サラエボ事件

8月30日の巡検報告にも記したが、第一次世界大戦を引き起こすきっかけとなったサラエボ事件でのオーストリア皇太子暗殺のシチュエーションについて複数の見解があることを、私たちはこの巡検中に知った。このページでは、8月30日の巡検報告本文の中に記した、私たちが巡検中に現地の方に見聞きしたものの他、帰国後調査するなかで出てきた説をいくつか取り上げ、紹介しようと思う。

注:1914年のオーストリア領当時、通りの名称は現在のものとは異なって、オバル・クリン通り(Obala Kulina bana=ミリャツカ川沿いの通り)は当時「アペルキュー」という名称で、ゼレニー・ベレッキ通り(Zelenih beretki=オバラ・キュリナ・バナ通りのすぐ北に、それとほぼ平行に走る通り)は「フランツヨゼフ通り」という名称で呼ばれていた。




見解@ 「Spartacus Educational」の説

アペルキュー沿いには7人の刺客が並んでおり、二人目のネデリコ・キャブリノビッチが大公の車に爆弾を投げつけるも、飛んでくる爆弾に感づいた運転手がスピードを上げたために成功せず、大公の後ろの車の下で爆発する。それをみた大公の車の運転手は危険を察知し、スピードを上げ市役所に向かった。残っていた「黒い手」のメンバーは、あのスピードで逃げられては攻撃は命中しないだろうと予測し、諦めてそれぞれ帰った。この時プリンチップはラテンブリッジのそばの軽食屋の「シラーの店」に立ち寄った。

フランツ・フェルディナンドは市役所での歓迎会に出席した後、後ろの車に乗っていた一行が重体であることを知り、見舞いに行くと主張する。大公の部下は「危険だからやめたほうがよい」と言うも、皇室の一行の安全の責任者だったオーストリア総督のポティオレックが「サラエボという街が暗殺者で溢れかえっているとでも言うのか」と一蹴し、見舞いに行くことになった。しかし大公夫人は市役所にとどまっていた方がいいという案にはポティオレックも賛成した。しかし大公夫人は「今日大公が人前にいる限り、私も彼のそばを離れないわ」と主張し、結局大公を同伴することになった。

市街地を避けるため、病院に行くためにアペルキューを直進しなければとオーストリア総督ポティオレックは思っていたのだがそのことを運転手に伝え忘れていたため、運転手はフランツヨゼフ通りに入るためラテンブリッジの付近で右折してしまった。なお、右折したちょうど角のところにプリンチップが帰り際に入った、シラーの店がある。

そこでポティオレックは、「そっちは違う!アペルキューを真っ直ぐだ」と言った。そこで運転手がブレーキを掛けバックし始めたところで、「シラーの店」から偶然出てきたプリンチップに出くわした。プリンチップは驚きながらも拳銃を手にし皇太子夫妻を射殺した。

6.シラーの店

解説: 上記の流れ以外にも詳細まで事細かに書かれているページである。ただ、皇室の一行の安全責任者であったポティオレックが「サラエボという街が暗殺者で溢れかえっているとでも言うのか」という発言を残したために見舞いに行くことになったというのは多少疑問が残る。そのような役割の人間なら、過敏すぎるほど大公の安全に気を配ってもいいからである。しかし、大公が「どうしても見舞いに行きたい」と力説している以上、総督としてはそれを無理にやめさせることはできず、むしろ大公の立場に立って部下を説得すべきだと考えてそう行動したのであろうか。だが、爆弾事件がすでに起こっており、事実サラエボは危険だったわけであり、そのように説得する根拠が乏しい。ポティオレックの判断に、疑問が残る説である。


見解A 「Green History Site」の説

セルビア人の刺客7人がアペルキューに並んでおり、フランツ・フェルディナンドの一行にキュムリア橋(=ラテン・ブリッジの西にある橋)付近にいたネデリコ・キャブリノビッチが爆弾を投げるがフランツ・フェルディナンドには命中せず、近くにいた人間が死傷した。プリンチップは一行が市役所に向かうときに射撃できなかったので一度あきらめて引き上げ、帰りにシラーの店に立ち寄った。 

この後一行は市役所で歓迎パーティを済ませた。その後、危険を予期したためかその後のツアーは中止することにした。オーストリア総督のポティオレックは帰り道には皆が予期した道ではない代わりの道、つまり来たままの道を通るべきだと思った。(来た道をそのまま引き返すというのはパレードにおいては通常ありえないコースだからであろう。)しかしこのとき彼はそれを車夫につい言い忘れた。その後車は市役所に向かうときに来た道(=アペルキュー)を通って帰り、しばらく直進した後車は右折して細いフランツヨゼフ通りに入ろうとした。そこでポティオレックが車夫に「そっちに行くな、戻れ」と言った。車夫は引き返そうと思い、一瞬車が止まったところでそのときシラーの店から偶然出てきたプリンチップに射殺された。

解説: 大筋は見解@と同じであるが、アペルキューを引き返した理由が「ツアーの続行を危険と判断したため」であり、さらに帰るルートも「皆が予期しないであろう道を通ろうとした」結果であり、ポティオレックの判断が見解@とは180度違う。


見解B 「WW1」の説

アペルキューに並んで待機していた7人の刺客のうち、ネデリコ・キャブリノビッチは発火線を街灯に叩きつけ、アペルキューを直進していた大公の車に投げつけた。車のオーナーであるカウント・ハラッチはこの音を聞き車がパンクしたのだと思い、運転手に車を止めるよう指示した。しかし黒い物体(=爆弾)が飛んでくるのが目に入った運転手は真逆の行動を取り、アクセルを踏み加速した。結果、狙いとは違うところで爆発が起きるようになったわけだが。大公も何やら飛んでくる物体が見えていたので、夫人にそれが当たらないよう手を伸ばし、物体をはじいた。はじかれた爆弾は後ろに転がり、爆発し、十数名にケガを負わせた。

その後一行は市役所に到着し、市長に「なんて街だ!」と文句を言った後、予定されていた通り市役所での歓迎パーティに出席した。歓迎パーティの後、午後の予定は変更されることになる。大公は、午後の予定に入っていた博物館見学と総督邸での昼食はそのまま行うが、これに加えて、爆弾で負傷して病院に運ばれたメリージ(Merizzi)の見舞いに行きたいと主張した。なお、見舞いには市長も同席することになった。よって予定を変更することになったのだが、運転手はそのことを知らされてなかった。そのような仕事はの仕事だったからだ。そこでアペルキューを直進し、当初の予定通り博物館に向かう道であるフランツヨゼフ通りに入ったところで、オーストリア総督であるポティオレックが「どっちに行っているんだ?アペルキューを直進だろうが!」と言ったため、運転手は車をとめ、バックを始めた。そこのタイミングで、帰りにたまたま立ち寄っていたシラーの店から偶然現れたプリンチップに射殺された。

解説:射殺の場面以外でも、爆弾が投下されたシーンの描写などがとても詳しい。また運転手に道を伝える仕事が、負傷したメリージ(Merizzi)の仕事だったとしている点、そして,フランツヨゼフ通りに車が入った理由が、当初の予定をそのまま実行しようとしたからだという点が興味深い。確かにこう考えれば、つじつまが合うからである。


まとめ


様々なサイトを見てみたが、大体上記のような流れで記述されている。よってこのような流れで事件が起きたことは、ほぼ確実と思っていいであろう。

しかし、細かい描写を除いた上で、最も意見が分かれるポイントは、フランツヨゼフ通り方向に車がいったん曲がり、それが間違った道だからというのでシラーの店の前で車がバックした理由であろう。病院に行くことを運転手が知らなかったから、またポティオレック氏が危険を察知したから、あるいは博物館へ行く当初の予定を実行するつもりでいたから、など様々である。つまり、市役所にて大公一行の間で話し合い決められた、変更後の「午後の予定」の内容さえ分かれば、事件の流れの全貌は明らかになるのであろう。これが分からない限りは、全ての説は推測の域を出ないであろうと思われる。 ただ、この3つのストーリーいずれにおいても、カイザー橋はまったく登場しない。8月30日の午前中に私たちがガイドから聞いた話も、また、ネザドさんから聞いた話も、正確ではなかったことになる。

しかし私たちはこの一件によって、歴史とはこれほどまでに曖昧である、ということを再認識させられた。数々の証言(その中にはもちろん、各自の利益が絡んだウソの証言もある)によって左右させられながら、客観的な事実がどうであるかとは相対的に独立に、歴史は徐々に言説として固定化していくものなのである。もっとも、サラエボでのわれわれの経験からすれば、これからのボスニア・ヘルツェゴビナ連邦では、この歴史の言説は、逆にさらに曖昧化されていくことになるのかもしれない。

(濱田淳)