前日もコペル(Koper)に泊まった私たちはこの日、コペルの隣町のイゾラ(Izora)にある、総合食品会社ドロガ・コリンスカ(Droga Kolinska)社の工場を訪問することになっていた。7:40にホテルを出発し、私たちは工場に向かった。15分くらい専用車で走ったところに工場はあった。

旧ユーゴを中心に多国籍化する元国営企業

まず私たちはドロガ・コリンスカ社Nova Tavarna製造所の最高責任者であるベイジア・レベッツ(Vasia Rebec)さんとお会いした。会社についての簡単な説明を受けたあと、ドロガ・コリンスカ社の会社紹介、商品紹介のプレゼンテーションをしていただいた。

歴史

ドロガ・コリンスカ社は2005年に大手食品会社だったドロガ(Droga)社がコリンスカ(Kolinska)社を吸収合併してできた総合食品会社である。二社の合併比率はドロガ社の1株に対し、コリンスカ社は14.25株という比率であった。

母体となったドロガ社は,旧ユーゴスラビア連邦のチトーの活躍していた時代である1964年に,国営企業として設立された。その後1976年には国の方針で2社と合併し、事業を拡大した。さらに1990年〜1999年にかけて合併を繰り返し大きく事業を拡張していき、親会社であるドロガ・ポルトロージ(Droga Portorož=Droga.d.d)社のほかに10個の子会社を含めた「ドロガ・グループ(Droga Group)」として発展していった。

 なお、この10社のうちの事業本部は,今私たちがプレゼンテーションをしていただいているイゾラにあり、残りの9社は海外(クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、セルビア・モンテネグロ、イタリア、スウェーデン)に立地しているというグローバルな企業になった。なお、ドロガ社はスロベニアが市場経済化された後もしばらくは国営のままであり、1996年に民営化された。

また、今回事実上の吸収合併をされてしまったコリンスカ社は、スロベニアがオーストリア領であった1908年に設立された老舗の食品会社である。1976年〜1993年までの間に大きく事業を拡大し、Knorr(オランダの多国籍企業ユニリーバのスープブランド)やPez(オーストリアの多国籍製菓会社)などのブランドのライセンス生産などのほかにも、コーラ風飲料「Cockta」や、ベビーフードの「Bebi」など、独自ブランドの製造をし始めた。

この毛並みの違う二つの会社が合併しドロガ・コリンスカ社となった。コリンスカ社のほうが会社の規模はずっと小さかったにも拘らず、今までドロガ社が合併してきた数々の会社のように名前が消えなかったのは、コリンスカ社が1908年設立の名門の老舗だったからであろう。

ちなみに現在、ドロガ・コリンスカ社はスロベニアでは最大の食品会社であるとレベッツさんは言う。

ビジョン・企業戦略

ドロガ社は、欧州の中でミートパテの最大生産者だと自認している。この戦略商品を堅持しつつ、ヨーロッパで、ミートパテだけでなくその他の食品や温かい飲料(コーヒー、紅茶)の供給をリードしていく存在になっていき、さらに中東、アジアにも進出していくことをビジョン・目標としている。実際スロベニア以外での売上の全体に占める割合はとても高く、51%がスロベニア国内、49%が国外の売上(そのうち81%は旧ユーゴ国内売上)である。

また、ドロガ社は、広告宣伝等のマーケティングに力を入れている。EFFIEコンテストの広告マーケティング部門で金賞を受賞したこともある。EFFIEコンテストというのは三十年以上続く伝統あるコンテストで、売上歳入のアップ、マーケットシェアの向上を果たすなど、その企業の行動がビジネスで優秀な効果を発揮することを証明した世界の企業に賞を送ることを趣旨とするコンテストである。このEFFIEコンテストで表彰されたのはスロベニアの企業としてはドロガ社が史上二番目である。

製品ラインナップ

ミートパテ、コーヒーと紅茶、香辛料、穀物製品、漬物、インスタントスープ、塩などを主なフィールドとしている。非常に種類が多いのは、長い間国営企業だったため、ユーゴでの食品需要の幅広くまかなうこととされ、不採算部門を切り捨てなかったためであろうか。

各フィールドでそれぞれのブランド(ミートパテの「Argeta」コーヒーの「Barcaffe」紅茶の「1001 CVET」香辛料の「Maestro」穀物製品の「Zlato Polje」漬物の「Premium Pickled Vegetables」インスタントスープの「Argo」塩の「Morska Sol」など)を確立している。そのなかには、健康によいことを訴える食品が非常に多い。

レベッツさんは、ドロガ・コリンスカ社の数ある商品の中でも特に主要な三つの商品に関して詳しく解説してくださった。

番の売れている商品はコーヒーで、スロベニアでは毎日約200万杯の「Barcaffe」ブランドのコーヒーが飲まれているという。「Barcaffe」ブランドのコーヒーは、同国で60%のシェアを占めている。豆はブラジル、エクアドル、ガーナなどから輸入し、十数種類の豆からコーヒーを作るのだが、台風などの影響で品種別の輸入量が変動し、全く同じ味のコーヒーを作るのが困難であることが問題だとおっしゃっていた。

また紅茶の「1001 Cvet」も、スロベニア国内では84%のシェアを誇るなど、スロベニア国内でトップブランドを構築している。自然の原料を使い、保存料なども使ってないのが特長である。2004年から世界の流行に合わせて、新しくフィルター式の紅茶を市場に導入した。紅茶の製品ポートフォリオは非常に広く、味の種類もパッケージの種類もたくさん種類がある。普通の紅茶のほかにハーブの紅茶やフルーツの紅茶、変わった種類だと薬用の紅茶も作っているらしい。

しかしドロガ・コリンスカ社において最も特徴的かつ戦略的に重要な商品といえるのが「Argeta」ブランドのミートパテだ。日本ではあまりなじみのない食品であるが、肉をすりつぶして味付けしたペースト状のもので、パンなどに塗って食べたり、サラダに乗せたりと用途は多彩。缶詰にして売られているのでピクニックなどに持っていくのも容易だという。同社のミーとパテはISO、HACCP(食品の国際安全基準)、BRC(スロベニアのオリジナルの安全基準)も満たしている安全な肉を使っている。国内消費だけでなく、ドロガ・コリンスカ社の最も主要な輸出産品として、旧ユーゴ国内だけでなく、遠くはトルコまで輸出をしているようである。特にボスニアでは生産量の40%が売られており、ボスニアにも生産工場が作られているという。ここでレベックさんは、ボスニアに工場を作るのは労働力がスロベニアより安いという理由だけではなく、ボスニアの雇用を増やし経済水準を上げたいからだ、と急いで付け加えた。

さて、コーヒーと紅茶はともかくその2つとミートパテというのは奇異な組み合わせだというのが正直な感想だが、ドロガ・コリンスカ社がミートパテを製造・販売しているのには理由がある。スロベニアの位置にその秘密はあった。

スロベニアの西隣にはパスタを多く生産する国、イタリアがある。パスタには卵が必要なので、パスタを多く生産しているイタリアには卵を産むためのたくさんの鶏がいる。そして卵を産めなくなった古い鶏をドロガ・コリンスカ社はイタリアから安く輸入し、ミートパテを作っているのだ。つまり、イタリアのパスタ工場むけの卵生産者は、本来廃棄するはずの鶏を売って売上にすることができ、肉だけが必要なドロガ・コリンスカ社は安く鶏肉を仕入れられるという、双方にメリットのあるシステムを構築しているのである。

また会社にとって主要な商品であるかは別にして、レベックさんが熱心にアピールしていた商品は、清涼飲料水の「Cockta」である。炭酸水であるところや濃い茶色の色合い、そして味付けなど、どことなくコーラに似ている。しかしレベックさんは、コーラとは違う清涼飲料水だということを、プレゼンの後の質疑応答の際、強く主張していた。レベックさんのお話によると、コーラと違ってカフェインや燐酸が含まれていないため健康によく、フルーツやハーブ等が配合されており風味豊かだと自信満々だった。この商品は冷戦下の1953年から売り出された商品であり、アメリカの象徴であるコーラを国内に入れないため、その代用品としてユーゴスラビアで生産開始された商品であったと推測できる。プレゼンの中のキャッチコピーに「No caffeine(カフェインなし)」や「No phosphoric acid(燐酸なし)」など、明らかにコーラを意識したフレーズが含まれていた。

市場

ドロガ社は非常に海外市場依存度が高い会社といえる。海外市場依存度が高いのは今までと同じだが、特に最近は、旧ユーゴ国内を主な市場としてきた状況を変えることを迫られてきた。

これには二つの理由がある。一つはスロベニアが旧ユーゴ諸国との関税免除の相互合意を取り消したことである。旧ユーゴ国内にたくさんの輸出をしていたスロベニアの食品会社はこれによって打撃を受けた。ちなみにこのせいでドロガ社の旧ユーゴ国内での実績は伸び悩んでしまった。もう一つは、スロベニアがEU加盟によりEU諸国からの輸入制限を廃止したことである。このことはEU諸国から競争力のある商品がたくさん入ってくることを意味する。スロベニアの市場はEU諸国からの輸入の影響をより受けやすくなったといえる。これに対応するため、スロベニアの食品会社は、合併や、新しい環境に順応するための活動などを積極的に行っていく必要がある。この点でドロガ社は、コリンスカ社と合併したり、EU諸国に関連会社を持つなどしたり、EU諸国に積極的にプロモーションを行ったりなどして、環境に応じた行動を取っている。

かし現状として、EU諸国との競争に勝ち残るのは困難が伴う。そこで中東・アジアに市場拡大を計画しているようである。得意としている広告により、ブランド・イメージの確立を目指し、製品を売り込んでいくのだと思われる。

工場視察の折にいただいた、2004年版のドロガ社の年次報告書を見ると、2004年の純売上利益は23,470,093SIT(約129億円)で、昨年比で4%伸びている。企業の売上自体は多少成長しているものの、ドロガ社の売上目標と比べると92%しか達成できていない。2003年から続く食品・飲料産業の低成長の傾向が続いているようだ。売上を国別に見ていくとスロベニア国内やEU国内では純売上利益は上昇し、売上目標の達成度はスロベニア国内で105%、EU諸国内で95%とおおかたクリアしているといえる。しかし反面、旧ユーゴ国内での純売上利益は伸び悩んでおり、売上目標も旧ユーゴ諸国の中で達成に一番近かったクロアチアですら92%、他の四カ国だと70〜80%、全体では81%である。このように見ると旧ユーゴ地域の売上の伸び悩みが全体の低成長に繋がっていると考えられる。これは、上記の、スロベニアが旧ユーゴ諸国との関税免除の相互合意を取り消したことが、密接にかかわっているだろう。

国別に売上を見てみると、一番売上の多い国はボスニア・ヘルツェゴビナで、494388.7万SITである。次にクロアチアの152760.5万SIT、マケドニアの133840.1万SIT、コソボの96781.2万SIT、セルビア・モンテネグロの73078.9万SITと続く。人口比で考えると、ボスニア・ヘルツェゴビナとマケドニア、コソボでの市場浸透度は非常に高いといえる。逆にセルビア・モンテネグロは低く、一つの鬼門となっているといえよう。

また中東での売上を見てみると424.8万SITと、売上目標のたった3%しか達成できていない。現地の厳しい市場競争のなかで、新規参入することの難しさがうかがわれる。

経営状況

ドロガ・コリンスカ社は、スロベニアの会社のなかでも利益率ではトップ50位に入っており、経営状態も非常によい、とレベックさんは自慢しておられた。

この点について、2004年次報告書にあるドロガ・グループの損益計算書で確かめてみると、総売上は前年より4%増加しているものの、原材料や商品やサービスにかかる費用が前年より6%増加し、人件費も前年より大きく増加している。売上自体は増えているものの費用が増加してしまったので、営業利益率は6.5%から3.9%にまで落ち込んでいる。

貸借対照表を見ると、純資産の割合は2003年より5%アップし、負債は5%ダウンしているが、総資産は前年より7%も下がっている。積極経営により資産そのものが増えているというわけではなさそうだ。また棚卸資産額は前年よりも11%増えてしまっている。食品会社で在庫が増えてしまっているのは、あまりよくない状況といえるであろう。

このような資料を読むと、レベッツさんがいうほど健全で成長を志向する財務状態ではなさそうだ。Cの「市場」の欄にも書いたような、旧ユーゴ諸国内での売上の伸び悩みや2003年から続く食品産業・飲料産業の低成長の傾向が影響しているのかもしれない。

私たちはレベッツさんにプレゼンテーションをしていただいた後、工場の中を見学させていただくことになった。

清潔・効率的な工場にて 

入り口

工場の建物に着くと、工場の中には一切の荷物が持ち込み不可である、と告げられた。カメラはもちろん、記録係である私のメモ帳持ち込みすら許されなかった。

まず私たちは、入り口で、使い捨ての不織布でできた白衣と帽子を手渡され、その着用を義務づけられた。なお、この際帽子から髪の毛などがはみ出してはいけないということだったので私たちは深く、確実に帽子をかぶった。一見滑稽に見えるほど白衣と帽子をきちんと着こなして奥に進むと、次に私たちがさせられたのは手洗いと消毒であった。液状石鹸で手を洗い流すと、そのあと更に手に消毒液をつけ、すり込んだ。

 これまででもかなり厳重な衛生管理をしているように見えるが、本当に衛生管理がしっかりしているなと実感したのはここからである。もう少し奥に進むと、靴の裏の消毒用の機械があった。その機械は足場でブラシのようなものが回転しており、私たちがその上を歩くことによって靴の裏が消毒できる、という仕組みである。その機械を通り抜けるとなんと更にもう一度手を消毒することを義務付けられた。私たちはそのような厳重な衛生管理の厳重さに驚きながら、生産ライン見学に向かった。

ミートパテ製造ライン

中に入るとまずミートパテの製造ラインがあった。冷凍のチキンが大量に置いてあった。これがイタリアから輸入した古い鶏肉なのだろう。骨もまだついており少しグロテスクだった。これをゆでて柔らかくし、骨をとってつぶし、調味料を加えるらしいのだが、企業秘密なのか衛生上の関係なのか、詳しい工程は見せていただくことはできなかった。ただ、ミートパテの生産ラインの周辺は、生臭いにおいが充満していた。 

その少し奥で、ミートパテを缶に詰めている工程を見ることができた。めまぐるしく機械は動いており、次々とミートパテの入った缶ができていった。この工程は全自動で行われ、この付近に従業員はほとんど見受けられなかった。ちなみに、機械はイタリア製を使っていた。

そのあと倉庫のようなところを見せていただいた。その中に、ミートパテを詰める缶が収納されている一室があった。レベッツさんのお話によると、ジャストインタイム制はとっておらず、10日間で作られる分のミートパテを詰められるだけの缶は常に在庫として保存してあるらしい。しかし他に在庫が収納してある部屋は見受けられなかった。缶は小型なため10日分在庫があっても収納に場所をとらないのだろう。

出荷のための設備

次に、製品の出荷のため箱詰めされた商品を出荷口に運んでいるところを見た。箱詰めされた商品がぎっしり載せられたパレットをフォークリフトで運んでいた。パレットはEU基準のものを使用しているらしい。このパレットにはチェコ、ハンガリー、ポーランド等の国鉄のマークが入っていた。東欧方面に製品を輸出するのであろうことがうかがえる。出荷口への運搬はフォークリフトを使っていたが、それ以外の工場内の製品の移動・保存・出荷の管理はコンピューターを使って全自動で行っているという。

スロベニアでは製造後10日間工場内で保存してから出荷しなければならないということが法律で定められているということもあり、保存・出荷の管理には正確さが求められる。よって、コンピューターを使って正確に管理しているのだと考えられる。これに対し、日本の大手食品会社山崎製パンの工場では、出荷の管理はアルバイトの安い労働力を使いほとんど手動で行っている、と同社工場でアルバイト経験のあるゼミ生は話していた。

マケドニアからのトラックを発見

その後工場の外にいったん出た。その際に「マケドニア」の国名を表す語がボディーに書いてある大きな輸送用トラックを発見した。レベッツさんに伺うと、そのトラックはマケドニアで作られた野菜の漬物(ピクルス)などを輸送して来ているトラックらしい。というのも、スロベニアは国内に農地が少ないので野菜の生産には不向きらしく、旧ユーゴ内で一番の農業国であるマケドニアの企業に生産を委託し、その商品をコリンスカ社の名前で販売している(OEM方式)のだという。すなわち、これらの商品をドロガ・コリンスカ社は「Premium Pickled Vegetables」というブランドネームを付け、同社のブランド・ラインナップの中で販売している。このように、旧ユーゴ国内での分業体制が敷かれていることが分かった。もしこのシステムがうまくいったら、外部に委託する商品数を増やしていく予定だそうだ。

コーヒー製造ライン

工場の中に再び戻り、コーヒー製造ラインの工程の中の袋詰めのところを見た。機械はかなり大きく、いかつい形をしていた。近くに豆がらがためてあったのだが、それは廃棄するのではなく、コーヒー味のアメやガムなどのための香料にして使うのだという。私たちが見ている間にラインが一時止まってしまったのだが、そのとき従業員は驚いた様子を見せていた。日本の山崎製パンの場合は、機械が旧式のためラインが止まることはしょっちゅうで、従業員は驚いた様子も見せないという。しかしドロガの機械は見たところ新品だった。ラインが止まるということはなかなかないことなのだろうか。

紅茶製造ライン

このあとは紅茶の製造ラインの工程の中の箱詰めのところを見た。紅茶の箱が自動で組み立てられ、そのなかに自動でテンポよくティーバッグが入っていくという光景は見ていて気持ちいいほどだった。箱に入らないで床に落ちてしまう製品はほとんどない。

日本の山崎製パンと比べてみると、山崎製パンでは、箱詰めの機械も旧式の機械を使っている。このことによって生じる不利益は大きい。まず、よく製品が床に落ちたりする。床に落ちた製品も、きちんと箱詰めされていれれば商品として出荷できたはずのものであるから、この落ちた分は会社にとって明らかに原料や製品を損失していることになる。また、旧式の機械は工程に手動部分が増えるから、アルバイトによって安い労働力を確保して労働集約的な生産方式をとることになる。低労賃のアルバイトが確保できる間は、新型の機械に買い換えないほうが会社全体の利益は大きくなるという経営判断なのであろう。

紅茶の生産ラインの近くには数人の従業員がいた。紅茶のラインはほとんど自動で行われているため、明らかに従業員の数は余っていた。従業員の様子を見ているとせかせかと忙しそうな様子は見えず、近くの従業員同士で雑談などしながらゆったりと仕事をこなしていた。勤務中の従業員同士の会話などが許されているところを見ると、就労規則もあまり厳しくないようだ。コスト削減を目指すなら、自動化によって余剰となった労働者は当然カットされるべきだが、社会主義時代の名残か、労働者をやたらと解雇しないという雇用体系をとっていることが窺えた。

従業員給料

ちなみに工場の従業員の給料は、税引き後で一ヶ月当たり約400ユーロ、会社全体の平均は1000ユーロだという。これに通勤費手当等が150ユーロ入るらしい。ブルーカラーとホワイトカラーの給料の格差は日本と比べると大きい。労働者の賃金は安いといえる。よって労働者の賃金が会社のコスト要因になりにくいので、社会主義の名残で従業員は安い賃金でも解雇しないという方針をとり従業員を余分に雇っているのであろう。

工場全体を通して、全体的に清潔で、自動の工程が多く、ゆったりとした作りになっていたという感想である。ゆったりとした作りというのは、安全や能率という観点から見ても実は重要な要素である。日本のパン工場のように狭いと労働災害の元になるし、従業員も圧迫によるストレスを感じ仕事の能率も上がらないだろう。機能的でかつ従業員のモチベーションを下げないような設備や作りになっており、それは、私の中にあった「工場=汚い、つらい」というイメージを一新させてくれるほどのものだった。

美味しい社員食堂、管理職は別室で

工場見学終了後、私たちは工場の食堂で昼食をいただくことになった。工場の食堂は明るくきれいだった。工場の従業員の方が食べているメニューとまったく同じものをいただいた。考えてみればこれはすごいことで、訪問者に食べさせてもいいレベルの食事をこの工場では従業員に出しているということである。食事は全体的にとてもおいしく、満腹になるほどの量があった。食事や食堂の様子を見てもわかるが、この会社の従業員が享受しているフリンジベネフィットのレベルは高いといえそうだ。メニューにはもちろん、ドロガ・コリンスカ社のものがいくつか含まれていた。一番の輸出用食品であるミートパテもいただいてみた。忙しくて朝食を作る時間のない学生やサラリーマンなどには非常に便利だという意見もあり、味を日本人向けに改良すれば、近い将来日本進出も可能かもしれない。

またこの食堂は管理職用の部屋と一般職用の部屋で分けられていた。日本では管理職も一般職も一緒の大部屋で食事というのが、古くから行われてきた家族的な企業風土を保つ一つの習慣なのだが、欧米ではそうではない。ガラス張りの部屋にカーテンが閉められ、完全に別室となっていた。しかし、仕切られてはいるものの椅子や机などインテリアでは差はなく、従業員のモチベーションを下げないための配慮は一応なされているようだった。

高級リゾートタウン、ポルトロージ

食事をした後、ドロガ・コリンスカ社の商品(紅茶、コーヒー、粉末カプチーノ、パプリカのソース、清涼飲料水のコクタ)をお土産としていただいた。レベッツさんをはじめとするドロガ・コリンスカ社の皆様、急がしい中のおもてなし本当にありがとうございました!

車に乗り込んですぐ、のどが乾いたので、先ほどいただいたドロガ・コリンスカ社製の清涼飲料水「Cockta」を早速飲んでみることにした。 実際に飲んでみるとなかなかおいしく、ゼミ生の中でも好評だった。確かにコーラとはまた違った味で、コーラよりおいしいという感想を持ったゼミ生もいたようだった。

その後私たちはピラン(Piran)へと向かう途中ポルトロージという町を通過した。塩田とその倉庫を見かけた。ドロガ・コリンスカ社の製品ラインナップに塩があったがこの付近でできた塩を入荷したものと考えられる。この塩は業務用に適しているという。確かにドロガ・コリンスカ社の製品にも保存用と業務用の商品があった。

ポルトロージは、スロベニアでも屈指の、高級海浜リゾートタウンである。家々は海に面した大変眺めのよい丘の上や斜面の上に立ち並んでおり、この丘の土地の地価は非常に高く、50平方メートルで約80万ユーロ(約1億円相当)の土地もあるらしい。ちなみにこのあたりだと、丘や斜面の上のほうが平地よりずっと高いらしい。またこの近くにはビーチなどと一体化した高級ホテルコンプレックスもあり、一般人には近寄りがたいような高級リゾート地の雰囲気をかもし出していた。

ベネチア共和国が作った街、ピラン

ポルトロージを経て、私たちはピランに入った。ピランは、18世紀までベニス共和国の領土であり、その町並みは全体的にその影響を大きく受けている。前述したように近くに塩田があり、安い労働力で塩を生産した。ベニス共和国時代では塩は肉の保存などのため重宝されたため、主にその収入でピランは栄えていったという。また、ピランは街の規模に比して教会の数が多い街だ、とガイドのグレゴルさんはおっしゃった。大きな町でないにも関わらず町の中には30以上の教会があるらしい。

タルティーニ広場近辺

私たちは、海に面した中心部のタルティーニ広場で専用車から降りた。ピランは、バロックから前古典派への橋渡しとして音楽史上重要な位置にある、ヴァイオリンソナタ・ト短調「悪魔のトリル」で有名な作曲家タルティーニの出生地として有名である。タルティーニは、夢の中に現れた悪魔からこの曲を教わり、目が覚めてから一心にそれを五線譜に移して、この名曲を世に出したのだという。広場には、ヴァイオリンを弾くタルティーニの像があった。ガイドは、東洋のはずれから来たわれわれがタルティーニの名前を知っていたので、少し驚いたようだった。ドイツ人客でも、この作曲家を知らない人がいるらしい。

ガイドのグレゴルさんに連れられ、われわれはまず、タルティーニ広場に面したところにある聖ペテロ教会(Church of St Peter)に行き、そこで珍しい「十字架」を見せていただいた。何が珍しかったのかというと、その形である。普通の十字架は縦の直線に垂直に横の線が短く入っているが、この十字架は縦の直線の下のほうからその両脇に二本の曲線が放射状に飛び出している。この十字架にキリストが掛けられている。この形の十字架は世界にたった3つしかない大変珍しいものだという。この特殊な十字架の形は三位一体(創造主である父なる神、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神、信仰を受けた聖霊なる神、の三者が、唯一なる神の三つの位格であるということ)を表しているそうだ。また、キリストの磔が従来の十字架よりリアルにグロテスクに表現されている。この「十字架」をみて、キリストの贖罪をより深く信じるようになった信者も少なくないであろう。

小高い丘へ

街を少し歩き、少し小高い丘のほうへ登っていくと、早速ベニス共和国の影響を受ける建造物に出くわした。街のメインタワー的存在である聖ジョージ大聖堂(Stolna Cerkev Sv Jurija.)である。この聖ジョージ大聖堂の建物自体は10世紀に作られ、1334年に神のご加護を受け今の名前がつけられたというガイドの話である。その後1637年に、バロック様式に建て直された。ベニスのサン・マルコの塔をまねして作られたという塔のてっぺんには、天を指差すガブリエル大天使(Archangel Gabriel)の模型が風見鶏のようにひるがえっていた。ガブリエル大天使が街の方角を見ていると天気が悪くなるといわれており、街の人々に天気予報として親しまれているようだった。

丘から海の方面を見渡すと海岸線に城壁が見える。この城壁は、もともとは中世に建てられたもので、当時よく攻めてきたトルコの侵略を防ぐために建てられたものらしい。 街の方面を見渡すと、建物の屋根についている煙突が様々な形をしていることに気付く。この地域では、煙突の形がその家の富を表す指標になっており、変わった形の煙突をつけている家ほどお金持ちの家とされていたそうだ。もっとも、わざと変わった形の煙突をつけて見栄を張る人も結構いたらしい。

丘を降りて海岸線を経て街中へ

丘を降り、海岸に出た。観光客が海水浴を楽しんでいる。お昼時だったせいもあるのか、海岸にはそんなに客はいなかった。しかし、海辺の雰囲気はどちらかというと庶民的で、隣町のポルトロージほど近寄りがたい感じではなかった。

ピランという町は鳥のくちばしのような形の岬にあるのだが、その岬の先に一つ、目立つ建物があった。この建物は昔灯台として使われており、その後灯台に併設される形で聖クレメント教会(Church of St Clement)という教会が13世紀に建てられ、教会として使われたそうだ。しかし、現在では何にも使われていないらしい。

海岸の通りから石畳の街並みに入っていった。このあたりは夏乾燥する地中海性気候のため、日なたは日差しが強く熱いが、日陰に入ると涼しく、汗もすぐに引き気持ちがいい。石畳の通りには、人通りはさほどなかった。たまに老人がゴルフで使うゴルフバックのようなもので荷物を運んでいるのを見かけた。街は非常に穏やかな様子であった。

しばらく歩くと5月1日広場(Trg 1 Maja)というところに着いた。ここはベニス共和国時代の1775年に起きた大渇水の後、町の水を蓄えることが必要として作られた広場で、広場の真ん中に浄水場の役割をこなす装置を作り、新鮮な水が流れてくるシステムになっている。そうなると当然、水の都ベニスを首都とするベニス共和国の援助で作られたのだと思いたくなるが、ガイドの話によるとどうやらそうではなく、ベニス共和国が援助してくれなかったので、地元の人々が自分たちで資金を集め建設したのだとガイドのグレゴルさんは語った。しかし、三百年前にこの様な水道システムを建設するのは多額の費用と高い技術力が要求されると思われる。よって、すべてが地元民の手によって建設されたものかどうか、少し疑問が残った。

歴史的文化財は通常その地に住む人々のアイデンティティーの拠りどころとなるが、ピランにある歴史的文化財はほとんど、ベニス共和国によって作られたものである。ということはピランのスロベニア人としてのアイデンティティーの拠りどころがないことになってしまう。そこで、生活する上で最も重要なインフラの一つといえる水道のシステムを自分たちで作ったと主張し、自分たちがその地で暮らしてきた証としてしまっているという考え方は成り立たないであろうか.?

浄水場の近くに、街で一番古い市場があった。そこでは地元の人々が地元産の物を売買していた。市場に並んでいたものは主に野菜や果物であり、ローカルな市場が形成されていた。中にはアルバニア人もおり、輸入品の生活用品や雑貨を売っていた。

 またしばらく歩くと市民会館があった。建物にはライオンをかたどった聖マルコのモニュメントがついておりその動物は本を持っている。このモニュメントはベニス共和国のマークであり、9月1日に訪問するぺラスト(Perast)や、9月2日に訪問するコトル(Kotor)などでも、同じモニュメントが見受けられる。このモニュメントは、ベニス共和国がアドリア海の広い地域に影響を及ぼしていたかを示す、何よりも雄弁な証拠となっているといえるだろう。(モニュメントの詳しい説明については8月25日分を参照)

EUを去って、クロアチアへ

ピランの視察を終え、われわれは、来た道とは違って、高台のほうから迂回してコペル方面に戻った。高いところの道なので、遠くに塩田が望めた。更に向こうには、クロアチア国境が見える。

コペルに近づくと、道路沿いにスクーターのメーカー「TOMOS」の工場を発見した。水岡ゼミの中でもこのTOMOSのスクーターに乗っているゼミ生がおり、そのゼミ生はデザインが気に入って買ったというと、グレゴルさんは非常に驚いていた。日本ではおしゃれなスクーターとして通っているが、こちらではどちらかというとチープなイメージで通っているようだ。ここコペルでガイドのグレゴルさんは降り、別れを告げた。

コペルを出ると、いったん高速に乗った後、トリエステから来て南東に向かうほぼ一直線の一般道に入った。この道は、ハプスブルク帝国時代に作られた道らしい。この地域一帯がハプスブルク帝国領だった時代から、帝国が解体しこの地域全体がイタリア領だった時代まで、この街道はアドリア海の主要港湾都市であったトリエステと、やはり大きな貿易港があったリエカ(Rijeka)(イタリア領時代のの名前はフィウメ)を結ぶ主要街道だった。しかし今は国境線が引かれ、この街道は3つの国に分断されてしまっている。

一般的に国境をまたぐ道路は、新たなインフラ投資に対する優先序列が低く、公共投資があまりなされないことが多い。自国に何の経済的利益ももたらさない外国の通過交通のために時刻の税金を投下することは、正当化されにくいからだ。このため、今のところここには高速道路も建設されていない。

車はクロアチア国境に近づき、国境の手前で通貨を両替した。クロアチアの通貨はクナ(Kn)である。

そしていよいよ、国境についた。今でこそこのように二つの国の境となっているこの線も、ほんの十数年前旧ユーゴスラビア連邦が存在した時代にはなかったものである。スロベニアとクロアチアがそれぞれ独立し、ここに国境線が引かれたのだ。そんな国境だが、いまや、北側のスロベニアはEUに加盟し、南側のクロアチアはまだEUに加盟していないという、EUのフロンティアになってしまった。

 スロベニアの国境検問を越えクロアチア〜スロベニア両国の国境検問所にはさまれた区間に入ると、反対側の車線は、5Kmはあると思われる長蛇の渋滞になっていた。その車のほとんどはクロアチアのリゾートを楽しんできた観光客のものと思われる。国境の手続きのことも考えると、抜けるのに1〜2時間はかかりそうだ。EUのフロンティアとなったこの国境線の透過性は低いことがわかるが、渋滞を緩和させるため、レーンや検問所の係員を増やす対応をスロベニアは全くとっていないようだ。単なる通過交通のために、スロベニアの係官を増やすのは無駄だということだろう。もしかすると、渋滞でいやな思いをさせることによってクロアチアにもう一度行く気を削ぎ、観光客を自国に呼び込もうとするスロベニア側の高等な作戦なのかもしれない。

クロアチアに入国する検問所で、われわれはいよいよ非EUの国に入る。しかし、クロアチアの検査は至って簡単で、係官はパスポートにスタンプも押してくれなかった。

しばらく走ると、最近完成したばかりの高速道路に入った。まだ、土が露出している法面が生々しい。この高速は、将来われわれが通ってきたスロベニアからの一般道路にほぼ沿ってイタリア方面に延長される予定らしいが、スロベニアでは工事の形跡すらなかった。EUとの空間統合を果たしたいクロアチアと、つれないスロベニアとの対照がよくわかる。

またしばらく走ると、リエカの街に近づいた。道路は市内に入らず、高台を通っていて、眼下に街が見える。コンテナの積みおろし用のクレーンがとても目立っている。クロアチアにとってもっとも重要な港湾であるが、街の様子は全体的に活気がなく、寂れている感じだった。また、前日に訪問した比較的新しい港町Koperと比べても、港湾機能は比較的小さいようだった。しかし、クロアチア政府は、リエカの再興をかけて、周辺に工業団地開発のプロジェクトを進めている。車窓から見ると、着実に投資が進んでいるように見受けられた。

 しばらく海岸の道を走った。陸側は山になっているが、木はほとんど生えていなく、はげ山に岩が露出していた。ベニス共和国時代に、船の船体にしたり燃料にしたりするため森林を伐採し、そのあと再植林しないまま、土壌浸食で木が生えなくなってしまったからだという。

庶民の海水浴場、ニビツェ

大きな海上の橋を渡ってクルク(Krk)島にはいった。この島は、409平方km、クロアチアで最も大きい。橋から8qくらい先まで行き、ニビツェ(Njivice)という町にある、エコクバルナ(Eco Kverner)という環境問題の市民運動団体を、私たちは訪問した。

私たちはまず、代表のビエラン・ピルシッチ(Vjeran Piršić)さんにお会いした。ピルシッチさんは非常に体格がよく、穏やかそうだがそのなかにも情熱を秘めているというような顔をしていた。事務所は、ピルシッチさんが経営している小さな旅行会社、アレタ(Aleta)と同じ、民家のような建物のなかにある。エコクバルナは、この地域の観光産業の存在を危うくさせる石油パイプラインに伴う海洋汚染の問題に対し先頭に立って反対するため、この会社と民宿を経営するピルシッチさん自らが立ち上げたものだ。

長かったピランからのドライブの疲れを取る気分転換も兼ねて、まず、ピルシッチさんにニビツェのビーチを散歩しながら案内していただくことになった。散歩していると、水着を着て浮き輪やパラソルを持ってのんびり歩くたくさんの観光客が目に付いた。同じビーチでも、今朝見たスロベニアのものとはだいぶ雰囲気が違う。ポルトロージは大きな高級ホテルが立ち並び、きらびやかな富裕層向けのリゾート地だったのに対し、クルク島の宿泊施設は、ホテルというより家族経営の民宿のようなものが多く、家族連れの多い大衆的で賑やかな海水浴場が形成されていた。ビーチの長さもかなり長い。そのため、欧州の長い夏季休暇を生かして長期滞在する海水浴客も多く、レストラン、おみやげや飲み物・アイスクリームを売っている売店もかなり多く見られた。レストランは、さほど高級そうな感じではなかったし、アイスクリーム屋の店員はアルバニア人だった。ピランの市場でもアルバニア人が生活用品や雑貨を売っていた。また海水浴用品を道端に並べて売っている露店も多かった。売っているビーチサンダルや浮き輪やパラソルは、いかにも安そうな中国製という感じだった。

ビエラン・ピルシッチさんの話によると、この地域の人々は夏の海水浴シーズンにこうして海水浴客相手に商売をすることをビジネスにしているので、夏は15時間も働くという。「日本人みたいだろう」といって笑った。逆に冬は何もしないという。この地域の経済は、ほとんどすべてこの海水浴ビジネスが握っているといっても過言ではない。この地域の人々の63%は、観光産業から主な収入を得ているのだという。

バラスト水による海水汚染と闘うエコクバルナ

ゾラン・ピルシッチさん(エコクバルナ代表)のお話

まずピルシッチさんに、この地域における環境問題の概要を話していただいた。

1979年、国家プロジェクトとしてロシアのサマーラからウクライナ、ハンガリーなどの東欧諸国を経てクロアチアまで延びるパイプラインが建設された。その起点が、隣町オミシャリエ(Omišalj)にある。パイプラインの建設以来、このパイプラインは、リビアやアルジェリアからタンカーで運ばれてきた石油を東欧諸国に運ぶといういわゆる輸入専門だった。タンカーは石油を積んでやってきて、石油を下ろし、そのあと、タンカーの船体を安定させるために船に積まれる「重石」となる「バラスト水」と呼ばれる海水を港の海からくみ上げ、それを積んで帰っていくだけだった。ところが、2002年末、ロシア政府からクロアチア政府に、このパイプラインを使って原油を送り、クルク島の石油基地を輸出拠点として使いたいとの打診があった。クロアチア政府は、これに飛びついた。2002年に関係六カ国が契約に調印し、計画は実現へと向かい始めた。この地を輸出拠点にするとなるとタンカーは石油をオミシャリエで積むことになり、オミシャリエに来るまで重石の役割をしていたバラスト水を排出することになる。

このバラスト水が、この地域の海水浴ビジネスにとって一大脅威として現れた。石油を積載する際に海へバラスト水を排出するということは、船内に残っている石油と混ざり合ったどこか別の港でくみ上げた海水を、海水浴場の海に放出するということであり、これで当然海水が汚染される。そのようなことで引き起こされる海水浴客の減少は、海水浴ビジネスによって生計を立てているこの地域の人々にとって大きな痛手である。そのバラスト水放出を発生させてしまうプロジェクトが、近年始まろうとしている。同じパイプラインでも、輸入と輸出では、近隣の海洋汚染の度合に大きな差があるのだ。

現在では、この地域の観光産業がバラスト水による海洋汚染により脅かされることを危惧した観光産業関係者や漁業関係者が、プロジェクトを推し進めた国家やパイプライン運営会社「ヤナフ」に対し反対をしている。パイプラインで輸入をしたりするのはバラスト水が発生しないから差し支えないし、ビーチの自然景観を損ねる石油関連施設も目障りではあるが大目に見てもいい。だが、パイプラインを輸出用に使って、海にバラスト水をばらまくのだけは我慢ならない、といった様子である。

 よって、自身も民宿を営み、旅行会社を経営するピルシッチさんは、エコクバルナを設立し自分たちのビジネスの根幹を揺るがすこのような問題に、先頭に立って反対しているということである。この地域には「国家と大企業の石油事業・対・地元民の小規模産業である海水浴ビジネス」という対立の構造があるようであった。

ラディッチさんのお話

その後、われわれのために来ていただいたエコクバルナのメンバーで、この地域の環境の問題を解決するためのストラテジーを考えておられるラディッチさんにお話を伺った。

ラディッチさんはクロアチアの人々の環境への意識が低いことを第一の問題点として挙げられた。人々に訴えても、なかなか共鳴してくれないのだという。これに対し、エコクバルナはカトリックの教会と協力し宗教的な啓蒙によって人々の意識を高めようと試みている。カトリックの教会は、人道的な視点からとても環境に関心があるので、NGOと同じ視点から協力してくれるのだという。

他にもエコクバルナは人々の関心を高める活動を積極的に行っている。エコクバルナは、この地域で七割の署名をもらっているだけでなく、トロント、バルセロナなど、世界の都市で署名をもらっているらしい。この地域では、カトリックの教会の協力もあって72%の人々は石油事業に反対しているのだという。もっとも、80%の人々は、反対運動が本当に成功すると思っていないらしいが。また、この後に記すが、テレビ局・新聞社の記者が来て水岡先生にインタビューをしていた。これも、エコクバルナの一つの策であるといえよう。日本人の学者の口から環境保全の優先を訴えてもらうことによるPR効果を期待していたのであろう。最近は、『日本経済新聞』の桜庭記者が訪問し、エコクバルナの運動を記事として取り上げ、日本に紹介した(2005年6月5日付)。そもそも、私たちにとっても、その記事を読んだことがこの地を訪問したきっかけである。エコクバルナの味方は世界中に増えてきたようだ。

もっとも、不可解な点もある。『日本経済新聞』は基本的にネオリベラリズムを支持し、ビジネスの視点から記事が書かれている。こうした新聞が、なぜエコクバルナのことを好意的に取り上げたのか。石油事業の記事を取り上げるのなら分かる。石油事業が発展してくれたほうが周りの港などをはじめとするインフラの更なる整備も促進されるし、ロシアとの取引によって生じる利益も多くなり、細々した観光産業よりずっと大きな投資チャンスが生まれるからだ。ところが、その『日本経済新聞』の記者が、いきなり電話一本でエコクバルナに取材に訪れ、「小さいビジネスや環境を保護していくことが重要である」と書いて、この運動を支持しているのだ。

ピルシッチさんは、この不思議をこう分析された。すなわち、『日本経済新聞』の真の狙いは、この地域の市民運動に支持を与え、パイプラインによるロシアの石油輸出プロジェクトを中止に追い込むことによって、ロシアのヨーロッパ方面への石油輸出を困難にさせ、その分の石油を極東方面へ輸出させて、日本の産業が利益を得られるようにするためのものだったのではないか、というのである。もしそうだとすれば、エコクバルナの運動は、石油資源をめぐる生々しい地政学的な抗争の一端を担っていることになるわけだ。

このパイプラインで石油の輸出を始めたら、観光客は当然減っていくであろう。観光客以前の問題として、海の生き物や周辺に生える木々などが危機に瀕するだろう。このようなことへの対策として、人々の関心の他に、もちろん科学の力も必要だ、とラディッチさんはおっしゃった。

インタビュー一時中断・TV局と新聞社の水岡先生への取材

ここで、水岡先生に対するクロアチア放送(TV局)と新聞社の取材が入ることになった。先生はインタビューにおいて、 「クロアチアは真の民主主義国家にはまだなり得ていない。NGOグループエコクバルナの活動は、旧ユーゴ解体後も上からの支配を続けているクロアチア政府に対しての民衆の社会運動である。こうした草の根の活動は社会のシステムを国の中央が管理する社会主義から、人々の意見によって国を統治する民主主義へ真に移行させるための推進力になるため、大変重要である。日本でも水俣病などの環境問題があったが、裁判を行い住民が勝利したため、クリーンな環境が実現していった。住民運動によって政府・企業が変わっていったよい例である。クロアチアも環境問題に対しては住民運動から始め、継続した努力をしていくことによって道は開けるはずである。」 と、民衆の社会運動を激励するコメントを残された。 ちなみに、先生が水俣病に対抗する日本の粘り強い住民運動と裁判闘争の話をなさったとき、記者の方は非常に強い関心を示していた。社会運動によって住みよい世の中を作っていけることの前例を知り、エコクバルナの活動に可能性があるのではないかと思ったためであろう。 また観光産業については 「観光産業のような小さいビジネスはたくさんの雇用を創出し、この地域の経済、ひいてはクロアチア全体の経済を活性化させ、国全体に恩恵をもたらしていくであろう。とくに観光産業は裾野が広いため、小さな規模でも大きな雇用の創出が期待できる。自動車工業や鉄鋼業のような大きな会社や投資が必ずしも必要ではない。地元の人たちの意思で成り立たせることができるものである。クロアチア政府は観光産業は小さいので国の主要産業としては頼りないと思っており、石油事業の発展を促進しようとするのだろうがそんなことはなく、観光産業はクロアチアの頼りになる主要産業の一つといえる。クロアチア政府は観光産業をもっと大切にするべきである。」 と語り、この地域における観光産業を保護していくべきだと主張なさった。

インタビュー再開・ルジッチさん(船舶コンサルタント)のお話

水岡先生へのメディアの取材が終わった後、次にお話していただいたのは、船舶のコンサルタントをしているロナルド・ルジッチ (Ronald Ružić)さんである。

ルジッチさんは、バラスト水のもたらす害について、詳しくお話をしてくださった。 バラスト水は様々な弊害をもたらす。まず、クルク島からA港まで石油を輸出するとした場合、タンカーはA港の海水を積み込み、クルク島でその水を排出し、代わりに石油を積むことになる。この際、A港に棲む海洋生物や細菌が、海水と一緒にクルク島まで運ばれてくるため、クルク島周辺にいる生き物と争いが起こり、生態系が崩れてしまう。例えば、排水に含まれる他の海の微生物が生態系を変化させ、多くの魚介類が死滅してしまう恐れがある。A港にいたバクテリアやプランクトンなどの微生物が大量にクルク島に流れ込んでくれば、微生物の数は大幅に増え、海水中の酸素の量も減ってしまうのも大きな問題である。また、海水の透明度も下がってしまう。これは観光業にとって大きな痛手である。更にひどいことには、バラスト水は海水中のコレラ菌を運んでくることがあり、石油を輸出する港の近くでコレラを発症させる原因にもなるのだそうだ。実際バングラデシュの水がペルーにバラスト水として運ばれた際、バングラデシュの海水にコレラ菌が含まれていたのでペルーでコレラ患者が発生したことがあるという。

このように、バラスト水は非常に扱いが厄介だ。バラスト水を排出しないシステムの船も日本などが開発したらしい。水を循環させて不純物を取り除く下水処理のようなシステムもあるようだ。しかし、普及にはまだ時間がかかる見通しだそうである。ルジッチさんは、そのようにバラスト水をきちんと処理できるシステムがもっと普及すれば、パイプラインを使った輸入プロジェクトを認めてもよいかもしれないとおっしゃっていた。

ゾラン・スカラさん(化学産業専門家)のお話

その後、化学産業を専門とするゾラン・スカラ(Zoran Skala)さんがリエカから駆けつけてくださった。

クロアチアには政党が100以上あるが、特に大きい政党の一つとして社会党がある。社会党は主に労働者が支持基盤であるが、社会党は政策として環境保護を挙げていないという。工業発展を望む労働者を支持基盤としている限り、社会党は環境保護を政策としてあげないであろうという推測である。

しかし、運動に成功の見込みはおおいにあるそうだ。その根拠のひとつとして、クロアチアが近い将来EUに加盟する可能性がある。クロアチアのEU加盟によってクロアチアはEU諸国との結びつきが強まり、ロシアは極東方面に輸出を始め、クロアチア方面への輸出を諦めるのではないかという推測である。また、クロアチアはEUに加盟を承認してもらいたいために、国が環境保護に努力しているというのクリーンなイメージを保たなくてはいけないとも思うため、石油事業をあきらめるかもしれないという推測もできる。

汚染の元凶、石油施設を間近に見る

インタビュー開始から三時間が経過し、時刻は午後7時を回った。話をいただいた4人の方々はどの方も非常に情熱的で、クルク島の環境についてどれほど一生懸命になっているか推測できた。

長いインタビューの後、ピルシッチさんのご好意により、ボートのレンタルを営んでいるシンドリック・ぺイヴ(Cindric Pave)さんをご紹介いただき、石油タンクやパイプラインなどの石油施設を海上から実際に視察に行ってみることにした。

8月だったが、モーターボートで暮れなずむ海上を走るとかなり涼しく、少し肌寒いくらいだった。私たちはボートの上から線香花火のようにアドリア海に沈んでいく美しい夕日を眺め、クルク島の景色にしばらく酔いしれていた。だが、少し遠くまで行くと、美しい景観を損ねている石油タンクや、米国の化学多国籍企業ダウ(DOW)の化学工場や製油所が、いやでも目に入った。このような石油施設が、ボートなどですぐに行けてしまう距離にあるのは、それ自体やはり問題ではないかとわれわれは感じた。

 ボートは、オミシャリエの街に面する湾に回りこんだ。ピルシッチさんの話によると、昔この地区にボスニアから人がきて民宿を建て、大いに儲けたが、この地区に石油関連の工場が建てられてから景観が一気に損なわれてしまい、大きな打撃を受けたのだという。オミシャリエでは、エコクバルナのあるニビツェと違い石油施設が目の前に見えてしまうので、その地区の観光ビジネスの被害はすさまじいものがあるだろう。

ニビツェの港に戻ってボートから降り、私たちはしばらく海沿いの宿やレストラン、売店が立ち並ぶエリアを散歩した。この街で唯一というホテルを通って、エコクバルナの事務所に戻った。ピルシッチさんは十歩進むたびに知り合いがいるという感じだった。会った人はみな気さくに話しかけており、ピルシッチさんのこの地域での人望の厚さが感じられた。

 ピルシッチさんは、安い宿を紹介してくださり、ニビツェに泊まっていくことを非常に熱心に勧めてくださった。しかし私たちは、次の日にザグレブ(Zagreb)を視察することになっており、ニビツェに泊まると翌朝早く高速バスで出発するプランになってしまう。しばらく迷ったのだが、もし渋滞に巻き込まれたとき、ザグレブの視察に間に合わず、スケジュールに狂いが生じてしまうというリスクがある。このためわれわれは、当初の予定通り、その日の夜行列車でザグレブに向かうことにした。

ピルシッチさんは、私たちが誘いを断ったにも関わらず、いやな顔一つせずに、それなら私たちを自分の車でニビツェのバス停まで送ってくださるとおっしゃった。ピルシッチさんの人情に、深く感動した。

リエカから夜行列車でザグレブへ

ピルシッチさんがバス停までワゴンで2往復して私たちを全員送ってくださり、バス停で私たちはピルシッチさんに別れを告げた。

バスは21:30発の予定だったが、なかなか来ず、暗いバス停で少し心配になった。予定より約10分遅れで、バスが到着した。路線バスだが、観光バスのように大きく新しい車で、床下に大きな荷物を入れるトランクのスペースもあった。島のグネグネと曲がる道を高速で走るえため、バスは非常に揺れた。そんなバスに揺られ、私たちは1時間弱でリエカに着いた。リエカのバスターミナルには屋根もなく、新しい感じではなかったが、辺りの人通りは多く、多少にぎわっていた。

その後、徒歩でリエカ駅に向かった。暗くすすけた感じの道を600mくらい進んだところに駅はあった。ハプスブルク帝国以来の面影をもつどっしりした建物であったが、駅前にバーや食堂などがたくさん立ち並んでいるかと思いきや、あまりなくがっかりした。とりあえず駅の一番近くにあったバーに入り、売れ残りのぼそぼそしたサンドウィッチと紅茶で遅い夕食を済ませ、今日一日の長かったスケジュールを終えた。

 窓口で各自乗車券を買い、時刻が午前零時を回ったころ、私たちはリエカ発の夜行列車に疲れた体で乗り込んだ。夏の観光シーズンに増発されている臨時列車である。二等車両にしては車内は大変きれいで、快適だった。乗客はほとんどいなかったため、6人用のコンパートメントを2人ずつで占領し、3人がけの椅子に、寝台車のように横たわることができた。

0:20、定刻に列車は出発。リエカを出発してしばらくすると、列車は標高が高い山岳地帯にはいったので、暖房の無い車内は急に寒くなり、上着をかぶって寝た。

暗闇の中を、列車は次なる訪問地、首都ザグレブへと、私たちを運んでいった。

(濱田 淳)