アルバニアの歴史

現在のアルバニア人の祖先は、イリュリア人であると言われている。イリュリア人は、紀元前からバルカン半島に居住していた。

だがその後、イリュリア人の生活空間は、周辺にあるさまざまの強国によってフロンティア拡張の脅威にさらされる。

まず大きな影響を及ぼしたのは、南のギリシャだった。紀元前7世紀、ギリシャ人が、現在の港湾都市デュレスであるエピダムノスなどにいくつかの殖民都市を建設しただけで、内陸に支配は及ぼさなかった。これに対しイリュリア人はギリシャ人と良好な関係を保ち、商業上の取引があったようだ。

西からは、イタリア半島から発生したローマ帝国が徐々にフロンティアを拡張し始める。紀元前3世紀の半ばにイリュリアはローマ帝国と争ったが敗れ、その結果バルカン半島はローマ帝国に支配されることとなった。と言っても、イリュリア人の生活空間は維持され、イリュリア人はかなり独自性を保っていたようで、これはローマ帝国支配下におけるギリシャの位置と似ているかもしれない。

だが、ローマ支配下の安定した時代は長くは続かなかった。東方から移動してきたフン族、ゴート族などの活動によって、ヨーロッパはゲルマン民族の大移動などに見られる激動期を迎える。ローマ帝国も経済的、政治的に混乱し、東西に分裂することになった。イリュリア民族は、東ローマ帝国すなわちビザンツの領域に属した。

イリュリア人の生活空間を本格的に脅かしたのは、この流れに乗って5,6世紀にカルパチア山脈方面からバルカン半島に侵入し、定住したスラブ族、ブルガール族などの民族であった。これにより、イリュリア人の生活空間はその南部だけに限られるようになり、格段に狭まることになる。

この地域に定住を始めたスラブ民族のなかでも、セルビア人は次第に政治力を強め、1343年から、ステファン・ドゥシャンのもとでフロンティアを拡大した中世セルビア王国に併合された。

だが、このセルビア支配は、長くは続かなかった。アルバニアへのセルビア人の移住を伴わないまま、1389年にセルビアは、バルカン半島へとフロンティアを拡張しつつあったオスマントルコ帝国にコソボの戦いで敗れてしまう。

このあと、オスマントルコによるバルカン支配が本格化していった。また、デュレスなど沿岸部はベニス共和国などの支配も受けた。現在のアルバニアの建造環境に大きな影響を与えたのは、この二つの勢力である。

ここで、アルバニアの民族的な英雄、スカンデルベグが登場する。彼は、もともとオスマントルコの元で軍事訓練を受けたのであるが、トルコのアルバニア侵略に対して勇敢に戦った。1443年に、現在のセルビア領ニシュでオスマントルコ軍がハンガリー・スラブ・アルバニア連合軍に敗れた機に乗じて、スカンデルベグはディラナの近くにあったクルヤ城をオスマントルコから奪回し、互いに争っていたアルバニアの氏族社会をとりまとめて、アルバニアという独立の統一国家をはじめて築いた。この功績により、スカンデルベグは、アルバニア建国ならびに独立の英雄として、アルバニア史に名誉ある地位を占めることになった。

だが、1468年にスカンデルベグは病死し、しかしそのアルバニアの独立も、スカンデルベグの死後わずか10年で失われた。こうして1479年から1913年まで435年もの間、アルバニアはオスマントルコ帝国に支配されることになったのである。

オスマントルコの支配が始まった後、多くのアルバニア人が、トルコの支配から逃れるためにイタリア南部やシチリア島に移民していった。これが、今日見られるイタリアのアルバニア人マイノリティーの起源となっている。アルバニア人はもともと、ビザンツの影響のもとでキリスト教徒であったが、アルバニアにとどまったアルバニア人たちはイスラム教へと改宗していった。文字は、アラビア文字が使われた。

だが、19世紀末には、欧州大陸でのオスマントルコ支配が揺らぎ始めた。1881年には、プリズレンで「プリズレン同盟」がオスマントルコからのアルバニア独立を主張し始めた。国家統一の重要な基盤としての文字統一のための会議が1909年にエルバサンで開かれ、ムスリムのアラビア文字や一部に使われていたギリシャ文字を廃止し、ローマ字でアルバニア語を表記することが決まった。

1912年から闘われた、バルカン戦争において、アルバニアは独立をめざし武器をとって闘い、1912年11月28日に独立を宣言する。

だが、アルバニアはすぐに、近隣諸国の領土分割の野望の対象となった。これに乗じてアルバニアの独立を援助したのは、ハプスブルク帝国だった。これは、アルバニア に影響力を持ち、バルカンにおける覇権のフロンティアをさらに南方に及ぼそうとする、ハプスブルク帝国の野望を示していた。

アルバニアの独立問題は、ハプスブルク帝国、英国、フランス、プロシア、ロシアが作る委員会にゆだねられ、これによって独立後の国境が画定されることになった。すでにオスマントルコから独立し、バルカンでの新たな覇権国として台頭していた隣国セルビアは、アルバニアの領土を現在よりもかなり狭い範囲(写真地図で最も内側の線で囲まれた領域)として主張し、現在のコソボやマケドニアを上回る大きな領域の獲得を狙った。逆にアルバニアは、アルバニア人が実際に生活している領域(写真地図で最も外側の線
で囲まれた領域)をほぼカバーする、現在よりもかなり大き目の領土を主張した。結局、独立後のアルバニアの領土は、双方が妥協し、セルビアの主張とアルバニアの主張とのほぼ中間にあたる、フランスが提案した国境線で仕切られた現在の領域(写真地図で真ん中の線で囲まれた領域)に収まった。最初の首都は、デュレスに置かれた。

こうしてアルバニアは、独立国という地位を最終的に確保することができた。同じようにオスマントルコ帝国の支配下にあったクルド人が、第1次大戦後独立国としての領域を確保できず、いまなおトルコ、イラクなどに別れて「少数民族」として居住していることを考えると、ハプスブルク帝国の貢献は大きい。

その後1920年に、アルバニアはゾグKing Zogを国王として王政になり、統一国家としてまとめられてゆく。彼は個人的にもイタリアのムッソリーニと仲がよく、イタリアの影響は政治的にも文化的にも強かった

しかしこの友好関係も、1939年のイタリアによるアルバニア侵攻によって破られた。イタリアは、アルバニアが独立した後、いずれアルバニアに自分のフロンティアを拡張しようと狙っていたのである。侵攻の結果アルバニアは降伏して、イタリアに併合された。イタリアの降伏後はナチスドイツがアルバニアに侵攻してきた。

これに対するレジスタンス運動の主体が、戦後アルバニアを支配する共産党の中心となっていくことになる。

(長江淳介)