特産の粘土でつくられた赤煉瓦の建物が緑の沃野に映え、そのなかにひときわ高い教会の尖塔がぬきんでて階調をなす面影は、プロイセン特有の景観である。
ワルシャワからおよそ2時間、ドイツとポーランドとの旧国境線の街、イラーバ(ドイツ名ドイッチュアイラウ)を過ぎると、ほどなくマルボルク(マリエンブルク)に着く。
西プロイセンは、もともとポーランドとのフロンティアのせめぎあいの場所でもあった。12世紀ごろから始まったドイツ農民の東方への進出は、スラブ系のポーランド人がこれまで営んできた穀草式農業に変わる三圃式農業をもたらして、その地域の農業生産性を向上させ、同時に神聖ローマ帝国内の農民に空間的な回避の可能性を与えて、貧しい農民の地位を向上させることに貢献した。こうしたドイツ人農民たちは、ポーランド人農民の傍に居住して、集落を形成した。こうしたドイツ人はしだいに、ポンメルンなどの公国として、ドイツ人による統治の空間を編成していった。
このドイツの東方進出は、それがドイツ騎士団という軍事力に庇護されていた側面があるとはいえ,国家権力の支配階級の意志による戦争の形態をとった武力的領土拡張と異なる、自生的なフロンティア拡大であった。現在世界に存在する諸国家の作用空間は、多かれ少なかれ、こうした空間過程の積み重ねの上に、形成されてきたのである。違いがあるとすれば、後にブランデンブルク王家との併合によりドイツ人に同化するプロイセン人のはじめからの土着の領域であった東プロイセンと異なり、そこはポーランドとフロンティアを競合する領域であって、このマリエンブルク城自体、一時期ポーランド王の居城となった歴史があることである。その点からすれば、この城は、マルボルク城でもあるのだ。
ドイツ騎士団がベニスから移ってはじめて築いたマリエンブルク城は、その中でももっとも堅固である(写真左)。全体は三層に分かれ、上層には修道院という祭祀の空間、中層には騎士団の統治の空間、そして下層には城を維持するための生産の空間が設けられている。
ポーランド人は、ナチ・ドイツがたてこもり大規模に破壊されたこの城(写真右)を立派に修復して今日再び中世の姿に戻した。城のすぐ前が、両大戦間期に、国際連盟によって「自由都市」とされたダンツィヒ(グダニスク)とドイツの東プロイセンとの国境をなしていた、ヴァイクセルの支流をなす川である。ダンツィヒは、ヴァイクセル側の河口にあって、ポーランドの空間統合において中心地となった。ポーランドは、このダンツィヒに本拠をおくドイツ人商人によって、空間的実体として浮かび上がっていった。
城を出てマルボルクの街を歩くと、市庁舎・マリア門など、北ドイツの赤煉瓦のライトモティーフが、川沿いにいくつか残っている。給水塔のような高い建物についていたはずの都市のワッペンが、セメントで塗りつぶされたままとなっているのが痛々しい。さらに奥の道にするんで行くと、そこはドイツ時代の戸建て住宅地になっている。マンホールの蓋に、ドイツ時代のままのMarienburgや、それを製造した業者の所在地であろう
Elbingという文字が刻まれている。さらに進むと、現在ポーランド軍の駐屯地として使われている、学校のような建物に出た。その前に飾られた、ポーランドを「解放」しにきた赤軍の戦車の上には、ナチの鍵十字のペンキの落書きがあってうち捨てられていた。
ケーニヒスベルクへの列車は、1日1本、ベルリンから出ている。大戦末期、避難民と傷病兵士とを満載してケーニヒスベルクを出発したのを最後に、およそ半世紀ぶりで1990年に再開されたこの列車は、しかしもはやドイツのものではなく、昔ケーニヒスベルクからベルリンまで直行していた最短の路線を走るのでもない。ポーランド国鉄が仕立て、ポンメルンからグダニスク(ダンツィヒ)を経由する、迂回したルートを通るのである。
30分ほど遅れてマルボルク駅に入線してきた列車の編成は予想外に長く、10両以上はある。ドイツ人客の需要は高く、毎週土曜日には食堂車も連結される。
出発した列車は、はじめポーランド国鉄の路線を快適に飛ばす。エルブラーク(エルビング)までは電化区間で、グダニスク(ダンツィヒ)の近郊となっており、郊外電車も走っている。そこからは単線・非電化路線となって、ブラニエボ(ブラウンスベルク)に至る。
列車は、ブラニエボで、30分もの長時間停車した。駅舎は、典型的な赤煉瓦のドイツ時代からの建物である。列車の周囲はポーランド警察官に取り囲まれ、物々しく警備されている。ポーランドのこの先、いよいよ列車は、スターリンが戦後、東プロイセンをソ連管轄区域とポーランド管轄区域とを分けるために人為的にひいた、直線にほぼ近い国境線を通過する。この国境線をまたいで、かつてはドイツの鉄道も、そしてアウトバーンも通り抜けていた。1980年代まではかたく閉ざされていたが、1990年代に入って、鉄道と数本の道路での国境通過が認められた。しかし、戦前にヒトラーが建設したアウトバーンは、いぜん使用が中止されたままである。
最近開放されたばかりの国境であること、相手が、たとえ飛び地になってしまったとはいえロシアであること、などから、国境通過はものものしい。長時間の停車の後、列車はゆっくりとブラニエボを出発した。ここまで、ロシアの広軌の線路がのびている。広軌と標準軌が、元のプロイセンの複線の線路を使って、平行してのびているのである。線路工事のためか、標準軌である中国の工事用貨車がはるばるここまで来て側線に駐車されているのが、眼に入った。
列車は、ゆっくりとすすみ、ポーランドの国境官吏が待つ、線路際の何もないところに列車は止まった。いちいち列車を長時間停車させて検査をするのは、西欧はもちろん、最近の東欧の国境でもあまり例がない。
検査が終わると、列車はゆっくりと再び進みはじめた。列車は静かに、スターリンが地図の上に力ずくでひいた国境線(写真)を横切った。スターリンが死に、ソ連が解体し、ロシアが市場経済になったとしても、この空間の仕切りはもう二度と変わらないのだろうか。仮に、カリーニングラードの政治的位置が変わることはあっても、かつての東プロイセンは、もう二度と一つになることがないのだろうか。国境には、ポーランドの、紅白の縞になっている柱と、ロシアの、赤と緑の縞の柱とがあい並び、その間に標石が埋まっている。そして、国境線の部分の林が、10mばかりの幅で切り開かれている。
列車は、ゆっくりと、ロシア領東プロイセン、いや、カリーニングラード州に入っていった。線路の敷石の色が、なぜかより茶色みがかったものに変化する。
数百メートルも走ると、列車はまた止まった。東洋人が客車に乗っているのを見て、「中国人か」と、線路脇の係官が列車内に向け大きな声で質問した。「違う、ここには中国人は誰もいない」と、ポーランド人の車掌が、いやいやそうにロシア語で返事した。ロシアの国境検査係官が乗り込み、ついで税関職員が乗り込んできて、検査である。税関職員は、全員の書類を一人一人チェックし、項目一つ一つを丸で囲み、判を押す。一人に5分は優にかかった。このやり方は、きっとソ連時代のままなのだろう。
われわれの担当はなかなか美人の女性の税関吏で、乗り込んでくるなり流暢な英語で、「Do you speak English?」ときいてきた。ドイツ語もぺらぺらで、いかにも大学外国語学部出身の秀才という感じだった。だが、着ている制服の仕立ては、いかにも安っぽい。われわれのグループになぜ女性がいないのか、日本では女性はまだ家に縛り付けられているのではないか、カリーニングラードに投資に来たのか、など質問された。「資本主義国の女性の地位」についての社会主義的先入観と、資本主義化を目指す焦りとの奇妙な接合が面白い。男性の税関職員もついてきたが、こちらの方は、いまでもスターリン時代そのままの詰襟だ。だが、襟ホックと第1ボタンを外して着ている。日本の最近の中・高生と同じようでおかしい。「鉄の規律」は過去のものとなった今のロシアには、こうしただらしない着方がむしろ似合うかもしれないな、とふと思った。
検査の期間中、重苦しい空気が列車の中を支配した。初老のドイツ人が、税関吏に何やら早口でまくしたてている。遠くに高い監視塔(写真)がある。
1時間あまりも列車は検査のため停車しただろうか。いよいよロシア領内に向けてゆっくり走りはじめた。ロシア側の国境駅に着いたが、街の家の形はポーランド領内を走っているときのまま、赤煉瓦のプロイセンの建築である。この空間的な連続性が、かえって、東プロイセンの歴史的過去に見る者の心を向けさせ、痛々しさをそそる。
線路は、ポーランドのときのまま、広軌と標準軌とが、並走している。単線の個所もあって、そこは三線方式になっているようだ。ポーランド領内とは比べ物にならないほど列車のスピードが遅くなった。腹も減ったので、とにかく無事国境通過を祝い、食堂車に出かけてビールで乾杯。
1時半の予定より少し遅れて、列車はカリーニングラード中央駅についた。雑然として荒れた駅だが、なぜかここだけ戦災に遭わず、これはドイツ時代の建物のままである。駅前に,この都市に戦後名前を与えたスターリンの忠臣,カリーニンの巨大な像(写真)が,いやでも目に入った。
ドイツの第2次大戦敗北とともに、強力によって失われたこととされた町、ナチズムの根源たる場所とされ、1947年に「死」と「解体」を戦勝した連合国によって宣告されたプロイセンの首都。これがスターリンの戦利品としてソ連の統治下におかれ、さらに外国人立ち入り禁止地区とされ、人々の眼から、心から、完全に消え去ってから半世紀が経過した。人々が見ることができたのは、無残に破壊されたままの大聖堂の写真、そして、風の便りに聞く、ケーニヒスベルク城爆破の情報だけだった。ケーニヒスベルクは、あたかも、大洋の底に沈んだ大陸のように、過去の空間となっていた。それが、ペレストロイカ、そしてソ連の解体によって、突如として、世界の人々の前に、亡霊のように再び姿をあらわしたのである。無残な姿に形をかえた700年間のドイツの歴史が、ふたたび人々を迎えはじめた。
駅を降り、バスは鉄道と道路とが2層だてになった橋を渡り、ホテルに着いた。ホテルといっても、ドイツ・ギリシア・ロシア合弁で、ボルガ川を走っていたチェコ製の遊覧船をひいてきた、プレーゲル川に浮かぶ水上ホテル「バルトカンパニー」である。
ユダヤ人で、カリーニングラードの大学で教えている教師がバイトでやっているガイドの、機関銃のような説明で市内のツアーが始まった。イントゥーリストに依頼しただけに、ソ連時代のままの回り方である。だが、われわれは、それにこだわる必要はない。700年のケーニヒスベルクの歴史にそって、この街の歩きかたを考えてみよう。
ケーニヒスベルクの中世における商業の中心であり、また精神的中心はかつて、大聖堂のあるプレーゲル川に浮かぶ小島、クナイプホーフ(写真右)にあった。ここは、ハンザ同盟に加わる、遠隔地商人の根拠地として、密集した居住地を形成していた。大聖堂が建ち,そこには,この都市で生まれ,育ち,そして数々のドイツ哲学の古典をこの都市の大学であらわしたカントがまつられた(写真下)。ケースベルク市民の精神的な支柱こそ,このクナイプホーフであった。有名な一筆書きの問題は,ここにかかる7つの橋についてだされたものである。いまは、マルクスの像などのある彫刻公園になっている(写真上)。だだっ広い芝生が大聖堂の前に広がり、雑草が風にゆれる。戦争がなかったならば,いぜんドイツの都市として多数の観光客を集めていたであろうケーニヒスベルクの中世の都市空間は、完全にこの草の下に埋まる過去の遺跡と化していた。
だがクナイプホーフは、ドイツの発展する資本主義経済を支える空間とはなり得ず、むしろ、戦前のケーニヒスベルクの経済・政治・社会的中心は、ケーニヒスベルク城の周辺にあった(写真下)。ここに今でも存在する、ケーニヒスベルク大学の建物、予約制でしか見学できないカント博物館、そしてナチドイツが建設した塹壕が、とどめる名残である。大学の建物のすぐ横は、もはや戦災で破壊された区域で、まっすぐ広い通りが走り、ソ連時代の国営商業や住宅が立ち並んでいる。この通りを進むと、かつてケーニヒスベルク城があった場所に、その真上に建てられた、「ソビエトの家」の「遺跡」が巨大に迫ってくる。
かつて、ドイツの城、永遠の歴史をもつプロイセンの象徴があったその場所に、それを破壊して、ソ連はみずからの象徴をそこに立てようとした。それは、スターリンが行った「大祖国防衛戦争」という名の侵略戦争で、ドイツ固有の領土を征服し得たことを示す、そのまさに何よりも雄弁な都市の記号なのである。これにより、プロイセンは、永遠にソビエト権力のもとに抑え込まれ、そして消え去るべきものであることが、空間形態という何より雄弁な手段で宣言された。ブルガーニンは、貴重な歴史的遺産であり,マリエンブルク城同様,修復しようとすればできたはずのケーニヒスベルク城という貴重な文化財をあえて爆破したあと、そのように語っている。
ケーニヒスベルク城は、戦災でひどく破壊されたとはいえ、戦後15年間あまり、確かにそこにまだ立っていた。そのケーニヒスベルク城をソ連が再建できなかったこと、このことは、この地が征服の地であり、ソ連と、そしてロシアと本来何の関係もない地であることを、逆に何より雄弁に物語っているのである。だからこそ、レニングラードですらサンクトペテルブルグに変わったというのに、スターリンの忠臣の名を冠したこの町は、その過去に確信を持つことができず、いまだにその公式の都市名を変えることができないのだ(日本の中学・高校地理の地図帳や参考書などに,1991年頃旧名「ケーニヒスベルク」に復した,と書いてあるのは,誤り)。
ケーニヒスベルクを、都市の記号を通じて「ロシア化」しようとする試みは、母なるロシアの像、モスクワの劇場をモデルに再建された劇場、巨大なソ連戦勝記念碑、そして巨大なレーニン像がいまだ健在なレーニン広場などいくつか認められる。ロシア大統領選挙のとき、共産党候補のジダーノフは、「カリーニングラード」に来て、このレーニン像の前で演説をしていったという。この町は、一方で「自由経済区」として西側資本を導入しようとしながら、他方で過去の共産主義の遺産をなお引きずって生きているのだ。いや、引きずらなければ、この町はドイツになってしまう。だからロシアは、公式なカリーニングラードのケーニヒスベルク化に対して、きわめて警戒的である。ドイツが、ここに領事館を設置しようとロシアに要求してきているが、言を左右にしてそれを受け付けようとしない。
これは、日本の北方領土返還要求に対するロシアの姿勢とおなじものがあろう。だがもし、日本が北方領土の返還を要求し続けて実現させたなら、次は? という「領土返還のドミノ」は、まったく考えられないわけではない。そして、やがて、やはりスターリンによってフィンランドから奪われたカレリア地方も? これらの場所中でケーニヒスベルクがもっとも悲惨なのは、それが、千島ともカレリアとも異なり、メトロポリスだ、ということに他ならない。
都市名、建築物、空間計画。こうした記号によって征服の意思を示そうとしてきたスターリン主義の地理学は、しかし、ドイツのケーニヒスベルクが持つ重厚な歴史の前に、すでに事実として敗北せざるを得なかった。地元の人が「モンスターハウス」と呼ぶ「ソビエトの家」は、建築後20年を経過して、一度も使用されないまま、現代の遺跡となって、その醜い姿をケーニヒスベルク、否、「カリーニングラード」の空の下にさらしている(写真)。ケーニヒスベルク城の地下に墓があって、このために土台が不安定になり、建物が歪んでひびが入り、一度も使われないまま、使用不能になってしまったのである。700年のプロイセンの歴史の怨念が、この街を何としてソビエト化させまい、とにじみ出てきているようだ。
「ソビエトの家」が利用できない状況のもとで、そして、大聖堂(写真)のあるクナイプホフをはじめとするドイツ中世の歴史的中心地をあえて再建せず、ドイツの過去から手を切ろうとしたソ連の空間計画は、かえって「カリーニングラード」の都市空間を、皮肉なことに、ドイツ時代の建造環境に基づいて編成させることとなってしまった。
昔のケーニヒスベルクの面影が残っているのは、戦災で破壊されなかった劇場から、北駅を中心としたあたりだ。ここの建物に、「カリーニングラード」の主要な都市機能が集まっている。そして、建物には、ドイツ時代の機能と現在の機能とに継続性が認められる。たとえば、元のナチのゲシュタポの建物は、そのままKGBの施設として利用されている。もしかすると、後でビリニュスで見たような地下牢があって、そのまま流用できたのかもしれない。また、かつての東プロイセン財政局は、やはりカリーニングラード自由経済区の事務所として使われている(写真)。
戦災で破壊されてしまった市街は,どこもまったく復旧されないまま,社会主義に特有の直方体の公営住宅にとって替えられた。ドイツ時代には商業地域だったところもこうした住宅地域になったので,戦後のケーニヒスベルクの都市機能の立地は,大きく変わってしまったのである。公営住宅は,一見して安普請とわかる。中には,地盤が沈下したために居住不能となり,建設途中で放棄されたものまである。
クナイプホフと大学、そして元のケーニヒスベルク城に囲まれたあたりが、もとケーニヒスベルク市民の憩いの場であったシュロスタイヒである。この湖のほとりを散歩していて、ソ連時代からの公営住宅ブロックの大海にぽつんと残る、中途半端に復元された劇場(今は博物館)のそばで、コブレンツの歴史文書館に勤務して、最近定年退官したというドイツ人とであった。
「ここに私のかかった病院が、ここに私の通った学校が、あったんだ。それは、今でも建っている。私は、ここに20歳まで住んでいた。でも、もうここは外国になってしまった(schon Ausland geworden!)。訪問することはできても、もう住むことはできないんだ!」こういって彼は、身分証明書を僕に見せてくれた。薄緑色のそのカードには、はっきりと、彼の出生地がKönigsberg/Ostpreussenと書かれていた。ドイツ政府が発行したその身分証明書のなかに、しかしそこだけに、ケーニヒスベルクは「生きて」いたのである。「ドイツ人は、皆ここに戻りたがっている。でも、ロシア人たちは、みんな、生活が豊かなドイツの方がいいんだろう。ここのロシア人たちはみんなドイツに来て住んでいいから、ここにドイツ人を戻してくれ!」こういう彼の、眼鏡の奥の目頭には、涙が滲んでいるようにみえた。
もし、ヒトラーが「世界帝国」をめざす戦争に打って出なかったなら、戦争をしたとしても、1940年のモロトフ・リべントロップ協定で「おとなしく」とどまっていたなら、いうまでもなくケーニヒスベルクは、今でも、そして何百年の先まで、ケーニヒスベルクのままであり続けただろう。その美しい中世の城も、街並みも、きれいに何十世紀も後まで,人類の貴重な遺産として残ったにちがいない。ケーニヒスベルク/カリーニングラードの建造環境は、アウシュビッツ同様,何より雄弁なヒトラーの無謀な戦争の証人として、何十世紀の後まで,永遠にドイツ人の,そしてこの都市を訪れる世界の人々の心をえぐり続けるのだ。
だが、立ち止まって考えてみよう。仮にヒトラーの戦争が無謀だったとしても(事実そうなのだが)、だからソ連は、ドイツ固有の領土であるこのケーニヒスベルクを、自己の版図に組み入れることの正統性を持ち得ているだろうか。イラクのフセインがどんなに横暴だとしても、合衆国がイラクの一部を自分の領土にしてしまうことはできない。さらに、スターリン主義を清算したはずの、ソ連を解体させたあとの、エリツィンのロシアは、ましてこの正統性を持ちうるのか? 他の国「固有」の(「固有」という語自体、定義は難しいとはいえ)領土を武力で一方的に自国の領土とすることを、「侵略」と呼ぶ。では、ケーニヒスベルクを「カリーニングラード」にしてしまったソ連の行為は、何だったのか……。
ソ連が解体しても、レーニン像が随所に健在のカリーニングラードは、そしてロシアの悲願である「Drang nach Westen」(西方への衝動、ドイツの「東方への衝動」のフロンティアとぶつかり合った)のしるしとして作られたソ連最西端の領土は、いまでも厳然として、その「飛び地(エクスクラーフェン)」という奇妙な空間形態もいとわず、ロシアのものとしてここに存在する。それは、アフガニスタンでもわが国の千島でも見られた行為を、ソ連が、そしてその正統的な後継国であるロシア連邦が、反省していないことの、何より強力な空間形態をまとった生き証人なのではないだろうか。同じ国のチェチンでいま、起こっていることが、思い起こされてくる。
クナイプホフの南、もと証券取引所があったあたりから南にも、市街は広がっていた。ドイツ領の時代からあった同じ建物が、ソ連領になってその機能を変えた例として興味深いのは、ネオゴシック様式で1907年に建築された、元「聖家族」カトリック教会である。ここは、現在では宗教の目的ではなく、コンサートホールとして使われている。ロシア人が大量にやってきて、カトリックの人口はいなくなってしまったし、なによりレーニンによれば、「宗教は阿片」なのだ。ステンドグラスから漏れる光が美しい内部はきれいに席が設けられ、チェコ製のパイプオルガンが設置されている。もっとも、ケーニヒスベルクにすむポーランド人マイノリティは、カトリック教会への復元を要求しているらしい。
さらにその外側には、ケーニヒスベルクを外敵から守ったいくつかの城門が連なっている。そのどれも、十分な整備はなされておらず、雑草が茂った姿が、かえってケーニヒスベルクの過去を物語って痛々しい。このうち、フリードラント門は、東大本郷の塀のようなモティーフを持った建築である。門のすぐ外側には、堀割と、街の外から門に渡って入ってくる橋が草むしていた。この門の中に、かつてケーニヒスベルクの生活を展示した小博物館があるとのことであったが、カント博物館同様、見学することができなかった。
翌日午後は、ラウシェン(スベトロゴルスク)とザムラント方面への小遠足をした。
ラウシェンへの道すがら、ふたたび、いくつかの「ドイツに対するソ連の勝利」を記念するモニュメントとであった。ひとつは、19世紀末、統一ドイツを導いたプロイセンが、ケーニヒスベルクの街を守るため、城門のさらに外側に環状に築いた砦のひとつ、「第五砦」である。ここは、500人の兵士が自給して立てこもれるだけの施設が整えられており、井戸も別に掘られている。砦の上には土が盛られ、草木が生い茂っていて、上から見たのではそこが砦とわからない。砦の傍には、ソ連戦勝を記念する、社会主義リアリズムそのままの大きな記念碑が建てられていた。ロシアとの国境を間近に控えたドイツが、ケーニヒスベルク防衛にいかに心を砕いていたかがわかる。ここが、カリーニングラード市の境界になっている。カリーニングラードは「帆の町」とかで、大きなヨットのような形のモニュメントがあった。
バスは農村部に入った。周囲は耕地だが、雑草が生い茂り、ところどころに牛が放牧されている。粗放的な土地利用である。かつて東プロイセンは、いうまでもなくドイツ人が経営するユンカー的農業、そしてその後独立農民が経営し、ドイツ全土に対し農産物を供給する基地となっていた。ソ連領になってから、こうしたドイツ人農民は追い出され、そのあとに国営農業(ソホーズ)が創出された。経営は粗放化し、いまでは逆に農産物を他のロシアから移入しなくてはならなくなってしまったという。
ラウシェンへの道を半分くらい来たところに、ふたたびソ連戦勝記念碑があった。東プロイセン攻略に使われたであろう戦車が飾られている。ここの記念碑は、ポーランドのマルボルク(マリエンブルク)にあったものと違い、きれいに整備され、花束が供えられていた。農地の中にぽつんとあるが、ケーニヒスベルクの市街にあったソ連戦勝記念碑と同じ端麗さだった。後に訪れるバルト三国や、ポーランドと比較して、この違いはどこから来ているのだろうか。結局、「ソ連」というもの、そして「社会主義」というものは、「ロシア」の世界に対する意思の表明だったのか。スターリンは、「階級の炎で民族を焼き尽くす」と語ったが、けっきょくソ連は「ロシア」を乗り越えられなかった。「ソ連」が崩壊しても、これらのものは、「ロシア」のヘリテイジとして、ロシア人によって――そしてロシア人によってのみ――大切に保存されているのである。
ラウシェンにゆく街道の沿道には、ドイツ時代にきちんと植えられた並木が続いている。途中、ラウシェンにゆく鉄道の踏切りを通過した。電化されていて、軌間はロシアの広軌である。ドイツが建設した鉄道は、当然欧州標準軌だっただろうから、ソ連が「戦利品」を獲得してから、すべて改軌したのだ。これも、ソ連がこの地を、ソ連の領域の不可分の一部として統合する、ということの表明にほかならない。
バスは、静かなミューレン池のそばにとまった。ラウシェンは、海岸沿いが砂山であるが、ドイツ時代に植林がなされ、小高い丘のようになっている。ドイツはこの地を、保養地として整備するよう心を砕いてきた。ガイドの説明によれば、ここに、ロシアの王がかつて道すがら宿泊したことがあったとの伝説があるらしい。
砂山の方に向かって坂を登る。少しあがったところに、ソ連時代に作られた公衆便所がある。入ってみたが、その汚いこと。さらに坂をあがってゆくと、ドイツの面影をなおくっきりと残す、ラウシェンの表通りになる。戦災に遭わなかったので、今日のドイツと比べて、昔のドイツのロマンティシズムの香りがどこからともなく漂ってくる感じだ。こうした古いドイツを模した、日本の大正期の中・上層階層が作り上げた、住宅建築や住宅地区の面影、といってもよいだろう。サナトリウムがあり、ラウシェンをこよなく愛し、ここに住んだドイツ人彫刻家、ヘルマン・ブラヒェルトの作った有名な「水瓶を抱く乙女(Wasserträgerin)」の像が今でも立つ、森に囲まれた公園がある。この通りのあたりはかなり賑やかで、個人商業やそれなりにファンシーなレストランも結構立ち並んでいる。通りの屋台で、フルーツを買った。その面影は、ロシアの文字さえなければ、ドイツの保養地といっても少しもおかしくないだろう。今日でもドイツ領なら、きっと日本人観光客お気に入りの目的地になっていたに違いない。1泊ぐらいはしたくなってきた。
ソ連時代切手のデザインにもなったという、19世紀末に建てられたユーゲントスティル(アールヌボー様式)のバスハウス(Warmbad)(写真)は、それ自体一級のドイツの面影を残す文化財であるが、あまりすばらしいので、ソ連の切手にもなったことがある、という。これが、このあいだまで、ソ連共産党の高級党官僚の保養施設だった。ケーニヒスベルクで、ソ連が征服したのは、ナチズムでもファシズムでもなくて、まさにドイツだったのだ。近いうち、観光客に開放する計画も、あるらしい。
バスハウスから、海へ出る道の方にあるいて行くと、コンクリートの通りに横たわって、口から何やら吐き出しながら寝ている男がいる。アルコール中毒患者らしい。「市場経済化」といっても、1917年からおよそ80年近く続いた、共産党を批判さえしなければ、のんびりした労働環境と安い公営住宅、そして整った保養・福祉が得られた社会主義の行動様式から、競争の嵐に身を任せ、万人を敵として自己の社会的上昇を目指す資本主義の行動様式への転換は、個々の市民にとって、決していうほどに簡単なものではない。だが、東西冷戦が結局、核によってではなく、グローバルな経済競争によって勝負が決まった以上、かつてドイツに対して軍事的に勝利しながら、経済競争では敗者となったロシアにとって、もはや資本主義のグローバルな競争に自らを委ねていく以外、道はないし、個々の市民は、それに適応してゆくほかないのだ。まさにマルクスのいう「競争の強制法則」が、そこにはある。だがその時、ロシアは何を「武器」にできるのだろうか? 軍事技術の民生化・資源(これは、当然、略奪的な資源採掘を伴う)、それ以外には?そこに、多数の「落ちこぼれ」が生ずるのは、むしろ当然である。軍事的勝利によって勝ち取ったこの地に、こうしていま、経済的敗者の姿が重なり合っている。これも、歴史の皮肉というほかないだろう。
砂山が崖のようになって海に崩れ落ちているのは、ラウシェンを特徴づける景観である。そこには今でも、琥珀が埋もれているのかもしれない。ソ連時代に作られた階段を降りると、砂浜には多数の人々が水着姿で、夏のわずかの太陽を求めて休んでいる。バルト海の水は冷たいので、海辺とはいっても泳ぐには水が冷たすぎるのだ。以前は、ケーニヒスベルクからの列車が30分に一回ほどあり、鉄道運賃も安かったので、誰でも気軽にここに来ることができた。しかし今は、列車の本数も2時間に1回ほど、しかも運賃も上がって(というより賃金がそれに見合うように上がらなくて)、誰もが来られる場所ではなくなってしまった。ガイド氏も、水着姿となり、「役得」の一瞬のリゾート生活を楽しんでいる風だった。
自由商業のバーベキューが砂浜の裏手のあき地を(勝手に)使って営業していて、私もそこでビールと串焼き肉を食べた。1万ルーブルを少し超えるくらいの値段(約250円)で、日本人にはどうということもないが、一般のロシア人にとっては簡単にできる贅沢ではないだろう。
ドイツ時代に作られたリフトに乗ってラウシェン「砂浜」駅(現在のスベトロゴルスク第2駅)に出ると、そこは元ドイツ人の別荘が森の中に点在する地区となった。昔の別荘だけでなく、建築中の新しい別荘もある。旧東独ロストックの建築事務所の設計で、建築労働者にはポーランド人が多く使われているらしい。
カリーニングラード地区に外国人が立ち入れるようになり、戦前これらの別荘に住んでいたドイツ人が、戻ってくるようになった。これらのドイツ人たちは、敗戦直後、自ら敗戦後のドイツの領域に去ったか、さもなくばシベリアに送られたか、抵抗した者は射殺されたか、いずれかであった。めぼしい立派な邸宅があると、何かと理由をつけてその持ち主をシベリア送りとし、その邸宅を没収して、その後に高級党官僚などが住み着く、という事例はいくらもあったという。幸い生き残ったドイツ人たちは、かつて自分の住んでいた別荘に再び戻りたく、ロシア人をダミーにして所有権を買い戻し、そこに住んでいた人々には別の住宅を買い与えて立ち退かせているそうだ。旧東独や他の東欧諸国では、社会主義化当時の没収(=無償の社会主義的国有化)それ自体が非合法とされ、社会主義化される以前の所有者の権利がみとめられて、いくつもの問題を逆に作り出しているのだが、ロシアでは、皮肉なことに、この過程が自然な市場メカニズムによって行われているのである。
この近くには随所に、キャンプ施設や遊具などを備えた、ピオネール(共産主義少年団)キャンプがある。夏休みには、数週間、子供たちがここで、キャンプなどしながら集団生活を送るのだという。ガイドさんも、幼いころこれに参加し、「厳しいキャンプ中はつらいこともあったが、自己規律と責任感が学べて大変よかった」と語っていた。確かに、人生にこれから出てゆく子供たちに必要なこうした行動様式を教えるのは大切なことである。いま、偏差値至上、生活面では「自主性」に名を借りた放任主義が横行するわが国の高校までの教育において、一番欠けているのがこれだ。日本の教職員組合には、自分が「サボリーマン」になれるための諸要求貫徹より、社会主義のこうした点こそ、しっかり学んでもらいたかった。
ラウシェンの西側、ゲオルゲンバルト(ロシア名オトラドノイェ)という町まで、この森の中の別荘地帯は広がっていた。途中バスは、戦前カジノだったという建物の傍を通り過ぎた。ソ連時代には「資本主義の腐敗の象徴」とみなされていたのだろう。このカジノが復活するのも、それほど遠い将来のことでないかもしれない。ソ連時代に建設されたサナトリウムもあるが、そのいくつかは、かつてその施設を利用していた労働組合(官製)に経済的余力がなくなり、その労働者を保養所に送れなくなったため、経営が困難になって荒れ果てたものも点在している。
バスはさらに西に進み、グローセクーレン(ロシア名プリモリエ)という集落に入った。一見したところ、ただの農業集落である。だが、われわれの目的はプロイセン時代の農業のための建造環境が、ソ連の社会主義のもとでどのように用いられているかを、ケルンで入手したドイツ領時代の地形図と比較しつつフィールド調査することにあった。
聞き取りでわかったことだが、この集落は、景観的にはドイツ時代の農業集落そのままであるものの、それはもはやかりそめの姿で、実は、近くの軍事施設に勤務する人々の居住地であり、こうした人々が没収したかつてのドイツ人農民の家々を占めていたのである。ここに住んでいる人々は、まったくこの周囲の土地に結びついていない。婦人たちは、ラウシェンのサナトリウムなどに通勤している、という。もっとも、軍事関係者の存在をカムフラージュするには、一番よい方法かもしれない。「村人」の中には、かつて樺太(サハリン)に勤務してそこから引っ越してきた、というものもおり、われわれが日本人だとわかると、「ホッカイド、ホッカイド」などと親しげに話しかけてきた。ロシアは、やはり広い。
このように、東プロイセンの農村建造環境のソ連社会主義による充用は、ドイツ時代の機能との関係を無視して行われた。ここでは、教会は空襲に遭わずにそのまま残っていたが、機能は失われ、村の集会場として利用されていた(写真)。信者も、牧師も、もはやすべて追い払われてしまったのである。教会の前には、レーニンの像が立っていた。カリーニングラード地区では、いぜんレーニンが健在である。農業集落だったので、庭先に土地はあり、そこで小規模な個人農業が営まれていた。聞き取りをした女性からサクランボ1瓶2000ルーブルで買ったが、これも、この庭先で取れたものかもしれない。とにかく、このようにして、自己の才覚で物を少しでも売って金を稼がないと、生活できないのだ。
さらに車はすすみ、インタイ(ロシア語で琥珀)という名の元ソホーズに入った。ここで、バス運転手の好意ある取り計い(われわれが農村に関心を持っていることを知り、客の意向をすばやく読んでサービスし、チップを稼ごうとするのが、最近の個人経営の運転手のやり方らしい。まあ、われわれにとっては悪いことではないが・・・)により、5年ほど前にシベリアからやってきたロシア系ドイツ人の経営する農場で、民営化されたあとのソホーズの状況について聞き取りをすることができた。ロシアの啓蒙君主エカテリーナは民族的にはドイツ人で、ボルガ川沿岸にドイツ人を入植させた。このドイツ人たちは、ドイツの生活様式やドイツ語を守り、レーニンの時代にボルガ沿岸に「ドイツ人自治区」がつくられたが、ドイツと戦うスターリンは、この自治区が具合悪いと解体し、そのようなドイツ人はいない、と一方で虚偽を語りつつ、他方でこのドイツ人たちをシベリアの各方面に分散させたのである(朝鮮半島の北に住んでいた朝鮮民族を、中央アジアに強制移住させたこととよく似ている)。最近になって、ケーニヒスベルク(カリーニングラード)に、スターリンが解体したドイツ人自治区を再建するという噂が広まったこと、そして、ドイツ人としての自己のアイデンティティを少しでも満足できること、等のために、ロシア系ドイツ人たちが移住してきている。聞き取りを行った家族も、こうしたものの一つであった。
この一家は、隣り合わせの農家と自主的に共同し、100haほどの土地で農作業を行っている。そのうち16haは、自己の所有地、のこりは国から利用権を借りた土地である。ジャガイモ、ビール麦、ライ麦などを栽培している。農機具には、トラクター3台、種蒔機1台、鋤起し機1台、収穫機1台、がある。穀物は政府に販売するが、売価は1kgあたり300-500ルーブルである。同じ穀物が市場では1kgあたり2000ルーブルで販売されている。ジャガイモの場合にも、政府売渡価格400ルーブルに対し、市場での販売価格は800ルーブルである。とても引き合うものではなく、結局多くの農地は耕作放棄されることとならざるをえない。
戦前、このあたりは、ビール醸造所やレストランが2軒あった大きな村だったらしい。しかし戦災ですべて破壊され、その後にソホーズが建設された。このロシア系ドイツ人農民の小父にあたるドイツ人(ドイツ本国では、鉄鋼労働者という)が、訪問してきていた。ドイツの農法で農業を行ってほしいと、ドイツ人が寄付した立派な農機具が置かれていた。
これを見てふと、東ドイツが西ドイツに吸収合併されて統一されたいま、ドイツ人にとっての「新しい東ドイツ」が、このもと東プロイセンになってきているのではないだろうか、と思い当たった。そこは、もとのドイツ領であり、そして長い間社会主義経済のもとに置かれ、物資は不足し、近代民生技術は乏しく、(西)ドイツ経済と社会に人々はあこがれている。共通性は、すでに大きい。そして、シベリアの各地からこうしてロシア系ドイツ人がカリーニングラード地区にやってくればくるほど、そしてドイツ経済・社会との結びつきを強めれば強めるほど、ここは、分裂時代ながいあいだ(西)ドイツ人の心にあった「東ドイツ」に代わる役回りを、演ずるようになるのではないだろうか。だがそれは、終局的に、この「失われたドイツ・カリーニングラード」が名実ともにケーニヒスベルクにもう一度戻ること、この「収奪された都市」のねじれたアイデンティティが再び回帰することを意味するのだろうか?
さて、このソホーズのある近くの集落はロシア語で「ルスコイェ」と現在呼ばれているのであるが、これについては、裏話がある。この集落は、かつてはゲルマウと呼ばれていた。これは、この近くにリトアニア人が住んでいて、そのリトアニア人がビール好きのドイツ人の住む場所、ということでこの名をつけたのだが、東プロイセンを占領したロシア人は、こうした事情を知らず、「ゲルマン」ではもうなくなったのだから、と「ロシア(ルスコイェ)」につけ変えたのだという。
ケーニヒスベルクには、かつてロシア人はまったく住んでいなかった。ロシア人が住むようになったのは、1945年以降のことである。だから、元々ロシア語の地名などない。そこで、ドイツを否定するため、ロシア人が次々と思い付きで地名を付け替えていったのだ。(わが国の国後島や択捉島のロシア語地名も同様である)
この集落のそばには、戦争によりほとんど跡形もなく破壊された教会の裏の森のその先に、ドイツ兵の記念碑、というのもあった。何やら真新しい。30人から40人ばかりのドイツ兵の名があったが、もちろんこんな数ですむものではなかろう。やってくるドイツ人向けの、「観光用」だろうか。この碑のすぐそばには、むろん、もっとずっと大きく、しかも多くの人がまつられた、ソ連兵の碑がたっている。
このあたりは、NATOに面する旧ソ連の最西端にあたり、軍事機密がまだいろいろあるらしい。すべての土地が外国人に開放されたはずのロシアにあって、砂嘴の先端の町ピラウ(ロシア名バルチスク、ロシア最西端の街)だけは、今でも許可がない限り立ち入り禁止だ。秘密の兵器(核?)が貯蔵されているという広い敷地のすぐ傍をバスは通過した。もちろん、貯蔵している場所は、森に覆われ、外から絶対見えない。
夏のバルトの日は長い。もう午後9時過ぎというのに、まだ明るい。途中、バスの運転手の好意で、何もない雑草がはるかに茂る荒れ果てた畑で休憩し、スープと黒パン、そしてさくらんぼの「夕食」をいただいた。午前中は、街を歩きどおしで、満足な昼食は摂らなかったから、それはとてもおいしかった。戦争で破壊されたまま50年間も放置されている教会のある村を通り過ぎ、バスは、次第に暮れてゆくケーニヒスベルクの町に、戻っていった。
ケーニヒスベルクが外国人に開放され、その市民が自らの都市の歴史を認識する自由が生まれるにつれ、この世界に類のない奇妙な都市は、ますますその奇妙さを表明しはじめたように見える。「カリーニングラード」のキオスクには、かつてのケーニヒスベルクの写真を使った絵葉書や、紋章のワッペンが、売られている。カリーニングラードの市民たちははじめて、自己の都市の歴史を学び認識する自由を得たのである。しかし、これは、カリーニングラードに関する限り、一つのパラドクスをもたらす。市民にとって、自分たちの住むところが、もしかしたらほんとうは自分たちの都市ではないのかもしれない、としたら……。自己の都市史を学ぶほど、自己の主体と空間との自生的結合の正統性は、強まることなく、逆に弱まって行くのである。都市史を市民が学ぶことが、その市民としてのアイデンティティの確認・強化ではなく、否定につながる。そういうパラドクスを、「カリーニングラード」は、それがケーニヒスベルクではなく「カリーニングラード」である限り、市民に運命づけているのだ。このパラドクスが解消するには、おそらく東西ドイツが統一された以上、あるいは北方領土が返還される以上の時間がかかるのだろう。
翌日は、朝から運が悪かった。ラウシェンに行ったバス(自分で中古のバスを買ってインツーリストと契約して客を運ぶ、個人営業だという)が故障し、3時間あまりもホテルの前で無駄な待ちを強いられた。本日予定のクアラント砂嘴ははもともと軍事機密地帯なので、そこを通らず、カウナスまで列車でゆけ、といわれるのではないか、と恐れたが、中古のベンツ製代替バスがやってきて、ようやく12時前になって出発が可能となった。
クランツ(ロシア語名セレノグラツク)。ガイドも面倒くさいのか、ときどきロシア語の地名を口にするものの、「クランツ」とか昔のドイツ語の地名を語りはじめた。ここですこしバスを降り、裕福なドイツのリゾート地であった時代の、ユーゲントスティルの建物を見学した。紫色に塗られた3階建て、銀色のレーニン像がまだ眩しい木骨作りのサナトリウム(表題写真)。広場には、カリーニングラード50周年を記念する、巨大なロシアの地図の横に飛び離れて(実際の縮尺よりずっと大きい)カリーニングラードが、描かれた看板があった。海沿いには、ソ連時代に立てられた、「近代的」なレストハウスがあったが、がらんとして営業している気配はなかった。
バスの故障で出発が3時間も遅れたため、昼食をレストランで取っている時間はなくなり、自由市場で適当な食べ物を買い、バスの中で食べることとなった。魚の薫製があって、20000ルーブルは少し高いと思って注文したら、何と3本も来て、到底食べきれない。1本を院生に売ったが、残りの1本は、結局、バルトを旅行後ヘルシンキまでかついで、そこで捨ててしまった。おりしも、ケーニヒスベルクからの列車が到着して、大勢のリゾート客が下車してきた。ドイツ時代からそのままの作りの駅舎は、人でごった返した。ラウシェンほどではないが、ここもケーニヒスベルク40万人の人々を集めるリゾート地となっている。
バスは再び発車し、いよいよ、巨大な天橋立、クアラント砂嘴(クアリッシェスハフ)に乗り入れた。ここから98km、この種の地形としては、世界でもっとも大規模なものの一つだろう。乗り入れてすぐのところに、検問所がある。ついこの間までは、ここから先は厳重な軍事機密地帯で、外国人の車が乗り入れるなど思いもよらなかった場所である。いまでも、許可証のないロシア人(カリーニングラード地区に居住しておらず、それゆえリトアニアにビサ無しで入国できない)は、この先立ち入ることができない。
砂嘴は、ドイツ時代に丁寧な植林がなされ、周囲を見回している限りでは、砂嘴の中を走っているとわからない。しばらく行ったところに「渡り鳥研究所」への入り口があった。
ピルコッペン(ロシア名モルスコイェ)の集落をすぎると、いよいよリトアニアとの国境に近づく。再び、遮断機があった。ここが、リトアニアとの国際地帯との境界である。境界には鉄条網があり、道路沿いに白樺が植林されている。
砂嘴のど真ん中にあるリトアニアに出国するロシアの国境(写真)は、できたばかりの真新しい建物だった。一人一人、パスポートとビザのチェックを受ける。税関の検査もなく、思いのほか容易で、あっけなく終わった。ポーランドとの国境で、美人の税関役人が一つ一つ丁寧に印を押して渡してくれた紙は、誰にも見られること無しに、なんの役にも立たず終わってしまった。もともと国境がなかったところに作らざるをえなかったものだから、本当はやりたくない国境検査なのに、…という気持ちが、伝わって来るようでもある。そもそもこの国境は、もともと、第1次大戦で敗れたドイツから、その北の護りであったメーメルを奪うために引かれた、人為的なものであった。これが、今はドイツとなんの関係もない、ロシアとリトアニアとの国境線となっている。リトアニアが独立しようとするとき、ロシアは、その条件として、この国境線の先にあるメーメルをロシアへ「返還」することを要求したのだ!!
ロシアとの国境を過ぎると、キリル文字ではなくローマ字で書かれた「リトアニア共和国」という看板が道の右手にみえて、程なくリトアニアとの国境検問所についた。ロシアと比べると、こちらの入国検査の方が厳しい。長いこと待たされた。ガイドの説明によると、本当はもっときびきび仕事ができるのだが、ロシアからの車だからと、「いやがらせ」しているのだ、という。ビザはいらないはずだが(旧ソ連で「ビザがいらない」とは、それ自体、とてつもない変化なのであるが)私と、もう一人年をとった人のパスポートを取りあげ、何やら電話をかけていた。ロシアから来た車だということで、それ自体かなり警戒されているのだろう。もっとも、つい6年前に、戦車が、監視員を射殺し、国境を破って襲ってきた経験もまだなまなましい国なのだから、この警戒がむしろ当然なのかもしれない。
リトアニアに入ると、そこは明るいニダのリゾート地だった。
クアラント砂嘴(ネリンガ)のリトアニア側は、ロシア側よりずっと開発されている。ロシア人のガイド氏は、「もう自由世界なのよ」と、いかにもはしゃいでいる風だった。確かに、このニダの雰囲気は、同じリゾートでも、ケーニヒスベルク側のラウシェンやクランツのリゾートの雰囲気とは、なぜかまったく違う。われわれになじみの深い、西側のリゾートの趣を、そのままに持っている。この違いは、いったいどこから来るのだろうか? 「ソ連」をはっきり振り払った市場経済の経営が持つ下からの自生的なエトスによる経営の景観と、ソ連を引きずるケーニヒスベルクの、「上から与えられた」福利の景観の違いなのだろうか。
砂丘の上に車で上がると、両側に海が見える。一方が、正確には湖で、「クアリッシェスハフ」であり、他方がバルト海である(写真)。この間までこの湖はソ連の内海だった。そして、ドイツが20世紀前半に2度もの無謀な戦争をしなかったなら、この湖は、19世紀そのまま、いまでもすべてドイツの内海だっただろう。いまではドイツは、千キロ西南の彼方に退いてしまっている。ケーニヒスベルクの、ソ連によって無残に作り替えられた都市同様、この湖は、ドイツにとって、戦争の空しさを物語る「痛恨の海」で永遠にあり続けるのだろう。
ユドクランテ(ドイツ名、シュバルツオルト)の奇妙な彫刻の丘の散歩路をたどったあと、バスは98キロに及ぶ砂嘴の旅を終えて、いよいよクライペダ(メーメル)に渡るフェリーの乗り場に到着した,リゾート客に加え、リトアニア人たちを押しのけて半ば強引に乗ったロシアナンバーのわれわれのバスを積み、フェリーは足の踏み場もないほど満員になった。救命胴衣など、どこにあるか、あっても数が足りるのか、わからない。もしここでほかの船とぶつかって沈んだら・・・、とすこし恐ろしくなってくる。対面の工場らしきものの壁面には、英語・ロシア語・リトアニア語で、「ゆっくり航行」などと書かれていた。
港のある小さな川の河口(これが、メーメルの旧市街と新市街とを分けている)に、フェリーが入ると、英国ナンバーの乗用車が、多数並んでいた。おそらく中古車として輸入して、リトアニアで売り捌くのだろう。
操舵を誤ったのか、フェリーは川岸に大きな音でぶつかって、一瞬ひやりとさせられる。方向転換して、リトアニア第三の都市クライペダ(メーメル)に到着。船を降りた目の前が、もと五稜郭のような形をした、メーメル砦のあった場所である。掘割と、稜(正確には、四稜だが)の角だけがいまではかすかに残っており、復元はなされていない。一見したところ、ただの池のようだ。だが、この砦こそ、メーメルが長い間、プロイセンの、そしてドイツ最北端の護りの地であったことを、雄弁に物語る行き証人なのである。互いにライバルであった帝国、ロシアとドイツとの国境は、第一次大戦までこのメーメルのすぐ北にあったのだ。
ここから通りを挟んだ反対側に、劇場がある。1939年、ティルシット(ロシア名ソビエツク)から、ナチの軍隊が、第一次大戦によってドイツから切り離され、短いフランスによる占領期間を経てリトアニア領となったクライペダに侵入し、ヒトラーがこの劇場のバルコニーから、「念願」のメーメル奪回を果たした演説をした。劇場は、きれいに復元されていて、その前には、ケーニヒスベルクに本拠を置いていたドイツ人作詞家サイモン・ダッハが作った結婚式の歌にちなむ「アンネちゃんの像」が、可愛らしく立っている(写真)・
戦災で激しく破壊され、2度と復元されることがなかったケーニヒスベルク(そこは、まったく違った新しい社会主義の未来都市、「カリーニングラード」になるはずだったのであるが)とはちがって、バルトの主要都市はほとんど、きれいに復元されている。なぜだろうか? 後に見る、エストニアの首都タリンの近郊にある「歌の祭典」の劇場がソ連時代の1963年に建設されているのでも明らかの通り、スターリンの時代を経過したソ連では、特にバルトに関して、抑圧から懐柔政策へ、と方向が変わったのだと考えられる。それにより、NATOに直面するソ連の最西方の治安を安定させることができる。この「懐柔」の一環が、伝統文化の尊重であり、歴史的市街の復元に対するそれなりに積極的な姿勢だったのかもしれない。なにしろこのバルO国での伝統文化は、ケーニヒスベルクのドイツとちがって、現にそこにそれを支える人々が住んでいるのである。ロシア人、しかも軍人が多いケーニヒスベルクでは、そのような必要がなかった。戦前の伝統文化の維持が必要ない、いな維持されてはならないケーニヒスベルクでは、旧市街の再建は一切なされなかったどころか、残っていた城さえ破壊されたのである。
このため、バルト三国の主な都市は、3重の環構造を持つこととなった。すなわち、中央に中世からの、幸いにして復元された旧市街(街路のパターンは、不規則なものが多く、城門や城壁で囲まれている);その外側に、19世紀末から20世紀の資本主義の興隆とともに出来上がった新市街(ユーゲント様式の建物などがあり、街路は概して直交状である);そしてさらにその外側に、ソ連時代のアパートブロック(一昔前の日本の公団住宅のように味気ない作りで、一見して安普請も多い)、である。人々の生活が主として行われているのは、もちろんそのもっとも外側であり、西側からの観光客が主として訪れるのは、そのもっとも内側である。外側の住民にとって日常的に必要とされる機能は旧市街には少ないし、旧市街にくる観光客は、無味乾燥な社会主義の公営住宅にほとんど用がない。市民の生活空間と、観光客の行動空間とは、こうした都市構造のために、自ずと切り離されている。こうした、都市の物的な建造環境の編成に由来する行為空間の分離こそ、西側観光客が自国民と接触し、自国民が「ブルジョア思想に汚染される」ことを嫌う社会主義政権にとって、誠に好都合な状況だった。残念なことに、この行為空間の分離は、ソ連解体後もあまり変わっていないように見える。
旧市街には、ソ連時代の郵便箱が黄色のリトアニアの色に塗られたのが多く見られ、キリル文字が浮き出て見えるほか、キリル文字は見事に全くない。それに対し、昔のドイツ語の看板は、残っているか、あるいはキリル文字をはがしたあとに出てきたのか、ところどころに目に留まる。
新市街に足を向けると、郵便局や旧市街の劇場と並んで立派な石造りのクライペダ市庁舎の建物がある。ここが、戦前のクライペダ(メーメル)の主要な行政・経済の中心地区だった。メーメルがドイツから切り離されたあと、この建物は、フランスのメーメル管区政庁として使われていたが、正面の屋根の妻には、ドイツ時代のメーメルの市の紋章が今でもそのままに残されている。ケーニヒスベルクで、あらゆる場所を探しても、ドイツ語の戦前の表示類は、マンホールの蓋にいたるまで一切かき消されているのと対照的である。
北欧の夏の太陽は長く、夜9時を過ぎてもまだ明るい。クライペダでの2時間をおえ、バスは200km以上に及ぶ、ソ連時代に建設された高速道路を一路カウナスに向かって驀進しはじめた。ソ連がもっとも早くバルト海にでられるように(昔はどこもソ連だったから、別にこの高速道路をカリーニングラードと結ばなくてもよかったのである)と建設された道路であるが、いまではEUの援助が入っているようで、路面は整備され、運行はきわめてスムースである。
2時間半ほどのドライブの間に陽はとっぷりと暮れ、バスはカウナスに入った。もう夜中の12時近い。だが困ったことに、ガイドは、われわれが泊るホテルの場所を知らないらしい。そこでそれを探すのに、都心へのバスを待っていた若いリトアニア人女性たちを市の周辺で拾い、車にただで乗せて連れていってやる代わりに道案内しろ、となった。しかし女性たちがリトアニア語で話しはじめるので、ガイドは焦り、「ロシア語で、ロシア語で」などと急き立てて、バスがようやくカウナスのホテル、ネリスに着いたのは、ほとんど夜の12時。ここからガイドとバスの運転手は、なんと一般道路を走って、ナポレオンの条約で有名なティルシット(ソビエツク)国境を越え、ケーニヒスベルクまで帰るのである。おそらく着くのは夜明け頃となろう。居眠りなどしないよう、安全に着くよう祈るばかりである。
一夜明けたカウナスは、明るい朝だった。町が、歴史の重い厚みの上に乗っている、というわれわれが普通どの都市に行っても感じる、しかしケーニヒスベルクになかった手応えが、再びそこに戻っている。この日からガイドは、リトアニア人に交代した。ガイドは旧市街にわれわれを連れて行く道すがら、リトアニアの独立のために貢献し、またリトアニア文化を確立した人々を、銅像を見ながら紹介していった。独立の「永遠の炎」もあった。ふと、カリーニングラードにあった、ロシアによるケーニヒスベルク征服の「永遠の炎」とオーバーラップしてくる。まったく違う炎だ。
もともとバルト三国で、今ようやく再び国の主人公になることができた民族は、農奴として、ドイツ人やポーランド人の支配下におかれてきた。リトアニア語・ラトビア語・エストニア語はどれも、それで文学を創作するなど、国の文化を支える役を果たすことなく、単なる農奴の日常会話用語、いわば「方言」の地位にあったに過ぎなかった。共通語は、ドイツ語であり、ロシア語だった。それゆえ、こうした言語を民族文化の根幹にすえたこと自体が、バルト民族の自立・覚醒にとって限りない意味を持ったのである。
旧市街に入り、教会の横を通った。ソ連時代は、映画館として使われていたという。そういえば、ケーニヒスベルクにも、映画館がたくさんあった。ヒトラー同様、映画は、テレビが(インターネットはいうまでもなく!)普及していなかった当時、視覚に訴える大衆芸術として、人々を社会主義に動員することに重要な役割を果たしたのである。カトリック教会のなかに、入ってみた。主として老年の女性を中心に、きわめて熱心に祈っている。これほど熱烈な祈りは、同じカトリック教国で、しかも宗教が社会主義の抑圧からの開放の場となったポーランドですら、あまり見られなかったように思う。信教の自由を希求する民衆の自生的な感情は、その抑圧が強ければ強いほど、大きいのであろうか。
メーメル川(リトアニア名は、ネムナス)にかかる橋を臨む川端に来た。そばには煉瓦造りの教会があって、キリスト教化される以前の自然信仰をモティーフにした装飾が施されている。バルト三国は、北中欧の中でも、キリスト教化がもっとも遅れたフロンティアで、今日なお自然信仰がそれなりの意味を持っている。橋の向こう側は、かつてプロイセン領だったことがあり、そのときには暦がプロイセンとリトアニアとで半月ぐらいずれていて、「渡るのに世界でもっとも時間がかかる橋」といわれていたらしい。ガイドは、この川のドイツ語名を知らなかった。ソ連時代、こうしたソ連に都合の悪い地理はまったく教えられなかったのだろう。
バスで市内に戻り、徒歩で丘をあがって、有名な、ユダヤ人に「命のビザ」を発給した杉原副領事のいた,もと日本領事館を訪れた(写真)。これは、戦前のカウナスの高級住宅地区にあり、戦後ソ連が侵入してきたとき、片端からロシア人が「ブルジョア階級の資産」を無償接収して、その後に自分たちが住み着いたという一角である。いまでも、誰かわからないが、数家族が住む民家となっていて、建物にプラークが取り付けられているだけだ。あまり記念写真を撮ったりその前で大きな声を出したりする雰囲気ではない。日本のどこかの財団でも、これを買い上げ(あるいは借り上げ)して、博物館にでもしてはどうだろうか。もっとも、杉原領事の行動について、いくつかの批判的見解も最近出ていることも念頭に置いておかねばならない。杉原領事は、とりたてて,当時のナチ・ドイツと闘おうという強い意志があったわけでもなかった。カウナスを去った後、当時のケーニヒスベルクにあった駐ドイツ日本領事館に配置がえとなり、ヒトラーユーゲントを謁見している。
元領事館のある丘のふもとには、小さなモスクがあった。かつてリトアニアが、ウクライナの黒海沿岸まで及ぶ広大な領土を擁していたとき、その中にイスラム教徒がいたことの名残、という。バルト3国で唯一,ここまで強大なフロンティア拡張をし得た国が半世紀もの間独立を失い,ソ連の占領下にあえいでいた。リトアニア人のこの心を,われわれはどうしたら理解できるだろうか。
この後、ガイドブックで見た、杉原副領事についての記念碑があるというナチ虐殺の地「第五砦」を訪問したい、とガイドに申し入れてみた。ところがガイドから、現在改装中のため閉鎖されていて案内できない、と拒否されてしまった。展示内容に問題があって、実は、ナチドイツがリトアニア人を殺した以上に、多くのリトアニア人をロシア(ソ連)人が虐殺していたことが明らかになったからだ、という。これは、明らかにロシア人との比較においてドイツに対してかなり好意的な考え方である。反ソ連・ロシアが、転じてかつてのバルトの支配階級の座あったドイツに対する親近の想いを作り出している、という、現在のバルト三国における状況が,にじみでている。しかも何より、ドイツは経済大国であり,技術と資金を持ち,「中部ヨーロッパ」の中心なのだ。ソ連時代から「ソ連よりヨーロッパの一員」であることを誇りにしてきたバルト三国の人々が、その誇りをますますはっきり表明する自由が、今ここに湧き出ていることを実感する。その時まず接近している外国が,ドイツなのである。ドイツが2度の戦争に敗れ、ドイツ語は世界語としての地位を事実上失ったが、それでも、英語よりドイツ語がよく通じる唯一の外国の地域が、今このバルト三国である。ドイツと直接国境を接するポーランド・チェコ・ハンガリーなどですら、ドイツ語より英語の方が今ではよく通ずる,というのに。
「第五砦」を外国人客に見せることを拒否した誇り高きガイド氏とともに、バスはカウナスを後にし、高速道経由でビリニュスに向かった。途中インターをおり、カイシアドリス(Kaisiadorys)という町にある新築されたばかりの森の中のこぎれいなレストラン「Restoranas
Backonys」で食事をする。緑に囲まれた豪華な雰囲気の中で2時間かけてゆっくり食べ、ビールまでついたフルコースのランチが、800円くらいだった。マスターカードが使えるというのでそれで支払ってみたら、後日きちんとリトアニアの地元通貨リタスを直接換算した額で日本に請求が来た。
戦前の独立リトアニアとポーランドとの間にあった国境を越え、バスはビリニュスに入った。ビリニュスは、カウナスと違い雑然とした町である。戦前、この街は「ヴィルナ」と呼ばれたポーランドの都市で、逆にリトアニア人はマイノリティとしてこの都市のかたすみに住んでいた。ポーランド領土が全体としてもっと東にあった戦前には、ほかにウクライナ人・白ロシア人もポーランド国家内でのマイノリティで、ポーランドは複合民族国家だったのである。だが、戦後ポーランドの西への平行移動→ソ連の西方への侵略による領土拡張という地政学的過程の中で、首都ヴィリニュスを含むこの部分の領土が、リトアニアに「回復」された。だから皮肉なことに,この首都のポーランドからの「回復」は、第一次大戦直後に画定されたポーランドの東方領土が,戦後ソ連に編入されたことによって、はじめて可能となったのである。もしリトアニアがずっと独立したままだったら、ヴィリニュスはいまでもポーランドの都市だっただろう。これも、歴史の一つの皮肉にちがいない。ただし,今では逆に、ポーランド人がマイノリティとして居住している上、ソ連支配時代にロシア人が流入してきている。首都なのにリトアニア人が少数派。歴史の皮肉は,地理の皮肉に姿を変えて、今でも土地に刻み付けられている。
まず、国会議事堂にバスを向けた。1991年、すなわちつい6年前の1月、ソ連の戦車が侵入してきたのを防衛した石積みのバリケード(写真)は、独立のモニュメントとしてそのままに残っている。当時の首相ランズベルギスが、「やるべきことはすべてやった。後どうなるか、皆ここに残って、最後までそれを見届けようではないか」と悲壮な決意をした場所である。外でソ連の戦車に轢死させられたり、ソ連の戦車を入れまいとしてソ連軍に射殺されたリトアニア国境警備隊員の写真が、十字架の上に描かれている。5年前、というその生生しさに、見ていて涙が出てきた。しかし、ソ連軍は、西側のマスコミを通じた圧力を感じ、国会突入はついに断念したのである。この時点ですでに、「ソ連社会主義」は、道義的に資本主義に敗北していた、ことを,ソ連指導部自身が感じ取っていたのであろう。
国会の後、もと「レーニン広場」を通って、KGBビリニュス支部跡に行った。ケーニヒスベルク(カリーニングラード)と異なり,広場にもはやレーニンの銅像はなく、そのあとに植えられた美しい花が、風にそよいでいる。
KGB跡は、今その一部が博物館として公開されている。将来は、この建物全体を博物館とし、ソ連が半世紀の間にわたりリトアニアでなした行為を、いわば、「リトアニアのアウシュビッツ」のようにして、広く歴史にとどめ、世界の人々に知ってもらおう,という計画らしい。博物館を入ると、まず1940年以来リトアニア人が送られた、シベリア方面の収容所の分布図や、その他写真の資料があった。実際シベリアに強制的に送られ,そこでやっと生き延びたという初老だが屈強そうな男性が,われわれを地下へと案内してくれた。階段を降りると、まず、収容者受入所があった。受入所の待合室は、電話ボックスを一回り大きくしたくらいのサイズの部屋で、そこに東京の朝の満員電車のようにぎゅう詰めとなって1室10人くらいが数時間閉じ込められ、書類手続きの処理を待つのである。狭い廊下を伝って奥に入ると、収容者の寝る場所、拷問室、シャワー室などが次々と現れた。シャワー室、というといかにも人道的そうだが、厳冬期でも水だけ、10日に1回、虱を除去するために入ることが許されるだけである。外には、動物園のように檻で囲われた10uばかりの「運動場」があり、1日に10分だけ、ここで「散歩」することが許されるのだ。もっとも異様なのは、天井も壁も床も、すべて柔らかく厚い毛布で覆われた、窓のない「無音の部屋」だ。拷問を受け、身体にけがをさせられた収容者がここに何日も一人でほうり込まれ、すべての外界の音と光から遮断されて、たいていの人が精神異常を来すのだという。するとどこかよその精神病院にほうり込まれ、「気違い」扱いされて、もう永遠に社会復帰できなくされてしまう。図書室として使われていた部屋は、KGBが退去するとき証拠隠滅のため破壊していったのだが、その床下を掘り返すと、浅い池があることが発見された。この池に収容者を沈めて、拷問したのだという。アウシュビッツは50年前の出来事だが、この施設はつい6年前まで実際に使われていたのだ。これを「スターリン主義」のせいにしてしまうことはできないだろう。共産主義というものは、その主張と裏腹に,結局こうした暴力的統制のもとでしか経済・社会を維持できない体制であったのだろうか……この生々しい現実は,われわれ自身に,こうした問いを,いやでも突きつけさせる。天安門事件も、北朝鮮……。中国や北朝鮮では、こうした収容所は,決して過去の「博物館」とはっていないのかもしれない。歴史に客観的であろうとするなら、どのような政治的立場に立っていようとも、われわれはこの現実をも直視しなくてはならないだろう。この厳然たる事実を前に、「言い訳」は許されない。この上にこそ、新しい歴史像は可能となるのだ。
「世界遺産」に指定されている、というビリニュスの旧市街だけは、周辺の雑然とした建造環境の中の小島のように,中世の町並みそのままできれいだった。ケーニヒスベルクの旧市街・プレーゲル川に浮かぶクナイプホーフが今でもこの世にあったなら、それは同じ歴史の温かさでわれわれを迎えてくれていたであろう。これを維持することができたのは、クライペダ(メーメル)同様、「非ロシア的なもの」を維持しようとするリトアニア人の意志であり、また、それをある程度「尊重」する姿勢を持つことで、リトアニアをとりこみ、それに対する支配を維持しようとした、(スターリン批判以降の)ソ連の意志だったのである。
もっとも,中世には,この旧市街にリトアニア人が住むことはできなかった。リトアニア人は農奴であり、それを支配していたのはポーランドやロシアの地主だった。そして旧市街はまさに、支配の場,すなわちこうした支配階級の居住空間で、その内部は、ポーランド人地区、ロシア人地区、そしてユダヤ人地区などに、「整然と」セグリゲートされていたのである。そして今リトアニア人が、自らが空間的に疎外されていた場所を、自らの「歴史遺産」の建造環境として保存し、それによって民族のアイデンティティの象徴とする・・・ここに、この旧市街をめぐるパラドクスが存在しているのだ。
予約したホテルは、かつてソ連時代には国営のイントゥーリスト系であるが、今は民営化されている。だが、民営化、といっても誰が新しい社長の椅子に座ったのか? それはロシア人で、元の共産党官僚だというではないか。社会主義でも資本主義でもお構いなし、今は外国となったリトアニアでなお他人を支配したい――こういう、ある意味で自暴自棄な欲にかられたロシア人の姿が浮かんでくる。そういえば昔、アフリカやアジアにおけるこうした旧支配者の行為を形容する言葉として、「新植民地主義」というのがあった。これは、当時のソ連や中国が、好んで使った言葉であることを,忘れないでおこう。
翌日は、国境を越え、ラトビア第2の都市ダウガフピルスまで、列車の旅である。がらんと駄々広く、かつ雑然としているビリニュス駅の雰囲気は、おそらくソ連時代のままなのであろう。ディーゼル列車の止っているところまでえらく遠く、地下道をくぐり、ホームを移動し、その上跨線橋をわたらなくてはたどり着けない。重い荷物で難儀した。
国際列車とはいえ,ダウカフピルスどまりの区間運行のためか、華やかさはなく,車内は比較的空いていて,ローカル列車の趣である。街を出ると、ロシアのサンクトペテルブルクまで通じている本線の線路沿いは、限りなく続く粗放な農地と林地になった。国が狭いと入っても,人口も少ないので,日本やオランダなどと同じような密集した居住にはならない。ベラルーシとの国境線が、すぐ東に平行している。ウクライナのチェルノブイリとおなじ型の原発の側を通るとのガイドの説明であったが、これは林の陰で見えなかった。たいした地形の変化がないので気づかないうち、リトアニアの国境駅に列車が到着。少し停車して係官の検査があった。このあたりはまだ、大陸ヨーロッパのように、移動しながらの検査では、まだない。もっとも、ポーランドからケーニヒスベルク(ロシア)へはいるときほど厳重なものではないが。国境係官には英語が通じなかったが,ドイツ語を話すと理解した。
ダウガフピルスといういわば「裏口」からラトビアに入ったため,リガだけ見ていたのではわからなかったであろうラトビアの実像が,よりよく理解できた。
ダウガフピルスは、がらんと殺伐とした、ソ連時代からの工業都市だ。これが、あの「バルトのパリ」リガに次ぐラトビア第2の都市であるとは、信じがたい。かつてリガは,広大な農村に広がる栄華の小島だったことがわかる。ホームから駅舎への入り口のところで、税関の検査があった。太ったロシア人と思しきおばさんが、大量のトイレットペーパーを肩にかかえて検査を受けようとしている。ほかにも、買い出しのような人々がやたらと多い。百個近いトイレットペーパー,いくら腐らないといっても,自分で使うわけはないだろう。トイレットペーパーには、ドイツ語で「Toilettenpapier」などと書いてあるが、一見してドイツ製でない安物。だが、この包み紙から、「ドイツ」というものが、この地域で今もっている意味を垣間見た。それは、ロシアのより優秀な代替物として、自由化された中部ヨーロッパに新しい生活様式を告げる象徴,ドイツ。戦争で負けても、粘り強い復興への努力の末,半世紀して経済で・そして技術でロシアに勝ったドイツである。
駅舎内には、真新しい作りの両替所があり、ここではロシアのルーブルも換えてもらえる。1ラット(ラトビアの通貨単位)は200円あまりと、米ドルはもちろん英ポンドよりも通貨1単位あたりの価値が高い。しかも、コインは小さい。思わず乱費してしまいそうになる。将来のインフレを考慮していたら、「予想外にも」通貨価値が安定して、ロシアや旧ポーランドと並んで、価値尺度のものさしが「小さくなりすぎた」といった感じだ。
ダウガフピルスの町を、見学するチェーン工場までバスで行く。珍しい単線の路面電車が、さびしい未舗装の道路の左側をゴトゴト走っている。こうした隅々まで,クルマではなく公共交通を張り巡らし,少なくとも市内に関する限り,人々の「交通権」を保証したところは,やはり社会主義なのだ。今後,市場経済化の中で,おそらく儲からないこうした電車がこうむる運命は,見て取れるような気がする。
チェーン工場で出迎えを受け、早速工場のなかを見学させていただく。この工場は、自転車・自動車・機械など多様な品種のチェーンを作っていて、1949年にソ連のより東部から立地移動した。バルト三国の「ソ連化」の一環としてこの工場がダウガフピルスに設置されたことがわかる。1968年から1971年にかけて拡張され、自動車「ラダ」のチェーンなど、400万mのチェーンを生産していた。
1995年末に民営化され、Baltic Trust Bankが51%の株式を保有、20%が従業員保有、30%は株式市場で自由に取引されることとなっている。外資は全く入っていない。現在、チェーン生産高は200万mに減少しており、50%をロシアへ、残りの50%を他国(うち10%はロシア以外のCIS(Commonwealth
of Independent States)諸国)へ、輸出している。このほか、ドイツ企業と合弁で、自転車用ペダルも生産する。1978年には、この工場で生産した工作機械が、工業技術の優秀賞を獲得したという。旧ソ連内では優秀な工場のようだが,他面,生産過程の垂直分割が十分でなく、かなりの部分を非効率的な内製に頼っていた,とも見ることができる。従業員は1,300人で、うちラトビア人は8%にすぎない。日本企業「大同」から、部品の提供を受けている。要するに、西側部品で西側向け完成品の生産を行う、ラトビアの相対的低賃金(平均賃金は、1ヶ月3万円程度)を活用し、またソ連時代からの固定資本を利用した組立加工過程で、経営を続けようということだ。
工場の内部を見た。労働者はだいたいが中年の太ったおばさんといった感じで、社会主義の権利に守られた労働者らしくのんびりと仕事している。日本の工場を見学したときのような,張り詰めた緊張感は,感じられない。労働者のイニシアティブで,機械のそばに観葉植物を飾るなどの「労働条件改善のための創意工夫」がなされている。われわれが労働者の側に行くと、部品を分けてくれたり、和気あいあいとした様子だ。人間性あふれていてたいへん結構だが,資本主義企業として見るならば,生産効率は落ちるだろう。床には、チェーンの部品が無造作に散乱していた。
焼き入れ工程には、「新鋭」西ドイツ製機械が導入されていた。1988年に生産された機械で、ドイツから中古を持ってきたとも考えられる。このあたりは工場が高温となるため、空調代わりに噴水が設置されていた。工場建物内のかなりの場所はがらんと空いていて、かなりの規模縮小がなされたことを物語っている。少なくとも現体制を支持している限りは,こうした人間性ある労働条件が保証されていた社会主義。しかし,まさにその労働条件が一因となって,効率が犠牲となり,西側経済との間のグローバルな経済競争に敗北し,当の「体制」そのものが崩壊してしまった。その後に犠牲になるのは,もちろん,制限付きとはいえ社会主義の職場に存在した「人間性」のほうになる。グローバル化の中での社会主義のパラドクスである。
ロシア人の工場長に面会した。工場長は、アルコールの口臭をにおわせながら,われわれのグループに「なぜ女性がいないのか」,といきなりきいてきた。ポーランドからロシアに入るところで美人の税関吏がした質問と同じである。「資本主義国では、女性は家庭の中にいて、社会的活動をしない」ということ、そして女性も工場で働ける(現にこの工場もそうだ)という社会主義の「優位性」を、教え込まれてきたのだろう。学生に工場長へ質問をさせたが、英会話がへたくそで、どうも滑らかにいかない。こうしたことは、小平あたりでしっかり練習する場を持って、学生は国立に来るべきだ。そうでなければ,いったい何のための「共通教育」か,わからない。一橋の英語教育の,抜本的な改革が必要だろう。英語で意思が通じにくいので,同じことを執拗に何回も訊ねるかたちとなり,エスニックな質問がくりかえされたところで工場長が露骨に不愉快な表情を示し始め、40分ほどで打ち切りとなって,退室してしまった。
「なぜ不愉快になったか?」……自分の工場が西側に十分評価されてないこと、かつて全能の支配者だったロシア人の自分が,今やラトビアでマイノリティとなってしまった自己の境遇。工場長を不快にさせたことは申し訳なかったが、ラトビアの中で今ロシア人がおかれている状況をはっきり自分の目で見る事ができたのは,収穫だった。アルコールの口臭は、かなり「やけ」になっていることを物語っているのかもしれない。ロシア人の比率が一番高く、地元言語(ラトビア語)も習得しやすく、比較的容易に語学試験をパスしてラトビア国籍を得られるラトビアでさえ、こうなのだ。
こうした工場設備・労働者の勤務状態で、いったいいつまでやってゆくことができるだろうか。当分の間は可能だろうが、今後ラトビアがいっそう西側経済に、そしてひいてはEUに組み込まれることとなれば、人口は流出し,もともとソ連社会主義の農業集団化のため農村部の人口の厚みが乏しいラトビアでは,労働力需給が逼迫して低賃金という比較優位はたちまち失われよう。また、ソ連製固定資本も、ますます老朽化し低効率化してこよう。こうして,この工場の存続自体が問われる時期が来よう。
中国では、国営企業の非効率をカバーしてくれる外資の大々的な流入があった。それは,「社会主義」の名のもとでの労働力統制があり,低賃金で従順な労働力が得られるからにほかならない。また、賃金の上昇傾向を抑える、奥地の農村部からの大量の労働者流入が,この傾向を安定的なものにし,労働力需要増大にもかかわらず賃金の変動幅は,最小に抑えられた。農村部が薄く,人口が少なく,しかもその労働者は「人間性豊か」な雇用環境で労働している。中国のように,経済原理によって,大量の生産資本が流入してくる余地は,乏しいのである。
もちろん、外国からの技術導入にこの工場が関心ないわけではなく、フランスとドイツから、積極的な関心を得ることに成功しているらしい。だが、日本にも打診したものの、こちらからは返事がないという。フランスとドイツは、バルト三国のヨーロッパ化・旧ソ連からの引き離し、というEUの経済的というより地政学的な原理から積極的になっているのかもしれないが、日本には、そういう「義理」はない。極東ロシアとかかわるのがせいぜいだろう。
もしダウガフピルスの工場が、どれも遅かれ早かれ立ち行かなくなったとき、このラトビア第2の都市じたい、いったいどうなるのだろうか。
こんな心配をしながら、案内してくれた,英語が堪能な,会社のロシア人女性に丁重な礼を述べ,ダウガフピルスの町を、リガに向かって後にした。道すがら、道路標識の地名を示すキリル文字が、乱暴に青いペンキで塗り消されている。リトアニアでは、看板そのものがすべて取り替えられていたのだが。
リガ。それは、大変奇妙な街である。この奇妙さは、われわれが直接リガからラトビアに入らず、ダウガフピルスから入ったことで、ますますよく理解できることとなった。「バルトのパリ」と呼ばれるほどのこの美しい街は、殺伐としたソ連時代の工業都市や、寂れた農村の中に、忽然として幻影のようにその姿をあらわす。しかもラトビアは、ハンザ同盟→帝政ロシア→独立ラトビア→ソ連支配、と、何度もその支配者を変え、「国家」という太い線は,歴史の中に一貫してとおっていなかった。フランスの本物のパリのように、フランスという国家の栄光を求めてオスマンのような都市計画がなされる、という制度的条件はなかったはずだ。「国家なき都市」、これがリガなのである。
では、このリガの都市空間を生産したのはだれか。それは、この都市で商業活動を営んでいた、ドイツ人たちだった。ダウガワ川を主要な通商路とするバルト奥地と西欧との交易の担い手たち、そしてラトビア人を農奴としたドイツ人地主。こうした人々が、みずからの自治の場として、リガという都市空間を何世紀にもわたって築きあげていったのである。
旧市街の街中に残るいくつかの富裕なドイツ人商人の邸宅あとが、このことを今日なお偲ばせている。ただしソ連時代には、こうした文化財がただの住宅として利用されていたので、あまり保存状態はよくない。都市リガを作り出した富は、こうした商人たちがになう重商主義経済からきたものであり、また地主経済の富だった。それは、国家の強力に由来する富ではなかった。これと同じことは、ヴィスラ(ヴァイクセル)川の河口に栄え、ポーランド経済をリガと同じように扼したドイツ人の都市,ダンツィヒ(グダニスク)についてもいえよう。だから、リガは、近世まで,ドイツの生活圏の中にある「エクスクラーフェン」だったのである。政治的には帝政ロシア領であった時代さえ,リガのこのような存在は,許されていた。音楽家リヒャルト・ヴァーグナーも、ここに数年間(借金取りから逃れて)隠れ住んだことがある。有名な歌劇「さまよえるオランダ人」は,ドイツ本土からリガへ来る途中ワグナーが経験した,荒れたバルト海の航海に触発されて,作曲されたものだという。
国家権力がなくとも、都市の自治の力で立派な都市建造環境は生産されうる。このことを、リガはなにより雄弁に物語っている。
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