対馬は、日本全体から見れば縁辺であるが、朝鮮半島に近く、東シナ海・黄海に向けた、 日本海の南の出口を扼する地理的位置にある。このことは、歴史の中で、対馬に、 独特の地政学的な意義を与えることとなった。
第一に、朝鮮半島に近いことから、対馬は、古から朝鮮と日本両者のフロンティアが交錯する場となり、 古墳時代には日本の領域に取り込まれつつ、朝鮮との交易・文化交流を架橋する場として機能した。 鎖国政策をとっていた江戸時代になると、対馬藩は朝鮮との外交、貿易を任され、 日本の中央政府の機能の分掌を委ねられた。
第二に、日本海から東シナ海へ抜けるには対馬近海を通らなければならないため、 対馬は幕末以降、イギリスやロシアの注目を集めた。
このため、対馬の歴史には、日本の他の地域には見られない特異性がある。 今回の巡検では、このような歴史に深く関わっている場所を重点的に視察した。 このコラムでは、これらの点を踏まえ、対馬の歴史について簡単に説明していこう。
古代において対馬は、朝鮮と日本両方のフロンティアが重合する場所であった。 そして、朝鮮半島から大陸の文化を日本へ伝える場合の中継点でもあった。
対馬市上県町にある紀元前6800年ごろの遺跡、越高遺跡からは、 朝鮮半島でよく見られる隆起文土器と、九州産の黒曜石で作られた鏃や銛がともに出土している (対馬観光物産協会 歴史年表 縄文時代〜室町時代)。 また、私たちが3日目に視察した2世紀後期の遺跡である、塔の首遺跡からは、 北九州産の広型銅矛や、中国産の青銅器が出土している。
4世紀頃になると、旧美津島町の出居塚古墳に見られるように、 大和地方から伝わったと見られる前方後円墳も見られるようになり、 この頃までに大和朝廷の領域に対馬が取り込まれていたことがわかる (対馬観光物産協会 歴史年表 縄文時代〜室町時代)。
朝鮮半島との架橋の機能に関しては、朝鮮半島の南部にあった狗邪韓国から対馬、 壱岐を経て松浦へと到達した旨が『魏志』(倭人伝)に書かれている。 文献としては、朝鮮との交流が書かれているのは3世紀頃のこの文献が初めてである。 (永留久恵 『古代史の鍵・対馬』 大和書房 1985 p6)
663年には白村江の戦いがおこる。日本は朝鮮半島にフロンティアを広げようとし、 倭・百済連合軍として唐・新羅と戦ったが、大敗する。 そして、唐・新羅の追撃に備えて、667年には百済の技術を使った朝鮮式山城である金田城が築城された。 そこには、日本の領域の最前線として防人が配置された。 このことは、朝鮮海峡が日本と朝鮮との間の国境として有界化されることをも意味した。
対馬内部の日本人の権力構造についてみると、古代において権力を握っていたのは阿比留氏である。 阿比留氏がどこから来て、いつ頃から台頭してきたのかについては諸説あるが、 阿比留氏の系譜によると、阿比留氏は、上総国畔蒜郡の出身で、813年に対馬に来たとされている。 当時対馬では、毎年春になると佐須浦を襲撃してくる賊がおり、 上総国に配流されていた比伊の別当国津がその討伐を朝廷によって命じられ、 その一族は見事成功し、そのまま対馬在庁の官人となった。 これが阿比留氏の始まりということになっている。 しかし、この一連の出来事を記した史料は、他には存在せず、客観的裏付けに乏しい (永留久恵 『古代史の鍵・対馬』 大和書房 1985 pp252〜254)。 豆酘の観音堂(多久頭魂神社)の梵鐘の銘文が阿比留氏について確認できる最も古い史料である。 この梵鐘は、1008年に鋳造されたものなので、11世紀初め頃には既に権力者として存在していたことがわかる。
後に対馬を治めることになる宗氏は、もともと惟宗という姓であった。 惟宗氏は大宰府の役人であり、島津氏の祖先ともなるような九州の名族であった。 1195年の八幡宮文書では、対馬在庁官人の中に阿比留氏、藤原氏に混じって惟宗の名前を確認することができる。
権力が阿比留氏から惟宗氏へと移ることになったできごととして、「寛元4年の変」が伝承されている。 当時、阿比留氏は現在の旧美津島町を中心として勢力を誇っていたが、 大宰府の命令に背くことが多かった。そこで、大宰府は惟宗重尚を対馬へと遣わして、 1247年、阿比留氏を討伐することに成功する (永留久恵 『古代史の鍵・対馬』 大和書房 1985 pp256〜259)。
こうして、対馬は九州の一部に包摂され、宗氏の権力のもとで、以後、鎌倉時代、室町時代を経て、 江戸時代には対馬藩主として、廃藩置県に至るまで対馬を支配していくことになる。
対馬が日本の領域の最前線となったところから、1274年の文永の役、1281年の弘安の役では、 いずれも対馬は真っ先に元・高麗軍の攻撃を受け、多大な被害を受けた。 特に、文永の役では宗資国が戦死している。
しかし対馬は、日本の領域の朝鮮半島に向けた最先端にあったから、 朝鮮半島に対する出撃基地のようにも機能した。 1350年には、倭寇が朝鮮半島などを襲撃するようになり、倭寇対策が高麗の重要な課題となった。 1366年には、高麗国王から倭寇対策の要請があり、対馬は家臣を高麗へ派遣した。
だが、倭寇対策に力を入れていた7代貞茂の死後、倭寇の活動がふたたび活発化し、 1419年応永の外寇が起こる。これに対抗して、李氏朝鮮1万7000の兵が対馬を襲撃した。 これによって対馬・朝鮮双方が100名を超える死者を出すことになった (対馬観光物産協会 歴史年表 縄文時代〜室町時代 および 佐伯弘次 『対馬と海峡の中世史』 2008 山川出版社 pp6〜7)。 朝鮮の側から対馬にフロンティアを拡張しようとする動きも、このように時折起こった。
しかし、このような武力による対抗関係のなかから、日本と朝鮮は、問題の平和的な解決を図ろうとする意識が芽生えてくる。 つまり、朝鮮海峡に国境があることを認めあい、宗氏と連携して、 倭寇以外の目的で日本から朝鮮へと渡航する者に特権を与えるなどして、 日本と朝鮮との交流を制度化しようとしたのである。
具体的には、1.日本人の来航場所を薺浦と釜山浦そして塩浦の三ヶ所に限定し、 それぞれに「倭館」という対馬の出先役所(在外公館)を設けること、 2.朝鮮に貢献した者に対して、貿易権を認めた証である「図書」(朝鮮側が発行するビザ)を朝鮮側が授けること、 3.対馬側は、朝鮮へ渡る船に対馬島主が交付する「文引」(日本側が発行するパスポート)の携帯を義務付けることである。 そして1443年には、対馬、李氏朝鮮間で嘉吉条約が結ばれ、それによって歳遣船の定数を決め、 対馬島主にはそれを派遣する権利が与えられた (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp12〜14)。
この一連の流れによって、一時中断していた時期はあるものの、以後江戸時代末期まで、宗氏が媒介として貿易や外交など、 二国間のあらゆる交流を取り仕切る制度が出来上がった。
1579年に宗義智が第19代対馬島主となる。この頃は安土桃山時代であり、 豊臣秀吉の天下統一が間近に迫っていた。日本全土に権力を確立したあと、 秀吉は、朝鮮半島に日本のフロンティアを拡張すべく、義智に朝鮮への出兵を命じた。 対馬と朝鮮との関係を慮った宗義智が出兵を中止するようにと秀吉を説得すると、 朝鮮国王を秀吉の下へと参洛させる命令に変更となるが、これは朝鮮にとって、 中国の覇権を否定し日本の覇権を受け入れる意味を持つから、朝鮮側に拒否された。
朝鮮との比較的良好な関係を維持したいが、秀吉の命令にも背けないというジレンマを抱えた対馬は、 この問題をなんとか解決しようとし、義智自ら朝鮮へと渡り説得を試みるも大きな成果を得られなかった。
とうとう1592年に文禄の役がおこり、日本軍が朝鮮半島に侵攻した。 秀吉の軍は、朝鮮半島の地理も朝鮮語も知らなかったから、 対馬には通訳や道案内の任務が課せられた。 文禄の役で義智は第一陣として兵2,000とともに先陣を切り、 部下にかなりの戦死者を出しつつソウルの先まで進軍したが、そこに現れた明の大軍と対峙し、 あえなく敗北した。朝鮮は中国の覇権下にあり、朝鮮への侵略は、 中国の覇権領域に対する挑戦とみなされて、明の軍が待ち構えていたのである。
そこで秀吉は、明との直接対決を避けることとし、1597年の慶長の役では、 半島南部のみに侵攻の対象を限定し、兵1000とともにふたたび朝鮮半島を攻撃した。 その年に秀吉が義智へ巨済島を授けたという記録も残されている。 しかし翌年、秀吉の死によって日本は朝鮮半島から撤退することになる。
とはいえ、これによって朝鮮との関係は決定的に悪化し、貿易は途絶え、その上に、 戦争への物資の供給などが課せられたので、対馬経済はひどく疲弊させられた (対馬ポータルサイト 対馬の歴史/近世 および 鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp20〜27)。
日本国内で、秀吉から権力を奪って江戸幕府を確立した家康は、内向きに権力を固める戦略を取り、 日朝間の国境を承認して平和な外交・交易関係を修復しようとして、義智に朝鮮との関係回復を命じた。
対馬経済の要である朝鮮貿易を再開させたい義智は、和解を目指して朝鮮に優秀な藩士を派遣したが、 秀吉の侵攻に怒る朝鮮で藩士たちは殺され、二度と帰ってくることはなかった。
こうしたことが繰り返されるうち、朝鮮は国交回復のために2つの条件を出した。 1つ目は、朝鮮侵攻時に秀吉の軍が朝鮮国王の墓を暴いたので、その犯人を連れてくること。 2つ目は、日本から先に家康名義で国書を送り、 事実上、朝鮮が目上で日本は目下だと日本に認めさせること、だった。
1つ目については、犯人が特定できるはずもないので、対馬藩にいた死刑囚をその犯人に仕立ててなんとか取り繕った。 2つ目については、江戸幕府が、国書を先に送って日本より朝鮮が目下だと認めるわけがない。 そこで宗氏は、国書を改竄するという挙に出た。
まず、いかにも家康が書いたかのように国書を偽造し、それを朝鮮に送った。 最初に国書を送る方は「奉書」、返事をする方は「奉復」書く決まりがある。 宗氏が偽造した家康の国書には、「奉書」と書かれていた。 こうして、2つの条件は、出てからたった8ヶ月でクリアされた。 朝鮮側は早すぎるとも感じていたというが、朝鮮の背後に中国の存在があり、 講和へと向かうことになった。 明は、偽造国書によって、自らの朝鮮に対する覇権は保たれたと理解し、安心したのかもしれない。
朝鮮は、回答をよこしたが、偽造された国書への回答であるから、 宗氏は、それをそのまま幕府へ手渡すことはできない。再び改竄作業をする必要があった。 朝鮮国王の返事には「奉復」と書かれていたが、これではまずいので、朝鮮が先に国書を送り、 自らを目下と認めたように見せかけるため、「奉復」を「奉書」と直し、朝鮮国王の印鑑も偽造した。 このように、対馬宗氏は巧妙に事を進め、1607年の第1回朝鮮通信使派遣で国交回復にこぎつけた。
そして、1609年には対馬と朝鮮の間で、その後幕末にいたるまで、 250年以上にわたり朝鮮と日本との間の交易と外交を規制した己酉条約が結ばれた。 この条約によって、倭館に使者を使わすことができるのは、将軍と対馬島主に限ること、 対馬の歳遣船は20隻とすること、対馬島主に渡航証明書を発行する権限を与えること、 などの事項が取り決められ、朝鮮との様々な交渉や貿易を対馬藩が独占することになった (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp35〜37)。
このように激動の時代に対馬藩主となった宗義智は1615年に死去する。
しかし、江戸には秘密にしておいたはずの国書の改竄は、1635年に、 柳川氏よる対馬藩の実権を奪う動きにつながった。ここれが、柳川事件である。
柳川氏は宗氏の家臣であったが、柳川調興は江戸幕府に仕える人物でもあり、 一家臣としての地位に不満だった。 そこで、柳川調興は、3代将軍・家光に、宗氏の国書改竄を暴露し、宗氏の追い落としを図った。
家光としては、国書改竄についての告発があった以上、放っておくことはできない。 そこで、将軍が直々に裁判を開くことになった。
ところが、判決は、告発した柳川調興に不利なものであった。 柳川家はお家取りつぶしとなり、津軽藩へ流罪された。 朝鮮外交を任されていた僧侶の規伯玄方は南部藩へ流罪となった。 ただ、宗氏が首謀者となって国書を勝手に改竄したことが江戸幕府に露見してしまったにもかかわらず、 対馬藩は取りつぶされることがなかった。
これには、宗義成の妻であり日野大納言資勝の娘でもある日野夫人が暗躍したといわれる。 日野家は権力が高く、宗氏側に有利な判決が出るように圧力をかけた (田代和生 『書き替えられた国書』 中公新書 1983 p208)とされている。 とはいえ、幕府がこのように宗氏に有利な判決を下したのは、それだけの理由ではなく、 これまでの日朝関係は宗氏が築いたもので、対馬には朝鮮の文化、土地、言語などに精通している人が多く、 宗氏なくしては日朝関係の維持が困難で、今後の日朝関係の維持・発展に宗氏の力が必要不可欠だと判断したからであろう。
もっとも、この事件が起こったあと、「以酊庵輪番制度」が導入され、 南禅寺を除いた京都五山すなわち天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺の優秀な高僧が、交代で派遣されて、 幕府の意に沿わない動きが行われないよう、江戸幕府が宗氏の動きを監視することになった。
そのうえで、「朝鮮との外交は対馬を介して行う」という制度は厳しく堅持された。 例えば、1693年に大谷家の者が鬱陵島で伐木従事する安龍福らを誘拐したことで問題になった「竹島一件」の際に、 幕府は、鬱陵島(当時の名称で「竹島」)の朝鮮による領有を認め、日本人の渡海禁制をしたが、 その際、第4代対馬藩主宗義倫にその朝鮮との交渉を命じている。 このように、幕府は非常に重要な政治的な問題も含む対朝鮮の外交関係全てを対馬に任せていた。
日朝関係がふたたび安定的な軌道にのった江戸時代初期には、朝鮮貿易が好調となり、対馬藩は資金的に潤った。
当時の輸出品の中心は銀、錫、銅で、輸入品の中心は中国産の白糸、絹織物および朝鮮人参であった。 これは、直接的には対馬と朝鮮の間の貿易だが、より大きい目でこの貿易を見ると、 朝鮮を経由し、日本が絹などを中国から買う日中貿易であることがわかる。 すなわち、対馬藩は日本と中国の経済を繋ぐ「日本のシルクロード」をにない、 自国で産出した銀で、中国産の絹糸や絹織物を輸入する中継貿易の機能を果たすことで大きな利益を得ていたのである。 当時の国際通貨は銀であり、日本の銀は含有率80%という高品質で、 天山山脈を越えるシルクロードを経由し欧州との貿易に携わった中国の商人に人気があった。
この貿易の収益により、対馬藩は、大型のインフラ整備事業を次々と推進することができた (対馬観光物産協会 歴史年表 江戸時代)。 今回の巡検で視察したもののいくつかが、この時代に建築された。 例えば、1647年には宗家の菩提寺である万松院(左)が建てられ、 1669年には宗氏の館である金石の館に櫓門(右)が建築された。 さらに、1671年には矢来が築かれ、その翌年には、 朝鮮海峡と対馬海峡を浅茅湾を経由して直接つなぐ大船越が開削された。 さらに、府中/厳原の都市計画が3代目藩主・義真によって進められ、武家屋敷もこの頃に建てられた。 路地の形、広さなどはこの頃から現在まで変わっておらず、現在の町並みの原型はこの時に作られたと言える。 宗氏は、朝鮮貿易によって獲得した資金をもとに様々な施設建設や公共事業を行うことで、 日朝間の貿易と外交を支えるインフラを整備すると同時に、自らの権力をより強固なものにしていった。
日朝間の外交関係は、それを支える様々の制度を必要とした。 対馬藩は、その制度の整備にも怠りなかった。
日朝間でやり取りされた外交文書は漢文であり、先方から来た文書を正確に理解し、 また誤解のない正確な文書を執筆するには高度な漢文の知識が必要だった (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp49〜50)。 朝鮮との外交実務は「以酊庵」(現在の西山寺)という、景轍玄蘇によって建てられた寺で行われ、 「以酊庵輪番制度」によって派遣された京都五山の、 漢文に堪能な優秀な高僧が、この仕事を担った。
また、釜山には大規模な「在外公館」が設置された。 秀吉の侵攻の教訓を得て、江戸時代に朝鮮は、日本人を内地に入れない政策をとったため、 日本との外交・貿易は倭館を通してのみ行われた。1678年には、現在の釜山タワーのある場所に、 約33万平方mという広大な土地をとって「草梁倭館」が建てられ、 500〜1000人が滞在し日本・朝鮮間の外交・貿易に携わった (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp60〜61)。
また、日朝間の実際の往来に必要な宗家の御用船の保管と修理のための「お船江」が、 1663年に建設された。
江戸時代には、1607年の第1回から1811年まで計12回の朝鮮通信使が派遣された。 しかし、次第に江戸幕府、朝鮮ともに財政難に陥り、延期されることも多くなる。 最後の12回目の通信使では江戸までの費用を賄えなくなり、対馬までの通信使の派遣となった。
この現象は、輸入品の中心の一つであった朝鮮人参の枯渇、 そして日本国内における輸入代替の進行、 すなわち中国からの輸入生糸に代る日本国内産生糸の増加によるものであった。 しかも、銀の品位切下げが何度か行われ、それによる銀の価値の減少も貿易利潤を減少させる大きな要因の一つとなった (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp83〜84)。
財政難に陥った対馬藩は、1770年に朝鮮貿易が開けるまでという条件で、 毎年銀300貫を幕府から得ることをはじめ、幾度にもわたって江戸幕府から援助を受けた。 対馬藩が江戸幕府から援助を受けた際の理由は「朝鮮押さえの役」である。 これは、万が一の場合に朝鮮などの外国勢力から対馬を侵略されないよう、 多数の家臣を抱えておくというもので、そのために多額の資金が必要であると対馬藩は主張した。 幕府側も度重なる支援要求に困惑したが、日朝関係を優先させるという政治的判断もあり、 多額の援助を続け、対馬藩は幕末まで持ちこたえることができた (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp85〜93)。
江戸幕府がこうして細々と朝鮮との関係を続けている間、 イギリス・フランス・アメリカは既に近代的な産業化を着実に進めており、 ロシアは北東アジアに侵攻をすすめていた。幕末になると、これらの国々が、 さらに北東アジアへのフロンティア拡張を求めて日本に接近し、対馬近海にも外国船が現れるようになる。
これによって、日本海の南の出口を扼するという、 対馬が潜在的にもっているもうひとつの位置の性質が、一挙にその重要性を顕在化させた。
1859年にはイギリスのアクティオン号が、浅茅湾に面した旧美津島町の尾崎へやってきた。 この時は薪や水を補給して退去したが、ジブラルタルやマラッカなど、 世界の海運上の要地を植民地としたイギリスが、対馬の戦略的位置に関心を示したことは明らかだった。 次いで、1861年3月1日(旧暦2月3日)には、ビリレフが指揮するロシアのポサドニク号が、浅茅湾の尾崎浦に現れた。 今度は、長期にわたって場所を占拠し、対馬の植民地化を求める事態に発展した。
ロシアはシベリア開発に主力を注ぎ、日本の周辺地域をフロンティアに取り込もうと狙っていた。 しかし、当時はまだ陸上交通が整備されていなかったため、 海路を経由することが必要で、そのための拠点を求めていた。
1860年の北京条約で清朝から奪取した沿海州のウラジオストクは、日本海に面していたが、 これを安定的に使うには、そこから東シナ海や太平洋への出口を確保することが必要だった。 箱館に2度、全権大使が派遣されたが、開港という目的は達成できなかった。
また、ロシアは、かねてから朝鮮の覇権獲得をねらっており、 北東アジアでの英仏の活動を監視する必要も感じていた。 この点からに、ロシアは対馬に目をつけた (横山伊徳 『幕末維新と外交』 吉川弘文館 2001 pp109〜125)。
芋崎にポサドニク号を停泊させたビリレフは、艦体の修理を口実に無期限停泊を声明、 食料・木材・大工・労働者の供給・陸上に建物を設けることを要求した。 「対馬近海の測量、及び、次の命令までは停泊すべき訓令を受けた」として、 連日、測量・偵察・大砲発砲による威嚇、小屋の建設などを行った。 対馬藩は代償と引き換えに食料や木材・大工などを提供した。
藩吏が退去期を尋ねると、「イギリスが対馬を占領しようとしている以上、しばらく停泊する」 と返答、さらに芋崎の永久租借を要求した。 対馬を、旅順などと同じロシアの植民地にしようとしたのである。 藩吏は要求を拒否したが、ポサドニク号の停泊は続き、 近海の測量・作物の略奪・地元民の殺傷などが続いた。 当時の外国奉行であった小栗忠順は事態の鎮静化に努め、幕府に対し、対馬を幕府の直轄領とし、 正式な外交交渉で処理するよう提言したが、意見は棄却され、外国奉行の座を退くこととなった (横山伊徳 『幕末維新と外交』 吉川弘文館 2001 pp125〜132)。
そんな折、1861年6月に、水戸藩士がイギリス仮公使館を襲撃するという東禅寺事件が起こる。 この事件で、イギリスは幕府に対する圧力を強めた。イギリスにとって、 自己の覇権領域とみなしていた華中・華南を南方に睨む日本海の出入口という戦略的要地にロシアが植民地を設けることは、 大きな地政学的脅威となる。そこでイギリスは、江戸幕府に力を貸し、その圧力のもとで、 幕府にロシア領事ゴシケーヴィチと交渉させた。 すると、ゴシケーヴィチは、対馬から撤収すべきとしぶしぶ判断した。 さらに、イギリスのホープ提督もビリレフに抗議の質問状を送り付けるなどし、 9月7日(旧暦8月15日)、ついにポサドニック号は対馬を去ることとなった (伊藤一哉 『ロシア人の見た幕末日本』 吉川弘文館 2009 pp183〜186,194)。
イギリス内では、ロシアがあくまで退去を拒むようであれば、 ロシアと戦闘してイギリスが対馬を軍事占領し英領植民地とすべきという議論もあったというが、 その意図を幕府に告げることもなく、幕府に恩を売ることができた。 このことにより、神奈川における外国人やその財産の安全を保障させ、 また、フランスに付き従っていた江戸幕府を自分の側にひきつけたいという意図もあったようだ。 (伊藤一哉 『ロシア人の見た幕末日本』 吉川弘文館 2009 pp184,190 または 横山伊徳 『幕末維新と外交』 吉川弘文館 2001 p140)。
対馬を舞台とした、英露の帝国主義的対抗は、こうしてイギリスの外交的勝利に終わった。 対馬は、外国の植民地になる危機から間一髪で免れ、対馬藩は、急速にイギリスに傾いて、 幕府と対立しイギリスと結びついていた長州藩に協力することになる。 このため、英仏の間で日本への覇権をめぐって起こった代理闘争という性格を帯びていた明治維新が成功すると、 イギリスの影響が強まった明治新政府で、対馬藩は比較的優遇された。 1868年には宗重正が、対朝鮮の外交・貿易の功績を理由に左近衛少将に任じられた。 新政府の命を受けて、重正は1868年に朝鮮政府に対して新政府成立を告げる書契とともに使節を送った (『新対馬島誌』 新対馬島誌編集委員会 1964 p470)。
しかし、この文書は天皇に対して「皇」や「勅」といった用語を使用していたため、 清朝の覇権下で清だけを王国と認める朝鮮側は受取りを拒否し、これによって交渉は頓挫してしまった (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp103〜104)。
その後も状況を改善することができないまま、1871年の廃藩置県によって、 対馬は伊万里県(現在の佐賀県)と合併し、翌年には長崎県に移管された (対馬観光物産協会 歴史年表 明治時代〜現代)。 明治維新に伴い、外交は中央政府が欧米流の国際法にもとづいて行われることとなり、 もはや対馬藩の出番はなくなった。 こうして、対馬は、長かった日朝関係の表舞台から姿を消すことになった。
そして、それにかわり、やがて帝国主義列強に名を連ねる中央集権化された日本政府の手で、 日本海の南出口を防衛し、さらにロシアに攻撃を仕掛ける基地を設けるため、 対馬が重要な軍事機能を提供するようになった。だが、対馬だけをみれば、 漁・農業を一体化した地域経済で生計を立てる日本縁辺になりかわっていった。
韓国には対馬が韓国領であると主張する人がいる。 その多くはブログや掲示板などネットで主張している程度である。 しかし、1948年8月と49年1月には、当時の李承晩大統領が対馬を韓国に割譲させるようアメリカに要求した事実もあり、 対馬が韓国領として描かれた韓国の地図が製作されるなどの動きもある (中央日報 2008年9月26日)。
しかし、これまで見てきたように、対馬が朝鮮政府の支配下に置かれたという史実はない。 1587年には宗義調・義智が秀吉に対馬領有を安堵されている (鶴田啓 『対馬からみた日朝関係』 山川出版社 2006 pp21) ことからも対馬藩自身も日本領の一部であることは疑いない。
とはいえ、古墳時代から日本領でありながら、その空間的位置のために、2つの地政学的意味において、 対馬は、日本の中でも極めて特異な国際的社会・経済関係の中におかれ続けてきたのである。
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