西欧から集まる観光客

前日にブレッド(Bled)入りした私たちは、ホテルに1泊し、巡検の初日を迎えた。 宿泊したコンパスホテル(HOTEL KOMPAS)は社会主義時代には国営旅行社(KOMPAS)が経営していた。 市場経済に移行後は、アメリカ資本のベスト・ウエスタン(Best Western)という企業が買収し経営している。 内装は大きな吹き抜けになっており、社会主義時代に宿泊したであろう外国人観光客や共産党の要人にふさわしい豪華な造りだ。 このホテルのエレベーターはフロアとフロアの間に停まるようになっていて、重い荷物を持って階段を昇り降りしなければならず、やや使い勝手が悪い。

この日の朝は、8:30から、ブレッド観光協会のマトヤズ(Matjaž Završnik)さんに観光開発に関するインタビューをする。定刻少し前に、全員がホテルのロビーに集合した。

 協会の方が来られるまでの間、ホテルの駐車場で、ヨーロッパのどの地域からブレッドに観光客が訪れているのかを観察することにした。このことは駐車してある車のナンバープレートから推測できる。EU域内の自動車のナンバープレートにはEUのマークが印してあり、その横に各国のイニシャルが印字してある。実際に駐車してあった車の例でいえば、Aならオーストリア、Fならフランス、Dならドイツ、Iならイタリアという具合だ。ナンバーが赤い文字でBと書いてあるのはベルギーの車、無印のものはスロベニア国内からの車だ。駐車してある自動車から推測すると、隣国のイタリア、オーストリアからだけではなく、やや遠い西ヨーロッパからも観光客を集めているようである。 ブレッドは、ヨーロッパという空間スケールにわたって集客する観光地として、それなりに成功していることが伺える。

1000年の歴史を持つ高級リゾート

ホテルの会議室でインタビューが始まった。 本来ならば会議室の使用料を払わなければいけないのだが、ホテルのご好意により無料で使わせていただいた。 最初に、ブレッドの観光資源に関する概要を説明していただいた。 それらをいくつかの項目に整理して記したい。

  1. 立地
  2. ブレッドはイタリア、オーストリアとの国境からそれぞれ車で約30分の距離にある。 ブレッドから4kmほどのところには、私たちが前日利用したリース・ブレッド(Lesce-Bled)駅があり、長距離国際列車が停車する。 鉄道を利用すれば、やや離れた都市からもアクセスできる。最寄りの国際空港も車で30分ほどの距離にあるし、高速道路もすぐ近くを通っている。 立地条件の良さが、ブレッドの観光産業発展のひとつの背景である。

  3. 歴史
  4. ブレッドが初めてその名を知られるのは、1004年4月10日にドイツ皇帝ハインリヒ2世がブレッドの司祭Albuin of Brixenにこの地を与えたときである。 「2004年でちょうど1000年の歴史を誇る」というのがブレッドの売り文句になっており、それを謳った立派なパンフレットが作られていた。 ブレッド湖のすぐ傍の岩山の上にあるブレッド城の原型となる塔もこのときに建てられた。 最初はロマネスク様式の塔と城壁しかなかったが、中世になって塔と城が付け加えられた。 私たちは前日にブレッド城まで行ってみた。 現在は博物館として利用されている。

    ブレッドの観光地としての歴史は、ここがオーストリアの一部だった1855年にまでさかのぼる。スイス人のArnold Rikliという人物がブレッドのきれいな空気や水を利用して、湯治療法を始めた。 彼は、湯治療法をするにあたって、コテージ、温泉などの施設を建設し、血液の循環を促すマッサージや食事療法など、独自の療法を広めた。

    Arnold Rikliの貢献もあり、20世紀初頭から、ブレッドはヨーロッパの貴族のための高級リゾート地としてその名を広く知られるようになった。 1903年にウィーンで開かれた温泉地のコンテストで金賞を受賞した。 1906年にはウィーンとトリエステを最短距離で結ぶ鉄道が開通して湖畔に駅ができ、交通の便が改善された。 この頃から、ブレッドの観光産業は、欧州全体を市場にしており、来訪する客のうちスロベニア人は10%にも満たなかった。 第一の理由として、スロベニア人の多くが家を所有していたため、休日をわざわざホテルで過ごす必要がなかったことがあげられる。第二の理由として、当時のスロベニア人にとっては値段が高すぎたことがあげられる。このため、ブレッドは常に近隣諸国の観光地と競争関係におかれていた。

    ハプスブルク帝国が崩壊し、ブレッドがユーゴスラビアの一部になってからも、観光開発は続いた。 1930年代はホテル、ゴルフコース、テニスコートなどが建設された。1945年から約5年間の間は、第二次世界大戦で負傷した人を癒す保養地としてホテルなどの施設が利用された。社会主義国になったユーゴスラビアのもとで、ブレッドはさらにホテルなどの観光インフラを整備していった。ビラ・ブレッド(Vila Bled)というチトーの別荘があり、現在は高級ホテルになっている。このため、旧ユーゴ時代には政治家などが多く訪れた。 こうしたなかで、ブレッドは、20世紀初頭からの高級リゾート地としてのブランドイメージを維持しつつも、次第に現在のようなより大衆的な観光地へとシフトしていった。

    1991年、スロベニアはユーゴスラビアからの独立を宣言する。 6月27日からユーゴスラビア軍の侵攻が始まり、10日間の戦争が行われ、その結果スロベニアは独立を達成した。 その後のユーゴスラビア紛争のときに、世界中のジャーナリストたちがブレッドに宿泊し、現地からの報道を行ったということだ。

    1991年の独立を達成する前から、スロベニアは旧ユーゴスラビア国内でも経済的に豊かな地方だった。 特にブレッドは、独立前から他のヨーロッパ諸国のほうを向いていたし、人々がスロベニア語だけでなく、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語など何種類かの言語を使いこなすことができた。それに加え、ブレッドは観光地としての確固たるブランドイメージを持っていた。 このために資本主義に移行しても、ブレッドはあまり経済的ダメージを受けなかったという。

    ヨーロッパの観光地からグローバルな観光地へ

  5. 市場
  6. スロベニアは2004年の5月にEUに加盟した。 EUに加盟しても、観光産業には特に大きな変化はないと観光協会の方はおっしゃった。 EUに加盟する何年も前から、他のヨーロッパ諸国からの観光客をターゲットにしていたことがその理由としてあげられる。 もっとも重要な市場はイギリス、ドイツで、それぞれ観光客の16%程度を占めるという。 それに続くのがアメリカ、イタリア、クロアチア、オランダ、オーストリアなどで8%かそれ以下の割合だという。

    もっとも観光客が多い5月から10月にかけては、30以上の国からくるという。 南米やアフリカからの来訪もあるという。 仕事の会議やセミナーの場所としての利用客も多いらしい。 ブレッドの人口は約4,500人だが、観光シーズンにはブレッドの人口が約2倍になるという。 ブレッドはヨーロッパの観光地から、次第にグローバルな観光地へと変化しつつあるようだ。

    私たちは前日にブレッド湖周辺を散策したが、観光客はヨーロッパの人ばかりで、日本人は私たち以外に誰もいなかった。水岡先生はブレッド城で中国系の観光客(台湾か香港)を見たらしい。アジアへのプロモーションを強化すれば新たな市場が開けるのではないか、聞いてみた。

    観光協会の方の意見では、まず予算制約の問題があるという。 ブレッドの観光のプロモーションのための予算は全部で1,500万ユーロだ。 同じプロモーションをするなら、オーストリア、イタリアなどにしたほうがコストパフォーマンスがいいという考えなのだろう。しかし、ヨーロッパの観光客市場が飽和してしまった場合は、ヨーロッパ以外からも観光客をひきつける必要があるのではないか。また、アジア系の観光客は、ブレッドに長く滞在するのではなく、オーストリアなどに向かう途中に、1日、あるいは数時間立ち寄るというパターンが多いのだという。宿泊滞在してもらわなければ、地域経済にはあまり貢献しない。 観光客の行動パターンからも、アジアに対するプロモーションは不利のようである。

  7. 観光開発と環境保全のバランス
  8. ブレッドが観光地としてさらに発展していくには、新たなホテルの建設などに投資していかなくてはならない。 一方で、観光開発と環境保全とのバランスもとる必要がある。 私たちが前日に散策したホテルが集積している地区には、周囲の美しい景観を損ねてしまうような、直方体の無味乾燥な外観のホテルや派手な色の外壁のホテルが、いくつかあった。このようなホテルが数多く建設されると、ブレッドの観光地としてのイメージを傷つけることがあるかもしれない。 このあたりを観光協会としてはどのように考えているのか、伺った。

    新たなホテルの建設に関しては、ブレッドのホテルの総ベッド数が5,500程度になったところで、それ以上ホテルは増設しない方針だという。 このことは、景観への対策とともに、既存のホテル経営者の利益を保護する競争抑制の効果もあるのだろう。

    環境への配慮に関して、私たちが驚いたのは、ブレッド湖の水を人為的に循環させているということだ。 ブレッド湖には水が流れ出ていく川がない。 そこで地下3.5mにトンネルを掘り、水が淀まないように循環させている。 おおよそ5年ですべての水を循環させることができるらしい。 このシステムにより、ヨーロッパの水質保証の認定を受けているらしい。 このシステムは1966年に始まった。 社会主義の時代から環境に対する配慮があったのである。

ウイーンからトリエステへ最短ルート貫く鉄道

インタビューを終えてホテルを出発し、Bled Jezero駅へと向かった。駅に向かう道の途中、サイクリングをしている人を何人か見かけた。オーストリアとの国境線にそびえるストールという名の山も見え、登山を楽しむこともできる。インタビューの後にこれらを見て、ブレッドが観光地として必要な条件をそろえ、広くヨーロッパの人々に好まれた場所だということを改めて実感した。

11:00にBled Jezero駅に着いた。 各自乗車券(1190トラール≒694円)を購入した。 乗車券は、日本ではもうなくなってしまった硬券だった。 硬券はイギリスが発祥の地で、不思議なことに世界的に大きさが一緒である。 通し番号のフォントも同じ規格だ。 かつてのイギリス中心のグローバリズムの名残を硬券という意外なものの上に見ることができた。 駅からはブレッド湖が一望できる。 インタビュー内にも出てきた元チトーの別荘、ビラ・ブレッドも確認できた。

 出発までわずかに時間があった。 ノバゴリツァに着いた後は予定がびっしりと詰まっているため、ここで昼食を取らなければいけなかった。 しかし、駅の隣に1軒だけある店ではろくなものを売っていなかった。 そこで飲み物を買ったゼミ生もいたが、結局何も食べないまま、11:30になってしまった。

11:30に、2両連結の新しいディーゼル車が来て、私たちはノバゴリツィアへと向かった。 電化はされていないものの、運行時間は正確で、乗客もそれなりに多かった。 鉄道に関しては、それなりに整備が進み、利用されているようである。

 この鉄道は、20世紀初頭のオーストリア・ハンガリー帝国時代に、ロスチャイルドなどの財閥が出資して建設された、トリエステとウィーンを結ぶ最短距離の鉄道である。 この鉄道はかなり険しい山を貫いて建設されている。 当時の技術力を考えれば相当困難な工事だっただろう。 貿易港のトリエステへのアクセスが当時のオーストリア・ハンガリー帝国にとっていかに重要なものだったかがわかる。

列車は、サバ(Sava)川の谷間を縫うようにして勾配を登ってゆく。進行方向の左側に、木材の工場が見えた。稼動しているようだった。この鉄道は、この地域一帯の産業発展にも貢献してきたのだろう。

列車は、BOHINJSKA BISTRICAという少し大きな駅に停車した。 リュックサックを背負った登山者らしい人が降りていく。 地図で確認すると、この駅の近くには、ボーヒン湖(Bohinjsko jezero)という湖がある。 この湖周辺は、ブレッドに次いで、観光客を集めつつあるらしい。

 長大なトンネルを通過し、下り勾配にかかってしばらくすると、もうひとつ川が見えてきた。 ソチャ(Soča)川である。現在はスロベニアを流れているが、1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体し、第一次ユーゴスラビアができたとき、第一次ユーゴスラビアとイタリアの国境は、現在より東側のトリグラフ山の稜線沿いに引かれた。 ソチャ川は、イタリア領となり、スロベニア人が住むその流域は、スロベニア人にとって「失われた地」となった。イタリアの敗戦後、1947年に国境が引きなおされ、私たちの通過したソチャ川周辺はユーゴスラビア領になった。そしてスロベニア独立後、それはスロベニア領となっている。 何気なく通過してしまったソチャ川だったが、何度も国境の変遷を経験した複雑な歴史を持つ川なのである。

分断都市で2人の市長に出迎えられる

列車は平地に下り、13:10ごろにノバゴリツァに着いた。 プラットホームで私たちを出迎えてくれたのは、スロベニア側のノバゴリツァのMirko Brulc市長と、イタリア側のゴリツィアのVittorio Brancati市長、2人の通訳、旅行社のガイドとドライバー、そしてテレビカメラだった。 想像以上の歓迎ぶりで私たちは驚いた。 私たちは事前に「市長の歓迎があるかもしれない」ということは知っていた。 ノバゴリツァの市長だけだと思い込んでいたのだが、ゴリツィアの市長にも来ていただいた。

 私たちは、2人の市長などと共に、駅前広場に移動した。 この駅の目の前、広場のど真ん中をスロベニアとイタリアとの国境線が左右に貫いていて、駅前広場が真っ二つに分断されているのである。

ゴリツィアとノバゴリツァはもともとゲルツ(Görz)という1つの町で、オーストリア・ハンガリー帝国の領土だった。 1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が解体し、イタリアの領土になり、街の名はイタリア語でゴリツィアに変わった。 1943年9月にイタリアが降伏した後、第二次世界大戦が終わるまではナチス・ドイツがイタリアに代わってここを支配した。 第二次世界大戦が終結し、この地域にどのように国境を引くべきかをめぐって争いが起こった。 講和会議では、アメリカ合衆国案、イタリア案、ソ連案、フランス案などさまざまな提案がなされた。 当然、イタリアはできるだけ国境を東側に引くような提案をし、逆にソ連は、ユーゴスラビアの立場にたって、できるだけ国境を西側に引く提案をした。 結局、両者を折衷したようなフランス案が採択され、1947年にパリ平和条約が結ばれた。 この条約により、ゴリツィアの町を東西に分断する形で国境線が引かれた。 町の大部分はイタリア側のゴリツィアになり、ユーゴスラビア側には駅と線路、そして東部の町外れが割譲された。 国境フェンスの向こうのイタリア領には、スロベニア人が数多くとり残された。

この国境は、第二次世界大戦後の冷戦体制下においては、世界を資本主義諸国と社会主義諸国という2大体制に分けた境界線の一部だった。1946年にイギリスのチャーチルは、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた」という有名な演説をした。今我々がいる駅前広場を、まさにこの鉄のカーテンが通っていたのである。

こうして、「ミニベルリン」とでもいうべき、分断都市ができあがった。分断された町の東側では、ユーゴスラビア政府によって社会主義の理想の新都市が計画され、現在のノバゴリツァの建設がはじまった。

ベルリンの壁崩壊後も、1991年にユーゴスラビアが解体しスロベニア共和国が誕生したあとも、ゴリツィアのフェンスは存在し続けた。 2004年になり、スロベニアがEUに加盟するというタイミングで、ゴリツィアのフェンスの一部がようやく撤去され、駅前広場の真ん中にモニュメントが作られた。

モニュメントのモザイクは、かつてそこにあった57/15という国境標石の番号をばらばらに砕いた模様をイメージしてデザインしたものだという説明があった。

市長の説明を受けたあとで、ノバゴリツァの市長から、スロベニアのEU加盟を記念して作られたメダルと、先ほどわたってきたソチャ川に関する本をいただいた。水岡先生も日本からのお土産として日本酒をプレゼントした。

改めてモニュメント周辺を観察すると、いくつかの興味深いポイントがあった。 モニュメントにはゴリツィアが分断された1947年と、フェンスが撤去された2004年という数字が刻んである。 そして57/15という国境の番号が印字されている。 そして、モニュメントの両側には依然国境フェンスが張られている。 要するに、フェンスが撤去されたのは、駅前広場のちょうどモニュメントの建設された部分だけなのだ。 ゴリツィアのフェンスは「ミニベルリンの壁」と称されることもあるようだが、ベルリンの壁と決定的に異なるのはこの点だ。 つまり、ベルリンと違って、イタリアとスロベニアの国境は厳然と存在している。 モニュメントの脇には、駅周辺の色分けされた地図があった。 地図はイタリア語、スロベニア語、英語で書かれていた。 その地図によると、黄色で塗られたモニュメント周辺の数メートルは自由に往来できるが、それを少し越えると正式な国境通過の手続きが必要になる。 スロベニア側からこの広場を通って例えばミラノに行くことは、できない。 だが、あえて一番目立つ駅前広場の部分だけフェンスが撤去された。 フェンスの撤去やモニュメントの建設は、ヨーロッパ統合をプロモートするためのスペクタクルなのである。 2人の市長は「象徴的な意味合いも大事だが、ゴリツィアとノバゴリツァの間で、文化的、社会的、経済的交流が活発になってきていることをアピールしたい」とおっしゃっていた。

少しわかりづらかったが、駅前広場から、ちょうど国立駅前のように、イタリアのほうに向かって放射状に道路が建設されていた。駅とは国境でさえぎられているのだから、当然道路に商店街はまったくない。ただの住宅地である。街路網だけが、かつて駅前地区だったことを物語っている。イタリアに向かってまっすぐ伸びている道はすぐにわかるが、広場から斜めに伸びている道は国境のフェンスによってわかりづらい。フェンスが建設される前はひとつの町だったことを、改めて実感した。

私たちは、市長たちと一緒に、駅のすぐ横にある小さな記念館に移動した。

記念館には、フェンスが築かれてから2004年に撤去されるまでの歴史を物語る展示品が数多くならんでいた。 旧ユーゴスラビアやスロベニア兵士の軍服、撤去されたフェンスの実物などがあった。駅前にフェンスがあったころの様子、フェンス撤去とモニュメント建設の過程、そして2004年に広場で行われたスロベニアのEU加盟セレモニーの様子などを写真で見ることができた。特に強く印象に残ったのは、1947年のパリ平和条約の結果、1つの家の庭の中に旧ユーゴスラビアとイタリアの国境が引かれてしまった様子を表す写真だ。引かれた国境を1頭の牛がまたいでいる。国境を地図の上に引くにあたって、そこに住む人々のことはまったく考慮されていなかった様子がよく伝わってくる。 もっとも、このような不便をなくすように、国境を引いた後に微調整がなされたという説明があった。

分断の過去と、統合をめざす現在

イタリア側の市長とは記念館でお別れし、私たちはノバゴリツァの市役所に移動して、ノバゴリツァの都市計画の課長のNiko Jurca様からプレゼンテーションをいただいた。

 最初に、スロベニアの概要説明があった。スロベニアは、多様な文化が歴史的に折り重なる地域である。オーストリア・ハンガリー帝国、イタリア、ドイツ、ユーゴスラビアの影響を受け、現在もそれらの影響は残っている。

 パリ平和条約でゴリツィアの街が歴史上初めて分断されたが、イタリア領に9割が行ってしまい、ユーゴスラビア領には、鉄道駅と寂しい町外れの地区しか残らなかった。 ここに、ノバゴリツァという独立した都市を計画する歴史がスタートする。 建築家ル・コルビュジエの思想に基づいた新都市を建設することが決定した。 社会主義の下でしかできないような、人間尊重の理想あふれる新都市をイタリアとの国境沿いに建設することで、資本主義社会に対し社会主義の優越性を誇示しようとしたのである。 ひとつの町が資本主義と社会主義というまったく別のシステムの2つの国に分断されたことが契機となって、都市計画そのものに社会主義のショーウインドーとしての意味がこめられた。

具体的には、既存の集落を撤去した上で、鉄道線路に平行してほぼ南北に軸となるUlicaGrandnikove Brigadeという名の広い通りをつくり、これと町の中心で直角に交差する街路を通して、この交差点をちょうど座標の原点のように位置づけて町を4つのゾーンに分け、それぞれの座標平面の「象限」に異なる機能を持たせて発展させようというプランだった。

 まず、「第2象限」にあたる住宅地区に、街路に沿って市役所、6棟のマンションなどが最初に建設されていった。 緊張する国境近くにに建物をつくることはできなかったので、都市は、鉄道駅から独立したかたちで建設されることになった。 当初の計画人口は1万5千人で、住民は、ユーゴスラビア全土から連れてこられた。 建物の設計には、首都のリュブリャナで活躍した著名な建築家、プリチュニクの弟子も関わった。

 プレゼンテーションでは、その後の人口増加などの状況に応じて、当初の計画に、さまざまな変更が加えられていく様子が示されていた。

次に、フェンスで都市が分断されていた時代の交通流パターンと、スロベニアが独立し、市場経済化がすすんだ時代の交通流パターン、そして都市の両地区の間に国境線が全く無かったとした場合の理論的な交通流パターンとの比較を、交通量をあらわす流線図を用いて説明してくださった。 1991年のスロベニア独立前は、ノバゴリツァ、ゴリツィアそれぞれのなかで移動が完結していたが、EU加盟後は、国境を越えて、ゴリツィアとノバゴリツァをまたぐ移動が増加し、都市の両方の部分が一体化してきた。 しかし、依然として国境があるため、理論値ほどの両地区をまたぐ交通流は生じていないという。

その後、市役所を訪れる前に見たノバゴリツァ駅前のモニュメントが造られる様子を表すスライドが映された。 フェンスが撤去される前に撮影された駅周辺の航空写真、モニュメントの設計図、モニュメントの建築工事をしている写真、そして2004年にスロベニアがEUに加盟したときのセレモニーの様子が示されていた。 ユーゴスラビア時代、スロベニアは、ユーゴスラビアの経済を牽引する存在だった。 1991年に独立を達成してからは、ユーゴスラビアのしがらみから脱却し、独自の経済発展を達成してEUに加盟することが目標となっていた。 駅前のモニュメントは、西欧に対して「ユーゴスラビアからの脱却、西欧への接近」をアピールするためにもっとも適切な場所となっていることがわかる。

ひとわたりプレゼンテーションが終わった後、水岡先生が、ノバゴリツァは隣のゴリツィアと一体で都市運営を進める方向性があるのか、とたずねた。 回答は、すでに両方の地区で協議は進んでいるが、イタリアとスロベニアでは制度が違いすぎるので、まだ現実の一体化は難しく、準備段階だという。 また、ノバゴリツァの郊外で国境が屈曲している場所に、イタリア領を突っ切って短絡する形でスロベニア人が通過できる道路が建設された例を出してくれた。 駅前広場の華々しい象徴性と比べ、現実のこの地域の一体化の作業は、いま地道に進行中という状態のようである。

ほとばしる独立スロベニアのナショナリズム

同席していた記者から、なぜ私たちがスロベニアに関心を抱いたのか、という質問が出た。 私たちからしばらく英語で答えたあと、それまで通訳に徹していたコペルの旅行社Capris Timeのスロベニア人ガイドが、急に通訳の仕事を投げ出し、「スロベニアはユーゴスラビアで最も経済発展していた地域であるし、ユーロに新しく参加できる唯一の国だ。既にユーロ加盟の準備段階に入っている。」と持論を熱っぽく展開しだした。 興奮しているのか、私たちの質問内容とガイドの発言の内容は、あまりかみ合っていない。 この発言の他にも、「ユーゴスラビア時代は(現在の)スロベニアが稼いだ金を発展の遅れている他の地域に持っていかれた」とか「イタリアは経済的にはお互いに利用しあうような関係だが、歴史的には複雑な思いがある」という発言もあった。 イタリアには「領土を持っていかれた」という思いが彼の心の奥底にはあるのだろう。 このガイドは、スロベニアナショナリスト的発想の持ち主であるらしい。

話が進むにつれ、市役所の人も「旧ユーゴの東部なんて、ありゃ別の世界だよ」と同調しはじめた。 旧ユーゴスラビアの国でもっとも早くEU加盟を果たしたことで、スロベニア人は、クロアチアやセルビアに対して優越を感じているのであろうか。 やがて、ガイドと市役所の人がかけあいで、宗教の面でも、「俺たちはカトリックかプロテスタント。やつらは正教だ」とか、「ユーロは、EU新規加盟国の中で、エストニアと並んで、ユーロ導入に最も近い」と言って、スロベニアが西欧の一部であることを私たちに強調しはじめた。 スロベニアのナショナリズムとは、スロベニアと西欧との一体感から来る誇りとセルビアなど東部を見下す意識とがないませになった微妙な感情と表裏一体のものであるらしい。 このような意識を持つ人間がいたからこそ、ユーゴ軍が攻めてきたとき、セルビア支配と戦い、スロベニアが独立を達成、そして短期のうちにEU加盟を実現したともいえるだろう。

インタビューが終わり、私たちは別の部屋へと通された。 ノバゴリツァ市のご好意で、白ワイン、パン、ケーキなど、地元の味覚を取り揃えた軽食が用意されていた。 ノバゴリツァに移動する前に昼食を取れなかった私たちは全員かなりおなかをすかせていたので、とても嬉しかった。 私たちは美味しい食事をご馳走になりながら、通訳の方や都市計画の課長と談笑した。

食事をした部屋の上部には、ユーゴスラビアの歴史を表す壁画が描かれていた。 オーストリア・ハンガリー帝国支配下で苦しむ人民の様子、チトーがパルチザンを組織してナチドイツからユーゴを解放していく様子などが描かれていた。 このような絵が現在になっても撤去されることなく残っていることから判断すると、スロベニア人はチトーのことをあまり悪くは思っていないのであろう。 終戦時にソ連が軍事占領した上、スターリン主義の共産党に政権がひきつがれた他の東欧諸国と異なり、チトーが自主的にナチドイツと戦って解放し、その後の社会主義時代にも、自主管理という独自の社会主義の基礎を構築し、人々は一定の民主主義と自由を享受していた。 これらの点において、スロベニア人は今でもチトーに対し一定の肯定的評価をしていることが伺えた。

コルビュジェの思想でつくられた、社会主義の理想都市を歩く

その後私たちは、実際にノバゴリツァの中心部を歩き、都市計画が実際にどのように行われているか視察することになった。 市役所前の通りを渡ったすぐ脇に町の模型があり、模型と実際の町を見比べながら都市計画の課長のお話を伺った。

 先ほどのプレゼンテーションに出てきた、街の中心となる大きな交差路は、我々が今立っているところの西に1ブロック行ったところにある。 それは、模型の上でもすぐに確認できた。 その東西の軸に沿っているのが、市役所の建物だ。 市役所の前には芝生の広場があってノバゴリツァの中心となっている。 町の中心が芝生で覆われていることには象徴的な意味もあるのだという。 すなわち、もともとのゴリツィアの中心広場は、「草原」という意味の地名であるので、分断されたこちらの広場に、本物の草原を作ったというのだそうだ。 社会主義の都市は、中心コンクリートで覆われた天安門広場のようなパレード用広場を建設するのが一般的だが、この広場でパレードが行われたことはないという。 他のスターリン的な社会主義の都市と差別化することで、ユーゴスラビアの独自の社会主義をアピールしていたのだろう。 また、模型によると、広場に面して共産党本部の建物が計画されていたのだが、実際には建設されなかった。 そこにはいま、代わりに、図書館と文化宮殿が建っている。 このことは、いい意味での計画変更だと、都市計画の課長は強調していた。

ル・コルビュジエの思想が都市の建造環境にどのように反映されているかを説明していただいた。 ル・コルビュジエは、人間中心の都市を標榜し、人間がその存在機能を十分発揮できる都市空間を作るため、都市が地区ごとに単一の機能に特化すべきだと主張した。 ノバゴリツィアでこれは、十字の道路で区画されたそれぞれの「象限」ごとに都市機能を特化させる計画を意味した。 太陽、空間、緑を十分に享受できるような住宅を建設すべきだと主張した。 そのためには、建物を高層化して建物同士の間隔を離し、住居のすぐそばに緑地帯を設ければよいというのがル・コルビュジエの考え方である。 しかし、このコルビュジェの考え方からすると、都市機能相互の距離が離れてしまい、住民は移動に不便を感じて、必ずしも住みやすい都市とはいえなくなる。 そこで、ノバゴリツィアの計画では、柔軟性を持たせ、それぞれの「象限」が、できる限り複数の機能をもつように配慮されたという。

当初計画された東西の都市軸に沿って少し移動すると、商業地区に差し掛かった。 この商業地区は、通りから少し奥まったところに位置している。 都市計画の課長のお話では、この商業地区はもともと通りに面した場所に建設する予定だったが、スウェーデンの都市計画の考え方を取り入れ、住民の便益を考慮して、通りの内側に歩行者専用のショッピングモールとして作られたのだそうだ。 自動車が入ってこないようにすることで、住民は安心して歩いて買い物をすることができる。

 東西の都市軸から「第2象限」の方向を望むと、高層マンションがいくつか立地しているのが確認できた。 外装は、余分な装飾などなく、機能主義的な造りだったが、他のソ連圏の住宅と比べると、ずっとしっかり建てられている。 このマンションは1960年代後半から70年代にかけて建設されたものらしい。 この「住宅地区」とされたところでは、住宅に機能純化されている。

商業地区とされた、我々が今いる「第3象限」を仕切っている南北軸の道路は、きれいに舗装されていて、歩道もある。 信号はやや少ないという印象を受けたが、道路横断に不便で危険だと感じるほどではない。 ル・コルビュジエの理想とする都市では、緑地帯を求めるため建物同士の間隔が離れてしまい、商業地区と住宅地区が遠くなって住民が不便になるという問題が生ずることもある。 だがここでは、高層マンションから商業地区まで十分徒歩で通える範囲だ。 住民にとっての都市の使いやすさという配慮が行き届いているのを感じる。

 しかし、当初の緑地帯は、EU統合によってノバゴリツィアの地域経済が成長するにつれ、土地需要が高まって次々とつぶされ、そこにビルが建ち始めている。

ショッピングモールを出て、南北軸の道路を少し歩くと、“Hit”という会社の入っているビルがあった。 ノバゴリツァにはスロベニア最大のカジノがあり、それを経営しているのがこのHit社だ。 隣のイタリアではカジノは禁止されているため、このカジノを目当てに、ノバゴリツァにはイタリアから多くの観光客が来る。 Hitはホテルも経営している。国境の透過性が高くなると、それを越えて自由に人々が移動できるようになるが、国境の両側はそれぞれ別の国であるから、領域ごとに法制度やマクロ経済は異なる。 ここに、距離は近接しているが法や経済が領域的に異なるという空間が生ずる。 この点に着目し、国Aで困難な種類のビジネスを、国境を隔てた国Bで行い、国Aからの顧客を対象に儲けるというビジネスが成立する。 これを、「国境経済」と呼ぶ。 ノバゴリツァのカジノは、こうした国境経済の典型的な例である。 いま、ノバゴリツィアの地域経済は、基本的にこのカジノ業によって維持されている。

これだけ立派に整備された計画都市が、ユーゴスラビアの社会主義化直後につくられたのは、驚きでもある。 ル・コルビュジエの理想とする人間中心の都市の思想は、ノバゴリツァの都市に反映され、ある程度成功していると見ることができるだろう。

Erjavčeva Ulicaという斜めに走る大通りに出た。 この通りを東に進んだ先が、「行政地区」として計画された場所で、郵便局、銀行、裁判所などの重要な建物が集積して立地している。 また、この通りを西側に進むと、鉄道の踏切を経てイタリアのゴリツィアに至る。 バス停があり、ここからは、ノバゴリツァとゴリツィアを結ぶバスも出ている。 ノバゴリツァ駅前のフェンス撤去、モニュメント建築は確かに象徴的な意味を持っている。 そして、こうした象徴とは別に、かつて分断された2つの都市は、社会的、経済的な側面においても、再び着実にお互いの結びつきを強めているのだ。

本の精神世界が自然に結びつけられる読者

芝生の広場に戻り、市役所のすぐ脇にある図書館を視察した。 外観は不思議な形をしている。 1階には窓の数が少ない。 これは、図書館という精神的な世界を、外界の世俗的な世界から隔離する意味があるという。 この図書館の建物は、本を開いた形をイメージして建設されたのだそうだ。

 子供用の部屋に案内された。 部屋に本はなく、小さな子供用の椅子がいくつか並んでいた。 この部屋で本の読み聞かせでも行っているのだろう。 壁には色紙で作った花などで飾られていた。 この飾りつけは季節が変わるごとに、その季節にあったものに変えられるらしい。 子供がいる利用者に対しても配慮が行き届いていることが伺える。


2階に上がった。2階は全面窓になっていて、大きな窓からは、針葉樹の美しい風景をみることができる。 これは、図書館の精神世界が自然と親密な関係にあることをイメージしたもので、建築計画の一部であるらしい。 都市計画というと、都市の諸機能をどのように配置するかというマクロな部分だけをイメージしがちである。 ノバゴリツァでは、それに加えて図書館の持つ精神世界とそれにフィットした建物の外観など、個々の建物のミクロの部分まで考えられていると感じた。 2階の蔵書は、この地域の歴史などに関する本である。 ただ、本棚にはだいぶ余裕があり、建物の造りの割に蔵書数は不十分ではないかという気がした。 計画の段階では、もっと多くの本を買う予定で大きめの本棚を買ったのだろうか。 あるいは、そもそもスロベニア国内に出版社が少なく、スロベニア語の本自体があまり発行されていないのかもしれない。

保守のハプスブルク帝国に逃げたフランス王家

大変親切にしていただいた市の皆様と市役所の前でお別れし、私たちは南西に進んで、市街を一望に見渡す小高い丘の上にある、コスタニェビカ僧院(Kostanjevica Monastery)に着いた。

 ここは、1830年のフランスの七月革命で追放されたシャルル10世とその家族の墓がある修道院として知られている。 シャルル10世はフランスを追放された後、エジンバラ、プラハなどを転々としていたが、1836年に、当時、オーストリア領であったこの地に流れついた。 それは、フランスと違って保守的で、専制体制が確立されていたハプスブルク帝国にかくまってもらう格好であったが、彼は、流れ着いた17日後に、コレラで命を落とした。

修道院の中に入り、シャルル10世とその家族が安置されている墓に案内してもらった。 白く塗られた狭い回廊の奥にある小さな部屋に6つの墓が並んでいる。 C.].と書いてあるのがシャルル10世の墓、H.X.と書いてあるのはアンリ5世の墓で、シャルル10世の孫に当たる。 他にはシャルル10世の長男にあたるルイ19世とその妻のマリー・テレーズ・シャルロット、アンリ5世の妻のマリー・テレーズ・ベアトリス・ガエターナ、アンリ5世の姉のルイズ・マリー・テレーズの墓があった。

 この修道院には教会も併設されている。ブルボン家の墓を見終わった後に私たちは教会を見た。中央の祭壇には幼いイエス・キリストを抱いたマリアの絵があった。

家の敷地に沿って屈曲する国境線

ドライバーに車を下のほうまで回してもらい、20分後に落ち合う約束をした。 この20分で下まで歩いていき、国境地帯をより間近で観察するためである。 線路まで下っていく途中にあった民家は、それなりに手入れが行き届いているこぎれいな家が多かった。 外装をリフォームしてある家もあった。 水岡先生が1999年にここを訪れたときは、もっと薄汚い家が多かったという。 今も薄汚い家はいくつか残っているが、そこにもちゃんと人が住んでいるようである。 スロベニアのEU加盟も影響して、この地域にも金が流れ込み、貧富の差が開きつつあるのだろうか。

線路付近にたどり着く。 線路に沿ってすぐ脇を通っている道までがスロベニア領で、そこから先はイタリア領になっている。 この線路脇の道は、車の通れない細い道だ。 私たちが踏切を渡ると急にイタリアの警察官が2人、そばの小屋から現れて、私たちを怪しげな目でじろじろと見ていた。

線路を渡って国境沿いを歩いた。 道の脇にはノバゴリツァの駅前でみたような国境番号を表す石があり、57/38と記してあった。 途中、興味深い家を見つけた。 家の両脇に国境番号の石がある。 通りから見て左が57/35、右側が57/32である。 家の敷地の右奥には57/33という石がある。 実際には見えなかったが左奥には57/34という石があることが容易に推測できた。 つまり家の敷地分だけ国境線がイタリア側に食い込んでいるのだ。 さらに歩いていくと、同じような家がもう1軒あった。 これらの家の敷地は、先ほどの市長の説明にもあった国境の微調整の結果、現在のようにスロベニア領になったのだろう。 個人の所有する土地の敷地の形によって国境線が曲っているというのは、極めて面白い。


線路沿いに歩いていくと道路はトンネルに差し掛かった。 すぐ隣を通っている線路もまったく同じ形のトンネルの中を通っている。 これらのトンネルが、この鉄道がウィーンとトリエステを結ぶ最短ルートとして開通したハプスブルク帝国時代に掘られたものだということは容易に推測できる。ただ、私たちの歩いている道はどのようにできたのかは類推の域を出ない。もともと複線として建設された線路の片方を剥がして道路にしたのかもしれない。あるいは複線にするつもりでトンネルは2つ掘ったのだが、何らかの理由で単線のままになり、空き地に道路を建設したのかもしれない。 いずれにしても、ハプスブルク帝国解体後、この鉄道は、首都とその海港とを連絡する機能を失い、輸送需要がハプスブルク帝国時代より大幅に減少したことをみてとれる。

 私たちは、トンネルの前で引き返し、車に戻ろうとすると、踏切の前の検問所でスロベニアの警察官に呼び止められた。 水岡先生だけがパスポートの提示を求められ、特に問題もなく解放された。 私たちは車に乗り、トリエステに向かった。

ボラの吹く丘を越えて、アドリア海の大展望へ

車に乗ってすぐ右手に出入国管理所があった。 水岡先生が1999年にここを訪れたときには、出入国管理所の近くに免税店があったとおっしゃっていた。 スロベニアがEUに加盟する前までは、スロベニアに免税の安い商品を買いに来るイタリア人でにぎわっていたのだろう。 ここでも、国境経済が存在していたようである。 スロベニアのEU加盟によって、このような免税販売はできなくなった。 しかし、Kompas Shopという名でその店は依然存在していた。 Kompasというのは私たちが今朝後にしたホテルの名前と一緒で、国営旅行社の名前である。 免税にならなくなっても、経営を依然続けているらしい。

 車は曲がった農村の道を進んでいく。 このあたりは、ジナルアルプス山脈から寒冷のボラと呼ばれる強風が吹き降りることで有名だ。 集落が点在し、村々の教会は、頑丈な石造りになっている。 すぐ横に線路がトリエステ方向へと向かっていた。この鉄道は電化されていない。 現在もなお旅客も貨物も走っているようだが、列車の本数はあまり多くないようだ。

“TITO”という文字が頂上近くに書かれている山を確認することができた。 スロベニアが独立してから14年が経つが、旧ユーゴスラビア時代に作られた“TITO”の文字が撤去されずに残っている。 市役所で壁画を見たときも感じたが、スロベニアは、チトーに対してはあまり悪いイメージを持ってはいないようだ。

 少し山がちな道に差し掛かった。 あたりには葡萄畑が広がっている。 このあたりの葡萄は、スロベニアワインの原料になるらしい。 距離的にはトリエステにかなり近く、車があれば十分トリエステに通勤できそうだが、都市化する様子はなく、農村風景がずっと続いている。 国境があるため、イタリア人がこのあたりに住むことはないのだろう。

山がちな道をぬけ、高速道路に入った。 しばらく進むと、高速道路の途中に出入国管理所があった。 出入国管理所では、全員のパスポートを簡単にチェックするだけで無事通過した。 国境通過といえば、スタンプを押してもらうことを楽しみにする人もいるが、ここの国境通過ではスタンプは押してもらえなかった。 この日通過したスロベニアとイタリアの国境は非常に透過性の高いものだった。 しかし、これから訪問する国は、より国境通過が困難な国も当然あるだろう。

ここで水岡先生がシェンゲン協定について説明してくださった。 シェンゲン協定とは、加盟国間の通行自由化と国境通過の手続きを簡素化するための協定であり、現在15カ国が加盟している。 イタリアはすでに加盟しているが、スロベニアは2007年をめどに加盟しようとしている。 シェンゲン協定加盟国はEUの加盟国と異なっており、EUのイギリスやアイルランドはシェンゲン協定には入っていない。 このように、ヨーロッパはEU、ユーロ圏、シェンゲン協定などさまざまな組織があるが、組織ごとに国のまとまりが少しずつずれている。 このことが、ヨーロッパ統合の抱える大きな問題のひとつではないだろうか。

国境を越えたところは、正確にはまだトリエステではなく、ビラ・オピツィーナという郊外の町である。

ここで、私たちは世界でも珍しいケーブルカー式路面電車に乗ろうとした。 この路面電車は、20世紀始め、トリエステがオーストリア領だった時代に建設されたものである。 どの点が珍しいかというと、平地では普通の路面電車だが、勾配の急なところでは補助的にケーブルカーを電車に連結し、ケーブルカーの方式で坂を昇り降りするという点だ。 水岡先生は1999年にこのケーブルカーに乗ったことがあるとおっしゃっていた。

車を降りようとすると、ガイドが「ちゃんと動いているか確認したほうがいい」と言い、水岡先生とガイドだけが車を降りて確認しに行った。あにはからんや、ケーブルカーは5月からずっと故障で運休しているらしく、代行バスが近くに停まっていた。 残念ながら私たちはケーブルカー式路面電車に乗れず、そのまま車でホテルへと向かった。車内でガイドが、「イタリア人はこれだからだめだ。真面目なスロベニア人だったらすぐに修理してしまうのに」という内容の発言をした。 どこまでもナショナリスティックな彼の発言を聞いて、私たちは苦笑するしかなかった。

 ビラ・オピツィーナからすこし進むと、車窓に、一挙に夕日に輝くアドリア海の水平線が広がった。 水平線にはアドリア海に沈む夕日、そして眼下には、トリエステの町並みが広がっている。 一同は、息をのんだ。 道の脇に生えている草木が邪魔をして、その絶景をカメラに収めることがなかなかできない。 車をとめる場所もなく、下車することもできかったので、私たちはその景色を目と心に焼き付けながら移動した。

新古典主義建築のレストランで夕食とゼミ

市街地に入ってホテルに到着し、チェックインを済ませる。 この日宿泊するコロンビアホテル(Hotel Colombia)はVia Della Geppaという、ボルゴテレジアーノ(Borgo Teresiano)の一角にある通りに面している。

ホテル周辺は3〜4階建ての建物が多く、外装は余分な装飾のない新古典主義建築様式の建物で、白や薄い黄色のような落ち着いた色で統一されている。 この日はさまざまなイベントがあったので、全員で情報を共有しておいたほうがいいということになり、ホテル近くのレストランでイタリア料理(白ワイン、スープ、パン、パスタ、魚料理、サラダ)を食べながら全員でミーティングをした。 レストランの中は天井が高く、内装もすっきりとしている。英語を話せるウェイターが1人だけいて、私たちのほかにも外国人客が多いのか、忙しそうに働いていた。


(山田尚生)