この日の午前中は、最もスターリン主義的だったヨーロッパの旧社会主義国の首都、ティラナの視察を行う。その後に、私達は、アルバニア北部の山岳地帯を越えて、今夜の宿泊地、コソボとの国境地帯の町、クケスへと向かう。

「ユーロ」の看板に、西欧への憧れ

午前8時、ティラナの中心広場、スカンデルベグ広場へと向かうため、ホテルのロビーに集合した。各自マイクロバスに荷物を詰め込み、広場へと向けて出発する。

その途中ティラナ市街を車内より観察した。昨日からやはり驚くのは交通状況の悪さだ。アルバニア以外の国の自動車といえば、イタリアナンバーの自動車をよく見かけた。アルバニアとイタリアは歴史的にも密接なつながりをもった国同士で、これは後に訪れる博物館で詳しく知ることができた。

マケドニアやエルバサンにもあった電信送金の会社、ウエスタンユニオンを、ここでも見かけた。アルバニア経済の大きな部分は、海外に出かけた出稼ぎ労働者による送金、ならびに主にイタリア南部に住むアルバニア人マイノリティによる海外送金によって支えられている面が強い。出稼ぎに関しては、イタリア、ギリシャ、トルコなどで、それらの国には、チャイナタウンのような「アルバニア人街」なるものが多数存在するらしい。このように、出稼ぎ労働者、移民という形で、アルバニア人ネットワークは近隣の外国に広がっている。

所々にある「Euro〜」という名前の店が、今朝も目に付いた。

ティラナのランドマークが並ぶスカンデルベグ広場

車は、スカンデルベグ広場(Sheshi Skënderbej, Skanderbeg Square)に到着した。スカンデルベグ広場は、ティラナの中心的な広場である。

ティラナの都市構造

ここで、ティラナの都市構造について、全体的に説明しておこう。

1920年にデュレス(Durres)から遷都され、首都になった。スカンデルベグ広場の近くには、国や市の重要な公共施設、銀行などが立地している。道路網は、この広場から放射状に伸びている。

社会主義になってから、ティラナの中心部を大きく再開発して、この広場と歴史博物館、そして文化宮殿と呼ばれる外国図書の本屋やオペラハウスなどが一体化した複合施設を造ったのである。

社会主義国の主要都市には、大衆を動員するため、このような広場が一般的にある。中国で言えば天安門広場に相当し、かつては共産党関係のパレードや集会など、大規模な催しが行われた。それでもティラナの中心であることに変わりは無い。

広場の周りには、ほかに、ティラナでも最も古い建物の一つであるモスク、ティラナのランドマークである時計塔、そしてアルバニア独立の父として英雄視されているスカンデルベグの像など、ティラナの主要なランドマークが立ち並んでいる。

広場から南に進むと、ラナ川(Lana)を渡る。この辺りの建物には、戦前にムッソリーニ時代のイタリアの影響を受けて建てられたものも多い。つまり、都市中心の建築すべてが社会主義的というわけではない。

ラナ川の南にも中心となる広場があって、マザーテレサ広場(Mother Teresa Square)という名前だ。マザーテレサは、マケドニアのアルバニア人で、アルバニアの誇りになっている。ラナ川の南は道路が碁盤目状に建設されている。私たちの宿泊していたホテル は、マザーテレサ広場の西の方角に立地している。


この日訪問する歴史博物館の開館まで40分ほど時間があったため、広場の周りをぐるりと見学することにした。アルバニアへの数少ない外国人観光客を狙ってか、裏両替屋のような怪しげな男たちが何人も立っており、それでなくても広場の周りは人、交通量ともに多く、活気にあふれていた。中には、広場をバイクで通過していく者もあった。

まずは、広場の南東に位置するモスクへと向かった。このモスクは1789年に建てられ、エトヘムベイモスクEt’hem Bey Mospueと呼ばれている。アルバニアでは、社会主義時代は宗教活動が禁じられていたため、当時このモスクは宗教施設としての機能を失っていた。しかし、アルバニアで最も古い建造物の一つということで文化財として保護されていたため、社会主義政権崩壊後、いちはやくモスクとしての機能が復活した。こういった理由で、60年代の宗教弾圧運動により破壊された他の宗教施設とは違い、未だにその美観を保っている。

私たちはモスクの礼拝堂の内部を見学させてもらおうとしたが、中に入ることは禁止された。非ムスリム、観光者はお断り、ということだろう。しかたがないので礼拝堂の外から内部の様子を伺ったが、他のモスク同様、中央の壁面にくぼみがあり、階段のうえに説教壇があることぐらいしかわからなかった。

私たちはモスクを出て、そのすぐ隣に建っている時計塔へと向かった。この時計塔は、ティラナ市のランドマーク的存在になっており、登るとティラナ市を一望することもできるが、月曜日と木曜日しか中に入ることができない。この日は火曜日だったため、残念ながらここも、中に入ることはできなかった。

次に私たちは、道路を横切って、この広場の名前の由来にもなっているスカンデルベグの像を見に行くことにした。像へと向かう途中も車がなかなか途切れず、また横断歩道があっても車が歩行者に道を譲ってくれるようなこともないので、道路を渡るのに大変苦労した。地元の人が強引に道路を横断するのに乗じて、素早く道路を横断した。こちらに来てから何回目かになるが、車に轢かれるのではないかと本気で心配した。

スカンデルベグ像の前に到着した。スカンデルベグは、15世紀にオスマントルコの支配に抵抗して、アルバニアをまとめてオスマンとの戦いに勝利した、いわゆる「祖国独立の英雄」である。アルバニアのように、政治的、文化的に諸大国の争いのフロンティアとなってきた地域の小国には、たいていこのようなヒーローが存在するものである。

これまで私たちが訪問してきた旧ユーゴのほとんどの国にも共通することであるが、共産党政権崩壊後、これらの国々は、このような「中世の栄華」や「独立の英雄」に自国のアイデンティティを求めている。社会主義という共通のアイデンティティを失ったあと、国々は、新たなアイデンティティを過去に求め、自国のナショナリズムを確立しようとしているのだ。このように、その国の置かれる状況により、意識的にも無意識的にも歴史認識は大きく変化し、利用される。

スカンデルベグ像を離れ、私たちは歴史博物館の方へと向かった。この歴史博物館の壁面には、モザイクで大きな絵が描かれている。それは、典型的な社会主義リアリズムの様式で、左から右へと並んだ人々の絵は、アルバニアの歴史の流れを表現している。アルバニアの歴史の行きつく先に共産主義があることを示して、社会主義建設をたたえたものである。一s番左の古代から徐々に現代に近づき、一番右、つまり現在の主役として描かれているのは、もちろん社会主義の戦士だ。

自国の歴史、すなわちナショナリスティックなものを賛美しつつ社会主義建設を進めるという、アルバニアの一国社会主義の思想がこの壁画から見て取れた。それにしても、このような社会主義時代の遺物が未だに取り払われずに残っているということは、社会主義時代にいまだノスタルジーを感じる人が多いということなのだろうか。

国立歴史博物館

9時になり、博物館が開館した。料金は一人300LEK。はいってすぐの受付で料金を支払う。開館と同時に訪れたのは、私たちの他に、スロヴェニアから訪れている男性だった。

まず、1階を見学する。1階は古代中心のフロアーで、古代アルバニアの像、石器、土器、鉄器などが展示してあった。この辺りから、博物館の職員の女性が、私たちに付き添って、流暢な英語で親切にガイドをしてくれた。

次に、2階を見学した。2階は何個かのセクションに分かれており、中世から現代までの展示物を見ることができた。

まずは、中世のセクションから見た。アルバニアは、ビザンツ帝国の支配下にあった時期があり、イタリアなどからカトリックの影響も受けていたため、宗教的には正教とカトリック双方のフロンティアであった。このセクションの展示物はその両方の影響を受けたものが多数存在した。いずれにせよ、かつてアルバニアはキリスト教文化圏にあったことがわかる。

これに続いて、アルバニアのトルコとの戦いに関連するものも多くあり、例のスカンデルベグに関する展示も存在した。トルコは、アルバニアにとって、侵略者であり、戦いの対象ということだ。社会主義体制の崩壊後、イスラムが復興する一方でカトリックに改宗するアルバニア人もいると聞くが、この展示を見ると、そのことが理解できるように思う。

また、ガイドの女性は、アルバニア人が自らを指す「シュチパリア」という国名が、「鷲の国」という意味であると教えてくれた。アルバニアの国旗も、鷲をモチーフとしている。もともとは、アルバニアのある貴族が紋章として使っていたものらしく、その展示もあった。

展示内容とは直接関係ないのだが、この博物館はレプリカの製造などの技術について中国の援助を受けたらしい。すべてのレプリカについて言えるわけではないらしいが、そのようなものもあるとガイドの女性は説明してくれた。旧ユーゴスラヴィア、旧ソ連などとの断交後、かつて密接な関係をもっていた中国との結びつきを象徴するものであろう。

アルバニア語を表記するための文字が開発された当時の文字の展示があった。アルバニア語はインド・ヨーロッパ語族に属するが、独自のアルバニア語派を形成し、周辺の諸言語からは孤立している。その表記はローマ字アルファベットで行われる。現在使われているアルファベットが制定されたのが1908年のことである。アルファベットの数は36個である。英語で言う曖昧母音のような音にアクセントがくる母音(e)などが、アルバニア語の特徴であるらしい。

さらに進むと、20世紀初頭、アルバニアがオスマントルコから独立する際の領土決定に関する展示があった。アルバニアの歴史全般の歴史とともに別ページにコラムとしてまとめたので、興味のある方は参照していただきたい。

コラムはこちら

共産主義者の大量殺戮とテロ

しばらく進んでいくと、共産党関係の展示が中心となってきた。ガイドの女性の話によると、この博物館の現在の共産党関係の展示は、わずか五ヶ月前に作られた新しいものらしい。
展示のセクションの入り口には「アルバニアにおける共産主義者のジェノサイドとテロリズム、1944年〜1992年」と記された大きな看板が立っていた。
約430年間に及ぶオスマントルコ支配の下で、アルバニアはイスラム教を受け入れ、文化的にはすでにトルコの影響が大変強くなっていた。だが、20世紀始めこの時期、第一次バルカン戦争にオスマントルコが敗戦した。これに乗じてアルバニアの独立を援助したのは、ハプスブルク帝国だった。これは、アルバニアに影響力を持ち、バルカンにおける覇権をさらに確立しようとする、ハプスブルク帝国の野望であった。1912年、アルバニアはオスマントルコからの独立を宣言した。正式に独立したのは1914年で、当時の首都はデュレスに置かれていた。

とにかくこれによって、アルバニアは独立国という地位を確保することができた。同じようにオスマントルコの支配下にあったクルド人が、その時独立国を確保できず、いまなおトルコ、イラクなどに別れて「少数民族」として居住していることを考えると、ハプスブルク帝国の貢献は大きい。

アルバニアの共産党政権の中心人物は、エンヴェル・ホッジャEnver Hoxhaである。共産党関係の展示は、当然彼に関する内容が中心になってくる。

展示はまず、ホッジャが共産党において主導権を確立するまでの過程を追っていた。ホッジャは、フランスで教育を受け、スターリン主義の影響を受けた。帰国後、レジスタンス運動での活躍をきっかけにアルバニア共産党の指導者となる。

その後、共産党を創設するが、その仲間はその後ほとんど彼により暗殺された。これら、暗殺された共産党メンバーの写真が山のように展示されていた。、ホッジャの独裁に反対するようなグループも次々と粛清された。こうして、アルバニアにおいて彼の独裁体制は確立され、ホッジャの死までその独裁は続く。ホッジャは、女性関係においてもその独裁者という地位を利用したようだ。ホッジャの写真には、決まってそのそばに赤いスカーフをつけた美人の若い女性が写っている。

この博物館自体のオープンは1981年で、開館以来つい最近まで、共産党を賛美するプロパガンダ的な展示があったらしい。これを、「客観的な」展示に作り変えたのだという。私たちとしてはどちらも見てみたかった気がするが、この新しい展示は、現在のアルバニア政府がかつての共産党政権下の社会をどのように評価しているかを見るため、よい指標になった。

この展示の中に、外の壁画のような社会主義リアリズムというべき壁画があった。それは、レジスタンスがナチスドイツを打ち破った場面を表現していた。どうしてこのような社会主義を賛美するモニュメントが社会主義政権崩壊後も未だに撤去されずに残されているのだろうか。私は疑問に感じたので、これをガイドの女性に質問してみたところ、このモニュメントに「芸術的な価値がある」こと、そして「人々が共産党によって操られているということを表現している」と解釈されているからだ、という答えが返ってきた。かつては社会主義を無条件で賛美するものとして解釈されていたこの壁画も、今は一つの歴史的対象物として解釈されているということだろうか。

ホッジャによる戦後アルバニアの社会主義建設の中でも、言論統制、反対派の拘禁、粛清など数々の暴力が用いられた。展示は、かつて人類を理想社会へと導くリーダーとされた共産党が、実際何をアルバニアでやったか、その事実を厳しく私たちに語っていた。そこに展示されていたのは、

…これだけあったそうである。

博物館職員のガイドさんの親族にも、ホッジャの粛清の犠牲になった人がいたらしい。これらの社会主義体制下における犠牲者に対して、現代のアルバニア人は、「彼らはホッジャに反対して犠牲になった。ホッジャは自らの権力欲に基づいてアルバニアを支配したのであり、決してアルバニアを愛しての結果ではない。むしろ、ホッジャに反対した人々こそ、真のアルバニア愛国者である」という解釈を与えているようである。

このような、社会主義時代を扱う視角の急変にも見られるように、博物館とは、決して客観的な見方を提供するところではない。そこには、展示者の意図が色濃く表れている。私たちが博物館で見学する際には、その展示者の意図を汲み取ることが大事になる。

この衝撃的な展示場を離れた私たちは、この博物館のみやげもの売り場へと向かった。そこでは楽器、織物などのアルバニアの民族的なみやげ物や、社会主義時代に刊行された書籍を売っていた。先生は、社会主義時代のティラナの写真集を買われて私たちに見せてくれたが、それは大変に興味深い内容だった。アルバニアの社会主義建設が着実に進み、人々は着実な生活を営んでいる様子を、その書物は誇らしげにかたっていた。アルバニア語で内容がよくわからないのが残念だが、ゼミ全体として大変いいみやげを買うことができた。そしてみやげ物売り場を見終わり、私たちは博物館を後にした。

ヨーロッパとは思えないティラナ市内

博物館を出た私たちは、外国図書の本屋やオペラハウスなどが一体化した、社会主義時代に作られた複合施設、文化宮殿へと向かった。ここへ向かうにも道路を横断しなければならなかったが、信号機が壊れているところを渡らねばならず、地元の人と一緒に急いで横断した。

さて、文化宮殿に到着したはいいものの、なぜか中に入ることができない。モスクに続いて二度目である。仕方が無いので外から中の様子をうかがった。外観は社会主義モダニズムの無機質な感じだが、中は古典的な作りとなっており、なかなか良い雰囲気の内装だった。中に入れなかったことが悔やまれたが、仕方がないので、次の目的地無名戦士の墓へと向かった。

広場から歩いて5分くらいのところに、人が多くあつまる賑わった場所があった。そこはバスターミナルで、その側には無名戦士の墓が建っていた。無名戦士とは、パルチザン戦争などで戦死した人たち、いわば社会主義社会建設のために殉死した名も無き戦士である。この墓の像は、兵士がライフルを持って、革命を呼びかけている様子を表現している。これらの人々を称えることによって社会主義社会を正当化・美化することが目的であり、これも典型的な社会主義リアリズムの様式である。

ここでも、これらの像が未だに取り除かれていないことが気になる。取り除く予算がないのだろうか。この像も、昨日のデュレスで見たものと同じように、大変きれいで傷んでいない。道路の名前に注目すると、社会主義時代の最高指導者だったホッジャの名前を冠した道路などが、未だに名前を変えることなく残っていたりする。博物館の展示が告発していた抑圧的・強権的な政治は当然誤っていたとしても、それなりに安定していた社会主義時代について、もしかすると人々はそれなりの郷愁を感じているのかもしれない、とも思えてきた。

なお、旧社会主義国であるハンガリーのブダペストでは、このようなモニュメントはすべて撤去され、これらを一箇所に集めて展示している博物館のようなものがあるらしい。

像の向こう側、このバスターミナルから少し離れたところに眼をやると、ピカピカのビルが見えた。経済自由化後に建てられた近代的なビルのようだった。

次に私たちは、アルバニアの国会へと向かった。無名戦士の墓から徒歩で10分くらいの場所にあったが、途中、どこからかトルコ風の音楽が流れ、ヨーロッパの国とは思えない雰囲気が漂っていた。長い間トルコの統治下にあったアルバニアは、一般的なヨーロッパ諸国のようなキリスト教的な雰囲気があまりしない。このことと、特異な共産党政権下で鎖国状態にあったことが、アルバニアのある種の神秘性に貢献しているのだろうか。

さて、国会に着くと、国会前の公園に白い線が張ってあり、それ以内には入れないようになっていた。銃を持った兵士が何人も見張っており、ただならぬ雰囲気をかもしだしていた。建物はギリシャ風を模したつくりで、比較的きれいに塗りなおされており、正面には鷲をアレンジした大きなアルバニアの国章が掲げられていた。その大きさはかなり小規模と思えるもので、日本で言えば市議会ないし県議会程度の大きさであった。建物の中には入れないようなので、私たちは外観を見るだけにとどまった。

国会のすぐそばには、自由化後にできた真新しいキリスト教の教会が建っていた。1960年代の宗教活動禁止運動の中で、数多くのキリスト教の教会が潰されたはずである。その共産党政権が崩壊して宗教活動が解禁されたのだから、新しい教会の建設は自由化を象徴するものだったのだろう。世界中から建設資金が集まり、この現代的な教会が建てられたらしい。中は、外観と同じく現代的な作りになっていた。はるか昔、アルバニア人はキリスト教の信者であったし、カトリック国であるイタリアなどからの影響もあって、カトリックの信者が増えているのかもしれない。私たちが見たときも、何人かの信者の方たちがお祈りをしていた。歴史的な建造物でもないのに、キリスト教徒ではなさそうなアジア人が訪れることなど滅多に無いのだろう、ジロジロ見られた。

教会を離れると、舗装状態が大変悪い歩道を歩かねばならない場所があった。水道管の工事か何かをしているのだろうか、歩道に大きな溝ができ、水道管がむき出しになっている。溝に落ちたら危険で、大変歩きにくかった。

しかしこうした工事がティラナ市内で多く行われているところを見ると、現在アルバニアでは(少なくともティラナでは)インフラの整備が進められているということであろう。思い出してみれば、私たちがティラナで泊まったホテルの水は、ベオグラードで泊まったホテルの水よりずいぶんきれいで、不快な金属味もなかった。二つのホテルだけを比べただけでティラナ、ベオグラードの水道状況を比べることはできないが、それでもティラナの水道インフラのよさを示すひとつの指標にはなるだろう。

社会主義時代に、国家の賓客が泊まったダイチホテル

さて、そうこうしているうちにダイチホテルに到着した。ここは、かつて中国など「友好国」の使節賓客が宿泊した、国営ホテルである。正面の入り口は重厚で、内部も威厳のある造りであると感じた。当時の社会主義政権が、外国の政府高官を厚遇した様子が伺える。自由化前には外国人はこのホテルにしか泊まることができなかったし、一般のアルバニア人がここに泊まることもできなかったが、今はだれでも宿泊できるそうだ。しかし、内部の雰囲気は、まだかつての社会主義時代そのままをとどめているといってよい。

社会主義時代にアルバニアに訪れた外国人は、そのホテルを中心にごく限られた場所でしか活動できなかったらしい。西側を初めとする外国の情報が流れこむのを恐れた政府が、一般人と外国人の接触を嫌ったことがその理由だ。そのダイチホテルが今や一般のアルバニア人にも開放されているのだから、自由化による変化の大きさがわかる。

ホテルには、売店、バー、国営旅行社アルブツーリストの案内所、その他当時の外国の賓客が必要とするようなサービス施設がいまでも一通り整えられていて、社会主義時代のイメージがよく残っていた。なかでも興味深かったのは、ホテル内部の売店である。アルバニアの工芸品などがショーケースに入れられて売られているのに混じって、歯ブラシがうやうやしくショーケースに並べられていたのだ。もちろん、売り物である。

日本人の私たちからすればなぜ、歯ブラシのような日用品がショーケースに入れられているのか奇妙に思ってしまう。しかし、もしこの歯ブラシが社会主義時代から同じような方法で現在も販売されているとするならば、その理由は簡単である。社会主義時代のアルバニアで、外国人賓客を含めた限られた社会主義特権階級しか利用できないホテルで販売される歯ブラシは、西側からの高級輸入品だったからだ。つまり、社会主義では表向きは平等な経済体制を謳いながらも、それは欺瞞で、実は、党の特権階級は西側の高級輸入品を手に入れることができたのだ。そうした取引では、一般市民が日常使う当該国の通貨は使われず、ドルや西独マルクなど、西側の外貨が使われた。そのときの販売のやり方が、今まで続いているのだろう。

通常の西側資本のホテルでは歯ブラシがショーケースに入れられて販売されるようなことは考えにくい。社会主義時代の商品陳列方式をそのまま踏襲しているところからして、このダイチホテルは西側資本に買収されたわけではなく、いぜんアルバニア人の経営の下にあるのであろう。

ホッジャ廟となる予定だった建物でボーダフォンのプロモーション

次に私たちが向かったのは、ホッジャが生前に、自分の死後、廟として使うために建てた、“ピラミッド“と呼ばれる建物である。

ダイチホテルから徒歩5分ほどで到着して、私はその奇妙な建造物に一瞬息を飲んだ。「近未来的ピラミッド」とでも言うべきその建物は、ピラミッドが持つ三角錐という典型的な「王の墓」の性質と、モダンアートにも似たデザインが放つ「未来への志向」を合わせ持っていた。社会主義国の“王”であったホッジャが、これを自らの廟としようとしたことがうなずける。彼はこの“ピラミッド”により、社会主義がもたらす理想の未来を建設した偉大なる“王”として自らを神格化する野望を持っていたのであろう。

しかし、彼の思惑とは裏腹に、死後彼の剥製がこの中に安置されることはなかった。彼は神格化されるどころか、「ジェノサイドとテロリズム」を行った独裁者として、いまや国立歴史博物館に記録されているのだ。

私たちはピラミッドの中に入ろうとしたが、入り口に何人か作業をしている人がいて、この日は中に入れないということを教えてくれた。だが、外から中の様子は容易にのぞきこむことができた。一時、ホッジャ博物館となっていたようであるが、いまは貸しホールのようになっていて、この日は、日本にも進出している英国の多国籍携帯電話会社ボーダフォンVodafoneによるプロモーションが行われるようだ。ボーダフォンは、アルバニア経済の自由化に伴い携帯電話事業でアルバニアに積極的に進出し、2001年には政府から、国内二番手の携帯電話事業経営社として公認された。“社会主義の王”の廟になるはずだった建物で、西側資本の代表とも言えるボーダフォンがプロモーションを行うとは、何とも皮肉な話である。
ピラミッドを離れ、首相官邸の前を通った。ここでもやはり、入り口には銃を持った兵士が見張っており、門のそばにはなんと大砲(!)が置いてあった。社会主義時代の建物なのだろうか、窓は小さく、秘密主義的な雰囲気がする。その向かいには、元共産党本部の建物があった。今は政府系の機関が使っているらしい。噂では、この旧共産党本部にはホッジャの家と結ぶ地下通路があるとかないとか。
私たちは、元共産党本部の裏手にあるホッジャの元邸宅に近づいた。すると、急に通りがオシャレな感じになってきた。「Euro〜」という名前の店も見つけられ、アメリカという名のついた銀行や、ティラナの街には似合わないようなカラフルで現代的なオフィスもある。ここは、昨日われわれが夕食を取ったのと同じ、元共産党特権階級専用地区だった「ブロク」の北東の隅に当たる。ブロク全体が、市場経済導入後、こうした東京の原宿を彷彿とさせる雰囲気の場所に作りかえられているのだ。
さて、肝心のホッジャの元邸宅は、かつてこの国の支配者が住んでいただけのことはあり、大きな家である。家は長い年月が経過している割にはそれほど汚れておらず、広い庭も手入れされている様子がうかがえる。完全に放置されている状態ではないようだ。 中の様子は柵で囲まれよく見えないが、写真に収めるために、ゼミテンと先生は身を乗り出してカメラを構えた。

中国製のオート三輪を発見

時間も差し迫ってきたので、私たちはこの辺りで市内視察を切り上げ、マイクロバスが待っているスカンデルベグ広場へ戻ることにした。途中、EUの援助機関やUNDPなどの国連の開発援助機関のオフィスを見つけることができた。

バスに乗ってしまえば食事を取る機会がなくなるので、どこかで簡単に食事を済ませることになり、広場へと向かう途中ノファーストフードで食事を取った。なぜか「Yahoo!」という名前の店(フォントも同じ)で、サンドイッチを食べた。時間があまりなかったので、注文が後の方になったゼミテンは歩きながら食べることになった。

イタリアの影響で大変広い幅を取った道路わきの歩道を歩いて、私たちはスカンデルベグ広場へと戻ってきた。

広場で待っていたマイクロバスに乗りこもうとすると、そこに、オート三輪が走ってきた。日本にも昔はあったが、今では小型トラックに押され、世界のどこでもほとんど見かけなくなったオート三輪である。荷台には、中国の簡体字で「時風」と書いてある。明らかに中国製だ。品物は新しいがデザインはいかにも陳腐なので、中国製といっても外資系や台湾・香港系が直接投資した工場で作ったものではなく、これも、昨日のトラクター同様、中国の国営企業が製造したものだろう。このようなオート三輪は、旧ユーゴでも全く見かけなかったから、昨日のトラクター同様、アルバニアと中国との間に、専用の貿易ルートがあることを強くうかがわせる。

農村と廃工場

こうして私たちは、二日間滞在したアルバニアの首都、ティラナをあとにした。

初めの見通しでは、クケスに、大体5時間くらいで着く予定だった。途中で大変険しい山道を走ることになるので、暗くなる前に着けるように、ティラナからの出発を早くしたのだ。

途中、道が分からなくなると困るので、先生が沿道に店を出している物売りからアルバニアの地図を買った。私たちが日本から持参したバルカン半島全体の地図には、アルバニアの部分だけが掲載されていなかったのである。1枚のぺらぺらの地図には、ニューヨークUSAと書いてあったが、本当に米国製なのかどうかは分からない。値段は、日本の洋書店なみで、1000LEK(約千円)した。

まず、デュレスに向かう高速道路に乗り、順調に車を飛ばしていく。

高速道路を降りて、北に向かいはじめたあたりで、デュレスへと向かう旅客列車を見ることができた。ディラナとデュレスというアルバニア随一の都市集積地域を結ぶ鉄道なのだから、電化して郊外電車によるフリクェントサービスを行ってもよいはずである。のんびりとディーゼル機関車にひかれて走る「汽車」は社会主義時代そのままの趣であり、鉄道インフラ整備の遅れを改めて感じた。、
道路が徐々にガタガタになって、都市部を完全に離れたということを実感できるようになった。舗装状態は大変に悪い。気温が高く、見渡せば畑ばかり。その脇には衣類、食料品、雑貨品などを売る小さな店がまばらに見られた。人々はこういった店で生活用品を揃えるのだろうか。

ティラナ空港に向かう道を右にわけてしばらく進むと、なぜか車が突然停車した… なんと、車が壊れたのだ! ギアが一速にしか入らなくなってしまったらしい。車を脇に寄せ、運転手が何度も再出発を試みるが、うまくいかない。「これ、ほんとに進めないんじゃ…」と不安になり始めたころ、なぜかまたガイド氏が外に出てしまった。かと言って外に出ても何をするでもなく、道路脇で立っている。先生が一言、「こんな所で突っ立てても何も解決しない。」とおっしゃった。車内に取り残された私たちは余計不安になり、なんとか運転手が車を直してくれるのを祈った。しばらくすると、車は見事に復活した!

ガタガタ道をしばらく走ると、真新しい高速道路に入った。この高速道路は、ティラナからモンテネグロのポトゴリツァへと続く道路である。われわれが買った地図には載っていなかったのだが、ティラナで最初からこの高速道路に乗ることもできたとここでわかった。初めからこの高速を使っていれば、時間が節約できたと悔やまれた。

高速道路の沿道には、畑、牧場などが広がり、ウシやブタが道路のすぐ近くにいることもあった。ここでは、農業生産が、実際に行われている。都市部を離れると、アルバニアが農業国であることを実感する。人々が農業を捨て、都市部へ流れてしまった結果廃墟になってしまった住宅も、ボスニアなどに比べればそれほど多くなかった。

こんな農村部に、イタリア企業の工場への道順を示す道標が、突然現れた。この地域の農産物を原料に使い、食品加工を行う直接投資なのかもしれない。イタリア企業は、地理的にも歴史的にも近いアルバニアやコソボへの投資にたいへん熱心である。もし、北朝鮮が崩壊したなら、日本企業はこれほど迅速に北朝鮮に投資が出来るだろうか。「まだリスクが高い…」などと言っている間に、他の国の企業がすべて市場をさらっていってしまうような予感がしてきた。

ミロトMilotという街の先で、ポドゴリツァに向かう幹線道路から分かれて右折、しばらく、かなり広い川幅のファニトFanit川沿いに進んで、休憩するため小さなドライブインに立ち寄った。ここで飲み物などを買い、周りの様子を少し観察する。この辺りはルビク(Rubik)という地名らしく、社会主義時代の工場が多く目に付く。そのほとんどは、今は廃棄されてしまっている。廃墟となった工場の建物の1つには、アルバニア共産党(PPSH)の看板が今でも掲げられていた。

出発して回りの景色を車から観察すると、廃工場、レールが引き剥がされた鉱山鉄道やその鉄道橋など、大規模な生産施設の跡が多く見られた。これら大規模な生産施設を見ると、社会主義は、たしかに急速な工業化・産業化に適した社会体制だったことがわかる。国家の、計画的で強力な中央集権的産業政策がないと、これほどの規模の施設を短期間で建設することは不可能だったろう。だがそれと同時に、それらの施設が廃棄されてしまっている状況は、いったん設備を作ってしまったあとの社会主義は、技術革新を内部で起こしにくい、または外部から導入しにくい社会体制だったこともわかる。もしそれが可能であったのなら、今でも使える技術がもっと残っていてもいいだろう。

稜線につけられた山道

車はだんだん、かなり険しい山道へと入ってきた。車はレシェンRrëshenの集落の近くで北に曲がってぐねぐねした坂道を山腹にそって登りはじめた。ここで驚いたのは、アルバニアでは、山岳地帯の道路が、谷間にではなく、稜線につけられていることだ。これは、防衛上の理由なのかもしれない。谷間の道ならば、稜線を敵軍に占領されると、サラエボやゴラズデのように高所から砲撃されるので、その道路は使えなくなってしまう。

稜線沿いの道は、さすがに展望がすばらしい。この道路にアルバニア軍が陣取っていれば、なるほど無敵だろう。ふと左右を見ると、深い渓谷が切れ落ちていた。800mくらいはあるだろうか。私たちが走っている山道は、1車線で、いつ土砂崩れが起こってもおかしくないような状態である。あちこちに土砂をどかしたような跡があり、また、よく見ると墓のようなものもポツポツと見られる。崖から転落して亡くなった方たちの墓なのだろうか? 明るいうちに通過しないといけない、という理由がハッキリとわかった。

はるか下の谷底に川が流れ、いくつかの集落もあるようだ。斜面は、急ではあるが農地として開墾されているところが多く、酪農地に家畜(ヒツジやウシ)も目に付く。いまでも、この辺りの人々は、かなり自給的な農業で生計を立てているのだろう。途中、草を背負って運ぶ少女たちを見かけた。

ボスニア・ヘルツェゴビナではこうした農村部においてエコツーリズムが起こり始めているが、アルバニアのこの辺りの農村部では、エコツーリズムは蔭も形もなく、民宿の看板やレストランなどは全く見られない。アルバニアで観光客を引き付けることができる観光資源は、ティラナかデュレスしかないような状況なので、こうした牧歌的な農村部でのエコツーリズムは国全体の観光産業の振興につながると思うのだが、どうであろうか?

コソボに向かう夜の幹線国道で足止め

そうこうしているうちに、一番危険な山道は越え、はるかに整備された、2車線の舗装道路になった、これは、北部海岸の主要都市シュコデルSkodërからコソボのプリシュティナへと通じる幹線国道である。国道だけあって、大型のトラックが頻繁に往来する。

途中、クケスへ行くまででの国道上で一番大きな町であるフシアレスFushë Arrëzを通過した。宗教の自由化後に建てられたと思われるキリスト教会や、元の社会主義住宅におびただしい数で設置されたサテライトディッシュが印象的だった。多くのサテライトディッシュがあるということは、アルバニア国内に魅力的な番組が少ないか、あるいはこの地域でそもそも衛星か海外以外のテレビ電波は届かないか、いずれかということであろう。放送を必死で受信しようとしている住民の様子が目に浮かぶ。ここの市内の道は工事中で、ガタガタの道へと迂回させられた。

そのフシアレスを過ぎると、だんだん周囲は暗くなってきた。どうやら、予定よりも大幅に到着が遅くなっているようだ。

すると、渋滞にひっかかってここでまたもや車は動かなくなった。外はすでに真っ暗。渋滞の先頭で何が起こっているのか、よくわからない。コソボが近くなってきたので、襲撃されたのか、それとも治安部隊の検問があるのか…不安になり、ガイドさんが車の外へと確認しに出た。

するとどうやら、前方を走っていたトラックがパンクして、修理しているスキに荷台に積んでいた家畜たちが逃げ出したようなのだ。襲撃よりはマシな心温まるお話だったが、こんな険しい山道で、車の中に閉じ込められるのは精神的にかなりよろしくない。長時間足止めされたらどうしようかと思ったが、すでに家畜は回収されたようで、幸運にも10分程度で車は再出発した。どうやら一番初めに足止めをくらったドライバーは二時間近く待たされたらしい。そういう意味では、タイミングよく渋滞をすり抜けられた私たちは、比較的ラッキーだったと言える。

さらに2時間ほど、すっかり暗くなった国道を車は進んだ。周辺の景色は全く見えないが、山の中腹をいくつもの峠を昇り降りしながら通過する屈曲したルートになっているので、スピードはあまり出せない。とはいえさすがに幹線国道だけあって、ところどころの集落にはホテルの表示のある明かりがついていた。

夜の9時過ぎ、ティラナから8時間のドライブで、やっと私たちは今日の目的地であるクケスに到着した。

本日の宿舎である「ホテルアメリカ」は、コソボ紛争の際にこの地を訪れた国連のアナン事務総長も宿泊したという。しかしその割には、正直言って大したホテルではなかった。クケスあたりは、もともと大きなリゾート地ではなく、あまりいいホテルがないということだろう。

私たちにとって幸運だったのは、このホテルではインターネットを自由に使えることだった。昼間は巡検で忙しくインターネットカフェなどに行く時間はないし、夜は危険な場合が多いので出歩くことも控えていた私たちにとって、久しぶりに手にしたインターネット環境は大変貴重であった。各自、食事とシャワーを済ませて思い思いに必要な情報を得た後、予定よりも3時間ほど遅くなったこともあり、一同大変疲れていたので、すぐに就寝した。


(長江淳介)