マルコ王の言説
マルコ王について説明するために、もう少しさかのぼってマケドニアの歴史を簡単に見ておこう。
「マケドニア」という名前で有名なのは、紀元前に東はギリシャから西はインダスまでを支配し、ヘレニズム文化を開花させたアレクサンダー大王のマケドニア帝国だろう。我々が現在マケドニアと読んでいる場所は、このマケドニアとは地理的に異なり、その北方の一部分である。

アレクサンダー大王以後、マケドニア帝国は各地で分裂し、マケドニアを含む地中海一帯はその後、ローマ帝国の支配下に入った。ローマ帝国が東西に分裂した後は、マケドニアは東ローマ帝国(通称ビザンツ帝国)の支配下となる。この時期から、今のマケドニア人の祖となるスラブ系の民族がこの地に移住してきた。ということはつまり、現在のマケドニア人はアレクサンダー時代の古代マケドニア人とは人種的なつながりは無い、ということである。

さて、トルコ系のブルガール人によって建国されたブルガリア帝国は、ビザンツ帝国と激しく争い、8世紀にはバルカンの大部分を支配するようになり、マケドニアもブルガリア帝国の支配下となった。しかし、異民族やビザンツ帝国との戦いで疲弊し、帝国はしだいに弱体化する。そして11世紀初頭、ブルガリア帝国はビザンツ帝国に征服されて滅亡し、マケドニアも、この時期から再びビザンツ帝国領となった。
14世紀になると、ステファン・ドゥシャン率いるセルビア王国が台頭してビザンツ帝国領に進出し、マケドニアはセルビア王国に支配される。セルビアの王朝は、マケドニアの地を支配するために地方行政官としてボカシンを任命して派遣した。マルコは、このボカシンの息子である。そしてマケドニアがマルコの時代になると、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマントルコ帝国のバルカン進出が激しくなった。

ここまでがトルコに支配される前のマケドニアの歴史であるが、この後の歴史が問題である。プリリップ城址の丘で、ガイドは私たちに、「トルコ支配の時代が来ることを予見したマケドニア人であるマルコ王は、セルビアを裏切ってトルコに服属する見返りに、この地の独立を保った。マルコ王はその後、ルーマニアで戦死することになるが、トルコによる虐殺や破壊をある程度免れマケドニアの独立を保ったことが、マルコを国民的な『マケドニア独立の英雄』とする根拠となっているのである」と説明した。

しかし、帰国後インターネットを調べてみると、マルコの評価はこれとは大きくことなることがわかった。すなわち、セルビア人であるマルコ王は、トルコの侵略に対して抵抗したものの敗れ、トルコに服属した。その後も、トルコ支配のもとでマルコがこの地の統治を続けたが、マルコはトルコによって戦争に駆り出され、ルーマニアでトルコのために戦って戦死した、という内容であった。

この解釈の違いは、マルコ王に対してずいぶん異なった印象を私たちに与える。ガイドさんの説明によると、マケドニア人のマルコ王は無用な戦いを避け、うまく立ち回ってトルコ支配を認めながらも生き抜きマケドニアの人々を守った、という英雄として語られる。しかし、インターネットの文献にみる説明では、セルビア人のマルコ王はトルコの侵略に抵抗するも屈し、トルコの傀儡となって最後はトルコに利用されて戦死した、という悲劇の人としての印象が強い。

なぜ、一人の人間に対してここまで異なった二つの評価が成立してしまったのだろうか。ただ単に、ガイドさんが説明を間違えてしまっただけなのだろうか。この歴史言説の食い違いは、私たちが経験した、サラエボでのフェルディナント大公暗殺にかかわる歴史言説の食い違いを、想起させる。ここでは、もう少し突っ込んでこの矛盾を考えてみたい。

ここでポイントになるのは、前者の説明ではマルコがマケドニア人であることに対して、後者の説明ではマルコがセルビア人とされている点だろう。正直言って、後者の説明ではマルコ王がなぜ歴史的に名を残しているのかがわからない。侵略してくるトルコ軍を蹴散らし栄光の勝利を収めたというほどの立派なことをした人物だと思われないからだ。むしろ、彼のトルコに対する優柔不断な姿勢が、この地へのトルコ支配を許したのである。なのに、何故このような人物が、「英雄」とされているのだろうか?

これは、旧ユーゴ時代に、セルビアが旧ユーゴ諸国(ここではマケドニア)への求心力を保つために、マケドニア人に対して意図的にマルコ王が歴史的に重要であるという言説を作り上げた結果なのではないだろうか? つまり、中世からマケドニアはセルビア人に支配されており、そのセルビア人のマルコが、トルコの侵略に消極的ながら抵抗し、マケドニア人たちを護ったということをマケドニア人に理解させることで、マケドニアのセルビアに対する恩義の感情と、セルビアとの一体性、そしてセルビアによるマケドニア支配の正統性という意識を植え付けようとしたのではないか、ということである。

ではなぜ、独立後のマケドニアでも、マルコ王がいぜん歴史言説として重視され、かつそれがガイドの説明した内容に改ざんされてしまったのか。ガイドが単純に間違えたのでなければ、マケドニアの旧ユーゴからの独立、つまりセルビアからの独立がその理由であると思われる。旧ユーゴから独立したマケドニアは、ナショナルアイデンティティーを確立するため、シンボルを求めていた。そこで、すでにユーゴスラビア時代から、おそらく学校の歴史教育でも大きく扱われていたマルコ王を利用して、マケドニア人に仕立て上げ、彼を民族的な英雄にしよう、という意識が働いたのではないだろうか。

(長江淳介)