樺太/サハリンに渡ってきた朝鮮半島出身者

朝鮮半島から樺太/サハリンへの人口移動

巡検前にゼミで私たちは、三木理史著『国境の植民地・樺太』(塙書房、2006年)を勉強した。
 それによれば、樺太/サハリンの朝鮮半島出身者は、「日本時代に労働のためにきた者、徴用できた者、そして戦後ソ連時代に蜜月状態にあった北朝鮮から労働のためにきた者、の3系統に大きく分かれる」(102ページ)という。
 帝政ロシア時代のサハリン州に、朝鮮半島出身者はわずか67人しかいなかった(同、104ページ)。だが、1910年、日本が朝鮮半島を植民地化すると、しだいに樺太/サハリンにおいて、炭鉱労働者などに朝鮮半島出身者の社会増加が目立ちはじめた。
 寒冷な日本の辺境であった樺太/サハリンの炭鉱で働く労働者を集めることに困難を感じた三井鉱山株式会社が、1917年に110人の坑夫を朝鮮から募集・使用したのを皮切りに、おもに男性が朝鮮半島から樺太/サハリンに渡航し、林業、炭鉱、土木などの肉体労働に従事するようになった。1922年、大泊/コルサコフに遊郭が設置されたのをきっかけに、女子が、樺太/サハリンで風俗営業従事者となるケースも増えてきた。
 一方の朝鮮半島では、朝鮮半島の植民地化に伴い日本の高利資本が、税金の負担にあえぐ農民に吸着して土地を収奪し、農民が土地を失って流民化していた。わざと日本政府が高額の税をかけて朝鮮の人々の土地を収奪し、収入の道を失った人々を労働力に仕立て上げる、という本源的蓄積にも似た構図があったのだ。
 このような元農民にとって、第一次世界大戦後の日本の好況にもかかわらず労働力が不足していた樺太/サハリンが、格好の労働市場を提供した。
 すなわち、朝鮮半島から樺太/サハリンへの人口移動は、物理的な暴力を伴った「強制連行」というわけでは必ずしもなく、いちおう経済のメカニズムを媒介した日本国内の域内人口移動が多かったものと考えられる。だが、その背景には、日本が宗主国として君臨していなければ不可能であった、市場メカニズムの枠組み自体の政治的な操作が存在していた。
 朝鮮半島出身者の労働市場は日本人のそれから分断されており、朝鮮半島出身の労働者は、樺太/サハリンでも、日本人より低賃金で搾取された。
 朝鮮半島の人々は、日本本土経由や、1927年に開設された釜山(プサン)〜門司〜伏木〜小樽〜大泊/コルサコフ〜真岡/ホルムスクの航路で来島した。また、朝鮮半島北部から、シベリア・沿海州に渡った人々が、日本のシベリア撤兵後に、当時まだ日本軍が占領していたアレクサンドロフスク・サハリンスキーなどに渡り、その後日本が樺太/サハリン北部から撤兵すると、日本に付き添うような形で南樺太/ユジヌイ・サハリンに来るという、右図(出所:サハリン州立郷土博物館)のようなマイグレーションのルートもあった。いずれにせよ、日本の樺太統治がつくりだした労働市場が、朝鮮半島の人々をひきつけたのである(三木、前掲書、110−114ページ)。
 日本の敗戦時に、樺太/サハリンにどれだけの朝鮮半島出身者がいたかについては、定説が無い、と三木氏は述べ、約43,000人または15.000人という2つの可能性をあげている(158ページ)。


敗戦国日本が放置した朝鮮系の人が、北朝鮮国籍を取得、北朝鮮へ帰還

1945年、敗戦に伴い、日本は樺太/サハリンの実効支配を失う。無謀な侵略戦争を引き起こして敗北した日本政府は、樺太/サハリンで、多くの民間人をソ連軍の戦火に巻き込み、あるいは逃避行の過程などで悲惨な状態に追いやった。
 そればかりか、朝鮮半島の主権をも失った日本政府は、樺太/サハリンの朝鮮半島出身者についてはその存在すら無視し、無責任な放置をおこなった。GHQも、ヤルタ協定などによって分割された戦前の日本領のうちソ連に与えられた地域の問題であるとして、関心を示さなかったものと思われる。
 樺太/サハリンの実効支配をはじめたソ連にとっては、朝鮮半島出身者は格好の労働力であり、また農産物供給の担い手として重宝であった。

朝鮮半島が南北に分断されると、朝鮮系の人々には、北朝鮮となった領域に出身地を持つ者と、韓国となった領域に出身地を持つ者の両方が存在することとなった。
 冷戦下で、ソ連は北朝鮮を勢力圏におき、韓国は敵対する米国の勢力圏とみなしていたので、樺太/サハリンの朝鮮系の人々が韓国に国籍移動したり帰国したりすることは不可能だった。
 戦前の日本は、朝鮮半島北部で工業開発・資源開発を重点的に進め、南部の経済は農業中心だった。このためもあって、戦後も、北朝鮮で工業化がより進んでおり、政治・経済的に安定していた。
 それゆえ、はじめのうち、樺太/サハリンの朝鮮系の人々の間で、北朝鮮に対する評価は高かった。
 50年代になると、朝鮮系の人たちの間で、国籍をはっきりさせようとする風潮がでてきた。何とか故郷に帰りたいと思った2万5,000人が北朝鮮国籍をとった。1万人はソ連国籍をとった。そのほかどちらでもよいとしたのが5,000人くらいいた。右図はこれを図示したものである。
 60年代に入ると、樺太/サハリン在住朝鮮系の人々の北朝鮮への移住が始まった。これは、日本で、北朝鮮への帰還事業が起こったのと同じころだった。
 北朝鮮政府は、北朝鮮国籍をとり北朝鮮に帰国した者には、無条件で金日成(キムイルソン)大学に入学させ、卒業後は希望の就職先につけるよう約束した。このこともあって、たくさんの人が、北朝鮮に帰っていった。


北朝鮮に対する疑問とソ連国籍への移動

しかし、北朝鮮に帰り希望の職業に就いた人々は、徐々に、組織ぐるみで色々な因縁をつけられて職場にいられないようにさせられ、やがては平壌(ピョンヤン)を追い出されてちりぢりになっていった。
 私たちの巡検を案内して下さった成様は、当時、記者として、北朝鮮に渡ったが消息不明となった元朝鮮系の人の名簿を作り、モスクワの北朝鮮総領事館に提出した。だが、返答はなかった。自分の子供たちを北朝鮮に送り出した両親は、「自分の息子や娘が生きているかどうかだけでもいいから教えてほしい」と北朝鮮に嘆願したが、これにも返信はなかった。
 70年代には、樺太/サハリンから北朝鮮へ観光団が派遣された。だが最終的に、樺太/サハリンの朝鮮系の人々の間で、「北朝鮮はダメな国だ」との認識が根を下ろした。

その結果、北朝鮮国籍をとった朝鮮系の人々は、ソ連国籍に移ることを希望するようになった。その背景には、北朝鮮国籍では移動の自由がない、大学入学や昇進に影響が出ることも理由にあった。しかし、北朝鮮側はどうしてもこの国籍離脱を認めなかった。
 北朝鮮国籍を離脱してソ連国籍を取得できないことの不満がソ連政府に向かってきたため、ソ連政府は、北朝鮮の許可の有無に関わらず、北朝鮮国籍を離れるという嘆願書と、北朝鮮のパスポートを北朝鮮の在外公館に送ったという証明書をソ連の内務省に送れば、ソ連国籍を取れるようにした。その結果、北朝鮮国籍をとった人のほとんどが、ソ連国籍への変更を希望し、80年には、朝鮮系の人々の国籍は、3万5000人がソ連国籍、2500人が北朝鮮国籍、500人が無国籍となった。右図はこれを図示したものである。


同胞の仲間たちとともに、ソ連に根付く

このように、冷戦体制の中で翻弄された樺太/サハリンの朝鮮半島出身者であったが、そこには仲間もいた。戦前のソ連には、もともと、国境に近いシベリア地方に朝鮮系の少数民族がいたが、第2次大戦中、スターリンは、これらの朝鮮半島出身者が日本と連合することを恐れて、はるかかなたの中央アジアに強制移住させてしまった。
  これらの人々が、戦後すぐ、樺太/サハリン在住の朝鮮系の子女に教育を施すため、当時あった朝鮮民族学校に送られてきたのである。水岡ゼミでは、2003年の巡検で、今はソ連から独立したウズベキスタンにて、このような朝鮮系の方々と交流した。その人は、1950年代に、野田/チェーホフの学校にて教鞭をとったことがある、と語ってくれた。
 樺太/サハリンに取り残された朝鮮半島出身者は、こうしたソ連国内における朝鮮系少数民族の一員として、ロシア語を身につけ、優秀な共産党員となる者も現れて、次第に樺太/サハリンの社会に根付いていった。


樺太/サハリンの朝鮮系社会の分断

しかし、日本国内と同様、樺太/サハリンでも、半島の分断を反映して、朝鮮半島出身者の社会は大きく二分されている。
 韓国を支持する朝鮮半島出身の人々のなかには、比較的親日的な人が多く、樺太/サハリンが外国人に開放されたあとは、戦前に学んだ日本語能力を生かし、通訳などとして、日本との関係がつよい、ジャーナリズムや観光業などで活躍している。
 他方、北朝鮮出身の人々は、韓国支持の人々を「日本帝国主義の手先」とみなしているようで、関係はあまりよくない。
 近年は北朝鮮出身者の樺太/サハリン進出が目立っている。これらの人々は、主に、道路などの建設作業員として働いている。北朝鮮出身者は、国の政策で外貨稼ぎのために樺太/サハリンに送られてきた者が多く、既存の朝鮮系の人々の社会に、あまり溶け込んでいない。


したたかに生きる、樺太/サハリンの朝鮮系の人々

無国籍の人も含めると、現在、約4万3千人の朝鮮系の人々が樺太/サハリンに在住している。日本政府は、ソ連崩壊後、これらの朝鮮系の人々が韓国に永住帰国することを助けるため、韓国に、帰国者のための住宅を建設した。しかし、帰国を必ずしも望まない樺太/サハリン在住の朝鮮半島出身者は多い。
 8月29日に、豊原/ユジノサハリンスクの韓人協会で調査した徐先生の話よれば、その理由は、子や孫がロシア語しかできない傾向になっていること、韓国で収入を得る機会が乏しいこと、韓国政府が、永住帰国に際し、ロシア国籍の放棄をもとめていて、いったん韓国にもどると樺太/サハリンで仕事をすることが困難になること、などであるという。このため、近い将来、日本政府は、その資金で、韓国の文化センターを豊原/ユジノサハリンスクに開館することとしているようである。
 しかし、樺太/サハリン在住の朝鮮系の人々は、決して「援助がないと生きられない、戦争で虐げられた弱者」ではない。ソ連が崩壊し、市場経済化がすすむと、朝鮮半島の出身者は、デパートを経営するなどして、積極的に起業をはじめた。朝鮮系ロシア人と白人のロシア人との所得差はあまりない。
 また、貿易の面で、ロシアと韓国との橋渡しをしており、韓国のキムチなどロシア人があまり食べないものが樺太/サハリンに流入しているし、近年はサハリンプロジェクトの物資輸入の関係で、韓国からの輸入額が大幅に伸びている。
 現在のサハリン州の民族構成は、ロシア人81.6%、ウクライナ人6.5%、朝鮮・韓国人5.0%(北海道サハリン事務所の資料)となっていて、その社会的プレゼンスは大きい。 
 白人のソ連・ロシア人から朝鮮系の人への感情的な差別は、ほとんど無いという。過去には、排外主義のロシア人集団が朝鮮系の人を暴行したとか、社会主義時代に朝鮮学校と白人のロシア人学校の生徒同士がけんかしたなどの事件もあったらしい。だが、このような少数の事件のほかに、一般には、差別の話は聞いたことがない、と私たちの巡検を案内された成様はおっしゃっていた。
 このように、朝鮮系の人々は、その能力と適性を生かし、樺太/サハリンにおいて誇りある市民として、今日もしたたかに生きている。


日本統治のもとで生きた、成様の幼少時代

私たちの巡検に通訳として同行してくださった成点模様は、朝鮮系の2世だ。1929年、日本政府が朝鮮半島で大泊/コルサコフの道路工事の労働者の自由募集を出した。「強制連行」と考えられがちだが、成様は、そうでもありそうでもない、とあいまいに表現され、「あくまで自由な募集で、父親が希望して行った」と話しておられた。
 樺太/サハリン行きを決心した理由は、冒頭に述べた理由で、成様の父親が農地を失ったからである。成様の父親は、朝鮮で自作農をしていたのだが、日本政府が多額の税金をかけたため、経済的に窮し、土地を担保にお金を借りてしまった。しかし、家計が一向に良くならないため、結局返済できず、土地を手放さざるをえなかった。
 成様のご尊父は、大泊/コルサコフで、道路工事の仕事に2年間従事した後、家族を樺太/サハリンに呼び寄せた。約1haの畑を留多加(るうたか)/アニワに所有し、樺太/サハリンで再び自作農となった。ジャガイモや野菜を栽培し、生産物をその町の商店に収めて生計を立てていた。
 成様は、留多加/アニワでは日本の尋常小学校に通った。朝鮮人の家庭は、留多加/アニワに4〜5軒しかなかった。留多加/アニワの尋常小学校は生徒数が900〜1000人もいたから、朝鮮人はクラスで1人、全校でも4〜5 人しかいなかったことになる。小学校では別段、朝鮮人だからといって差別されることは全くなかったという。最近も、札幌で同窓会があり、出席したくらいだ。同じ民族が多いと逆に民族差別が発生するのであり、このように少数だとみんな仲良くやっていけるのではないか、と成様は仰っていた。
 小学生だった成様は、日本人の小学生とおなじように、学校が終わると、かばんを置いて夕ご飯まで友達と遊んでいた。家では朝鮮語、学校では日本語という生活で、ひとりでにバイリンガルに育っていった。これは、成様のご家庭が、家では子供に朝鮮語を使わせるという厳しい躾をつらぬいたからである。家でも日本語を使っていた朝鮮人の家庭では、朝鮮語が話せなくなった子供たちもいたという。
 そして、成様は戦後になるとロシア語もマスターしたので、今では、ロシア語、朝鮮語、日本語の3ヶ国語がそれぞれネイティブレベルに上手な、トライリンガルである。ただし、お子様は、ロシア語が中心で、朝鮮語も日本語もできない、と残念がっておられた。


樺太/サハリンに永住を決意、ソ連人として生きた戦後の成様

戦後、樺太/サハリンはソ連の統治下に置かれ、農産物の取引先がソ連人になった。成様は、何とか日々を過ごしながら、生活の中でロシア語をすこしずつ覚えていった。1日に単語ひとつ覚えても、1ヶ月たてば30の単語を覚えられる。
 成様は、戦後、安定した生活を得るために、農村に再び移って、1年間くらい農業をしていた。このころまでは国籍については全く考えたことがなかった。それは、成様のご尊父が、「いつかは朝鮮半島に帰れる」といつも息子の成様に教えていたからである。
 しかし、いつまで経っても朝鮮半島に帰れる見通しはでてこない。そこで、ソ連に永住することを決心し、ロシア語をきちんと学ぼうと、1958年ごろ、働きながら夜間学校に通うことにした。夜間学校は7年生まであって、そこを卒業したら、そのまま8,9,10年生になるか、専門学校に進学するか、中等専門学校(単科大学)に進学する。成様はそこで、1年だけ通った後その学校を辞め、林業監視官や商業監視官をやりながらハバロフスクにある財政専門の通信大学で学んだ。
 卒業後、ティモフスクで、国からのお金をきちんと使っているかを監査する財政監視員を1962年から1966年まで行った。その後、年金生活に入るまで、ラジオ局や、現地の朝鮮語新聞である新高麗新聞社で、ジャーナリストとして働いた。

1981年に、樺太/サハリンと北海道の労働組合の交流会で通訳として、成様が戦後はじめて日本に行った。この交流会では、金沢や鹿児島、北海道の苫小牧を回った。30年以上日本語を使っていなかったので、最初はさすがにロシア語しか出てこなかったが、これをきっかけに日本語を思い出すようになった。この時に小学校時代の友人たちの連絡先がわかり、それをきっかけに、札幌で尋常小学校時代のクラス会が行われた。

新聞社を退職し、年金生活に入ったところに、NHKサハリン支局から成様に通訳の仕事の依頼が来て、通訳の仕事をすることになった。
 はじめは1年という契約だったが結局10年間つとめ、つい最近の2004年末までここで働いていた。最後の送別会は東京と札幌で行われた。ここから見るとおり、成様がいかに樺太/サハリンで重要な役柄にいらっしゃったかがわかる。現在NHKでは、白人と朝鮮系の二人のロシア人が通訳を勤めている。

このように激動の人生を歩んできた成様は、なぜ、朝鮮や、日本に移住しなかったのだろうか。成様は、ご自身に韓国などでの生活基盤がなかったとおっしゃられたが、それ以上に、成様ご自身が、ソ連社会の中で生きようと必死の努力を重ね、「ロシア人」としてのアイデンティティーを確立していったからだ、と私たちは思う。
 一見、「強制連行、侵略戦争の被害者」として、受身な弱者とみられがちな樺太/サハリンの朝鮮系の方々であるが、その生きざまは、このように強靭だったのである。


(栗野令人)

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