2010年8月27日 浅茅湾

朝のホテル:日本式の朝食、売店にはブランドゴルフ用品

8月27日、朝7時にホテルの食堂で揃って朝食をとった。食堂の入口には、ハングル文字で、渤海ツアー12+1名、ナンバーワンツアー 12+1名、浦項大亜18+1名、個別6名(私たちのことである)、個別3名と書かれた表が掲示されている。ツアーはおそらく客+添乗員の人数だと思われる。ツアーは名称による区別がされているものの、個別の客に個人名をつけるということはしていなかった。

朝食は、鯖、白米、切干大根、豆腐、トマト・サラダ・卵焼き、味噌汁、キムチ・たくあんの7皿で、白米と味噌汁は、席に着いたら温かいものを持ってきてくれる仕組みになっていた。キムチは辛く、酸味が強かったものの、食品衛生責任者および調理者が日本人であったためか、韓定食ではなく、日本風の朝食だった。朝食会場を見渡すと、私たち以外の宿泊客はすべて韓国の方で、机にはあらかじめスプーンが用意されていた。

前日は、8時過ぎの時間帯でもホテル内にある売店は開店していなかったが、本日は開店していた。日本のゴルフファッションブランド「M.U.SPORTS(ミエコウエサコ)」で、ゴルフウェア、バッグ、シューズ等を販売していた。価格は、1万円程度だった。宿泊客の大部分が韓国人であるこのホテルにゴルフ用品店があるということは、韓国人観光客の中で、対馬にゴルフをしに来る人が多いことの表れであろう。また、ゴルフ用品のみでなく、宝石、包丁、カラーペンのセットも売られていたが、ペンが10本セットで1000円と、安くはない。韓国人宿泊客は、10名程度が物色はしていたものの、買ったかどうかは定かでない。

車で樽ヶ浜へ:モータリゼーションを示す郊外商業地区

午前8時にホテルを出発。途中、昼食を購入するため、武家屋敷地区の中にあるコンビニに立ち寄り、車で、浅茅湾視察の船が出る樽ヶ浜へ向かった。

コンビニは、昨晩通った対馬ホテルやツタヤホテルのある地区にあり、韓国人観光客の多くが往来する場所となっている。「対馬防衛隊」を名乗る団体による「日韓親善を大切に。対馬島民は日韓親善を大切にする韓国人を歓迎します。日本固有の領土対馬は歴史と観光の島です。」という看板を発見した。対馬が日本固有の領土だということを強調するとともに、韓国人観光客のマナーについて婉曲的に注意を呼び掛けている。

昨日巡検した江戸時代からの旧市街は、石垣が多く、城下町であったことの名残を思わせが、トンネルを境にして、新市街となり、工場、ガソリンスタンド、パチンコ店、ファミリーレストラン等が並ぶ郊外商業地区となった。民家が見当たらない通りもある。

ここまで来ると、店は、小さいものが商店街をなして立ち並ぶというより、大型の店が数軒ずつ建っていた。モータリゼーションが進み、自動車でまとめ買いの行動をするようになっているのだろう。中対馬病院という4階建ての大きめな病院が建っていた。対馬市内にある総合病院は、上対馬病院(上対馬町)、中対馬病院(美津島町)、対馬いずはら病院(厳原町)の3つのみである。中対馬病院の白い外壁はくすんだ色をしていたが、駐車場は8割方埋まっているように見えた。外来患者が多く、地域の医療需要に応えているようだった。

静かな港、定期便の合間に船を遊覧船として活用

樽ヶ浜に到着すると、沿岸にはイカ釣り漁船が並び、また屋形船の姿もあった。

時刻表によれば、樽ヶ浜からは厳原行きと空港行きのバスが、それぞれ日に5本と4本ずつ運行されている。8時54分に厳原方面のバスが出るはずだが、私たちが到着したのは8時50分の少し前で、平日の朝というのに、人影はなかった。バス利用客は少ないのだろう。時刻表の隣には茶色の、掘立小屋のような古びた切符売り場兼待合所があった。

私たちが乗る船は、普段は朝夕2回、定期船として運行している「渡海船ニューとよたま」(対馬市役所オフィシャルホームページ)で、定期の運行がない9時〜12時の間、ダイヤの合間をぬって浅茅湾の観光船として運用されている。白い船体、全長7,8mくらいの船で、船内では、後部に座席が左右に3席ずつ、4列あり、前部の左右に3畳の畳が敷かれている。甲板に出ることが出来て、後ろ側にはトイレも付いている。

コースは決まっており、私たちは「Cプラン、1回3500円」のコースを体験した。2人の乗務員が運転とガイドを交代して行ってくれた。船内には、湾岸にある見どころについて書かれた手書きの台本が数冊用意され、船内から撮影したという写真も50枚近く置いてあった。遊覧船としてもいつでも対応できるようになっているようだった。

もともと、この船は、島内の路線バスの運行をしている対馬交通の路線であった。その後、豊玉村が船を譲り受けて引き継ぎ、現在は合併により対馬市営船となっている。

乗務員の方によれば、定期便は1日2便、朝と夕方に出ている。各集落には小さな診療所しかないため、大きな病院に行くために、主に高齢者が利用しているという。国道が整備されていなかった時期、豊玉高校(豊玉町仁位)に通う高校生の通学のための便も出ており、一般客用の「第三豊玉丸」と高校生用の「第一豊玉丸」の2便が存在していたが、1987年3月に通学便は終了し、現在の「ニューとよたま」1便のみの運行となった。その後も通学のために定期船を利用していた高校生はいたが、2002年で高校生の利用客はいなくなったそうだ。

軍事拠点として利用され続けてきた浅茅湾

浅茅湾は、湾口を朝鮮海峡に面し、湾の奥は2本の人工の瀬戸で対馬海峡に繋がって、対馬を南北の2つの島に分けている。 湾は、仁位浅茅湾・濃部浅茅湾・竹敷浅茅湾の3つにわかれる。樽ヶ浜の辺りが、一番大きな竹敷浅茅湾、北にある島山島に隔たれて、北東部に濃部浅茅湾、北西部に仁位浅茅湾がある。海岸は、非常に入り組んだリアス式で、静かな内湾は、波があまり立たないという特性から、かつては、日本海の南の出口にあたる軍事・防衛の拠点として着目され、利用された。現在では、真珠の養殖や、マグロの養殖も行われている。

今回私たちが視察したのは、主に竹敷浅茅湾と仁位浅茅湾である。 竹敷浅茅湾では、樽ヶ浜を出港して北へ、田甫崎を通ったら北西へ芋崎まで進む。芋崎が見えたら南下して、小さな黒瀬湾に入る。ここでは金田城跡を見て折り返す。次に、芋崎のところを北東へと進み、遠見山と金蔵山の間の仁位浅茅湾に入る。ここではつきあたりの和多都美神社を海中から見る。来た道を折り返し、再び竹敷浅茅湾に戻ると、田甫崎を東へと進み、万関橋をくぐって樽ヶ浜に戻るというコースである。

船が樽ヶ浜を出港した直後、東に見える小高い丘の上の方に、1975年に開港の対馬空港が望める。

丘のふもとには温浴施設「ゆったりランド」がある。この施設は、もともと旧年金事業団による「グリーンピア」という保養施設で、定期船乗り入れの予定もあった。年金基金を用いた観光投資で、風光明媚な浅茅湾に面していたが、経営が思わしくなく、前対馬市長の頃、僅か2年で閉鎖されたという。現在は、地下から汲み上げあて沸かした温浴施設であり、「ちんぐ音楽祭」の会場ともなっている。

さきに述べたように、浅茅湾は日本海の南出口という地政学的な要衝にあたり、軍事機能が集積していた。船の西側、田甫崎の少し手前に、海上自衛隊の建物が残っている。現在は施設のみが残る状態で、隊員は配置されていない。2階と3階にそれぞれ3つずつ窓がある。遠目ではよく確認できないが、3階建てで、さほど大きな建物ではなく、白い壁面も割ときれいなままという印象だった。

この建物の裏側に、韓国人経営の宿泊施設、Tsushima Resortがある。私たちも後ほど視察する。

船は、その先の芋崎を回った。ここは、1861年に、軍艦ポサドニク号に乗ったロシア軍に占領されていた、占領当時、ポサドニック号には360名のロシア人が乗船していたという。芋崎は、外湾から内湾に入る入口部分に当たり、海上から入りやすく、陸地からは人目につきにくい場所で、ロシアが軍事基地を建設するには都合がよさそうな地形だとわかる。

芋崎を南下して黒瀬湾の方面へ行くと、金田城と呼ばれる5km程度の朝鮮式山城が築かれ、現在も一部残存している。この朝鮮式山城は、663年白村江の戦いの際に築かれた。当時、唐・新羅の連合軍に苦戦していた百済を救済するという名目で、日本は朝鮮半島に向かった。だが大敗し、唐・新羅連合軍の来襲に備えてこの山城を築いた。全国から集められた防人が常駐し、朝鮮海峡からすこし隠れたところで、日本のフロンティアの最前線を固めていた。

浅茅湾には、常に海にたよって生活していかなければならない対馬の人々にとっての精神的な拠点でもあった。湾の奥まったふところ深くに、和多都美神社(峰町佐賀)がある。「わだつみ」とは、海神のことであり、海からアプローチすると、リアス式の湾岸の静まった奥に海の神が鎮座している様子がよくわかる。神社の脇を囲むようにして生えている松が、その頭を鳥居の方に向けており、非常に神秘的な場所である。

この和多都美神社は豊玉姫を祀っていて、おなじ峰町の木坂にある海神神社と同じく、竜宮伝説が残る。

竜宮伝説

火の中から生まれた3人の神の息子のうち、兄の火照命は海幸彦として、海の獲物とっていた。弟の火遠理命は山幸彦として山の獲物をとっていた。弟は兄に「獲物をとる道具を交換しよう」と提案したが、魚が釣れないどころか、釣り針もなくしてしまった。

弟は、なくした釣り針を探そうと思ったが見つからず、泣いていた。すると、海の潮の神である塩椎神に声をかけられ、綿津見神の宮殿に案内された。到着すると、娘の豊玉毘売がいた。二人は恋に落ち、結婚、そのまま3年間宮殿に居座ってしまった。3年たってようやく、訪問の理由を思い出し、事情を説明した。海の神は、すぐに釣り針を見つけ出し、弟は国に帰って釣り針を兄に返すことができた。

豊玉毘売は身籠っていたので、弟の国に来て産もうとしたが、お産の最中、豊玉毘姫が本来の姿である“大わに鮫”の姿になったので、弟は驚いて逃げていった。姫も、生んだ子を置いて海神の国へと戻っていった(田辺聖子著『田辺聖子の古事記』集英社文庫、1991年、pp87-98)。

神社の5つの鳥居のうち、2つは海中に建っており、5つの鳥居全てを正面から望むためには、海上から見るしか手立てがない。もっとも、豊玉姫の像は本殿に向いて建てられているので、海上から見ると、像の正面の姿を拝むことはできない。この神社は、名所として対馬市がプロモートしており、日本の趣を持つ場所として、韓国人観光客にも人気である。私たちが到着した際、すでに1組の観光客がいた。周りに船はなかったため、陸路を通ってきたようだ。

船は、和多都美神社のところで折り返す。そこから望める、浅茅湾内で一番大きな島である島山島では、山に強いタイプの馬の放牧がなされており、案内の地図にもひと際目立つ馬のマークが大きく記してある。島山島には、1994年11月に、本島とつながれる橋である浅茅パールブリッジが渡されている。漁業以外の、対馬の重要な一次産業を振興しようとする意図であろう。

外海から隠れる浅茅湾は、軍事拠点を立地させるにはよいが、出口が限られた袋小路になっているから、出動のさいの作戦には柔軟性が欠ける。この問題を解決するため、日露戦争を想定して、水雷艇などを短時間で対馬海峡に出動させるため、1900年に旧日本海軍は、万関瀬戸を開削した。陸が分断されたので、同時に、陸を結ぶ万関橋をかけた。日露戦争では、この瀬戸が活用され、夜間の奇襲攻撃や迫撃が行われた(小松津代志著『対馬のこころ』p10)。

初代の橋は1900年、2代目は1956年にできた。現在の橋は3代目で1996年に架けられ、全長210m、幅10m、高さ25mある(対馬観光物産協会よかとこBY)。海上から見上げるとさほどの長さは感じられないが、何度か塗りなおされているという赤色の、アーチがかかった橋は、遠目から見てもそれと分かる目立つものであった。

湾内の静かな海面は、真珠養殖という対馬のもうひとつの重要な産業が営まれる場所でもある。真珠の養殖は島外の業者がもちこんだもので、60%が輸出にあてられるそうだ。乗船中、何度も真珠養殖の黒いブイを目にした。前後左右を10列ずつ程度、均等に並べられたブイの中にはアコヤ貝が幾つか入っており、アコヤ貝に核を移植し、真珠を養殖する。しかし、この黒いブイに藤壺などがついてしまうため、2人一組になり、前方にいる人がブイを引き揚げジェット噴射の機械に入れ、後方にいる人が海にブイを戻すという方法で定期的に掃除をしているという。

乗船中、何度も船とすれ違った。そのほとんどは漁船であったが、中には海上保安庁の船もあった。ガイド氏曰く、ハモを積んでいる韓国の漁船など、外国の船もこの浅茅湾を利用しているという。静かな湾ではあるが、国境の海であることを実感した。

浅茅湾が、日本海の南出口を扼し、朝鮮海峡に面したフロンティアの最前線という地政学的に重要な位置にありながら、海に生きる対馬の人々を精神的にささえ、またさまざまの一次産業の場所として対馬の地域経済に貢献していることを、現地で認識することができた。

かつて水陸両用機の民間空港、今は無人の海上自衛隊施設

船上での視察を終えた私たちは、美津島地域活性化センターに立ち寄り、この地域の案内をしていただく元自衛官の小松さんと合流した。

まず、船からも見えた、海上自衛隊施設の近辺を、こんどは陸上から視察した。小松さんによれば、この場所は、戦前は軍港、要港部(の本部庁舎)であったが、1963年に対馬と大村(長崎県、諫早の北のあたり)を結ぶ水陸両用機が飛ぶ民間用の空港となった。当時はまだ山がちな対馬に滑走路を建設できなかったので、浅茅湾の静かな海面を滑走路がわりに使ったのである。しかし、機体が不完全なうえ利用客も少なかったので1968年に廃止され、1975年に現在の空港に移転した(対馬空港空の駅情報館ブログ)。自衛隊施設の隣に、もともと空港だった場所が残っている。地面には、海に向かってコンクリートで、“TSUSHIMA”と書かれており、発着地もあった。柵がめぐらされているため、中に入ることはできない。

その奥に、自衛隊施設の姿をかすかに見ることができた。海上自衛隊施設は、空港になる以前からこの場所にあったが、現在は、隊員が配置されていないという。日露戦争の時代は重要な軍事拠点であったが、いまの防衛省はさほど軍事的に重視していないことがわかる。

かつて軍港であったときに築かれた、湾内の島と本島とを結ぶ石垣は現存しており、非常に整然と組まれていて、当時の日本人の丁寧な職人芸を今に伝えていた。足もとに目をやれば、水が澄んでいるため1~2m下まで見ることができた。

対馬が乗っ取られた!?:韓国資本のTsushima Resort

続いて私たちは、自衛隊基地の隣に韓国資本のホテル、とメディア報道で全国的に著名となったTsushima Resortを視察した。

『産経新聞』の“対馬が危ない”キャンペーン

『産経新聞』は、2008年10月、紙面で「対馬が危ない」と題する連載のキャンペーンを張った。

「…対馬空港に到着してまず耳にしたのは、島内の不動産が韓国資本に買い占められていることを危惧する声だった。それも1人や2人からではなかった。中でも、『海上自衛隊の基地に隣接する土地が韓国資本に買収された』という話に危機を直感した。…以前は、旧大洋漁業系の大洋真珠の加工工場だったが、真珠養殖業の衰退で平成14年に工場を閉鎖。海自に隣接するため、自衛隊に買ってもらうつもりで話をしていたが、先延ばししているうちに、昨年夏、島民名義で韓国資本に買われてしまったという。現在は、韓国資本が100%出資するリゾートホテルに様変わりしていた。…門は“国境”の意味を兼ねているのだろうか。韓国領に足を踏み入れたような違和感を覚える。…平成2年、天皇、皇后両陛下が長崎県を行幸啓の折、真珠工場にお立ち寄りになったことを記念した「行幸記念の碑」が宿泊施設にはさまれ、人質のように鎮座している。…このリゾートホテルの実質的なオーナーは釜山に住む60代後半の畜産会社社長。最初は別荘を計画、知り合いの島民名義で3000坪を5000万円で購入したが、その後、2億5000万円の費用をかけてホテルに改築したという。」(宮本雅史編著『対馬が危ない』産経新聞出版、2009年、pp. 10~15)

小松さんによれば、Tsushima Resortの韓国人マネジャーは友好的で、入れてほしいという旨を予め伝えれば見学させてもらえるということだった。

リゾートホテルの目の前は細い道で、人通りはほぼ見られず、アクセスは良いとはいえない。外の道と中を隔てる部分には、車庫に使われているような、ガラガラと開くタイプの門があり、上部には白地にエンジ色で“TSUSHIMA RESORT”と書かれた看板がかかっている。看板の手前には、水色の屋根で、リゾート内では一番大きいと思われる建物が建っている。

Tsushima Resortの敷地内に入ると、『産経』の記事に書かれた “門”に至るまでに、駐車場および庭が広がっている。駐車場が広いのは、大型バスが乗り入れるせいであろうか。庭は、ただ砂利が敷いてあるだけで、手入れはされていなかった。Tsushima Resort全体として、非常に新しくきれいだが、広い場所を持て余しているような空間が多くみられた。

そこから10mほどのところに、記事でいわれた“門”がある。寺にあるような門が大きく構えられている。正面が一段高くなっていて、左右も通れるようになっている。骨子はヒノキで、灰色がかった瓦が敷いてある。動物の像や、装飾などは施されておらず、非常にシンプルなたたずまいであった。案内に出てきてくださった韓国人マネジャーに伺ったところ、この門は日本風と朝鮮風を混ぜたものであるという。

門を越えたが、記事で言われたような「韓国領に足を踏み入れた」という感覚はまったく感じない。だが、リゾートホテルと言われ、ビーチでレジャーを楽しむ明るい雰囲気を想像していたせいであろうか、人気や活気がなく、本当にこの場所でホテル経営を展開していけるのだろうかという印象だった。

建物は2階建てのコテージ風で、日本風家屋をイメージさせるものが多かった。韓国におけるリゾートのイメージは、日本におけるものと異なる。韓国では、独立したコテージに宿泊するのが流行のリゾートスタイルだそうだ。ブームにのってコテージをつくり、更にそれを日本風建築にすることで、韓国人宿泊客に“日本”を味わわせようとしているのだろう。

もともとこの場所は、『産経新聞』がいうように真珠の加工工場であった。このため、工場跡地の建物もそのまま客室として転用している。工場跡は2棟あり、1棟に4つの部屋を設けていた。マネジャーの方によれば、収容客の数が80名程度ということなので、他の建物も客室として利用しているようだ。

客室のなかで一番目立っていたのが、六角形のコテージ風の建物である。Tsushima Resortオリジナルのもので、一辺に宗家の紋が描かれている。この家紋は、宗義智が朝鮮通信使を来日させた功で豊臣秀吉から拝領した、五三の桐と呼ばれる種類のものである(家紋の湊)。

門の手前にある、事務所と思われる白い壁面の小ぶりの建物の中には、人がいることが確認できた。

L字型の一戸建て家屋はベージュ色、横に長く玄関先の両端に柱が建っている建物は真っ白な壁をしていた。その隣には、割と小さめの切妻屋根の白い建物がある。いずれも玄関脇に岩があるのは、日本風ということを意識しているためであろうか。しかし、ドアや壁の色、建物の形などには統一性がなかった。

浅茅湾の海辺には2,3隻の船が停泊しており、乗船していた2人は韓国人であった。マネジャーの方曰く、宿泊客の多くが釣りや観光目的であるということだ。船つき場の近くには、釣り用のクーラーボックスが10以上も積まれ、全てを確認することはできなかったが、違法行為とされている撒き餌をした形跡のあるボックスが1つだけ見つかった。

敷地内には、天皇皇后両陛下が対馬を訪れ、真珠工場を視察した際の記念碑が建っており、碑文には「平成2年5月21日天皇皇后両陛下の行幸啓を記念してこの碑を建立 大洋真珠株式会社代表取締役」とある。大洋真珠は、対馬リゾートになる以前にこの土地を加工工場として所有していた会社で、その後土地を売却した。碑も当然Tsushima Resortの所有に帰したと思われるが、手をつけないままになっている。

このほか、文化財として、横浜や佐世保のものが有名な明治期の赤煉瓦倉庫も、リゾートの敷地に一部残存している。中に長靴や箱などが収容されていて、現在も倉庫として利用していることがうかがえた。小松さんによれば、対馬の倉庫のように、長いレンガと短いレンガを交互に組んでいるのはイギリス式だそうで、軍事指導国が変わればレンガ組みの様式も変わった。明治20年代の倉庫はフランス式、その後イギリス式に替わり、40年代以降日本式となったという。日清・日露戦争当時、イギリスと関係が深かった日本軍が建設したものであろう。このように、一見したのでは気づかない建築技術にも、国家が埋め込まれている。

倉庫のすぐ奥の森は、Tsushima Resortでも自衛隊でもない、他の人の私有地で、立入禁止の看板が建っていた。だが、草が伸びて、看板はあまり目立たなくなっていた。

マネジャーの方の話によると、Tsushima Resortは、週末を対馬に観光しにくる客の滞在が多いという。この方は、私たちに麦茶をふるまってくださり、韓国語でインタビューにも気さくに応じてくださった。それは、私たちに韓国人の通訳が同行していたこと、そして見るからに学生であり、マスメディアの取材の類ではないということで警戒されなかったためもあろう。 韓国人マネジャーの方によれば、従業員は6名中2名が韓国人で、4名は日本人であるそうだ。倉庫は明治期の文化財であるが、これには価値があると思うので、壊れた個所は再現しながら保存に努めたいと話してくれた。

小松さんに、韓国からの観光客が迷惑な行動に及んでいないか尋ねてみたところ、酔った韓国人の男性が、近くに韓国資本のホテルが3軒あるため、帰るホテルが分からなくて立ち往生していたということぐらいで、観光客による迷惑行為としてとりたてて目立ったものはないという。軍事基地に隣接していることだけが問題だと語った。しかし、現在この基地に自衛官の常駐はなく、差し迫って問題にするほどのレベルではないと思われた。

国会議員団が視察した際、元民主党・現自民党参議院議員の一人が「リゾート施設としての体をなしておらず、工作施設としか思えない」と発言したという(2009年9月13日付 『長崎新聞』参照)。確かに、日本人が想像するリゾート施設というイメージからすれば、少し離れたものかもしれない。そして、韓国人の感覚による日本のイメージで建物ができているため、日本人の目には奇異に映るかもしれない。だが、建物自体が日本風であることなど、日本との友好関係を保っていこうという姿勢が見える。文句を言わせないための妥協策という見方も可能ではある。しかし、文化財を保存してくれていることや、門を朝鮮風と日本風の融合体でデザインしているところを見るべきである。私たちが目にした対馬リゾートは、決して日本侵略のシンボルのような存在ではなく、要するにただのリゾートホテルであった。そもそも、「工作施設」として機能させようとするなら、もっときちんと作るはずである。関係者の方は友好的な対応をしてくれたし、近隣からの苦情もほぼないことからいっても、対馬に危険をもたらす存在としてしまう言説は、行きすぎていないだろうか。

冷静さ求める地元紙

全国メディアのいたずらに警戒心をあおるような記事に対し、地元紙の『長崎新聞』は、冷静になるよう訴えている。

「海自基地の隣に韓国・釜山市の流通会社が出資する『ツシマ・リゾート』がオープン。…ツシマリゾートの金蒼國(キムチャンクック)支配人(38)は『対馬は韓国領土という考えは、韓国でごく一部』と言い切る一方、『日本人も済州島の土地を買っているのに韓国人が対馬の土地を買うのはなぜ悪いのか』と首をひねる。」とし、対馬全体に関しても、ちんぐ音楽祭や国境マラソンなどの和やかな草の根交流が行われていることを挙げ、また、韓国人名義の土地は対馬全土の0.0069%だと述べる。韓国資本の宿泊施設に関しては、「ウォン安以降、新たに開業した宿泊施設はほとんどない」、そのため、対馬が韓国人に乗っ取られる危険はない、と書いている。

そして、「韓国と約50kmの位置にある対馬は、国の視点に立つと国防の最前線。一方、島民の視点に立つと韓国との友好交流は島の発展に欠かせない。偏った情報に惑わされることなく、島内外で冷静な論議が求められている」と結んでいる(『長崎新聞』 2009年9月13日)。

今も残る、日露戦争時代の海軍の水雷艇出撃基地跡

Tsushima Resortを後にし、私たちは車で芋崎へ向かった。

道中、竹敷の海軍要港部跡に立ち寄った。この場所は、もともとは水雷艇の施設だった。日清戦争では、清国威海衛の戦いや対馬海海戦の際に竹敷水雷隊が活躍し、勝利ののち、1896年、国内初の要港部が設置された。日露戦争でも水雷艇の出撃基地として機能し、ここを出た水雷艇は、私たちが船内から視察した万関瀬戸を通って日本海での戦闘に赴いたという。万関瀬戸の開削がなければ、水雷艇の根拠地が分断され、作戦に支障がでていたかもしれない(小松津代志著『対馬のこころ』pp.10-11,31-32)。

道には、シカの糞が所々に落ちていた。日本本土、朝鮮、台湾、中国のシカのいずれとも異なる種であったため、1966年、県により天然記念物に指定された(対馬ガイド)。しかし、頭数の増加で海上にシカが現れるなどの被害を被り、1983年に、種指定から、美津島町尾崎半島の一部を生息地として指定する、地域指定の天然記念物となったという。

私たちは、旧日本軍が設置した境界標石を発見した。普通に歩いていたら見逃しかねない50cmくらいの高さの石柱である。四角柱の上面に書かれた交差する矢印は、所有地の範囲を示しており、側面の一辺に書かれた「海」という文字が、海軍の領地であることを示している。陸軍の境界標石の形状は海軍のものと異なり、矢印はなく、「陸」の文字の反対の面に「防」と書かれているという。

芋崎:幕末、ロシア領になりかけた対馬

水雷艇出撃基地跡を出て、車は山の中に入っていった。点在している民家は、古い日本家屋であった。浅茅湾の深浦を眼下に見て、周囲を木々に覆われた道へと入っていく。途中、道路工事をしており、70歳近いと思われる高齢の女性が作業をしていた。

芋崎までは車が入れず、途中から山道を歩かなくてはならない。道の入り口には、芋崎と書かれた木造の、腰の高さ程度の道標が立てられており、そのすぐ横に、真新しい案内看板があった。美津島の自然と文化を守る会が作成しており、「ロシア軍艦泊留地跡」と題して、「1861年2月3日、尾崎浦に現れたポサドニック号が芋崎に上陸し、宿泊施設や波止場などを建設し6ヶ月間占領した場所であり、外国奉行小栗忠順が交渉にあたったものの退去せず、英国艦隊の抗議で退去した」と説明されていた。この地が個人所有地であるため、市は積極的な開発を行わず、ロシア軍艦泊留地跡に向かうまでの道標も、美津島の自然と文化を守る会が立てたそうだ。

山道を登っていくと、いくつも蜂洞がある。5m間隔に置かれたものもあれば、数cm間隔で置かれているもの、斜面の高い所に置かれたものもあった。蜂洞内の蜜を3分の2程度とって、残りは蜂が冬を越すために残しておくそうだ。 道中、山地岸壁や岩山の上部に生えるという、シダ植物の1つイワヒバ、九州西部、中国、台湾、朝鮮半島に分布するダンギク、山陽方面の山地に生えるという、シイタケの原料となるアベマキなどが生えていた(牧野富太郎原著 大橋広好、邑田仁、岩槻邦男編『新牧野日本植物図鑑』北陸館、2008年、p36、630、1096)。長崎県のシイタケの90%が対馬産だそうだ。また、イノシシが生息しているため、所々にイノシシが土を掘った跡や、木で背中をこすった跡が見られた。現在は個人の所有地だが、旧陸軍の境界標石もそのまま残っていた。

出発から20~30分程度は、周囲を木や岩に囲まれつつも、ある程度幅に余裕がある林道になっている。前半はゆるやかに坂を登り、両脇を岩に囲まれ、コケすら生えていないような暗い小さな峠を越えると、後半はゆるやかな下りになる。途中に小型車が捨ててあったことからも分かるように、4WD車なら入れそうである。基本的には両脇を木に囲まれた状態で、道は比較的明るかった。ゴミは、入口付近に空き缶が数個捨てられていたものの、奥の方まで入る人はあまりいないのだろうか、進むにつれてまったく見当たらなくなった。

ロシアが作ったドック方面とポサドニク号の泊留地跡方面とが分かれる道を、私たちは泊留地方面に進むと、道は、左右の横に草木が伸びきった、狭く険しい小径に変わった。

道をかき分けながら急な坂を下り、ようやく海岸の開けた場所に到着した。まず目を引くのが“文久元年魯寇之跡”と書かれた、ロシアの侵攻の事実を今に伝える碑である。1928年2月11日、村民や青年団の協力で建立された、と書いてある。

ロシアが使った古井戸は、碑の側に2つある。ロシア人が掘ったものなのか、日本人に掘らせたのかは定かでないらしい(小松津代志著『対馬のこころ』p35)。いずれにせよ、その井戸の石組は非常にきれいに残存していた。井戸に水は溜まっていたものの、奥にある井戸からは異臭がした。泊留地に至るまでとはうってかわって、礫が広がる海岸は、漂着ゴミの量が非常に多い。ペットボトルや缶、流木とともに、食品のパッケージ等もあり、ハングルが書かれたものが目立った。

ロシアは、芋崎浦に2か所、川浦に1か所波止場を作った。一番北にある波止場には、35mにもなる本小屋や鍛冶屋、番小屋等があった(『対馬のこころ』p36)。泊留地は、芋崎浦のちょうど入江になった部分に当たり、波静かである。太陽を遮るほどに木々が生い茂ってはいないため明るく、遠くまで海を望むことができる、浅茅湾に囲われ、隠れ家のような場所だという印象を受けた。

小松さんによれば、以前は海からでないとポサドニク号の停泊地に来ることはできなかったが、国土調査の関係で道がある程度整備され、ここに至る山道のルートもできたという。

軍艦泊留地に到着した際、韓国人通訳の方の携帯電話には韓国の電波が入った。対馬が韓国に非常に近い島であるという事実を強く実感させられた。

続いて私たちは、いったん狭い山道を先程の分岐点まで登り、林道の別の分岐点から波止場の一つがあった川浦に下った。ここには、ロシアのドック跡がある。石垣は段差をつけて3段組まれているのが、現在でも確認できた。山側には、ロシアとは関係ないが、養殖の鉄枠のみが残っていた。そこから山に入っていくと、たまたまではあるが水で地面が削れ、細い川の跡ができていた。その川の脇には改良された井戸が、さらに進むと、石垣がふぞろいに組まれたロシアの風呂場跡があった。この風呂場も、ロシア艦対馬占領絵図にしっかりと記載されている。

その後、来た道とは異なる、道とはいえないような斜面を登り、林道へ出て、車の待つ入り口へと向かった。

対馬藩が開削した対馬海峡への出口、大船越

芋崎の入り口で再び車に乗り、私たちは、大船越に向かった。はじめのうち、草木ばかりが目につく道を走っていたが、国道に近づくにつれ電器店やパチンコ店などの大型の店が数軒ずつ見えてくる。

大船越は、朝鮮海峡から浅茅湾を経て対馬海峡に通じる最初の人工的瀬戸として、1671年に宗義真が開いたものだ。浅茅湾から対馬海峡に抜けるために、島の南北端を回るのは大変遠回りであったので、昔から、船を引いて権現山の丘を越え、荷を積み換えて行き来していた。その不便を回避するため、島を分断して大船越を海峡にした。当時としては大規模なインフラ整備事業であり、当時の対馬藩の強い財政力を窺い知ることができる。

江戸時代、大船越には番所があって、そこを通過する船舶を監視していた。私たちは、「口止番所小舟改跡」と書かれた石柱も発見した。側面には「区務所(区会所)戸長役所村役場跡」とある。「口止番所」は「口留番所」、つまり、各藩が自藩の境界や交通の要所に設置した番所のことである。「舟改」は「ふなあらため」と読み、港に出入りする船舶を番所の役人が検査することである。

ロシア兵は、この番所を無視してボートで大船越を通過しようとし、番所の係官に阻止された。そのとき、抵抗した日本人を狙撃し、松村安五郎と吉野数之助の2人が殺された。その碑が、すぐ近くの道路に面した場所にある。向かって右に松村、左に吉野の碑で、それぞれの碑に階段が伸びている。台座も合わせて2メートル近くありそうな大きな碑は、周りに草が茂り、ひっそりと建っていた。

芋崎を占領したロシア軍に殺された大船越の日本人

ロシア軍艦ポサドニク号が停泊していたあいだ、番所の役人の制止を無視してボートで大船越瀬戸を通過しようとしたロシア兵士を阻止しようとした松村安五郎は、ロシア兵の銃弾をうけ死亡した。また、ロシア艇に捕えられ、拷問を受けた番所の士卒の吉野数之助は、釈放された後に死亡している。のちに2人は靖国神社に合祀され、瀬戸を臨む地にも碑が建てられた (伊藤一哉著『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009年、p182)。

国・県の資金と都市再開発事業でできた、厳原の「ロッテデパート」

浅茅湾周辺の視察を終えた私たちは、いったん大亜ホテルに戻り、休息したあと、夜の厳原の市街地の視察に出かけた。

細い裏道を、急な坂を下って行く。瓦屋根の厳かな雰囲気の家も多いが、空き家も少なくなかった。店が多く並ぶ通りで、韓国語・中国語・日本語で「2007年8月、当店で韓国人観光客による暴力事件が発生したため、韓国人観光客・中国人観光客の入店をお断りします」と書かれた紙を貼ってあるダーツバーの店を発見した。暴力事件を起こしたのは韓国人だが、中国人も入店不可にしているのは、どちらもアジア人種で顔が似ており、またナショナリズムの強さが感じられるからであろうか。テレビの報道では、韓国人の入店を断っている店が多いとされていたが、私たちが対馬巡検中に見た韓国人入店お断りの看板は、この一軒のみであった。

国道まで降りたところに、対馬市交流センターの建物がある。向かいには銀行や郵便局があるという、街の一等地に位置している。センターには、TIARA(ティアラ)という愛称がつけられ、1,2階にテナント、3,4階に対馬市の公共施設が入っている。離島振興の補助金(内訳:国費12億7400万円、県費6億6100万円、市費5億8100万円、その他補助金7300万円)をもちいた都市再開発事業(保留床処分金29億7600万円)によって建設され、2006年10月7日にオープンした。全部で16店舗入っていて、その内10店舗が島内資本である(商工会100万会員ネットワークホームページ)。

非常に大きく立派な建物で、中に入ると韓国人観光客でにぎわっていた。

1階は、「総合食品、ファッション、靴、雑貨、薬、化粧品、味の専門店」とあった。「レッドキャベツ」という、九州北部と山口県に店舗網をもつ食品スーパーが、しゃれた店作りの大きな売り場を出している。 韓国食材コーナーには、キムチの素やトッポキ、インスタントラーメンが置いてあったが、コーナー自体は人1人分の幅ほどしかなかった。しかし、駄菓子のコーナーは、昭和の雰囲気を感じさせるテレビやポスターが貼ってある部屋が設置してあり、テーマパーク的なノリで、非常に力が入っている印象だった。店の規模は、食材を買いに来る地元の人だけを相手にしているにしては大きすぎる。商品の表示には、すべてハングルが付記されている。スーパーには、唾・煙草の吸殻・ガムを吐かないでくださいというものや、店内で食べないで休憩室をご利用くださいという旨の掲示があった。手頃な海外旅行で日本に来た中産階級の韓国人観光客が、気軽に立ち寄って、日本の食材や生活用品をおみやげとして気軽に購入できる店として、好評を博している様子である。

2階は、イベントホール、生活雑貨、ホビー・ファンシー雑貨、ファッション雑貨のフロアである。「あすなろ」という衣料や雑貨品の店には500〜1000円程度の激安婦人服や、かばんが並んでいる。向かいには「得得屋」という100円均一の店がある。2階のスペースはほとんどこの2店が占めており、「レッドキャベツ」同様、安さを売りにして、厳原の住民のみならず、韓国人観光客を集めている。100円均一の店員の話では、韓国人客は夜に多く、昼は観光をしているのではないかということであった。店内を見回すと、確かに日本人の客よりも韓国人の客の方が多く、韓国語で「店内で飲食しないでください」と書かれていた。金さんは、文法が間違っていると指摘していた。

3階は、下対馬離島開発センター、厳原地区生涯学習センター、厳原地区公民館が入っており、私たちも足を踏み入れた。離島開発センターには、“韓日親善アリランの鐘”が展示されていた。銘文は、旧漢字とハングルで「日本国対馬島は、韓国の義士勉菴崔益鉉先生が抗日殉国した故地である、壬辰倭乱後対馬藩の尽力で朝鮮通信使が最初に来日したところです。先生の遺徳を追慕し韓日両国の永遠なる友誼と敦篤なる親睦を期し「アリランの鐘」を対馬島厳原に寄贈します」と記してあった。韓国から送られたものなので「韓日」親善となっている。勉菴崔益鉉という人物は、1906年に全羅北道で抗日の挙兵をおこした。捕えられて流刑となった場所が対馬である。対馬にて断食による抵抗活動を行い死亡、韓国全土に抗日活動が拡大するきっかけをつくった人物である(辛基秀編著『写真集 韓国併合と独立運動』労働経済社p164)。抗日運動家を象徴する鐘の展示によって、対馬市は、朝鮮の植民地支配という過去の歴史に対する反省の意の示そうとしているのであろう。

また、ごみ拾いを提唱するポスターも掲げられていた。これには、日本語と韓国語で文章があって、まず「国境の島対馬」とあり、韓国との距離は49.5km、対馬海流に乗って外国から漂着ゴミが流れ着く一方、地元で捨てられたと思われるゴミも多いので、海岸のゴミを利用してポスターを作ったと書かれていた。使われたゴミは、意図的ではないにせよ、ハングルのパッケージが多いような印象を受けた。

4階は、対馬図書館、ギャラリー・研修室、南地区教育事務所があるが、既に消灯しており中に入ることはできなかった。 4階の窓から見下ろすと、センター3階の屋根にあたる部分が見える。瓦が敷いてあり、江戸時代に町人町だった厳原をイメージしていることが分かった。なかなか凝った日本風の造りであり、これならば韓国人観光客も満足するだろう。まさに、「ロッテデパート」対馬店といった趣で、韓国人観光客に愛用されている。

ショッピングモール1階の一角には、韓国語支援センターがあって、この施設を利用する韓国人観光客に、言語面での支援を提供している。だが、時間が遅いからか、モスバーガーの韓国語表記のメニューが吊り下げてあるだけで、人はいなかった。ハングルの貼り紙を韓国人通訳の金さんに読んでいただいたところ、文法を所々間違えているという指摘があったので、恐らく日本人が作った物だと考えられる。困ったことがあれば連絡をとるようにという旨とともに携帯電話の番号が書かれていた。大きな組織ではなく、市民のボランティアなのかもしれない。商店内のハングルの掲示物も含めて、韓国人ボランティアをとりこみ、掲示類にネイティブチェックを施す必要があるだろう。

帰り道、タクシーを拾うまでの道で「アジト」という定食屋を見つけた。もともとあった「大成韓定食 対馬」という看板を消して、上からアジトと書き換えたようである。韓国語でアジトは隠れ家という意味合いよりも、知られていないたまり場という意味が強く、マイナスのイメージはないそうだ。こうした店名をつかっているところからすると、やはり韓国人御用達の店なのであろう。

タクシーを裏町でつかまえた。行き先を大亜ホテルだと告げると、金曜日だったこともあって、初め、私たちを韓国人だと思ったようだ。運転手の方は、韓国人向けに観光バスを運転することもあるという。韓国人観光客のマナーについては、向上してきているし、日本人にもマナーが悪い人はいると話してくれた。タクシーから壱岐―対馬間を行き来する船の漁火がきれいだと教えていただき、景色を見るために速度を緩めて運転してくれた。

ホテルに戻り、巡検2日目は終了した。

(福永温子)