10%、第二次産業20%、第三次産業70%となっており、一見農業などの産業が弱いように見える。しかし、実際は、第二次産業の産品の多くは農業加工品であるし、第三次産業の物流なども農業に関係するものが多い。事実上、アグリビジネスは、ブラジル全体の産業の50〜60%のシェアを有しているそうだ。この統計を見る限り、ブラジルは、工業立国という自負があるようだが、実際は農業立国の要素のほうが強い。

  工業についていうと、ブラジルでは、80年代まで輸入代替型工業化政策をとり、そこでは国営企業が大きな役割を課していた。例えば50年代に日本とブラジルの合弁企業として設立されたウジミナス製鉄所などである。この輸入代替期に製鉄業など基幹産業が発展し、ブラジルの現在まで続く産業の基盤を作ると同時に、航空機のようなリーディング産業も生んだ。また、この頃の外資とのつながりは、現在でもブラジル産業の大きな財産となっている。ブラジルの工業を支えているのは外資である。

90年代に入って、コロル政権、カルドーソ政権により、外資の導入、民営化が進められた。民営化により国営企業の影が薄れ、ブラジルの企業形態は、民族系民間資本企業、政府系企業、外資系企業の「3つの脚」から、民族系、外資系の民間企業の「2つの脚」に変化した。同時に、自由化が進められ多くの外資が参入し、90年代以降、東京で手に入るようなものがサンパウロでも入手できるようになったそうだ。

(7)インフレ経済

80年代、ブラジルはハイパーインフレを経験した。朝の物価と夕方の物価が違うくらい大きく変化したため、国民は給料日の前日にカードやチェックで買い物をした。そのため、給料は銀行に振り込まれると同時に引き出される。この習慣は、今もブラジル国民の生活に浸透しているようだ。

この頃のブラジル経済は、給与や契約額などをインフレ率にスライドさせる「インデックス経済」であった。このインデックス経済を消滅させ、インフレを終息させたのが、1994年に開始されたカルドーソ前大統領によるレアル・プランである。

レアル・プランは、インフレを沈静させ海外からの直接投資、金融投資の増大を可能にしたが、外資依存型経済ができあがり、企業競争が激化し雇用環境は悪化するなどの負の側面をももたらした。89年は、グローバルに影響力を及ぼしているネオリベラリズムを定式化したワシントンコンセンサス(Washinton Consensus)の出された年である。世界経済は過剰供給で苦しみ、新しい市場を探していた。ブラジルに、アメリカに指導された新しい政治体制ができ、インフレも収束したことで、世界から大量の資本が短期的利益を求めてブラジルに流入した。

(8)日本とブラジルとの経済関係

2002年度の国籍別に見た上位10社のブラジルにおける売り上げ規模では、日本は10位である。1〜9位は、アメリカを筆頭に、すべて欧米の国である。日本企業のブラジルへの進出は、90年代に入ってあまり目立たない。ブラジルは、日本から見れば、地理的にも文化的にも遠く、また、近年中国への投資ブームでなかなか目がいかない。

仮に進出しても、日本企業は投資規模が小さい。例えば、アメリカのジェネラルモーターズの資本金は46億米ドルであるのに対して、日本で一番初めに進出した本田オートバイのそれは10億米ドル、トヨタの場合は8億米ドルである。

日本企業は現地の人材をあまり幹部に登用しない。社長は必ず日本人であり、すぐ日本に帰ってしまう。一方、欧米の企業では現地のブラジル人を社長に起用しているところもあるという。

また、日本企業は日系人という人的財産もあまり活かさない。日本企業の日系人に対する評価はそれほど高くないようだ。日系人にとっても、比較的学歴の高い人が多いので給与の少ない日本企業で働くよりは、他の外国企業で働くほうがよいようである。また、日本企業の場合、上司は部下に会社の外でも上下関係を強いる。つまり、上司と部下の上下関係が全人格的になってしまっているのだ。これも、日系人の間で日本企業が人気のない一因だそうだ。

  ブラジル日系人の日本への出稼ぎ労働者は多い。在外ブラジル人による出稼ぎ送金額の総額は約26億円であるが、そのうちの15億円は日本からのものである。ブラジルの日本への輸出が21億円、日本からの輸入が23億円であるから、いかに日本からの送金額大きいかがわかる。


 セー広場/Praca da Se

高山社長に、貴重な時間を割いて大変行き届いたブラジルの経済・社会についての包括的なブリーフィングをいただき、ゼミテン一同おおいに感謝してジャパンデスクのオフィスを辞した。

そのあと、われわれは、先にも述べたパウリスタに移る以前にサンパウロの中心であったセー広場周辺を視察した。

地下鉄でパライソ駅に戻り、南北線(Notre−Sul)に乗ってサンベント(Sao Bento)駅で降りた。そこからボアビスタ通りを南に下り、セー広場に向かった。

ボアビスタ通りは、パウリスタ通りが中心になる以前、経済の中心としての機能を果たした通りである。今も、銀行がたくさん立ち並んで、あるなど金融街の面影を残していた。陸橋を渡るとき下の道に目を向けると、路上市が開かれており、いまは庶民的な街に変わりつつあるのだろう。セー広場周辺は治安が悪いと聞いていたが、実際、泥棒にあわないためにかカバンを前にかけている人を頻繁に見かけた。

陸橋の先に、1554年1月25日、サンパウロで最初にできた学校があった。この学校は、日本でも上智大学や栄光学園などいくつもの学校を運営しているイエズス会によって作られたものである。学校の内部は、チャペルになっていた。そばにサンパウロ誕生の記念碑があった。その記念碑を囲むような形で、Patio do Colegio広場に面して、地方法務局、地方裁判所が建っていた。経済の中心としての機能を失いつつあるこの地区であるが、政治的機能は残存しているようだ。政治機関の建物をはじめ、記念碑周辺の建物はピンクのパステルカラーのものが多かった。先生によると、これはポルトガルの植民地によく見られる建物の色で、中国のマカオにも同様のものが見受けられるということだ。記念碑の目の前の教会を見た後、われわれはセー広場に向かった。

セー広場に近づくにつれ大きな2つの尖塔が見えてきた。カテドラル・メトロポリターナのそれである。セー広場は、露店や大道芸でにぎわっていた。漢字が刺繍された布を売っている店があった。ブラジルでは漢字が流行っているらしい。広場を抜けカテドラルに入る。昼前ということで訪問する地元の人も多い。祭壇の前で泣きながら膝をつき拝んでいる人を見て、地元の人の信仰の深さを感じた。カテドラル・メトロポリターナは、絵葉書としてもよく売られており、サンパウロの象徴の一つである。ゴシック式で、ドームの直径は27m、高さ65mとかなりの存在感であった。

 イタリア・ビル

セー(Se)駅で乗り、東西線(Leste-Oeste)で2駅のRepublica駅で降り、そこから3分ほど歩いて目当ての41階建ての円筒形のビルに着いた。イタリア・ビルである。このビルの屋上からサンパウロの街並みを眺めようとエレベーターで最上階に昇ったところ、レストランがあり、ランチと屋上への入場料合わせて35レアルということであった。ブラジルでのランチにしてはかなり高額である。数年前から管理が厳しくなり、無料で屋上に出られなくなったことを聞くと、観光客が多くなりビジネス化したと思われる。  

時計は午後1時を指しており、昼食もまだとっていなかったので、われわれは35レアルを払うことにした。店内は、裕福そうな客でにぎわっていた。料理は高級で、味もよかった。

食事の途中、先生が問題提起をされた。サンパウロではビルが集中せず、あちこちに点在しているのはなぜか、と。北米の都市で、都市の中心部(CBD)は経済的機能を有し、高層ビルが集中して建つ。貧困者は、その周辺の、インナーシティ(inner city)と呼ばれる貧困地区に住み着く。郊外には、より良い生活環境を求めて比較的所得の高い人々が住む。貧しい人々は、都市の中心にアクセスするためにコストを割く金銭的余裕がないし、自動車を買えない場合も多い。そのため、都市の中心にアクセスするためにコストがかからず、もしくは市内バス路線の結節点にあって、バスによる都市圏全体のアクセスが便利な都心周辺にコミュニティを形成するようになるのである。これがinner cityのスラム街である。しかし、サンパウロの場合、ファヴべーラと呼ばれるスラム街は都市の郊外にある。レストランからもガラス越しに確認したが、インナーシティは顕著でなく、高層ビルは集中せず、見える範囲に広く点在しているのである。ゼミテンからいくつかの仮説が出されたが、これといった答えは得られず、続きは夜のミーティングに持ち越されることとなった。  

昼食後、われわれは屋上に出た。そこで、先生とは別れ、次のアポイント場所の最寄りの駅で待ち合わせすることとなった。その後、ゼミテンはサンパウロの町並みを見、写真を撮るなどし、アポイントのため再びパウリスタ通りに戻ることとなった。




 サンパウロ州産業連盟/FIESP

昼食後、学生だけでFIESPに行く途中、間違えて地下鉄で反対方向の電車に乗ってしまった。ブラジルでは、道路だけでなく、複線の鉄道も右側通行なのだ。地下鉄は、日本と左右逆側の乗り場になっているので、注意する必要がある。

午後3時にハマウ・パウリスタ線(Romal-Paulista)のトリアノン(Trianon-MASP)駅で先生と落ち合い、サンパウロ州産業連盟(FIESP)の事務所に向かった。

ビルに入る前にパスポートの提示を求められた。2人の学生がパスポートを持っていなかったが、名前を書かされ、顔写真をとられただけで、他の人と同様にビルに入るためのカードをもらうことができた。セキュリティーがしっかりしているところを見ると、パウリスタの中でもかなりの枢要な機能を持つテナントをかかえた高級ビルではないかと思われる。

しばらく受付で待っていると、前の会見が済んだFIESPのコレア(Jose Augusto Correa)会頭Directorが、われわれの前にみえられた。

FIESPからいただいた英語の資料によると、FIESP(Federacao das Industrias do Estado de Sao Paulo)は1931年に産業雇用主の組合として創設された。現在、FIESPは129の産業組合を内包しており、行政と市民社会の対話者としての役割を担っている。FIESPは、また世界中のすべての国とのビジネス関係を監視、促進している。本部は、サンパウロのシンボルであるパウリスタ通りのピラミッド型ビルにあり、多くのビジネス界の代表者が頻繁に訪れ、外国の主席や大臣も迎え入れている。また、さまざまなビジネス分野からの国内外の専門家とともにイベントを行っている。セミナーやビジネス機会の情報交換の会合を開催している。

研究に関しては、州内の1万7000社を対象に2つの調査を行っているが、その調査はブラジル全体の経済に参考になる。州に産業の状態は、ビジネス活動水準の指標と雇用水準によって測られる。その結果は月に一回出版され、経営者が活動を計画するときに役立っている。  

他の活動として、競争力、技術、環境、エネルギー、電気通信、ロジスティックス、そして輸出の分野でプロジェクトを実行するために、FIESPは、より競争力のある産業に焦点をあて、その市場の一流の専門家を雇い、州の産業がグローバル・マーケットで競争するのに適したものになるのを助けている。

●カコミ記事  

初めわれわれは、サンパウロ州の基礎情報ついてパワーポイントで説明してもらった。最初のスライドに「サンパウロはメルコスールの入り口である」との言葉があった。さらに、次のスライドで、ブラジルで最も人種的に多様で、世界に通じている都市だと紹介していた。南米一の経済都市としての自負を持ち、国際経済に臨んでいこうとする熱意が感じ取れた。  

サンパウロ州が生み出すGDPはブラジル全体の33%を占めており、これはアルゼンチン全体のGDPに等しく、工業製品に限ればブラジル全体の40%を占める。また、同州からの輸出は国全体のそれの35%を占めている。同州はブラジルの中で抜きん出た経済力を持っているといえる。  

サンパウロ州には、伝統的なものから最も進歩した工業まで存在する。すべての市場で競争力を有しているということだ。同州のGDPの半分は小売、サービスから得られている。同州には、国の中で最も大きい30の会社のうち12社が集まり、4000の銀行の支店が存在している。農業では、19万平方キロメートルの耕地があり、国全体の農業生産の1/3を稼ぎ出している。教育、研究面でも、最も大きい規模の大学と研究機関を擁しており、産業界とパートナーシップを結んでいるという。  

他にも、マスコミも発達し、高速道路網、鉄道、航空網、航海網などの交通網が内外に優れているとの紹介があった。  

産業が発達し州の金庫が潤っているサンパウロ州は、教育、インフラなどあらゆる面で投資が進んでいることを、プレゼンテーションは強く訴えかけていた。


 

次に質疑応答に移った。質問には、コレア会頭のほか、International Relations AnalystのTatina Porto氏が答えて下さった。

大統領がカルドーソからルラになって経済政策はどう変わったか、という先生の質問に対して、会頭は、ルラの経済政策のほうが産業界にはよいと答えられた。この回答は、われわれにとっては意外であった。ルラ大統領は労働党で、労働者階級のための政策を推し進めようとしており、雇用主側の産業界には不人気だと思っていたからである。会頭によれば、カルドーソ前大統領は、マクロ経済指標の安定を最重要課題とするマネタリストであり、レアル・プラン後は金融政策に凝り固まり、実体経済をかえり見ていなかった。それに対し、ルラ大統領は現実主義であり、雇用創出政策、産業政策など、地に足をつけた経済政策を行っているというのである。  

他にも意外な情報、意見を2つほど聞くことができた。ブラジルでは産業人には36%の高金利を課すなど、投資が促進されず大きな問題だとわれわれは考えていた。しかし、実際は抜け道として金利の低い、或いはない融資を受けることは可能であるので、高金利が好ましくないと結論を下すのは性急であるとのことであった。  

次に、BRICsに関しては、アメリカのコンサレティング会社、ゴールドマン・サックスが出した概念であり、役に立つとは思わない、とのお答えであった。確かに、ブラジル、ロシア、インド、中国は、人口も多い、国土も広い、これからの成長株であるという点に関しては共通しているが、相違点も多い。加えて、BRICsには南アフリカやオーストラリアが含まれていない。会頭は、ブラジルがBRICsの一角とされことをあまり快く思っていないようだった。BRICs連合という上げ潮に乗って、世界市場、世界政治の場に打って出るのが、今のブラジルですでに合意済みの戦略だと思っていたから、これは意外だった。BRICsといっても、利益共同体連合ではなく、その中に常に競争をはらんでいるという意識があるだろうか。  

貿易に関してもお話を伺った。現在ブラジルの貿易量のシェアは、EU、アメリカともに約25%ずつであるが、10年後にはアメリカとの貿易量は減り、EUとの貿易量は40%にもなるだろうと予測していた。ルラ政権がアメリカと距離を置いて独自路線を歩もうとしていることについて、FIESPはある意味で自信を持っているようだった。

メルコスール諸国との関係について聞いてみたところ、利害の衝突はあるが、だんだん深くなっていっているという。日本とブラジルとの自由貿易協定(FTA)締結については、難しいだろうとの見通しをとっていた。ブラジルは農業国であるため、日本に農産物を輸出したい。しかし、日本は自国農家を保護するために農産物の輸入を避けようとするからである。

私は、FIESPでお話を伺い、「内なる国際化」を完了したブラジルが、「外への国際化」を果たし、その中でイニシアティブをとろうとしている意気込みを感じとった。

ミーティング

 

午後9時に先生の部屋に集まりミーティングを行った。  

話は今日の昼のイタリア・ビルのレストランで行われたサンパウロの都市構造になった。東京と比較してみよう。サンパウロは東京ほど地下鉄が発達していなく、車社会である。このことが、サンパウロの都市構造に何らかの影響を及ぼしているのではないか。

また、東京では、土地所有のインセンティブが強く、土地所有者はなかなか土地を売ろうとしない。このことは都市の再開発を難しくさせる。六本木ヒルズは、90年代の東京都の法令改正、すなわち、再開発する土地の所有者全員の同意を必ずしも得なくても再開発が可能になったことによって、着工できることとなった。一方、ブラジル人の土地に対する執着心はどうなっているのか。日本の代々土地を受け継ぐ家制度に対し、ブラジルにはフロンティア開拓精神があり、土地への執着がそれほど高くないように思われる。加えて、ブラジルでは、土地の所有・占有関係の法律制度はどうなっているのか。

これらの、ブラジルにおける空間包摂のあり方を調べることが、ビルが点在している理由を知ることにつながると思われる。実はこれは、明日以降、ポルトアレグレのMST視察にいたる、この巡検で一つの重要なテーマとなっていった。



荒木 直哉

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