■ アティラウ 2003 9.5


アルマティ〜アティラウ 9.5

朝5時半にアルマティのホテルを出発し、アルマティ空港へ向かう。前日、キルギスのイシク・クル湖からホテルに帰ってきたのが午前2時頃だったので、皆ほとんど睡眠をとれない状態での出発となった。

空港は市内の北側の郊外に位置し、現在新しいターミナルビルを工事中である。将来的には近代的な建物になるということだったが、現在使用されているターミナルビルは、入り口には立派な装飾がなされているものの、とても空港とは思えない小さい規模で、見た目にも古く感じられた。ちょうどウエディングケーキのような形の、1950年代までソ連・東欧・中国など、社会主義国各地に数多く建設された「スターリン様式」の建物である。カザフスタンの中心都市、しかもかつての首都の空港でさえこの程度なのだから、他の地方都市にある空港の規模・設備は推して知るべしといったところだろう。

空港に入る際に、まず荷物のX線チェックを受けた。入り口が1つしかないため、とても混雑していた。チェックインカウンターは一応他の国際空港と同じ雰囲気に改修されていたが、全部でカウンターが3つしかなく、他の乗客もわれ先にと荷物を前に押し込むようにして順序を争っていたので、チェックインし手荷物を預け終わるまでに一苦労した。

  待合室で搭乗時間を待ち、時間になると係員の人が飛行機まで案内してくれた。途中、ゼミ生の一人がカメラで空港の様子を撮影しようとしたところ、係員に止められフィルムを渡せと要求された。だが、デジカメだからフィルムはない。ディスプレイの「No Disk」という表示を見せると、どうにか納得してくれたようだった。海外では軍事機密の保持のために空港や鉄道の写真撮影を禁止しているところが多いと聞いたが、これほど厳しいとは、と驚いた。

飛行機はソ連製の、機体の後ろから地上に直接階段が出ているタイプで、全部で120席の小さなものだった。乗客はそのほとんどが現地人だったが、中には高そうなスーツを着込んでいる男性もいた。われわれ以外、ツーリストはいなかったように思われる。米国の副大統領チェイニーがもとCEOだったことで知られる石油開発会社ハリバートン(Halliburton)から石油採掘のコンピューター管理の仕事をしにアクタウへ向かう米国人4〜5人などが見られた。

たまたまハリバートンの技術者がゼミ生の隣に座っていたため、話す機会があった。彼はオクラホマ州での休暇を終え、これから職場のアクタウへ向かうところだという。カスピ海の石油開発に携わる以前は、シベリア、パリ、ブダペストなど、世界各地を転々と勤務していたそうだ。いま、イラクの油田でも積極的に活動している同社のグローバルな営業のひろがりの一端を知る思いだった。会話の中で印象的だったのは、米国から派遣された技術者と現地採用の職員は非常に仲がよいことを強調していた点である。話をしているときは何も考えなかったが、今思い起こしてみると「現地の利益を省みず、石油を巡っての覇権争いをしている」というイメージを払拭するための、牽制球だったのだろうか。

機内食は、国内線の朝食にしては豪華なものが出た。サラダ、パン、暖かいチキンかビーフ、デザートという、西洋風の食事だった。ソ連製の機体ということで、私は多少の不安感があったのだが、離着陸時も含め緊張を強いられる場面は皆無だった。ソ連製だからといって心配するのは杞憂である。約2000kmの航程の飛行時間は約3時間、アティラウとの時差はアルマティから−2時間。現地時間の9時過ぎに到着した。 アティラウ空港に到着し外に出た途端、ムッとする暑さを感じた。それまで訪問してきたウルムチもアルマティも砂漠の中の都市で、空気が大変乾燥していたが、ここアティラウの空気は体にまとわりつくようで、湿度が高い感じがした。カスピ海が近いためだろうか、詳細な理由はわからないが、いままでとは一線を画した気候であったことは間違いない。そのうえ、われわれが訪問したこの日は気温が40℃もあり、外に出ているだけでヘトヘトになるような大変暑い日であった。出口にはたくさんの出迎え人がおり、ハリバートンの紙を持った人もいた。

アティラウ空港で2人のガイドと会い、ホテルへ向かった。

市内の様子

アティラウは、1640年ロシア帝国のグリエフにより作られ、それ以来ロシア帝国ならびに旧ソ連の商業都市として、キャビアなどの取引で繁栄していた。市内にはアジアとヨーロッパの境界線をなすウラル川が南北に流れている。もちろん、ヨーロッパとアジア両地区の間に街の景観や住んでいる民族の違いはなく、この区分は、名目的なものにすぎない。だが、川の両岸には「Asia」、「Europe」と書かれたモニュメントがあった。到着したアティラウ空港はヨーロッパ側にある。中央アジアを巡検するわれわれが、はるばるヨーロッパの土を踏んだのである。

市街地には米国の石油メジャー・シェブロンオイルの高層オフィスビル、2年前に建築されたモスクなど、新しい建造物が多く、カザフスタン随一の石油都市であることを印象付けていた。ガイドの話によると、人口構成はカザフ人73パーセント、その他はロシア人、ドイツ人、朝鮮人などの少数民族がいるそうだ。だが、近年カスピ海沿岸地域での天然資源開発が規模を拡大し始め、カザフスタン企業だけでなく、PSA契約等によって誘致された外国資本(特に米国資本)も開発の主要な担い手となっており、米国の石油メジャー・シェブロンオイルの従業員とその家族のための居住地であるシェブロン村もある。このことを考えると、最近は米国人も増えてきているのではないかと予想される。

到着したグリーンホテルは、この巡検中で泊まった中で最も豪華なところだった。外装はプレハブに文字通り緑の塗装をしただけの簡素なものだったが、宿泊料は、ツイン1室が1泊120米ドルと先進国並みであり、内装は西洋風にアレンジされて豪華さと清潔感があった。経営者はインド人だそうで、受付の人は英語と少々の日本語も話せた。恐らく、おもな宿泊客は西側の資源開発関連企業のビジネスマンだろうと考えられる。われわれは、荷物を置いて、最初の訪問地、アティラウの製油所へ向かった。

製油所

われわれが訪問した製油所は、5平方kmという広大な敷地を有し、第2次大戦中の1943年、ソ連国家防衛委員会の指示により「レーニン製油所」として、対独戦の前線を避けてこの地に設置されたものである。ソ連解体後に、カザフスタン政府の国策企業、カズムナイガスの「アティラウ製油所」として民営化された。もっとも、同社の株式は公開されておらず、そのほとんどが政府に握られているため、この工場は完全に民営化しているとはいいがたい。社会主義時代は、年間5百万トンの石油を精製して、ソ連中央政府からのノルマを超過達成する、全ソ連の中でも屈指の優良工場だったようで、展示室には、ソ連時代の表彰状やメダルなどが、所狭しと誇らしげに飾られていた。だが、50年間使い続けた設備は大変老朽化しており、オペレーションの効率も悪いという。そのため現在施設の改修工事が行われておいる。これに携わっているのが、アルマティの三井物産で伺った、丸紅JGC(日揮)JBIC(日本国際協力銀行)が中心的な役割を果たす、このプロジェクトである。JGCの秋田様、飯島様、そして現地の工場長の方にお話を伺い、その後意見交換させていただいた。

まず、石油精製過程について簡単な説明をいただいた。石油精製とは、そのままの状態では使えない原油から、石油・ガソリン・ディーゼルオイル・LPガスなどの使える製品に分溜し精製する工程のことである。製油所は、原油を分溜するプロセスエリアとオフサイドに分けられ、これにタンク部門が加わる。発生する熱をリサイクルして有効利用するための関連設備もある。

この工場では、原油を油田から購入し鉄道貨車で搬入して、精製した製品や副産物のコークスを主に国内市場、そして一部ロシア・イランに再び鉄道貨車で出荷している。かつては東欧向け輸出もあったが、いまは行っていない。精製の過程では上記のような商品として販売できるものもあるが、その一方で処理が困難な硫黄が発生し、カスピ海沿岸地域に放置されている。硫黄は人体に有毒であるため、現在これが問題になっている。

日揮が行っている改修工事の内容は、まず2つの蒸発蒸留装置を改造し、より質の高いガソリン、ディーゼルオイルを精製できるようにすること、そして油を含んだ廃棄物としての下水を処理する装置を作ることである。改修工事は丸紅が仲介になって日揮が請負い、工事費用はJBICからの3億2500万ドルの融資でまかなわれている。これは、製油所が本格稼動した跡の収益によって返済される。完成後の生産高は、1日12.8万バーレルの予定である。秋田さんら、日揮の日本人技術者が、現在6人働いていた。 この製油所では、原油を主にアクタウおよびアティラウ周辺の油田から購入しているが、将来的にはテンギス油田の原油をより多く使う計画で、そのためにテンギスからのパイプライン建設計画がある。テンギスはカスピ海北部に位置する湖底油田で、大規模な石油埋蔵量が確認されている。現在すでに、テンギスからは年間200万トンの原油を購入しており、改修工事終了予定の3・4年後には年間1200から1800万トンを仕入れたいと考えているそうだ。原油は、今のところ鉄道で運ばれてきているが、将来パイプラインが完成すれば輸送量が増加・輸送コストが減少するので、より工場の収益性が上がると考えられる。

現在カスピ海沿岸に製油所を持っているのはカズムナイガスのみである。同社は、カザフスタン国内に、他にシムケントおよびパブバダールにも製油所を持つ。だが、この地域では、現在、数多くの製油所開発プロジェクトがある。日本の石油会社は出遅れているが、米国のシェブロンオイルやイタリアのアジックがアティラウから東に30キロ離れた所に製油所の建設を計画中だそうだ。

最後に、日本企業がカスピ海沿岸の石油開発事業に進出する可能性について、秋田さんに尋ねてみた。まず、石油の探鉱・採掘技術のない日本企業が進出できる分野は石油加工分野のみ限られるということだった。次に、仮に原油を精製して製品販売まで手がける企業が進出したとしても、@カザフスタン市場は未成熟で規模も小さいため国内需要は見込めない、A輸送条件からいって市場は欧州となるが、西欧市場への進出は流通チャネルが外資系メジャーによってすでに押さえられているので日本企業には困難、Bカザフスタンより東側の市場に輸出するのは、山脈にさえぎられ輸送コストが高い、という理由により、国家がトップレベルの政治的てこ入れをして積極的に主導するのでない限り、日本企業の石油加工分野以外への進出は難しいのではないか、という回答であった。また、カザフスタンではプラスチック工業がまだ発達していないため、ナフサやエチレンといった燃料用以外の石油製品の需要が少なく、製油所を作っても収益性が必ずしも高くない。、だが、このようなプラスチック工業をカザフスタンが興すまでには、多大な時間がかかるだろう、と問題点を指摘された。この点、メジャーは、グローバルに原料と生産物をマッチングさせるという力がある。

開発途上国や旧社会主義国に進出している外資系石油メジャーは、ホスト国で資源開発を行い、その国独自では探鉱できず眠ったままにおかれざるをえない資源を獲得し市場に出す。だが、探鉱技術は外資系メジャーの独占の下にあり、ホスト国に技術移転しないし、また、油田やガス伝開発は装置型産業なので、雇用もあまり多く創出しない。しかも、ホスト国の国内経済発展に不可欠な資源が海外に流出し、長期にわたりその国に天然に賦存された富が奪われることとなる。鉱区を使う代償として生産物をシェアするための一切の会計処理は外資のブラックボックスの中でなされるため、その代償としてホスト国に公正な利益の分配がなされるかどうか疑わしい。さらに、カザフスタンで、石油メジャーは、深刻な環境問題も引き起こしている。すなわち、飯島様の話によれば、石油精製過程で発生する硫黄の2次利用法がほとんどないため、約300万トンもの硫黄がカスピ海沿岸に放置され、周囲の環境に流れ出しているという。カザフスタン政府としては、メジャーに対して強硬な態度で臨むべきであるが、1993年以来カザフスタンで操業する米系メジャーのシェブロン石油との間に取り交わされたPSA契約によって、メジャーに治外法権にも等しい大幅な権限を認めているなどの理由で、あまり強い姿勢に出られない。とはいえ、最近、環境問題についてカザフスタン政府が外資系メジャーを提訴するなど、メジャー一辺倒の姿勢がようやく変わり始めた。環境は、一国のみの問題ではない。カスピ海沿岸地域は多くの国がシェアしているので、このカザフスタン政府の主体性を強化しようとする姿勢は、歓迎すべきものであろう。

市内視察

工場の方からお話を伺った後、実際に製油所内の見学をさせてもらえることになったが、許可手続に時間がかかるため、いったん工場を離れて市内視察へでかけた。 まず、通称「シェブロン村」といわれている、米国の油田関係者の住宅地区を視察した。テンギスシェブ石油の本社ビルから500mほど離れた場所に、トルコ資本によって建設されたこの住宅地区は、高い塀で囲まれており、入り口には警備員が3人いて、大変厳重な警備がされていた。住宅地区内を見学させてくれるように頼んだがあっけなく断られ、外から写真を撮ろうとするとそれも禁止された。そこで、警備員の目が届かない方向に回り、入り口から写真撮影をしようとすると、トランシーバーを持った警備員が追いかけてくる。1つ1つの家の建築様式は米国風で、塀の中には学校が見られ、この他にも生活していく上で必要な施設は一通りそろっているものと思われた。ロサンゼルスにも要塞化された都市住宅地区が存在するというが、まさしくそのミニチュア版といったところだ。これだけ厳重な警備のなかでこの住宅地区に居住する米国人たちは、いったい何を恐れているのだろうか。この住宅地区は、その建築物の景観はもとより、またその居住空間の厳しいセグリゲーションのありさまからしても、まさしくカザフスタンの中の「小さなアメリカ」であった。

その後、われわれは、第2次世界大戦後にドイツ人、日本人捕虜が来てつくった居住地区‐ジゴロドックに向かった。

ここに向かう途中、たまたま通りかかった裏通りの茂みの中に、われわれは巨大なレーニン像を発見した。ガイドによると、この像は元々大通りに面するテンギスシェブ石油本社ビルの横に立てられていたそうだ。旧ソ連諸国でレーニン像への対応を観察することは大変興味深いことである。キルギスのビシュケクでは。レーニン像が、われわれの訪問したつい一週間前に大通りから裏通りに移動され、それが物議を呼んでいる。アルマティでは、レーニン像は一体も見ることができず、恐らくはすべての公園・広場から独立後に撤去されたのではないかと予想される。ここアティラウでのレーニン像は無残にもたくさん落書きされていたが、一応壊されることなく残っていた。

ジゴロドック地区の中心には、イタリア風建築様式の文化宮殿が残っていた。中には入れなかったが、天井には美しい絵が描かれていた。給水塔はドイツ風建築様式になっている。残念ながら日本風のものは見当たらなかった。現在この地区は、低所得者層の居住区と思われ、寂れた雰囲気だった。

工場見学

再び製油所へ向かい、見学をする。入場ゲートでパスポートチェックを受けてから、日揮の秋田さんに中を車で案内していただいた。工場内を見た第一印象は「古い」だった。50年前につくられた設備は見た目にもかなり老朽化しており、工場全体の稼動率は高くないそうだ。実際、原油を軽いものから重いものまで分ける蒸発蒸留装置は2つあるが、現在使われているのは一つだけだった。今回の改修工事で、この蒸発蒸留装置のキャパシティーを大きくし、生産効率の向上を図るそうだ。また旧ソ連時代に建設中だった加熱炉の材料が、組み立てられないままに放置されていた。途中で建設資金不足になったのではないか、ということだった。工場の敷地は2km×2.5km。敷地内には、何にも利用されていない土地がいくつか残っており、効率的な土地利用しているようには思えなかった。この工場の隣には、元の国営化学工場が建っていたが、現在買い手がつかず、今は操業もしておらず放置されている状態である。

博物館とカスピ海

工場見学を終えた後、われわれはアティラウの歴史博物館を訪問した。ここでは1990年前のゴールドマン、黄金の鎧のコピーを見ることができた。ゴールドマンはアティラウの項でも触れたが、カザフスタンのシンボルとして知られている。館内ではカザフスタンの全般を展示しており、特に石油に関する展示が充実していた。

時間がなくなってきたので、博物館見学を切り上げ、テンギスシェブルオイルの本社ビルを訪問した。本社は、空港からホテルへ行く途中に見た、市中心部のガラス張りの高層ビルである。アポイントメントをとっていなかったのだが中に入ることができ、受付カウンターに並べられた、テンギスシェブ石油の企業情報パンフレットをいただいてきた。パンフレットの表紙には、「環境を責任をもって保全しながらコミュニティに繁栄をもたらすテンギスシェブ石油」と大きく書かれていた。内部は整然としていて、入り口付近を巡回していた数人の警備員が我々を胡散臭そうに注視していた。大変セキュリティが厳重な印象を受けた。飛び込みで訪問したため館内の見学はできなかったが、是非とも石油開発現場に携わる人にお話を伺いたかった。

その後、この都市がグリエフと呼ばれていたころの昔のアティラウの中心地だった旧市街を訪問した。ここに建つロシア正教の教会は、2000年に改築されていて、真新しかった。昔はここでキャビアなどの取引が盛んだったらしいが、今は古い建物ばかりで、低所得者層の居住区となっているものと推測され、石油開発と関係したオフィスや高級住宅が立ち並ぶ表通りとは対照的だった。

一日の最後に、カスピ海の湖岸まで行った。カスピ海というと目前に水平線まで広がる青い水面を想像するかもしれないが、実際見られたのは、地平線まで広がる広大な湿地帯であった。カスピ海は年によって海岸線が変化するので明確な線が断定できない。よって「いわゆるカスピ海」を見るのは、残念ながらここアティラウでは不可能なのである。現在カスピ海の湖面は上昇傾向にあり、いずれアティラウが水没してしまうというリスクも、完全には否定できないだろう。




ホテルにて

ホテルに帰り、先ほど石油精製工場の説明をしていただいた日揮の方々のご好意で、ゼミ生皆が夕食にご招待いただき、ホテルの中庭で夕食をともにした。

 巡検が始まってから日本語をあれほど話したのは久しぶりであった。そもそも日本からこんなに離れた土地、しかも一般の観光ではまず日本人が訪問しないような土地で、日本人の方々と話しができること自体、私にとって新鮮なことであった。マレーシア出身の華僑の方もいた。日揮の方々との夕食は大変楽しいものであり、ビールとウオッカを思う存分飲みながら、石油開発に関わる苦労話や貴重な経験を聞かせていただいた。技術者として石油開発国を転々とし、慣れない環境で生活する難しさには共感できた。米英などの石油メジャーと異なり、日本が得意の加工技術を生かしてカザフスタンで取れる原油をカザフスタンで使えるように、あるいはより付加価値をつけて輸出できるようにし、カザフスタン経済の自立のため日夜努力しておられる日揮の皆様、これからも、アジアの果てでますます頑張っていただきたいものである。たいへんにご馳走様でした。

(渡辺 大介)

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