ザグレブに到着

5:13、25分遅れで列車がザグレブに到着した。外は冷え込んでいた。車内が寒くて目が覚めたゼミ生や、他の乗客の話し声や足音がうるさくて1時間ほど前に目が覚めてしまったゼミ生がいた。とにかく全員、寝不足であった。

 今夜のホテルは駅に近いので、歩いていった。日本のホテルでは午後にならないと絶対チェックインさせてもらえないが、海外のホテルではチェックインタイムがさほど厳格でなく、その晩の予約があると、朝早く到着した場合でもそのままチェックインさせてくれる場合が多い。すると、1泊の料金で事実上1泊半の便益を受けられることになる。これを内心アテにしていたのであるが、フロントの人から、他の客がチェックアウトをするのは午前9時以降なので、それよりあとでないとチェックインできない、と言われてしまった。

スロベニアでもらった資料がかさばってきたのと、今後訪問する都市の郵便局では安全に届くのかが確かでないので、ザグレブの郵便局から各自、日本に郵送することになった。先生が近くの中央郵便局に郵便物を詰める箱をもらえるかどうか聞きに行った。その間学生はホテルのロビーで待つことになった。

6時半頃、早くチェックインさせてもらえることになった。この日の市内視察は、ツアーは10時からなので9時半にロビーに集合となった。各自は、部屋に入って列車の続きの仮眠をとったり、朝食をしたりした。ホテルの朝食は別料金、50kn(約1000円)であった。

午前9時半、私たちは、市内ツアーに参加するために集合場所である近くのホテルに向かった。今日のツアーは、他の客と相乗りである。

ザグレブの都市発展の歴史

まず、ザグレブの街の歴史と都市構造を追ってみよう。

 ザグレブは3つの地区に分けられる。1つ目は中世時代につくられたアッパータウン、2つ目はハンガリー領時代につくられた下町、そして3つ目はサバ(Sava)川以南の新しい地域である。新しい地区はさらに、第二次世界大戦後の社会主義時代につくられた地区とユーゴ崩壊後市場経済が導入されてからできた地区といった層を成している。

 アッパータウンの南に下町があり、さらに南に社会主義時代に作られた地域がある。時代が新しくなるほど中世時代につくられたアッパータウンから離れていく。ザグレブの都市構造は、そのまま、北から南へと流れる歴史の構造でもある。これらを、順に詳しく検討してみよう。

中世―トルコからの防衛を図り高台に立地した都市の核

中世につくられたアッパータウンはメドベドニツァ(Medvednica)山のふもとの丘にある。中世の都市は、常に防衛のための配慮がなされている。トルコの脅威があったこの地域では、都市が、防衛しやすい高台につくられた。ザグレブの北部のメドベドニツァ山のふもとにあたる南部の丘に、中世の都市アッパータウンがつくられた。これが、都市ザグレブの核である。

 ザグレブという名前の街が初めて文書に登場するのは1094年である。1102年クロアチア王国とハンガリー王国の同君連合(複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制)となった。

 アッパータウンは、商業地であるグラデッツ(Gradec)と司教管区であるカプトル(Kaptol)という2つの丘に分かれていた。グラデッツは1242年に自由都市(自治権を獲得し、納税の義務がない)となったが、カプトルは自由都市ではなかった。主として、商人や職人はグラデッツに、聖職者はカプトルにそれぞれ住んでいた。

 1354年にオスマントルコはバルカン半島に上陸し、その後も勢力を拡大していった。トルコ軍に対する防衛のために、アッパータウンに城壁が作られ、ザグレブがオスマントルコの支配下に入るのを防いだ。その後、1526年のモハーチの戦いによりハンガリー王ラヨシュ2世が命を落とすと、ハンガリーはハプスブルク帝国王のフェルディナントが継承することになった。しかし事実上、ハンガリーの領土はオスマントルコの支配下にあった。

 1683年、トルコ軍によってウィーン包囲がなされたが、ハプスブルク帝国はトルコ軍を撃退し、トルコの退却が始まる。その3年後、ハプスブルク帝国のオイゲン公はハンガリーの首都であるブダを奪回。1699年、カルロビッツ条約によりオスマントルコはハンガリーを放棄することになり、ザグレブを含む現在のクロアチアの内陸部は、ハプスブルク帝国のなかのハンガリー領として発展することになった。これと対照的に、現在のスロベニアは、帝国解体までオーストリア本国の一部であった。スロベニアとクロアチアとの重要な違いの一つが、ここに認められる。

19世紀―ハンガリーが建設した地方都市、アグラム

1848年のウィーン3月革命でハプスブルク帝国が弱体化し、ハンガリーでは民族独立運動が盛んになった。1850年アッパータウンのグラデッツとカプトルは統合して一つの街になると、人口増加により城壁が取り壊され、街が下町に進出していった。この頃ザグレブは、ドイツ語のアグラム(Agram)という名で呼ばれていた。

 1867年、オーストリアと平等な君主国としてハンガリーが二重帝国を形成したあと、現在、市の中心部となっているザグレブの下町は、ハンガリーの地方都市としての建設計画のもとに発展していった。

 アッパータウンの区画が小さく、整列されていないのに対して、下町の区画は碁盤目状で、一区画あたりの面積が広く、近代以降に作られた街の特徴を有している。1870年、首都ブダペストとを結ぶ国家の大動脈であるザグレブ駅が下町に作られた。都市発展に付随して、国立劇場をはじめとした重要な美術館、博物館、学術機関、企業などが作られた。その建物や整備された美しい広場は、ハンガリー建築の影響を強く受けている。

社会主義時代

社会主義時代になり、さらに都市発展して下町の土地も足りなくなると、サバ川以南に住宅地やデパートが建てられた。

 現在は、さらに郊外へ行ったところに、外資が投資した工場やその工業団地がある。



 以上より、ザグレブは他のヨーロッパの典型的な都市と異なった構造を持つことが分かる。典型的なヨーロッパの都市は、平地に中世の都市が作られ、同心円状に発展していく。一方ザグレブは、山があるために北側に都市発展することができず、中世の都市から南へ向かって直線的に発展していったのである。

ハンガリーが建設した都市、ザグレブ

10時近くになるとガイドが来た。はきはきとした若い女性であった。私たち以外のツアー客と共に、マイクロバスで市内視察に出発した。

出発地点のホテルは駅の東側のブラニミロフ(Branimirov)通りに面していて、そこから駅の方角へ向かった。車内から左手を見ると駅があり、駅前には路面電車のターミナルもあった。路面電車はザグレブ駅前を中心に様々な方面に延ばされている。

ブラニミロフ通りの西の端には、電車通りを隔て、8つの広場の中で南東に位置するトミスラフ広場(Trg Tomislava)がある。広場にはクロアチア中世国家初代王のトミスラフ(Tomislav)王の像が建っている。10世紀の初め、トミスラフ王は非常に強い軍を率いてハンガリー軍に抵抗した。

下町の駅の北側には、トミスラフ広場を含め8つの広場があり、そのうち3つは、トミスラフ広場の奥につながって、駅から見ると緑の広場が都市の奥深くどこまでも続いているように見える。

 19世紀の初め、下町は農地だったが、その後家畜品評会にその土地が使用されるようになり、これら8つの公園が整備されたのだそうだ。夏の公園の気温は他の場所より5度から7度低いので、多くの人が涼みにやってくるという。下町の見所は、この広場の周りに集中している。

 トミスラフ広場の中心には噴水があり、その北側には美術展示館がある。美術展示館は、19世紀、当時の首都ブダペストにあった建物を分割して、鉄道に乗せて運んできたのだという。ハンガリーは、ザグレブを「ミニブダペスト」のようにとらえていたのであろう。この建物は現在、展覧会の催しに使われている。

駅の西側にはアントゥナ・ミハノビッチ(Antuna Mihanovićeva)通りが延びている。通りの名前は19世紀の詩人アントゥン・ミハビッチ(Antun Mihanovic)に由来しており、彼はクロアチア国歌「私たちの美しい国」の作詞者である。

アントゥナ・ミハノビッチャ通りの駅側にはザグレブで最も美しいホテルの一つ、ホテル・エスプラナデ(The Regent Esplanade Zagreb)がある。このホテルは、パリとイスタンブールを結ぶ豪華列車オリエント・エクスプレスの乗客のために1925年に建てられた。当時のザグレブは、欧州の主要な交通路上にあったのである。通りの南側には、植物園もあり、10,000種類の様々な植物が栽培されている。公園とあわせ、ザグレブの建造環境に豊かな緑を与えている。

 アントゥナ・ミハノビッチャ通りを西へ行き右折して進んでいくと、8つの広場の中で最も北西にあるチトー元帥広場(Trg Marsala Tita)に出た。広場の中には美しい黄色い建物のクロアチア国立劇場がある。このため、ザグレブの人々の間で、この広場はチトー元帥広場とは呼ばれず、「シアター広場」と呼ばれているそうだ。チトーという名が、ここでは好まれていないということなのだろう。

チトー元帥広場の南西角には、私たちがツアー後に訪れるミマラ(Mimara)美術館がある。広場の西側には、建築家へルマン・ボレが建築した美術工芸美術館がある。そこには19世紀から現代にかけての実際に使われていた宝石や家具、織物といった応用芸術の作品が展示されているという。また、広場の周りにはいくつかコーヒーショップがあり、休日の前の夜は、劇場での催し物を鑑賞し終えたドレスアップをした人々がカクテルを飲みにやってくるそうだ。

ここで車は方向を変えて、いま来た道の1〜2ブロック北を東に向かって移動を始め、駅前のトミスラフ広場のすぐ北にある、ストロスマイエル広場(Strossmayerov trg)を通った。そこには、灰色の建物のクロアチア科学芸術アカデミーがあった。そこには、ストロスマイエル(Strossmajer)がたくさんの資金と芸術品を寄贈して建てられた美術館が入っている。

駅前から3つ並んだ公園の最北にあたるニコレ・シュビッチャ・ズリンスコ広場(Trg N.S. Zrinskog)は、ニコラ・ズリンスキー(Nikola Zrinski)という有名な戦士にちなんで名づけられた。この広場には、考古学博物館がある。

ストロスマイエル広場とトミスラフ広場の間の通りを東に行くと、大きな交差点に、アメリカ資本のシェラトンホテル(Sheraton Zagreb)が目に入った。ここは、しばしば国際的な会議やセミナーなど、ビジネスの場として使用される五つ星のホテルである。このようなホテルがあることが、ザグレブの国際都市としての格を高めることになる。

シェラトンホテルからクネザ・ミスラフ(Kneza Mislav)通りを直進すると、ジュルタバ・ファシズム広場(Trg Zrtava Fasizma)がある。そこにはイワン・メシュトロビッチのスタジオとして建てられ、第二次世界大戦後までモスクであった建造物があり、現在は展示場として使用されている。

 そこから私たちの車は、北を目指した。そこはリブニャック(Ribnjak)地区がある。かつてこの地域には泉があり、「リバ」はクロアチア語で「魚」という意味である。そこから北を見るとメドベドニツ山がそびえ立つと言われたが、この日は曇りで、残念ながら山は見えなかった。新鮮な空気と豊かな緑を求めて、週末に保養客がこの山に訪れるそうだ。冬はスキーが盛んで世界選手権が行われたことがあるらしい。とくにスリェメ(Sljeme)という頂上を含む地区は標高1035メートルで、クロアチア最大のスキー場がある。歩くと2時間かかるがケーブルカーを用いれば20分で行けるという。

クロアチア独立の父、トゥジマンが眠るミロゴイ墓地

リブニャック地区を北に進むとメドベシュチャク(Medvescak)通りがあり、ミロゴルスカ・セスタ(Mirogolska Cesta)通りに入ると、右手にミロゴイ墓地が現れた。緑のドーム状の屋根を持つ塔がいくつも立派に連なっていて、墓地というよりも宮殿という印象である。

 ミロゴイ墓地(Gradsko groblje Mirogoj)は共同墓地で、ハンガリー領だった1874年に作られた。アーケードは、ヘルマン・ボレによって建築された。19世紀以前の人は教会に埋葬されていたが、人口増加により埋葬の敷地が足りなくなり、共同墓地が作られた。しかしミロゴイ墓地も敷地が足りなくなり、その後40q北に共同墓地が作られたそうだ。

墓地ではカトリック、正教会、イスラム、ユダヤ教…と宗教ごとに区画分けされていた。宗教を厳密に区別しているように思われるが、他宗教が混ざった墓もあり、人々は宗教的な形式をあまり気にしないようだ。カトリックでは墓に花を飾り、ユダヤ教では墓の上に石を置く習慣があるのだが、興味深いことに、墓の上に花も石も乗っている墓が見受けられた。この場合は片方の親がカトリックでもう片方の親がユダヤ教なのだそうだ。

イリリア運動家の記念碑があった。ハンガリー君主制の時代、クロアチアの公用語はドイツ語であった。ハンガリー領なのに公用語がハンガリー語ではなくドイツ語であったことが、興味深い。オーストリアとハンガリーとの関係を、象徴している。この運動の結果、新聞や書物がクロアチア語で出版されるようになり、1847年クロアチア語も公用語となった。武器を使用せずにこの権利がかちとられたのだという。

 ステパン・ラディッチ(Stjepan Radić)の像もあった。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、セルビア・クロアチア・スロベニアで連合をがつくられたが、そこでは明らかにセルビアの権限が強すぎた。彼は、クロアチア農業労働者党の党首として、クロアチアの自立のために闘った。だが、1928年国会の会期中、彼と4人の同士はセルビア過激派によって射殺された。

その後、クロアチアの独立を進めたのがナチス・ドイツである。ナチス・ドイツは1939年にクロアチアが自治州になることを承認し、1941年にはセルビアを攻撃して占領し、クロアチアが独立国になることを承認した。このときのクロアチアには、現在のボスニア・ヘルツェゴビナも含まれていた。独立国となったクロアチアでは、ナチス・ドイツがユダヤ人に対して行ったのと同様の人種政策がクロアチア人の手によって推し進められ、8万人から12万人といわれるセルビア人が虐殺された。

 だが、ガイドさんは、独立を得ようとして彼らはセルビアと戦ったのであり、セルビアによる支配に対してクロアチア人は悪く思っているのだ、と誇らしげに説明された。

トゥジマン(Franjo Tuđman)の墓にやってきた。墓は大きくきれいに磨かれ威厳があり、敬愛されているためか花が飾られていた。トゥジマンは1970年からユーゴスラビア軍の軍司令官で、1990年クロアチア共和国での自由選挙でトゥジマン政権が圧勝すると、彼は自らの国家を形成する姿勢を強く掲げ、共和国軍を組織するなど活発な行動を展開した。これはクロアチア共和国内のセルビア人の反発を招き、内戦に至った。1991年クロアチアは独立国になったが、共和国内のセルビア人が多数を占めるクライナ(Krajina)地方では、セルビア人がクロアチアからの「独立を宣言」し、1993 年には「クライナ・セルビア人共和国」を作った。トゥジマンは、1995年にこのクライナやスラボニア地方にいるセルビア人を武力で徹底的に押さえ込み、分離主義の根を絶った。これにより、クロアチアに住むセルビア人は、先祖代々住んでいた人々も含め、ほとんどすべて国外に逃れた。トゥジマンは、このような強行策により、ユーゴスラビア時代のクロアチア共和国の教会をそのまま現国境として維持することに成功、癌で他界する1999年までクロアチア大統領を務めた。

 ガイドさんは、クロアチアは豊かな天然・観光資源、優れた人材資源、善行な政府をもつ豊かな国で、クロアチアが旧ユーゴスラビアから独立したことはクロアチア国民にとって大変喜ばしいことであり、その独立を達成させたトゥジマンに対して好印象を抱いている、と語った。

コーヒーショップでの休憩

ミロゴイ墓地を後にして再びバスに乗った。私たちは休憩をするためにアッパータウン北部のイリスキ広場(Iliski trg)にあるコーヒーショップに向かった。そこでの飲み物はツアー代に含まれていて、各自好きなものを注文した。コーヒーショップは、典型的なヨーロッパのテラスであった。

 クロアチアの飲酒年齢は18歳以上である。ところがゼミ生の一人がお酒を注文しようとすると、ガイドさんに「君たちはまだだめよ」と言われてしまった。私たちは幼く見えたらしい。

 ガイドさんは言語学に興味があるらしく、日本語と外国語の文法の違いを話したり、日本語での挨拶を教えたりなど、和やかな会話を楽しんだ。昼だが気温が低く、長袖を着ている人がたくさんいた。30分ほど休憩したあと、こんどは歩いてアッパータウンの見学に出発した。

トルコから防衛した要塞、グラデッツ

中世、アッパータウンにはグラデッツとカプトルという2つの丘があり、そこに街が作られていた。グラデッツの中心は聖マルコ広場で、そこには聖マルコ教会とクロアチア議会がある。一方、カプトルの中心は大聖堂である。中世ヨーロッパの都市は教会と議会を核にして発達した歴史があり、クロアチアも例外ではなかった。

グラデッツとカプトルの間は谷になっており、南北にラディッツ(Radica)通りが走っている。私たちはまず、グラデッツに向かった。

アッパータウンはかつて要塞都市で、2mにも及ぶ城壁で防衛されていた。その形は地図上で見ると三角形で、東西南北の4つの門と塔が19世紀まであった。人口増加によって街を拡大するために門が次々と取り除かれ、現在は石の門と呼ばばれる東の門だけが残っている。イリスキ広場のあるゴルニ・グラード(Gornj Grad)という地区には、かつて北の門という要塞の門があったが、今はない。

 コーヒーショップを出発してイリスキ広場を歩くと、ザグレブのことを知るにはも持ってこいのザグレブ市立美術館(Musej grada Zagreba)があった。だが、残念ながら13時で閉館なので、行くことができなかった。ザグレブの博物館や美術館は、なぜかどれも開館時間が短い。

南へ行くと、奇妙な建物に出くわした。なんと、窓がない代わりにペンキで窓が描かれているのだ。その建物は2階建てで淡いピンクの古びた装飾品の特にない簡素なデザインの建物である。1階部分は本物の窓があるがり、2階部分は窓が無く、そのかわりのみラフに窓の絵がペンキで描かれている。窓の絵の高さが異なっているくらい描き方がラフであるなのだが、ガイドさんに言われるまで気づかなかった。この建物はかつて、女性に料理などの家事を指導する学校であったという。女性を外から覗けないように、あるいは女性が校外の男性に関心を持たないように、隔離したのであろうか。。

さらに歩くと、ギリシャ国旗とEU国旗が掲げられたギリシャ大使館に出くわした。クロアチアにとって、のどから手が出るほどほしい旗である。

 また、イリスキ広場のあるゴルニ・グラード(Gornj Grad)という地区にはかつて北の門という要塞の門があった。アッパータウンはかつて要塞都市で、2mにも及ぶ城壁で攻防されていた。その形は地図上で見ると三角形で、東西南北の4つの門と塔が19世紀まであった。人口増加によって街を拡大するために門が次々と取り除かれ、現在は石の門と呼ばれる東の門だけが残っている。  

グラデッツの中心である聖マルコ教会広場(Markov trg)に着いた。ここには、へ行くと、ザグレブの精神的グラデッツの中心をとなする教会である聖マルコ教会があるった。教会は13世紀に建てられ、外装は典型的なゴシック様式であり、窓の形は上部がアーチ状でロマネスク調(ゴシック様式の前身)のデザインである。聖マルコ教会の正面には、16世紀に農民一揆を指導したマティヤ・グベッツ(Matija Gubec)の肖像が描かれている。

 この教会の特徴はカラフルな屋根で、赤・白・青・茶のタイルで構成されている。大きな二つの紋章がタイルで屋根に描かれている。おり、右側の紋章はザグレブ市の紋章で、左側の紋章は3つの紋章が合わさって構成されている。左側の紋章の左上部分は赤と白のモザイク模様でクロアチア王国の紋章、右上部分は獅子の頭が3つでダルマチア王国(クロアチア南部)の紋章、下部はイタチ科のテンでスラボニア(クロアチア東部)の紋章である。この3つをあわせることで、クロアチアの統一性を現しているわけだ。これらの紋章は、1841年に教会が修復された際に描か作られた。このころから、現在の領域をクロアチア領とする意識がはっきり存在していることを示すもので、興味深い。教会は13世紀に建てられ、外装は典型的なゴシック様式であり、窓の形は上部がアーチ状でロマネスク調(ゴシック様式の前身)のデザインである。

教会の隣そばにクロアチア国会議事堂議会がある。かつて、ハンガリー人がザグレブに旅行に来て、この国会議事堂の小ささに驚いたらしい。たしかに、壮麗なブダペストの国会議事堂と比べると、月とすっぽんのように小さな、威厳のない建物だ。ザグレブがハンガリーの一地方都市だったことを物語っている。議事堂その門は施錠されていなかった。おらず、ガイドさんは、その門を開けると「みなさんがザグレブに来るのを歓迎している証拠だ」と言った。

 聖マルコ教会の正面には16世紀の農民一揆で有名なマティヤ・グベッツ(Matija Gubec)の肖像が描かれている。彼の死に方には様々な言い伝えがあり、1つ目は頭部を切断、2つ目は頭部を強打、3つ目は4頭の馬にロープで体を引き裂かせたという説である。

チリロメトドスカ(Cirilometodska)通りを南へ行くと、市庁舎があり、そこでは市議会が開かれる。またその最上階には婚姻登記届所がある。さらに進むと、ナイーブアーバト美術館がある。そこに展示されている作品は、ガラスの上に描かれたもので、農村の生活が描かれているそうだ。また、イリリア運動の指導者リュデビト・ガイ(Ljudevit Gaj)が住んでいた家や、クロアチア初の印刷所もこの通りにある。

この通りで、クロアチア語とドイツ語で書かれた通り名の表示標識を発見した。これは、セルビア中心時代に付けられた標識がわざわざはがされて、ハプスブルク時代に書かれて、その後壁に塗りこめられてしまっていたものが剥がされて、わざと見えるようにされの標識が付けられているのである。ハプスブルク帝国時代にも、クロアチア語が公用語のひとつだったことを思い出した。ドイツはクロアチアの独立を支援していたためか、クロアチア人はドイツに親近感を覚えているようだ。

 さらに南へ行き、ドベルツェ(Dverce)通りに入ると、そこはアッパータウンのはずれで、りザグレブの下町を一望できる見晴らしのよい場所である。へ近づくと、ギターの演奏をしているおじさんがいて、穏やかな音色が心地よかった。

丘からは、左手にイェラチッチ総督広場、右手にクロアチア国立劇場などが見えた。

そこは、かつて南の門があった場所で、その一部のロトルシュチャク塔が現存している。ロトルシュチャク塔は、門の防御が目的で13世紀に建てられた。、塔の名前の由来は「強盗の鐘」である。ロトルシュチャク塔の周りは自由道なので、人々は自分で強盗から財産を守らなければばならなかったのである。ロトルシュチャク塔に登るのには10knかかるそうだ。

19世紀、人口増加により、アッパータウンの旧市街が手狭になると、丘の下に都市計画がなされて、市街地が下町に拡大した。南の門の下のふもとまで街が進出すると、1891年、アッパータウンと下町を結ぶためのケーブルカーがこの場所と下町のイリッツァ通りの間に設置された。移動に5分要し、料金は片道3knであるというが、われわれ私たちが行ったときは工事中で、利用できなかった。。

12時になると、突然ロトルシュチャク塔から爆発音が鳴った。そして鐘の音が鳴りはじめ、なかなか鳴り止まなかった。ザグレブ市民は、この大砲の音でを聞いて正午を知るのだろう。

 来た道から1ブロック西に入を戻り、聖カタリナ広場とも呼ばばれるイエズス会広場(Jezuitski Trg)に来た。そこには、典型的なバロックバロック様式の聖カタリナ教会があった。外観は白を基調貴重としたシンプルなデザインなのだが、内装は淡いピンクなのだそうだ。そこで結婚式を挙げる人が多いらしい。

 聖カタリナ教会に向かって右側には、ザグレブ初の高等学校がある。イエズス会は世界中で教育に力を入れており、日本でも上智大学や栄光学園など、いくつものすぐれた学校を創設している。

 また、修道院が改装され、展示場になっている。そこには世界中の作品が集められ、2005年7月にはヨーロッパの現代芸術の作品が集められていたそうだ。  

イエズス会聖カタリナ広場の北のカメニタ(Kamenita)通りは、東に下り坂になっている石畳の道で、ここからわれわれ私たちはグラデッツとお別れすることになる。

角には、14世紀から運営しているザグレブで最も古い薬局がある。現在は建物が壊れていて営業されていない。

カメニタ通りには、中世の4つの門の中で唯一残っている東側の「石の門」をくぐったがある。18世紀に、キャンドルが倒れたことにより火事になった際、イエス・キリストを抱いた聖マリアの絵のみが無事に残るという奇跡が起こっっていたため、ここは特に神聖視されている。人々はここに参拝しにやってきて、キャンドルと花を掲げて願いをこめる。

 石の門の塔の頂上には、とげのついたウニのような形の装飾物が飾られている。これの飾りは、魔女除よけである。魔女は空を飛ぶので、高いところに飾られているのだである。魔女に関しては、わる悲しい歴史がある。ヨーロッパでは14世紀から18世紀の間、特定の人間を魔女になぞらえて刑を処する魔女狩りの習慣があった。り、ザグレブでは200人の女性が焼き殺されたり、魔女なら空を飛べるからという理由で足に大きな石をぶつけられたり、という出来事があったという。

カプトルの大聖堂で、チトーに抑圧された大司教に熱い祈り

石の門をくぐると、2つの丘であるグラデッツとカプトルの間の谷間にあるラディッツ通りに出た。

 中世に、2つの地区にはさまれたラディッツ通りは、手工業や商業の町人町として成長した。現在そこには、ザグレブで2番目に古い靴屋がある。その後も、ビジネスの場所として発展し、北から見て左手には茶色い大きな3階建ての建物は、クロアチア初の貯蓄銀行となっている。

 ラディッツ通りの東に並行するトカルチチェフ(Tkalcicev)通りに行くとき、クルバビ・モスト(Krvavi Most)と言う短い通りを通る。クルバビ・モストとは「血の橋」という意味である。中世時代、グラデッツとカプトルの住民が血を流すまでの激しい争いになったという歴史から、このように名づけられたという。

トカルチチェフ通りは、かつて川であったが、周囲に製紙業や織物業などの工業が盛んだったため、汚水で川は悪臭を放っていたそうだ。その川が道で覆われ、現在のトカルチチェフ通りになったのである。この通りには靴などの衣料品や装飾品を扱う店が多い。また、雰囲気のよいレストランやコーヒーショップがあるので、若者が多く集まるそうだ。

東へ行くと、ドラッツ(Dolac)市場がある。ここでは花売り場、民芸品売り場、食料品売り場などに分かれていて、衣料品や食料品など様々のものが非常に安く売っている。他のところで買うよりも30%ほども安いので、ザグレブの中心部以外に住んでいる人もここにやってくるそうだ。

 クロアチアの有名な民芸品として、生姜の白い花で作られたハートのリースがあり、ここでもたくさん売られていた。

 さらに東に歩くと、カプトルの中心である大聖堂(Katedorala marijina Uznesenja)に着いた。

 この大聖堂は、11世紀からこの地にあり13世紀にタタール人に破壊された古い教会の敷地に建てられた。1880年の大地震で大きく崩れたが、20世紀に入って修復された。外装内装ともにゴシック様式で、20世紀の初めに2本の高い塔が建てられた。2本の塔は104mと105mである。現在は修理中で、2006年に完成予定である。

大聖堂の中に入ると、壁に見たことのない文字が書かれていた。三角と四角の象形文字のようで、グラゴール文字という。グラゴール文字は9世紀に誕生し、キリル文字の原型となったという。クロアチアでは10世紀から16世紀まで使われていたそうだ。

 聖堂内には、ラスベガスから送られてきたシャンデリアや、バロック様式の木製の椅子、巨大なステンドグラス、13世紀に描かれたフレスコ画があり、天井が高く、ゴシックスタイルの内装と相まって、重厚な趣きである。宝庫もあり、聖書などが納められている。

大聖堂の中心に、アロイジエ・シュテピナッチ(Alojzije Stepinać)元大司教の納骨堂がある。納骨堂の上にはガラスケースに入った、ステピナッチの眠った人形が飾られている。

 シュテピナッチ は1898年に生まれ、1934年にクロアチアのカトリック教会の中で最も重要な役職である大司教となった。神と自分との直接のつながりを重視し、このつながりがあれば教会すら必ずしも必要でないというプロテスタントと異なり、カトリックは、最高権威であるローマ教皇との結びつきが絶対である。ところが戦後、チトーは、クロアチアカトリック教会にローマとの絶縁を命じた。これはカトリック教徒にカトリックをやめろと言うのに等しい。そんな中シュテピナッチはローマの関係を維持し、クロアチアのカトリック教会の組織を守ろうと試みた。すると、大戦中にナチドイツに協力した罪を着せられて、1946年に牢獄に入れられた。だが、これは言いがかりであった。シュテピナッチは、クロアチアの独立を常に求めており、ナチがその傀儡政権として戦時中に建てたクロアチア独立国に協力したことはあったかもしれないが、けっしてナチズムそれ自体の協力者ではなかった。むしろ、ザグレブのユダヤ人社会は、シュテピナッチが数百のユダヤ人の命を大戦中に救ったことを認めている。

判決は16年間の禁固刑だったが、5年で釈放され、その後は自宅軟禁となった。軟禁中、クロアチアから亡命するなら釈放する、とチトーのユーゴスラビア政府から言われ続けていた。ところが殉教者でありクロアチア愛国者である彼は、政府の要求を受け入れなかった。1960年、長年与えられた食べ物に含まれていた砒素の毒による真性多血症・足の血栓症・気管支のカタルに侵され亡くなった。彼は命と引き換えに愛国者であり殉教者であることを貫いたのである。

納骨堂のまわりには、熱烈な感情をこめて祈りを捧げている信者が何人もいた。

教会を出て下町の方へ歩くと、イェラチッチ総督広場に出た。アッパータウンと下町のちょうど境にある重要な広場で、非常に広い。広場の周りには、ショッピングセンターや銀行があり、近代的な商業機能が集積している。

 ここでザグレブの名前の由来の一説を教わった。イェラチッチ総督が泉のそばにいた美少女に「マンダさん(女性の名前)ザグラビ(水)を汲んでください」と言ったため、この地の名前がザグレブという名前になったという説である。また、マンダが由来してマンドゥシェバッツという噴水が広場内にある。

クロアチア料理で昼食

1時過ぎ、ツアーは解散となり、私たちはイェラチッチ総督広場の付近にある観光案内所へ行った。そこで係員が、日本語で書かれた『ザグレブの歩き方』と題する案内小冊子を3冊もくれた。ブレッドと異なり、ザグレブは、アジア人観光客の誘致にも熱心であることがうかがえた。また、花の砂糖漬けという珍しいザグレブ土産も扱っており、私たちの中に買ったものもいた。

屋外マーケットを通って、ガイドが勧めてくれた観光客向けのレストランへ行った。その店は、白を基調とした新しい感じのインテリアであった。

そこで私たちは典型的なクロアチア料理のセットメニューを注文することにした。出てきたのは、シュニッツェル(カツ)のような薄い肉のガブリアンステーキとマッシュドポテトが乗ったメインディッシュ、きゅうりとキャベツとトマトのサラダ、細い面が入りハーブがまぶされたスープだった。デザートは、やわらかい皮に酸味の効いたクリームが入り、粒が残ったカラメルソースがまぶされたものだ。 

レストランの価格は、地元の人が利用するレストランよりは高額であるが、旅行者が食べるにはちょうど良い価格であった。

ミマラ美術館で知るクロアチア人の西欧への憧れ

料理に満足し、14時半ごろレストランを出て、ザグレブで最も大きく著名なミマラ(Mimara)美術館にタクシーで向かった。ミマラ美術館に着くと、私たち3人で乗ったタクシーは35.5knで、他の4人が乗ったタクシーは45knだった。しかも、運賃が高い4人の方のタクシーに乗った学生は、ミマラ美術館から離れたところで降ろされた。遠回りしてぼったくられた可能性がある。

私たちが、この美術館を訪問することにした一つの目的は、はクロアチア人の西欧への憧れがいかなるものかを知るためである。

ミマラ美術館は、アンテ・トピッチ・ミマラ(Ante Topic Mimara)氏の美術品のコレクションにより創設された。その寄贈数は3750点以上にも至り、個人によるコレクションでは世界でも指折りである。

ミマラ氏は、1898年クロアチア南部スプリット(Split)の後背地の小さな村で生まれた。19歳のとき、古代のキリスト教の聖餐杯を入手したのが豊富なコレクションの基礎となり、それがローマの旅で情熱的な芸術への執着に目覚めた。彼は世界中から絵を集め、ミマラ美術館の土台となった。

彼は、その生涯の大部分をオーストリアのザルツブルクで過ごした。第二次世界大戦を通してコレクションを所有しているのが困難となり、国に寄贈すると決めた。1967年、ユーゴスラビア芸術学校のストロスマイエル美術館に140点寄贈、1973年から徐々にコレクションをザグレブに移動し、美術館が作られた。1987年に亡くなったが、美術館の展示に、彼の魂は生き残っている

ミマラ美術館の料金は大人20kn、学生15kn。多くの博物館と同様、見学のためには荷物を預けなくてはならなかった。建物は、外装がグレーであったのに対して、内装は天井から床まで白を基調としたデザインである。ハプスブルク時代の高等学校の建物を活用したため、柱などに装飾品がなく、シンプルであった。

入場の際、英語で書かれたミマラ美術館に関する説明文や案内図をいただき、大変役に立った。

美術館の建物は3階建てで、1階には受付、売店、展示品としてガラス工芸、織物、中国を初めとした東洋の工芸品があり、2階には彫刻、応用芸術、古代遺跡、3階は13世紀から20世紀に渡る西洋絵画の展示となっている。

特に3階は、部屋番号の順番に歩いていくと古い時代から新しい時代へと西洋絵画の歴史をたどって鑑賞できるよう配慮されている。展示されている作品は、ラファエロ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラント、ゴヤなど、世界的に知られた一級の画家の手になるものが多い。

私たちはまず、3階の中で最も古い時代の展示の29号室から入った。29、30号室の展示のほとんどは13〜15世紀のイコンで、部屋中キリスト教一色であった。31号室はゴシックからルネサンスに転換する過程の絵が展示されていた。キリスト教に関する絵ではあったが、前の部屋の絵よりも金銀を用いず、背景が写実的になり、マリア様とキリストの大きさの比が現実的になっていた。32、33号室は16世紀のルネサンス・マニエリスムの展示で、キリスト教一色であるもののいっそう写実的になり、輪郭線が消えていた。

一転して、35号室を除く34〜38号室では、17世紀のバロック様式の世俗的な絵になり、自然や日常風景が題材にされていた。雲や太陽の光などの自然物に躍動感がある。だが、天使がいる絵もあった。国ごとに傾向があり、37号室のオランダの展示は描写が細かかった一方、38号室のスペインの展示はラフでエネルギッシュな印象を受けた。35号室は大部屋で、部屋に見合う大きなサイズの絵が展示されていた。39号室の17〜18世紀の展示はより写実的になった。40号室、41号室は印象派の時代になり、画家の好みで花や裸婦が描かれていた。

最後の42号室は、寄贈者ミマラ氏を記念した部屋で、氏が実際に使用していた絨毯、椅子、タンス、机、電気スタンドや、ミマラ氏の顔が彫られたメダル、手の型などが展示されていた。

階段を下って2階へ行き、13号室の古代遺跡から見学した。2階も時代順に展示してあり、絵と同様に時代と展示品の傾向が顕著であった。絵が時代を経るにつれリアルになっていったのと同様に、像もゴシックからバロックに移るにつれ筋肉の表現がリアルになっていくのを観察できた。

19号室は15世紀の展示がされていた。そこには銀製・大理石製・木製といった様々な素材で作られたキリストに関する像が展示されていた。24号室には木や山の模様が入った銀の皿があり、絵で見られた自然を表現するバロックの特徴が工芸品でも見ることができた。

1階の1号室へ行くと、紀元前5世紀から紀元後9世紀のエジプト、アッシリア、ローマ帝国などの、無色透明のものから細かい幾何学的模様が入ったものまで、多様なガラス工芸品が展示されていた。2号室にはイスラム教の工芸品、6号室には16〜18世紀のアジアの絨毯、7、8、9号室には中国を中心としたアジアの磁器が展示されていた。アジアの磁器は一時期オリエンタリズムの影響を受けヨーロッパで流行したのである。12号室には伊万里焼、九谷焼、柿右衛門様式の日本の磁器や小だんすが展示されていた。

絵画は、著名な画家を一通りそろえているが、ミマラ氏の好みなのかどうか、比較的地味な作品が多かった。彫刻の部で、作者の名前にこだわらず、ヨーロッパの美しさをたたえた作品をいくつも発見できた。ミマラ氏、ならびにその蒐集品をザグレブ一級の美術館として公開しているクロアチアがいだく、西欧への憧れを十分に感じ取ることができた。日本人にとっても、ザグレブを訪れたら必見の美術館であることはまちがいない。

クロアチア国立劇場

16:40頃、ミマラ美術館を出た。夕食時までまだ時間があるので、ツアー時にバスの中であまり詳しく見られなかったクロアチア国立劇場を歩いて見に行くことになった。

 クロアチア国立劇場は初めアッパータウンにあったが、1880年の大地震によって崩壊した。しかし、1894年から1895年にかけてのたった14ヶ月間で現在の場所に復興した。その際、ウィーンから皇帝が訪れるので、ザグレブは美しい街であることを強調するために現在の劇場のような豪華なデザインとなった。

劇場は2階建てで、その大きさは兼松講堂より少し大きいくらいであった。劇場は折衷様式で、全体的に古典的であるが、ギリシャ風の柱やロマネスク調の窓、ルネサンス風の流麗な石造を持つ。

 屋根にはクロアチアの紋章の石造が飾られてあり、その両隣には音楽を奏でる男の石像が置かれていた。一方門には3つのアーケードがあり、6人の女性が楽器を持っている石像が飾られていた。庭には背丈が1m以上もある赤い花がきれいに植えられていた。

 劇場の周りは、演奏の時刻ではないので静かだった。

 17時前に劇場前でいったん解散し。各自歩いてホテルに戻った。

初めて荷物を海外から日本に送った!

もらった資料が多くなり荷物がかさばってきたので、ホテルと駅に近い中央郵便局で日本に荷物を送ることになった。郵便局は18時までの営業だったが、私たちの郵送は手間がかかったので、18時過ぎても仕事をしていただいた。

 郵便局のシステムは社会主義時代から変わっていないようである。旧ソ連と同じで、自分で箱に荷物を入れて封をしていってはいけない。荷物を裸で持っていくと、局員が手際よく詰めてくれる。そのため、中身を全部見られてしまう。ドローガ・コリンスカ社でいただいたティーパックやコーヒーは荷物に入れることができなかった。

税関申告書に中身の値段などを書かされた。英語はまったく通じなかったが、郵便局員の中にはドイツ語ができる人がいて、片言のドイツ語会話で、意思疎通ができた。ここでもクロアチア人がドイツに親近感を抱いていることがうかがえる。日本への送料は1sあたり約2000円で、それに保険を100knかけた。郵便局にはキャッシングができるATMがあり、郵便料金が足りない人はそこで下ろした。海外から日本に国際小包を送るというのはみな初めての経験で、いろいろ勉強になった。

中央郵便局には電話をする所があり、日本に国際電話をかけると1分あたり約200円であった。オーストリアでかけたときも、トルコでかけたときも同じくらいの金額であった。グローバル標準の価格なのだろうか。絵葉書を日本へ送ると、1枚あたり約100円だった。オーストリアでも約100円だったので、これもグローバル標準の価格なのだろう。

郵送の仕事が済んで、今夕は自由行動となり、各自夕食をとった。インターネットカフェに行ったゼミ生によると、キーボードの配列が日本のアルファベットの配列と異なっていて、戸惑ったそうだ。

(竹村尚子)