ケーニヒスベルグ(カリーニングラード)州は、時として「4番目のバルト諸国」と称される、ロシアのエク
スクラーフェン(飛地国)である。ケーニヒスベルグ(カリーニングラード)州の歴史は、大まかに言うと、ドイ
ツ統治下の時代とソ連統治下の時代の2つに分けられる。
1255年、当時バルト海南東部に位置していたプロイセン(プロシア)にドイツ騎士団が進出し、そこを駐
屯地とした。その中心都市がケーニヒスベルク(konigsberg)であった。それから隣国との領土の獲得合
戦を繰り返しながら、プロイセンは徐々に領土を拡大していった。
しかし、第一次大戦におけるドイツの敗北とともに、西プロイセンのほとんどは生まれ変わったポーランド
に明け渡された。これは、東プロイセンがドイツの残部から隔離されたことを意味した。1941年にヒトラ
ーがこれらを一時的に再結合したが、1945年にRed Army(1918−46年のソ連陸軍の公式名)が一
掃した後、東プロイセンはソ連とポーランドに分割された。この時にソ連が得た北半分が現在のカリーニ
ングラードなのである。それゆえ、ドイツ人はカリーニングラード州のことを北東プロイセンと呼ぶことがあ
る。何はともあれ、ドイツによる支配は、1255年から1945年までの実に約700年間も続いたのである。
そして1945年、ケーニヒスベルグはソ連統治下の時代に入る。
第二次大戦後、ソ連により、廃壇は一掃され、完全に新しい都市がつくられた。それまで
そこに居住していたドイツ入はドイツやシベリアヘ強制移送されたり殺害されたりして、
代わりにロシア人が移住した。その都市は、スターリンの忠臣であり、1919年から、
1946年に死去するまでソ連の元首として活l起したカリーニンの名にちなんで、カリー
ニングラードと改名された。1948年には、最後のドイツ人難民がカリーニングラード
を後にし、外国人立ち入り禁止となった。そしてロシア防衛軍の反対に遭いながらも市議
会が外国人への都市の開放を議決した1990年(実際に開放されたのは1991年8月)
までの間、カリーニングラードはモスクワの最西端の領域として軍事都市的機能を果たして
おり、必然的に軍事産業が主体となっていたのである。
1991年におけるソ連の崩壊をきっかけに、カリーニングラードはロシアと西欧諸国と の間の主要な貿易中継点となるべく自由貿易地区として宣言したものの、1995年4月の 時点では、それはかなわぬ夢のままである。