?水岡ゼミ巡検報告 竹島問題 

竹島問題



はじめに

竹島/独島の領有は、現在においても日韓関係の喉に突き刺さったトゲのような、重大かつデリケートな国際問題である。このコラムでは、この「竹島問題」について論ずる。

竹島/独島は、歴史的に島名の変化が見られた島である。このため、議論の前提として、この地名の変化についてよく知っておかないと、無用の誤解と混乱が生ずる。そこでまず、序章で、島名の変遷について論ずる。

そのうえで、竹島/独島の領有権問題について論じる。竹島/独島の領有権を巡る議論は、大きく3つの問題領域に整理できる。その1つ目が、江戸時代までの島の認知の問題である。2つ目が、日韓どちらの「無主地の先占」による竹島/独島編入が国際法上有効かという問題である。そして3つ目が、戦後にこの地域に覇権を得たアメリカが引いた境界線とその背景にあるアメリカの日韓それぞれに対する対応の問題である。本論の3つの章で、各々を順に論ずる。


序章: まず鬱陵島に与えられ、
そして消えた「竹島」の名

まず、竹島/独島の名称の変遷について説明する。竹島/独島の名称に関わる混乱の一因は、こんにち韓国領として確定している鬱陵島との取り違えからもたらされた。

江戸時代、日本人は、竹島/独島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいた。この呼称は、文献にも表われている。長久保赤水の「日本輿地路程全図」(1775年)に、その2島のそれぞれの位置に、はっきり松島・竹島の名称が付けられている(図1)。また1823年の大西教保の「『隠岐古記集』には、「『松島』は小さな生木なき岩島、『竹島』は竹木繁茂した大島」[1]と、日本では、竹島/独島と鬱陵島に対してともに位置的・視覚的な認識があり、竹島/独島=松島、鬱陵島=竹島とする呼称が江戸時代には行われていた。

(【図1】長久保赤水「日本輿地路程全図」 出典: 川上著, 地図資料)

「竹島」の島名が逆転して「竹島問題」の対象となっている現在の島に与えられるようになったのは、ヨーロッパ人が鬱陵島を「発見」し、また長崎出島オランダ館の医師シーボルトがこれに基づいて誤った島名の比定を行った混乱に端を発する。

1787年、フランスの航海者で、こんにち宗谷海峡の国際名称に名を残すラ・ペルーズは、航海の途中で鬱陵島を見つけ、これを「ダジュレー島」と命名した[2]。ついで1789年イギリスの探検家ジェームス・コルネットもこの鬱陵島を見つけ、「アルゴノート島」と命名していた[3]。実は、この2島は同じ島であったのだが、報告された際の位置が異なっていたため、欧米の地図上には、日本海にダジュレー島とアルゴノート島の2島が存在するように表記されることになってしまった[4]。

日本について知識のあったシーボルトは、朝鮮半島と日本の間に竹島と松島という2つの島があって、日本に近い島が「松島」、朝鮮半島に近い島が「竹島」であることを知っていた。そこで彼は著書『日本』において、当時の欧米の地図に表記されていた朝鮮半島寄りの「アルゴノート島」に「竹島」、もう一方の「ダジュレー島」に「松島」の名をあてたのである[5]。

(【図2】ハイネ「日本近海図」 出典: 川上著, 地図資料)

現在、竹島ないし独島と呼ばれる島は、フランスの捕鯨船リアンクール号によって、1849年に「発見」され、リアンクール島と命名された[6]。したがって、ハイネの「日本近海図」(図2)に見られるように、ヨーロッパの地図には、西からアルゴノート島、ダジュレー島、リアンクール島と、3つの島が描かれる地図も出現した。この図では「アルゴノート島」の下にnicht vorhanden (not in existence,存在しない)と書かれている。

ところが、1854年にロシアの軍艦パルラダ号が鬱陵島の正確な位置を調査したところ、アルゴノート島の経緯度の測度が不完全であるとわかった。このため、アルゴノート島は、欧米の地図において、存在が不確実であることを示す点線囲みで表示されるようになり(図3)、やがて全く表示されなくなって、シーボルトが与えた「竹島」の名とともに地図から姿を消してしまったのである。[7]

(【図3】アルゴノート島の上半分の囲みが点線になっている。 出典: 川上著, p.12)

(【表1】鬱陵島、竹島/独島の比定の流れ 内田作成


第1章: 江戸時代までの竹島/独島認知

地名の変遷についてひとわたり概観したので、次に竹島/独島の領有権をめぐる第一の問題領域、すなわち江戸時代までの日本と朝鮮それぞれが竹島/独島に対して行っていた地理的な認知と領有権の主張について、扱うことにする。

a) 日本側の地理的認知

1617年、伯耆(ほうき)国米子の大谷甚吉は、海運作業の途中、空島政策で無人島になっていた現在の鬱陵島に流れ着いた。鬱陵島には様々な木材や魚が豊富にあり、それを確認した大谷は、日本に戻り幕府に開発許可を求めた。次の年、大谷・村川両家は幕府から鬱陵島への渡海免許をもらい、毎年交代で鬱陵島に渡航し、アワビの採取やアシカの捕獲、竹木の伐採に従事した。竹木繁茂している島の特徴から、日本では鬱陵島を「竹島」ないしは「磯竹島」と名付けたと考えられ、鬱陵島からの土産を例年のように幕府に献上していた[8]。

当時の日本では、鎖国令はまだ発せられていなかった。しかし、鬱陵島渡海に関し、渡海免許という許可の煩を当時の幕府があえてとって赴かせたということは、鬱陵島に関しては、日本の島であるかどうかについての疑念があったのかもしれない。

江戸初期から日本人が鬱陵島に渡航して経済活動に従事していたことを考えると、隠岐から鬱陵島への道のりにある竹島/独島(当時の名称では「松島」)は、当然、日本人によって認知されていたであろうし、利用されることもしばしばだったであろう。しかしながら竹島/独島に関しては渡海免許の発行は行われていない。当時の幕府も竹島/独島については、外国領とは認識していていなかったと考えることができる。


b) 朝鮮側の地理的認知

韓国側は、朝鮮の古文献に見られる「于山島」こそが竹島/独島であり、ふるくから竹島/独島を認知していたと主張している。我々が巡検で視察した、鬱陵島にある独島博物館の掲示にも、于山島のところに「独島」と名称が付記されていた。

(【図4】『新?東國輿地覽』と『朝鮮國地理圖』 出典: 独島博物館パンフレット pp.8,9)

上の図4は独島博物館のパンフレット8、9ページに掲載されていたもので、『新?東國輿地覽』(1530年発行)と『朝鮮國地理圖』(1592年発行)であり、鬱陵島と于山島の2島が描かれている。竹島/独島は、2島のうち日本寄りの東側にあるはずであるのに、この地図では于山島が2島の内の西側、すなわち朝鮮半島側に描かれている。

「重視すべきは于山島を地図に明記していることであって、不正確さはやむをえないとする」[9]との主張があるが、2つの島の東西の位置関係こそが問題の核心なのであり、しかも2島の位置が87.4kmも離れていることを考えれば、于山島を竹島/独島に比定するのはとうてい無理である。

(【写真1】独島博物館の、于山島と鬱陵島の位置を入れ替えた展示)

そこで、独島博物館では、于山島と鬱陵島の位置を勝手に入れ替えて、于山島が竹島/独島であるという、古地図を乱暴に改竄した展示を行わざるを得なくなっている(写真1)。このこと自体、韓国側自らが、自己の主張に実在する史料に基づく裏付けが薄弱であることを告白したものにほかならない。

さらに、「『高麗史地理史』をみると、『鬱陵島』という項で、同島が新羅の時于山国と称せられたこと、また武陵とも羽陵とも呼ばれていたこと」[10]、三国史記における「一三年(五一一)夏六月、于山国が服属してきて、年ごとにその地の産物を貢物として献上した。于山国は溟州の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という」[11]とあり、国名として于山国、島の名称として鬱陵・武陵・羽陵があったことが理解できる。すなわち今日の韓国側が主張する于山島とは于山国、鬱陵島そのものなのであり、『竹島の歴史地理学的研究』の著者である川上健三氏の唱える「一島二名説」 に妥当性が認められる。[12]


c) 竹島一件−安龍福の行動

韓国側が唱えるもう一つの論拠は、安龍福という人物が、日本に対して、朝鮮による竹島/独島の領有を江戸時代に認めさせた、というものである。

大谷・村川両家は1618年に幕府から渡海免許を得てから、年交代で何事もなく鬱陵島の経営を独占的に行っていた。だが、74年後の1692年、村川家の者たちが鬱陵島に訪れた時、朝鮮人を発見した。これを幕府に報告したのだが、幕府は朝鮮人たちがトラブルを起こしたわけではないと判断し、問題とすることはなかった。次の年、大谷家の者が訪れた時、またもや朝鮮人が鬱陵島に来島しており、2人の朝鮮人、安龍福らを日本に連行したのであった。[13]

江戸幕府側は、安龍福らを朝鮮に返すと同時に、鬱陵島を日本領と考えていたからか、朝鮮側に対して鬱陵島渡航を禁じるよう要求を行った。対する朝鮮側も、空島政策をとり無人島になっているにせよ歴史的に鬱陵島は自国領として認識していたため、その要求を受け入れることができず、逆に日本人が渡航しないよう要求した。この鬱陵島をめぐる両国の論争は、対馬藩を介しいくつもの書契による交渉で行われ、1696年に、江戸幕府側が朝鮮の領有を認め、鬱陵島の渡海禁止令を出して、解決したのであった[14]。この一連の事件を「竹島一件」という。

この竹島一件の際に出てくる、捕われた朝鮮人の安龍福という人物は、1696年、再び日本にやってきた。このときの安龍福の行動が、韓国側の竹島/独島領有権の主張のひとつの源泉となり、こんにちまで竹島問題を混乱させる原因の一つとなっている。

韓国側は、『粛宗実録』に載せられている安龍福の供述を根拠として、その領有権を主張している。以下は、その主張の内容である。

「鬱陵島には多くの倭船が来ており、仲間は近付くのを恐れたが、安龍福は『鬱陵島はわが領域である。なぜに倭人が越境侵犯しているのか、お前たちを縛ってやる』と大声で怒鳴った。これに対し倭人たちは、『我々は松島に住んでいる者で、たまたま魚を取りに来ているだけで、今帰ろうとしているところだ』と答えた。そこで安龍福は『松島というのは于山島であり、そこも我が国のものだ、お前たちはどうしてそこに住んでいるのか』と詰問した。翌朝になって船に于山島に行ってみると、倭人たちは大釜を並べて魚を煮ているところであった。安龍福は釜をたたいて堹き破り、大声で叱ったので倭人たちは釜を片附けて船に乗せ、帆をあげて去っていった。そこで安龍福らは船に乗って追いかけ、風にあって玉峡島に漂着した。隠岐島主がやって来て、何の目的で来島したのかと問うたので、『先年ここに来た時、鬱陵、于山両島は朝鮮の領土であると書いた関白の書契がある。しかしそのことは徹底しておらず、今また越境侵犯したのはどうしたことか、伯耆州に伝えてほしい』といった」[15]。

川上健三氏は、この粛宗実録に基づく韓国側の主張にはいくつかのつじつまの合わない点があると指摘している。

1696年に、安龍福が鬱陵島に漁業に励む日本人を発見したことに関して、川上氏は、すでに当時の日本では鬱陵島への渡海禁止令が発せられていたため、日本人が鬱陵島に出向いたとは考えにくく、日本側の文献・記録にも1696年に日本人が鬱陵島に漁業に向かったとの記録は残されていないとしている[16]。しかしながら、この点は、『史的検証 竹島・独島』の著者金柄烈氏が主張するように「幕府の奉書は確かに一月二八日付のものだったが、禁止令が鳥取藩に伝達され、大谷・村川両人が請書を提出したのは八月一日であった」とタイムラグが生まれているため、鬱陵島への渡海禁止となったことを知らない日本人が鬱陵島に漁業に出かけた可能性がないわけではない[17]。さらに、密航して日本人が鬱陵島に来島し、漁業に従事していた可能性も否定できない。

とはいえ、安龍福の証言に、鬱陵島に松島から来た倭人がおり、大釜を並べ、魚を食べていたとあるが、これは事実ではなかろう。なぜなら、竹島/独島で淡水や食料を得ることは難しく、集落を構え生活することはもとよりできないからである。安龍福が供述する「松島」(=現在の竹島/独島)に日本人が居住していたとの主張は、竹島/独島の環境を考えれば、根拠がない。しかしながら韓国側は、安龍福の主張を正しいものとして受け入れ、独島博物館には、安龍福が竹島/独島で倭人を追い出す様子といった、安龍福自身の主張からもかけ離れた過度な演出がなされたジオラマが展示されている(写真2)。

(【写真2】独島博物館では、安龍福が竹島/独島で倭人を追い出す様子といった、安龍福自身の主張からもかけ離れた過度な演出がジオラマにより行われている)

もっとも、この種の言説に関しては、事実が存在するにせよしないにせよ、竹島/独島が自国領であると主張する根本的な論拠となるわけではない。一番の根本的な領土主張の焦点は、竹島/独島の領有権をめぐるやり取りが、鬱陵島についての「竹島一件」のように、国家間の外交レベルで取り決められたかどうかである。

安龍福は、2度目の日本来訪で、竹島/独島が朝鮮の領土であることを確認させようと、「朝鬱両島監税将臣安同知騎」と朝鮮の役人の船の様に振舞い、隠岐を訪れている。安龍福は一漁民に過ぎないが、身分を詐称してまで、このような行動に出たのである。しかしながら、江戸幕府は、日朝関係の外交交渉のすべてを対馬藩を介して行うこととしており(コラム「対馬の歴史」も参照のこと)、朝鮮の役人の船が対馬を介さずに、対馬以外の日本の地に直接訪れることはあり得ない。また、対馬以外の日本側が、朝鮮の役人との外交交渉を行ったとすれば、それは幕府の鎖国令に違反する重罪となる。つまり、安龍福の行動は、身分詐称ならびに朝鮮ならびに日本の鎖国政策の状況を考えると、ありえない犯罪行為になるのである。

安龍福は来日し、隠岐島司に対して、鬱陵島と竹島/独島を朝鮮領とする江戸幕府の書契があるのに日本人が渡海していることに関して抗議をしたとある。だが、日本側の文献・記録には安龍福がそのような抗議を行ったとするものは残されていない[18]。隠岐島司が、何の利益も無いのに、外国人と交渉して鎖国令を破る行為に及んだとは、考え難い。そもそも安龍福は将軍でも何でもなかったのだから、日本側は安龍福との交渉にまともに応じなかったであろう。

また、百歩譲って安龍福と隠岐とが仮に話し合いの場を持っていたとしても、言語の違いがあるので、意味のある交渉が成立したのかどうかは疑わしい。幕府の方針で、朝鮮との交渉を独占して行うこととなった対馬藩は、朝鮮語や漢文に堪能な人材を積極的に集めていた。朝鮮との交流を幕府から任じられていない当時の隠岐に、朝鮮語を扱える者がいるとは思われない。もっとも、安龍福は釜山の出身で、そこには対馬藩の外交使節である「倭館」があったから、安龍福は日本語がある程度できたと考える余地はある。とはいえ、上述したように安龍福は一漁民にすぎないため、高い教養と習練を必要とする、当時の外交文書の共通語であった漢文を扱えたはずがなく、書契の読解は不可能だったであろう。また、その書契による交渉が対馬藩と朝鮮との間でまとまったのは、安龍福が2度目に日本に来たのと同じ年であり、漢文が読めない一漁民に、そのような2国間の取り決めがただちに伝わるはずもない。

ゆえに安龍福が1696年に再度日本に足を踏み入れた際に、鬱陵島ならびに竹島/独島について,書契を引き合いに出して領有権を日本側に公式に主張したとは、とうてい考えられない。

以上から考えて、安龍福は、1度目の日本への渡航で捕虜とされた反発から、竹島/独島の領土主張をするために、隠岐に乗り出したかもしれないとしても、あくまで一漁民に過ぎず、朝鮮の公式の役人ではないし、隠岐や伯耆は、日本の対朝鮮外交を担う資格がなかったのだから、こうした場で、島の領有をめぐる公式の話し合いができたはずがない。ゆえに、安龍福の行動をもって、日韓の国家間の領土主権のレベルの問題に関し、そこで何らかの取り決めがなされたと推断することはできないのである。

竹島/独島の領有権を唱える韓国にとって、安龍福を英雄視してみたいのは分かる。しかし、一漁民に過ぎない安龍福の忠魂碑を「将軍」と階級を偽ってまで鬱陵島に建て、対馬藩が当時の日朝間の外交に任じていたという歴史をも隠蔽することによって、かえって、竹島/独島の韓国領有がこの時期に確定したとする主張の信頼性を、韓国自らが大きく損なうこととなった。

(【写真3】鬱陵島内の薬水公園にある、安龍福“将軍”の忠魂碑)


第2章: 「無主地の先占」
―近代国際法による竹島/独島の領土編入

従来どの国の領土でもなかった地域をある国に編入する手続きは、国際法の「無主地の先占」による。

無主地の先占の要件は、「(1)先占の主体が国家であること、?対象地が無主地であること、(2)実効的な占有を伴うこと、(3)国家に領有意思があること」とされている[19]。日韓両国とも、欧米の国際法が北東アジアでも外交の基準となったのち、「無主地の先占」の手続きで、竹島/独島を自国に編入したと主張している。そこで、この無主地の先占を、いずれの国が最も早く行ったかが、領有権問題の焦点となる。


a) 日本政府による
島根県への編入に関する経緯

明治初期、欧米から伝えられた地図により日本国内でも竹島と考えられた島が松島の名称であっため開発の権利をめぐる混乱が起こったが、1880年の軍艦「天城」での調査で、「松島」が鬱陵島と判明し問題は解決した[20]。

竹島/独島で本格的に日本人による資源活用が行われたのは、1903年以降の中井養三郎や石橋松太郎らのアシカ猟が始まりとされ、1904年には、他の漁業従事者も増え、アシカの捕獲頭数も2700頭に達していた[21]。竹島/独島におけるこのような経済活動は、国際法における無主地の先占要件?を満たすものである。とはいえ、このままアシカの乱獲が行われれば、個体数が激減する。中井氏は、この地での独占的経営を目論んだのであろうか、1904年9月29日付で内務・外務・農商務大臣に対し、「リヤンコ島領土編入ならびに貸下願」を提出した[22]。また、そのために、「日本の農商務省にそれを交渉してくれるように活動を行った。」[23]。

ところが中井氏は、韓国政府にも、この島の貸下げを受ける交渉を行おうとしたらしい。要するに、中井氏は、「リヤンコ島」と、フランス人がつけた島の名称Liancourtが訛った名称を用いているところからしても、竹島/独島がどちらの国の領土かよくわからなかったのであろう。

中井氏はまず、1904年の漁期が終わるや東京へ行って農商務省水産局長 牧朴真と交渉した。中井氏は、牧朴真や水路部長 肝付兼行、外務省政務局長 山座円次郎ら官僚に説得されて「『リヤンコ島領土編入並ニ貸下願』を政府に提出した」 [24]。もし中井氏が、竹島/独島が韓国領であると自信をもって認識していたのであれば、「リヤンコ島領土編入ならびに貸下願」を提出した1904年時には、韓国の外交権は韓国自身にあったのだから、韓国政府に直接「貸下願」を提出すればよかったはずである。日本の役所に出したのは、日本領ないし日本領になるべき島との認識があったからであろう。百歩譲って、中井の竹島/独島の領有についての認識が韓国領であったとしても、安龍福の一件と同じように、個人の認識を、領土編入問題という国家の問題に反映させることはできない。

とはいえ、竹島/独島の編入の契機を単なるアシカ漁に求める川上氏らの説は、当時の北東アジア情勢を考えればナイーブすぎる。19世紀末、ロシアは、朝鮮半島へのフロンティア拡張を目論み、朝鮮の王室を覇権下に収めるとともに、日本海では、韓国政府から鬱陵島での伐木権を取得して、鬱陵島の支配に乗り出していた。また、日本としては、日露戦争で起こりうる日本海海戦を控え、日本海の支配力を高めておく必要があった。これらの状況からすれば、日露戦争開戦後の1905年1月、日本海海戦の直前に竹島/独島を島根県に編入したのは、予想される戦闘に備えてロシアを封じ込め、日本海に日本の覇権を確立する戦略上、必要不可欠であったといえるであろう。

こうして日本政府は、1905年1月28日の「明治三十八年一月二十八日閣議決定」で、「…北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク…今回領土編入並ニ貸下ヲ出願セシ所此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ該島ヲ竹島ト名ケ自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントスト謂フニ在リ 依テ審査スルニ明治三十六年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレハ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属トシ島根県所属隠岐島司ノ所管ト無シ差支無之儀ト思考ス 依テ請議ノ通閣議決定相成可然ト認ム」(明治三十八年一月二十八日閣議決定)[25]とし、国際法上の無主地の先占の手続きに従って、「他国ニ於テ占領シタリト認ムヘキ形跡ナ」い無人島を「竹島」と名付けて日本国土に編入し、島根県の所管としたのであった。

また、これを受け、同年2月22日には「北緯三十七度九分三十秒東経百三十一度五十五分隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト称シ自今本県所属隠岐島司ノ所管ト定メラル」という島根県告示が出された(図5)。そして、日本海海戦直後に、竹島/独島には軍事目的の望楼が建設されている。[26]

(【図5】1905年2月22日に出された島根県告示 出典URL: http://blogs.yahoo.co.jp/atcmdk/53212372.html

このように、「無主地の先占」の原理により竹島/独島を日本領に編入した契機の一つに、日本の帝国主義のフロンティア拡張が含まれていることは疑いない。

とはいえ、このことと、「無主地の先占」の国際法上の手続きの正統性とは、別個の次元の問題である。


b) 韓国側の編入に関する主張

空島政策で、鬱陵島への渡海が禁止されているあいだ、それよりも東にある竹島/独島に朝鮮の人々が訪れていたとは考えにくい。 しかしながら、1882年に空島政策が解除されてほどなく、朝鮮側では、1900年に「大韓帝国勅令第41号」にて、「石島」なる島を朝鮮に編入している。韓国は、この島こそが竹島/独島であると主張し、韓国は日本よりも先に「無主地の先占」をしたのだから、日本の竹島/独島編入は無効であると主張している。

(【図6】「石島」の記述がある「大韓帝国勅令第41号」 出典: 独島博物館パンフレット, p.33)

しかしながら、この「石島」なる島がどこにあるのか、日本の閣議決定と異なって経度・緯度を用いた位置情報は無いし、石島自身の地理的情報もいっさい記述されていない。そして、「石島」という地名は、これより前にも後にも、朝鮮でも使われたことがなかった。唐突に「石島」なる島が文献に登場しているのであり、この「石島」を竹島/独島に直ちに比定することはできない。

この点に関して、朝鮮語の『皇城新聞』1906年7月13日の記事に、「石島」を含む鬱陵島の及ぶ範囲について言及されている記事がある。これを参照すると、「石島」は、明らかに竹島/独島と異なるものであることがわかる。『皇城新聞』は、「該郡所管島は竹島[引用者注、これは「独島」ではなく、いまも存在する鬱陵島の属島をさす]と石島で、東西が60里、南北に40里」と述べている(左、【図7】『皇城新聞』1906年7月13日、「石島」についての言及は赤線部分)。朝鮮の1里は、1里=392.727mと、日本の一里の10分の1以下であり、メートル法に換算すると、竹島と石島を含む「所管島」の範囲は、東西23.6km×南北15.7kmとなって、鬱陵島の範囲にほぼ入り込む(Conversion Centerを使用して換算)。鬱陵島から90km近く離れた竹島/独島は、「所管島」の範囲に含まれるはずがないのである。

さらに韓国側には、「石島」を現在は「独島」と呼んでいることが、同島を認識していた証拠であるとの主張がある。「朝鮮の慶尚道の方言によれば、Dokは石又は岩の島を意味する。『離島』を意味する現在のDokdoの発音は、たまたま(石又は岩の島という)Dokdoの発音と符合するのである。かくして同島は非常に適切且つ抽象的に朝鮮人によってDokdoと呼ばれるに至った。何故ならば、Dokdoは真に岩石の多い島だからである」[27]とある。しかし、公文書を方言で書くことは、通常あり得ない。大阪府の公文書を関西弁で書くわけでないことを考えれば分かる。そもそも、ハングル文字では「石」は「?」、「独」は「?」であり、文字自体が異なる。ゆえに「石」が転じて「独」となったとは考えられない。

しかも、崔南善氏は『鬱陵島と独島』で「独島」の名称に関して次のように「近世附近住民の間に島の形が「トク」(甕)に似ているというて普通「トクソム」と呼んでいるのである。近来の「独島」なる文字は「トク」の音を取っただけで、「独」の字義に何らの関係を有しないのである」[28]と述べている。韓国人が唱えるこの主張のとおりだとすれば、発音が「石」と似ているかどうかは、そもそも問題にならない。主張に一貫性がなく、その時その時で、都合の良い理由付けを場当たり的に持ちだしてきている。

また、「石島」の名が突如として勅令に登場する以前に、朝鮮の漁民が、竹島/独島を占有して継続的に経済活動を営んでいた実績はなく、1900年の時点において、無主地の先占における?の要件を、朝鮮は満たしていなかった。

以上、竹島/独島の「無主地の先占」についての韓国側の見解は、説得性を欠くと言わざるを得ず、「大韓帝国勅令第41号」によって韓国が、国際法上の正統性を持って竹島/独島の「無主地の先占」をなしたとは主張しがたい。


第3章: アメリカの管理下に置かれた
戦後の境界線

日本本土は、第2次世界大戦に敗戦後、アメリカを中心とする連合国の占領・管理下におかれた。領土、航行可能水域や行政権の及ぶ範囲についても、日本独自では決定できなくなった。この点は、かつて日本植民地であったが、日本敗戦後アメリカの軍政下におかれた朝鮮半島の北緯38度線以南についても同じである。つまり、日本占領期に、日本と韓国との境界を実質的に決めたのは、アメリカである。


a) アメリカの日本への対応
―「形式的には」日本領

1946年に、総司令部より「若干の外かく地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」(連合国総司令部覚書(SCAPIN)第677号)が発せられ、日本の政治・行政が及ぶ範囲が明確に限定されるところとなった。

(【図8】SCAPIN677で示された、日本の行政権が及ぶ範囲を表した地図 出典: 独島博物館パンフレット, p.37)

そのなかで、竹島/独島は、「この指令において、日本とは、日本四大島…。また、次の諸島を含まない。(a)鬱陵島、竹島、済州島…」(同覚書第三項)と明記され、竹島は、アメリカによって、明示的に、日本の行政権が及ぶ区域外とされた。実際に、GHQが出したSCAPIN677の区域を表す地図には、「TAKE」と記された竹島/独島が、韓国の施政権内に描かれている(図8)。

1946年6月22日には、「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する覚書」(SCAPIN第1033号)が発せられ、「マッカーサーライン」と呼ばれる境界が引かれた。これにより、日本国民および日本の漁船は、竹島から12マイル以内の範囲に立ち入り、あるいは島と接触することが禁じられた(SCAPIN1033号(b))。

日本側は、SCAPIN677ならびに1033は日本領土に対する規定ではなく、行政上の臨時的な処理であるとみなしている。たしかに、SCAPIN677は「この指令中の条項はいずれもポツダム宣言の第八項にある諸小島の最終決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」、同1033の第5項は「この許可が当該区域またはそのほかいかなる区域に関しても、国家管轄権、国境線または漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない」と述べており、少なくとも形式的には、このSCAPINが直接領土分割を規定したわけではないことになっている。それゆえ、SCAPINの条項を根拠に、竹島/独島が韓国領であることの正統性を国際法上主張することはできない。

日本は、竹島/独島の領土問題における今日有効な国際法上の根拠は、第?章で述べた「無主地の先占」であり、1905年に「無主地の先占」により編入した国際法的措置がいぜん有効であるとしている[29]。

1950年に、連合国総司令部は、SCAPIN第2160号をもって、竹島/独島を米軍の海上爆撃訓練区域に指定した(図9)。ただし、これも、領土主権の正統性を直接に支持するわけではない。

 

(【図9】日本外務省ホームページ資料―米軍訓練場への指定(官報)

これらの訓令や指定などと異なり、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和条約は、戦後の日本の領土を規定する、今日まで国際法上の有効性を持つ条約である。この条約は、朝鮮に関連して、日本が放棄すべき地域として日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する」と規定している(サンフランシスコ平和条約全文)。この規定では、日本が放棄することになる「朝鮮」に竹島が含まれていない。竹島は、他の済州島、巨文島、鬱陵島と比べ東に位置し、日本に近い島であるから、もし放棄の対象となるならば、条約中に必ず明記されなければならない島である[30]。

この条約の調印の前に、ラスク国務省極東担当次官補は、梁裕燦駐米韓国大使にたいして「独島、他の名で竹島もしくはリアンクル岩礁とよばれるものに関連したわが方の情報によると、普段は人が住まないこの岩の塊は韓国の一部として扱われたことが無く、一九〇五年以降、日本の島根県隠岐島司の管轄下に置かれていた。韓国はかつてこの島に対して権利を主張していなかった。…」との書簡を送っており、韓国の領土主権の申し立てを認められないとしていた。[31]

それゆえ、平和条約が締結されたのち、竹島/独島は島根県隠岐島に復帰したとされるが、米軍から日米安全保障条約のために設立された日米合同委員会に対して、竹島の爆撃訓練地としての引き続きの使用要請があったため、竹島/独島は米軍爆撃演習場のままにおかれた。しかし、1952年に、島根県知事は外務・農林両大臣に対して、漁業として使用したいとの要請を行い、米空軍も爆撃訓練での使用を中止していたので、1953年の合同委員会において、竹島の米軍爆撃演習場区域の削除が決まっている[32]。


b) アメリカの韓国への対応
: 「実質的には」韓国領

これにたいし韓国側では、SCAPINの条項を、韓国が竹島/独島領有を正当化する根拠として援用している。「連合軍最高司令部は日本占領期間中、終始他の特定の命令を下さずに連合軍最高司令部訓令(SCAPIN )第677号を適用し、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)締結後、日本政府も当時独島が日本の管轄区域から除外された事実を認識した。SCAPIN第677号は独島を鬱陵島とともに日本の統治対象から除外される地域として規定した。」[33]

SCAPINのこの取り決めが、国境を最終的に決定するものでなかったとはいえ、この連合軍の取り決めによって、竹島/独島がいったん日本の統治領域から外され、韓国の施政権下に入れられたことは事実である。いったんこのようにして他国の統治下に入るとされた土地を、もとの主権国が実質的に回収することは、相手のあることであるから困難をきわめる。

また、韓国は、韓国の竹島/独島に対する領有権は、連合国による戦後処理の一環であり、カイロ宣言・ポツダム宣言に繋がる形で行われたものであって、歴史的に竹島/独島は韓国の領土であるところ、竹島も鬱陵島や済州島、巨文島と同様に日本に収奪され韓国に返還されるべき島である、と次のように主張している: 「連合軍が第2次世界大戦後、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されるまで独島を日本から分離、取り扱ったことはカイロ宣言(1943年)及びポツダム宣言(1945年)などにより確立された連合軍の戦後の処理政策を実現したものである。」[34]

アメリカを中心とする連合国は、サンフランシスコ平和条約が起草する過程にある一時期、竹島/独島を日本から切り離し、韓国領とする意図を抱いていたことは疑いない。米国の条約草案第1次から第5次まで「竹島は日本が放棄するもの」としていた。だが、第6次では連合軍最高司令部の政治顧問であったウィリアム・シーボルトの口添えにより、竹島/独島が日本領の可能性があるとされ、第7次草案以降では、竹島/独島の名称そのものが条文から削除された。また、英国草案の日本領土設定では、竹島/独島が日本の領域外(すなわち朝鮮領とする)に設定されていた。しかし、アメリカは、日本への配慮で竹島/独島の領有をあいまいな形にした[35]。そして、最終決定されたサンフランシスコ条約の条文に、竹島/独島の固有名詞が明記されることは無かったのである。

以上から、アメリカは、竹島/独島を、形式的にはともかく、事実上は韓国が実効支配下に収めても差し支えないという暗黙のシグナルを韓国側に送りつつ、冷戦が深刻化してきたことに鑑み、日本をアメリカの同盟国につけ、日本からの反発を避けるため、あえてそれを条約上に明記しない措置をとったと推断することができる。

似たような状態におかれた地域として、未だ平和条約が締結されないままロシアが実効支配している南樺太と千島列島がある。これらの地域は、日本が放棄することとされているが、どの国が領有するかは、条約に書かれていない。しかし、実際はソ連・ロシアが実効支配下においている。ドイツのオーデル川・ナイセ川以東の旧領土も、同じ形で、明示的な条約なくドイツの実効支配を離れ、ポーランドならびにソ連の実効支配下に置かれた。すなわち、敗戦国からの領土の実質的な割譲は、必ずしも明示的な条約の条文を伴うわけではない。

サンフランシスコ条約調印の翌年、1952年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」いわゆる「李承晩ライン」を設定した(図10)。この李承晩ラインで取り込まれた広大な水域は竹島をも含み、韓国は漁業管轄権を一方的に主張した[36]。

(【図10】赤線で示したのが李承晩ライン、赤丸で囲んだのが竹島/独島 出典: ロー著, pp.10,11)

アメリカは、朝鮮半島の38度線以南をアメリカの覇権下で独立させるにあたって、「アメリカをよく理解する韓国人の登用」との基本方針を打ち出し、アメリカ大統領にロビー活動をして評判のあった李承晩をポストに据えた[37]。ゆえに、独立直後の韓国の政権は、アメリカの意向を強く受けた傀儡政権で、李承晩は、アメリカに操られて韓国のトップに座らされているにすぎなかった。それゆえ、李承晩大統領が設定し、日本との間に多大の軋轢を生んだ「李承晩ライン」は、アメリカの意向と支持抜きでは存在し得なかったものである。

事実、竹島/独島における米空軍の射撃練習場としての使用の取り決めに関し、米空軍が竹島/独島を射撃練習場から除外したことを、アメリカは、1953年2月27日付で、韓国政府にも公式に通告している[38]。

戦後の冷戦体制の中で、朝鮮半島においては、南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国の対立は深刻化していった。アメリカとして、韓国の政治・経済的安定は必要不可欠であったが、朝鮮半島において当時の韓国の経済基盤は北朝鮮と比べると脆弱で、農漁業が主要産業であり、いつ崩壊するかわからない状態であった。そのためアメリカは、韓国の領土と漁業水域を増やすことで韓国自身の経済力を少しでも付けさせようと考えに及んだと推断される。そうだとすれば、竹島/独島の韓国による実効支配は、朝鮮半島が二大覇権国家によって分断され、それぞれが別の独立国として歩み始めたことと密接な関係を有していることになる。


c) アメリカの北東アジアへの覇権をささえる
二枚舌外交と日韓分割統治

以上述べてきたように、アメリカは、竹島/独島の領有問題に関して、日本、韓国の両国に対し、それぞれ耳触りのよい姿勢をとってきた。これを要約すれば、形式的には日本領、しかし実質的には韓国領というのが、戦後日韓両国の上に覇権国家として君臨するようになったアメリカの方針である。

言い換えれば、アメリカが実際に、竹島/独島を領有すべきと考えている国は、韓国である。しかし、それを公言すれば、当然日本に反米感情が高まる。これは、日本を従属的な同盟国にとめおこうとするアメリカにとって、たいへん具合が悪い。そこで、あくまで形式的に、日本の領有を支持するとアメリカは口先で言い続け、書類上の制度もそれを許容するように作ってきた。これは、本音で竹島/独島の実質的領有を韓国に認めつつ、日本の国民感情に配慮して建前は別に示す、アメリカの二枚舌外交である。

韓国も、また戦後の日本も、ともに、政権は親米であり、両国ともアメリカの覇権下におかれている。しかし、アメリカにとっては、自国が唯一の覇権国としての地位を非共産主義の北東アジアに確立すればことたりるのであって、親米政権同士が過度に結びつく必要性はない。親米政権同士が一緒になってアメリカに不満を抱き、共謀しアメリカに抵抗するという状況になっては困る。そこで、ある程度、日韓間の緊張状態を保持したままとし、二国間が過度に結びつくことを牽制し、アメリカに従順に従わせようと考えていても不思議ではない。これは、老獪なイギリス植民地主義がインドなどでとった古典的な「分割統治」と呼ばれる植民地支配の手法と同じである。イギリスは、植民地インドの民族、宗教などで人々を分割することで、国内にたえず緊張状態を作り、インドの長期的な支配を確立していた。戦後、北東アジアにいまだEUのようなアメリカ抜きの地域共同体ができないことと、竹島/独島問題とには、実は通底する関係がある。

そもそも建前からいえば、アメリカは安全保障条約を日本と締結し、日本の防衛の責務を負っているのであるから、韓国が李承晩ラインを設定し、竹島/独島の実効支配の動きを強めた初期の段階で、アメリカは実力を使ってでも韓国の侵攻を食い止めなければならなかったはずである。しかしながら、アメリカは、韓国による竹島/独島の実効支配をただ座して見ていただけであった。

こうしてアメリカが、竹島問題を棚上げとし、暗黙のうちに竹島/独島の領有の実態を韓国に承認した結果、韓国は、竹島/独島に中規模の埠頭や基地を築き、海上警備隊を常駐させることで実効支配を支障なく強化できている。さらに最近は、ナショナリズムに訴えるアトラクションとして竹島/独島を扱い、大量の韓国人観光客を招き入れて、国民レベルでも竹島/独島の領土意識の浸透を通じ、愛国心の強化に乗り出すことに成功している。

(【写真4】竹島/独島の観光船。ハングルで「独島←→鬱陵←→墨湖」と書かれている。)

竹島問題は常に、日韓友好に、解決しがたい障害として横たわってきた。このことを考えるとき、我々は、太平洋の向こうのアメリカが、同じアジアの国である日本と韓国をアメリカ陣営に従属させておきながら、竹島/独島を利用して2国間で過度に結びつかせないようにし、適度な緊張感をもたらす問題を半永久的に残すことで、日韓の分割統治を行っていることを洞察しなければならない。竹島/独島の領有権をめぐって終わることなき論争を延々と繰り広げている日韓両国の人々は、実は、アメリカという「釈迦」の手のひらで暴れまわっている孫悟空に過ぎないのである。



(内田大介・水岡不二雄)


[1]川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1996, p.51

[2]同, p.10

[3]同上

[4]同, p.11

[5]大熊良一著『竹島史稿』原書房, 1968, p.31

[6]川上著, p.12

[7]同上

[8]大熊著, pp.79,81,86

[9]内藤正中著『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版, 2000, p.28

[10]川上著, p.97

[11]『三国史記』金富軾, 井上秀雄訳注, p.98

[12]川上著 p.156

[13]同, pp.146,147

[14]大熊著, pp.104-106

[15]内藤正中,金柄烈著『史的検証竹島・独島』岩波書店, 2007, p.48

[16]川上著, p.167

[17]内藤, 金著, p.151

[18]大熊著, p.123

[19]杉原高嶺著『国際法学講義』有斐閣, 2008, p.280

[20]川上著, p.46

[21]大熊著, p.244 ; 川上著, p.208

[22]川上著, pp.209-211

[23]玄大松著『領土ナショナリズムの誕生』ミネルヴァ書房, 2006, p.45

[24]宋炳基著『鬱陵島・独島(竹島)歴史研究』朴炳渉訳, 新幹社, 2009, pp.233,234

[25]http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a11rui981-1905/

[26]玄著, pp.231-235

[27]一九五三年九月九日付 大韓民国駐日代表部口上書 ; 川上著, p.182

[28]川上著, p.182

[29]玄著, p.51 ; 日本外務省ホームページ

[30]川上著, p.252

[31]ロー・ダニエル著『竹島密約』草思社, 2008, pp.29-31

[32]川上著, pp.252-254

[33]大韓民国政府の公式ウェブサイト

[34]同上

[35]内藤, 金著, pp.106-108 ; ロー著, pp.24-27

[36]ロー著, pp.10,11

[37]木村幹著『韓国における「権威主義的」体制の成立』ミネルヴァ書房, 2003, p.105

[38]玄著, p.52

 
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