■ カシュガル 2003 9.17


カシュガルの歴史

カシュガルKashgarは、3000年の歴史を持ち、古くからシルクロードの要所として栄えた中央アジアの主要都市であり、ウイグル民族の事実上の首都である。

ティムールおよびその子孫が長い間支配されていたカシュガルに、1755年、清朝の支配が及んだ。19世紀には、清朝、われわれがウズベキスタンで訪れたコーカンド汗国、そして、すぐ南のインド植民地を統治していた英国、さらに北方からのロシアという、いくつもの勢力にとって、タリム盆地の奥地にあるカシュガルは、拡張すべき勢力圏の一番の先端となった。数多くの勢力がこのカシュガルでフロンティアのせめぎあいを演じ、グレートゲームの主要な舞台となっていった。1865年には、コーカンドから分派したヤグブ・ベクYakub Begがこの地を「トルキスタン」として統治し、イギリスとの独立した外交関係を持っていた。だが清朝は、これを征服し、1884年に中国新疆省とされた。その後、トルコ系民族であるウイグル人は、20世紀前半に2度にわたり、僅かの期間であるが、東トルキスタン共和国として独立を勝ち取り、カシュガルがその首都となった。だが、それは直ちに中国よってつぶされ、今日に至るまで、中国の支配下におかれたままとなっている。

他の中央アジアの民族が、ロシア帝国、そしてソ連の支配から独立を勝ちとった今もなお、ウイグル族だけは、異民族支配の下に抑圧されている。現在は、中華人民共和国政府の政策で、ウイグル民族の心の首都カシュガルに、漢民族が入植しつつあり、ウイグル人はますます隅に追いやられている。

カシュガルは、漢民族居住区とウイグル人居住区にはっきりと分かれている。巨大な毛沢東像・人民広場・政府および共産党関係の役所がある辺りの市街地は、漢民族が多く、周辺のデパートには店員、客ともに漢民族が多くみられ、漢民族の生活圏である。その中心街から北東に1kmほど離れたところに「日曜バザール」と呼ばれるウイグル人の大きなバザールがあり、その周辺にウイグル人居住区が集中している。このあたりでは、観光客以外に漢民族らしき中国人は見かけない。

こうした、歴史都市であり、同時に植民都市でもあるカシュガルの現状を、われわれは視察した。

元イギリス領事館

ホテルを出たわれわれは、まず、グレートゲームの跡を求めて、チニバーグホテルの裏手にある元イギリス領事館の建物を訪れた。 この建物は、1908年から英領インドが独立するまでイギリスの、そしてその後1954年までは、パキスタンの領事館として使われていたものである。つくりは直線的で、前に広いテラスがある、典型的なイギリス植民地の建築様式だった。グレートゲームについては、ウズベキスタン訪問の時から話題になっていたが、建築物として「イギリス」を経験できたのは、ここが最初で最後だった。今はこの建物は「葡萄園」というホテルの別館のようになっており、見た目にはなんの標示も出ていなかった。だが、建物の中に入ると、この領事館の歴史をしるした埃だらけの看板が、なぜか撤去されて、しまってあった。



エイティガールモスク

次にわれわれは、カシュガル最大のイスラム教のモスク、エイティガールモスクId Kah Mosqueを訪れた。ここはウイグル人居住区の中心部にあり、実際にイスラム教の市民が祈りをささげる、重要な信仰の場である。

ところが、われわれが到着すると、このモスクの周囲で現在すすむ大規模な都市再開発工事が目に入った。後日、この改修工事の完成図を見つけたのだが、周りにはショッピングモールなどの建物も整備され、地元の高級な商業中心として、また観光地としての開発される予定であることがわかった。東トルキスタンの中国からの独立を求める「東トルキスタン情報センター」のウエブサイトによると、中国政府は、1uにつき200元という涙金の補償だけで、先祖代々この地に住んだウイグル人を追い立てているらしい。

数千人のウイグル人が、祖先から残された住宅の立ち退きと郊外への移住を強制された。反対するウイグル人には「1uにつき2000元~3000元を払い、高層ビルを建てろ」と、実現不可能な要求をつきつけ、北京までこの問題を訴えに行ったウイグル人は公安当局に拘束されているという。再開発後の建物には、漢民族が入居し、ムスリムの神聖な礼拝場エルティガルモスクは、漢民族が占有する高層の現世的な商業施設で取り囲まれることになる。われわれはウルムチでも類似の過程をみたが、ここはもともとウイグル人の身体と一体化した生活空間だっただけに、ウイグル人の心に与える傷は、ウルムチとは比べ物にならないほど大きいであろう。

モスクの入り口には、「礼拝中は観光客は入れません」という看板が掲げられていた。だが、入場チケットには絵葉書がついていたので、やはりここも天池などと同様に、観光地として中国政府が振興に力を入れている場所なのだろう。モスクの中は、庭園がきれいに整えられていて、気持ちがよかったが、信仰の場所に、信者でない観光客に踏み込まれるウイグル人の気持ちは、どうなのだろうか。

このモスクの壁沿いには、観光客向けにウイグルナイフや、信者向けにコーランなどを売る商店が並んでていた。 3、4軒、ウイグル人向けの歯医者さんが立地している通りもあり、現地のウイグル人むけの商業機能も持っていることがわかる。この地区も、再開発工事の後にはなくなり、一部の商店はショッピングモールにまとめられることが予想される。しかし、新しいショッピングモールに店を構える資金など持たない者がほとんどであろうから、ウイグル人商人たちのほとんどは、この再開発の過程で、住居だけではなく仕事をもなくしてしまうだろう。

 

このように、ウルムチとはまったく違った都市過程と構造なのも原因のひとつなのであろうか、ウイグル人の漢民族に対する抵抗感は、カシュガルのほうがより強く感じられた。

モスクを出て、ウイグルの旧市街をとりまく城壁を遠望する東湖のほとりの交差点に行った。城壁は、現在ではそのごく一部が残っているに過ぎない。ヤクブ・べグの居城跡は、観光名所として復元などいわずもがな、看板すら無く、その場所の同定は不可能であるが、この城壁の内部におそらくあったのであろう。城壁は今にも崩れそうで、そこにへばりつくように、ウイグル人の土壁や日干し煉瓦の住居が設けられていた。2020年が目標年次という市街地再開発にかかり、ここもいずれ取り壊されてウイグル人が追い立てられることとなるのであろうか。

アパク・ホジャ陵墓

その後、カシュガルの名所のひとつであるアパク・ホジャ陵墓Abakh Hoja Tombへ行った。 ここは観光名所だけあって、駐車場の周辺には土産物屋が並んでおり、日本語で書かれた看板も見られた。陵墓はドーム状の屋根で、外壁には唐三彩風の緑色のタイルが張られていて、とてもきれいだった。旧ソ連諸国のタイル張りのモスクはたいてい青色だったので、緑というのが新鮮に思えた。17世紀半ばに建てられたこの陵墓には、有名なイスラム教指導者だったアパク・ホジャとその家族らが葬られている。彼は、17世紀に新疆南部を支配していた人物だった。

彼の孫娘、イクパル・ハンIkparhan(香妃)もここに葬られている。彼女は、清朝の乾隆帝時代に、清朝の支配に立ち向かうウイグル人の反乱を指導したリーダーだった。しかし反乱は清朝によって鎮圧され、彼女は捕虜として捕らえられた。通例、反乱のリーダーは処刑されるのであるが、彼女は乾隆帝に気に入られ、北京に連行されて後宮入りした。しかしそののち自殺を強いられ、この墓に葬られた。これを機に清朝によってこの陵墓が大改修されて、いまの姿に近いものができあがったそうだ。

陵墓のそばの案内板には、この話を受け、西ドイツの雑誌がこの陵墓に寄せて、清の「皇帝とこのウイグル人姑娘との愛情は、中国人民大団結の明証だ」とコメントしたと記されていた。皇帝と、その後宮で恩寵を受けた女性との「団結」とはどのようなものであろうか? このドイツの雑誌が、皮肉を込めて語ったであろう言葉を、皮肉と気づかず「人民大団結の明証」と看板に平然と書く漢民族の神経に、憤るより先に、思わず笑ってしまった。

人民広場

その後、カシュガルの市街地の中心部にある人民広場へ向かった。途中、旧ソ連とよく似た鎌とハンマーの巨大なシンボルがついた、共産党の地区党学校が見えた。中国政府はここカシュガルも中国の一部であると言うことを示し、共産党を浸透させるためにこのような施設を作ったのだろう。町を歩いている小学生の中にも、中国の他の場所ではめったに見かけない、赤いスカーフをしている子を何人か見かけた。

人民広場には、中国で最大といわれる毛沢東像が建っていた。像自体は、温和で、それでいて力強い顔立ちの立派なもので、時折白いハトが像の周りを飛んでいた。常に像の周りを周回していたので、像の周りを飛ばせるために飼われているハトではないかと思った。それにしてもなぜ、こんな中国の奥地に最大の大きさの毛沢東像があるのだろうか。ここカシュガルは地理的には中央アジアで、今でも東トルキスタンとしての独立を求める動きがある。これまでも、しばしば独立を求めるウイグル人の反乱が起こっている。このことを牽制し、反乱を抑える精神的効果があるのかもしれない。そしてまた、ここは漢民族の支配下であることを強調するためのものでもあるのだろう。



バザール

人民広場のある町の中心地から北東に1kmほど離れたところに、ウイグル人の巨大なバザールがある。ほとんどが露店で、ビニールシートの屋根の下に店がぎっしり入っている。

入って手前のほうには、観光客向けに民族衣装やウイグルナイフを売っている店があったが、 ウルムチのバザールに比べて観光客向けの店は圧倒的に少なかった。果物を売っている店は、川沿いに数十軒ずらっと並んでおり、スイカ、ハミ瓜(メロンの味がする果物)、イチジク、ざくろ、ブドウ、りんごなど、どう考えても一日では売り切れない量が山積みされていた。食器を売る店も5,6軒が近くに固まっており、ベールをかぶったウイグル人の奥さん達がポットや皿を買い求めていた。このあたりでは、目だけを出したベールをかぶったイスラム教徒の女性をよく見かけた。子供服から大人の洋服まで売っている店もあった。観光客向けの民族衣装ではなく、普通の洋服だ。ウイグル人の女性は、たいてい独特のワンピースを着ているが、子供や男性は普通の洋服を着ている人が多く、そのような衣料品店もバザールの入り口付近にあった。また、干しブドウなどの乾物、薬草や朝鮮人参のようなものを売る食品店も数多くあった。

文房具もあり、漢字練習帳やパンダ柄のノートを見かけた。小学校で、ウイグル人に中国語の教育が行われているのだろう。バザールでは中国語も通じるが、ウイグル人たちはみんな互いにウイグル語を使って話している。ウイグル人たちは、どういう気持ちで中国語教育を受けているのだろうか・・・。

露店が集中している通りを抜けると、金物を加工して暖炉やナンを焼くかまどをつくっている店、自転車のタイヤのチューブのような日用品を売る店があった。

このように、このバザールは現地の人たちが、現地の人たち向けに開いているものである。しかし、バザールがある大通りの両脇に、建物が建設中だった。そしてこの通りも、真ん中に植林できるスペースが作られている途中だった。やがてこのバザールも、ウルムチのバザールと同じように、露店がなくなり、建物の中に収められる予定なのだろうか。収められると言っても、建物に入れるのは、おそらく観光客向け・漢民族を中心とした地元高所得者向けの商店だけだろう。これら現地民向けの店は、きれいに整備したショッピングモールの中には入れないだろう。そのとき、ウイグル人にとって基本的な経済基盤であるこのバザールは、いったいどこに行くのだろうか。

このバザールの周辺には土壁でできたウイグル人居住区があるのだが、その一部は、すでに半分ほど壊され、閑散としていた。その近くには、再開発後の様子を示す看板が建てられていた。やはり観光地・商業中心としての整備なのだ。近いうちにこのバザールも居住区もなくなり、私達はウイグル人の生活の場、彼らの文化を直接見ることができなくなるだろう。 ウイグル人の現実の生活から切り離され、その文化を商品化した、テーマパークのようなカシュガルしか見られなくなるのだ。現地に何千年と住み着いている民族の生活を犠牲にし、中国の観光資源として利用されていこうとするのが、われわれが目の当たりにしたカシュガルの現状であった。

バザールから戻る途中、車は国際バスターミナルの横を通った。ここから、クンジュラブ峠経由パキスタン行き、またトルガルト峠経由ビシュケク行きの国際バスが出ている。



元ロシア領事館

巡検の最後に、元イギリス領事館の建物にほど近い場所に建つ、もう一つのグレートゲームの跡を視察した。これは、色満ホテルの裏庭にある、1890年から1958年までロシアの領事館として使用されていた建物である。元イギリス領事館とちがって、こちらは、入り口の門から、付属の建物に至るまできちんと保全され、案内看板もあって、内部を参観することもできた。建物は、イギリス領事館と比べると重厚で、暗い感じがする。

8月28日から3週間に及んだ巡検も、ここでようやく終了である。巡検最後のしめくくりの昼食を、色満ホテルのレストランにて、全員で、各自この巡検をふりかえって感想を述べながらとった。

ここで、巡検グループは現地解散した。一部の人は、今日の夕方カシュガル発、1999年に完成した南彊鉄道の夜行列車でトルファンに向かう。残りの人は、カシュガルにもう一泊し、その後敦煌を見学する。ゼミ生は、思い思いの自由行動をしながら、上海を通り、船で日本にもどった。

(桑野 友佳)

←前日にもどる | 2003年巡検トップにもどる |