コソボ問題の背景

現在のコソボの地域に古く紀元前から住んでいたのは、アルバニア人の祖先のイリュリア人であるという説が有力である。イリュリア人はイリュリア王国を建設するが、ローマ帝国によって滅ぼされる。

7世紀ごろ、スラブ人がこの地域に流入を始め、12世紀後半に、セルビア人が、東ローマ帝国を押しのけて中世セルビア王国を建国した。その領域は、南はほぼ現在のアルバニアのシュコデルのあたりからマケドニアの国境、西のはずれはアドリア海に面する現在クロアチア領のスプリット付近、北はベオグラードから南におよそ80kmのあたりでハンガリーと接し、東は現在のブルガリアとの国境線とほぼ同じ辺りまでひろがっていて、現在のコソボよりも数倍広い。だが、コソボをほぼ包含しており、セルビア人はコソボを「揺籃の地」と主張している。また、セルビア正教の総主座が現在コソボ内にあるペーチに置かれたことは、コソボが「セルビアの聖地」でもあるという見方を生んだ。これらを理由に、セルビア人は、コソボの独立を到底受け入れがたいと唱えている。( http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Serbia )

1912〜13年のバルカン戦争に敗北したオスマントルコは、バルカン半島のすべての領土を放棄した。このときアルバニアは、バルカン地域南部での覇権確立を目論んでいたハプスブルク帝国の支援を受け、アルバニア共和国として独立を果たす。

だが、アルバニアの国境画定の際、セルビア王国は、コソボに多くのアルバニア人が居住しているにもかかわらず、上記の理由からコソボの領有を主張した。セルビアは大セルビア主義の実現のために、コソボやマケドニアを狙っていたのである。結局、アルバニアの国境はフランスが提案した現在のものに落ち着き、コソボと現在のマケドニアはセルビア王国に帰属することになった。こうしてアルバニア人はアルバニア共和国とセルビア王国に分断された。

第二次世界大戦後にできた社会主義ユーゴスラビアにおいて、コソボはセルビア共和国の自治州として位置づけされ、チトー率いる旧ユーゴにおいて、大きな自治権を与えられていた。コソボ自治州に与えられていた自治権の拠り所となっていたのは1974年に制定された憲法だった。

しかし、この状況は1980年のチトーの死によって揺らいでいく。1981年にコソボの経済状況への不満がデモという形で現れた。ゼミで使用したテキストの、柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)によれば、「アルバニア人学生が学生寮食堂の料理のまずさに不満をぶつけ、食堂を破壊したことが『コソヴォ事件』のきっかけであった」(P.137)とある。デモは規模を拡大し、アルバニア人住民はコソボを共和国へと格上げすることを政府に求めた。コソボ事件が起きたあたりから、コソボでアルバニア住民のセルビア住民に対する逆差別が目立つようになる。

1980年代末、このような背景のもとで、スロボダン・ミロシェビッチが登場する。ミロシェビッチはセルビア人の民族意識をあおり、セルビア中心主義的な政策をとった。やはりゼミで勉強したテキストのノーム・チョムスキー著『アメリカの「人道的」軍事主義 コソボの教訓』(現代企画室)によると、「憲法改訂と行政措置により、コソボの自治を実質上廃止した」(P.49)とある。「1990年9月、非合法のコソボ議会はコソボを独立国家と宣言し「カチャニク憲法」を採用した」(同書、P.52)。

1991年に独立の是非を問う秘密の住民投票が行なわれ、非合法ながらもほぼ100%の支持を得た。同年10月にコソボは独立を宣言。アルバニアはこれを承認したが、セルビアや「国際社会」つまり欧米主要国はこれを認めなかった。「1992年5月のコソボ大統領及び議会選挙では、唯一の大統領候補者だったルゴバが投票数の99.5パーセントの支持を得て大統領に選ばれ、彼の政党であるコソボ民主同盟(LDK)が議会で75パーセントの議席を獲得した」(同書、P.52~P.53)。ルゴバは非暴力による独立運動を展開していく。1990年代後半から、武力によりコソボの独立を目指すコソボ解放軍(KLA)の活動が活発化する。1998年ごろには、KLAとセルビア軍の武力衝突が活発になる。

なぜ、「国際社会」は、スロベニア、クロアチア、マケドニアなどの独立を相次いで認めながら、コソボだけには独立を認めなかったのか。その理由は、第2次大戦後に国連が創立されたときの暗黙の了解である、「戦後国境線の不変更」にある。国境線を神聖でそれを犯すのは侵略行為とみなすことによって、第2次大戦の戦勝国は、その戦勝権益を永遠化したのである。この系論として、ソ連やユーゴのように、既存の国が解体するとき、その解体の単位は、最上位の自治行政区画の境界線に限られる、という原則が生じた。モスタルでクロアチアが試みたような、その行政区画境界その変更は、やはり「侵略行為」として認められなかった。つまり、コソボが独立を認められなかったのは、純粋に旧ユーゴスラビアの国内政治から来た理由、すなわちコソボが共和国の地位を旧ユーゴ内でもっていなかったからというにすぎない。このような不条理には、アルバニア人でなくても憤りを感ずるであろう。

1999年にNATOが介入してフランスのランブイエで和平交渉が行なわれた。このとき提案されたランブイエ合意は、@NATOのコソボにおける軍事的占領と実質的政治支配、A新ユーゴ連邦(FRY)全体におけるNATOの実質的軍事占領、B合意後3年後の独立の是非を問う住民投票の実施、の3点が主な内容だった。ランブイエ合意は、表向きはNATOからの和平提案のように見えるが、実際は「セルビアとFRYに対して『同意するか爆撃を受けるか』という最後通告として提示された」(同書、P.171)ものである。

1999年3月23日、セルビアはランブイエ合意を拒否した。そしてその翌日から、NATO軍は国連決議なしにセルビアへの空爆を行なった。NATOはセルビアが和平案に合意するまでは爆撃を中止しないという立場をとり続けた。

1999年6月3日、NATOとセルビアの間でコソボ和平合意が結ばれた。これにより、コソボの政治的管理は国連安保理が国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)を設立して行うとされ、軍事管理は国連主導の国際的な治安部隊の駐留によって行なわれるとされた。軍事管理に関してこれ以上の記述はないが、実際にコソボの軍事管理を行なっているのはNATO指揮下の国際安全保障部隊(KFOR)である。この管理体制は現在でも行なわれている。

1999年の空爆に関しては、チョムスキーの批判が的を射ている。当時のクリントン大統領は演説の中で、「われわれはあらゆる場所での悲劇に対応できるわけではないが、民族対立が民族浄化に転化したとき、われわれが事態を変えることができるならば、そうしようとすべきであるし、コソボはまさにそうした状況なのだ」(同書、P.19)と述べた。コソボのアルバニア人を民族浄化から守るという「人道的」な理由で、NATOは空爆を行なったと主張する。

だが、本当の理由は、冷戦終結後、中欧のかつてのソ連衛星国が次々と市場経済を導入しロシアから離れて行ったのと入れ替わるように、かつてソ連から自立していた旧ユーゴの中心セルビアがロシアとの関係を強めていくのを警戒したのである。実際、セルビア人の「テロ行為」が激化したのは、空爆が行なわれた後のことだった。アメリカにとっても、これは予測できる事態であった。それにもかかわらず、中欧からロシアの影響力を排除し、それを米国の覇権下に移すために、空爆が行われた。

しかし、こうしてロシアとセルビアの覇権を中欧で封じ込めることに成功してしまえば、それで米国はすでに目的を達したのである。あとは再び、戦後の国境不変の原則が事態を支配する。

つまり、コソボのアルバニア人に対し、戦後の国連中心平和主義の基本である「国境不変」のルールを乱す完全独立は認められないのだ。独立をいったん認めてしまえば、将来、アルバニア本国との統一という要求もでてくるかもしれない。コソボとアルバニアが統一されれば、アルバニアが、戦争によってバルカン戦争以来の悲願である領土拡張を実現してしまうことになる。これは、ましてのこと絶対に認められない。

こうしてコソボは、いつ終わるとも知れない国連安保理保護領のような宙ぶらりんの状態に延々とおかれることになった。これが、コソボの現状である。

(山田尚生)