2012年9月11日 クリミア

★この節におけるクリミアの記述は、ロシアがクリミア半島を不法に占領し実効支配を開始する以前、ウクラ イナが正統に統治していた時期の貴重な記録 です。現在、我々がこの巡検で通過したウクライナ本土との道路・鉄道交通は遮断されており、船か飛行機での入域に、ロシアは、ロシアのビザを要求してい ます。

世界最長のトロリーバスに乗って

今朝、私たちはまず、全長86km、世界最長の路線をもつトロリーバスに乗って、シンフェロポリから、黒海に面したヤルタ方面に向かうことになった。駅 前から出るトロリーバスの車輌は、中国製の新車だった。車内は、立ち客もいて、満員である。このトロリーバスが、多くの市民の足として、また、観光対象 として、人々に支持されていることがわかる。

トロリーバスは、私たちが泊ったモスクワ・ホテルの横を通り過ぎ、幹線道路に差し掛かるところに、ダヴリダ国立大学がある。ガイドの話によると、 この大学には法学部・医学部を含めた16学部が存在する。また、大学の向かいには植物公園がある。社会主義時代の恩恵として、住みやすい環境が整ってい るようにみられる。

幹線道路のM18へ出て、シンフェロポリ郊外にバスが進むと、次第に廃墟が見られるようになる。ガイドは、この辺りは旧タタール居住区なのだと教えてくだ さった。黒海に突き出たクリミア半島には、もともと、トルコ系のタタール人が先住民族として居住していた。1944年にスターリンによって、タタール人はウ ズベクやカザフ共和国へと強制移住させられた。ソ連解体後、戻らなかったタタール人の住宅がこのように残っている。この近くにはタタールのモスクも残っ ているという。

また、ところどころに地元のマーケットとして出店が出ており、蜂蜜や玉ねぎなどが売られている。この辺りには小規模のハウス農場が見られる。

トロリーバスは、架線からパンタグラフを使って動力をとるので、通常バス同士の追い越しができない。ところがこの路線では、架線が2組設置されてお り、急行用と緩行用になっているのだ。このため、長距離を走る急行バスは、短区間のバスを追い越して先に進むことができる。








私たちは時間の都合上、ヤルタに向かう道路の最高地点である、途中のアンガラ峠でトロリーバスを降りた。アンガラ峠からは、稜線に向けてハイキングコー スも延びているらしく、トレッキングの装備をした何人かの人もここで降りた。私たちは、アンガラ峠から専用車に乗り換えてヤルタへ向かう。

トロリーバスでの道のりでもいくつか見られたクリミア地域党ならびにウクライナ共産党の看板がここでも見られ、ガイドがそれぞれの党について説明してく ださった。








クリミア地域党の青い看板には、クリミアの旗の色である、青・白・赤にグリフォンを描いたマークが描かれている。この政党は、クリミア自治共和国の権利 を強めることをスローガンに掲げている。ただし、これはあくまで自治共和国としてのことであり、ウクライナ政府を認めて、ヤヌコビッチを支持している。 ウクライナから独立することは考えていない。また、クリミアにはロシア人が多く住み、ロシアとの結びつきが強いことから、親ロシアを掲げている。看板に は、ロシア語教育の推進についても書かれている。

一方のウクライナ共産党の赤い看板には、ハンマーと鎌の共産主義のシンボルが描かれている。「国民を我々の国に戻す」ことをスローガンにおいているとい う。60代以上の老人には、ソ連時代を懐かしみ、いまだ共産党を支持する者が多いのだそうだ。



黒海に沿って立地する保養施設

専用車に乗ってM18号線を進んでいくと、黒海に出る辺りにアルシュタ(Alushta)という保養地がある。ここでは、ぶどう畑が広がっている様子が見られた。

ガイドのお話によると、この畑のぶどうはワイン生産用であり、畑は全て国有企業のマサンドラ(Masandra)・ワイナリーのものだそうだ。マサンドラはクリ ミアに4000ヘクタールものぶどう畑を有している。年間1500万リットルのワインを生産し、その60%をロシアに輸出している。ソ連解体後のウクラ イナでは、いくつかのワイナリーが民営化されたが、クリミア産のワインによってこのような大きな利益の見込めるマサンドラ・ワイナリーにおいては、国は 民営化をしようとしてはいない。

これはウクライナにおいて、利益の見込める企業は国有のまま保持しているということである。自由市場経済が推進する全てのセクターの民営化と違い、選択 的な民営化が図られる移行経済の特徴が窺える。










国道を海沿いに進んでいくと、高層の建物が多く見られるようになった。ガイドのお話によると、これらは民間のホテルだという。クリミア半島沿岸部はソ連 時代、労働者の保養地となっていた。労働者は、年に24日間、無償でこのような保養地で休暇を過ごすことができた。

社会主義には、人々に精神の自由や経済活動の自由が許されない一方で、労働者にとってこのような手厚い福利厚生という、良き点も存在した。ウクライナ共 産党の看板に関するガイドのお話の中にあった、老人たちがソ連時代を懐かしむというのも、このようなことが背景になっているのだと納得できる。

更にやる他に近づくと、フルズフ(Hurzuf)という地区がある。この地区には、レーニンの妻、クルプスカヤ(Krupskaya)が1920年代に入って創設した アルテック(Artek)というピオネール・キャンプ地がある。このキャンプ地は、ソ連時代には、全国のぴおねールのセンターだった。ソ連解体後の現在も、 国際児童センターという呼称で、旧社会主義国を中心に3000人もの子どもたちがやってきて、ロシア語で野外活動などを行ないつつ生活するという。東日 本大震災のとき、ウクライナ政府は、国際的な支援の一環として、日本から被災した児童をこのキャンプに招待したそうだ。

また、国道沿いにタタール・レストランが見えた。ガイドが、この日の運転手を務めるアキム(Akim)さんはタタール人であることを教えてくださった。










私たちはヤルタの市街に到着し、専用車をおりて徒歩で視察を行った。市街の路地には、シンフェロポリからの道のりでは見られなかった、丸い窓などのアー ル・ヌーボー様式を取り入れた建築物が見られる。帝政ロシア時代からこの地がリゾート地だったことが窺える。商店には富裕層をターゲットとした家電やワ インが売られている。








土産物屋などが並んだ狭い道を進んでいくと、海に面したレーニン広場に出る。この一等地の広場には、今なおレーニン像がしっかりと置かれている。これは 、ウクライナでは例外的だ。この地域に、共産主義への憧憬をいぜん抱く、ロシア系の人々の影響力がなお強いことを物語るものである。しかしその一方で、 広場にはマクドナルドや遊具をおいたレストランなど、現代的な飲食店も立ち並んでいた。マクドナルドの中は、客で一杯で、大盛況である。








私たちはレーニン広場から、海沿いの通りを西へと歩いて進んだ。 ここでは、ヤルタのリゾート地としての機能がみてとれる。しかし、一般の海水浴客が入れるビーチの範囲は狭く、そこには海水浴客が溢れかえっていた。巷 にはクルーズ用の船が停泊している。 また、通りに立ち並ぶ店には、ラテン文字表記の英語風・フランス語風の店名がおおく、富裕層向けの洋服を売っている。この通りでの買い物が、 ニューリッチにとってのステータスとなっているのかもしれない。狭いビーチに詰め込まれている一般の人々は、こうしたところで買い物ができるのだろうか 。市場化したウクライナ経済の貧富の拡大を、このビーチの景観からも読み取れるような感じがした。

ロシア革命後の1919年に,ニコライ二世の家族は、イギリスの軍艦マルボロ号で、ボルシェビキの迫害を逃れ、ここから亡命した。このビーチには、亡命 を手助けした記念碑がある。また、著名な作家チェーホフの銅像も見られる。




レーニン通りをまがり、キーロフ(Kirova)通りの路地に入ると、フランス系企業ヴェオリア・エンバイロメンタル・サービス(Veolia Enviromental  Services)のゴミの収集のかごが見られた。ヴェオリアは公共事業のオペレーションに特化した企業であり、日本ではこの手の企業は見られない。ちなみに、2011年の水岡ゼミ・ニュージーランド巡検では、オークランドの都市鉄道の運行業務を行う、ヴ ェオリア・トランスポート(Veolia Transport)を訪問した。

このあたりは、喧騒な浜辺と異なり、落ち着いた戸建ての住宅街という趣きになっている。おそらく、住宅のかなりの部分は、かつての富裕層の別荘だったの であろう。プロテスタントの教会が修復中であった。また、横にそれたサドヴァヤ(Sadovaya)通りに、聖アレクサンドル・ネフスキー(Saint Alexander  Nevsky) 教会というロシア正教会がある。ネフスキーというのは、ロシア正教の中でも最も権威の高い聖者の中の一人なのだそうだ。このことは、クリミアの富裕層に ロ シア人が多いことを示している。

この通りでは、制服を着た子どもたちを見かけた。真っ白のシャツの上に、黒の制服を着ている。ソ連時代の頃のような赤いネクタイ・スカーフは身につけて いないものの、これまで私たちが聞いてきたピオネール・キャンプの話は、ソ連の教育システムが現在にも引き継がれている部分があることを示している。



ヤルタ会談が開かれたリヴァディア宮殿

その後、私たちは専用車でバトゥーリン(Baturyna)通り沿いにある、リヴァディア宮殿に到着した。この宮殿は帝政ロシア時代の1911年に到着したニコ ライ二世の別荘として建てられたもので、日本人には第二次世界大戦中に、英米ソ首脳による、第二次大戦戦後処理のためのヤルタ会談が行われた場所として 馴染み深い。現在は展示用に一般開放されている。

リヴァディア宮殿一階の展示はヤルタ会談についてのものである。








まず、最初の部屋は、実際に会談で使用された部屋である。会談で使われたテーブルが、当時の写真と共に展示されている。写真の下には、歴史的な説明が書 かれている。

隣の部屋は待合室である。ここで、スターリンとローズベルトによる、日本に対する戦後処理に関する密談が行われた。密談を行ったとされる、ソファーが展 示されている。当時の、ドイツ分割統治の場合と同様に、当時すでに重い病気を患っていた米大統領のローズベルトは正気の判断が難しく、スターリンの要求 がほとんど思い通りにとおる形となった。その結果、密談では、日本が日露戦争により獲得した南樺太だけでなく、ロシアとの平和的な条約で日本が獲得し、 アメリカにとっても地政学的に重要な意味を持つはずだった千島列島もソ連領土とすることに、米国は同意してしまった。

更に奥へ進むと、ローズベルトがベッドルームとして使用していた部屋がある。ここでは、当時の写真と、この宮殿に向かう首脳たちの様子を写したVTRを 流している。

一階の最後の部屋は、ダイニングルームとなっていて、会談参加者が夕食をとっている写真が展示されている。また、端の方には、ドイツの分割、及びポ ーランドの領土の移動についての地図が展示されている。アメリカ側の案とソ連側の案が採用された結果として、ポーランドの国境の変化が地図によって示さ れている。興味深いのは、アメリカ案を示す地図では、東プロイセンを除く1937年時点でのドイツの領土をそのまま分割するようになっていたことだ。

ところがスター リンが、これに反対し、オーデルナイセ線を強要して、ポーランドを西方に平行移動させ、かつてポーランド領だったリボフも含む現在のウクライナをソ連領 にとりこんだのである。

一階の一部区画は近々行われるイベントのためのリニューアルの作業中で、入ることができなかった。このイベントはヤルタ・ヨーロピアン計画(Yalta  Eurpoean Strategy, YES)という団体が主催していることが壁紙からみてとれる。この団体はその公式サイトHPによると、ウクライナを外交的に西洋と結び つけ、ウクライナのEU加盟を支援する公共機関である。このような催しを、ロシアの影響力が強いクリミアで開催するのには、何か特別の意味が込められてい るのかも知れない。

壁紙には、パートナーとして、アルファ・バンク(ALFA-BANK)というロシアの銀行の他に、アメリカのVISA、オランダのシェルといった企業が載っている 。移行経済国ウクライナへの欧米からの関心が見て取れる。








二階は、帝政ロシア時代のニコライ二世に関する展示となっている。ここには、ニコライ二世の家族揃っての写真や、当時使われていた家具などが展示されて いる。一階にあったヤルタ会談に関する展示と比べて、歴史的事項に関する説明のパネルなどがほとんど見られない。歴史について学んでほしいというよりは 、当時の暮らしぶりを来客に少しでも味わってもらうという趣旨なのだろう。デーブルやオルガンの置かれた部屋である、来客用に歌手がアカペラで合唱を行 っていた。これも、優雅な雰囲気を醸し出すためのものだと思われる。また、歌った歌手が部屋の外で早速CDを販売していた。こうしたお小遣い稼ぎも、ソ連 時代にはなかった市場経済特有のものである。 なお、ガイドによればこの二階の展示は新しいもので、ソ連解体後に一般開放されたものだという。

二階の展示を見終えた私たちは、一階にあるミュージアムショップを覗いてみた。帝政ロシアを彷彿とさせる絵画や壺の他、ぬいぐるみやマトリョーシカとい った土産物、そして中国語で書かれた扇子など、雑多なものが置かれていた。その一方で、ヤルタ会談に関する売り物は一種類の冊子のみで、殆どなかった。

宮廷全体として、一階の一部がリニューアル中だということを差し引いても、ヤルタ会談が行われた行われた場所としては会談に関する説明が少ないよう に感じた。第二次世界大戦前後の歴史についての説明があまりなかった。また、私たち日本人にとっては重要な、スターリンとローズベルトの密談の内容に関 しての展示が殆ど無い。予備知識がなければ、どのような会談がなされたのか、十分には理解できない内容になっていると言える。ミュージアムショップを見 ても、ヤルタ会談に関する売り物は売り物が殆ど無く、ソ連解体後に開放されたという帝政ロシア時代の展示に追いやられている印象が否めなかった。現在の ウクライナが、リヴァディア宮殿を第二次大戦の戦後処理に関係する歴史的建造物としてよりも、リゾート地として売り出し、富裕層や観光客を呼びこもうと している姿勢が窺える。

リヴァディア宮殿を後にした私たちは、次にヤルタの南側にある、「ツバメの巣」と呼ばれる城を視察した。海に面した崖の上にせり出すように建っているこ とからこのような呼称なのであろう。この城は、その奇妙な立地が関心を呼ぶが、元来ドイツの石油王がバロック様式に似せて作った建物であり、それほど歴 史的に深い意味があるわけではない。現在は観光スポットとして知られており、内部はイタリアレストランになっている。入り口の通りには土産物屋が並び、 多くの人で賑わっていた。高台から見わたすと、ここにもソ連時代の立派なサナトリウムがあった。黒海沿岸は、ソ連時代に保養機能の巨大な集積をもつ地域 だったことが実感できる。



ロシアが租借している軍港セヴァストポリ

セヴァストポリ

セヴァストポリは帝政ロシア時代より、軍港都市として栄えた。それ以後大きな戦争を経験している。1853〜56年のクリミア戦争では、この地はト ルコやフランス、サルデーニャとの同盟を結んでいたイギリス軍の攻撃により陥落した。また、第二次世界大戦中は、ドイツ軍の攻撃を受け、一時占領された ものの、ソ連軍の反撃により取り戻した。これを受けて、セヴァストポリは「英雄都市」に指定された。

冷戦時にも、広島・長崎への原爆投下をうけて、アメリカの脅威を感じたスターリンがセヴァストポリにおける潜水艦の配備を強化したという。

ソ連が解体した現在も、ロシアとウクライナ間の協定により、セヴァストポリにはロシア海軍が駐留している。ウクライナ側はロシア海軍の駐留を許す代 わりに、ロシア側から安く電気や水の供給を享受している。さらに、使用料としてロシアが年間2億USドルをウクライナ政府に支払っている。

セヴァストポリは軍港都市としての性質から、ソ連時代は閉鎖都市であったが、1996年からは開放された。

(以上、ガイドの話に拠る)

私たちは、M18号線を進んでいくと西に、セヴァストポリを目指して専用車を走らせた。道中ではロープウェイが頭上を通過するのが見られた。海の景色と 、山の地形を利用して、観光客向けに作ったものであろう。

しばらく進むと、フォーロース(Foros)と呼ばれる地区がある。ここでガイドが、「海沿いに注目するように」と言ったので注意してみていると、オレン ジ色の屋根をもった別荘が見えた。この建物は、ソ連解体直前の1991年8月のクーデターの際、ゴルバチョフ大統領(当時)が保養のため滞在していた別 荘だそうだ。

しばらく進んでいくと、道路脇にモニュメントが見られた。対ドイツの戦闘で勝利したことを記念したものである。このような旧ソ連によってつくられた重厚 なつくりのモニュメントは、特にクリミアのこのあたりには、撤去されずに多数しっかりと残っている。






専用車は,レーニンの顔が刻まれた、セバストポリ成立200周年の記念モニュメントとなっているゲートをくぐり、市域に入った。

車はいったん、セヴァストポリの軍港全体を鳥瞰できる高台で停まった。軍港全体が入江になって陸に食い込んでおり、天然の良港であることが見て 取れる。その後専用車は、都市を貫くレーニン通りを、街の中心である、クリミア戦争で帝政ロシアのため軍功を挙げたナヒモフ提督の碑があるナヒモフ広場 まで降りていった。途中の建物には、装飾のあるものが少なく、全体として地味で冷たい新古典派様式の建物が建ち並ぶ都市景観となっている。これは、おそ らく、ソ連自体の長い間、閉鎖都市として商業活動がほとんどなかったためではないかと 推測される。

広場に着くと、そこにはウクライナの水色と黄色の国旗がここにはほとんど見当たらないことに気づいた。ロシアの三色旗は、至る所に掲げられている。

広場には、戦争に関するモニュメントが多く建ち並んでおり、ここがソ連時代に軍事都市であったことをいやが上にも印象づけた。 第二次大戦戦勝記念碑が、永遠の灯をともしていた。

専用車を降りて、私たちは海辺に徒歩で進んだ。税関があり、その海側にはグラフスカヤプリスタンという埠頭になっていて、その先の海中には、鷲の塔 (Eagle's Column)と呼ばれる柱が海中の岩に建てられている。これも、帝政ロシア時代の軍事モニュメントで、クリミア戦争の時、英仏軍の進軍を防ぐため 、帝政ロシア軍が意図的に艦船を沈没させて湾の入り口を塞ぎ、防衛を図ったことを記念したものである。

その後、私たちは浜辺の近くの空き地に急ごしらえでつくられたような木造のレストランで、遅めの昼食をとった。このあたりは、軍事都市の面影はなく 、活気に満ちたウクライナの市場経済が表現されている。レストランのつくりも、カジュアルなカフェテリア形式であった。メインストリートのレーニン通り に面する既存の建物にレストランのような商業施設が入り込むほどの収益性も、また再開発のプロジェクトもまだ行なわれていないということなのだろう。









タタール人に謝罪を行えない、ウクライナ・ロシア政府

食事後、私たちは、M26 号線を進んで、タタール人が集まるバフチサライへと向かった。車窓からは、アルシュタ同様に山の麓に大規模のブドウ畑が見られる。ガイドによると、この 辺りにはブドウ以外にも、リンゴやナシ、桃を生産しているという。












私たちはM26号線からフンザ通り(Funza Street)を通って、バフチサライ宮殿博物館(Bahkchisaray Palace Museum)についた。門にはアラビア文字が書 かれていて、イスラムの趣を感じさせる。門の前には、この宮殿を題材にした詩「バフチサライの泉」の作者である、プーシキンの像が置かれている。タター ルに対するロシアの卓越性が、彫像によってさりげなく可視的に表現されていた。








門の中に入ると、建物に囲まれた広場がある。この宮殿は、クリミア半島の先住民が建国していたクリミア汗国のハーンの宮殿として16世紀に建てられた。 だが。18世紀にフランスの建物を好んだハーンが以後クリミア・ロココ様式(Crimean Rokoko Style)として拡大させたこと、1820年にこの宮殿にプーシ キンが訪れたことなどが書かれている。










私たちは、宮殿の敷地に入った。入ってすぐのところは、クリミア汗国政府の機能がおかれていた。そして、中庭には、プーシキンが詩の題材とした「涙の泉 」があり、プーシキンの胸像が置かれている。当時のハーンの暮らしぶりを表したい展示がなされている。宮殿内には、王室や、ハーレムが家具やマネキンに よって再現されており、王族が身につけていた衣装や当時の文献が置かれている。

室内には、汗国時代の展示が多い一方で、ソ連時代に、タタール人が貨車に詰め込まれて強制移住を強いられた絵画が一点だけ、宮廷の建物の中にかけられて いた。明らかに、タタール人からの、スターリンが行なった強制移住政策に対する抗議である。

この宮殿の展示の説明はウクライナ語と英語が併記されていた。海外観光客を意識していることがみてとれる。










次に私たちは絶壁に横穴を掘ってしつらえられた、ウスペンスキー修道院を訪れた。十字架やイコンが絶壁に並んでいるこの修道院は、元はビザンツ時代のギ リシャ正教会である 。オスマントルコ時代にもソ連時代にも壊されず残った、クリミア唯一の教会である。ソ連時代には使用されていなかったが、1993年に復活して、現在はロ シア正教会となっている。

露出の多い服装での参拝は禁止されていることが看板に書かれており、女子学生はガイドからベールの着用を促された。

教会内部に入ると、左右にイコンが飾られている。内部は右奥には立入禁止の部屋がある。中にはイコノスタシスがあることが手前から覗けた。

絶壁は反対側にもあり、その両者を挟んだ谷には、白い壁が見えた。ガイドによると、この壁はイスラム教とキリスト教を分ける壁だという。信教ごとに異な るコミュニティーを形成していることがわかる。













次に、私たちは修道院近くのバフチサライ歴史文化地区(Bakhchisarai historical-cultural Reserve)を訪れた。ここにはクリミア汗国時代の遺跡がある 。マドラサとして使用された建物や大浴場跡、クリミア汗国の初代ハーンであるハージー・ギレイの墓がある。墓には先ほどの宮殿と同様にデリーアラビア文 字が見られる。また、展示の名称にはトルコ語とウクライナ語の表記がなされている。

奥に進むと2009年に建てられた、トルコ国旗とウクライナ国旗が描かれた碑があった。この地区の開発・修復に関して、トルコが資金援助しているようだ。ハ ージー・ギレイに関する碑にも、ハージー・ギレイ墓の建立にトルコ人が関わったことが明記してある。トルコは、トルコ系先住民の地としてのクリミアに、 これによってプレゼンスを示したいのかも知れない。また、トルコ政府とウクライナが民族対立をせずに、友好関係にあることも窺える。










続いて、私たちは専用車で、バフチサライ鉄道駅を訪れた。ここから、1944年にスターリンの命令により、タタール人たちは貨車に乗せられ、中央アジアに向 けて強制移住させられたのである。駅には、強制移住に関するプレートがはめこまれている。プレートは2007年にウクライナ政府が建てたものであるが、政府 による公式の謝罪はなされていない。

ここでこの日の運転手であるタタール人のアキムさんに、タタール人の強制移住に関する自身の体験を伺った。1944年のスターリンによる強制移住では、全て のタタール人が家族と離れ離れになり、スターリンの死後からフルシチョフにかわる1954年までの10年間、移動が許されなかった。十分には食料が水が与えら れない上に、中央アジアの暑い気候の中での過酷な強制労働で、強制移住後の半年間で全てのタタール人の46%が亡くなったという。強制移住は、ある碑突然 、未明に呼び出され、荷物も何も持たずに駅に集合を命じられて、「拉致」同然に貨車に詰め込まれてそのまま中央アジアに送られた。

アキムさんの祖父は、第二次世界大戦でセヴァストポリのソ連軍としてドイツと戦い、戦死するという軍功をあげたにも拘らず、祖母はウズベキスタンの サマルカンドへ強制移住させられた。片方の祖母も、強制移住から逃れようとしてソ連兵士に殺されかけたという。アキムさん自身は1960年代にウズベキスタ ンのフェルガナで生まれ、1983〜85年のアフガニスタン紛争を経験し、1987年にクリミアに戻ってきた。一方で、クリミアでの生活はウズベキスタンよりも資 金が必要なため、クリミアに戻ってこれないタタール人も多い。アキムさんの妻と7人いる子どもたちはウズベキスタンに残って暮らしていたが、子供のうち の一人は亡くなってしまったそうである。

このようにタタール人に過酷をしいた強制移住の件に対して、ソ連は崩壊の最後まで謝罪しなかった。タタール人は土地の返還や新しい土地の供給をウク ライナとロシアの両政府に要求し続けているが、謝罪の返事は得られない。もし、謝罪を行えば、15万人のタタール人に土地や家を補償することになるので、 それを拒んでいるのだそうだ。バフチサライ駅の駅舎が綺麗に修復されていることから、ウクライナ政府のタタール人にたいする懸念が見て取れるが、同時に それだけでお茶を濁そうとしている現状が窺える。










駅を後にした私たちは、タタール式のレストラン、サラチク(Salachik)で夕食としてタタール料理を頂いた。レストランの中には、バフチサライの様子が描 かれた絵画が飾られている。私たちは以外には二組の地元のタタール人が食事をしていた。イスラムなので当然のようにメニューに酒類はないが、サラダ、マ トン、ピラフ、シシケバブを美味しく頂いた。








夕食後、私たちは専用車でM26号線を通ってシンフェロポリ駅に到着した。シンフェロポリ駅では、イスラムの面影のある駅舎の表側に、電光掲示板が取り付 けてある。私たちは、午後10時10分シンフェロポリ駅発の夜行列車に乗って、ザポロージャへと向かった。



(浜崎 厚徳 / 吉田 達郎)