■ サンパウロ 2004 8.31


 ホテル〜イビラプエラ公園 

8:30ホテル発。巡検活動の開始に好天に恵まれた。万里ホテル近くのリベルダージ駅から、地下鉄にて、まずサンタクルス駅に向かう。前日に10回分の切符を17レアル(=680円で買っておいた。われわれには安く感ずるが、現地の人々の所得を考えると、1乗車当たり68円というのは、かなり高額である。日本の地下鉄と違い、どこまで行っても同じ料金だ。改札機は、パリの地下鉄と同じような構造になっている。切符を入れると残りの回数が表示され、駅から出るときには何もいらない。往路、ニューヨークで一泊して、地下鉄に乗った。しくみは基本的に同じだったのだが、駅に入るときに、なかなか切符に改札機が反応せず、改札口が滞っていた。しかしここではそんなことは全くなかった。

電車は国内生産だが、フランスの技術を使っているようだ。電車はあまりに混んでいて、一本見逃したほどだ。電車の中にはアフリカ系から、ヨーロッパ系、アジア系まで実に様々な人々がいる。外は照りつけるような暑さだが、セーターを着こんだ人もいれば、目の覚めるような色をしたぴったりとした服を大胆に着こなしている人もいる。若い人からおばあさんまで大きなピアスをつけて思い思いのおしゃれを楽しんでいるようだ。この時間は朝のラッシュ時だが、スーツ姿の人はほとんどいなかった。後にお金のある人は治安の悪い地下鉄はまず利用しないと聞いたがそのためだろうか。構内には日本語の広告看板もあった。

電車をサンタクルス駅で降りて、公園行きのバスを先生が探してくれている間に、私達はたまたまそばにあった電器屋に涼みがてら冷やかしに入った。メモをいそいそと取る明らかに怪しい日本人に店員はかなり警戒している模様・・・。調査の結果、洗濯機は1000レアル前後、冷蔵庫1500-3000レアル、パソコン2000-2500レアル、テレビ700-1200レアルと、R$1=40円として計算すると、日本と比べて単純に比較すればそれなりに物価は安い。外資系企業の製品がほとんどで、PhilipsやGeneralが多かった。他にはLGやMitsubishi、Sony、Panasonicもきていた。また10回以上の分割払いが主流のようで、分割の値段は、一括払いの20-30%増しになっている。これも後から分かったことだが、服など多くのものが分割払いで購入できるようになっている。その場合一括と分割の値段に差は全くない。これにより、金銭的余裕のない人も高額な商品にも手が届く。また店の営業時間はだいたい9:00~20:00のようだ。

バスはかなり待たされたが、ようやく来て乗り込んだ。バスには、市公認を表す市のマークが全てについていた。しかし、さまざまな色の車体が走っている。

乗車の仕組みはこうだ。前のドアから乗ると、車掌のような係の人がドア近くに座っているので、彼に運賃を渡す。そして銀色の回転式ドアからバスの中央、後部座席に移動する。ところが、ここで人によって運賃が違うことが発覚! 私や琴美ちゃんは2レアルだして25センターボのおつり、荒木さんは5レアルだしたのに、30センターボのおつりしかくれない。朝田さんは、2レアルだして、30センターボかえってきた。これから後もよくあったことだが、おつりのためのコインがないようだ。でも他の乗客の誰も疑問を抱かない。日本だったらありえないし、なくても何とかしてきちんと返してもらうだろうな、と思っていたら! バスの前後のドアが開きっぱなしで走行し始めた! 「あの・・・開いてますけど・・・。」しばらく走ってから、ドアは走りながらゆっくりと閉まっていった。一同なんだか大笑い。


 日本館 in イビラプエラ公園

イビラプエラ公園到着。とても広い公園で、芝生に寝転がっている人もいれば、ランニングで汗を流している人など、優雅に時間を過ごしていた。私達はサンパウロ日系人先没者記念碑を参拝しに来たのだが、着いてみると、日本館は残念なことに休館日だった。日本館は、水曜、土曜、日曜しか開館していない。このため、黙祷だけ捧げて解散することに……と思ったら、水岡先生の「誰か人がいる!」という声が遠くから聞こえてきた。無理にお願いして、入場料を払い、開けてもらえることになった。

案内をしていただいたのは、中にいて施設を管理しておられる日本ブラジル文化協会の藤井安治さん、日系2世の方だ。13年間、ここ日本館の管理をしているそうだ。

藤井さんはまず、この日本館の説明をしてくださった。1954年、サンパウロ市創設400年祭のときに、日系移民、日本領事館や文化協会、サンパウロ市から広く寄付金を募って日本館が建設し、これを寄贈して慶祝の意を表した。設計や建設はすべて日本人によってなされ、所要資材もすべて日本から調達され、1954年8月15日に、開館した。

田中角栄首相や、中曽根首相、橋本首相夫妻、皇族の方々など、日本の要人も多く訪ねているようだ。9月15日には小泉首相も訪問予定だという。とりわけ田中角栄首相は、日伯(日本とブラジル)の関係強化のため特に貢献した、日本の穀物自給を図るため、日本のODAでセラド開発を進めた。今の日本外交はアメリカべったりだが、当時は独自の外交を行っていたことがうかがえる。

館内入ってすぐのところは展示室になっており、日本から寄付された鎧や壺、御輿など様々な日本文化を表すものが展示されていた。これらは日本の旧家や県が寄贈したものだ。階段を上るとそこは茶室になっており、日本庭園が眺められるようになっている。池には錦鯉が悠々と泳いでおり、松の木など手入れが行き届いている。玄関にはサンパウロ大学の建築科のブラジル人学生達が日系人に教えを受けながら作ったという姫路城が飾られてあった。

日本館の外には、たくさんの記念樹が植えられていて、清子内親王が1995年11月に御来伯された折の大きな「日伯修好100周年記念植樹の碑」もあり、その両脇には両国の国花である桜とイッペイの木が植えられていた。イッペイの木はとてもきれいな黄色の花を咲かしていた。

この日本館は、一日平均、水曜は50人、土曜は200人、日曜は300-500人が来館しているという。そのほとんどが、日系人ではなくブラジル人である。公園内にはかつてポルトガル、ドイツ、フランスなどほかの諸国の記念館もあったが、取り壊され、日本館だけが文化協会が市に働きかけ残されたという。だが、残念なことにこの日本館は存在をあまり知られていない、と藤井さんはおっしゃられた。

帰り際に、われわれは、この日本館の前に建つ、サンパウロ日系人先没者記念碑を参拝した。これは、田中角栄首相が建立したもので、碑の中には、異国の地ブラジルで世を去った日系人の名簿が納められている。われわれは、この碑の前で黙祷し、ブラジルにおける日系人の血のにじむ開拓の努力に思いをはせた。


 ブラジル日本移民史料館

日本の裏側、ブラジルに生きる日系人の確かな存在に感銘を受けつつ、われわれはタクシーで一度リベルダージ(日本人街)のホテルに戻り、ホテル近くで各自昼食をとった。私はチェーン店のパン屋でフレッシュジュースとポンデケージョ(合わせて約5レアル)を食べた。そのおいしさに感動! 私は次の日も買いに行き、お店の日系人のおばちゃんと仲良くなってしまった。

今度は、リベルダージにあるジブラジル日本移民史料館へ歩いていき、IDを見せて中を見学した。

【ブラジル日系移民の歴史】

史料館の展示を中心に、ブラジルへの日本人移民の歴史を追ってみよう。

日本は、日露戦争で大国ロシアに勝利したことで、その名を世界に知られることとなった。ちょうどその時、ブラジルのサンパウロ州ではコーヒー農場で人手不足となっていたため、日本人を移民として迎えることとなった。

「移民の父」と呼ばれた水野龍は、皇国植民会社を設立、1907年11月にサンパウロ州農務長官カーロス・ボラーリョと移民導入の契約を結ぶ。1908年6月18日第1回笠戸丸移民781人を率いてサントス港に上陸した。ブラジルの現地新聞では「皆行儀正しい人達」と報じられる。この笠戸丸は、かつてはロシア艦隊の病院船で、日露戦争のときに日本の手に渡ったものである。水野氏は1908年6月18日に日本に骨を埋めたいといって帰国した。

1930-34年まで、毎月移民船が何度も往復し、盛んに移民が受け入れられた。航路は2通りあり、太平洋からパナマ運河を通ってサントス港に入る45日間のコースと、インド洋から南アフリカのケープタウンを経由する60日間のコースがあった。船内では、移民たちを和ませる催し物が開かれ、船内新聞が発行され、初級ポルトガル語を教える学校が開かれた。サントスに上陸すると、移民列車でサンパウロ市の移民宿へ入り、その後各地のコロノ(殖民集落)へ分かれていった。ブラジルで、日本人コロナ(移民)は、19世紀末にようやく禁止された奴隷に代わる労働力としてみられ、劣悪な労働条件で、最初の3ヶ月はコーヒー農園の草取りをした。下痢やマラリア、赤痢などの病気にやられた。朝は鐘の音で起床し、昼食の時間、仕事終了の時間はラッパの音で知らされた。監督が馬で見回った。干し肉を食べたり、小麦粉を団子にしたり、野菜がなかったため雑草を調理したり、コーヒーの芽を番茶代わりにして飲んだ。1920年まではブラジル人経営の所で働いたが、日本人の中には、開拓により農場を持つ者が次第に現れ、1920年からは日本人経営の元で働くことも多くなった。

当初は、周辺の原生林に多くの野生動物や鳥類がいて開拓が困難であった。村の仕事としては、まず日本語学校を建設し、開拓から10年ごとに記念刊行物を発行するなど日本文化を伝えるよう努力した。家の中には、戦前の日本と同じく昭和天皇の写真が飾られ、餅、味噌、醤油、豆腐などが作られた。しかし冠婚葬祭が日本式からブラジル式との混合に変わっていくなど、ブラジルに徐々になじんでいった。

移民たちは言葉や習慣に馴染んでいなくとも耕作することで生活することが出来た。しかしブラジル人と共に汗水流し信頼を得る中で、現地に馴染んでくると、砂糖業やサービス業、味噌や醤油の食品工業、旅館、雑貨屋など、商工業経営もするようになった。また金融や貿易、綿などの日本企業が入ってくるようになった。

ブラジルの都市の発展と共に近郊型農業が創出され、野菜園芸農業がサンパウロ近郊からリオ市などの都市郊外で広まった。じゃがいもから始まり、トマトや葉野菜類、やがて果物や花、養鶏も伸びた。また農協がこれらを足場として成長し、栽培地域が内陸に大きく広がった。サンパウロの卸市場は南米一となり、ブラジルの採卵、養鶏の70%は日系人の手で行われるようになった。

日系人は品種の創出や改良など、農業技術の革新で大きな功績を挙げた。政府の後押しではなく、一人一人の工夫や努力でなされたことに意味がある。広大な土地を持つブラジルでは生産の増加といえば原始林を開いて耕地をふやすことであったが、狭い日本で育った移民たちは、ブラジルに労働集約的な農業をもたらし、野菜や果樹の栽培に養鶏も取り入れた多角農法を発展させた。

各国の移民を受け入れコーヒー農業の中心であったサンパウロは、ブラジルで最も早く近代化し、日系人達は1930年ごろから協同組合を組織した。もともと協同組合運動はイギリスから始まり、ドイツ、日本そしてサンパウロへと伝わったものである。

1935年ごろから、ナショナリズムの動きが強まるなかで、ブラジルと日本との外交関係が悪化した。ブラジルは連合国の側にあり、枢軸国の日本は敵国となった。こうして、戦時中は日本語新聞の発行が禁止された。真珠湾攻撃が起こった1941年には、日本語学校が閉鎖された。さらに1942年、ブラジルは枢軸三国と国交を断絶し、1943年には枢軸三国人の海岸地帯立ち退き命令がだされた。1945年に日本は敗戦したが、当時は国際的な情報網が十分でなく、ブラジルには、日本の敗戦を信じない「勝ち組」が大勢いた。これらの人々は、敗戦を受け入れた「負け組」と争い、何人もの死人がでた。しかし、「勝ち組」をブラジル政府が説得して、日本敗戦の事実を認めさせた。これが落ち着くにつれ、移民たちは日本に対する結びつきを次第に希薄化させ、ブラジルを永住の地として考えるようになっていった。この勝ち組負け組に関しての話はとても興味があったが、なぜか史料館では情報が希薄で、展示を見ただけではよくわからなかった。

サンフランシスコ講和条約締結後の1952年には国交が再開され、海外からの引揚者による増加で失業問題が深刻化していた日本では、1953年から、ブラジルへの移住を再開した。1958年には農業移住がピークに達した。それから後は技術移住が多く、戦後移住者は6万人にも上った。これとならんで、1950年代は、ウジミナスやトヨタなどの大型投資が行われ、60年代の高度成長期には日本企業が多く進出した。1962年までに70社である。日本とブラジルとの関係は、この時期大きく高まった。70年代はブラジルの奇跡と呼ばれ企業の二次進出期でもある。石油ショックが起こり、ブラジルは経済政策を転換し、食料や資源ををブラジルに求めた日本はこれに協力、融資した。だが、1980年代初頭、ブラジル経済にひずみが生じ、ちょうどその頃日本は好景気であったため多くの企業が撤退した。1994年には、日系人が育て、ブラジルで指折りの経営規模を誇ったコチア農業協同組合と南米銀行が破綻し、外資に身売りされることになった。これにより農地を放棄せざるを得なくなった日系人も多く、日本への出稼ぎ現象が起こった。これと呼応するように、1990年には日本で定住者の地位が新設され、日系人は日本で比較的容易に労働ができるようになった。2000年には、25万人が日本に定住していると言われている。

史料館の展示者の意図は、日系人の歴史を輝かしく公表し、ブラジルに多大な貢献をしたことを強調したいのであろう。移民にとって暗黒時代である戦時中の状況や、敗戦後の勝ち組と負け組の争い、そしてコチア農場組合の破綻や出稼ぎの話は、ほんの少し触れられているに過ぎない。これらはあまり公にしたくない歴史の事実なのではないか、とゼミで話した。


 上原会長のお話

こうして資料館を見学した後、われわれはブラジル日本文化協会上原幸啓会長にお話を伺った。

上原会長は1936年12月、9歳のときに農業移民の息子として来伯された。「正直、史料館の展示にあった生活の様子より、もっともっと貧乏な生活だった」と語られた。大学を卒業してからフランスに留学、フランスでユネスコの職員として勤務された。「フランスの外交戦略はうまい」という。優秀な人材に奨学金を与えフランスで勉強させ、フランスびいきの人間を作っているという。それが後々外交に良い影響を与える。「日本は島国で国際化が難しい。そこで日本を好きな外国人を作ることは重要だ」とおっしゃられた。現在は、サンパウロ大学工学科の教授をつとめられる理系の研究者で、ダムの水流にかかわる研究をなさっている。9月16日訪問予定のイタイプダムの設計にも携わられたと聞き、驚いた。イタイプダムは、2009年に揚子江のダムが完成するまでは世界No1のダムである。

ブラジル日本文化協会としては、来るべき移民100周年祭の準備に今忙しいそうだ。なぜ移民100周年を祝うのか。目的は4つあるという。一つ目は、まだ日系1世が日系人全体の5%くらい御存命であるので、感謝を表すこと。成功した人にも失敗した人にもインタビューして記録し、DVDを作る予定だそうだ。二つ目は、今、日系社会はバラバラだから若い人を使ってまとめること。1世は集まろうとするが、2・3世になるともう自分たちはブラジル人だという意識だ。「困ったことに日本人はお山の大将になるのが好き。小さく集まってもいいけど大きなものを作って大きな力としたい」という。三つ目は日本、ブラジル両政府に仲良くなってもらうこと、四つ目は、若い世代に日本語や文化を身につけてもらうこと。そうおっしゃられた。

なぜブラジル人が日系コミュニティーを尊敬するか。それには三つの柱がある、と上原会長は言う。一つ目は、戦前の移民が修身道徳を日本の尋常小学校で身につけていたことにある。「悪いことはしてはいけない」のだ。二つ目は、農村で仕事をしたことだ。商売をして尊敬される人は少ない。百姓はバカにされるけどみなの食料を一生懸命作って最後には尊敬される存在なのだ。三つ目は、貧しいものを食べてでも1世は子弟教育に力を入れた。今でもブラジルで最難関と言われるサンパウロ大学学生全体に占める日系人の割合は、18%にもなる。ブラジル人全体に占める日系人の割合が0.7%ということを考えると、たいへん高い割合だ。サンパウロ大学は、小学校から高校までいいところでしっかり勉強しなければ入れない。しかし、州立なので授業料は一銭も払わなくてすむ。なお、サンパウロ大学は創立177年を迎え、学部生だけで3万人、キャンパスは六つ、サンパウロ市内だけでなく地方にもあるという大規模な大学である。

私たちは、「教育とは何だと思いますか」と上原会長に尋ねられた。会長は、「@学問A道徳B健康、しかしそれだけではダメである。CGeneral Culture(一般教養、絵や音楽、書物など美を愛する心)D家族と社会のつながりE環境、が必要だ」と熱く語られた。「Cは、どの国へ行ってもそうだが旅行することで身につく。視野を広げなくては。一プロフェッショナルであることはいったん忘れる。@からEがそろって初めて人は人間になれるのだ。人間皆同じ夢を持っている。それは幸せになることだ。」そう、誰だって“幸せになりたい”のだ。ちらりと紛争地域のことを思い浮かべた。

会長はさらに、「ブラジルには悪いところもある。貧富の差がそれだ。しかし戦後の日本もそうであった。1961~70年までは、日本よりブラジルのほうが物価は高かった。昔から今の状況ではない。日本が高度成長したのは、会社の利益を社員に分配したからである。しかし今はネオリベラリズムの影響でそれは減少し、貧富の差は開きつつある。」「日本が悪いことをすると世界の日系人に影響が出る。だからもっと日本にはがんばってもらわなきゃ」と話された。

ブラジルでは、多くの人種が本当に仲良く生活していて、混血も進んでいる。日系社会140万人の35%が混血であり、20年後には80-90%混血になるのではないかと言われている。各家庭の中にカトリックやユダヤ、仏教、ムスリムなどが同居している。上原会長が勤めていたユネスコの会議では、最初は各出身国のお国自慢のようになっていたが、最終的にはブラジルを見習おうという話になったという。ブラジルほど色々な人種が平和に暮らしている国はないとおっしゃる上原会長と同じ意見を、われわれは、巡検中に色々な人からわれわれは伺うことになる。このことは、ブラジルの人誰もが誇りに思っているようだった。

日本への出稼ぎ労働者問題について聞いてみた。「確かに悪いことをする人もいる。日本人で悪いことをする人も大勢いるように。第1に、言葉の問題が立ちはだかる。日本人は、日本語は日本人のもの、外国語はその国の人のものと思っている傾向がある。しかし言語は誰のものでもない。外国人がおかしな日本語をしゃべってもいいじゃないか。私達だってチンプンカンプンな英語を話す。みんなどこかの素晴らしい文化を1つ身につけているのだ。」当たり前のことのようでいて目からウロコの気分だった。

それから、私達が滞在しているリベルダージについて伺った。1946年ごろは木がたくさん生えた2階建ての住宅街であった。ヤギが通りを10何匹も通るような、治安のいい豊かなところであった。その後、段々ビルが建ち始め、日本人が集まってきて日本人街が形成された。そのため今でも日本食料理店や日本食スーパーが残っている。だが、豊かになった日系人達は高級住宅街へと移っていき、中産階級の中国、韓国人たちが住むようになったと言う。

サンパウロは、ブラジル全体のGNPの30%を占める豊かな都市である。それというのも、1932年、サンパウロ州が独裁に反対してブラジル最後の革命を起こしたため国から配分をあまりもらえなくなったため、電気会社や道路を作って自分達で収入を得なければいけなかったのだ、と上原会長は説明された。州の自立性は強く、今でも州道はよく整備されているが国道はひといものらしい。大学も国立より州立のほうが上であるという。


 新垣様のお宅を訪問

こうして多くのことを学んだ史料館をあとにし、ホテルへと戻った。

18:00に、ホテルのロビーで、新垣マサ子さんという日系人の方と待ち合わせしていた。新垣様は、1990年-2002年まで13年間、日系南米人が多く住むことで知られる、豊田市保見団地にいらした。私が高校時代に、8-18歳の在日外国人に日本語や学校の勉強の手伝いをするボランティア団体「トルシーダ」の代表に紹介していただいた方である。。

「愛ちゃん?」と迎えに来てくれた新垣さんの、初対面とは思えないようなフレンドリーで暖かな態度は、私と新垣さんが電話でしか話したことがないと知ったゼミテンを驚かした。マサ子さんと一緒のタクシーと旦那さんの車に分乗して、お宅のあるサンカエタノドスル(Sao Caetano Do Sul) へと向かった。

タクシーを降りるとき、新垣さんは現金ではなく、小切手で支払ってくれ、小切手の説明もしてくれた。小切手では一括だけでなく分割払いもできるそうだ。金利もない。分割払いの場合は、何枚かの小切手に分けて、それぞれに口座から引き落とし日となる別々の日付けを書いて、渡す。受け取った人は、その日以降に銀行に持っていくと、小切手振出人の口座から引き落とされる、という仕組みだ。

Sao Caetano Do Sul はサンパウロの金持ち地区で、サンパウロ近郊の「ABC地区」(各地区の頭文字を取った3地区)の一つである。この街にはアメリカの自動車会社があり、それで潤っているため、サンパウロ市と合併しないで独立を保っている。マンションは24時間守衛さんがいたるところにあるカメラで監視している。マンションの中に入るには、カメラで住人であると確認を受け、その後ドアが開かれる。新垣さん一家が最近ここに越してきたのは、近くに私立の小学校があるからである。今までは公立校で、しかも治安のあまり良くない地域であったため、スクールバスで送迎してもらっていた。「スクールバス代と精神的な不安を考えたらこっちに越してくるほうがいいと思ったのよ」とおっしゃられた。

マサ子さんは2世として、かねてから日本、そしてアメリカ本土、ハワイに住んでみたかったという。そこで愛知県人会の募集に応募、面接をしてゴルフ場のキャディーとして夫と日本へ渡ることにした。キャディーとして働く間に日本語の勉強をしたようだ。もともと、小さなときからある程度の日本語会話は出来たが、小学校4年生頃から他の勉強などで忙しくなり、日本語学校へかようことが難しくなって、日本語を勉強をすることがなくなっていったそうだ。キャディーを辞められた後は、歯医者の助手を務めたり、保育園で働いたりして、そののち2000-2002まで、教育委員会の派遣で、当時70人のブラジル人の生徒を抱える保見中学へ相談員として派遣されることになった。保見中学では、多くいる外国人生徒のために、地理や国語の時間に日本語の授業や補習が行われている。それだけでなく、マサ子さんは保護者と教師間の通訳もした。日本の中学は、ブラジルと比べても、またそれまで生徒が通っていた日本の小学校と比べても、校則が厳しくなったり、勉強が難しくなったりする。それでなくとも思春期で難しい時期だ。契約では週2回の出勤のはずだったが、ほぼ毎日中学へ足を運んだと言う。出稼ぎにより、子供は日本とブラジルにおける教育がどちらも中途半端になりがちだ。勉強面、経済面からも高校進学は難しい。

マサ子さんは、もう一つの夢、アメリカに住むということを叶えるため、日本を発った。しかし2年間のアメリカ滞在中にお父上が胃がんで倒れブラジルへ戻ってきたと言う。

マサ子様のお父上は、3歳のときにブラジルへ移住してきて、20歳のときにスーパーを開いた。これがあまり上手くいかず、ホームセンターに替えたところ上手くいき、店舗を増やしていった。しかし高齢となられたため全て店舗を貸すことにし、今は娘夫婦に譲ったということである。こうしてマサ子様は、父親の店5店舗を譲り受け、それを貸し出して生活している。不動産管理会社に任せると10%の仲介料をひかれるため、信用の置ける相手は自主管理している。お父上は店舗を一つにまとめ大きなビルを建てようかと計画したが、マサ子さんが反対したと言う。なぜならブラジル経済はとても不安定で、一つの会社に貸し出してもしその会社が倒産すれば、収入がストップするからだ。夫はビリヤード場を経営している。ブラジルにはビリヤード場がとても多い。

マサ子さんの夫は、日本滞在中に日本の永住権を取得した。このため、日本にいつでも行って自由に労働できるそうである。ただし、永住権は、2年間継続して日本国外に居住していると消滅するので、面倒だが2年ごとに日本に出かけなければならないのだと言っていた。ブラジル人の中には、このように手続きをうまく工夫して外国の永住権や二重国籍を持っている人が多く、これらの人々は自由に国境を越えて、高い賃金を得てくる。国際労働力移動を支える国境管理制度の、興味深い一面を知ることができた。

お話を聞かせていただいた感謝の気持ちを込めて、我らが藤目さんが詩舞を披露した後、近くの高級レストランでブラジルの代表料理、シュハスコ料理をご馳走していただいた。何から何まで感謝の気持ちでいっぱいである。

シュハスコ料理とは、長い串に大きな肉の塊や太いソーセージが渦巻状になったものを刺してウェイターが次から次へと持ってきてくれるのだ。「スィ、ポルファボール」といえばウェイターがナイフで薄く切ってくれるので、手持ちのつかみバサミでそれを取って、いただく。「ノン、オブリガーダ」というまでこれが延々と続く、食べ放題のシステムである。これからの長いブラジル生活中にイヤと言うほどこのシュハスコ料理を食べることになろうとは誰も思わず、これから貧しい食事だろうと体力を温存しとくためにも皆がっつり食べた。

また、ビュッフェ形式で、これも食べ放題のサラダやデザートを好きなだけ取ってくる。その中に、お寿司もあった。見ると、いちごを巻いた寿司!! 味はともかく、その空前絶後のアイディアにゼミテン一同大絶賛。写真を撮っていたら、ウェイターがそんなにおいしかったかと満面の笑みを浮かべていた。本当に新垣さん、ごちそうさまでした!

私は新垣さんの「気楽にね」という口癖のような言葉が印象的だった。「ただ今のことだけ考えてちゃだめ。これからずっと気楽に生活するにはどうするか考えなきゃ。だってそれが幸せでしょ」。

(田中 愛)

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