【人口】
1億2690万人(99年)であり、ほぼ日本と同じくらいの人口である。人口密度は高く、1km2あたり847人(97年)であり、日本の約2.5倍である。近年家族政策が進み、平均人口増加率は1.7%(99年)に減少した。しかし、約30年後には人口は2倍になる見通しである。
【略史】
バングラデシュは、かつて英領インドの一部であった。1947年にインドと分離し、パキスタン=イスラム共和国の東パキスタンとしてイギリスから独立した。インドと分離独立した理由のひとつは、インドはヒンズー教国でパキスタンはイスラム教国と宗教は異なっているため、イスラム教の人々は、ガンジー以外のヒンドゥー教徒はイスラム教徒を受け入れないであろうと思っていたためである。もうひとつの理由は、植民地時代の東ベンガル地方においては、地主・インテリ層は圧倒的にヒンドゥー教徒が優位に立っていたので、国民会議派の指導のもとにインドの一部として独立すれば、引き続きヒンドゥー教徒の支配のもとに置かれると危惧した東ベンガル地方のイスラム教徒の政治家たちは、イスラム教の軸に身を寄せてパキスタンの一部として独立することに希望を託した、ということである。さらに、英領インド独立に最も積極的だったベンガルを分割することにより、独立後のインドにおける反英勢力の力をそごうとしたのだ、という見方もある。
しかし、東パキスタンは、西パキスタン(現在のパキスタンイスラム共和国)に政治や経済の主導権を握られ、実質は植民地状態であったため、人々は不満をつのらせていた。西パキスタンが西の母国語であるウルドゥ語を国語に制定したため、ベンガル語を母国語としている東パキスタンは、ベンガル語運動をはじめた。この運動が東パキスタン独立運動に結びついた。1971年3月に独立解放戦争が始まり、12月にパキスタンから分離独立し、バングラデシュ人民共和国となった。
72年に独立を指導したアワミ連盟の総裁であるムジブル・ラーマンが初代首相に就任した。その年に日本は世界に先駆け、バングラデシュを独立国として承認した。75年にムジブル・ラーマンは議院内閣制を大統領制にかえ、自ら大統領に就任した。バングラデシュは、「人民共和国」という国名が物語るように、初め社会主義政策をとった。しかし、それは、多難のスタートであった。その理由として、戦争により粉砕した経済状況や混乱した情報伝達手段、戦争時のパキスタンによる知識層の虐殺、大統領の平和時の無能さ、73年から74年にかけておこった飢餓など、があげられる。
75年8月には軍部クーデターが起こり、ムジブル・ラーマンは殺害され、即日コンカール・モシュターク・アーメドKandakar Mushtaq Ahmedが大統領に就任した。
同年11月に反クーデターが起こり、ジアウル・ラーマンZiaur Rahman陸軍参謀総長が実権を掌握し、78年6月の民政移管大統領に就任した。そして79年の議会選で新党であるバングラデシュ民族主義党(BNP)が、議席の3分の2を獲得すると、ジアウル・ラーマンは、戒厳令を解除し、資本主義化政策をとった。
しかし、81年の軍部のクーデターによりジアウル・ラーマンは暗殺された。翌年82年にホサイン・モハメド・エルシャドHossain Mohammed Ershad陸軍参謀総長が無血クーデターで全権を掌握し、翌年大統領に就任した。ホサイン・モハメド・エルシャドは2年後に議会制に戻すと誓約したが、85年の選挙を中止し、誓約を無視したため、民心は彼から離れていった。
80年代から進めていた資本主義か政策のため景気は良かったが90年代に入るとかげりが見えはじめ、集会や同盟休業が路上で行われるようになった。そのような時に大統領ジアウル・ラーマンの妻である、ベガム・カレダ・ジアBegum Khaleda Ziaを党首とするバングラデシュ民族主義党は91年3月の議会選に勝ち、ベガム・カレダ・ジア首相を首班とするバングラデシュ民族主義党政権が発足した。彼女は同年9月に16年間続いた大統領制を廃止し、議院内閣制を復活させた。
96年6月の議会選では21年ぶりにアワミ連盟が勝利をおさめ、初代大統領ムジブル・ラーマンの長女であるシェイク・シハナ党首が首相に就任した。
【政治】
現在は多数政党による議会民主制に基づいた立憲共和制である。大統領が最上の地位ではあるが、実際の権力は首相が握っている。2001年1月現在もシェイク・シハナ政権が継続しているが、今年総選挙が実施される予定である。
最近ではハルタルHartalとよばれる政治的ゼネストが多発しており、一般国民、産業界、外国政府筋より、強い懸念と自粛要請が出ている。ハルタルはバングラデシュ独自の反政府抗議行動で、過去にバングラデシュ民族主義党が与党時も、アワミ連盟によりハルタルが頻繁に行われた。われわれがバングラデシュを訪れる直前の8月30日にも、ハルタルが行われ、ルーティンな日常の出来事となっているが、参加しない人々も増えている。
我々がバングラデシュを訪れて人々の話を聞く限りでは、政治は腐敗しているという見解が多い。彼らがいうのは、海外からきた援助のいくらかを、政治家が私腹を肥やすために使うそうだ。
また、バングラデシュはNGO大国であり、多くのNGOが存在している。バングラデシュに多くのNGOが入った理由として、サイクロンなど自然災害による援助、成人の低い識字率、乳幼児の高い死亡率、短い平均寿命などがあげられる。NGOの活動として、NGOがバングラデシュに入ったばかりの頃は、災害や飢饉で破綻した生活や危機にさらされている命を救うためだったが、今日では農村開発プロジェクトが主流である。バングラデシュに入っている有名で大規模なNGOとしてはBRAC、PROSHIKAなどがあげられる。これらのNGOは全国規模で展開し、国民への影響力も強いため、政治をも動かすことがある。
【経済】
GDP(国内総生産)は339億ドル(97/98年)で、1人あたりのGDPは268ドルである。また、GDPの成長率は、5.6%(97/98年)ある。
GDPのうち、農業が32%を占めている。就業人口も農業が63%も占めている。最大の農業生産物は米であり、年間約2800万トン(98年)生産しており、世界で第5位の生産高をあげている。しかし、それだけでは1億2千万人の人口を養うことができず、年間250万トン(96年)輸入している。その他の主産物として、ジュートや茶があげられる。
製造業がGDPに占める割合は約10%で、業種はジュート製品や綿製品、食料品などの農産物加工業の割合が高い。製造業の中で最大の産業は繊維製品、衣類、皮革製品で、製造業付加価値額の3分の1、製造業就業人口の66%を占めている。特に繊維製品はヨーロッパ・アメリカ向けに大量輸出されている。このことからわかるように、バングラデシュは労働力がとても安価(1ヶ月20〜30ドル)であるため、新国際分業において、繊維製品など労働集約的なものをつくって海外に輸出し、工業品などの技術を必要とするものは先進国から輸入するという位置にいる。
外国からの援助は平均年間約20億ドル(最近10年間)であるが、だんだんと減ってきているそうだ。援助しても、効果が上がらないというイメージが援助額を減らしているという。外国援助によって年平均4%位の経済成長を達成しているのにもかかわらず、国内貯蓄率が上がらず、バングラデシュ経済が自立的な発展を達成していない。つまり外国援助への依存体質が全く回復していないことがそうさせているという。
そのような事態のため、アメリカやヨーロッパの財団などは政府を介せずに、NGOに直接援助をしたりするなど、新たな援助の方法が模索されている。
バングラデシュは政情が不安定であるというイメージが強いため、先進国企業があまり進出していない。資本を他の国より多く投下しているのは韓国資本である。ダッカ市内においても我々はよく、韓国財閥の看板を見かけた。
バングラデシュの対外債務は約160億ドルであり、GDPの約35%をしめ、経済的には非常に苦しい。また、バングラデシュにおける主要援助国の順位は、援助額の多い方から日本、イギリス、オランダ、カナダ、ドイツの順(96年)である。
【宗教】
イスラム教徒88.1%、ヒンズー教徒10.5%、仏教徒0.6%、キリスト教徒0.3%(1991年国勢調査)
【バングラデシュ関連のホームページ】
外務省ホームページ・バングラデシュと日本の関係